古代史再発見第2回 王朝多元 ー歴史像 1998年9月26日(土)大阪 豊中解放会館
古田武彦
隣の国である韓国側の史書の問題に入らせていただきます。日本の『日本書紀』・『古事記』に当たる『三国史記』・『三国遺事』と言います。『日本書紀』・『古事記』よりは、成立はすこし遅く平安から鎌倉時代に成立した史書ですが、非常に深い内容を持っています。
この中で『日本書紀』に当たる『三国史記』の内容です。不思議なことが出てまいります。新羅の四代目の国王である有名な脱解王の件です。この人はもともと韓国の人ではないと言っている。どこの国の人か。多婆那国という国で生まれた。その多婆那国は倭国の東北一千里にあると書いてある。それで伝説的な表現ですが、生まれたときは卵として生まれた。それで格好悪いというわけで船に乗せて、卵を沖合いに流した。その卵はまず金官加羅国に流れ着いた。韓国の東の南端である。そこでも村人が、また気持ち悪がって沖に流した。その後(新羅の都のあった)慶州に着いた。それで漁民の老夫婦が卵を拾い上げて床の間に置いておいたら、ある日卵がぽっかり割れて見事な男の子が出てきた。その男の子は賢い男の子として育った。宮中に入って、第二代新羅王の娘さんと結婚した。第二代息子が第三代の王になったが亡くなったので、第四代の王になった。それで新羅の国家体制が脱解王によって大いに整頓されていったということが述べられている。
それともう一つ不思議なことがありまして、「瓢公」という人物がおりました。「瓢」という苗字ですが、彼は新羅第一代の王赫居世の時、新羅に遣ってきた。そのとき腰に瓢をくくりつけていたので「瓢公」と呼ばれた。こう呼ばれた「瓢公」という人は、元「倭人」である。彼は二代から四代に渡って新羅の王に仕えた。国の実力ナンバー一というか、王の後ろのほんとうの王みたいな人で、実力をふるって新羅という国を作り上げた。そういう人物が瓢公である。
さらに不思議なことは、新羅の初代の王である赫居世と言われる人物についても書いてある。彼は「朴」を姓として名乗ったと書いてある。朴というのは韓国の朴大統領の姓と同じです。それを表せば瓢の事であるから、漢字で「朴」という姓を名乗った。ですから初代自身も倭人と深い関係がある。瓢は倭人とたいへん関係がある。
だから新羅という国は、初代の王の赫居世といい、脱解王といい、瓢公といい、何か倭人と関係が深い感じである
『三国史記』 新羅本紀 第四代 脱解
脱解尼師今、立。(一云吐解)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那国所生也。其國在倭国東北一千里。初其國王娶女國王女為妻。有娠。七年乃生大卵。王曰人而生卵。不詳也。宣棄之。其女不忍。以帛裹卵丼寶物。置於檳中。浮於海。任其所往。初至國海邊。金官人怪之不取。又至辰韓阿珍浦口。是始祖赫居世在位三十九年。・・・
それはさておき、今問題になるのは多婆那国がどこかである。「其國在倭国東北一千里。 その国は倭国の東北一千里にある。」とあり、その場合倭国を基準として、多婆那国のことを言っている。倭国がどこにあるかを考えなければならない。この「倭国」はどこにあるかは、非常にハッキリしている。なぜかというと建武中元二年(西暦五十七年)脱解王が即位した。その建武中元二年は、後漢の光武帝より、倭が金印を貰った年である。つまり倭が金印を貰った年に、お向かいの国で、王に即位したのが脱解王である。そうすると『三国史記』に書いてあるこの「倭国」は、博多湾岸の倭国しかあり得ない。金印が出ないところが、金印を貰うはずがない。つまりこの基準の元となった倭国は博多湾岸である。こう考えるのが一番筋が通った話である。そこから「東北一千里」とあれば、『倭人伝』で考えると大体の見当は付く。そこから短里で東北千里なら、壱岐が方三百里、対馬が方四百里なら大体の距離が分かる。壱岐の一辺の三倍強が千里です。博多湾岸から短里で東北千里行ったところというと、だいたいの見当はつく。ほぼ関門海峡あたり、今の山口県下関市あるいは福岡県北九州市あたり。ここなら『三国史記』の卵の説話がドンピシャリと説明できる。なぜかというと、ご存じのように宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘の話。その話で、お分かりのように巌流島は時間帯により海流が正反対に変化する。この関門海峡は、ある時間になるとパッと海流の向きが変わり、瀬戸内海側に流れたり、逆流して玄界灘側に流れたりしている。下関の講演会の時にもお聞きしましたが、その通りですと返事があった。それは昔も変わらないようです。もし人間の乗らない卵を載せた船を流すとします。その時間帯によっては内側に流れれば瀬戸内海に流れる。また時間帯によっては外に流れる。外に流れれば、目の前に流れているのは対馬海流。その対馬海流は、関門海峡の沖で、目の前で二つに別れる。我々が普通対馬海流と呼んでいるのは、北海道へ行く方である。日本海に沿って北陸から津軽へ進んで行くのを対馬海流と考えている。実はもう一つの対馬海流がある。分流があるわけで東鮮(東韓)暖流と言いまして北上する。竹島の沖合いに行き、そこでウラジオストックから下りてきた寒流とぶつかる。エクアドルがそうでしたが、暖・寒流がぶつかるところが大変魚が捕れる。
それで、もし関門海峡から北上してきたら、時間帯によるが一番弱く出てきた場合は対馬海流に乗り北海道に行く。もう少し強く出てきて海流に乗った場合は東鮮暖流に乗っていく。それで韓国の最南端金官加羅国をよぎる。もちろん新羅の慶州にも行く。それで多婆那国から卵が来たケースなら、この話が成り立つ。まったく話が合う。自然地理が話を裏付けしている。もちろん卵で遣ってきたという話自体がナンセンスだから、合理的に考えても仕方がないという考えもあるが、そうではないと考える。
この『三国史記』の話を聞いているのは新羅の人たちである。目の前の東鮮暖流のことは百も承知の人々である。その海流の論理を抜きにしてお話を作っても、民衆は相手にしない。民衆が知っている海流の論理に乗った話としてこそ、話が成り立つ。それでは成り立つのは何か。倭国の東北一千里、多婆那国が関門海峡付近にあったとすれば、話として成り立つ。あの話、私も知っているよとなる。
もし多婆那国への千里が長里であれば、漢の里数ならば六倍ぐらいの長さにある。倭国から東北一千里なら、一度計算してみたら能登半島ぐらいになる。能登半島の沖合いに無人の卵を載せた船を流しても、慶州や金官加羅国に流れ着くことはあり得ない。海流を逆行するだけで、だんぜん無理。まして倭国を奈良県の大和(ヤマト)と考えたら無茶苦茶であり、お話にも成らない。だからこの話自身が、あの倭国が博多湾岸という仮説に立てば、ぜんぶ話が合理的に成立する。なおかつ卵自身が成長したとき、脱解王として即位した時には、博多湾岸に倭国の中心として中国から金印が与えられている。ですから、その金印の出てくる「委奴」。その「委奴(wido)」とは何者か。ぜったいに大和(ヤマト)ではあり得ない。その金印と『三国史記』の「倭(wi)」を、倭語でいうならば筑紫(ツクシ)。現地の人は筑紫(チクシ)と発音する。意味は同じですが、「チ」は千という意味のめでたい言葉がくっ付いている。あるいは神様としての「チ」。そういう「クシ」という語幹に対して、「チ」というめでたい言葉がくっ付いている。それに対して外からは「ツクシ」と呼ぶ。「ツ(津)」は港です。港のある「クシ」の地。外から来た人は港から来た。それで「クシ」ということは一致している。それで「委奴」国の「倭(wi)」は、筑紫(チクシ)である。これにおそらく、反対の人はいないと思う。いやいや金印の「委」は大和であると頑張る人はいないと思う。しかしこれはこれからの話に、非常に重要なことである。
なぜならば金印というのは金石文であり、一番確実な同時代史料です。そこにまず出てくる「委=倭」が筑紫(チクシ)である。それが第一の原点。しかもお隣の『三国史記』。言い換えたら日本側の権力の、ご都合には関係ないと言うことである。天皇家に遠慮したり、おべんちゃらしたり、反発したり、そういう事には、まったく無関係である。それがお隣の歴史書の値打ちである。その『三国史記』で倭国と言っているのは博多湾岸である。お話から見ても、同じく博多湾岸である。お話以外の新羅の脱解王が即位した年が、倭国が金印を貰った年であるところから見ても、博多湾岸と考えざるを得ない。どっちに転んでも『三国史記』にまず出てくる「倭」は、博多湾岸であるということをだめ押しせざるを得ない。そうすると、ひょうひょうとして瓢を腰にぶら下げて新羅に来た瓢公も倭人であり、基本的に筑紫人と呼ぶべきものである。その周辺でも良いですが。彼を大和人であると読む人はいないと思いますが、読んだら全然ダメである。基本的に彼は筑紫人と呼ぶべき人である。この問題『三国史記』の最初の「倭」をどう読むかということは人はあまり触れませんが、これは非常に大事なことだと思います。
なぜ、これが大事だというと『三国史記』はこの後「倭」だらけ。倭の記事が、これでもか、これでもかと出てくる。だいたい倭人が侵入してきて、これを撃退したような記事ばかりである。これ自身も非常におかしいのですが。倭人が加害者ばかりで、いつも三国側が被害者ばかりというのは、歴史上はあまりありえない話である。これも一つのセレクトが働いている可能性があると思いますが。
これもついでに言っておきますが、皆さんはあまりご存じないが、福岡県の図書館に行かれますと、そこには神代史料、神社史などの双書がある。それを見てみると、博多に来た新羅や唐を始めとする異国の侵入記事が一杯ある本がまとめられてある。皆さんは御存じないと思うが、現地にはきちんとそういう本が残っている。それにそうでしょう。行ってばかり、攻めてばかりの人とか、逆に常にやられてばかりで攻めはしませんという、そういうお人好しの人間もまあ余りいないと思う。お互いに大小はあっても、やり合うのが当たり前である。とにかくその話は直接関係しないから、この辺で止めますが。
とにかく元に戻り『三国史記』には、「倭人がやってきた。」という話が繰り返し、巻き返し出ている。「その倭とは何者か。」ということである。それはきちんと書いてありますよという事です。本は途中から読むものでない。初めから読むものである。初めに、ちゃんと「倭」について書いてある。多婆那国は「倭国の東北一千里」にある。そこに多婆那国がある。しかも地形から考えて倭国は当然博多湾岸にある。倭国の位置は非常にハッキリしている。
しかも脱解王の即位した年は、漢の中元二年(西暦五七年)と書いてある。脱解王の即位したあの年に、倭国は金印を貰った事は知らんという人に限って『三国史記』を読むことはありえない。それを知らないで読む人はいない。きちんと『後漢書』にも書いてある。『後漢書』を読まないで『三国史記』だけを読む人はいない。金印のあの年に(新羅の)脱解王は即位したと言っている。そうであるならば脱解王のところに出てくる「倭国」は、その事からもあの金印の倭国は博多湾岸である。そう思って下さいと言っている。
その後、そう思ってもらっては困るという記事は、一回も出てきていない。現在は幸いなことに岩波文庫で佐伯有清氏が編集された『三国史記』の倭人の記事を一冊にまとめられた本がある。その本を見て、「その後の倭国は先頭にある倭国とこれは違いますよ。」という記事が、一回も出てこない。また「これ違いますよ。」という注記もまったく出てこない。まったく無いということは、それは注記を忘れたのではなくて、『三国史記』は、そう思って下さいと言っている。そのために変な卵の話が先頭に出てくる。そしてもちろん『三国史記』のなかに、白村江の戦いも出てくる。これは新羅が唐と組んで、倭国に大勝したこの記事は『三国史記』の華ですよ。その華の相手の倭国も、博多湾岸の倭国と見て下さい。そのように言っている。
私が今まで言ってきたことの中に論理的におかしいところがありますか。私はぜんぜん無いと思う。ところが私以外の今までの学者は、全員そうは読んではいません。少なくとも四・五世紀の好太王碑の解釈を始め、天皇家中心の時代に決まっているいう形で扱っている。
その場合どうなるかと言いますと、まさか先頭の脱解王の問題をどう解釈するのでしょうか。まさかあの倭を奈良県と解釈するのでしょうか。また長里で一千里と解釈するのでしょうか。多婆那国は津軽の方ですと解釈するのでしょうか。そんな人は誰もいない。そんなことを言ってみても、成立するわけではない。それで『三国史記』に触れなければ、あの説は消えるわけではない。あの話はつまらん話を書いていますね。あれは相手にしないことにしよう。日本の学者はそういうことは言ってはいないけれども、日本の学者は全部そういう態度です。しかし生意気ですけれでも、それは『三国史記』という本の読み方になっていない。本は先頭から読むべきである。「倭」とでてくる最初のところに、倭国の位置を示している説話がある。しかも金印と関わりがある「中元二年」という年に、脱解王が即位した年と先頭に書いてある。倭は博多湾岸、筑紫と読んで下さいと書いてある。そのあと変更しますという記事は出てこない。だから後は、ずっと筑紫と読んで下さいと言っている。後で日本という名前に変わりますけれども、それまでは、そう読んで下さいと言っている。私は以前からそう思ってきたけれも東京を中心とした方々と、韓国に古代史の旅行に行った。行く前に史料を調べ直して、今の事を確認した。こんな一番大事なことを今まで言わずに来たなと思っている。強調しなければならないことを、見落としていたことを恥ずかしく思います。
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