古代史再発見第3回 独創古代 -- 未来への視点 1998年10月4日
     大阪 豊中市立生活情報センター「くらしかん」

JapaneseRoot 日本(ヒノモト) 印金龠*(インヤク)神社 卑弥呼の墓 邪馬台(ヤマダイ)

古代史再発見第3回

独創古代 6

-- 未来への視点

古田武彦

質問 1

 九十八年六月二十八日の先生の講演会でDISCOVER(June.1998)という雑誌の中に書かれてあるJapaneseRootについて紹介されていた。この論文の最後に、気になることが書かれていた。 JapaneseRootそのものについて、日本人自体が知ることを欲しないと書かれてあった。疑問に思ったので、説明をお願い致します。

(回答)
 このことを御承知でない方がおられるので、その説明から入りたい。
 これは縄文人が南米にいたという報告をアメリカ側から書かれたひとりであるエバンズ夫人という方から、五月にわたしのところに送られてきた手紙の中に「Japaneseroots」という論文が資料として入っていた。もちろん英語です。DISCOVER(June.1998)というアメリカの雑誌で、日本で言えば中央公論とニュートンと科学朝日を一緒にしたような雑誌に書かれている。これにJAREDDIAMONDという豪勢な名前の人が、「Japaneseroots日本人の起源」という8枚ばかりのかなり長い論文を書いておられる。それを六月二十八日に紹介した。

 その論文の結論は「現代日本人はコリアンである。日本人は朝鮮人である。」という、すごい結論である。
 紀元前(BC)四百年ごろの段階で、朝鮮人が日本列島に襲来して、それまでの縄文人を征服した。その結果が現代日本人である。結論から言いますと、そういう結論なのです。

 おもしろかったのは論文を観たとき、英語を読むより最初目に入った写真である。同じページにアイヌ人の髭もじゃらの写真と関東の古墳時代の武人の人物埴輪があった。初めはこの人は何を言いたいのか、ひじょうにとまどった。しかし読んでみると明瞭に論旨は分かった。縄文人はアイヌで代表される人々であると彼は考えた。人種的にも髭もじゃらの顔をしています。それに対して、弥生人である関東の武人埴輪で示される顔はたいへん違っている。これが朝鮮人の顔であると彼は考えた。確かに人相は違っている。これが朝鮮半島から渡ってきて征服した後の姿である。だから現在日本人は、朝鮮人が祖先である。そういう論旨である。われわれ日本人からみると、びっくりする内容です。しかしアメリカ人の論文は、たいへん論旨が明確でひじょうに分かり易い。これが日本人とぜんぜん違うところです。日本人の学者の論文は読んで分からない。なぜそうなるのかが、わたしは読んでいても分からない。しかしアメリカ人の論文は理由と結論がハッキリ書いてある。こうであるから、こうである。こうでないから、こうでない。ぜひ反論を英語で書いて、今年中にエバンズさんに送りたい。英語で書くこと自体は大変だが、論旨ははっきりしていて書きやすい。論旨を検討して根拠をあげて反論すればよい。

 それでJAREDDIAMONDさんの認識に欠けていることがある。
 それは中国の『山海経』という書物の記録である。周の戦国時代に書かれた記録です。孔子より遅くて孟子と同時代です。日本では縄文時代晩期に当たる。そこに蓋国という平壌(ピョンヤン)近辺らしい国の話が書いてある。「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」(山海経、海内北経)このように書かれてある。今の北京あたりが巨燕です。
 そうするとこの倭は、どうも海の向こうではない。現在の朝鮮半島の南半部・韓国部分のところを、倭と呼んでいる。倭に住んでいるのはもちろん倭人である。そうすると海の向こうに住んでいるのは、志賀島の金印がしめしますように倭である。これを、ぜんぜん別の倭と考えるのは無理がある。別の倭と処理をする学者もいますが、わたしは無理だと思う。海一つ隔てたところが両方倭で、ぜんぜん別人種の倭人だと考えるのは、机の上では言えるけれども実際問題としてあり得ることではない。つまり玄界灘の両岸に倭人が住んでいる。海洋民族であるギリシャ人だって、多島海であるギリシャとトルコ側の両方に住んでいる。あれと同じだとおもう。だから、ここに朝鮮半島の南半部に倭人がいたというテーマが出てくる。

 このことは『三国史記』『三国遺事』に書かれていることと矛盾しない。それは百済建国の問題である。高句麗の建国の英雄、中国式には朱蒙という人がいた。その高句麗の初代王の第二夫人が第一夫人にいじめられて、長男・次男を連れて集安を亡命というか脱出した。そして京城(ソウル)付近、扶余へ来た。兄が海岸を、弟が内陸を治めた。兄が失敗し弟が統一して「十済」を作った。「十姓済民」、十の姓を持つ民を救ったから「十済」。それが進展して百の姓を持つ民を救ったから「百済」と名乗った。幸いなことに年代が書いてあって紀元前一世紀前半。紀元前一世紀前半の年号が書いてあって、そのときに第二夫人が来た。

 その紀元前一世紀は、当てはめると弥生時代中期。そうすると無人地帯に来たはずがない。人間がいた証拠に、縄文土器がたくさん出ている。人間がいなくて土器が出るはずがない。日本と同じような縄文土器を作っていた先住民がいた。
(事実韓国の光州の博物館には、日本の縄文土器とそっくりの土器が展示してある。韓国の学芸員に確認したが、九州の轟・曽畑式土器であるとはっきり答えた。この土器がどっちからどっちに行ったかは別にして、韓国光州と九州熊本付近に同じ土器が存在することは疑いがない。)

 そこへ騎馬民族が来て征服した。征服だけど救ってやったと、美しく表現している。侵略・征服したことを「国譲り」と美しく言っているのと同じことです。このことの意味することは、征服者はとうぜん高句麗語を使っていた。第二夫人も、子供も、部下も。ところが征服された方は、何語を使っていたか。高句麗語を使っていたはずがない。当然『山海経』から見ると、倭語を使っていた。征服者は高句麗語、被征服者は倭語を使っていた。そういう世界が成立した。だから百済語の中には、基本的に倭語が含まれている。ということは韓国・朝鮮語の中に倭語が含まれている。

 その一番の証拠が百済(くだら)という言葉自身にある。これは倭語である。果物の「くだ」。「くだらん」はそれの否定語。「くだ」は良い意味で「豊かな」という意味です。羅は村・空の「ら」で、日本語にたいへん多い接尾語です。「くだら」は実り多き豊かな土地という意味です。
 ところが韓国・朝鮮人に百済(くだら)と言っても通用しません。韓国・朝鮮読みをして、そこを百済(ペクチュウ)と呼ぶ。絶対百済とは言わない。その百済(ペクチュウ)は、征服を美化した政治用語である。これに対して日本語の「くだら」のほうは単なる自然地名。しかし考えてみたら、政治地名を付けるまで、その土地を呼ぶ名がなかったということは考えられない。権力者が政治地名をつけるのは勝手である。しかしその後あの名は使いたくない。自然地名を作って呼びましょう。そんなことは言うはずがない。

 しかし、もともと百済だったが、いま支配されていて南朝鮮・韓国にいる以上は高句麗語を使わなければならない。百済(ペクチュウ)と呼ばなければならない。しかし支配されていない日本列島にいる倭人は、昔ながらの百済と南朝鮮西部分を言っている。そう考えると非常に分かりやすい。ほかにも多くの例がある。

 金達寿さんはそれを理解できなかった。共通する単語があれば、朝鮮語だとしている。つまり朝鮮人が日本に来たと考えられて、朝鮮人が帰化人になった証拠であると主張しておられる。奈良県の「奈良」も、「ウリナラ(我が祖国)」の「ナラ」で朝鮮語である。そう主張されている。
 しかし考えてみたら、日本語の「なら」は「ならす」という動詞がある。均したところが、「なら」です。日本には字地名に「なら」がいっぱいある。日本は山だらけだから、均さなければ住めない。「日本平(にほんだいら)」と名詞など一群のセットである。韓国語には対になる動詞がない。やはり名詞・動詞がセットになっているほうが元で、名詞だけのほうが伝播したと考えるのが筋だと思う。

 第一「ウリナラ(我が祖国)」という言葉がもし高句麗語だったなら、一番目に集安(現在の満州)を指さなければならない。あるいはもっと前の中央アジアから騎馬民族が来たなら、中央アジアを指さなければならない。もし集安あるいは中央アジアを「ウリナラ」と呼んでいるなら、騎馬民族語・高句麗語だと考えても良い。しかし知識はあまりないが集安あるいは中央アジアを「ウリナラ」と呼んでいる例を、私は今のところ知らない。「ウリナラ」は現在の朝鮮・韓国を指しているように思える。
 「ウリナラ」の「ウリ(我が)」は、わたしは絶対高句麗語であると思っている。「ウリ(我が)」という第一人称を、被征服者の単語で表現するという、気の抜けた支配者は見たことはない。ぜったい征服者は、第一人称を征服したほうの自分の言葉で呼ばせる。「ナラ」は現地の人が言っている言葉である。「ウリナラ」という言葉自身が、征服者と被征服者の関係をしめす証拠である。

 だから「Japaneseroots日本人の起源」に戻ると、紀元前四百年ごろの段階で、「朝鮮人が日本列島に襲来して、それまでの縄文人を征服した。」とJAREDDIAMONDさんは言っている。『山海経』を読んでいない。しかし朝鮮から来たからといっても朝鮮人だとは限らない。同様にアイヌ人が日本に住んでいれば、アイヌ人が日本人になる。しかしアイヌ人も日本に住んで居たからといって今の日本人とは限らない。逆にアイヌ人が昔日本に住んでいても今の日本人と違うのだと言う認識がDIAMONDさんにはある。それと同じように朝鮮に住んでいても朝鮮人とは限らない。倭人が朝鮮南半部に住んでいたという問題を考えなければならない。

 

質問2

 「則天武后が、日本国(近畿天皇家)という名を承認した」と先生は言われたが、承認したという事は、その前に日本という名前を使っていた人がいたから承認したと理解して良いのか、それともう一つ、それ以降日本という名前を、時の権力者が使ったのかどうか。確認したい。

(回答)

 最初の点、「日本国」が公式の称号になったのは七〇一年以後である。七〇一年以後から使った名前であることは中国側の歴史書が示すところである。それ以前はどうだったかというのは、わたしにとっては非常にありがたい質問です。

 ここで王維の詩を見て下さい。阿倍仲麻呂と別れる詩です。その表題、極玄集では「送晁監帰日本」とあり、「日本」と書いてある。「日本に帰る」と書いてある。「日本国」ではない。これが後世の本、たとえば『唐詩選』や『須渓先生校本・唐王右丞集』という改訂した本は「日本国」となっている。私は、これをはじめ見たとき、気が付いたけれどもあまり大したこととは思わなかった。「日本」と書いてあっても「日本国」のことだと考えていた。しかし良く考えてみると、どうも簡単ではないという問題にぶち当たってきた。

 「日本国」が正しい。つまり後になって正確に「日本国」と直しただけだと考えた場合、なぜ王維が日本国の、「国」を付けなかったかという問題を考えなければならない。忘れたのか。うっかりミスで日本国の「国」を付けなかったのかとなる。この場合、王維がうっかりミスで「国」を付け忘れたという考えは採りにくい。一番古い版本である極玄集に「国」がないのだから、そういう考えは採りにくい。
 ここにとんでもない問題がある。

 ごぞんじ博多湾福岡市板付遺跡(博多空港近く)、ここに最古の縄文水田があることはご存じだとおもいます。その板付の字地名が「日本(ヒノモト)」。又もうひとつ「日本(ヒノモト)」がありまして、吉武高木遺跡のある室見川の下流にある。中間に樋井(ひい)川をはさんで両岸にも「日本(ヒノモト)」がある。
 (調査は『明治前期全国小字調査書(内務省地理局編纂基本行書、ユマニ書房刊)』で、行いました。第二次世界大戦の空襲で、ほとんど消失、北部九州と青森が残る。残っていたから出来たのである。)

 「樋井(ひい)」、これにも昔から関心を持っていて、漢字はこういう漢字であるが、海洋民の井戸を意味する「日井」ではないかと、ばくぜんと考えていた。太陽の井戸です。海洋民にとっては、入り込んだ適当な入江は大事です。縄文や弥生に、船を係留するのに都合がよい適当な深さをもった入江・湾が必要である。けれども、それだけではダメで水がなければならない。井戸が重要である。倭(い)もほんらい倭(ゐ)である。井戸も倭も同じワ行のゐであるので、井(ゐ)とかかわりがあるのではないかと、考えている。

 話をもとにもどして、つまり博多湾岸は日本(ヒノモト)の地である。
そうなると阿倍仲麻呂は、日本(にほん)に帰ると言わずに、日本(ヒノモト)へ帰ると言ったのでないか。王維と阿倍仲麻呂は関係が深いので、あえて日本国と言わずに日本(ひのもと)へ帰ると言ったのではないか。これは断言は出来ないが、そう考えることが出来るという面白い問題がある。

 そのように理解すると、今まで解けなかった問題が、解けてくるというおもしろい発見がある。
 『失われた九州王朝』で取り上げてあるが、『三国遺事』の六世紀の新羅の記事の中に、星が不思議な輝きを見せた。今までにない、きらきら輝いているのを見た。いったい何だと、新羅の国王がおいている朴者(占い官僚)に占わせた。すると「日本の兵、故郷に帰る。」という良い知らせ・前兆だと言った。それで喜んでいたら、はたして日本兵は引き揚げていった。これは六世紀に、詩の形で出てくる。その六世紀という倭のまっただ中、倭国が当たり前のさなかに、詩の形で「日本兵故郷に還る」と書いてある。国号として日本国になったのは七百一年であるが、倭国段階で「日本(兵)」を使っている証拠としてあげた。しかしそれは、その詩を理解する上で、そう理解しなければならないというだけであって、なぜ六世紀に「日本(兵)」が出てくるのかは分からない。
 ところが今王維の詩を「日本(ヒノモト)へ帰る 博多へ帰る」という意味で、八世紀段階で使っていると考えれば、六世紀段階でも「日本(ヒノモト)の兵故郷に還る」を「博多湾岸に帰る。」と考えれば、意味がつながってくる。

 それからあとのほうは、日本という言葉は後の段階でも、たとえば豊臣秀吉の段階でも思い出したように使われる。それと「日の丸」も、けっこう古いみたいですね。福岡県朝倉の方でも筑紫舞というおもしろい舞がありまして、神社の奉献額の絵馬の中に、それを舞っている人の扇に「日の丸」がある。その額は最近のものではない。ですからわたしの想像ですが「日本(ヒノモト)」という言い方と「日の丸」は、何らかの関わりがあるのではないか。いまのところ、そう思っています。これもいまは単なる作業仮説であって、途中をつなぐつなぎ目がないので今後の課題にしたい。

 

質問3

 歴史の話は高校卒業以来遠のいていましたが、最近また読み始めました。学校時代から不思議だったのは、先ほどの金印。高校時代聞いた話では、金印がたんぼや畑から出てきたと聞いた。なぜ大事な金印が、そこから出てきたのか。「金印は捨てられたのか、埋められたのか。」というあたりが、たいへん疑問でしたので、その問題を聞きたい。そんな大事なものなら、(古墳などから)出てきたものなら分かるのですが。まただれかが護っていたというなら分かるのですが。なぜそのようなところから出てきたのか、たいへん疑問です。

(回答)
 やはり一番歴史をやったことのない人が一番鋭い質問を出す。
 ふつう言われているところは、甚兵衛さんというお百姓さんが、畑を耕すというか掘っていて何かに当たった。掘ってみたら大きな石が三つ立っていて、(ドルメンのような)蓋のような形になっていて、開けて観たら金印が出てきた。そういう形で甚兵衛さんが黒田藩に報告した報告書には書かれてある。そのほかに、いや本当はそうではない。そのほかに甚兵衛さんは土地持ち・百姓さんとしてはお金持ちであって、実際に掘ったのは作男二人、その方々が掘っていて何かに当たったという資料や、大きな石が立ってあったのは四本だったという別の資料も残っている。実物の金印は黒田藩に献上して、現在黒田家から福岡県に寄贈されて博物館にある。
 さて、このあたりの回答では納得されないとおもう。そこで実は四・五年前から、この問題を熱心に追求された方がいる。福岡市教育委員会の学芸員のトップだった塩谷勝利氏という方です。九州大学の考古学科を出られて永年発掘に取り組んでこられた。その塩谷さんが最後の仕事として、少しまえ金印の遺構探しにあたられた。つまり金印は出てきてありますが、その石組みを探した。たいへんな苦労をされて可能性のあるところを掘って掘って掘りまくった。塩谷さんは、すごい人です。一緒に行くと行くさきざきで土地のお百姓さんが土器のかけらをもって現れる。そして、その土器を判別される。庶民の協力体制ができていることに驚きました。官僚が畑から出てきた土器を持ってこいと言っても聞く人はいないが、壱岐出身のお酒好きで豪快な塩谷さんが頼んでこそのことである。とにかくその塩谷さんが金印公園とその周り、それだけでなく、学者がいろいろな説を唱える候補地を、全て掘りまくった。最後は海の底まで、アクアラングで潜って探した。しかし残念ながらない。石組みがないだけでなくて、弥生の〝け〟もない。つまり土器のかけらなどが全く出ない。塩谷さんは本当にがっくりした。そこだけではなくて、上の稜線の畑のほうも掘ってみられたらどうですか、と言ってみたりした。そこからは弥生の土器も出ているが。しかしそれは甚兵衛さんの言っている場所とはぜんぜん違う。

 それで考えてみてもよい面白い問題がある。ある人から示唆を受けました。印鑰(インヤク)神社という神社があります。この字は一番簡単な字で、本当はもっと難しい字です。あまりお聞きになったことはないでしょうが、九州福岡近辺には、やたらにある。普通の理解では律令制の元での、その印をおさめて御神体にしてあると観光案内でも、そのような解説になっている。しかしこれは少しおかしいと考えている。律令制の元でこの神社があるなら、関東にもなければならない。しかし一つもない。近畿は九州博多湾岸の何倍も、なければならない。ゼロではない。わずかにはあるが、ほとんどない。律令制が全国に施行されたなかで、なぜか北部九州だけ神社を作って印を納めた。わたしの机の上の判断では、そういうことは考えにくい。これは一体なんだろうか。もしかしたら倭国の印を納めた神社かも知れない。もちろん律令時代の神社であってもよいが、元は倭国の弥生に遡る習わしかもしれない。
 そうすると『魏志倭人伝』に関して、おかしいことがある。卑弥呼の金印が出てこないのは、問題ですが、それと以上におかしいのは銀印や銅印が出てきていない。倭人伝では、「印綬を賜う」と書いてる。金印は一つだけだから出る確率は少ない。だから金印は別にしても、銀印・銅印が出る確率は高いが、どこからも出ていない。弥生時代のお墓や古墳時代の古墳からも、これだけ発掘されていても銀印や銅印がいっさい出てこない。

 それで黒塚古墳を発掘しているときに面白い話がある。一人の学者が「きっとここからは銀印が出る。よりていねいに掘ってくれ。」と現場のかたに言った。この方は三角縁神獣鏡を魏の天子からもらった鏡と考えていて、強烈に主張されている人である。もちろん邪馬台国近畿説です。理由を聞いてみると、なるほどと思った。もし三角縁神獣鏡が魏の天子からもらった鏡なら、三十数面黒塚古墳から出ている。百面の中の三十数面である。とうぜん葬られたご本人は金印は無理にしても銀印ぐらいは、もらっているはずだ。それで三角縁神獣鏡が魏の鏡であるなら、銀印が出るからていねいに掘ってくれという話自体は筋が通っている。しかし結局、銀印は出てこなかった。黒塚古墳では、盗掘されていないのが一つの値打ちである。盗掘されていなくて、現場の作業員のかたがていねいに発掘された。これが黒塚古墳の値打ちです。盗掘されていたら、なんとも言えない。しかし銀印は出なかった。この話一つをとってみても、三角縁神獣鏡は魏の鏡ではない。三角縁神獣鏡が魏の鏡なら銀印が出なければならない。

 わたしは黒塚古墳から出ないのは当然だと思っているが、どこの古墳からも出ないのはおかしいと思う。だから目見当の一つの可能性として印鑰(インヤク)神社にあるのではないかと推察している。

 もう一つ、印綬は墓の中にばかり有ると思っていた。魏志の中にこういう話がある。魏の天子の宰相がいた。権勢を振るって、魏の天子から金印ではないだろうが立派な印綬をもらった。ところがなくなった後で、汚職というか、背信行為をしていたことが分かった。天子が烈火のごとく怒って、印綬を取り返せと言った。それで使いを派遣して、墓を暴いて印綬を取り返したという記事がある。
あっ、そうか。印綬は墓の中に埋めるのか。それで墓の中にあって当然と考えていた。考えてみれば、印綬は功績を挙げた本人一人に与えるのであって、その子孫の代々の者に与えるのではない。本人の墓の中に埋めるのが一番筋である。わたしは長い間そう思ってきた。しかし中国ではそうである。しかし倭国は同じだったか分からない。墓の中ではなく、印綬は墓の中ではもったいない、と思って御神体にして神社に祭った可能性がありはしないか。これもまったく机の上の想像です。

 だから印鑰神社のご神体の可能性がなくはない。何回も足を運べばよい。博多湾岸の印鑰神社を一軒づつ訪ねてお願いすればよい。すぐには無理でしょうが。ふつうご神体は、祟りがあるとかで、見たらいけないと伝わっているのが普通です。しかしご神体を覗きたくなるのが人情である。お世話をしている人には知っている人がいると思う。真面目に先祖の教えを堅く守っている人もいると思うが、何かのきっかけ、たとえば移転などで見たことがあるかもしれない。石のかけらや、銅の鏡などが祭ってあってガッカリすることもあるかも知れないが。しかし私などから言えば、御神体は石のかけらの方がすごい。銅の鏡なら弥生以後に決まっている。しかし石のかけらなら、これは縄文・旧石器にさかのぼる神様です。石のかけらのほうが古い。まあしかし普通は、石のかけらを観てがっかりしたりしていますが。ですから関心をもたれたら、調べる値打ちのあるテーマであると考えています。この辺で勘弁していただきたい。

 

質問4

 邪馬一国の領域と、卑弥呼の墓はどこにあると考えられているのでしょうか。

(回答)
 倭人伝では御承知のように邪馬一国の領域は、北と西は書いてある。東と南は分からないというのが正確です。邪馬一国自身は七万戸とあるのだから、博多湾岸とその周辺を含むそうとう広い領域です。その中心領域は博多湾岸です。もちろん糸島も含んでいます。糸島・博多湾岸は三種の神器の分布する場所ですから。その一角にあるだろうと考えています。(それに奴国は書いて有るが、王が存在しません。)
 もし詰めろと言われれば、今お話に出ました春日市のなかの須玖岡本遺跡が問題となる。これは明治の時期に農家の庭先からみつかったものです。甕棺(ミカカン)のなかに入っていて、鏡が三十面前後、そして剣、勾玉という三種の神器が出てきた。鏡は前漢式鏡とよばれるものが多くて、なかに溲鳳鏡という魏の鏡が出てきた。溲鳳鏡については考古学者が困って、別のところから紛れ込んだのだろう。そういう話にしている。しかし、ここを発掘された京大の梅原末治さんは、間違いなく、この溲鳳鏡はここから出たものだ。そして梅原さんはキ*鳳鏡そのものの年代を調べる為に、ヨーロッパ・ベトナムまで行かれ調査されて改めてこのキ*鳳鏡は魏の鏡と認定され、この遺跡は二世紀後半から三世紀前半であるというご自分の説を訂正された経過がある。この面でも、前漢式鏡・後漢式鏡とはちがう様式のキ*鳳鏡という魏の鏡が出てきています。

キ*鳳鏡のキ*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641<

 もう一つ重要なことは、そこの鏡の紐のところから、絹が出てきた。絹そのものは今はめずらしくはないが、ここは中国の絹である。
 つまり中国の絹と倭国の絹とは今ハッキリと区別がついている。顕微鏡で布目順郎さんが研究されたのですが。絹の目の粗さや蚕の種類から見て倭国の蚕と中国の蚕とは種類と飼い方がちがっている。洛陽(中国)・平壌(北朝鮮)あたりとは蚕の質が違っているし、また織りかたの技術が違う。
 弥生時代は前期から中期・後期まで、糸島・博多湾岸は絹だらけですが、その中で中国の絹は須玖岡本遺跡から出土した絹、一つだけである。
 さきほどの黒塚遺跡から絹が出てきましたが、もちろん倭国の絹で、木棺は桑の木で作られていたので、近畿に絹・蚕を糸島・博多湾岸からもたらした人物であろう。その絹は倭国の絹ですから中国からもたらした絹ではなくて、博多湾岸からもたらした。もちろん近畿からは、中国の絹は出てきていない。
 そういう面で、卑弥呼の時代に最も接近しているのが、この須玖岡本遺跡である。その遺跡の丘の中腹に熊野神社がありまして、先ほどの岡本遺跡から出てきた甕棺(ミカカン)をふくんだ巨大な石、支石墓が熊野神社のところに置いてある。この熊野神社の下あたりに墓があれば、時代的に卑弥呼の墓にいちばん近い。このように見ています。だがしかし須玖岡本遺跡が卑弥呼の墓かと言いますと時代的には同時代であるが、この須玖岡本遺跡が卑弥呼の墓とは考えない。なぜならこの墓の人物より卑弥呼のほうが位が高い。第一金印が出ない。それにもっと中国の絹がたくさん出てきて欲しい。倭人伝ぜんたいの内容からみると、いろいろなものが足りない。満足できない。須玖岡本遺跡自身が卑弥呼の墓であるとは考えられない。ただ出てきたところは農家であるので、いまは新興住宅になっていて発掘できないのが残念です。また一つの可能性として平地にある須玖岡本遺跡より熊野神社の位置が高い。そこの地名は戸籍では、字地名では「山(ヤマ)」と呼んでいる。邪馬一国の「ヤマ」である。

 ですから、論理的に、目見当で、強いて言うならば、卑弥呼の墓が熊野神社の下になる。別にここに限定する必要がないが、やはり糸島・博多湾岸のどこかである可能性が大変高い。

 もう一つの焦点は、卑弥呼の墓に限定する必要はないが、糸島の三雲遺跡から井原、平原に広がるところである。三雲・井原は江戸時代の偶然の発掘、平原はミカンの木を植え替える時に偶然見つかった。本当に王家の谷というべきところである。まだまだこの辺りから何かが出てくると思う。
 糸島・博多湾岸の発掘は全部偶然発掘である。見込み発掘はない。見込み発掘もやって欲しい。それと発掘をやって欲しいのは吉武高木ですよ。なんと農水路での改造工事の発掘ですよ。わずか幅三メートル、長さは百メートルぐらいの農水路を作るとき出てきた。それで東側のところから二重の宮殿跡が出てきた。その北側は水田、ぜんぜん手がつけられていない。間違いなくいろいろなものが出てきますよ。
 そのようなところを計画発掘してほしい。

 

質問5

 ご質問したいのは五世紀の段階の『後漢書』にありました「大倭王は邪馬臺に居す」という問題です。その場合「邪馬臺」の「臺(台)」を、「ダイ」と理解されているのか、あるいは「タイ」と理解されているか。
 どうしてこのような質問をするかと言いますと、先生の『失われた九州王朝』では、三世紀『三国志』の段階では「邪馬壹国」、それが五世紀の段階では『後漢書』では「邪馬臺国」でもおかしくない。それは五世紀の段階ではいわゆる東アジアの中で、あるゆるところで「臺(ダイ)」が使われた。「臺(ダイ)」の氾濫の中での「邪馬臺国」が使われても決しておかしくはないと言われていた。私の今までの理解では、「邪馬壹国」の「壹(イチ)」は「倭(ヰイ)」と関連があると理解し、「邪馬臺国」のは「大倭」と関連があると理解していた。
 ところが最近の見解では、「邪馬壹国」の「壹(イチ)」と「邪馬臺」の「臺(台)」は範囲が違う。邪馬一は大きな領域、邪馬台はもっと小さい狭い領域だとなってきた。そうする今までの私の理解では、「壹(イチ)」であれ、「臺(ダイ)」であれ、中心地名は邪馬(ヤマ)であるという認識でした。それで「ヤマ」の地を探せと考えてきた。ところが臺(ダイ)を低湿地を意味すると言われ、あるいは日本語としての具体的な地名であると解釈された。そうするとこれ以後、邪馬臺の「臺(ダイ)」が低湿地であるならば、この日本の中で九州では具体的な「ヤマダイ」の地を探せば良いとお考えでしょうか。もう一つ隋書「イ妥*(タイ)国伝」の「タイ」と「邪馬臺」の「ダイ」あるいは「タイ」と何か関係があるのでしょうか。その当たりのところをお伺いしたい。

(回答)
 ひじょうに、わたしの本を良くお読みになって、非常に詰められたご質問をいただいた。わたし自身が苦しんで対面して一歩一歩前進していった問題について、ご質問をいただき感謝しております。
 今ご質問の件はどういうご質問かと言いますと、私の二番目の本『失われた九州王朝』を読まれた方はご存知ですが、『三国志』をとる限りは全部「邪馬壹國」と書いてある。『三国志』を考えるばあいは邪馬台国ではなくて邪馬一国である。そういうことを主張したわけです。これにたいして邪馬台国というのは、江戸時代の初めに松下見林が『異称日本伝』の中で、「壹(イチ)」を「臺(タイ)」に直して、邪馬臺(ヤマト)と読んだ。それは全く駄目である。
 これに対して「邪馬台国」というのは、『後漢書』そのものは五世紀に作られたものであり、五世紀段階の話をする場合は、「邪馬臺國、邪馬台国」で良いが、それは三世紀の『三国志』の段階とは違うのだと言う論理を主張しまして、三世紀『倭人伝』に関する限りは邪馬一国でなければならない。そこのところは全く変わってはいません。

 邪馬一国の意味は、前に書きましたが、邪馬倭(ヤマヰ)国と言うべきところを、倭(ヰ wi)を音が似ていて西晋朝に二心なく忠誠をつくすという意味で、「壹(イチ)」にしたと考えています。中国の古い用法で韓国の中に孤耶という土地があるから孤耶韓国。越の国の中の閔という土地があるから閔越(びんえつ)である。それと同じように倭(ヰ)の中に邪馬(ヤマ)という土地があるから、邪馬倭(ヤマヰ)国。それを「倭(ヰ wi)」を「壹(イチ)」に変えたのは、おそらく壹与だと思う。「壹」を使ったのは音が似ていて「中国の天子に二心なく忠誠をつくす。」という中国に対するオベンチャラ用語だとわたしは観ている。それは『三国志』では「一」という言葉は盛んにでてくる。一番尊重される徳目は、「一 壹 いち」である。臣下として一番大事にされている。一番嫌がられている徳目は「二 貳 に」である。憎むべき背徳の行為とされている。二心、一方では魏に忠誠を誓い、一方では呉に忠節を誓う。両天秤を掛けていたものがたくさんいたと思う。どちらが勝つか分からないから。権力者から観たらたまらない。こっちに服属を誓って贈り物を贈ってきたから喜んでいたら、向こうにもちゃんと送っていた。そういう時代ですから「邪馬一国」はまさに「中国の魏の天子に二心なく忠誠をつくす。」という意味を持つ。これも変わってはいません。倭の五王と同じように一字の名前で「倭与」を「壹与」と変えたのだと思う。

 中国流にはダイというのは、元は高台、『三国志』では天子の宮殿ないし天子を指すということで使ってはならない言葉であった。しかし「臺」という言葉は『後漢書』では天子に関係なく使われている。だから『後漢書』の場合はそれは現れうる、という形で述べた。
しかし、わたしの中に「邪馬臺(ヤマダイ)」の問題をもう一歩掘り下げて取り組んでみたいという気持ちを持っていた。それで定年退職になってから、真っ先に取り組んだのが「邪馬臺」の「臺(ダイ、タイ)」の問題である。

 それで『明治前期全国小字調査書』を見ると、九州福岡県から大分県の字地名に、村毎と言っていいほど、「ダイ、タイ」がある。「臺」・「臺の内」・「臺の前」・「臺の北」など軒並みある。これを中国流の「ダイ」、高台を指すと言葉としては理解しにくい。普通字地名は八割ぐらいは日本語で、後の二割は「釈迦」とか「天神」とか、漢語である。これだけ中国語が分布しているとは考えにくい。もしかしたら「平らな」・「日本平」などの日本語(倭語)かも知れない。それで現地を調べに行った。簡単に分かった。全て低湿地であった。『明治前期全国小字調査書』でも「臺(ダイ)」という字を使ってはいますが、「ダイ」と濁って発音するとは限らない。この字を「臺の内(たいのうち)」」など「タイ」と発音して使っています。私は以前は中国風の高台としての「臺 台(ダイ)」と思っていたのですが、そうではなくて、「臺(タイ)」というのは「平らな」を意味する低湿地の日本語と考えるに至った。

 それでは『後漢書』では「其大倭王居邪馬臺國」と書いてありますが、それでは後漢書の大倭王が、居たところはどこか。それはハッキリしている。
 なぜかというと後漢書は邪馬台国のありかは書いていない。ありかが書いていないと言うことは分からないから書いていないわけではない。『後漢書』というのは、当然百五十年前の『三国志』が出ていることを著者范曄も知っているし、読者も百も承知している。前に書かれた『三国志』を脇に置いて、新しい『後漢書』を読むというスタイルに当然なる。『三国志』にはとうぜん「邪馬壹国」のありかが方角と里程付きで書いてある。『後漢書』は書いていない。その点について『三国志』倭人伝に付け加えることはありません、ということで書いていない。「邪馬臺国」と言っている場所と「邪馬壹国」と言っている場所とは同じ場所である。片方『三国志』の「邪馬一国」は七万戸の政治地名であり、『後漢書』の「邪馬台国」は大倭王の居る所となる。中心地名という形で書いてある。の中の「ヤマ」といわれる所が有りまして、そこの周辺の低湿地というか平らである所が「ダイ」に当たる所となる。 総里程の最後が不弥国、室見川の下流か、博多湾岸となる。その南が邪馬一国である。邪馬一国は博多湾岸とその周辺となる。邪馬台国はその周辺は入らない。博多湾岸の「ヤマ」を取りまく低湿地である「ダイ」となる。「邪馬台国」は「邪馬壹国」のなか、邪馬(ヤマ)を取りまくごく狭い範囲を言っていることになる。

 そうなりますとヤマダイという地名が書いてあるのは、『後漢書』の五世紀の地名ですが、五世紀に発生したとは限らない。(元は)権力者が付けるわけではない。ヤマダイという地名が載っているのは、五世紀の『後漢書』である。書いたのは五世紀であるけれども、書いてある対象は、後漢(西暦年〜年)である。後漢においても、「邪馬臺(ヤマタイ)」と呼ばれていた可能性はある。

 これも、とんだ所へ飛び火する。
 簡単に言うとあの『東日流外三郡誌』では、安日彦、長髄彦は、筑紫の日向の賊に追われてやってきた。つまり私は博多湾から「天孫降臨」という事件により、「九州筑紫を追われて津軽へやって来た。」と理解している。
 この解釈は、尊敬する秋田孝季の理解とは少し違っている。彼は「神武天皇に追われて安日彦、長髄彦は津軽へやって来た。」と理解している。彼の理解とは違うけれども。それは今回の問題には直接関係がない。けれども、たえず「ヤマタイ」が出てくる。『三郡誌』も「ヤマタイ」と読んでいる。ときたま「ヤマイチ」も出てくるがこれは少数派である。これは何か。天孫降臨の時は「邪馬壹国」と読んだはずはない。この呼び名は、壹与の西晋に対するおべんちゃらであるから。そうすると、「ヤマタイ」はあった可能性が高い。そういう面白い問題もある。

 先ほどの『隋書イ妥*国伝』のイ妥*国は、どういう意味で国号を付けたかは、本当は名乗った御本人の解説を聞かなければ分かりませんが、「大倭(タイイ)」という意味で国号を名乗った場合、中国式の一語で表す形の国号として「イ妥*」にしたのではないか。そう考えています。「イ妥*」という文字そのものは、謙そんするいう意味の弱いと「イ妥*国」を名乗ってはいるが、伝統ある「大倭(タイイ)」であると称している。自分の国号として名乗ったのではないか。
 唐の初めに作られた『隋書』では「日の出ずる天子」という言葉も収録し、「イ妥*国」という言葉もそのまま使っている。ところが『旧唐書』では、「日の出ずる天子」もなくなるし、「イ妥*」という言葉も無くなって倭に戻っている。

 なぜかというと、『隋書』と『旧唐書』の間に、白村江の戦いがある。その「日の出ずる天子」は完敗した。「日の出ずる天子」に唐は完勝した。自分で「日の出ずる天子」と勝手に名乗った相手の称号は認める必要はない。天子だからと勝手に作った「イ妥*国」という国号も認める必要もない。それで昔から中国が呼んできた筑紫の「倭」に戻した。

 ただしかし注目すべきは表記は採用しなかったが、中国の歴史書は前代の歴史書を前提として書かれているという、隋書を受けて、『旧唐書』を書くという中国伝来の手法は全く変わっていない。
 その証拠に『旧唐書』に『隋書』の文句をそのまま受け継いでいる。有名な「東西三月行、南北三月行」をそのまま『旧唐書』は受け継いでいる。これは当然天子の直轄領ではなくて、西は九州から、東は樺太ぐらいと思うのですが、それを「日の出ずる天子」の領域、威光の及ぶ範囲と称した。南北は、韓国から沖縄まで、場合によっては台湾も入るかも知れませんが、海の支配領域は私である。大陸はあなたに上げるよ、こちらは私の領域である。と「日の出ずる天子」は言っている。
 『旧唐書』は、『隋書』の特色ある文言そのままに記録し、そこに天子の直轄領としての「九州」島を表す問題の文言、「四面小島皆附属」を付け加えた。講演のたびに多くの人から同じような質問を受けていたが、「東西五月行、南北三月行」との関係から考えても、小島が四面に付属しているという表現は、言えないことはないが日本列島全体としてはちょっとふさわしくない。ここは私も疑問をもっていて保留していたところです。しかしもう一度検討すると、『隋書』にない、新しい情報を加え、天子の直轄領を示す言葉として「四面小島皆附属焉」を入れた。現在そのように考えています。

『隋書』イ妥*国伝
イ妥*國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居魏時譯通中
國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至
於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帶方
郡並一萬二千里在會稽之東與耳相近

『旧唐書』倭国伝
倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南
北三月行世與中國通其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉

 

この講演のPDF版(電子書籍)を収得する


抄録に戻る

幾山河に戻る

ホームページに戻る


新古代学の扉インターネット事務局 E-mailは、ここから


Created & Maintaince by "Yukio Yokota"

Copy righted by " Takehiko Furuta "