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古代史再発見第1回 卑弥呼(ひみか)と黒塚 1998年9月20日(日)
       大阪豊中市立生活情報センター くらしかん

古代史再発見第1回

卑弥呼と黒塚 3

古田武彦

三 三種の神器と『倭人伝』

 前半で申しましたのは全く文献上の問題、全く文献を史料として理解するための方法論として述べたわけでございます。その段階では、わたしは考古学というものを全く知らなかった。その知識はなかった。その後考古学的な資料に取り組んでみて驚きましたのは、この糸島・博多湾岸が、まさに弥生時代の矛・鏡・絹・その他の考古学的資料の中心的な出土物が集中している。そういう事実を知ることが出来たということでございます。
 関係する資料をここに揚げておきます。
 (編集者注『ここに古代王朝ありき』ー邪馬壹国の考古学ー朝日新聞絶版や『古代は輝いていた』㈵「風土記」にいた卑弥呼を見て下さい。発掘調査などで、現在の数値は変わっていますが、基本的な傾向は変わりません。)

A弥生遺跡出土鉄製武器
 大きい武器が筑前三十六です。筑後は二です。やや小さい武器では十一が筑前です。筑後は一です。筑前の中でも東域というのは北九州市、中域というのは糸島・博多湾岸です。その内大きい武器は、東域が十五、中域が二十一です。やや小さい武器は、東域が一、中域が二十です。糸島・博多湾岸が最大です。

B弥生遺跡大型鉄器出土分布図
 福岡県が圧倒的です。近畿はほとんどない。

C日本鉄器出土全分布図
 やはり福岡県が百六と圧倒的です。兵庫四十二、大阪二十七、奈良はゼロ。

Dガラス勾玉(弥生時代)出土分布図
 (季刊「邪馬台国」29号より引用)
 ガラス勾玉鋳型出土遺跡とガラス勾玉出土遺跡です。弥生時代のガラスの勾玉、これは近畿にもあるのですが圧倒的にはやはり九州糸島・博多湾岸が多い。いずれも福岡県に集中しています。とくにガラスの勾玉の鋳型は、糸島・博多湾岸に集中しています。

E九州における壁の出土分布図
 これもガラス勾玉と分けたのですが、いずれも福岡県が圧倒します。

F日本列島弥生遺跡出土、全鉄器表
 工具、農具、漁具、武具、その他と分けていますが、いずれも福岡県が圧倒します。

G九州における銅矛と銅戈の出土分布図
 銅戈と呼ばれるものです。いずれも福岡県が圧倒します。対馬が福岡県と連動している姿を示しています。後は少しである。

H同じく北九州における銅器の鋳型の出土分布図
 銅矛と銅戈の鋳型、いろいろありますが、糸島・博多湾岸が中心です。

I冢(ちょう、つか)の中から出土した矛の分布図
 矛も冢の中から遺体と一緒にとは限りません。外からも出土するケースもありますが糸島・博多湾岸が断然多いのでございます。
同じく銅戈の分布図も上げて有ります。

J漢式鏡(弥生時代)の出土分布図
 福岡県が一四九、佐賀県が十一、他を圧倒します。近畿はきわめて少ない。大阪、京都はゼロ。当然近畿は、この時代は銅鐸の時代ですから。
 弥生時代では、驚いたことに、何れも九州糸島・博多湾岸が分布の中心でございます。
 次にこれが問題の三角縁神獣鏡です。

K三角縁神獣鏡(古墳時代)の出土分布図
 これは弥生時代ではありません。古墳時代である。椿井大塚山古墳の二十九枚を筆頭に、近畿に集中しています。最近では黒塚古墳が椿井大塚山古墳と 並んでいます。

 それから、注目すべきは絹の出土分布図です。

L「北部九州に、絹の出土分布図」
 倭国制の絹もやはり博多湾岸とその周辺です。特に注目すべきは、ナンバー八の福岡県春日市の須久(すく)岡本遺跡でございます。ここだけは中国の絹です。他は全て倭国産の絹です。中国の絹はここだけです。

 ついでに申しますが、今度の黒塚で絹が出てきました。もちろん倭国産の絹である。非常に興味深い。被葬者の木棺自身も桑の木で出来ている。これはおもしろい。黒塚に葬られた人は蚕、絹の製法を始めて大和にもたらしたことを誇りに一生を終えた人ではないか。桑の木というのはあまり木棺を作るのに適した木だとは思えない。それをわざわさ葬られた人の気まぐれで桑の木にしたとは考えられない。やはり桑の木に葬ることが、葬られた人にとっては本望であろう。多少木棺の部材としては具合が悪いでしょうが、それを越えて値打ちがある。だから桑の木の木棺にした。こう考えて間違いない。事実倭国の絹が出てきた。倭国の絹が出てきたということは中国ではない。中国から絹が来たのなら、中国の絹が全部ではなくとも一部でも出なければおかしい。中国の絹は全くゼロ。全くなかった。倭国の絹ばかりである。そういうことは彼がもたらしたのは中国からでなくて、博多湾岸からである。そういうことは誰も言わないでしょうが論理的にはそうなる。
 黒塚以前に、倭国の絹を生産していたのは最初弥生前期から最後後期まで、一貫して博多湾岸である。その中に一つだけ中国の絹があるのが須久岡本遺跡でございます。

 ついでながら『倭人伝』の中で一番強調されているのは当然ながら絹のことでございます。鏡については「銅鏡百枚」と四字有るだけですが、絹については文様や色から何回も繰り返し書いてある。飾り絹である錦が中国から送ってきた物の中心であることは明らかである。そして倭国側の卑弥呼・壱与も絹を送っている。中国周辺で絹を生産できたのは倭国だけである。この理由も時間があればお話しいたしますが、倭国だけは何故か中国で禁制品であるはずの絹を生産している。それを又卑弥呼・壱与も中国に送っている。倭国内でも絹があったことを、また『倭人伝』が証明している。まさに糸島・博多湾岸の絹の中に、中国の絹を含んでいる。

 ついでにご紹介しますが小林行雄さん、日本の考古学の大家です。日本の考古学者はお弟子さんであったり、そのグループの別れであったり、ほとんど何らかの形で関わっておられる。その小林行雄氏の鏡の論文を読み返しているところですが、そこでは必ずしも『倭人伝』は信用できない。何故かというと日本では絹が出ない。そういう形で書かれてある。えっとなりました。驚きましたね。もとより日本では絹が出ない。だから『倭人伝』は信ずるに足りない。小林行雄さんが三角縁神獣鏡の伝播の系統図を作られたあの時点ではまだ日本では絹が出ない。博多湾を含めて絹が出ない。それが定説というか通念でした。だから『倭人伝』に絹があるというのは嘘がある。そういう形で『倭人伝』を評価しておられる。これを読んだ四十年前はそういう頭で読んでいたので気が付かなかったのでしょうが、今回改めて読んで、改めて気が付いた。研究のレベルが進んできたという事でしょう。

 わたしは純粋に文献の里程解読から博多湾に到達したのですが、今の出土物から行きますと、そのまま考古学的見地からも、そのまま対応していることを指摘させて頂きました。

 そしてここにありますのは吉武高木遺跡の発掘報告書からの図ですが、通称は「三種の神器」が出て参ります。『日本書紀』では「三種の宝物」という形で出て参ります。この吉武高木遺跡からは「三種の神器」が出てくるわけですが、南九州の高千穂の峰とか、隼人(はやと)塚、これは明治以後薩摩・長州の政権が神代三陵として鹿児島県内に決定するした。「治定」と言いますが、そこには決して「三種の神器」は隼人塚には出てこない。
 明治時代薩摩・長州の政権が神代三陵を、鵜草葺不合尊などの墓を全部鹿児島県の中に比定した。鹿児島県内に決定した。天皇陵、 天皇陵というけれども、一番大事な元祖天皇陵は鹿児島県。それを神代三陵として治定した。これははっきり言って誤り。あの辺りは「三種の神器」は出て来る地帯ではない。隼人塚の世界。

 吉武高木遺跡でも分かりますが、「三種の神器」の世界を「二種の神器」や「一種の神器」が取り巻いていなければならない。あれだけ巨大な規模の遺跡である吉野ヶ里でも「三種の神器」は出ていない。剣と勾玉は出たが「二種の神器」の地帯です。鏡は出なかった。吉武高木遺跡などを取り巻いている「二種の神器」の世界。福岡県と佐賀県の人、どちらを贔屓にするというけちくさい考えでなく、有るものを見て、結果を純粋に判断する。吉野ヶ里遺跡だけが、孤立して存在しているはずがない。
 吉武高木・三雲・須玖(すく)岡本・井原(いわら)・平原(ひらばる)と同類です。
 糸島・博多湾岸、中央が高祖山連峰、高祖山・日向山・クシフル峰・日向峠を挟んで両側に「三種の神器」が出てきます。
 一番はじめが吉武高木遺跡。福岡市早良区、室見川の中流域、日向川との合流点にあります。ここが一番早く弥生中期初頭。最古の三種の神器が出るところです。次が三雲遺跡、細石神社の西隣にあります。その三雲遺跡の南隣が井原遺跡。少し離れていますが、有名な原田大六さんが発掘された平原遺跡。それから博多側に戻って太宰府との間南側の春日市の須玖岡本遺跡。中国の絹が唯一出てきたところです。これだけが「三種の神器」が出てきます。

 順序からいいますと、
 吉武高木遺跡→三雲遺跡→須玖岡本遺跡→井原遺跡→平原遺跡となり、いずれも「三種の神器」が出てきます。

  吉武高木遺跡の配置図を見れば分かりますが、そういう「三種の神器」の世界を「二種の神器」 や「一種の神器」に取り巻かれている。その一番中央に「三種の神器」がある。逆に言うと取り巻いている「二種の神器」の一端に吉野ヶ里の遺跡がある。

 ところで何故かこういう形で論争しないのが不思議なのですが、『倭人伝』も「三種の神器」である。鏡と勾玉と剣。勾玉には管玉のことがありますが、その三つが「三種の神器」と呼ばれている。『日本書紀』では「三種の宝物」として出てきます。これが何故か重要な王権のシンボルとされています。韓国と日本に跨っているという問題もあります。
 ところが『倭人伝』でも、実はあの内容は「三種の神器」です。何故かと言いますと「銅鏡百枚」と言っているように大変鏡を重視しています。卑弥呼がお化粧好きで百枚を、お化粧に使った。そんなことはない。太陽信仰の小道具というか、祭りの場で屋外において早朝太陽の光線を反射させて参列者の目を眩ませる。たくさん有ればたくさん反射して、あれば有るほど具合が良い。その中で儀礼を行う。そういう太陽信仰の儀礼の場で使われていたことを示す証拠である。卑弥呼もそうです。「三種の神器」自身が、太陽信仰を強調する儀礼が行われてきた証拠である。
 中国ではそうでなくて姿見である。お化粧道具に過ぎない。御婦人の好きな小間物に過ぎない。ですから中国の場合は女子でも男子からでも墓からも出てきますが、一つの墓から二つ出てくることは希である。日本のようにたくさん出てくることはない。十や三十も出てくるのは、お化粧好きの王様であったというのでなくて、太陽信仰の祭祀に、明らかに祭りの場に使っていた証拠である。「三種の神器」は太陽信仰に基づく地帯であり、権力者のいるところだということです。「三種の神器」の一つです。

 それでは勾玉はどうか。勾玉は日本では縄文時代から有る。私の知っている最古の勾玉は青森県。縄文時代後期に盛んに甕棺に葬られた遺体から出てくる。ほとんど女性です。そこに身につけていた装身具から牙玉として存在する。女性だから特に多いのかもしれませんが。動物の牙を加工して、ほんとに勾玉そっくりの牙玉として出てくる。弥生ではない。弥生より千年以上古い縄文後期。又大分県でも縄文に勾玉があったことが知られています。あと韓国にも出てきますが古いものは日本特産というべきです。これも「三種の神器」の一つです。
 私は甕棺(かめかん)と呼ばないで甕棺(みかかん)と呼びます。
 剣は「三種の神器」としてこれは当然だ。言い方は変ですが、権力者で剣を持たない権力者を私は見たことがない。私は権力者に付き物である。権力者の「権」という字を書き変えて「剣力者」と言いたいぐらいだ。徳だけで頑張って力を得ました。そう言うかもしれんが、そういう権力者は見たことがない。だいたい権力者は武力を張る基盤に立ち、みんな使っている。先入観といわれるかもしれないが私はそう思っている。縄文時代は石剣があり、弥生にはもとより銅剣がある。剣は当然「三種の神器」の一つである。
 そういう三つを加えた「三種の神器」である。ところが『倭人伝』の中で鏡を百枚くれと言うのは異色ではありませんか。鏡に非常に執着を持っている女王ではありませんか。鏡は太陽信仰の祭祀だと思うが、卑弥呼(ひみか)の「ヒ」は、太陽の「日」だと思う。同時に見逃してはいけないのは勾玉が出てくる。
 『倭人伝』に「青大句珠二枚」とある。俳句の「句」という字を書いてありますが、これが「勾」という字の本来の正字です。「勾」という字は本来「句」である。「句」と書いても意味は変わらない。だからなぜか大きな勾玉を献上している。中国はびっくりしている。
それと注目すべきは、先ほど言いましたガラスの勾玉を献上しています。
 「白珠青玉」と有ります。これはガラスの勾玉です。
 勾玉を作った形跡は縄文から有る。それと特に同時に注目すべきは、先ほど言ったガラスの勾玉の鋳型です。これは近畿にもありますが、もちろん近畿より古く、福岡県のほうに集中している。勾玉は富山県の糸魚川周辺が有名ですが、最初は牙玉として作っています。最初はそれを利用していたのでしょうが、それだけでは足らなくなってというか満足できなくなって、当時の最高の工芸技術であるガラス製品として勾玉を作っています。そう量産は出来ませんが工業製品であることは間違いない。
 だから『倭人伝』では、倭国の中心部でそういう巨大な鏡や巨大な勾玉が作られています。その点から言っても糸島・博多湾岸から出ています。糸島では巨大な鏡が作られてきた。巨大な勾玉も作られてきた。同時に先ほど言った権力者に付き物の剣も出ています。中国からの剣も有ります。
 そうしますと鏡と剣と勾玉。合わせて「三種の神器」。卑弥呼は「三種の神器」の中心の王者。そうすると卑弥呼の居た場所は、弥生時代に「三種の神器」が集中して出てくる地帯となる。

 そうすると先ほど言ったように糸島・博多湾岸と周辺以外にない。それ以外に「三種の神器」が集中して出てくる地帯はない。近畿にもないし吉備にもないし南九州にもない。
 何回か話しましたが「邪馬台国。邪馬台国は分からん」とずいぶん頑張っており、みんなもそうか思わされている。大部分はそう思っている。それでは「三種の神器」にあたる遺物が集中して出てくる地帯は糸島・博多湾岸以外に有ったでしょうか。それ以外に「邪馬台国、邪馬台国」と言っているけれども、近畿も中部も名乗りを上げているが、それでは「三種の神器」にあたる物が何か出ている地帯はあったでしょうか。


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