古代史再発見第3回 独創古代 -- 未来への視点 1998年10月4日
大阪 豊中市立生活情報センター「くらしかん」
晁卿衡を哭す 李白の臨路歌 朝日新聞社の『戦争』
古田武彦
最後に、わたしにとって最近の大きな発見、楽しい発見を報告したい。「晁卿衡を哭す」という題の詩です。晁衡というのは、阿倍仲麻呂の中国名です。卿というのは、お公家さんの尊称です。晁が姓で、衡が名になる。
阿倍仲麻呂は、長安で自ら主人公となって送別の宴を行い、 日本に帰ろうとした。ところが船が沈没して死んでしまった。ところが、これは幸いなことに誤報だった。ですが、その誤報が長安に伝えられた。そのときに有名な李白が、阿倍仲麻呂の哀悼の詩をつくっている。
なかなか阿倍仲麻呂という人は中国人にとって外国人でありながら、中国の有名な詩人から非常に信頼され愛されたようですね。王維もそうですが。いちおう同じ役所で、阿倍仲麻呂は上官で王維は下役にあり、そういう関係があるから王維は当然といえば当然と言えないこともない。けれども李白は官僚になったことはないし、その官僚と無関係な李白が阿倍仲麻呂を哀悼する詩を作ったということは、阿倍仲麻呂という人はよほど優れた人間的魅力を持っていたのだろう。その詩が残っています。
「精選高等漢文」
李白
哭晁卿衡 晁卿衡を哭す
日本晁卿帝都辞 日本の晁卿帝都を辞し
にほんの ちょうけい ていとを じし
征帆一片蓬壷遶 征帆一片、蓬壷を遶る
せいはんいっぺん ほうこを めぐる
明月不帰碧海沈 明月帰らず碧海に沈み
めいげつ かえらず へきかいに しずみ
白雲愁色満蒼梧 白雲愁色、蒼梧に満つ
はくうん しゅうしょく そうごに みつ
短い詩ですね。通念の意味を言いますと、
日本の晁卿・・・日本からやってきた晁衡(阿部仲麻呂)は、彼は帝都長安を去って行った。小さな帆柱の船に乗って
蓬壷を遶る・・・蓬莱島のまわりを船でめぐって帰っていった。「蓬壷」というのは、日本のことを言っています。中国で日本列島にあると言われているのが「蓬莱島・山」。また「方壷」というものがあって、その上に島があるような、そういう表現がある。『山海経』『准南子』などにある、そういう日本にまつわる二つの言葉を合わせまして、「蓬壷」という言葉を造って使っている。
ところが、
明月帰らず・・・月というのは、東から出て西に沈んで、また次の日、東から出る。ですが、このばあい阿部仲麻呂のことを月にたとえている。もう阿部仲麻呂は日本に帰ることはできなかった。
碧海に沈む・・・そして青い海の底に沈んでいった。そして太平洋の一角と言いましょうか、東シナ海に沈んでしまった。
白雲愁色蒼梧に満つ・・・問題は最後の四番目の句である「蒼梧」です。白雲愁色はわかりやすい。
問題はこの「蒼梧」の理解です。「蒼梧」については、ほぼ全ての注釈書は、「蒼梧」については、中国の東海岸のなかに二つある。その一つは上海・南京あたりの北にひとつある。もう一方は中国南東方の海岸。この場合は、中国南東方の海岸沿いにある「蒼梧山」を指す。たぶん会稽山あたり近くをいうのでしょう。そこの沖合で沈んだ。李白はそのような誤報を得て、この詩を作った。この詩の「蒼梧」は、船の沈んだ「蒼梧山」の近辺。ここで死んでしまったと李白は誤報を得た。そのように解釈する詩なんです。わたしが見たところの範囲では、ほとんどすべての注釈書はそのように書かれてある。
ようするにこの詩は、大した詩とは見なされていない。その証拠に、さきほどの『唐詩選』にも入っていない。李白の詩はこのなかに三十三編入っていますが、この詩は入っていない。また『青木正児全集』にも入っていない。青木正児さんは李白の権威ですが、戦前に東北大学教授をしておられた。この方の李白研究は非常に優秀なもので、この中に李白の詩が百八十二編がおさめられていて、優れた注釈を加えておられる。青木正児さんが、この二百近くの詩を選んでいても、その中にも入っていない。ここに入れるほどの詩ではない。もちろん日本との関係を述べるときには、時に引用されていますが、それほど大きな評価を受けているわけではない。
しかしわたしが思いますのに、これは生意気ながら、おおきな誤解があるのではないか。
それはわたしどもが知っている「蒼梧」は一つだけ。知ってきた「蒼梧」は、洞庭湖の西南方面にある「蒼梧」。中国創立の英雄尭、舜、禹の、二番目の舜が亡くなった「蒼梧」である。かれは都西安をでて南蛮の地へ、おもむこうとした。教化か征服か分かりませんが。揚子江中流の洞庭湖、あそこから、さらに南に行こうとして、広東との間ぐらいにある「蒼梧の野」で没した。
諸橋大漢和辞典の「蒼梧」
「一名、九疑。」からはじまる部分
ロ一名、九疑。湖南省寧遠縣の東南。
舜が南巡して蒼梧の野の崩じたのは此處
これは有名な話である。『四書五経』のなかの『尚書』に書かれてある有名な話である。「蒼梧」といえば、わたしはすぐ舜の死んだその場所を思い浮べる。それ以外に、中国の東海岸に「蒼梧」があるということは諸橋大漢和辞典を引けば出てくるが、しかし「蒼梧」を辞書で引いて知るだけであって、ぜんぜんわたしが知らない「蒼梧」です。もう一つ広東の西北に行きますと、「蒼梧県」という県名が地名にある。しかし、そこにあるだけであって、そこで何があったかという話はない。それに山の中である。
ふたたび諸橋大漢和辞典からの引用
「蒼梧」は県名としては廣西省安平縣の東。
地名として、有名というか安定しているのがここ。香港の西北部になる。他に郡名とかありまして、山名というのがあって、
イ、江蘇省潅雲縣の東北、一名、雲臺山
とあって、数行うしろに
〔・・・江南淮安府海州〕鬱州山、州東北十九里、・・・「俗傳、自蒼梧飛来也」。
(蒼梧山が二カ所ある。)
私は考えますに「蒼梧」は蒼い桐という意味です。蒼い桐の木が生え茂っていれば「蒼梧山」になる。また蒼い桐が多かったら「蒼梧県」「蒼梧郡」になる。蒼梧という地名は、いくつもあっても不思議な名前じゃない。ですから、わたしは洞庭湖の西側の広東との間ぐらいにある「蒼梧」しか知らなかった。
ここから先は、わたしは遠慮なく言わせてもらうと、長安のインテリも、わたしと同じではないか。彼らは古典を勉強しなければ科挙の試験に通りませんから、舜が「蒼梧の野」に死んだ。そういうことはとうぜん知っている。しかし中国の東海岸に「蒼梧山」が二つある。そういうことを知っているのは、よほど地理に関心のある人は知っているでしょうが、一般の人は知らない。又広東の西側にある蒼梧郡蒼梧県は知っているでしょうが、まさか山の中で阿倍仲麻呂の船が沈んだと思うはずがない。
ですから李白の詩を読んだ場合、長安のインテリが「蒼梧」と言われて、まず思い浮かべるのは「舜の死んだ蒼梧」であるとわたしは思う。また、そのことを李白は知っていると思う。つまり自分が「蒼梧」という言葉を使ったら、読者である長安のインテリがどこの地域の「蒼梧」を思い浮かべるか、李白は知って作っている。その「蒼梧」は、さきほど言いましたように「舜が死んだ蒼梧」である。
それでなぜ仲麻呂の死に、大陸の真ん中の「蒼梧」が出てくるのか。
なぜ李白が持ち出したのか。
李白は、舜と阿部仲麻呂との間に、同じ人間の運命を観た。どんな運命か?。
舜は都を離れて、南蛮へ旅立った。目的は分かりませんが。行きぱなっしのはずがない。とうぜん目的を遂げて都へ帰ってくるつもりで出発した。ところが志なかばにして「蒼梧の野」に落ちた。同じく阿部仲麻呂も、日本から長安にやってきて第二の故郷のように過ごした。そして日本へ帰ろうとした。とうぜん、海で死のうとして旅だったはずはない。中国の文物、進んだ思想、新しい情報を故郷へ、もたらすべく日本へ帰ろうとした。ところが志なかばにして、むなしく海に沈んだ。それに「碧海に沈み」と書いてあるように、沈んだ場所をちゃんと書いてある。この詩には、海の真ん中で沈んだと書いてある。それをもう一回、だれも知らない「蒼梧(山)」の近くで沈んだと言い直す必要がどこにある。
それと始めの「蓬壷を遶る」は、明らかに『山海経』『准南子』などの中国の古典の言葉です。日常の地名用語ではない。それから始まっている。であるならば、あとに出てくる「蒼梧」も、四書五経の『尚書』にでてくる有名な舜の「蒼梧」ですよと言っている。そういう前触れとして「蓬壷」をおいている。実際に沈んだのは「碧海」で、沈んだに決まっている。ですからここは明白に、舜の運命を述べている。
男子こころざしを立てて・・・女子でも変わりはありませんが・・・志なかばにして没した人間の無念。しかし志を立てて、不退転でおもむく人間が素晴らしい。途中で没したのは残念かもしれないが、人間の名誉ではないか。そういう詩だった。
そうすると、これはすばらしい詩だと思う。
なぜかというと、いま人間のと言いましたが。具体的に言えば、あいての舜は天子。聖天子。中国の天子にも、いろいろの人物が居て、ぼんくらの天子もなかには居たと思う。しかし舜は、天子中の天子。実際は分からないが、「尭、舜、禹」の二番目の天子。イメージとしては天子中の天子。もう一方の仲麻呂は臣下。先ほど上級官僚になったと言いましたが、しょせん臣下。しかし李白は、天子と臣下をイコールで結んでいる。
志なかばにして没した人間の無念さにおいて、なんの変るところがあろうかと李白は言いたい。
さらにもう一つ。舜は、中国人の中の中国人。しかし実証的には本当の舜はどんな人物か分かりません。調べたら周辺の異蛮からきた人かも知れない。譲っても本当のことは分からない。しかし、たてまえでは中国人の認識では中華の代表。かたや仲麻呂は蛮族の代表というか、東夷のひとり。それを李白は、中華と蛮族をイコールで結んでいる。そんな差異がなんだ。志なかばにして没するくやしさにおいて、なんの変りがあろうか。李白はそう言いたかった。
それだけではなくて、片方は、時間帯がちがう。舜の時代は紀元前三千五百年。これも中華思想に逆撫でするようだが、舜の時代は半年・六カ月が一年と考える二倍年暦の可能性が十分ある。どこまでが二倍年暦か検討する必要がある。それで、とにかく紀元前二千年とする。仲麻呂は八世紀。時代がぜんぜんちがう。その時間的落差三千年。
これも李白らしいですね。三千年の差がなんだ。余りに大風呂敷を広げすぎて、すべて成功しているか調べてみないと分からないが。あまり調子よく書いて弱点になっているかも知れませんが。とにかくここでは白髪三千丈ならぬ、三千年は一瞬である。そういう立場に立つ。
さらにもうひとつ。片方舜は、大陸の、ど真ん中。中華の洞庭湖で没す。片方仲麻呂は、海のど真ん中、碧海に没す。大陸と太平洋を舞台に同じ悲劇が繰り返された。これだけ壮大なスケールで人間の死を謳った詩があるでしょうか。
さらに言いまして、人間観は素晴らしいですね。天子と臣下という身分の違い、中国人と東夷の違い。これだけの雄大な時間的、空間的なスケールの差、そういうものを敢然と無視。敢然と無視して、二人は同じ人間であると言っている。そういう同じ人間だと言い切る人間観は素晴らしい。私は中国のこんな凄い詩を見たことがない。 李白の詩の中のピカイチの詩だと思う。
私は青春時代熱心にゲーテとの詩を熱心に読んだことがあるが、これだけのスケールで人間観を歌った詩は記憶にない。ヨーロッパのゲーテとかの詩にもない。この詩が李白最高の詩なら、これはまさに人類最高の詩ということが言える。
わたしの理解にまちがいがなければ、最高の詩を発見した喜びをお伝えしたい。
この問題では念押しというか、李白の詩で別にもうひとつ、「蒼梧」がでてくる詩がある。「瀛海(えいかい)」という詩である。李白は中国の西の端、蜀の出身の詩人らしいことが知られている。蜀の中のやや東寄りの山(巫山の高峯)ですが、そこの山に登ってつくった詩がある。瀛(えい)は大海のことですが、どんな川も最後は大海・太平洋にそそいでいる。河は海にそそぐに決まっている。・・・その次に「雲を望んで、蒼梧を知り」という一節がある。東のほうに雲ぐらいは立ちのぼっていますが、李白はその雲を、蒼梧から立ちのぼる、そういう表現。これは明らかに舜の死んだ場所の「蒼梧」。洞庭湖の西南側にある。その「蒼梧」から、雲は立ちのぼる。実証的に調べた訳ではないが、そう見なしている。あきらかに、この詩の注釈でも舜の死んだ場所の「蒼梧」となっている。一方ですべての河は大海に達し、他方で舜の死んだその場所からは雲は立ちのぼっている。そこになにか舜のこころざしが白雲の形になって、わたしに伝わってくるようだ。そのような詩を創っている。
このような例から見ても、李白にとっては「白雲愁色、蒼梧に満つ」の用法は、舜の死んだ場所としての「蒼梧」をおもい浮かべるという長安のインテリにとっての定番であった。
もう一つ見つけたのは、李白の臨終のときに創ったと言われる詩がある。資料に青木正児さんの見事な読みを付けさせて頂いた。
臨路歌
大鵬飛んで八裔に振るい、中天に摧けて力済はず。餘風は萬世に激し、扶桑に遊んで石袂を挂く。後人之を得て此を伝ふ。仲尼亡びたるかな誰が為に涕を出さん
大鵬が八方に飛びまわった
・・自分は一生、旅をしてまわったことをいうのでしょう。しかしもう自分の命は終わりだ・・予感したのでしょう。自分の詩は現代の人間ではなく、万世の後の人間の心に届くことを願ってきた・・李白らしいですね。私は扶桑・・あの阿部仲麻呂のあの扶桑・・へ飛んで行こうとした。しかし行けなかった。そして後には、石のタモトに折れた翼が引っ掛かって残っているだろう。後の人がそれを拾って李白の翼らしいと言うかも知れん。しかし彼らは私の作った詩の真意を全く理解できはしないだろう。
大鵬飛んで八裔に振るい、中天に摧けて力済はず。
大鵬というのは荘子が詠った詩の中の鳳。一堵すれば南の端から北の端にいたるという、すごい大きな鳥。もちろん空想的な鳥です。李白は若いときから大変好きだったらしい。李白は若い時に、自分を大鵬に例えて、「大鵬の詩」をつくっています。やはり気宇壮大な詩を作っています。臨終の時でも、自分を大鵬に例えています。「八裔に振るい」自分は八方に飛び回った。・・若いときはだいぶあちこちに行ったらしい。「中天に摧けて力済はず」しかしもう駄目だ。自分の命は長くない。
餘風は萬世に激し、扶桑に遊んで石袂を挂く。後人之を得て此を伝ふ。
自分の詩は、現代の人々のためだけに作ったのではない。万世の後世の人間の心にとどくことを願ってきた・・これも李白らしいですね。問題はその次です。「扶桑に遊んで石袂を挂く。」「扶桑」が出てくる。「扶桑」は、古典ではとうぜん日本列島と明記されている。わたしは大鵬だが、どこへ飛んでいきたいか。扶桑(日本)へ飛んで行きたい。その一角に翼を掛けて、そこで死んで行きたい。後の人が、いろいろ言うだろう。私の詩を読んでいろいろ言うだろう。
仲尼亡びたるかな誰が為に涕を出さん
「仲尼亡びたるかな」の仲尼は孔子です。
孔子という人は、いろいろな面がある。道徳家という面もあり、政治思想家という面もあり、中華思想の持ち主という面もある。いろんな孔子像があるんですね。しかしもう一つ、忘れてならないのは詩人としての一面をもっていることです。
有名な話ですが『論語』のなかで、孔子が弟子たちに、「それぞれ、みな自分の思っている志を言ってごらん。どういうことをやりたいか。なにも遠慮はいらないから、みんな言ってごらん。」と言った。それで各自が、いろいろ言うわけです。なかには勇ましいものもいる。先生から教えてもらった政治方針で国家を運営したいとか。それぞれの性格にあうような、それぞれの壮大な夢をそれぞれ語る。
それに対してひとり風変わりだったのが、一番年長の弟子である曽が、「私はどうも若い人のように、景気の良いことはとても言えません。せいぜい自分の家で好きな詩を吟じている。一日を風に吹かれながら詩を吟じながら帰ってゆく。これが一番自分の望みは、それぐらいしかない」とささやかに言った。
そのあと弟子のひとりが、先生はわたしたちばかりに言わせて、先生が言わないのはずるいではないですか。先生も自分の志を言って下さい。そのように言われて孔子が言ったことは、「自分は、むしろ曽の考えに近い。晴れた日に詩を吟じたり、川べりを詩を吟じて歩くこと。わたしはこれがいちばん幸せだと思うよ」。肩すかしというか、わかい弟子たちは、先生がもっとすごいこと、宏遠な思想や論理の話や志を言うだろうと思ってふっかけたりして、問いただし聞き耳を立てていたら、こういう答えだった。この話は有名な話だ。
大自然の中で戯れる詩人の魂を持った孔子、こういう孔子を李白が愛していた。
もう一つ孔子について有名な逸話がある。それは「獲麟」という逸話で、辞書を引けば分かりますように「筆をおく。執筆をやめる。」という意味で、現在でも使われている逸話です。現代の青年は使わないでしょうが。
孔子のときに、麒麟という動物を捕まえて殺すという事件があった。蛇が神仙的なバケモノとなったものが龍であるように、鹿が年をとって神秘的な力をもつようになったバケモノになったのが麒麟である。麒麟はキリンビールのキリン。鹿編が付いていますから、鹿の化け物でビールのラベルに描かれているようなイメージを持たれ、そういう形で描かれていた。その麒麟が出てきた。具体的には、とし老いた大きな鹿が出てきた。それを黄河流域のある青年が、その鹿を捕まえて殺してしまった。そういう事件があった。これを聞いて、孔子が非常に落胆した。そのとき『春秋』という歴史書を書いているときだった。「もうだめだ。そんな麒麟を捕まえるというこんな無茶な事件が起こるようでは、もう歴史書(春秋)を書いても、意味はない。書くのはやめよう」と言って、筆を擱いた。こういう有名な話があります。
わたしのほうからの注釈を入れさせていただきますと、つまらん話なのですが、もと信州でわたしが下宿していた家に、年老いた猫がいた。なかなか賢い猫ですね。障子なども片手で開けますし、女の子が赤ちゃんでいましたが泣いたら、側に行ってあやします。お母さんなどが見えたらスッと消える。人間の領分を侵さないというか、最小限の役割だけを果たして役割が終えれば、スッと消える。猫だけど、わたしより賢い。わたしは青年として、その賢い猫の生き方に驚嘆していたことがある。
そういう賢い猫ならぬ、なかなか賢い鹿がいたのだろう。そういうとし老いた賢い鹿を神秘化して「麒麟」と呼んでいた。だからそういう年老いた鹿が出てきても、尊重して殺したり食ったりしないという暗黙の社会的ルールがあったのだろう。ですが当時の青年が出てきて、今風の「迷信だ。ばかばかしい。」と言って、青年が老いた大きな鹿を殺してしまった。それを観た孔子が、もう駄目だ。こんな世の中に歴史書を書いてもしょうがないと、執筆を止めてしまった。
これも理屈を言えば、なにもそんなことは関係ないのじゃないか。青年が年老いた鹿を殺したことと歴史書を書くこととは、合理的には無関係じゃないの。そういう世の中だからこそ、むしろ歴史書を書かなければならないと理屈では言えば言える。それはそうなんですが、この話の中に、ある孔子の人柄というか、人生の意気込みが表れている。それまでも、ずいぶん世の中の成り行きに落胆していたと思う。その挙げ句のはてに、そのような事件が起こったの聞いて、はあ!と思って落胆した孔子の非合理的な、詩人としての孔子のイメージの問題。理屈でいろいろ批判できるけれども、孔子はそういう人柄。これは倫理道徳の権化のような孔子とは違う。李白が好きだった孔子はそういう孔子ではないか。そういう孔子なら、李白は自分の気持ちを分かってくれると考えていた。
もう一つ有名な言葉が重なっている。李白の詩に「仲尼亡びたるかな」。仲尼は孔子のことですが、これも有名な辞です。孔子の弟子に年若い顏回という人がいまして、かれは孔子が最も愛し属目していた人です。ところが顏回が早死してしまた。そのときに、孔子は「天我を亡ぼせり」となげき、わたしの心を伝える人はいないと嘆いた。これも考えてみれば殺生な話で、他の弟子たちはどんな気がしただろう。自分より若い顏回が死んだからといって、「天我を亡ぼせり」はないだろう。俺たちの立つ瀬はないではないかと思ったと思うんです。それはそうなんですが、しかしそう言って嘆いているなかに孔子の人柄やイメージがある。それをやはり、李白はこの詩で使っている。論語の中の有名な一語です。あの孔子なら私の気持ちを理解してくれるだろう。けれども、あの理解してくれる孔子は、もういない。独断ですけれども、李白の人柄が出ている。しかも大切なことは、この詩のなかにキーワードとして、出てくる名詞が「扶桑」だけ。あの阿部仲麻呂の扶桑が出てくることは、この詩が李白に取って重要な意味をもっていたことを証明するものだと思う。もうこの時は阿倍仲麻呂は、長安に帰ってきていて、再会していたと思う。難破した船から阿倍仲麻呂は都に帰っていて、日本に帰らず長安で没した。
後一言申しますと、李白は科挙の試験を受けなかった唯一の詩人である。唐代の詩人は、多くが官僚である。そのなかで科挙の試験に落第したのが杜甫である。その中で唯一落第どころか、受けもしなかったのが李白である。・・・これは私の想像ですが、李白が毎年科挙の試験を忘れて受けなかったという事は想像しにくい。やっぱり科挙の試験に通るか通らないかで、高級官僚になれるかどうかが決まってしまう。当時としてすごい身分の差ではないか。ですから、受けなかったこと自身が人生観の表現である。
そういう李白だからこそ、舜と阿倍仲麻呂をイコールで結んだすばらしい詩を作れたのではないか、とわたしは思います。
最後に一言だけ付け加えたい。
実は私はある人の薦めで戦争問題に取り組み、その関係でだいぶ前の本ですが、朝日新聞社の『戦争』という厚い本を読む機会がありました。短いたくさんの文章を集めてある。ある人の文章にぶつかって胸を突かれた。書いておられるときに九十歳ぐらいの方で、今生きていられたら百歳を越えておられると思いますが。
「明治憲法の問題、それを背景にした明治以後の歴史認識の問題、これが誤っていた。誤ったままで、それを正すことが出来なかった国民が、今回のような敗戦という目にあった。そういう目にあい、そして戦場でたくさんの兵士を失い、あの空襲で妻も子を死なすという目にあった。それは結局誤った歴史を、そのままにしてきた国民の性である。これはやはり今後われわれは誤った歴史感を正さなければならない。」
そういう短いけれども、心にしみてくる文章がありました。もちろん直接は戦争中の皇国史観のことを言っておられると思いますが、わたしの目からはそれだけではないと思う。戦後の歴史も、今日申しましたように、わたしの目からずいぶん嘘がある。ずいぶん間違ったままになっている。わたしがいくら言っても知らん顔をしている。歴史学者から、文部大臣から、教科書検定官から、みんな知らん顔を続けている。
誤った歴史をそのままにしておくことは、その国民にやがて大きな災禍をもたらすであろう。これが本当ではないかと思った。
皆さんは、戦争中は(軍部が)ああ言ったから戦争に入ったので、戦後は違うだろうと思われるかも知れませんが。わたしが言うまでもないと思うがどうでしょう。国がぼんやり、ぼやけてきた。国のために死のう。一生涯を自分の仕事をやりつくし国のためにつくそうという人はいませんわね。国が、本当にぼやけてきた。ぼやけたときは国がいつまで続くか。外国の軍隊に守られ、それがどのような悲劇に、いつの日ふたたび。ふたたび嘘の歴史を覚えて、うそでも試験に通ればそれで良いのじゃないと、子供も母親も父親も言ってきたその責任が、この災禍をもたらした。第二の敗戦が、明治が、大きな悲劇が、こなければ幸いでございます。
わたしはもちろんそうあってはならないので、わたしは間違った歴史を間違ったと言う。わたしが間違ったなら言ってもらえば喜んで、わたしの考えが間違ったと訂正させて頂きます。
どうもありがうございました。
この講演のPDF版(電子書籍)を収得する
抄録に戻る
幾山河に戻る
ホームページに戻る
新古代学の扉インターネット事務局 E-mailは、ここから。
Created & Maintaince by "Yukio Yokota"
Copy righted by " Takehiko Furuta"