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古代史再発見第3回 独創古代 -- 未来への視点 1998年10月4日
     大阪 豊中市立生活情報センター「くらしかん」

古代史再発見第3回

独創古代 3

-- 未来への視点

古田武彦

四 「君が代」か、「我が君」か

 『古今和歌集』の巻七の先頭にあまりにも有名な歌があります。

わがきみは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで

 これが有名な「君が代」に当たります。

 ところが、まず「君が代」とはどういうものか。わたし共の解釈をご存知でない方がおられると思いますので、ひとこと述べさせて頂きます。

 九州糸島・博多湾岸、その対岸に金印が出た志賀島がありますが、そこに志賀海神社という神社があります。そこに「山誉め祭」というお祭が年に二回(四月・十一月)行われます。「山誉め祭」はいろいろな祭を、時代別に重箱のように詰め込んだおもしろいお祭りですが、その最後に「君が代」が出てくる。村人の方々、漁民が多いと思いますが袮宜(ネギ)となって、このドラマというか劇を演ずる。向かって右側に神主さんが座っているが、神主さんは何もしない。ただ黙って見ているだけ。発言も一切何もしない。やるのはもっぱら袮宜さん達、村人たち。セリフもみんな決まっている。ある人が「七日七夜と・・・」と発言すると、別の人が、「やや!。あそこにお出でになさるのは、我君なるぞや。」とつぶやくように言う。そして別の人が「君が代は 千代に八千代に さざれいしのいわおとなりて こけのむすまで、あれはや あれこそは 我君の めしの みふねかや・・・」と言う。櫓を執って行う。後は省略。これは我々の知っている「君が代」のリズムとは関係ない。朗々とつぶやく。言い方は変ですが、朗々とセリフを語る。そういうお祭りである。

 君が代は 千代にやちよに さざれいしの いはおとなりて こけのむすまで

 一方で、セリフの中には、我君は七日七夜に、お出でになる。対岸の千代からお出でになるという設定です。千代というと県庁前(近辺)対岸。八千代というと、それを広くして博多湾全体を指す。それから今度は糸島に入りますと、細石神社、三雲遺跡の直ぐ裏。井原・三雲遺跡というと三種の神器の宝庫ですが。それからその神社の南隣にあるのが井原(いわら)遺跡。私は井原(いはら)だと思っていたのですが、土地の人に違うと教えられて、井原(岩羅 いわら)だと分かった。もう一つ言いますと背振山脈の第一峯が井原山、第二峯が雷山。そこに見事な鍾乳洞があります。「いわを(岩尾)」はおそらく、その井原山の尾にあたるところだと思うのですが。それから更に細石神社から西に行きますと、唐津湾の近く桜谷若宮神社。 ここの祭神が、なんと苔牟須売(こけむすめ)姫神。
 以上列記したように、千代から地名や神名が連なっている。「君が代」は博多近辺の地名・神名を綴りあわせてある。そして最後が苔牟須売姫神という祭神で終っている歌である。これが偶然の一致とは考えられない。

まとめの再掲載
ちよー  福岡県福岡市県庁前。 千代の松原(千代東公園)、千代町、千代県庁口(地下鉄駅名)。千代は現在の千代町。広げて言っても、その前の海岸である千代の松原。

やちよー (博多湾) 八千代というと、それを広くして、  おそらく博多湾全体

ざざれいしー 細石(さざれいし)神社、三雲遺跡の直ぐ裏 福岡県前原(まえばる)市、細石は神聖な石。

いわおー 岩尾 細石神社南隣に井原遺跡がある。井原山の尾に当たる所 井原(岩羅 いわら)など、福岡県前原市 背振山脈の第一峰が井原山、第二峰が雷山。ここは見事な鍾乳洞がある。 

こけむすー 苔牟須売姫神 桜谷若宮神社の祭神 福岡県糸島郡(唐津湾)

 博多でシンポジウムがあったとき、その前日に以上の地名群があることを現地で調査していた。そう言っていたら、古賀さん(現 古田史学の会事務局長)が、志賀島の志賀海神社の年に二回ある「山誉め祭」というお祭りに、地唄として「君が代」が述べられていることを知らせに来て頂いた。そういう劇的なドラマにより、劇的に「君が代」の理解が前進した。以上のエピソードを含めた問題は、本で紹介されています。
 とにかく今のように博多湾岸の地名、神名がずっと連なっている。志賀島の志賀海神社の年に二回ある「山誉め祭」というお祭りに、地唄として「君が代」が述べられている。これが偶然の一致と言えるはずがない。

 以上のわたしどもが「君が代」に対する一応の態度をまとめた『君が代は九州王朝の賛歌』(新泉社)で、示したわたしどもの以前の解釈である。ですからわたしどもの本を以前からお読みの方は、ご存知のことがらです。

 ところが先ほどの阿倍仲麻呂の「天の原・・・」の歌が、『古今和歌集』では「天の原」が、紀貫之の『土佐日記』では「青海原」に改竄されている。善意ですが改竄されている。この論理を押し進めることにより、「君が代」の理解がさらに前進した。
 『古今和歌集』をもう一度見て下さい。ここでは、「君が代」となっていない。ここでは全て「わが君は」となっている。第一句が違っていますが後は同じです。

わが君は 千代にやちよに さゞれいしの いはほとなりて こけのむすまで

 十世紀始めの『古今和歌集』では、どの版本をとっても「わが君は」となっている。「君が代」と成っている版本は一切ない。そして今まで、百年後に作られた十一世紀初めの『和漢朗詠集』から「君が代」となっていると理解していた。ーー山田孝雄氏という有名な言語学者の調べたもの、たとえば『君が代の歴史』(宝文舘刊)でも紹介されております。『古今和歌集』は全て「わが君は」である。ーーところが今回さらに確認してみますと、岩波古典文学大系『和漢朗詠集』の祝いのところを見ますと、ここでも全て「わが君は」となっています。
 ただ『和漢朗詠集』の流布本から、ーー流布本というのはもっと後に世間に売りやすいように、唐の『唐詩選』のように、一般の通俗本として編集され直したものから、ーー初めて「君が代」となっている。つまり二百年経った作り直した流布本で、初めて「君が代」となっている。
 となると、同一人ですけれども、紀貫之が編集した『古今和歌集』では「天の原」、三十年後の『土佐日記』では「青海原」となっている。善意でしょうが改竄というか、書き直していると判断しました。それ以上に、『古今和歌集』・『和漢朗詠集』では「わが君は」、二百年経った『和漢朗詠集』の流布本で初めて「君が代」がやっと出てくる。

 そうすると「わが君は」が本来の形であり、「君が代」が、改竄形というか、書き直しである。こう考えざるを得ない。今考えたらあたりまえで、もっと早くなぜ考えなかったのか。自分の頭の固いのを嘆くほかない。
 しかも先ほどの志賀海神社の「山ほめ祭り」でも「君が代」となっている。ところがよく詠むと、すぐ後のセリフが「あれはや あれこそは 我君の めしの みふねかや・・・」と書いてあり、「我君」と言っている。そうすると「わが君は 千代にやちよに ・・・」の方が、きちんとセリフにあう。ここも本来は「わが君は」である。改めて気が付いて驚いている。そうすると、まず間違いなく「君が代」は後世の改訂・書き直し文ということになり、本来の伝えてきた姿は「わが君は」である。こう考えてまず間違いがない。

我が君は 千代にやちよに さゞれいしの いはほとなりてこけのむすまで

 そうなりますと、この歌の性格がより明瞭になる。「我が君は・・・」となると、当然詠っている人も特定の人物ですが、「我が君」と詠われている人も特定の人物です。「君が代」でも大意は似たようなものであるが、「君が代は」より、もっと明確に一対一というか、「Aという作者が、その主君であるBに対して作った歌である。」という性格がはっきりする。ですから、それが本来である。

 そうするとおかしいのは、『古今和歌集』の書き方がおかしい。ここでは「題知らず、讀人知らず」となっている。明らかにこの歌が、Bという特定の作者(臣下)が、特定の主君Aに対して作った歌であることが明らかであるにも関わらず、「誰が作ったか知らんよ。どの天皇に対してか、知らんよ。」という注釈。そんなはずはない。「君が代は」でも、そんなはずはないが、「わが君は」となれば、いよいよもって、そんなはずがない。

 だから「讀人知らず」には二種類あるという有名な話がある。有名な平薩摩守忠度の例である。討ち取られるまえに、歌を勅撰集に載せると約束した。だから約束通り入れた。しかし「詠み人知らず」として載せたという有名な話がある。平家の討ち取られた逆賊だから、「詠み人知らず」として入れた。(平家物語巻第七)
 本当に知らないから「詠み人知らず」に入れた例もあるが、知っていたから「詠み人知らず」にしたものもある。

 これなども「わが君は」の歌は、作者をぜったい知っていたと思う。知っていたから載せない。神官の名前を知っていたから「題知らず。讀人知らず」にした。ということはこの歌は、天皇家の歌ではない。この歌は九州王朝、筑紫の君に対して詠んだ歌である。そういうことを知っていたからカットした。
 さてそうなりますと、その意味を考える場合、そういう考え方から視ると、私も『「君が代」は九州王朝の讃歌』(古田武彦他)であいまいにした、他方現地の志賀島の「山ほめ祭り」というお祭りもある段階で「君が代」になった。あいまいになった。しかし特定の人物に対して詠んだものであるとなると、そこで元の形の意味はどうか。もう一回考え直してみた。
 この「我が君は」、博多湾岸あえて特定すれば県庁の千代辺りに住んでいる。そしてこの人物は、どうも体の調子が悪い、極端にいうと胆石とか目を病んでいる。病気を持っている。あるいは少なくも老齢になっている。

 それで『古今和歌集』の歌に戻り、三四三「わがきみは・・・」と、三四七迄の歌群と三四七「わがよはひ・・・」という一連の歌を見てみます。

古今和歌集巻七
賀哥(がのうた)
題知らず                 讀人しらず

343 わがきみは 千代にやちよに さゞれいしの いはほとなりて こけのむすまで

344 わたつみの はまのまさごをかぞえつゝ 君が ちとせの ありかずにせん

345 しほの山 さしでのいそに すむ千鳥 きみが みよをば ちよぞとなく

346 わがよはひ きみがやちよに とりそへて とゞめをきてば 思ひでにせよ

仁和の御時僧正遍昭に七十の賀たまひける時の御哥
347 かくしつゝ とにもかくにも ながらへて 君がやちよに あふよしも哉

 と言いますのは、三四七「わがよはひ・・・」という歌があります。見ますと「仁和の御時」とあるが、光考天皇の時。この歌は光考天皇が作った歌。光考天皇のほうは若い。作られたほうの僧正遍昭は七十歳、私は七十二才で僧正遍昭より年上ですが当時としては、かなり老齢である。
 僧正遍昭、この人は大分調子が悪い。寝たきりで。そのままで良いから、とにもかくにも命だけ生き長らえて欲しい。そして、あなたが八千代になった姿を私は見たい。頑張って下さい。そう解釈できる。つまり老齢であり、かつ動けない。植物人間とまではいきませんが、かなり寝たきりになっている。そういう人に対して、元気に活躍出来なくとも良いから、とにかく八十になった姿を見たい、と言っている。「頑張って下さい。」という、ねぎらいでもあり激励の歌である。

 そういう歌から、さきほどの「君が代」の原形、歌三四三「わが君は・・・」を考えてみたら、この歌は変な歌である。そうは思いませんでしたか。よく考えてみたら変な歌である。
 なぜなら「わが君」は一人の人間ですから、当然有限な人間です。誕生するときがあり、死ぬときがある人間に決まっている。そういう前提で、歌は始まりながら、「千代に八千代と・・・こけのむすまでと」と言っている。無限を願っている。十代の青年や二十代の若者にも「千代に八千代と・・・」と言っても悪くはないが、余りふさわしくない。ふさわしいのは御本人は老齢である。そう長くは生きられない。かつ病気になって動けない。いつ亡くなっても不思議ではない。そういう条件に置いて、「いや、あなたは永遠に生きていて下さい。」と。そういう場面に、この歌は非常にふさわしいと思いませんか。有限であるから無限を望んでいる。そう理解すると、わたし自身は一番この歌に納得できる。

 そうなりますと更に考えを進めてみると、なぜこの歌は博多近辺の地名・神名を綴り合わせてあるのか。という問題になってくる。「千代から・・・こけのむす」までに到るのかという問題に行き着く。
苔牟須売姫神という神様は、皆さん聞いたことがないはずである。なぜかというと『古事記』『』日本書紀』には出てこない。それで雄大な玄界灘望んで、芥屋の大門という非常に有名な海の洞イ妥*がある。それのお向かいさんに、唐津湾に望む福岡県糸島桜谷若宮神社に、苔牟須売姫神は祭られている。

 ところで苔牟須売姫神をこのように考えることが出来る。
苔牟須売姫神 こけむすめのひめかみ

こ ー 接頭語 「越(こし)の国」などの「こ」

け ー 芥屋(けや)、もののけ(物の怪)と同じ“け”である。

こけー 地名。植物の苔は当て字である。芥屋の大門という非常に雄大な玄界灘に向かっている海の洞がある。「けや」に対する、それと対を成す「こけ」と呼ばれる地帯、地名だと思う。

む ー 牟 主たる、主人公という意味

す ー 須 鳥の巣、本来人間の住むところも「す」です。鳥栖という地名がある。「住む。」と動詞もある。
むすー 人が住む主たる場所、大集落や中心地を指すと考えます。

め ー 売 当然女神、女神中心は縄文の神である。

 「こけ」という場所に住んで居られる主なる女神、そう考えた。「こけ」は地名である。縄文はご存じのように、土偶を見てもオッパイがあり、女性中心である。ここでも縄文の女神であると考えています。

 ご存じのように天孫降臨という名の侵略・侵入。天(海部)族が、わたしは壱岐・対馬だと考えるが、稲作の中心地・博多湾岸に侵入というか、征服した。その人々の神々は天神、天満宮の天神。侵入した方の神々。それに対し侵入された方の神々はすでに縄文からいた。その中の一人の女神である。侵入いぜんの神々の一人である。
(さきほどお話ししたように、近畿大和平野では南の天香具山、北の御蓋山という山に神々が下りてくる話は、『古事記』『日本書紀』にない。神武東征以前の前から居た神々であり、神話と考えています。)

 さらに想像をたくましくすれば、現在ここは唐津湾の入り口である。弥生・縄文時代は唐津湾が中心部まで入り込んでいる。高祖山連峰の辺りまで、湾が入り込んでいた事が知られている。そうすると、この神様はいよいよ入り口にある。元はそういう意味で、入り口の航海安全の神様である可能性がある。その神様に、わが君の寿命を延ばそうと祈願を込めている。老齢になって、いつ死んでもおかしくないわが君の寿命を延ばそうと祈願している歌で、祈願をこめる道中双六というか、道筋を読み込んでいる。到着点は苔牟須売姫神。

 それでは、なぜ苔牟須売姫神なのかは深くは分からない。しかし考えてみたら縄文の多神教の神々のばあいは得手がある。どこへお詣りすればよいのが、決まっているのでないか。靖国神社に痔を治そうとして、お願いには行かない。咳が出て困るから明治神宮に行って直そうと祈願する人は、あまりいません。やはり痔を治すのはこの神様、咳を直すのはこの神様と、庶民の中で評価は決まっている。ですから余命幾ばくも無いときに、天照大神に頼みにいくとか、天満宮に頼みに行っても駄目です。やはり寿命を延ばして頂こうと考えたときは、やはり古き縄文のこの女神に頼みに行って寿命を延ばして貰う。そういう事が伝わっていたのではないか。そういう構造である。『古事記』・『日本書紀』の世界以前の、古い縄文の世界を前提にしないと問題は理解できない。

 なによりも七〇一年以前は、日本国の前に倭国があって、志賀島の金印以前の倭国(九州王朝)である。奈良県の近畿天皇家はその王朝の分派である。その歴史を抜きにして、「君が代」は理解できないということである。出来るなら説明して頂きたい。私も『「君が代」は九州王朝の讃歌』(古田武彦他)という本で、一応の理解を得たと考えていたが、そんなことはなかった。なんの、なんの。前半部だけだった。後半部は今の問題である。

 この問題はまだまだ発展がある。なぜあるかというと、それは苔牟須売姫神はどういう神々の一端であるかということである。縄文の神々は多神教であるから、その研究をおこなわないと本当の苔牟須売姫神、縄文の神々の理解には本物にならない。これで次の研究の出発点にようやく、たどり着いたところだと。こう思っております。

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