2010年4月5日

古田史学会報

97号

1,九州年号「端政」
と多利思北孤の事績

 正木裕

2,天孫降臨の
「笠沙」の所在地
 野田利郎

3,法隆寺の菩薩天子
 古賀達也

4,東日流外三郡誌の
科学史的記述について
の考察
 吉原 賢二

付記 編集便り

5,纒向遺跡 
第一六六次調査について
 伊東義彰

6,葦牙彦舅は
彦島(下関市)の初現神
 西井健一郎

 

 

 

古田史学会報一覧

『真実の東北王朝』

忘れられた真実 古田武彦(会報100号)


東日流(つがる)外三郡誌
の科学史的記述についての考察

いわき市 吉原 賢二
東北大学名誉教授

1.序

 『東日流外三郡誌』は青森県津軽地方の旧家から発見された古文書であるが、真偽論争が延々と続いており、中立的な第三者が容易に入りにくい雰囲気の中で、最近は偽書説が勢力を伸ばし、インターネットのウィキペディアまでが偽書説に軍配をあげたようにさえみえる。すなわちこの古文書は100%現代人の和田喜八郎氏が捏造したものであると言うのである。しかし真書説の古田氏はこの文書の寛政原本の電子顕微鏡写真による鑑定を日本国際文化センターの笠谷教授に依頼し、江戸期のものであることを確かめたと発表した。これに対し偽書派の原田実氏は異議を唱えている。古田武彦・竹田侑子著『東日流[内・外]三郡誌』(2008、ON−BOOK)に掲載された写真を見れば、偽書と断定することは無理があると見える。ただ写真そのものの説明はもう少し欲しいと感じられる。
 筆者はもともとこの方面に関心が深かったわけではない。若い頃大学受験のとき史学科の志望を考えたほどの歴史趣味はあったが、長いことそれを封印してきた。しかし母親の生誕百年を記念してルーツを調べる過程で、新潟県弥彦神社にアラハバキ門があったが、その由来不明という弥彦神社の記録(昭和8年ごろ)に接した。その前後に『東日流外三郡誌』を入手し、アラハバキ信仰の記事を読んで、弥彦神社の記録との関連で驚いたものである。この本で古代日本史の謎の一部が解ける可能性があるのではないかと思い、それ以来真偽両派の議論を読むようになった。
 この稿では筆者の関心の強い自然科学や科学史に関連した『東日流外三郡誌』の記事について考察した結果を述べる。主として北方新社版『東日流外三郡誌』全6巻(1983−85)による。

 

2.秋田孝季の人物像:長崎遊学と外人との接触

 秋田孝季の経歴の詳しいことは分かっていないが、この『東日流外三郡誌』のような本の編者になるとは驚くべき人物である。生まれは長崎で父はロシア通詞だったが、早くなくなり、母子は秋田に帰ったという。母は三春(福島県)藩主の秋田千季に見出され、その側室のような立場になり、子の孝季はその利発さを愛でられたためか、準養子のように遇せられたらしい。秋田千季はこの孝季に焼失した秋田家の歴史を調査するよう依頼した。孝季はそれにしたがって日本中の諸国行脚をしたという。長崎に行ったのは恐らく安東水軍の調査が念頭にあったためであろう。しかしここで彼はオランダ商館に来ていた紅毛人(西洋人)に接し、その進んだ文化・文明に驚異の念を持ち、記録を残すにいたった。秋田家あるいはその先祖の安倍氏にはあまり関係のない部分で、特異なところであるが、私には自分の専門の関係上かえってそれが興味を引くところである。
 記録によれば秋田孝季は寛政5年(1793年)8月から長崎で36日間英人史学教師エドワード・トマスの博物学あるいは自然史の講義を聞いた(I巻227−228頁、IV巻538−545頁、VI巻27−30頁)。それは宇宙の始まりから生物の進化にいたる壮大なものであった。日本が中国文化圏にあった長い期間こんな話は誰からも聞かれなかった。それだけに孝季の感動が紙背に感じられるのである。この講義の状況の詳細は分からないが、孝季の義弟の和田長三郎も同伴したと思われる。孝季はオランダ語はできたと思われるが、和田長三郎はどれほど理解できたであろうか。李慶民という中国人らしい名が史談者として記載されている(IV巻470頁)ところを見ると、日本語に通じた中国人があらましを和田に語って聞かせたのかもしれない。
 なお講義については寛政7年(1795年)に孝季がオランダ人神父から聞いたという記録(IV巻483頁)もあるが、英人からとは別に聞いたものと察せられる。
 英人エドワード・トマスがどういう身分の人であるかであるが、肥前長崎出島来船駐在公司とある(VI巻28頁)ほかは記載されていない。しかし周囲から相当尊重されていたらしいことは、彼を和田長三郎が「大学者御影」と記していることから推察される(VI巻28頁)。
 この頃のヨーロッパとアメリカは激動の最中であった。1776年のアメリカの独立の後、フランスでは1789年にいわゆるフランス大革命が起こり、1793年にはルイ16世が処刑された。革命はヴォルテールの啓蒙思想やルソーの社会契約論などの思想から発展した。
 英国ではフランスの思潮とは一線を画し、政治上の革命は起こらなかった。しかし産業革命という名の革命はアークライトの紡績機の発明(1769年)やワットの蒸気機関の発明(1774年)などとともに進行し、海外の植民地の拡大によって支えられた。英国は世界の7つの海を支配する富める帝国になる。
 『東日流外三郡誌』で長崎に滞在した秋田・和田の記事にはヨーロッパの博物学者の名が何人か出てくる。このことは既に1995年の新古代学第1集の特集「和田家文書」に上城誠氏が指摘しているとおりであり、孝季らはヨーロッパの実在の人物を取り上げたのである。その中にダーウィンの名もあるが、『種の起源』で有名なチャールス・ダーウィンではなく、その祖父のエラズマス・ダーウィン(1731−1802)のことである。彼は医師、自然史学者、生理学者、奴隷廃止論者、発明家、詩人など多彩な顔を持つひとであった。彼はルナー・ソサエティ(月の会)という会合を始めたことで知られている。ルナー・ソサエティは科学者、技術者、教育者、実業家などの情報交換の場となり成果をあげたといわれる。ダーウィンのほか、蒸気機関のワットや、牧師であり酸素発見で有名な化学者のプリーストリー、ウェジウッド(良質な陶器の大量生産に成功した)、音楽家で天文学者のハーシェルなども参加していた。彼らは1789年のフランス革命を公然と支持したといわれる。ルナー・ソサエティの絵画を残した画家ライトは、この会で教育普及のために活動する会員とそれに魅せられた参加者の群像を描いている。
 生物の進化論の先駆的なものについては、フランスの博物学者ビュフォン(de Bufon 1707−1788)やエラズマス・ダーウィンによって唱えられている。これは英人エドワード・トマスが長崎で秋田・和田らに講義した内容となったことはほぼ間違いない。このことから見てこのエドワード・トマスはエラズマス・ダーウィンとなんらかの関係があったか、あるいはルナー・ソサエティを通じてダーウィンの思想を知っていたかであろうと思われる。今後より詳しくエドワード・トマスを特定する研究が進むことを期待する。
 こうしてみると秋田孝季が長崎で紅毛人に博物学の講義を受けたという記事は確実と見られる。素人の偽作者がこんなことまででっちあげるのは無理というもので、まず不可能といってよいだろう。『東日流外三郡誌』を和田喜八郎氏の100%偽作とする偽書説は荒唐無稽といってよいだろう。

 

3.宇宙論・地球生成論の修正や付加の問題

 この膨大な『東日流外三郡誌』は約200年も昔の古文書であるため、虫食いや破損が生じて、明治期以後に書写が行なわれた事実がある。その際間違いや余計な付加は起こらなかったであろうか。これは吟味する必要のある事項である。とくに昭和も戦後になって和田喜八郎氏が大量の文書の複製を行なう必要に迫られたときに、間違いがなかったことを証明することが、偽書という疑いを晴らす上で必要になるのではないだろうか。
 その点科学的な事項の検討は有力な手段である。『東日流外三郡誌』には次の記事がある(第I巻228頁)。

「まづは宇宙学にして、銀河系大宇宙とは、多数なる恒星及び星雲の集いにて、その広大なること、光速なる計にて直径ぞ二十万光年、厚さ一万光年なる円盤状なる大宇宙にて、日輪は銀河系宇宙なる端に存在せる天体ぞと曰ふ。」
「地界も球状にて、日輪をまはる星なれば、今より四十五億年前に誕生せしものと曰ふ。」

 まず第一の銀河系宇宙について検討する。これには和田末吉(喜八郎の曽祖父)のただし書きがついていて、「右の書上巻のみにして原漢文なり。下巻ありとぞ探したるも未だ得ず。  明治十五年十月  和田末吉 再書」とある。
寛政5年(1793)にこのような書物が書かれたとは驚きであるが、当時の状況を調べてみる。エラズマス・ダーウィンは1761年に英国王立協会の会員に選ばれ、ルナー・ソサエティを1775年に始めている。有名な音楽家で天文学者のウィリアム・ハーシェル(1738−1822)は1781年に天王星を発見し、1786年ごろ銀河系宇宙論を始めた人で、やはりルナー・ソサエティの会員になった。彼は円盤状の銀河系の中に太陽が含まれていると考え、銀河系の直径を1000シリオメーター、その厚みを100シリオメーターとした。1シリオメーターというのは太陽系と恒星のシリウスとの間の距離で、当時はよくわかっていなかった。現在分かったところで8光年だから、これを換算すると、直径8000光年と厚さ800光年となる。現在の知識では、銀河系の大きさは直径が約10万光年、厚さ1万光年(中心部は厚く1万5000光年)といわれている。この値は1930年代にトランプラーが与えたものである。その少し前まではオランダのカプタイン(直径5万光年、厚さ1万光年)やアメリカのシャプレー(30万光年と3万光年)など20世紀になってからの説があったが、不正確であった。
 したがって上の『東日流外三郡誌』に書かれた直径20万光年と厚さ1万光年は寛政5年(1793年)のときのものでもなく、明治15年(1882年)の末吉再書のときのものでもないことが分かる。和田喜八郎氏の父元市か喜八郎氏の書いたものということになりそうだが、書体などの検討が必要になる。この数字はどの文献にも合わないから、現代的ではあるが、信頼性に乏しい。ただし寛政原本には光年単位ではなく、シリオメーター単位で書かれていたかもしれない。時代的にはハーシェルの説をエドワード・トマスが知っていた可能性は十分ある。エドワード・トマスという人物がはっきりすれば大きな発見となろう。
 第二のパラグラフの中の地球の年齢だが、45億年という値は文句なしに現代のものである。寛政のころにはもちろん、明治15年にもこんな知識はなかった。鉛同位体比を使って決めた数字であるからだ。科学の発展は一歩一歩踏み固めつつなされるものである。同位体の概念は20世紀に入ってから確立し、その応用などはさらに遅れて発展したものである。
 ところで何故こんなことになったのか。偽書派は偽作して金儲けする卑しい動機に違いないと決め付けるだろうが、まず『東日流外三郡誌』(I巻54頁)の文を見てから判断することにしても遅くはないだろう。
 
「蓋(けだ)し、子子孫孫にて本書の増補記事項訂正なし、世の安泰世襲の改む世に至らば、本書頒布の需めに応ずべし。
 而るに現世の如き王朝幕藩の治世にしては罪障の書物なりせば、日本一統治安民生相互の権を得るまでは秘密とし、他見無用、門外不出と心得。蓋し編者が老婆心に他ならざるなり。」

 この文に従えば子孫は誤りを発見したら訂正し、増補せよと言うことになる。そしてしかるべくよい世の中の来るのを待って頒布の求めに応じてよいと言うことである。和田喜八郎氏が古文書の銀河系の大きさを書き換えてもなんら問題ないことになる。彼は先祖の言いつけに従ったとして弁解できる。
 もちろんこれは学問的に問題だし、常識的でもない。古文書は古文書なるが故に尊いのである。勝手に訂正し、付け加えるのは古文書の価値の破壊であると言わざるを得ないが、これは全体に比べて小さな部分である。
 少し心配なのはこの文の冒頭の部分である。私も江戸時代末期から昭和前期の家族史の文書の調査をしたことがあるが、家族以外他人に見せることは禁止とあった。つまり他見無用である。そこを何とか頼んで見せてもらったのである。普通の古文書なら他見無用とだけ言うことで終わりなのに、この文では丁寧にも訂正、増補まで言及していることである。これについて鑑定にかける必要があるかもしれないと筆者は危惧していることは事実である。『東日流[内外]三郡誌』(古田武彦・竹田侑子著、2008)には秋田孝季の筆跡の写真版に「他見無用 門外不出」とだけあり(同書300頁、311頁)、増補、訂正の勧めがない。
 この本は全体としてみればただ偽書だと決め付けてよいような本ではないと私は思う。これをもとにいろいろの興味ある考察ができる。また私が思うのは、この本の基層にある敗者の悲しみと悔しさで、それを高めれば平家物語のような物語になり、あるいはホメロスの『イリアス』『オデッセイ』のような叙事詩にもなりうる。将来それを読み取る詩人の感性を持った人が現われないだろうかという期待がある。物事をマイナスばかりに捉える傾向は時として日本人にありがちな悪い癖だが、それを乗越えることが新しい時代には必要と思う。

 

4.おわりに

 以上『東日流外三郡誌』について科学と科学史に関する部分についての私見を記した。秋田孝季が長崎で会ったエドワード・トマスという人物が18世紀の英国のルナー・ソサエティに関係ある人物かもしれないということは十分あり得ることとして今後の調査を願っている。


付記 編集便り
 本号には非会員ではありますが、東北大学名誉教授の吉原賢二さんより寄稿を戴きました。物理学の泰斗たるに相応しい論理的な論文です。未だに偽書説の皆さんには是非ご一読戴き、己が不明を反省して戴きたいものです。正木さんも快調で、うまく論文にまとめきれない私としては感心することしきりです。(西村)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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