古代史再発見第2回 王朝多元 -- 歴史像 1998年9月26日(土) 大阪 豊中解放会館

郡と評 都督と評督

古代史再発見第2回

王朝多元 6

-- 歴史像

古田武彦

九 郡と評

 それでは国内の方にその現れはないかというと、あるわけです。
 有名なテーマとして、戦後歴史学界の最大の論争と言うべき郡評論争です。井上光貞氏とお師匠さんである坂本太郎さんの論争です。当時若い講師か助教授であった井上光貞氏は、日本最大の歴史学会である東大の史学会で研究発表された。議長は恩師である坂本太郎さん。
 「大化改新の信憑性について」という発表である。
 『日本書紀』はおかしい。これには問題があるのではないか。特に大化改新のところで盛んに「郡」と書かれている。郡司という形で出てきている。しかし金石文やちょっとした系図などで見ると、どうも7世紀後半に「郡」という制度が存在した形跡はない。逆に「評」という制度が存在したことが伺われる。そうすると『日本書紀』の「大化改新の詔勅」に問題が在るのではないか。そういう発表が有った。
 これに対して議長の坂本太郎さんは、「今の発表は、私としては承伏しかねる。しかし私は議長だから主張する立場にないので、改めて論文を持って反論して答えたい。」と言った。その後両者の間で論文における論争が始まった。それで日本中の学者がどちらかに付いてという感じで一大論争になった。それで結論は若いお弟子さんの方の井上光貞氏のほうが、勝ったというか正しかった。
 それは最終的に奈良県の藤原宮の木簡(荷札)で決着が付いた。それを見ると七〇一年を境にしまして、それから前は「評」しか出てこない。郡はその後しか出てこない。そのことが非常にハッキリしてきた。そればかりではなく静岡県浜松市浜松駅(旧貨物駅)の伊場の木簡からも同じく七世紀末までは「評」、それ以後が「郡」で出てきた。同じ形で次々出てきた。木簡そのものは、くだらんと言えば言えるが、荷札ですから用済みになったら捨てるものである。それであるだけにイデオロギーに関係しないから、実用にたてば良い。そういう立場から見ますと、木簡というのは非常に正直な史料とみても、そう間違いはない。その正直な史料である木簡が全て七世紀末迄は「評」、以後が「郡」になっていますから、井上光貞氏の言うとおりが正しい。そういう形でドラマチックな結論を見た。私が『「邪馬台国」はなかった』を出す四・五年前です。決着を見たのです。
 ところがこのように決着を見たのですが、私のほうから見ると、まだ本当の決着は付いていないと私は考えています。
 なぜかと言いますと、坂本太郎さん自身が言ったとおり、「事実問題としては井上君の言ったとおりであると思うが、しかしなぜ『日本書紀』がそれを郡と書き換えなければならなかったのか私には分からない。」と言われた。
 そういう問題が残っている。坂本太郎さんは非常に正直な方である。
 なぜ正直かということを知っているかというと、わたしはお世話になった坂本太郎氏にもよく本をお送りした。そうすると葉書で返事を下さって、「あなたの本を頂きました。今読み終わってたいへん困っています。」という返事を送ってこられた。普通そういうことを書かない。「本を送って頂いてあり難うございます。参考にさせて頂きます。」というような当たり障りのない返事を書く人が多いではないですか。正直な人でないとそういう書き方をしない。
 その正直な坂本太郎さんが、今の論争が決着したと認めた後、しかしわたしには、まだ疑問が残っている。なぜ『日本書紀』が現実に「評」であるものを「郡」と書き直したか、私には理解できない。その通りである。そういう坂本さんのぼやきにもかかわらず、そういうことを現在の学界は無視して、孝徳天皇の時から評制が開始された。これが正しいと、現在の学界では位置付けている。そういう処理をして現在に至っている。
 しかし私は思いますが、現実は「評」であるということを我々は荷札で分かったわけですが、当時の『日本書紀』の編集した人は端(はな)から承知していた。『日本書紀』は七二〇年に作られた。二〇才の青年は赤ん坊だから知らないけれども、四〇才の人は二〇年「評」の中で生活している。五〇才の人は三〇年間「評」の中で生活している。そんな年の連中が『日本書紀』を作っているわけでしょう。みんな自分たちが子供の頃は評であったことを、満場一致だれもが知っていることである。何回も出てきますからね。それをみんな「評」を「郡」に書き変えたのか。ついうっかり書き換えたでは済まない。やはり「評」という制度の存在を隠したかった。故意というか、うっかりミスでは有り得ない。何回も出てくる。その故意は、「評」という制度の存在を隠すための、そういう故意である。そう考えなければならない。そういうことは論理の筋道からして当然ではないか。
 その「評」という制度はとうぜん一人の人間が気まぐれに言い出したのではなくて、当然権力が施行したと考えなくてはならない。その「評」という制度を隠したという事は、とうぜんその制度を施行した権力を隠すということの目的以外には有り得ない。つまり七〇一年以前には、七〇二年以後の近畿天皇家とは別の権力が存在した。そのことが無いような顔をして、『日本書紀』を作らなければ、ならなかった。「評」という制度が出ていては都合が悪かった。だからずっと「郡」でしたという建て前、(「郡」は孝徳天皇からでしたという建て前)——読んだ方は、みんな嘘だと知っている。言ったら駄目よ。——そういう建て前の本を作った。
 「評」という制度を真に施行したのは誰か。この場合には、近畿天皇家以外に施行したのは誰か。そういうふうに論理に絞られてくる。論理的に考えて見て七〇一年以前に、近畿天皇家ではない権力中心が——制度を相当広範囲に施行するというのは、権力がなかったら存在しない。静岡県浜松市まで広がって出てくる。もちろんまた九州にも系図などで出てくる。そういう広範囲に施行されている——、絶対に権力が施行したに決まっている。私がそう言っても想像ではない。想像かもしれんが、万に一つの疑いのない想像です。その権力を近畿天皇家は隠している。『日本書紀』は隠そうとして書かれている。こうならざるを得ない。それは何者かといえば、言うまでもない。先ほどの中国の歴史書にある倭国である。中国側はなにも近畿天皇家に遠慮したり、ゴマをすったり、遠慮する必要は何もない。
 その中国側の史料によれば、倭国は七〇一年で滅亡した。志賀島の金印以来の倭国を滅亡して、その分家であった日本国が併呑したと書いている。併呑した側が郡制であって、併呑された側が評制であったと考えざるを得ない。

 

十 都督と評督

 しかも郡の場合には郡司という役職はあるが、評の場合は「評司」という言葉はない。金石文その他で出てくるのは、「評督」という言葉である。だから違いがある。『日本書紀』を「評」という言葉をただ「郡」に書き直せば良いという訳にはいかない。役職名が違う。ところが「督」という言葉は見覚えがある言葉である。何が見覚えがあるかというと「都督」という言葉で出てくる。
 先ほど説明しました『宋書』をご覧下さい。

太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
・・・
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所
・・・
順帝昇明二年遣使上表曰
・・・
開府儀同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王・・・

 『宋書』に倭王は中国側から見ると都督であると何回も出ている。倭王は都督であったことは疑いがない。「都督」がいたところを中国側が歴史書でどう読んでいるかというと「都督府」という。中国側で天子のもとの役所を「府」という。京都府とか、大阪府というのはその流れである。
 それでは日本で「都督府」が存在した形跡がある場所があるかといえば、一つだけある。文献的には『日本書紀』天智紀に出てるのですが、「筑紫都督府」という言葉が出てくる。筑紫は当然福岡県です。

日本書紀 巻第廿七
 天命開別天皇 天智天皇
六年春二月壬辰朔戊午。
・・・
十一月丁巳朔の乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。

 それでは現実の場所に「都督府」という名が残っている所はあるか。これも一つだけ在る。福岡県の太宰府に行かれると遺跡があって、その前に大きな石碑が建っていて、そこに「都督府楼跡」として出てくる。普通現地の人はこれは「都府楼」と言っている。これが「都督府」の略形であることは疑いがない。例として中世文書でも太宰府は太府と略するのと同じ形である。「都督府」のことを「都府」と呼び、建物のことを「都府楼」と言っている。
『日本書紀』にある「筑紫都督府」に一致している。
 これに対して大和都督府とか近江都督府等は、文献にもないし、現実にそんな呼び方も全く残っていない。ということは日本で都督府があったと見られる所は全国で一カ所で、福岡県太宰府市の筑紫都督府だけである。
 これも意地悪ではないが、いろいろお世話になっている岩波古典大系での「筑紫都督府」のところの注釈が凄い。これは『日本書紀』を作る原本があって、その原本が写し間違えて、それを又そのまま写し間違えたものである。想像に想像を重ねている。『日本書紀』の原本などは誰も見ていない。ところが『日本書紀』のまた元が、写し間違いをして「筑紫都督府」と書いて、それをそのまま写し間違ったのだろう。これは「書いてあるけど信用するな。」と書いてある。あんな注釈、よくも書けたなあ。という気がする。一度帰ってご覧下さい。もちろんこれは苦し紛れとしか言いようがない。
 「筑紫都督府」というのは、中国が使いを送ってきた。捕虜を返す場所の記録として「筑紫都督府」という名称があったことは疑いがない。書かれて残っているとおりである。現在も名前が残っている。ということは、あそこに都督が居たということになる。
 大和に都督が居るのに、筑紫に都督府があるとしたらおかしい。「都督」というのは中国で使って東アジアでは有名な政治用語です。出来上がった述語です。「都督」という言葉、これが元になって出来たのであろう言葉である「評督」というは、東アジア・中国・朝鮮にはないメイド・イン・ジャパンの言葉である。メイド・イン・倭国の言葉ですが、このメイド・イン・倭国の言葉を造るうえで、元になっているのが「都督」という言葉と考えるのは、それほど無理がない。
つまり私が言いたいことは、「評督」という言葉が各地で出てくるが「評」という言葉は関東から九州まで出てくる。そこの長官が「評督」で、それを統括する長官が居ないということは有り得ない。みんなが自発的に勝手に名前を付けました。それでは、九州から関東まで同じ名前が付かない。そういうことはあり得ない。それを統一した場所がどこかというと「都督府」である。
 各地の評の長官が評督、評督が数ある中でそれを統括したのが都督である。その都督が居たところが都督府。こう考えるのが一番筋が通った考え方である。都督となるとメイドイン・ジャパンではない、中国の言葉である。倭王でないと名乗れない。倭王でない人間が私も「都督」と名乗りたいと言っても勝手に名乗れるものではない。となりますと今述べた評制の中心は今の九州・都督府である。このように考える。
 そのことは『旧唐書』に書いてある事と一致している。倭国というのは志賀島の金印の以来の国が、全部倭国であり、白村江もその倭国と闘った。それを倒した。それを分家である日本国が併合して統一の王者となったことを、それを倭国を倒した方の唐が承認した。則天武后が承認した。こう言っている。その話ときちんと合う。
それを中国側の史料、後代史料とは言えない唐が滅んだ直後に書かれた『旧唐書』でも、そのように言っているし、(唐が滅んで)百年近く経って編纂された『新唐書』も同じ立場に立っている。だいたい中国の中でも唐ほど、日本と関係が深かった国はない。その唐が『新唐書』・『旧唐書』を通じて一致して言っていることを、日本が『日本書紀』『古事記』に合わないから、あれは嘘だよと言ってみても、私は「夜郎自大」というか「手前味噌」としか言いようがないと思う。
 率直に言って、私は天皇家のことを良く言うとか悪く言うとか、まったく無関係で、天皇家が素晴らしいということが史料を追跡してわかった場合は遠慮無く言いますし、そんなイデオロギーとはまったく無関係である。
 そんなことには関係なく、筋道として日本と最も関係が深かった白村江で闘ったその中国が『旧唐書』『新唐書』を通じて書いていることを、ウソだという言い方が出来る資格のある人はどんな日本人にも、学者にも、いないと思う。天皇家の御用学者だから、それを守らなければ我々は食べていけないと言うのなら、それはもうおしまいで、仕方がない。しかしそれは本当の学問ではなく、国際的に通用するべき学問でもない。わたしはそう思います。
 わたしが今日言いたかったことは「七〇一」という問題でございます。「七〇一」を前提にしない日本の歴史は疑わしい。はっきり言ってインチキである。残念ながら現在の教科書や学者の本は、皆いかがわしい立場に立って書かれていると、言わざるを得ない。そういうことをはっきり言うから、古田を相手にしなければ、いずれ死ぬからという期待に胸を躍らせていると思う。しかしわたしは「それは思い間違いだ。」と思う。わたしの言うことが無理無体なら、死んだらもちろん消え去るであろう。しかしわたしの言うことが筋が通っているなら、わたしが死んだらよけい始末に負えなくなる。生きているときは「あんな奴が言うことは信用できるか。あんな奴が井上光貞先生や津田左右吉先生より偉いと思うか。」と問われるだけだが。(両方とも)死んでしまえば、いずれ劣らぬ死んだ人間ですから、残るのは論理だけの勝負ということにならざるをえない。(それで競争しなければならなくなる。)大体今までの歴史上もそうである。
 死んだら何とかなると思って、そういう思惑からイエスは処刑された。本居宣長も江戸幕府は勝手に町医者に言わせ放しにしていた。学問というのは朱子学で、国学を学問とは江戸幕府は一回も認めなかった。ところが亡びたのは国学ではなくて朱子学である。歴史のどれを取ってみても、その道理は一貫している。それは明らかである。体制側にいると、それが分からない。あいつさえ死ねば何とか成る。はかない望みを持つ。——体制を握っていたら宣伝力は抜群であるから——そう考えて最後は宣伝力で勝負するという態度に、ついつい出てしまう。わたしは、そう思っております。しかし、それは終わりに近づいていると理解しています。


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