古代史再発見第2回 王朝多元 -- 歴史像 1998年9月26日(土) 大阪 豊中解放会館

『宋書』の倭 『隋書』のイ妥*(タイ)国 『唐書』の倭国と日本

古代史再発見第2回

王朝多元 5

-- 歴史像

古田武彦

六 『宋書』の倭

 さきほどお話ししたことは、わたしの本をお読みの方は良くご存じです。しかしわたしの話を初めて聞く方は、理屈は理屈ですが、それはちょっと、それは受け入れられないよ。そのように思われる方が率直に言って少なくないと思います。そこで今度は中国の歴史書『宋書』について、述べさせていただきます。ここで有名な「倭の五王」が出てくる。倭の五王というのは、今の近畿の天皇である。雄略が倭王武であって、他のものが、それにならぶ天皇である。今の教科書などでは定説のように書いてあります。しかし、わたしなどから見ると「全然定説ではない。」というよりも、間違っています。

 『宋書』倭国伝冒頭
  倭國在高驪東南大海中世修貢職

 それで『宋書』の前にある歴史書は『三国志』なのです。『三国志』は三世紀、『宋書』は五世紀です。『後漢書』ができたのと同じ五世紀です。
 ですから『宋書』を読む人はもちろん『三国志』を読んでいる。書いた人ももちろん読んでいるし、読者ももちろん読んでいる。そこで『三国志』で言っている倭国は、この『宋書』の倭国だ。こう理解する。当たり前ですね。
 もっと突っ込んで言いますと、後漢の光武帝が金印を与えた「漢の倭奴国王」、あの「倭」である。あの「倭」が卑弥呼(ひみか)の倭国である。又「倭の五王」の『宋書』の倭国である。これは、こう読む他は読みようは、ないですね。
 「『三国志』の、あの倭国と違いますよ。同じ倭国でなく、同じ名前でも、もっと東に寄った、別のところの大和の倭ですよ。」と言うならば、そう書けばよい。
 また後漢の光武帝が金印を与えた倭、あれは一番有名な倭です。あれは本に書いてあるだけではなくて、今の洛陽の真ん中で倭国の使者に与えたものです。別に宅急便に乗せて送って来た物ではない。金印を貰うには、こちらから使者が行って華やかな儀式の中で、たくさんの人間が見守る中で金印を貰った。なぜかというと、これは金印を貰う方が有り難いだけでなく、もしかしたらそれ以上に与える方に意味がある。つまり国民に対するコマーシャルなのである。 つまり我々は「後漢の光武帝は大したものだ。間違いないよ。」とこう思うけれども、それは現代の人間の後読みであって、当時は光武帝は大変いかがわしい。前漢が滅んで新の王莽が受け継いだ。その新の王莽に各地で反乱を起こして、その反乱で勝ち残ったのが光武帝である。「私は田舎から出てきたように皆が思っているが、何を隠そう(前)漢の劉氏の一族である。」と劉を名乗り、(後)漢を称する。漢を継承する。しかし本当に光武帝が劉氏であるかどうか、「誰が知るか。」と言うようなものである。最後に勝ち残ったのは誰も知っている。本当の筋はどうかということは誰も知らない。そういう意味では、大変いかがわしいわけである。
 そういう中で、天子という名分を確立する仕事がある。戦闘に勝ったから、もう良いという訳ではない。勝ったのと同時に、それを大義名分で正統性を裏付けして行かなければ権力者としては長続きできない。そういう立場の最中が光武帝です。ですから国内に対してのみならず、国外からも、これだけ新しい漢に対して従順を誓ってきた。そういうことは、国内の国民に対する最大の宣伝です。
ということで、金印を与えるという作業は、与えられる本人はもちろん嬉しいでしょうが、のみならず与える方にとっても非常に意味のある大事な行為である。これはわたしの想像と言えば想像ですが、おそらく間違いはないと思う。
 ということは、晴れがましい儀式で、誰もが知っている倭である。しかもこの時には『漢書』を書いた班固は、当時太学の学生で洛陽にいた。その班固にとっても「倭」というのは、金印の倭である。その金印の倭が「楽浪海中倭人有」と『漢書』の中に出てくる「倭」の説明になっている。金印を貰った倭人は、何を隠そう「楽浪海中」の中にいる。つまり中国にとっても金印の倭は、金石に表された明確な倭である。もちろん『後漢書』に出ている「倭」も、明確な倭である。『三国志』に書かれた倭も、もちろん金印の倭を受け継いでいる。金印の倭から場所が変わったという事は全然書いていない。
 これも一言追加しておきますが、『三国志』倭人伝の中で、卑弥呼の前に男王が居て、七・八十年居たと書いてある。二倍年暦で半分だと思いますが、それでもかなり長いでしょう。あの男王は絶対に漢の時代の人間である。卑弥呼は魏ですが。その人物の生まれたのも、その治世も漢の時代である。その漢というのは、鏡でいえば漢式鏡の人である。その漢式鏡の人の七・八十年後、卑弥呼の都は場所が変わりましたとは書いていない。
 ということは漢式鏡の世界と卑弥呼の世界とは、都の場所は変わっていない。そういう細かい面白い話もある。
 元に戻り大筋では、金印の倭は、筑紫である。疑いない。志賀島から金印が出たのですから。その金印の倭を、それを受け継いだのが卑弥呼の倭である。卑弥呼の倭国が、金印の倭国から場所が変わりましたよということは、中国側は一言も書いていない。もし『三国志』の倭国が金印の倭と場所が違うというなら、中国が何をさておいても書くべき事柄であり、何もあれだけ他のことを書く必要があるでしょうか。もし金印の倭と卑弥呼の倭が場所が違うというならば、一言だけ「卑弥呼の倭は同じ倭と言っても、金印の倭から場所が東に寄りました。」とこう書くべきである。その一言がないということは移動していない。金印の倭国と同じだ。少なくとも中国人にはそうとしか読めない。
 天皇家のご都合で、オベンチャラを言うとか、いろいろ読もうとしているけれども。それはこちら側の都合であって、そういう日本側の都合に関係のない中国側では、『三国志』を読む場合、金印の倭国は卑弥呼と同じ倭国である。そう読むほかない。同じく『宋書』の倭国も、金印の倭国・『三国志』の倭国と替わったとは書いていない。『宋書』倭国伝の冒頭に「倭國在高驪東南大海中世修貢職」と書いてあるが、「あの金印以来の倭国は高驪の東南、大海の中に在る。」、そのように『宋書』の倭国も読まなければいけない。「世々、貢職を修む」というのは意味深くて、金印を貰ったのも、卑弥呼が貢ぎ物を持っていきましたのも、そのご存じの話を、ぜんぶこの一言で納めてある。
 以上『宋書』を読むのに、読者を中国人と考えたらそう読める。なにも不都合はない。それを我々は、これを読み変えて、しかし武は雄略、これはなんとか、これはなんとか、というふうに読んでいるけれども、そんな天皇家の御都合には中国側は全く関係ない。中国側で読むときには、今私が言った読み方をする他はない。そう言うことを今申し上げさせて頂きました。

 ですから、『宋書』の倭は、筑紫国の倭である。倭の五王は筑紫の五王と呼ぶ他はない。
 それを近畿天皇家の王、五人の内四人まで名は合わない。治世年代は倭王武は雄略と合わない。いくら合わなくとも雄略が倭王武であるというのは、学者が基本事実において間違っている。学者の大きな判断ミスである。判断ミスという以上のものである。明治以来の天皇家一元主義の最後の段階である。わたしの方からはそう見えるわけでございます。

 

七 『隋書』のイ妥*(タイ)国

 さてその次は『隋書』にまいります。これは唐の初めに出来たものです。この中に有名な「其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云」という名文句が出てきます。
 これを聖徳太子だと明治以来扱っていて現在に至っているわけでございます。しかしこれは非常に見えすぎた矛盾を持っているわけでございます。日の出ずるところの天子、多利思北孤という名前で出てまいりますが、奥さんがいまして鷄*彌という形で書かれております。ところが、これを推古天皇とするわけです。推古天皇というと女帝ですが、奥さんがいて後宮の女六・七百人名がいる女帝は、あり得ない。あんまり矛盾しすぎているから、説明しなくても良い。学者は誰も説明しない

『隋書』イ妥*国伝(部分)

 開皇二十年イ妥*王姓阿毎字多利思北孤號阿輩鷄*彌
・・・
王妻號鷄*彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利利歌彌多弗利
 王の妻を鷄*彌(キミ)と称し、後宮の女、六七百人有り。太子を名付けて利歌彌多弗利という。

イ妥*:人偏に妥。「倭」とは別字。
鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE

 時たま説明する人は、聖徳太子は大変な演技を行ったのだ。天皇が女帝であるというと、外国に馬鹿にされると思ったので、うそを付いて男だといった。しかも後宮に女がたくさんいるのだと、大嘘をついて彼らを煙に巻いた。彼らはそれを信じ込まされて帰った。そういう解説をした人がいる。
 わたしは、やはりこういう説明は、はっきり言って説明になっていないと思う。中国人を馬鹿にし過ぎるのではないでしょうか。ウソを付いて女を男と言いくるめて、向こうはそれを信用して言いくるめられて書いた。中国人はその程度の知能指数だ。
 そういう歴史学を、それを歴史学と言えるかどうか知りませんが、日本では通用しても世界では相手にされないのではないか。通用しないのではないかと、わたしは思います。
 それからイ妥*(タイ)国は、私はこれでよいと思う。率直に言いまして、中国側から見れば、多利思北孤側が勝手に国号を作って、「イ妥*国」と名乗ったと思う。そして国書に「イ妥*」国と書いてあったから「イ妥*国」と中国側は書いたと思う。当たり前の考えですが。しかし、その後中国側は夷蕃の国が勝手に国号を作って名乗ってきた。中国側としては認めがたいということで、『旧唐書』以後は採用しない。しかし本人は倭国と名乗ってきたのを、中国側が勝手に国名を作って、ありもしない国名を空想で書き込むというような、中国はそんな国ではない。これは倭国側が、正式の国書に正式の国名として書いてきたから、これを記載した。そのように考えるのが筋からいって正しい見方である。それを日本の学者はこれを何かのミスだ。何かの間違いだとしてとしてカットして倭国に直している。
 また『隋書』イ妥*国伝に有名な言葉がございます。

有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭有如意寶珠其色青大如鷄卵夜則有光云魚眼精也
 阿蘇山あり。その石、故無く火起り、天に接する。・・・

 「阿蘇山あり。」今読んでなつかしいですが、私が『失われた九州王朝』を書く前にも。一生懸命阿蘇山を、近畿大和に探したなつかしい思い出があります。これは今から考えれば馬鹿みたいな話です。あるはずがない。これは九州の阿蘇山である。後の日本で富士山が風土の代表として扱われているように、イ妥*国の風土の代表として阿蘇山が扱われている。しかも火を噴いている。日本人にはちっとも珍しくはないが、中国人にはたいへん珍しいわけです。それを非常に端的に「火を噴いて天に接す。」という見事な表現をしている。これもやっぱり目の前に見ていると思う。これに対して瀬戸内海、これも珍しいと思う。あんな内海は、入り込んだ海は中国にない。川はあるけど。もし来て見ていたら、一言でうまく表現していたと思う。たとえば瀬戸内海を「池でないけれども湖のごとく」など。さっそうとした文章でそれを表現したと思う。それがない。だからやはり瀬戸内海には行っていない。いわんや大和三山は全く書いていない。
 先入観なしに見れば、『日本書紀』や『古事記』の影響を受けずに考えれば、国学の教養を持って見ずに、この文章そのものを見れば、この「日の出ずる処の天子」というのは九州である。こう考えざるを得ない。そのことは『失われた九州王朝』という本でも、その点を一つのポイントにしました。
 更に私が今回付け加えれば、従来は「太子を名付け利歌弥多佛利(りかみたぶつり)と為す。」という一節がある。これが一体何を意味するか、従来の学者は苦心して解釈している。「利歌弥多佛利(りかみたぶつり)」と一体何者か。「利歌弥多佛利(りかみたぶつり)」というのは日本語ではない。それで聖徳太子や山背大兄皇子に結びつけようと大変苦労している。
 私はこれを「太子を名付け利と為す。歌彌多弗の利なり。」と読み、太子を名付けて(中国風の一字名称で)「利」と言います。(福岡県)上塔の里にいる。と解釈します。
 これは実は「利(り)」というのは、先ほど出てきました神在(かむあり)の「り」で、吉野ヶ理の「り」で、太宰府の近くに「大利」と書いて「おおり」と読む所がある。上大利(かみおおり)、下大利(しもおおり)がある。「おおり」読むならば、これは日本語である。「おお」も日本語だし、里・利(り)というのは、日本側の町・村にあたるような呼び名だ。
 これも一言述べておきますが、東の箱根の近くの足柄峠もそうである。万葉集に出てくるときは、半分は「あしがら」、もう半分は「あしがり」と出てくる。あそこでも「り」という語尾になっている。もう一つ同じような例で、信州の有名な縄文遺跡である尖石。あそこに尖った大きな石もありますから、私は今まで、尖石とずっと思っていた。ですが、ある人のご教示を受けて分かったことですが、「戸(と)」というのは、戸口の戸のことであり玄関の入り口の戸(と)であり、「がり」というのは吉野ヶ里の「がり」と同じではないかと言われた。そう言われれば、そうかも知れない。
 そう言われて、ぞっとした。あそこには弥生の古墳は全然無い場所である。縄文の遺跡しかない。「とがり」も地名である可能性が強い。石が尖っているから「尖」という、いままで分かり易い解釈に騙されてきた。ですから里・利(り)というのは、日本側の町・村にあたるような呼び名で結構あります。
 とにかく、これは「利歌弥多佛利(りかみたぶつり)」という変な日本語ではなく、「太子を名付けて中国風の一字名称で「利」と為す。上塔(かみとう かみたふ)の利(里・り)なり。」と読むべきである。
中国風の読み方として彼は「利(り)」と自称していた。博多の近くに上塔の地名もある。先ほどの『明治前期全国小字調査票』で調べたのですが、現代かな使いではなく、旧かな使いで、このように仮名を振るが、縄文水田のあった板付の近くですが、上塔(かみとう かみたふ)下塔(しもとう しもたふ)とある。その上塔に彼はいた。所在を言っているのではないか。(上塔におられる皇太子)そこにいた皇子だからそう読んだのでないか。もちろん断定は出来ませんが。そういう理解をすれば、普通に理解できるということです。

 それから、又少し申し添えますが、

又東至秦王國  また東して、秦王国に至る。
其人同於華夏以爲夷州疑不能明也  その人華夏に同じ。夷州となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。

 従来は秦王国の説明だと読んできましたが、どうもそれではなくてイ妥*国の「その人」の説明で有るようです。「その人」の用例を見てゆくと、隋書では「〜伝の人」の意味で一般に使われているようですので、ここもそのように見るべきである。
 つまりこれはイ妥*国の風俗は中国とよく似ている。「夷州の国」というのは、彼らから見れば東夷の国ということです。夷州の国へ来たと思っていたが、中国の習慣風俗とよく似ている。我々とそっくりである、本当にこの国は東夷の国か。とこう言っているが、われわれと同じ地名が付けられている。制度も良く似ている。
 それに天子を称しているが、天子というのも中国の制度である。天子という制度も百%中国を真似ていることは疑いがない。それだけでなくて天子の右腕に当たる人、一の子分を秦王と称していることまで、一致している。『隋書』に出てきます。秦王国も中国の制度である。 これも従来は秦王国の説明として、特別に秦王国が中国人に似ている国という説明を従来行ってきた人があるようですが。どうもそうではないと考えております。
 だから『隋書』を見たとき、これは「大和朝廷では無いな。」と、率直に最初に思った感想がそれである。これは、第一回に述べました、まだ邪馬一国の場所が、未だどこか分からない段階で、『隋書』についてはこれは九州だと思った。これを大和にするのはどう見ても無理です。そう強く感じていた。そのことは松本清張さんに東京でお話ししたことがあります。

 

八 『唐書』の倭国と日本

 今の問題を一番明らかにしているのが、『旧唐書』でございます。
 ここではハッキリと倭国伝と日本国伝とに分けてある。七世紀の終わりまで倭国である。そして八世紀の初めから日本国となった。これもその時の中国側の実力者、唐の即天武后が日本国と認定したということが出てくる。七〇一ないし七〇二年の段階で出てくる。日本国という形で中国側が承認するという事になる。
 しかも倭国と日本国の関係も書いてある。もともと倭国であった。日本国はその別種である。

『旧唐書』日本国伝
日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本
日本国は倭国の別種なり。その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。
 ここからが大事で、

或云日本舊小國併倭国之地
或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり。

 「或いは曰う。・・・或いは云う。」というのは、現在の学説を挙げているのでは無くて、彼らの言い分を次々挙げるときに、「或いは曰う。・・・或いは云う。」と言っているだけである。
 要するに倭国と日本国は別の国だと、はっきり疑う余地無くそう言っている。しかも日本国はもともと小さな国だった。(近畿)天皇家が日本国。ところが倭国のほうが本来の母の国だった。その倭国を併合した。当然白村江の戦いの後です。白村江の戦いは六二二・六二三年ですが。それから三十九年経って、その戦いで負けた倭国を併合した。ハッキリ書いてある。その併合したのを則天武后は承認した。承認した側の資料ですから、これを「嘘を書いてるだろう。間違って書いたのだろう。」とよく言うと思いますよ。
これは別に岩波文庫に恨みを持っていないし、お陰ばかりを被っているが。そこに『旧唐書』を記載した本がある。それの解説に「『旧唐書』は倭国に日本を合わせる不体裁なことをしている。」と書いてある。中国人を馬鹿にしている。「中国人が本当に馬鹿なことを、つまらんことを書いている。」と言っている。その一言で天皇家一元という立場なのでしょうね。現在でも大変版を重ねていますが、その解説は変わってはいません。
 そういう人たちの根拠はなにかと言いますと『新唐書』である。唐が滅んでから直後に『旧唐書』ができ、それから百年ほど経って『新唐書』が出来る。そこでは倭国伝・日本国伝という二本立ての姿がなくなって日本国伝一本しかない。
 だからこれを楯にとって、これが正しい。『日本書紀』・『古事記』の言っていることと一致している。だからそれと一致していない『旧唐書』はつまらん事を書いている。こういうふうに批判している。
 ところが『新唐書』を良く読むと、とんでもない話です。良く読むと言いましたのは『新唐書』で日本国伝一本になっているのは当然なのです。なぜかと言えば『新唐書』の最後の跋文・あとがきを見ますと、なぜ『新唐書』を作り直したかという説明が書いてある。『旧唐書』というものが存在する。しかし欠点もある。唐の後半部があまり詳しくない。書き方に大義名分においてに欠けるところがある。書き方に問題がある。そういう事を挙げて、それでもう一度改めて書き直したと書いてある。それは『旧唐書』の書いていることが嘘だ。間違いだというわけではない。唐が滅んだ直後唐の史料を全面的に使って書いてある。唐はもちろん文字の有る国です。文字の有る国の記録を使って書いてある。それ自身が嘘であると百年経って言えるはずがない。そうではなくて『旧唐書』は最近百年ぐらいのところを、『旧唐書』が出来た頃のことを書いていない。
 それはそうですね。私なども大学に入ったときに村岡典嗣先生の言葉として、「私は(原則的に)明治以後を扱いません。なぜならば明治以後は歴史ではありません。」と言われて、えっと思った。明治生まれの方ですから、明治生まれの先生にとっては新聞で知っているような現代の話である。「自分にとって歴史ではない。だから私は歴史であるところの、明治時代前の江戸時代までを歴史として扱う。」と言われたことを覚えている。
 そういう感覚で、『旧唐書』を書いた人にとって唐代後半は現代という感覚である。記事は全く無いことはないが大変簡略である。おそらく実際は大変史料が有りすぎて困ったぐらいである。ところがそれから百年ぐらい経っていますから、『新唐書』を作った人にとっては簡略なところを詳しく欲しい。それともう一つは、書いて有ることですが最近の軍事情勢・国際情勢をキャッチすることが、出来るようなことが一つの目的である。ところが『旧唐書』では現在の軍事情勢を十分にキャッチできない。これも非常に困る。それで改めて作り直したと書いてある。それで昔、この国とこの国に別れていたが今は統一されて一本になっている。そういう国は周辺諸国に幾つも有ります。そういう場合現在の国名に統一して、その国の歴史として昔何があったかを記録する。そういう風に書き方に変えている。書き方の違いです。別に歴史事実が変わったわけではない。そういう例はいくらも上げることが出来ます。その場合当然日本列島について言えば日本国しかない。倭国という国は消滅して併呑されて無くなった。母の国は。ですから倭国伝は書かない。その代わり日本国伝の中に倭国のことは書いてある。そのレッキたる証拠がある。

 『新唐書』百済伝である。日本国伝の前。そこで白村江(白江)の戦いの事が書いてある。そこに「倭」が二回出てくる。

新唐書 百済伝 白江
(龍朔)二年七月、仁願等破之熊津、抜支羅城、夜薄真、比明入之、斬首八百級、新羅餉道乃開。仁願請済師、詔右威衛将軍孫仁師為熊津道行軍総管、發薺兵七千往。福信國、謀殺豊、豊率親信斬福信、興高麗、倭連和。仁願巳得薺兵、士気振、乃興新羅王金法敏率歩騎、而遣劉仁軌率舟師、自熊津江偕進、趨周留城。豊衆屯白江口、四遇皆克、火四百艘、豊走、不知所在。偽王子扶余忠勝、忠志率残衆及倭人請命。諸城皆復。仁願勒軍還、留仁軌代守。
・・・

 一回目は倭人が降伏した。二回目は高麗と倭と共に侵す。二回とも倭である。日本は一回も出てこない。なぜか。当然白村江の戦いの時、この時は日本国は無かった。『旧唐書』も、もちろん白村江の戦いは、倭との戦いとして書かれている。『新唐書』も当然変更する事実を認めていない。だから倭なのである。この事実は非常に重要です。二回とも倭である。だから七〇一を境にして、倭国は亡びた。そして小国であった分家であった日本国は、白村江で負けた倭国、母の国を併呑した。『旧唐書』の事実は別にそのまま動かしていない。
 岩波文庫のように『新唐書』は、倭国と日本国を別物のように扱っている『旧唐書』のように不体裁なことは無くなっている。という言い方は、『旧唐書』は間違っている。日本国伝一本の『新唐書』は『日本書紀』『古事記』の示すところと一致する。この理解はじつはアウト。実は事実でないことを示したわけでございます。
 この辺もおそらく私が無理なことを言っているとお考えのかたはいないと思う。言っていること自身が道理に反している、無理を言っているとお考えのかたはいないと思う。ただ皆さんが子供の時から教科書で習ってきた歴史書や、大学の先生などが書いている現在の歴史書から見ると違っている。そちらが正しいと見たら、こちらに無理がある。
 しかし人間の理性で見たら、わたしの言うことが筋が通っていると思う。筋が通っているということは明治以後の教科書がやっていることが無理である。わたし以外の学者が書いている歴史が無理な歴史である。そういうことを指し示している。
そのことが私が申し上げたキーポイントになるわけでございます。
 今日どんな話をしてきたかと言いますと、「OーNライン」と書いてありますが、OldのO、NewのNと言いまして、そこの境が七〇一年である。七〇一年から日本国、そう中国が認定している。それまでの倭国は滅んだ。そして小国であった日本国は倭国を呑み込んで日本国と称するようになって、中国はこれを正しい政権として認定した。則天武后が承認した。これは私の理解では、認定した相手自身が記録している。中国は文字の国ですから、そんなものを中国は近畿天皇家に遠慮したりする必要は全くない。白村江で勝っている。負けた方に遠慮する必要がどこにあるか。彼らが認識したことを書いた。『旧唐書』『新唐書』共に書いた。こう見るのが、その筋道であると思う。


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