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「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌 解説として

真実の近畿 ー3世紀以前・以後(電子書籍) 解説として


市民の古代第12集 1990年 市民の古代研究会編
古田武彦講演録1

播磨風土記

古田武彦

はじめに

 三十代のはじめを過ごしたこの神戸の地で講演をさせていただくということで、非常に楽しく存じながらまいりました。先ほどから当時のなつかしい方々とお会いしていたところでございます。
 さて、今日はですね、先ほどご紹介がありましたように、お話し申し上げたい件がたくさんあるんですが、時間が限られていますし、またあした大阪で行われる講演会は、ぜんぜん違うテーマですので、今日は、ここに掲げました『播磨風土記と神話の誕生』の問題です。これは二つのテーマなんですが、この二つをしっかりと話させていただくと、そして時間の余裕があれば、また他のテーマにも触れさせていただくと、こういう形でやらせていただきたいと思います。
 最初の『播磨風土記』の問題は、この前の第一回の時に話せなかったことというふうにご紹介があったんですが、そうではありますけれども、じつは新しくですね、先々週この資料を作っていて「あっ」という発見がありまして、それを今日早速話させていただく、そういう意味で、私にとっては一番新しいテーマとなりました。後半の『「人」話の誕生』という問題は、今年の始めから取り組んでいる問題で、私にとって恐らくライフ・ワークになるだろう、是非ライフ・ワークにしたい、とこう思っているテーマでございます。それをここで皆さまにお聞きいただきたい、と、こういうわけでございます。

『播磨風土記』の史料性格

 さて、この前、『播磨風土記』について、限られた時間で若干触れさせていただきました。それは何かと申しますとですね、『播磨風土記』というのは非常にすぐれた史料だと思います。『風土記』といっても、いろいろありますが、皆その性格が違うんですね。名前は同じ『風土記』でも、『風土記』の内実は、国々によって、まあ全部と言っていいくらい、それぞれ性格が違うわけなんですね。その中には非常に古い伝承をよく残しているものもあるかと思えば、逆に、比較的新しく、いわば“作りあげられた”ものもある。いわゆる「近畿中心主義の目」で書き直された、全体として作り直された、まあ、改竄(かいざん)と言いますか、そういう改竄の結果を示しているものもあるといった風に、いろいろな性格があるわけでございます。
 どういう点かと具体的に言えば、『出雲風土記』は非常に古い、大国主に当る、大穴持中心の説話が語られている。『常陸風土記』もなかなか、現地の面白い状況が反映していると同時に、九州王朝、また近畿天皇家両方の人々が顔を出しているのです。次に、九州の肥前と豊後、こういうところの『風土記』は、古くからの九州王朝の伝承を近畿天皇家中心に、簡単に言ってしまえば「景行天皇」を中心に書き直しているというような性格のものになっている、といった風に、いろいろあるわけです。
 ところが、それらに対して『播磨風土記』というのは、今あげたどれとも全く違うんですね。独特の性格を持っている。それは非常に古い、『古事記』『日本書紀』にない、原初的な史料、それも、これは他の風土記にはないことなんですが、つまり、天皇のことに触れながら ーー『古事記』『日本書紀』は当然天皇のことに触れているんてすがーー それより古い、原初的な、より本来の伝承を示している。つまり近畿天皇家に関して『古事記』『日本書紀』より、『播磨風土記』の方が古いという、第一等史料であるという性格を持っているのです。これは今までの学者にとっては注意されていなかったところであるように私には見えているんです。

『記・紀」にない“宇治天皇”

 その例をこの前あげさせてもらいましたが、「宇治天皇」というのが『播磨風土記』に出てまいります。これは応神天皇の皇太子、菟道稚郎子であるということは知られているわけです。ところが『古事記』『日本書紀』では「宇治天皇」という“ことば”がないわけです。菟道稚郎子は出て来ますけど・・・。じゃあ、それを「宇治天皇」として扱っている『播磨風土記』と、たんなる「皇子」として扱っている『古事記』『日本書紀』と、どっちが本来の姿かと言うと、答えは『播磨風土記』、つまり本来は宇治天皇であった、と。
 これは伝承が示しますように、応神天皇の遺言として、長男でなくて、末の方ですけれども、菟道稚郎子に後を継がせたいと、こういう遺言をして亡くなられた、と書いてありますね。その後、この菟道稚郎子と、のちの仁徳天皇(お兄さんですが)、その両方共、勢力を持っているように見えたんでしょう。例の、漁師が魚をどっちへ持って行っていいかわからなくて困った、という有名な話があるわけです。ということは、もう菟道稚郎子は、実際は天皇の位についていたわけですね。にもかかわらず『古事記』『日本書紀』がそう書かないのは、結局仁徳が、自分ーー仁徳にとってさらに兄さんがいるわけてすがーー それを次々殺してしまうわけてすね。次々殺して最後自分だけ残った。そして自分が天皇になったという、こういう「仁徳」という名前とは裏腹のような行為が率直に書かれております。特に『古事記』にはそれが非常に単純明快に書かれています。
 この仁徳天皇の立場に立つとですね、どうも「宇治天皇」は困る。特に菟道稚郎子の直接(母を同じくしていた)妹(女鳥王)やその恋人(速総別王)を根絶やしに、殺していますからね。叛乱という名をつけて殺していますので、結局「宇治天皇」という存在はなかったことにして、応神天皇 ーー仁徳天皇のお父さんーー を自分(仁徳天皇)が受け継いだという形で、「正統的な伝承」をさせたわけですね。
 そういう「形式上の」というか、「仁徳天皇側の都合」に立った伝承を反映したのが『古事記』『日本書紀』である。ところが、実際は、歴史事実としては、菟道稚郎子は当然何年かわかりませんが、ある期間「天皇」であったと。それが父の応神の意志でもあった。そうしますと、その宇治天皇という名前は、勝手に後世造作したものではなく、本来の歴史事実そのものを反映している表現であると、こう考えるべきであろうと思います。

「市辺天皇命」について

 もう一つは、「市辺の天皇命」。天皇命となっていますね。これも『古事記』『日本書紀』にない表現である。これは先ほどの「宇治天皇」とは違います。なぜかと言うと、履中天皇の皇子であって、その直前に書いてある意奚(オケ)・袁奚(ヲケ)つまり仁賢・顕宗、顕宗が弟で仁賢が兄さんですね、弟が先に天皇になりました。この二人のお父さん(市辺の忍歯王)ですね。雄略天皇にこのお父さんが殺されて、馬のかいば桶の中に埋められた。それで危険を感じて二人の子供は播磨の国に逃げた。それで宴の時に弟の袁奚、これが名のり出て再び天皇の位置に戻った。再び大和に戻って天皇になった、という有名な話がございます。
 ところがこの時、その顕宗が兄さんに「雄略天皇は自分の父親の仇敵である。だから、あの天皇の陵を毀して来て下さい」と、こう依頼する。と兄さんは「わかりました」と言って、すぐ帰って来た。「えらい早いですね」と言うと、「陵墓の傍の土をちょっと掘りこぼって来ました」「そんなことじゃ困りますし「いやしかし、いやしくも天皇になった方です。それを私達兄弟の怨みで陵墓を毀したとしたら。われわれは気持ちがいいけれど、必ず国民はこれを非難し、その行為を正当でないと考えるでしょう。だからわれわれの気持ちを現わすものとして、そのようにして来ました」「ああそれなら、兄さんがそうおっしゃるのなら、結構です」と言ったという、有名な話があるわけです。
 この意奚・袁奚二人の皇子のお父さんが「市辺の天皇命」ですね。「天皇命」という形で書かれているわけです。
 これはですね、先の宇治天皇とは違って、実際は、このお父さんは天皇にはならなかったわけです。しかし、当然雄略のやり方 ーーこれも、雄略が次々兄弟を殺して、次の天皇への候補者を殺して行くわけてすがーー これがなかったら、当然、父は天皇になるべかりし人であったと。二人の子供はそう思っているわけです。
だからこれに対して、「天皇命」と。これは「命」がついているのが意味があるわけです。さっきの「宇治天皇」と違って、「市辺天皇命」と、こうなっている。
 と言うことは、要するに追号のようなものであって、「天皇になるべかりし霊(みたま)」といいますか、亡父という意味の称号である。こういう言い方をするのは、意奚・袁奚、つまり二人の皇子、なかんずく、ストレートに感情を爆発させようとした、弟の顕宗なんかは、当然そういう「表現」をしたのではないかとこう言えるわけなんですね。『播磨風土記』にはその表現になっている。『古事記』『日本書紀』はもちろん、そんな表現はないわけなんですね。
 こう見てまいりますと、「市辺天皇命」という表現は、決して偶然ではなくて、やはり『古事記』『日本書紀』より古い。要するに顕宗・仁賢時点の、追号といいますかその形が表現されている。
 この点は、その意奚・袁奚二人が逃げ隠れていったのが、播磨の国である。播磨のどこかというのが、まだはっきり判明しておりませんけれども、播磨の国であるということと、『播磨風土記』に本来の追号が出ているということとは、恐らくどこかで関係があるだろうということを申したわけでございます。
 こういう姿を見ていくと『播磨風土記』には、『古事記』『日本書紀』より、より原初的な、本来の歴史事実に近い、表記、表現が現われている。
 以上、二つの例でわれわれは確認したわけです。“たまたまこの二つだけが古くて、あとは全部新しい”というようなことは、理屈では言えますけれど、恐らくそうではない。他のいわゆる『播磨風土記』の史料もですね、やはり『古事記』『日本書紀』より以上に、要するに本来の伝承、歴史事実に近いもの、それが語られているという、これはいわば『播磨風土記』の史料性格と判定する、リトマス試験紙に二回かかった、その二回とも、どうも『古事記」『日本書紀』より、より本来の伝承であるという性格をもっていた。そうなれば『播磨風土記』の史料は、一般に『古事記』『日本書紀』より、より古いのではないだろうかという、こういう暗示を与えられるわけでございます。

万葉集との対応

次にもう一つ面白いテーマがございます。それは、例のその万葉の中に有名な歌があります。

香具山は 畝傍を愛(を)しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

反歌として

香具山と耳梨山と闘(あ)ひし時立ちて見に来し印南(いなみ)国原

 これは要するに、その香具山と、耳梨山が喧嘩をした。妻争いをやったと。この解釈はいくつかありますが、要するに相争ったと。その時に、播磨の印南国原が見物に来たという歌なんですね。
 ところが、これと対応する話が、じつはやはり『播磨風土記』にあるわけです。出雲の神様(阿菩の大神)がですね、この仲裁にやって来て、それで播磨に、この平野の一画、上岡の里に来た時に、もうその大和三山の争いが止んだということを聞いて、「じゃ、もう行くのは止めた」と言って、舟をひっくり返してしまった。その舟が、この山になっているという、有名な説話があるわけです。
 というようなことで、この説話においてもですね、万葉の歌と相対応する。この大和三山の妻争いという説話は、やはり『古事記」『日本書紀』には出ていないわけです。「神代」の話であるにもかかわらず、出ていない。
 これに対しては、私はすでに分析を書いたことがございました。『古事記』『日本書紀』の神話伝承というのは、要するに、天皇家が、自分の統治の由来をなす神話を語ると。いわば、「自己コマーシャル」している。そのために、記載されたのが『古事記』『日本書紀』の神話であるわけです。決してそういう目的抜きに、一般的に、「神話・伝承の採集者」めいた、好奇心から神話を集めた、といったものではないんですね。目的がはっきりしているわけです。そのことは、言い替えると、自分の身元を明らかにするための神話以外の神話は、断固カットした。初めから載せるつもりは一切なかった、ということになるわけです。
 具体的には今の歌なんかは、中大兄(天智天皇)の歌です。中大兄が、弟の天武と、一人の額田王を争ったんではないかと言われています。したがって「大和三山、妻争い」の話は、天智が知ってる神話ですから、天武も知っていたはず、天武が知っていれば持統も知っていたはず。元明、元正も知っていたはず、です。ところが、その天武から持統、元明、元正の間に作られた『古事記』『日本書紀』に、いっさいこの説話は姿を現わさない。これを見ましても、たとえ知っている神話でも、「掲載」しない。天皇家の身元を、その由緒を示す、九州伝来の神話だけを掲載する。こういう断固たる方針に基づいていることがよくわかるわけです。
 そうすると、その『古事記』『日本書紀』に掲載されていない、大和からそして播磨、そして出雲に伝わっていた神話が、別にあった。『古事記』『日本書紀』の神話と、全く別個に存在した、ということを意味しているわけですね。それを『播磨風土記』は、ズバリ表現している、と、こういうことになるわけです。
 私がかつてこれを書きました『古代は輝いていた』(朝日新聞社)。今(朝日文庫)に入っているんですが、その第二巻に書いていますが、そこで扱った時には、じつはこの万葉の歌がこの争いの始まりであった。そして出雲の阿菩の大神が播磨の国にやって来て、その争いが終わったことを知って、「もう止めた」と言ったと。というのは、「近畿大乱」という名前を仮りに使いましたが、「近畿大乱」の出だしと尻尾の終わりのところで、中間は残念ながら全部抜け去って、ないんだと。だからまあ、“大和風土記”なんていうのがあれば出て来ただろうが、残念ながら、ないと。こういう形で理解していたわけです。

神々の出現

 ところが、これは正しくなかったんですね。私は間違っていました。あるいは、認識の目が不足していたわけです。それも大不足していたわけです。なぜかと言いますと、この『播磨風土記』を見ますとですね、『播磨風土記』の一番大きな内容は、先のような天皇の名前が次々と出て来て、天皇の逸話が書いてあることもさることながらそのもう一つ、より大事な事は、つまり、神々の話がたくさん出て来ることが特徴である。
 その中で、播磨の主神と見られる伊和大神 ーーこれが二十四回、例の出雲の大国主命に当るといわれる大汝(オオナムチ)命が十二回。それで今度は、新羅から来たと言われる天日槍命ーー これが十一回。それて三輪山の大物主と同じであるとされている葦原志挙乎命が九回、それで今度は、讃伎日子神が六回、これがいわばナンバーファイブなんですね。
 この中で、この、大汝命は、現われる時は決して戦闘場面には現われない。必ず、巡行みたいな形で現われて歓迎されて去って行くわけです。これは子供の事代主神も出て来ますが、同じなんです。それで今度は、第五番目に出て来る讃伎日子神はですね。これはなぜか、播磨へ来ていたが、追い払われて、讃岐へ逃げ還ったという形で、出て来るわけです。これもやはりね、軽視は出来ないんですね。
 なぜかと言うと、弥生時代の瀬戸内海を見ますと、讃岐が中心なんですね。金属器が一番たくさん出て来るのが讃岐なんです ーー香川県です。ところが、古墳時代になると、中心は明らかに山陽道の方ですね。吉備、播磨の方に古墳時代の中心が移ってしまう。そういう、瀬戸内海の弥生は讃岐が中心だったが、古墳時代になって讃岐はその中心たる位置を失っていくと。こういう現象があるわけです。これはもう考古学的な事実から見ると、そう考えざるをえないわけです。
ところが、ここにですね、讃伎日子神が播磨に来て威張っていたが、結局移り変って、追っ払われて逃げ還った。こういう神話は、なんとなく今の考古学的な事実と対応する感じである。これも私は軽視できないな、と思っているんです。
 さて、その後、伊和大神 ーーこれが播磨の主神ーー と新羅からやって来た天日槍命、それに大和の主神である葦原志挙乎命ーーつまり大物主神てすね。この三者は、なんと組んずほぐれつの大乱を展開しているわけですね。それも、個人三人が相撲を取るわけではなくて、皆それぞれが軍勢を連れて、この播磨かいわいを所狭しと勝ったり負けたり、押したり引いたりですね、チャンチャンバラバラやり続けている姿が、『播磨風土記』の主な、大体の話なんです。地名説話みたいになっていますが、その中で一番多くを占めているのが、この類の話なんです。これはもう皆さん『播磨風土記』をお読みの方は百もご承知のことですね。

近畿大乱

 考えてみますとですね、これこそは、じつはあの「近畿大乱」ではないか。つまり大物主神というのは、大和の主神ですから。大和だけではない。おそらく大和と大和界隈、河内とか摂津とか、そういうようなところをですね ーー和歌山県も入るかも知れませんがーー そういうところを含んでの主神です。それに対して、伊和大神。播磨にもたくさん神様がいます。もうありがたいことに、『播磨風土記』には、神々がたくさん書いてあるんです。これも『播磨風土記』の、他の“風土記”にない、断然たる長所てすがこのたくさんの神々の中の、いわは主神が、伊和大神のわけです。伊和大神の勢力範囲は、播磨全土、いや播磨より、もっと大きいかも知れませんね。
 それに対して、天日槍命というのは、これは『古事記』『日本書紀』に伝える天日槍命とはえらい違う。『古事記』『日本書紀』に伝える天日槍命はですね、たった一人でというんですか、奥さんに逃げられて泣き泣き難波へ追っかけて来たと。しかし、どうも奥さんに相手にしてもらえた形跡はないですね。なにかしらだらしなく、日本列島に居ついたと。はじめ琵琶湖の方へ行って、後、丹波の方へ行って居ついた、と。こういう話ですね。
 これはこれで、なかなかいい話でしょう。もっとも男としては、何だか情ない姿ですけれども、まあ哀れを誘う話なんですが、しかし『播磨風土記』の方の天日槍命は全然違う。大軍を率いて、所狭しと播磨かいわいを暴れまくっているわけです。そして大物主神と戦うんですから、近畿の大和にも攻め込んでいるんじゃないですかね。そういう形で描かれているわけです。
 ところが、大体従来の人は『古事記』『日本書紀』絶対主義でしょう。戦前はもちろんです。戦後だって、われわれの頭はそのままで、あまり頭がクリーニングされていません。“『古事記』『日本書紀』の記事に合っていれば何となく信用するが、合わなければいかがわしい”とね。“これはにせものだろう”と見るくせがついている。あれがいかんわけです。考えてみて下さい。天皇の名前も、『古事記』『日本書紀』にはない天皇名が出てきている。しかもじつは『古事記」『日本書紀』の方の姿が、近畿天皇家の利害で書き直された姿である。これに対し、『播磨風土記』の方が本来の姿であるという、二つのリトマス試験紙で二つ共そういう姿を示したわけです。
 ところが、天日槍命についても、明らかに両者矛盾してますよね。そしたらこれも『播磨風土記』の天日槍命の方が、本来の天日槍命なのではなかろうか。『古事記』『日本書紀』の方から、先に、われわれの頭のコンピューターに入っていた「天日槍命のイメージ」は、だいぶ“書きかえられた”ものではなかろうか。こう考えていくのが、本筋になるわけです。ところが従来『播磨風土記」のことを扱っている学者は、そういう形では扱っていないのではないですかね。これはやはり、歴史に対する見方が、まだ、戦後本当の正しい史料批判に立った物の見方になっていないと。生意気なことを言うんですが、私もかつては一緒だったんですが、そういうふうに思うわけです。

朝鮮半島との交戦

 この問題も、考えてみますと、面白い問題がたくさんございましてね。例えば、『三国史記』を見ると、 ーー朝鮮半島の『日本書紀』といわれる『三国史記』ですねーー これを見ると、倭人がしょっちゅう攻めて来てますよね。百回近く倭人の記事が出て来て、その八割方は倭人が攻めて来た記事です。まあ、お互いに使節を交換したという類の記事も若干はありますがね。それを除けば、八割〜九割くらいは、倭人が攻めて来た。“倭人・悪者侵入譚”ですよね。
 ところが、なぜか、新羅の人が日本列島へ攻めて来たという話はゼロ。あれは、不思議だと思わない方が、不思議ですよね。お近くさんで、相手は南極から来るわけじゃない。こちらが攻めて行けば、向こうからも攻めて来るのは当り前じゃないですか、人間同士だから。
 あれでは、よっぽど片方が攻撃精神ばっかりの島で、片方がよっぽど「攻撃しない」精神、「やられる」精神の人ばっかり住んでいるということになります。そんなことは私は信じませんがね。あれだけしょっちゅうやられていれば、では、今度はやっつけに行こうという事件があっても不思議はないと思うんですが、私の考え非常識でしょうかね。
 ところがなぜか、「その話は出たが、止めた」という話以外、全くない。じゃあ、この、「全くない」ということが疑われなかったのはですね。『古事記」より、『日本書紀』ですが、『日本書紀』というのをみると、これも日本から朝鮮半島へ行ってばっかり、やっつけてばかりであって、勝った、勝ったというようなことが書いてあってですね、朝鮮半島から攻めて来られて負けました、という話は全然ないですね。だからなんか、私は言うんですが、ま、ちょっと「サディスト」が書いた歴史書と、「マゾヒスト」が書いた歴史書と、この二つがなんとなく一種の対応を示しているように見えているので、われわれは「満足」というか、日本人側も、朝鮮人側、韓国人側も、なんとなくそれを“疑わず”にきた。
 しかし、人間が、片方はサディストばっかりの集団の島、片方はマゾヒストばっかりの集団の半島、なんてことは、私はありえるとは思わない。私の人間としての理性、感覚では信じられない。ということは、今の若い人じゃないけど、「ウッソー」と、こう言いたくなるんですね。
 ところがここでは、まさに、天日槍命という新羅の王子がいるじゃないですか。これが大軍を率いて、少くとも播磨ですが、恐らくは播磨だけでストップして、“あとは止めます。大物主神と戦うにも、大和へ入るのは天皇家に遠慮します”なんて言うはずはないのです。恐らく近畿を土台にして、大争乱を捲き起している。とすると、これは『古事記』『日本書紀』にないからいんちきだ、という見方はやはりちょっとかたよっているのではないですかね。
 それは今の「サディストとマゾヒストと両者ピッタリ」の図を頭のコンピューターに差し込まれて、小学校か中学校か高校ぐらいの時に差し込まれて、それに対する批判も疑いも持たずにきた、哀れなる人間コンピューターだから、この『播磨風土記』の方の天日槍命説話を疑う。この新羅側の「侵入大戦闘譚」を疑うわけです。人間としての理性から見れば、逆です。こっちから倭人が攻め込んでいるのは嘘じゃない、と思いますよ。『三国史記』はそんな嘘を書く本じゃない。カットはするけれど。カットはするけれど「嘘を作って書く」という性格は、私の見た範囲では『三国史記』には見当りません。
 だからあれは本当だと思う。あれが本当とすれば、それとは逆の、二分の一か三分の一か知りませんけど、向うからこっちに攻め込んで来た話があっても、べつに不思議はないと思います。それを、『播磨風土記』は大量に書いている。それでしかもこれはあした大阪の方の会て出ますけれとも、いわゆる『二中歴』 ーーこれは今日も恐らくおいで戴いている丸山晋司さんが、非常に鋭い論文を、今の『市民の古代』(11集)に書いて下さって、私としても非常に喜んでいるわけですが、そこで問題になっている『二中歴』ですね、ーー それには、新羅の軍勢が日本列島へ侵入して来ていた、六世紀の後半。そして筑紫から播磨まで、この播磨まで焼き払った、と。こういう、短いけれど、ドキッとするような記事があるんですね。これも従来の日本の歴史では、全然そういうことを知らん顔をしてきたんてすが、実際は ーー平安時代に成立したと私は思うんてすが、ーー その『二中歴』に書かれているんですね。少くともその基になった本が平安時代であったことはまず間違いない。奈良かも知れませんが少くとも平安とみて間違いないんですが、その『二中歴』にそういう記事が出ています。
 というようなことでね、これも『播磨風土記』を、もう一回はじめから軽視しないで『古事記』『日本書紀』で塗り固められた頭で読まないで、あらためて本気で読まなきゃいけない。こういうふうに私は思っているわけでございます。

播磨神話の構造

 神話問題をまとめますと、播磨神話の構造として、まず第一層は、土地の神々、大体一回か二回出て来る神さんが圧倒的に多いんですが、土地の神々がたくさん名前が出ている、このことが、何よりも『播磨風土記』の魅力です。他の「風土記」では、そんな神様の名前が出て来ません。『出雲風土記』は、わりと出て来ますが、あれはそれなりの体系で出て来ます。出雲と相伯仲するといいますが、また出雲のように整理されていない、たくさんの神々があって、今後の研究者を待っています。恐らく現地の現在の神社とか、そういう播磨の国の伝承と対応させて、本気で研究すべきものです。私みたいに播磨に今住んていない人間には ーーかつては神戸に住んておりましたが、また私の妻は姫路の生れですがーー 今は住んでいない人間としてですね、ぜひ皆さんに、土地の神々との対応の研究をお願いしたい。それはたんなる民俗学の研究ではなくて、日本の重要な、新しい歴史の基礎的な研究になるだろうと思います。
 第二番目が出雲の時代、出雲の大汝命が支配した、いわば「出雲のもとの平和」といいますか、そういう時代。だから『播磨風土記』に、大汝命と事代主神が現われる時は、いつも戦争はないわけです。これもやはり、リアルな姿であると思います。そしてその、第三番目が統一戦争の時代、こういうように読んだのですが、大物主神と天日槍命と伊和大神が、組んずほぐれつ大戦闘を行う時代が、この『播磨風土記』の一番主たるテーマになっている。それが従来の日本古代史には全然すっぽり抜け落ちているわけです。これを「歴史事実」とすることを忘れている。
 その理由は唯一つ。『古事記』『日本書紀』にないから。それだけの、頑固なーー というと悪いんてすが、まあ私の言いたいことを理解していただくために、いささかオーバーな表現を許していたたけれはーー たんにそれだけの、イデオロギー的な理由によって、無視し軽蔑してきたわけです。

『常陸風土記』の新しい視点

 さて、この問題について、私が新しく発見したテーマに移らせていただきます。というのは、先ほど、天皇の名前をあげました表の中で、神功皇后が九回、と書かれておりますね、ところが、そこに私は「?」をしている。それは、私が「?」に気がついたのではなくて、ある方が ーーこれは平田英子さんという主婦の方なんてすが、群馬県の太田市在住の熱心な方です。私が新宿の朝日カルチャー、あるいは立川の朝日カルチャー、いつもおいでになるんですね、その方は月二回来られますが、片道三時間半かかるんですね。だから帰りも三時間半かかるんですが、それで、カルチャー二時間、いつも出て来られる方なんてすがね。ーー この方がある時、私にこういう質問をされたんてす。 ーー先ほどの表をプリントて使った時にね。そのあとで私のところへ聞きに来られて、「あのう、大帯日賣命というのは、あれは本当に神功皇后と考えていいんでしょうか」。もちろん瞬間私は“へえ?”“あっ?”と思った。私は同じだと思ってました。だからその時渡した表には「?」はなかったのです。
 ところが、なぜ、そういう疑問を持たれたかというと、例の『常陸風土記』を私がやった時にですね、あそこに「倭武天皇」というのが出てくる。と、あれはもういわゆる岩波の『日本古典文学大系』その他、すべて私以外のすべての人が「ヤマトタケルノミコト」のことだ、と注釈しているわけです。みんなそろってそういう扱いをしているわけです。ところがこれは、おかしいのではないか。なぜかというと、『古事記』『日本書紀』が示すところの「ヤマトタケル」、特にリアルなのは『古事記』の方だと私は思うんです。『日本書紀』の方に東北あたりまで出向いている日本武尊というのは、他の人の業績を日本武尊の名前ととり替えて書いたもの。ちょうど九州で、筑紫の王者「前つ君」の九州統一譚を、景行天皇の名前にとり替えて挿入しているのと、同じ手口がそこに現われているのではないか、とこう考えましたので、『古事記』に現われている倭建命が本来の伝承であろうと、私はそう判断したわけです。
 ところが、それとくらべてみますと、今の『常陸風土記』の倭武天皇は、なぜか常陸の国を、あちこちと万遍なく回っているわけです。それだけではなくて、あの奥さんの「大橘比売命」ですね、彼女がやって来て一緒にくっついて回っているわけです。舟遊びなんかするわけです。今で言うとボートに乗って遊ぶ、というような、そういう光景が出てくるわけです。ところが、これをその注釈では、「弟橘比売命」のことだ、と書いてあるんです。「弟橘比売命」はご存知のように東京湾で海に飛び込んて死んだという。 ーーここではそう言っても皆さん、文句は言われないでしょうが、東京の講演会でこういうことを言いますとね、「先生、それは違います。東京湾じゃない。あれは今の相模水道のところで東京湾じゃありません」。違うんですね、首根っこのところだから。あそこは東京湾と言ってはいけない。東京の人は、あの辺には精密ですから、きびしいんてす。ーー まあ、なんせ、あそこで飛び込んで死んだんですね。これは『古事記』『日本書紀』ともにあそこで死んでいるわけです。なのに、死なずに、常陸の中を舟遊びしたりして、遊び回っていたら、困るんですよ。
 だから、結局結論として、これはヤマトタケルのことではない、と、私は判断をせざるをえなかった。本人の行動も然り、奥さんも然り。それで他に、弟橘比売命以外にそれに当たるような奥さんがヤマトタケルにいるか。もちろん、ヤマトタケルの奥さんの名は、『古事記』『日本書紀』に、たくさん出てきますが、ないわけですね。と、これがヤマトタケルの話ではない、とすると何か。私は非常に苦しい思いをしながら、長い間かかって、半歩づつ、三分の一歩ぐらいずつ前進したんですけれど、結論として、これは筑紫の倭王武ーー「倭の五王」というのは、九州王朝の主であるという、これはもう、『失われた九州王朝』で成立している論証ですね、私にとっては、その最後の「倭王武」ーーこれが「倭武天皇」であるという、私自身に思いがけない結論へと引っぱられて行ったのです。その間に、「倭」という字には二つの意味がある。本来は、「倭」はチクシを呼ぶべき字である。現地音はチクシ、われわれが言うのはツクシですね。それに対して、“ヤマト”とこれを呼びだしたのはぐんと新しいとね。七世紀の半ばです。天智天皇の最後の年(六七一)ですね。それから後、万葉集でも「倭」を「ヤマト」と読むことが始まると。これはべつに私の発見ではなくて、今日も来ていただいている中村幸雄(「万葉集『ヤマト』考」『市民の古代』8集等 中村幸雄論集の電子書籍に収録)さんが発見されたテーマに、私も導かれたわけでございます。
 そういうことを私が申しましたので、平田さんはそれをお聞きいただいて、『播磨風土記』の場合も、九回神功皇后が出てくるというのは、従来のすべての人の注釈者、学者の考え方によっています。ところが、じつは、その中で《息長日女命》あるいは、仲哀天皇の奥さん、という形で出てくるのもある。これはもう疑いもなく神功皇后。ところがその中で、そうでない名前の《大帯日賣命》という名前が、三回〜四回出てくるんですね。で、この《大帯日賣命》も、神功皇后だと、まあ今までの注釈では全部、そう扱っています。私もそう思って「計算」していたのです。「本当にそうですか」と、こう聞かれるとドキッとした。「そうですね、これは確かに考えてみる必要がありますね」と言って受け答えしたんですが、調べてみるとどうもやっぱりそうじゃない、平田さんの指摘通りだった、という結論になっていかざるをえなかったんです。というのはですね、今回整理してみて、もう当り前すぎまして、こんなことをなぜ今まで気がつかなかったんだろうと、こう思ってきたわけなんですが、それはいわゆる先々週この資料を作る時にですね、じつに愚鈍ながらやっと気がついた話があるわけです。
 と言うのはですね、この1・2は、文句なしに神功皇后のケースなんです。1は仲哀天皇の皇后、という形で書いてある。2はそのあとですね。〈息長帯日女命〉と書いてある。だからこれは問題ない。問題は4ですね。それは

言擧阜(ことあげをか) 右、言擧阜と称(い)ふ所以は、大帯日賣命(おおたらしひめのみこと)韓國(からくに)より還り上りましし時、軍を行(や)りたまふ日 此の阜に御して、軍中(いくさびと)に教令(のりごと)しまたまひ

 和語ばかりで読んでいるとめんどうくさいですから、音で読みますが、

軍中に教令したまひしく、「此の御軍(みいくさ)は、慇懃(ゆめ) 言擧げな為(せ)そ」とのりたまひき。故(かれ)、號(なづ)けて言擧前(ことあげさき)といふ。

 こういうふうになってますね。ところがですね、この“韓國より還り上りましし時”というのは、その右側に原文がありますね、漢文の。そこに同じように「大帯日賣命 韓國還上之時」と漢文で書いてある。と、ああ、原文がこうなのかと、皆さんも思われるでしょう。私もそう思って読んできた。
 ところが、そこに下に1と書いてあるでしょう。番号が打ってあるでしょう。その下の1、どう書いてあるかと言うと、「韓國還上」というこの4字ですね、これは原文にはない。古写本にはないんだと。ところが、文意から私が(「私が」というのは“岩波の『日本古典文学大系』の校注者ーー学者秋本吉郎氏。)が補った。だから原文を書き直した。それを読み下した、とこう書いてある。こんなの“あり”ですか。皆さんも恐らく播磨の方々でも、始めてじゃないですか、これに気づかれたのは、ね。これ、読み下しの通りだと思ってこられたのではないですか、大体。これ全然こんなのは原文、古写本にない文面なんです。それを現代の二十世紀の学者ですね、「文意から恐らくこういう意味だろう」というので、四字を ーーたいへんな四字てすよね、韓國から還って来たということはです。ーー その四字を補っておいて、しかも原文に補っておいて自分で読み下した、こういうものを皆さんは今まで“読まされて”きた。私も、読まされて、気がつかずにきてたんですから、まあ、あんまり人のことは言えません。私、自分が一番“目のない”人間なんですね。
 もちろん、〈大帯日賣命》は別のところで「韓國へ行った」という話はあるんですよ。だから、韓国に行ったこと自身は嘘ではないんですがね。しかしこの文章には「韓國云々」はないんですよ、はっきりと。それをこの文章にもやはり韓国を入れて解釈しよう、というんで学者が作った文章、正に「改竄」もいいとこなんです。で、そうすると、こういうのは私の方法論では ーー誰の方法論だってーー 当然のことだと思うのてすがこういうのを補うのは、これはやりすぎだと。いかに学者という肩書を持っていたって、こんなことをやれる資格をもつ人はない、とこう思うんです。そうすると当然《大帯日賣命》の時、とこうなりますよね。「大帯日賣命之時」、やっぱりこの学者は、これが、面白くなかったはずだと思うんです。
 なんでかと言うと「《大帯日賣命》が生きていた時」という意味に解釈すれば、何でもないようですが、しかしこの表現はですね、やはり「何々の時」という上にくる「何々」が、その地方の「第一主権者」である時に一番ふさわしい表現だと思いませんか。「昭和天皇の時」とかね。これは昭和天皇がいわば「第一主権者」だからそれはいいですよね(とくに戦前までは)。しかし、「秩父宮の時」とか「常陸宮の時」とかいうのはね、そういう使い方をしている人もいるかも知れませんけど、あんまりこれは普通の言い方ではない。常陸宮の家だけの、何かその家系図かなんかの時ならね、これはいいかも知れませんよ。しかし日本全体の歴史を言っている時に、「常陸宮の時」といった言い方は、妥当ではないですよ。やっぱり「何々の時」というのは、「この方が第一主権であられた時」という時の慣用文型であることは、皆さん、別に私がいろいろ言わなくてもおわかりでしょう。それはやはり、この編者には面白くなかったんですね。神功皇后は“奥さん”だから第一主権者ではないですよ。まして韓国へ行く前ははっきり言って「第二婦人」ですからね、あれは。第一婦人の后(大中津比売命)はちゃんと都ーー今の滋賀県だと思いますが、そこに残っている。第一婦人とその息子たちはね。そして第二婦人はまたお腹に子供がてきる前、ーーもっとも播磨の国で懐妊したか、どうか知りませんけれどもーーまたこれから生まれるんですからね。本当の若き女性、まあ今風に言えば「お妾さん」の位だったんですよ。ただ子供が応神天皇になったから、異様に神功皇后を応神天皇の時、クローズアップされたのです。さっきのケースと反対ですね。「宇治天皇」が仁徳天皇に消されてしまったみたいに、今度は応神天皇は自分のお母さんが「第二婦人」だったから、であるからこそじつは、格別な霊力を持たれた女性であった、というPRを一生懸命盛り込もうとしているわけです。で第一婦人の二人の子供は殺されますよね。猪に食われたり(香坂王)、戦争で負けたり(忍熊王)して死にます。
 要するに「神功皇后の時」という表現は妥当ではない。だからそこに別のことばを入れて、「韓國より還り上りましし時」とやれば文句ないだろうというので、見事に直してしまった。かつて私は、邪馬壹国を邪馬臺国に直したのを、こんなことをやっていいんだろうかと思ったんですが、「よかった」んですね。何処でもこういうことをやっていたんですよ。別に「邪馬壹国だけ直した」のではありませんよ。「こんなことは、他にもありふれている、せせこましく吟味しなさんな」と恐らく“見えない”けれど、私の論文(「邪馬壹国」)を読んだとき、そう思っていた学者も多かったのではないですかね、きっと。
 しかもまた、私は驚いたんですよ。「何か知らん『・・・之時』という表現は、あったなあ」と思いましてね、「ああ、あった、あった、『出雲風土記』にあった」と思って『出雲風土記』をめくったんです。そうしてみましたら左端の「・・・之時・・・」という例として、「古志の郷、即ち郡家に属けり。伊弉奈彌命・・・」ですね。「・・・日淵川を以ちて池を築造りき。その時、古志の國人等、到来たりて堤を為りき。即ち、宿り居し所なり。故、古志といふ。・・・」とこうあります。
 私は『出雲風土記』の研究を論文にしまして、これは『よみがえる卑弥呼』という題で、駸々堂から出ております。論文集がね。この中に『出雲風土記』を分析した論文が二つ三つ出てますが、その中でこれを扱って、これは『古事記』『日本書紀』の「伊邪那美神」などとは少し違って、むしろ「伊弉奈彌命」が主神であると。単独の主神であるという感じで書かれていると。だから、出雲では、伊弉奈彌命は単独の主神だった、と。だから“伊弉奈彌命の時代”という表現がされていたんだろう、と。その点『古事記』『日本書紀』では、もう必ず、伊邪那岐神・伊邪那美神、といった男女のセットで出て来る。その上、彼女が先に「阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)」を発言したから、不具(ヒルコ)が生れたんだ、という形でね、まあ、“卑しめられる”というとおかしいんですが、「男に頭を下げろ」という形で出てくるんですね。
 ところが、『出雲風土記』では、「伊弉奈彌命之時」という形で、中心の単独の神格という形で扱われている、ということを指摘したところがあるんですが、皆さんお読みになってご存知の方も、覚えておられる方もあると思いますが、これが大嘘だったんですね。というのは、漢文のところではね、やはり十二番とある ーーこの「風土記」に番号がついていると恐いんですよ、まあ、書いてあるだけいいんてすけれどもーー これも岩波の『日本古典文学大系』で確認していただくと結構ですがね。要するに、原文には「伊弉奈彌命」の「奈」は、ないと書いてある。それを意味によって補った。また、補ってあった。つまり原文は、“伊弉彌命之時”という原文です。これを“伊弉奈彌”と“伊弉彌”とは、一字違いだけだから、“伊葬奈彌”にしとけというわけで、「奈」を補って“伊葬奈彌命”とした。原文もそう直してそれを読み下した。こんなことを後代の学者がやっては困るんですよね。結局これは“伊弉奈彌命”女性か男性かわからないけれど「彌」がお尻についているから女性かも知れませんがとにかく“伊弉彌命(イサミノミコト)”というのが「第一主権者」としていたと、出雲に。「その時代に」という話なんです。だから出雲の神さんが一柱ふえた。それも大事な神です。「・・・之時」というんですから、枝葉末節の神様ではないですよね。それが増えてしまった。

『播磨風土記」の女性神

 そう言えば、『出雲風土記』でも阿菩大神というのは、今の『出雲風土記』や『古事記』『日本書紀』には出て来ないですね。それでおかしいなあと思ったけれど、おかしくはないんですよ。これが当り前なんです。『出雲風土記』も立派な「風土記」であるけれども、『古事記』『日本書紀』もある意味で出雲を非常に重要視しているけれども、しかしそこに現われた神々が出雲の神々のすべてではないんです。それはむしろ全体の中のどのくらいのパーセンテージか知りませんが、要するに一部なんです。
『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に出ている出雲の神様はね。実際に存在した、存在する出雲の神の一部分が記録に残っているだけなんです。記録に残っていない神様、しかも重要な神様が当然いたわけです。なぜかというと「風土記」というのは、 ーー『古事記」『日本書紀』はさっき言ったように、イデオロギー的に、いかにして天照の方に第一主権が移ったかと。今まで「家来」だった天照がこれから「主人公」になりましたよ、ということを言うために出雲を“使って”いるだけなんですから。だから、その範囲でしか出雲の神さんのことを扱ってない。これはもう当然だといえば当然ですね。
 それに対して今度は『出雲風土記』では、やっぱり『播磨風土記』と同じように、地名説話の神さんです。だから、ずーと一貫したその「一代通史」じゃないわけです。だから地名説話に関連して、要するに「出て来た」のが、出て来ているだけなのです。「あれに出て来ない神様はいなかった」ということじゃないわけですね。だから今の「阿菩大神」というのは、恐らくやはり、あれだけ近畿大乱の仲裁に呼ばれるぐらいですから、重要な神さんだったと思うんですがね。同じく“伊弉彌命”という神さんがまずいてですね、「第一主義者」であった、中心であった時代があったと、こういうことですね。
 要するに、今までのそれら原文の“都合の悪い”ところは、どんどん学者が書き直してわれわれに提供している。われわれはまた、そういう、何々大学の教授であるとか、岩波の出版物であるとか、そういう名前に“騙され”て ーー岩波の関係の人がいたらごめんなさいね。“騙された”方が悪いんですがーー “騙され”て、そうしてそれを信用させられて来た。そのためにやはり、本当に正しい歴史の見方が出来なくなっていた。“伊弉彌命”の場合も恐らく今後、まだまだ種々の連鎖反応を起こすと思いますが、もっと『出雲風土記』をしっかり見ればね、しかし今の問題は『播磨風土記』。これはもうはっきり《大帯日賣命》は、神功皇后じゃないですよ。播磨における、やはり「主神」格の、これは明らかに女性ですね。日賣命ですから。女性が「主神」格の人としていた。
 考えてみたらね、なあんだ、と思いましたよ。だってね、神功皇后は息長帯日女命でしたね、名前が。ご存知のように、息長氏というのは氏族名で滋賀県にね、息長氏というのがあった。その古墳があって、これは神功皇后の古墳だなどといっている神社がありますよね。その息長氏の「帯(タラシ)」というのは、尊称といってもいいでしょう。意味とすれば、恐らくその一帯を統治したもうているという意味かも知れませんが、なにせ非常に尊い、一部分の人にしか、もちろんもらえない名前、尊称であるというのは確かだと思うんです。ということは、息長氏で「帯」といえばこの比売だと、こういう意味の名前です。
 ところが《大帯日賣命》、『帯』という名は、何々氏、何々氏にそれぞれいるでしょう。しかしそんな、ただの『帯』じゃないんです。私は『帯』であります。」と、こう言っているわけです。だからやはり、帯日賣とは格が違うんですね、これは。神功の方の格は「第二婦人」てすから。 ーーもちろん、「第二婦人」だといって、私が別に軽蔑したり、軽視したりする必要は、毛頭ないんですが、当時のいわゆる位取りは「第二婦人」ですから。美人だったかも知れませんね。そういう「お妾さん」みたいな人になるんですから。しかし位取りは「第二婦人」です。滋賀県出身です。滋賀県に景行天皇のとき、都が移って来たんですから。その王朝の中で第二婦人にさせられたという、息長氏にしてみれば「名誉ある女性」でしょうけれど、全体から見れば決して抜群ではないわけです。
 ところが、こちらの播磨の場合は、《大帯日賣命》。やはり播磨かいわいを統一し、統括する「帯」という尊号をもった日賣命なんです。だから「位取り」が違うんですよ。考えてみれば、もう決まりきったことだったんです。だから、私も、平田さんに指摘されても、「その可能性はありますね」なんて、いかにも学者ぶった返答してごまかしたのも、おかしいんですね。もうはっきりこれは別の神である。そうするとズバリ言い換えれば、『播磨風土記』にとって重要な、ーーそれは重要ですよ。《大帯日責命》ですから。ーー先に言った一回、二回出てくるだけの神さんも重要ですが、しかし、それ以上にもう一つレベルの高い中心的な人物、これは重要なわけです。
 この重要な人物が消し去られていた。『播磨風土記』から消し去られ、本来の姿を消し去られ、結局、日本の古代から消し去られて来た。これはなぜかというと、わからなくはない。というのは、この《大帯日賣命》が、ここの今申した所はでっちあげですが、別にやはり韓国へ軍勢を率いて行った“話が出てくるんです。だから従来は「女で韓国へ行った。もう神功皇后に決まっている」と。従来のデータに基づくコンピューターだったら、そう答えを出すんですね。そういう条件を与えて反応するという、コンピューター程度の(人間はコンピューターの生みの親ですから、コンピューターより人間の方が偉いはずなんですが)反応をすると、《大帯日賣命》は神功皇后になってくる。しかしさっき言いましたように『古事記』『日本書紀』というのは、あくまで近畿天皇家の側からの、自分のための歴史叙述ですからね。それが本当である点、また嘘である点もあるかも知れないが要するに基本的には、そうであることには変わりはない。だから、客観的な日本列島全体の歴史ではない。いわんや『古事記』『日本書紀』にないものは皆贋物だ、『古事記』『日本書紀』に見える神や人にひっつけて解釈してよろしい、というものではないんです。当り前ですね。
 そうすると今はもう、言ってもいい、と思うんですが、九州王朝は朝鮮半島との戦いを ーー新羅・高句麗と激突したのは九州王朝である、という、私が『失われた九州王朝』以来立証して来たテーマがございますね。そうすると、ーー それは別に筑紫の勢力だけて戦ったわけてはなくて、それに対してやはり、山口県から播磨あたりまで協力していたとなりますと、当然播磨の女性の王者が、軍を率いて朝鮮半島へ行っていて不思議はない。もう別に、これも、「筑紫に協力していた」なんて決める必要はないかも知れません。独自に、朝鮮半島との戦いをした可能性もあるわけです。
 なぜかと言うと、播磨の場合は、さっき言った「神代」らしき時代(弥生期か)に、天日槍命は新羅から播磨へやって来て引っかき回しているわけですからね。そうすれば「サディズム対マソヒズム」でない以上は、こっちからもやはり復讐に朝鮮半島に乗り込む、ということもありえて不思議はないわけです。そこのところは、どれ、と決める必要はないわけです。とにかくこれは今後の問題ですから・・・。《大帯日賣命》という重要な女性神がいて、女性の統治者がいて、朝鮮半島への出兵を行ったと。また無事に還って来たらしいということが『播磨風土記』に伝承されている。ところがこれは、従来の日本古代史からは一切カットされて追い出されて、場を与えられていなかった、ということでございます。以上が先々週確認出来て、「ああ、そうだったか」と。やはり平田さんのご質問通りだったと。私が今まで書いてきたのは大嘘を書いていたのだ、ということを感じたところでございます。さて、以上で『播磨風土記』の問題は一応終わらせていただきたいと思います。


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