古田武彦・古代史コレクション7『よみがえる卑弥呼 -- 日本国はいつ始まったか』ミネルヴァ書房)2011年9月刊行


第一篇 国造制の史料批判抄録
ーー出雲風土記における「国造と朝廷」

抄録には、表記の関係で第三章の陶土員問題はごく一部収録しておりません。

<解題>
「日本列島に、朝廷は一つしかなかった。それが大和朝廷である。」ーーこれが、明治以降の古代史学において、ことさら強調された命題であった。研究思想を貫く根本信念とさえいえよう。この一点においては戦前も戦後も不変だった。しかしそれは、江戸期の国学者たちのイデオロギー的な読解と、そのための「原文改訂」という改変史料にもとづくものだったのである。(未発表)

    序

 戦後、古代史学研究史の白眉をなしたもの、それは「国造制の成立」問題であった。昭和二十六年、故井上光貞氏による同名の論文(1)が世に出てより、大家・俊秀相競うて論作を問い、よって陸離たる論争史を形成したこと、周知のごとくである。(2)
 しかるに今回、従来の研究における、史料の基本的な処理方法において、看過すべからざる問題点の存在する事実を見出すに至った。ためにそれを率直に報告し、諸賢の批判の下に呈したいと思う。


 第一節 出雲風土記における「国造と朝廷」



    一

 出雲風土記中、「国造ーー朝廷」間の関係を具体的に記述した、二個のフレーズが存在する。当問題の基本をなす史料として左にかかげよう。

1, 国造神吉調望、参向朝廷時、御沐之忌玉、故云忌部。〈意宇(おう)郡、忌部の神戸。細川・倉野・日御埼・六所、の四古写本〉(3)
2. 故国造神吉事奏、参向朝廷時、其水活出而、用初也。〈仁多(にた)郡、三津の郷〉 (4)

 このフレーズを、いずれも「出雲国造ーー大和朝廷」間の交渉を語る史料と解すること、それは古来より現今に至る註解諸家、史学研究者の通軌であった。(5) たとえば、先の井上論文でも、その第三節において、

「又風土記には意宇郡忌部神戸の条に、国造が朝廷に参向の時の御沐の忌里なりとあり、仁多郡三津郷の条にも参向の途次、この水沼によることを記している」

と注記し、「出雲国造ーー大和朝廷」関係文献として、己が立論の裏付け史料の一に、これを使用された。
 しかしながら、該史料をふくむ出雲風土記の全体を通視するとき、右のような史料理解に対して不安を与えるべき、一個の問題の存在することに気づくのである。その内実を左に列記しよう。
 第一。この風土記全体の中に、もっとも頻繁に出現する神は、「天の下造らしし大神、大穴持命」である。三四回(6)に及ぶ。これに次ぐ出現回数の神は、須佐之乎命(一二回)、神魂(かもす)命(八回)・八束水臣(やつかみずおみ)津野命(六回)、阿遅須枳(あじすき)高日子命(五回)とつづき、他の神々は、それ以下である。(7)(8)(9)(10)もちろん、一回出現の神々が多数を占める。(11)
 以上のような史料状況から見ると、当該史料において、大穴持命が特殊の "輝ける位置" をもつこと、この一点において疑義はない。第二位の出現回数の神(須佐之乎命)の三倍弱に及ぶ、隔絶した数値である。それだけではない。第二位と第三位(神魂命)の二神は、その神自身の活躍のためだけではなく、その神の娘と大穴持命との婚姻関係を語るさいに、その娘の父神の名として出現するケースも少なくない。(12)この点を考えると、大穴持命との関連で、第二・三位の出現回数も左右されていることが知られよう。
 それだけではない。第五位の阿遅須枳高日子命は、大穴持命の「御子」である。他にも、この神の「御子」は五神あり、計六神。(13)その総出現回数は十一回に及ぶ。ところが、大穴持命の「孫」に当たとるのは、二神。計三回の出現である。(14)
 以上の史料事実の意味するところは、意外に看過しがたい。なぜなら、 "子供が六人、孫が二人" 、このような系累関係は、当人の晩年の一時期、しばしば訪れうる状況だ。だが、その一時期を過ぎれば、当然 "子供の数より孫の数の方が多い" 、そういう状態に至ること、自然の成り行きであろう。すなわち、出雲風土記のストーリー展開は、 "大穴持命の晩年の一時点"を下限とする形で、展開されている。その事実を指示するものだったからである。

もっとも、このさい、吟味すべき一課題がある。
(イ) 飛鳥浄御原宮御宇天皇(天武)御世〈意宇郡、毘売埼〉
(ロ) 志貴島宮御宇天皇(欽明)御世〈意宇郡、舎人郷〉
(ハ) 纒向檜代宮御宇天皇(景行)勅〈出雲郡、健郡郷〉(15)
(ニ) 志紀島宮御宇天皇(欽明)之御世〈神門郡、置郷〉(16)

 この四項目は、近畿天皇家の天皇名と治世代等付きの記事として著名だ。だが、これらは出雲風土記の全体と比すれば、当然ながら「例外項目」として、後代紀年付きのものである。そのような史料全体中の位置づけを見のがすことは不可能だ。すなわち、史料全体に関しては、やはり「大穴持命晩年の一時点」を下限とする性格のストーリー内実だ。この事実を動かすことはできないのである。
 以上のような史料全体への客観的な認識に立って、先の「国造と朝廷」との関係をのべた、二つのフレーズを顧みるとき、誰人にも次の疑問が浮かぶのではあるまいか。

「この『朝廷』とは、果して大和朝廷のことと断定して可とすべきものなのであろうか」
と。この問いである。

 なぜなら、この史料は先に確認した通り、出雲の大神たる、大穴持命を一大主人公とするストーリーの表現であり、右の二つのフレーズは、その記述の只中に出現するものなのであるから。そこにいきなり「大和朝廷」が出現するのでは、何とも唐突に過ぎる。ここに従来の理解のもつ不安定性が存しよう。


    二

 ここでかえりみるべき「他山の石」がある。中国の史書、三国志中に出現する「朝廷」の語の使用例がそれである。総計一九回出現する。その使用内実は次の通りである。

(一) 執筆対象の時代
1. 漢朝を指すものーー 五回
〈地の文〉ーー 三回
〈直接法〉ーー 二回
2. 魏朝を指すものーー 十二回
〈地の文〉ー一 七回
〈直接法〉ー一 五回
3. 蜀朝を指すものーー 一回
〈地の文〉ー一 ナシ
〈直接法〉ー一 一回
4. 呉朝を指すものー一 一回
〈地の文〉ー一 ナシ
〈直接法〉ー一 一回
(二) 執筆時点
西晋朝を指すものー一 ナシ
〈地の文、直接法とも、ナシ〉

 以上の史料事実の意味するところを、左に吟味してみよう。

 先ず第一に、注目すべき点。直接法という限界の中ながら、蜀朝¥呉朝を「朝廷」と指称する用例が各一例ずつ出現していることだ。漢朝から魏朝へ、その魏朝から西晋朝へ、そういう正統権力の継承、すなわち禅譲関係の存在を、大義名分としたのが西晋朝である。したがってその西晋朝の正史たる三国志が漢朝及び魏朝を朝廷と呼ぶ、多くの用例をもっていることは、怪しむに足りぬであろう。
 しかし、魏朝に対し、大義名分上の敵対者であった蜀朝と呉朝に対し、この用語の使用が見られることは、注目に値する。「朝廷の多元的存在」という現実をよく反映した筆法、そのようにいいうるであろう。
第二に、現在の観点にとって、より一層注目すべき点を指摘しよう。三国志の執筆時点の権力たる西晋朝に対して、これを「朝廷」と呼ぶ用例が一例も出現していない、この事実である。一九例とも、もっぱら執筆対象たる後漢朝及び、魏¥呉¥蜀の三朝に対する呼称なのである。
 これは、この朝廷の語が、記述対象の文中に出現するものであることからかんがみれば、あるいは他奇なきところかもしれぬ。

 けれども、このさい、次の事実に対しても、注意を喚起しておきたい。それは三国志中、西晋朝にまつわる記事は、時として出現していることである。たとえば、

(一) 泰始八年の詔に曰く「正(郤正)は昔、成都に在り、・・・其れ、正を以て巴西太守と為す。」成寧四年卒す。〈蜀志、郤正伝〉

(二)「臣寿(陳寿)等言う。・・・大晋、光明至徳、・・・泰始十年二月一日癸巳、平陽侯相臣陳寿上。」〈蜀志、諸葛亮伝〉

(三) 晋室践昨、累ねて詔を所在に下し、周(誰周)に発遣せしむ。周、遂に輿疾して洛(洛陽)に詣る。泰始三年、至る。〈蜀志、誰周伝)

 以上のごとくである。このような事例の存在は、あたかも、出雲風土記における近畿天皇家の天皇名と治世代付きの記事を彷佛とさせるものがあろう。なぜなら両者とも、両書の成立時点、すなわち執筆時点における公権力にまつわる記載を、いわば例外的に挿入しているものだからである。

 この事実をわたしが特記する理由は他でもない。三国志の書例に従って考えるとき、出雲風土記の場合もまた、当該文中に現われる「朝廷」の語は、執筆時点の権力たる「大和朝廷」を指すに非ず、執筆対象たる出雲における中心権力の所在、すなわち大穴持命の所在(杵築の社。いわゆる出雲大社)を指すのではないか。この疑いのためである。
 従来はこのような、東アジアの史書中の使用法という、実際の用例に立って実証的に判断する、という客観的な手法がとられていなかったのではあるまいか。代って「朝廷とあれば、大和朝廷以外にありえず」という先入観念によって右の疑いがあらかじめ断たれていたのでなければ、幸いである。


    三

 右の疑問を実証的に解決するもの、それは出雲風土記内部の、術語の使用法である。

(母理の郷)天の下造らしし大神、大穴持命、越の八口を平げ賜いて、還り坐(ま)す時、長江山に来り坐して詔す。「我が造り坐して、命(し)らしし国は、皇御孫命(すめみま)の、平らけき世と知らせと依(よ)さし奉る。但、八雲立つ出雲国は、我が静まり坐す国と、青垣山廻らし賜いて、玉珍(たまうず)直ちに賜いて守らん。」と詔す。故に文理(もり)と云う。(神亀三年、字を母理と改む。) 

 右の大穴持命の詔の中に「我坐而命」という表現がある。すなわち "統治" を意味するらしい「命国」という概念の前提として「造国」という概念がおかれている。すなわち、これを換言すれば「国造」である。したがって右の六字は「国造」の概念をふくむ用法といえよう。
 ここで吟味すべき問題がある。それは右の六字末尾の「国」は、単数か複数かという点だ。日本文や漢文では、通例、名詞に単複の語尾表示が存在しないから、前後の文意から、これを判断する他はない。この場合、答は明瞭だ。複数である。その理由は、

1. 右の文中にも、「越」「出雲」と二つの国名が出てきている。

2. その上、大穴持命の詔中に出現する「国」の概念は、右の二国より、さらに小規模の支配領域を指すようである。たとえば、

仁多と号する所以は、天の下造らしし大神、大穴持命詔す。「此の国は、大に非ず、小に非ず。川上は木の穂刺しかふ。川下はあしばふ這ひ度れり。是はにたしき小国なり。」と詔す。故に仁多と云う。〈仁多、冒頭〉

 とあるように、八世紀の執筆時点では「郡」に当るものが、「大穴持命の当時」では「国」と呼ばれていることが知られる。すなわち、「出雲」や「越」(さらに「筑紫」など)の中に、複数もしくは多数の「国」があったもの、と見られる。少なくとも「大穴持命の詔」の中の用語としての「国」は、このような性格の概念と見られよう。
とすれば、右の六字の句の末尾の「国」は、当然複数、もしくは多数の名詞と見なければならぬ。

 このように分析してくると、出雲風土記中、くりかえし出現する、大穴持命の肩書き「所造天下大神」の意義も判明しよう。彼は「国々造り」の輝ける業績をもつ大神として、これに「天下造り」の大神という定語が与えられているのである。

 とすれば、この大神の支配領域下には、各地の「一国造り」(一国の支配者の義か)が存在したこととなろう。これに対し、その中央(杵築の地)に、「天下造り」としての大穴持命が存在した。これが出雲風土記のしめす基本の権力構造、その配置形式となっているのである。

 以上の考察は、わたしたちにしめす。先の「国造ーー朝廷」をふくむ、二つのフレーズ、その中の「国造」とは、右に名づけた、いわゆる「一国造り」を指す、という帰結を。ということは、すなわち、その対語たる「朝廷」とは、「天下造り」たる大穴持命の所在地を指す。この結論に至ることは、およそ不可避なのではあるまいか。彼の所在地たる杵築の宮、出雲大社の地こそ、ここにいう朝廷の所在地と見なす他ないのである。


    四

 右の帰結を立証するため、さらに重要な、文脈構成上の証拠をあげよう。仁多郡三津郷は、先の「国造ーー朝廷」のフレーズをふくむ一例であるが、その説話は大略次のように展開している。

" 大穴持命の御子、阿遅須枳高日子命は、生長久しくしてなお口が利けなかった。父の命はこれを心配して八十嶋(やそしま)を連れ巡ったが治癒しなかった。ある夜、己(おの)が神に祈ったところ、治癒した夢を見た。目覚めて傍らに寝ていた御子に声をかけると、彼がはじめて口を利き、「三津」と言った。「どこのことか。」と聞くと、御子は立ち上り、戸外に出、川を渡り、坂の上で立ち留まって、「ここ。」と言った。その沢の水で御身を沐浴しておられるうちに、やがて口が利けるようになり、病は治癒した。"

 以上のような霊験譚が記せられた直後に、例のフレーズ、

 故、国造神吉事奏、参向朝廷時、其水活出而、用初也。

の一節につながっているのである。

 したがって、この「朝廷」に大穴持命とその(唖病が霊泉で治癒した)御子の両者がいてこそ、問題の霊泉で "用い初め" を行ってやってきたという「国造」の行為が有意味のものとなるのではあるまいか。相手の「朝廷」側こそこの霊泉の神秘をこよなく賞讃している当事者なのであるから。
 これに反し、これを従来説のごとく「大和朝廷」と見なした場合、この霊泉に対する特別の関係なき相手であるから、この一節のもつ本来の活き活きした躍動感、臨場感は全く喪失されてしまう。すなわち、前後の文脈の中で浮き上っているのだ。だが、説話においては、そのような "活きた感覚" こそ、不可欠の生命とさるべきものなのではあるまいか。


    五

 さらに、次なる問題は、「国造」の所在である。出雲風土記の説話中(17)の「国造」が「一国造」であり、八世紀当時の「郡」に当るような小領域であったことは、すでにのべた。この仁多郡の冒頭の例は、すでにその立証としてあげたものである。すなわち、この三津郷の記事は、本来「仁多国」中の記事だったのである。とすれば、その記事中に出てくる「国造」とは、当然「仁多国造」を指すもの。そのように考える他ないであろう。
 この仁多の地(現、仁多郡仁多町三沢、光田(18))は、斐伊川の上流に沿っている。したがって仁多国造にとって、早朝にこの霊泉で「用い初め」(元旦などか)を行えば、斐伊川を舟で下るとき、昼前後には、容易に杵築の宮の地に到着しえたであろう。当時の斐伊川が、現在のように宍道湖へと東流するのでなく、杵築の宮の方へと西流していたことは、よく知られた事実である。
 このように、新たな認識に立てば、右のフレーズのしめす地理関係はまことに明晰なのに反し、たとえば「松江付近」あるいは「出雲大社付近」の出雲国造が大和朝廷に参向するとき、この仁多郡の三沢の地を迂回せねばならぬとしたら、その地理的困難は、言語に絶する迂路となろう。しかも、その迂路の果ては、この霊泉に対し、 "活きた因果関係" なき大和朝廷である。そのさい、このフレーズは、辟易すべき非実際性の靄の中に蔽われざるをえないであろう。ここに、従来の理解の致命的な非現実性が存在する。


   六

 このような従来の理解は、出雲風土記中の「国造と朝廷」を「出雲国造と大和朝廷」の意と解し、これを当風土記理解の根本においてきた。その学的先蹤、それはいうまでもなく江戸期の国学者達であった。荷田春満の『出雲風土記考』、内山真竜の『出雲風土記解』等がその先達をなす。そして彼等は、右の理解の根本の視点と矛盾する、あるいは十分に適合しにくい史料事実に対しては、容赦なき斧鍼(ふえつ)の手を加えた。いわゆる「原文改定」である。たとえば、当風土記冒頭の周知の一文を見てみよう。   

(A)国之大体、首震尾坤、東南山、西北属海、東西一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。
国の大き体(かたち)は、震(ひむがし)を首(はじめ)とし、坤(ひつじさる)のかたを尾(をはり)とす。東と南とは山にして、西と北とは海に属(つ)けり。東西(ひのたて)は一百卅九里一百九歩(あし)、南北(ひのよこ)は一百八十三里一百七十三歩なり。〈岩波古典文学大系本、九五ぺージ〉

 右は、現在「出雲風土記」の冒頭と信ぜられている「校訂本文」なのであるが、この本文は、出雲の実地の「大体」に反している。もしくは一致していない。なぜなら、「東と南とは山にして」といっているけれど、出雲の地形の実際は、「南」の場合は確かに「山」の一語で表現できよう。しかし、「東」について、右と同様に「山」の一語で表現できはしないからである。美保関の東方は海であり、米子の付近は平野だ。ただ大山付近なら、山だけれど、全体を「山」の一語で一括することは、到底不可能である。
 出雲風土記は、本来、出雲人が出雲人のために伝承したものである。それなのになぜ、出雲の地理の全体像について、これほど無知、もしくは粗放なのであろうか。不審に耐えない。
実は、この問題の焦点は、右の(A)の文が、一切の古写本に存在せぬ、という一点にある。真の原文は、左のようである。

(B)国之大体、首震尾坤、東南。宮北属海。東、一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。
(国の大体、震(ひむがし)を首(はじめ)とし、坤(ひつじさる)を尾(をはり)とす。東と南なり。宮の北は海に属す。東は一百卅九里一百九歩、南北一百八十三里一百七十三歩。)
〈細川本・倉野本・日御埼本・六所神社本とも、皆右が本文である。万葉緯本も、本文は同じ。ただ「宮」の右横に「陸」と注し、「東」の右下に「西乎」と注す〉(19)

 右の文中のポイント、それは「宮」の一語だ。出雲風土記中、ただ「宮」というとき、それは一体いかなる「宮」を意味するであろうか。

(a) (
恵曇の郷)須作能乎命の御子、磐坂日子命、国巡り行き坐しし時、此処に至り坐して詔す。「此処は、国権美好、国形画靹(えとも)の如く有る哉。吾のは是処に造る者なり。」と。故に恵伴(えとも)と云う。(神亀三年、字を恵曇と改む。)〈秋鹿郡、恵曇郷〉

(b) 楯縫(たてぬい)と号する所以は、神魂命詔す。「五十(いそ)足る天の日栖(ひすみ)の縦横の御量(みはかり)は、・・・此の天の御量持ちて、天の下造らしし大神の宮を造り奉れ。」と詔して、・・・大神の宮の御装束(みよそおい)の楯を造り始め給いし所、是なり。〈楯縫郡、冒頭〉

(c) (杵築の郷)八束水臣津野命の国引き給いし後、天の下造らしし大神の宮を造り奉らむとして、諸の皇神等、宮処に参集いて、杵築(きづき)きき。故、寸付(きづき)と云う。(神亀三年、字を杵築と改む。)〈出雲郡、杵築の郷〉

 右の (a) の「吾の宮」や (b) の「天の日栖の宮」が、いわば通常的な「宮」の用例であるのに比し、 (b) や (c) の「大神の宮」がいずれも杵築の宮を指すこと、疑いない。のみならず、 (c) の「宮処」もまた、右の杵築の宮の所在を指称していること、疑いない。要するに、杵築の宮が、全出雲風土記中、特出した「宮」であること、この事実を疑うことはできない。これは、この宮の主人公たる大穴持命が、全出雲風土記中、特出せる主神である事実と、よく対応しているといえよう。
 以上の状況から見ると、この風土記冒頭の「宮」が、この杵築の宮を指す、と見なすこと、それはもっとも蓋然性の高い仮説というべきではあるまいか。その立場から、この前後の文意を検してみよう。
 
「国の大体は・・・東と南なり。」地図に見るごとく、杵築の宮を原点として見るとき、出雲の地形の「大体」は、 "東と南へひろがっている" 。この観察と表記は正確である。その上、「震」(東)を首とし、「坤」(西南)を尾とする、という表記も、文字通りである。
「宮の北は海に属す。」杵築の宮の北方には、日本海がひろがっている。すなわち、この表現も、正確である。
「東は・・・」この一句は決定的な意味をもつ。杵築の宮の西は海であり、陸の領域はほとんど存在しない。したがって「東西」でなく、「東」とした各古写本の表現は、「宮」を原点とした表記としては、きわめて的確なのである。

 以上のように、各古写本のしめす姿は、いずれもまことに正確無比、よく出雲の地形の「大体」を描出し切っている。
 しかるにこの原文面に対し、あえて「改削の手」を加えたのは、先述の国学者たちであった。

「東南宮北属海
今按、東南山西北属海といふ句なるへし、山西の二字を転写あやまりて宮の一字に作たるならん、すゑにも国を誤りて宮に作たる所も見えたり。」〈荷田春満『出雲風土記考』〉

 出雲風土記研究の源淵ともいうべき春満の『考』、その冒頭部に現われているのが、右の文面である。ここには現存校定本の原由が明白に語られている。すなわち、現本文の「山西」の二字が、いずれの古写本自身の本文にも存在しない文面であること、それが春満の脳裏に宿った一アイデアにすぎなかったこと、この事実を「今按ずるに・・・」以下の文面が明白に証言しているのである。
 この「原文改定」は、後続の国学者、内山真竜によって、論理的に発展させられた。各古写本とも、本文には「東」とのみあるものに「西」を補い、「東西ーー里ーー歩」の形式へと「訂正」を行った。かくして出雲の地理的表記としての現存校定文が「作製」されたのである。
 けれども、その「新作製文」は、重大な地理的矛盾を内蔵していた。先にのべた「東と南は山なり」の一句は、全く現地の地形大観に一致していなかったのであった。
 それだけではない。各古写本群に本来存在せぬ字面を、後代の学者が「想定」して「仮構」すること、そのような手法は、古写本処理の原則において、本来許さるべきところではないのではあるまいか。
 しかも、この「原文改定」には、重大なイデオロギー上の「改変」をともなっている。なぜなら、各古写本の原文面の場合、「宮」とは杵築宮を意味すべきこと、前後の文面から見て疑いがたい。「東」とあって「西」のない表記が、「杵築宮中心表記法」という一個の仮説の妥当性を証明していること、先述のごとくであった。

 いいかえれば、出雲風土記の語り手は、以下の伝承と記述が、この「宮」すなわち杵築宮を中心に展開すべきことを先ず、ここで予告している。そういう本風土記の基本をなす叙述姿勢を、しめしていたのである。
 その杵築宮は、いうまでもなく、大穴持命が中心の所在としたところである。すなわち彼の「天の下を造らしし」業績はここを中心として行われ、ここから「天の下」に分布する、幾多の国々への統治や巡行が行われたのである。(20)

 このような見地から読みすすめれば、先の問題のフレーズ、「国造と朝廷」をふくむ文面も、これを「天の下を統治し、巡行すべき、その原点」たる朝廷と、その統治下の「国」の国造との間の関係として、すなおに理解すべき道が開かれていたのであった。その出雲風土記の文面であるから、 "出雲における朝廷"と "その朝廷のもとの国造" と理解すべきこと、それは何等の他奇なきところなのである。(21)
 しかしながら、右のように、文献処理上まことに自然な理解法は、春満や宣長、また真竜等の国学者たちにとって、決して採用し能わぬタブーに属した。なぜなら、先にものべたごとく、 "他国はいかにあれ、わが国では、「朝廷」とあれば大和朝廷に限るべし" という、実証以前の超命題が彼等の脳裏を制約していたため。そのように解することは、果してことの真相に遠きものであろうか。

 ことを逆に考えてみよう。もしこの「宮」が伊勢や大和の地において語られていた場合、すなわち具体的には、伊勢の皇太神宮や大和なる皇宮を意味するであろうと考えうるケースにおいて、果して彼等国学者は、敢然とこれを "削り去り" えたであろうか。それは彼等にとって全くの不可能事もしくはかなりの困難事だった、そのように想定しても、必ずしもいちじるしく真に違するところはないように、わたしには思われる。
 これに対し、彼等は易々として出雲風土記冒頭の、眼晴をなすべき「宮」の一字を削りえた。後続者は、それに合わせるように、「西」字を加乗した。この一字は彼等の、「大和朝廷中心史観」にとって、不穏当と見えた。なぜならそれは「杵築の宮、中心記述法」という出雲中心の古代世界の存在を暗示していたからである。それを "大和を中心とした、一地方の地理・風物誌" というイメージに合わせて改変したのである。その結果、間題の二つのフレーズも、「出雲国造ー大和朝廷」間の関係をしめすものとして "読み変え" られた。もちろん、彼等国学者たちには、"読み変えた" という意識すらなかった、わたしにはそのように思われる。春満が眼前の古写本の「宮」の一字を「山西」の写し誤り、と見なす、あまりにも大胆な改削を実行したときも、彼はこれを本文を正しく復元する、すなわち「改正」と確信していたことであろう。それは、三国志魏志倭人伝中の中心をなす、肝心の国名「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と改定して、天皇家の中心拠点たる「大和」に合わせようとした、松下見林、彼の手法と同一の、時代的手法であった。そのような近世的手法は、明治・大正・昭和の三代を通じて、批判されるよりむしろ、継承されたこと、本稿の論証のしめすところである。江戸以降の出雲風土記研究史は、"古代出雲は、日本列島の日本海沿岸西部における、一大文明中心であった。少なくとも、当該史料は、それを主張している古典である" という基本認識をうけ入れることなく、今日に至っていたのではあるまいか。

 以上の帰結は、一風土記の再解釈たるにとどまりうるものであろうか。わたしはこの問いに対して、率直に、否と答えざるをえないであろう。なぜなら従来、戦前はもとより戦後史学においても、「国造朝廷」という図式、権力機構の構造図は、常に近畿中心のものとして理解せられ、処理されてきた。それは日本の古代史学にとって、根本の安定軸であった、とさえいいうるであろう。本稿の冒頭にのべた井上論文のもつ、基本をなす論理的安定性も、そこにあった、といいうるかもしれぬ。
しかし他面、井上論文はしめしていた。大和朝廷中心の統一世界の成立する以前に、各地における "小統一" の存在していたことを。「国造制の成立」と銘打たれたこの論文にとって、この視点は中枢をなすものであった、といいえよう。しかしながら本稿の論証は、井上論文のさししめした方向が、同論文に自覚せられていた以上に重大であった、その事実をしめしているのではあるまいか。僧越ながら、わたしにはそのように思われる。
 なぜなら、後代、近畿天皇家が自家を中心に構成した「朝廷(大和)ーー国造(地方)」というわく組みは、近畿天皇家の創始に非ず、模倣であった、という間題が浮び上らざるをえないからである。
 これをより精細にのべれば、第一に、「朝廷」の語を中国から先ず "輸入" した中心権力は、近畿天皇家に非ず、出雲の古代権力であった。この事実を意味しよう。そのことはさらに、次の事実をしめす。近畿天皇家がこの語を使用したのは、中国からの直輸入というより、"出雲からの模倣" だったのではないか、という問題である。なぜなら、近畿天皇家が右のような "日本列島内の朝廷使用" の先例に気づかず、ひたすら中国から「直輸入」した、そのような状況は考えがたいからである。近畿天皇家が出雲の存在に無関心であったならばいざ知らず、これに並み並みならぬ関心をはらってきたこと、記・紀の語るところ、疑いがない。このような状況下で、右の「直輸入」説を主張しようとする論者ありとせば、それは畢竟一種の跪弁に陥らざるをえぬ道に至るのではあるまいか。
 右の論点は、第二の「国造」の用語を検討するとき、一層明確となろう。この用語が中国作製のものでなく、日本列島内作製のものであること、おそらく疑義する論者は存在せぬと断じえよう。(22)とすれば、この用語の創始者は、やはり大和朝廷に非ず、出雲朝廷であった。この事実をわたしたちは避けることができないであろう。出雲なる中心権力にあった人々は、一方では「朝廷」という中国製の権力用語を「輸入」して自家にあてて用い、他方、「国造」というような新政治概念を創造して、自家の統一支配下の小権力者たちにあてて用いた、そのように解する他ないからである。
 このことは直ちに次の事実をしめす。近畿天皇家がこの「国造」という、日本列島内作製の新政治概念を用いたとき、それはやはり天皇家の創造ではなく、模倣であった、という帰結である。しかもこの場合、単なる模倣というにはとどまりえないかもしれぬ。なぜなら、日本列島内にすでに成立しちていた「国造「朝廷」という支配体制、その先在の権力構成の、拡大的継承者、その位置に、近畿天皇家はみずからをおいていたのではないか、わたしたちはそのような問題所在に否応なく目を向けざるをえないであろう。


(1) 井上光貞「国造制の成立」(『史学雑誌』六〇の 十一、昭和二十六年十一月)

(2) 新野直吉『研究史、国造』(昭和四十九年)参照。

(3) 「調望」。内山真竜『出雲風土記解』では「詞奏」。万葉緯本では「詞望」。「御沐之忌玉」。岩波古典文学大系本では、内山の『解』によって「御沐の忌の里なり」と読むが、これは後代改文である。諸古写本、共通して「御沐之忌玉」(細川本、「玉作」)。

(4) 「三津」。桑原本では「三澤」(岩波古典文学大系本では「三澤」とする)。

(5) たとえば、岩波古典文学大系本では「意宇郡忌部神戸」の項の「神吉調望」に対し、「神吉詞望(ほが)ひに」という改定訓読を採用した上、その注として「出雲国造の新任の時、大和朝廷に服従を盟い、天皇の御世を寿ぐ、そのために奏上する詞。延喜式に出雲国造神賀詞として全文が見え、その儀式の次第も記されてある」としている。(万葉緯本の上欄記入の説に従ったもの)。これに対し、「出雲朝廷」の概念に立ったものとして、竹越与三郎『二千五百年史』(講談社学術文庫)があった(明治二十九年)。安達巖『出雲王朝は実在した』(新泉社、昭和六十年十二月)参照。

(6) 「大穴持命」「所造天下大神命」「大神」「御祖命」等の表記がある。

(7) 「神須佐乃烏命」「須佐乎命」「須佐能烏命」「須佐能袁命」「神須佐乃乎命」等の表記がある。

(8) 岩波古典文学大系本では「かむむすびのみこと」と訓じているが、「かもすのみこと」が妥当であろう(「神魂神社」の現地音「かもす」)。

(9) 「八束水臣津野命」「意美豆努命」等の表記がある。

(10)「所造天下大神御子」という表記付きのものと、それのないものとがある。

(11)天乃夫比命・天津子命・大国魂命・青幡佐久佐日古命・山代日子命・野城大神・熊野加武呂乃命・都留支日子命・意支都久辰為命・俾都久辰為命・奴奈宜波比売命・御穂須須美命・国忍別命・八尋鉾長依日子命・宇武加比売命・都久豆美命・麻須羅神・秋鹿日女命・磐坂日子命・衝桙等乎与留比古命・天[瓦長]津日女命・天御鳥命・宇乃治比古命・天御梶日女命・宇夜都弁命・薦枕志都沼値・綾門日女命・伎比佐加美高日子命・真玉著玉之邑日女命・塩冶[田比]古能命・八野若日女命・伊弉奈彌命・和加須世理比売命・阿陀加夜努志多伎吉比売命・久志伊奈太美等与麻奴良比売命・須久奈比古命・波多都美命・伎自麻都美命・玉日女命・宇能治比古命・須美禰命・樋速日子命・青幡佐草日子命・阿波枳閉委奈佐比古命(各一回)

[瓦長](ちょう)は、瓦編に長。JIS第四水準、ユニコード24B56
[田比](ひ)は、田に比。JIS第3水準、ユニコード&BD7

伊弉奈彌命については、
『市民の古代』 古田武彦講演記録
播磨風土記 『常陸風土記」の新しい視点 伊弉彌命(イサミノミコト) へ



(12)須佐能袁命の娘(八野若日女命・和加須世理比売命)神魂命の娘(綾門日女命・真玉著玉之邑日女命)

(13)山代日子命・阿遅須枳高日子命・御穂須須美命・天御鳥命・和加布都努志命・阿陀加夜努志多伎吉比売命

(14)多伎都比古命(二回)・塩冶[田比]古能命

15)「健郡郷」。諸古写本とも、この表記。岩波古典文学大系本は万葉緯本の傍記によって「健部郷」と改文(この点、本書第二篇「部民制の史料批判」参照)。

(16)「置郷」。諸古写本とも、この表記。岩波古典文学大系本は田中本等の補記により、「日置郷」と改む(正倉院文書天平十一年歴名帳参照)。

(17)出雲風土記末尾の自署名中の「国造」に関しては、後述。

(18)伝承地「三津池」に関しては、現地(三沢)の中に二候補地がある。一は、要害山三沢城内の頂上近くの「刀研池」。一は、光田山頂上近く。陰陽石と神田の間の坂道上。加藤義成氏は『修訂、出雲国風土記参究』(松江今井書店、昭和五十六年改訂版刊行)で前者を支持されたが、後者の方が妥当するようである(この点、別論文に詳述する)。

(19)松下本も、本文は同文。ただ「宮」の右上に細字で「山西」と注し、「東」の右下に細字で「西」と注す。荷田春満以下の各家の「改定見解」を注記したものと見られる。この他に、桑原本・河村本等、いずれも本文は「宮」、「東」であり、変るところがない。

(20)「(多禰郷)所造天下大神、大穴持命与須久奈比古命、巡行天下時稲種堕此処。故云種。」〈飯石郡〉



(一)三国志の中の「朝廷」の事例
1(景元元年十一月)朝廷所以弁章公制〈魏志、三少帝紀〉(魏朝) 2(初平元年)朝廷高其義〈魏志十一〉(漢朝) 3(太祖)朝廷無西顧之憂〈魏志十三〉(漢朝) 4(太和中)危言危行以処朝廷者〈魏志十六〉(魏朝) 5(太和中)臣竊憫然為朝廷惜之〈魏志十六〉(魏朝) 6(太和中)使朝廷粛然邪〈魏志十六〉(魏朝) 7(太和中)朝廷乏賢佐〈魏志十六〉(魏朝) 8(太和中)恕在朝廷〈魏志十六〉(魏朝) 9(甘露二年)朝廷感焉〈魏志十六〉(魏朝)10(献帝)貴重朝廷〈魏志二十一〉(漢朝)11(太祖〈後〉)何暇匡翼朝廷〈魏志二十三〉(漢朝)12(文帝)朝廷嘉其遠至〈魏志二十四〉(魏朝)13(文帝)心存朝廷〈魏志二十七〉(魏朝)14(明帝)時朝廷議欲伐呉〈魏志二十七〉(魏朝)15(明帝〈後〉)収名朝廷〈魏志二十八〉(魏朝)16(高貴郷公)朝廷〈魏志二十八〉(魏朝)17(建安二十四年)朝廷有蕭牆之危〈蜀志二〉(漢朝)18(建興二年)朝廷(蜀の後主、劉禅を指す。ーー古田)今年始十八〈蜀志十二〉(蜀朝)19(孫権、薨)以報朝廷(「与弟公安督融書」)〈呉志十九〉(呉朝)〔冒頭の()は年時判別の語句。〈後〉は、「直後の文中にあり」の意をしめす。〕

(二)続日本紀の中の「国造」の事例
(1)(大宝二・二・十二)諸国(2)(大宝二・四・十三)諸国(3)(慶雲三・十・十二)摂津(4)(同)山背(5)(和銅元三・二十七)姓(6)和銅七・六・十四)姓(7)(霊亀二・二・十)出雲〈果安〉(8)(養老七・十・二十三)大倭(9)(神亀元・正・二十七)出雲〈広嶋〉(10)(神亀元・十・十六)紀伊(11)(神亀三・二・二)出雲〈広嶋〉(12)(天平元・三・二十七)紀伊ーー〔天平五・二・三十、出雲風土記撰進〕ーー、(13)(天平五・六・二)多[ネ執]後(14)(天平十・二・十九)出雲〈広嶋〉(15)(天平十四・四・十)伊豆(16)(天平十八・三・七)出雲く弟山〉(17)(天平十九・三・三)尾張(18)(天平勝宝元・閏五・二十)飛騨(19)(天平勝宝二・二・四)出雲く弟山〉(20)(天平勝宝三・二・二十二)出雲く弟山〉(21)(天平宝字元・閏八・八)吉備(22)(天平宝字八・正・二十)出雲く益方〉(23)(天平神護元・十・二十二)紀伊(24)(神護景雲元・二・十四)「出雲く益方〉(25)(神護景雲元・九・二十三)備前(26)(神護景雲元・十二・八)武蔵(27)(同)陸奥く大〉(28)(同)陸奥〈小〉(29)(神護景雲二・二・三)相模(30)(神護景雲二・二・五 )出雲く益方〉(31)(神護景雲二・二・十八)飛騨(32)(神護景雲二・六・六)伊勢 (33)(同)常陸(34)(同)美濃(35)(同)上野(36)(神護景雲二・閏六・八)姓(37)(神護景雲三・十・二十九)大和(38)(宝亀元・四・朔)姓(39)(宝亀二・正・二)姓(40)(宝亀二・二・九)因幡(41)(同)因幡(42)(宝亀二・閏三・二十二)伊豆(43)(宝亀二・十一・二十八)因幡(44)(宝亀二・十二・十四)因幡(45)(同)因幡(46)(宝亀四・九・八)出雲〈国上〉(47)(宝亀五・二・二十三)因幡(48)(同)因幡(49)(宝亀七・四・十九)因幡(50)(宝亀十一・十・二十二)因幡(51)(延暦元・八・二十六)因幡(52)(延暦二・三・十三)丹後(53)(延暦二・十二・二)阿波(54)(同)飛騨(55)(同)飛騨〈前項と一連〉(56)(延暦四・正・九)因幡(57)(延暦四・正・二十七)海上(58)(延暦四・二・十八)出雲〈国成〉(59)延暦五・二・九)出雲〈国成〉(60)(延暦七・六・七)美作(61)(同)備前(62)(延暦九・四・十七)出雲〈人長〉(63)(延暦九・五・八)紀伊(64)(延暦十・三・六)大和(65)(延暦十・四・一)駿河(66)(延暦十・六・二十五)因幡(67)(延暦十・九・十八)讃岐

[ネ執] は、袮*(ね)の旧字。禾編に[勢]の力無し。ユニコード8939


(三)日本書紀の中の「国造」の事例
(1)(宝鏡開始)武蔵〈遠祖〉(2)(同)茨城〈遠祖〉(3)(神武即位前甲寅、十・五辛酉)菟狭〈祖〉(4)(神武二・二・二乙巳)倭(5)(同)葛城(6)(孝元七・二・二丁卯)筑紫〈始祖〉(7)(同)越〈始祖〉(8)(景行四・二・十一甲子)讃岐〈始祖〉(9)(景行四・二)美濃(10)(景行十二・十二・五丁酉)火(11)(景行十三・五)日向〈始祖〉(12)(仁徳十六・七戊寅朔)播磨〈祖〉(13)(履中六・二癸丑朔)讃岐〈始祖〉(14)(允恭二・二・十四己酉)闘鶏*(15)(允恭四・九・二十八戊申)諸国造(16)(允恭十一・三・四丙午)諸国造(17)(雄略二・十・六丙子)大倭(18)(同)国造(19)(雄略七・八〈註〉)吉備(20)(顕宗二・三・二上巳)国造(21)(継体二十一・六・三甲午)筑紫(22)(安閑元・四癸丑朔)伊甚(23)(同)同(24)(同)同(25)(安閑元・閏十二)武蔵(26)(同)同(27)(同)同(28)(同)同(29)(欽明十五・十二)筑紫(30)(同)同(31)(欽明二十三・七)倭(32)(敏達十二・七丁酉朔)火葦北(33)(同)紀(34)(同)紀(35)敏達十二・四・三戊辰)火葦北(36)(推古十・二己酉朔)国造(37)(推古十二・四・三戊辰)国造(38)(皇極四・六・十二戊申)国造(39)(孝徳即位前乙巳)国造(40)(大化元・八・五)国造(41)(大化元・九・十九甲申)国造(42)(大化二・正・甲子朔)国造(43)(大化二・二・十五戊申)国造(44)(大化二・三・二甲子)国造(45)(大化二・三・十九辛巳)国造(46)(大化二・三・二十壬午)国造(47)(大化二・三・二十二甲申)国造(48)(大化二・八・十四癸酉)国造(49)(大化三・四・二十六壬午)国造(50)(白雑元・二・九戊寅)穴戸(51)(白雄元・二・十五甲申)国造(52)(斉明五)出雲(53)(天武五・四・十四)国造(54)(天武五・八・十六)国造(55)(天武十・七・三十)国造(56)(天武十二・正・十八丙午)国造(57)(朱鳥元・九・三十丁卯)国造(58)(持統元・十・二十二壬子)国造(59)(持統六・三・十七壬午)伊賀(60)(同)伊勢(61)(同)志摩
                         〈一九八七・二・十五稿了〉

鶏*の別字。鶏(にわとり)の鳥の代わりに、隹(ふるとり)編。ユニコード96DE


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