弥生の土笛と出雲王朝 2003年3月16日(日)大阪府八尾市高安いずみ苑

「国譲り」神話

弥生の土笛と出雲王朝

古田武彦

三、「国譲り」神話

 次の話に移ります。
 壱岐・対馬のお話をいたします。対馬の北側北島に、浅茅湾という入り込んだ湾がありまして、その小船越に阿麻氏*留(アマテル)神社があります。わたしは、ここがかの有名な伊勢神宮に祭られている天照大神(アマテラスオオミカミ)の原産地である。そのように考えています。


インターネット事務局注記2004.10.1
阿麻氏*留(アマテル)の氏*は、氏の下に一です。

 その証明を簡単に言いますと、「天降る」という言葉があります。その天降っている場所が、三箇所あります。筑紫に天降っています。出雲に天降っています。新羅に天降っています。その三種類しか到着地がない。しかも、いずれも、そこへ行く途中経過地がない。ということは、天高原、天国と言われるところは筑紫と出雲と新羅に囲まれた内側にあると考えなければならない。これが第一の論証です。

第二番目の論証は、『古事記』の中の国生み神話。その「大八島」の中で、「亦之名」という形の古い名前の島々がある。その中で「天の・・・」と書かれている島々がある。その島々を、地図上に置いてみますと、ほとんど対馬海流上の島々である。例外は一つだけ、大分県国東半島の先にある姫島が「天一根」と書いてある。それ以外はぜんぶ対馬海流上にある島です。もちろん「天(アマ)」という字を当てているのは、「海士(アマ)」に美しい字を当てているだけです。
 美しい字を当てるということは、良くあることです。いちばん簡単な例をあげれば、わたしがいま住んでいる京都の向日(むこう)市。知らない人は、「向日(むかいひ)」と読みます。しかし、これは京都の桂川から見て、川向こうにあるから向日町(むこうまち)。呼び名としては、そういう形で成立した。それを漢字にするとき、音が似ていてきれいな字、佳字として「向日」を当てただけです。例としては一つだけですが、そのような例はたくさんあります。

 同じく、「天」と書いて海士。いまでも、海に潜る女の方を、海女さんと言いますが、女性に限らす海で生活する人を海士。だから海を支配する人が天族です。それに天原、壱岐の北端部のところの海水浴場に天の原があります。
 元に戻り、「天降る。」と動詞の用法から見ても、『古事記』の「亦之名・・・」という古名から見ても、同じ結論を示している。要するに対馬海流上の島々が「天国(あまくに)」である。その天国の中の対馬に、阿麻氏*留(アマテル)神社が延喜式にあります。
 それで「天照大神」を「アマテルオオカミ」・「テンテルダイジン」と子供が読んで、憤慨している大人がいますが、あれは憤慨される子供がかわいそうだ。教えてもらわなければ「アマテラスオオミカミ」とは読めません。どう読むかと言えば「アマテル」。これなら子供も読めます。それに尊称・敬語がいっぱい付いたものを、われわれは覚えさせられている。ですから出世魚ならぬ出世神としての姿を示しています。それの原形は天照大神(アマテルオオカミ)。いっぱい敬語が付いた言葉を覚えさせられているが、本来はアマテル。

 そうしますと、対馬の阿麻氏*留神社。そこへ行きました。宮司さんは居られなかったが氏子代表の一生漁師である小田豊さんにお会いし、お話をお聞きしました。そこでは小田さんに「天照大神について、そちらの神様についてお聞きになっていることはありますか。」とお尋ねしました。
「私どもの神様は、一番偉い神様です。だから神無月になると、出雲に行かれるのに一番最後に行かれます。なぜかと言いますと待たずに済みます。早く行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そして式が終われば、わたしどもの神様は待たずにすぐ船に乗って帰って来られます。他の神様は、帰る順番を待って帰って行きます。一番偉い神様と聞いております。」
 そのようなことを、ゆっくりとした漁民らしい口調で小田豊さんは話されました。しかもその季節、神無月は、出雲へ行くのも帰るのも、十一月が一番良い季節だそうです。行きは東向きですから対馬海流に乗ればよい。帰りは逆流ですから、風の向きが東から西へ吹いていなければ帰れない。これは御本人は、一生漁師ですから風の向きは良くご存じです。
 それでわたしは、風習というのは自然の条件に合ったものが出来るとか、それにしても、この神様は不便な神様だ。人間と同じように船を待っている。この神様は、空をすいすい飛ぶわけには行かない神様である。いろいろ思いながら帰ってきた。

 帰るのは、対馬から福岡空港まで飛行機で三十分かかります。その間に大事件が起こった。今、小田豊さんから聞いてきた話を反芻していると、とんでもないことを考えた。何んだ! 天照大神は家来ではないか。
 小田さんは、「一番偉い神様だ。」ということを連発しています。しかしそれは、先ほどの参勤交代の話でお分かりのように、一番偉いのは出雲の神様ではないか。動かなくともよい。天照大神は、参勤交代よろしく、ご家来衆の中では一番偉い。小田さんは、そうは言わなかったが、見方を変えれば、そのように言える。しかしわたしの頭の中では、天照大神(アマテラスオオミカミ)と言えば、ゴッド・オブ・ゴッド(GodofGod)、神々の中の一番偉い神様と、戦争中から、そう教えられて思い込んでいた。天照大神が家来であるというのは、わたしの頭の中で、ぶつかる大問題です。受け入れがたいから大ショックだった。ですがどう考えてみても、天照大神(アマテルオオカミ)は出雲の一の家来です。
第一こんな話、ウソ話として作れますか。天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊勢神宮(内宮)の主神として祭られ、最高の神として讃えられている中で、それにまったく逆らうようなウソ話を作って伝える。そんなことが出来るでしょうか。そんな雰囲気があるようには思えない。小田さんは、お爺さんから聞いたと言われました。

 ですが考えてみましたら、小田さんの言われるとおりです。なぜなら『古事記』の「国譲り神話」も、天照大神が使いを遣して、出雲の大国主に国を譲れと言った。そうしますと大国主は自分はもう引退しているから子供の事代主に話をしてくれと言われた。そして事代主のところへ行って、国を譲ってもらって成功するという話になる。あれも変な話で、もし以前から天照大神が御主人であれば、家来の大国主に何も国を譲れという必要がない。国を譲れという馬鹿はいない。取り上げればよい。ですから「国譲り」ということは、以前の主権者は大国主。一の家来が天照大神。それは結局反逆。簒奪を迫って成功した。それを美しく「国譲り」と言った。今の日本で、「敗戦」を「終戦」と美しく(?)言い換えた。はっきり言えば敗戦です。それと同じことで、強奪、簒奪したことを、国を譲ってもらったと、美しく『古事記』『日本書紀』は表現している。

 それでは、なぜ縄文時代に出雲が栄えていたのか。その理由はハッキリしています。出雲の隠岐島の黒曜石。出雲の対岸、日本海側の二つの島。その島の中で、おむすびの形をした大きいほうの空港のある西郷町。そこは黒曜石の島です。、出るところによりデザインが違い見事な形をした黒曜石がたくさん出る。それが元で出雲が縄文時代に中心的な位置を勝ち得た。これは非常に分かりやすい。

 それに対して弥生になり、中国から(日本列島に)金属器のノウハウがはいってきた。正確に言うとトルコ・ヒッタイトから金属器のノウハウが入ってきた。トルコは銅、ヒッタイトは鉄です。大氷原を通って中国に入り、そこに中国の文明が成立し、朝鮮半島を経て日本列島に来た。日本列島に最初に入ってきたのが壱岐・対馬です。その対馬・壱岐で海神族を牛耳っていたのが天照大神たちです。縄文以来の伝統で女性がまだ主導権を握っていた。縄文は女性が中心です。そこへ金属器の武器が入ってきた。金属器の武器と黒曜石を比べると比較にならない。圧倒的に金属器が有利だ。その金属器を握って、しかも当時船という最速の運搬手段・商売道具を握っていた。それをミックスして当時最強の軍団になり、黒曜石の出雲の大国主に対して一の家来である天照が反乱を起こした。わたしは、別に天照に対して、恨みもつらみもない。そういうイデオロギーもまったく無関係。ただ事実をあるがままに見るならば、わたしは「国譲り」を「天照の反乱」として表現した。それは成功した。そのことを表している。

 同じく事代主に対しても、伝承がある。出雲の東の端が美保関(みほがせき)。そこで見た祭にびっくりした。青柴垣(あおふしがき)神事。四月の初めにある。さんざん待たされましたが、そのあげくに、両脇を抱えられて宮司さんがよろよろと出てきました。一週間ぐらい断食したのではないかと言うぐらい本当にやせ衰えて出てきました。海岸まで行き、用意されていた船に乗りました。その時、渡す縦板があって、その板の名前を聞いて驚いた。「天の浮橋(あまのうきはし)」でございます。「天」は海士です。われわれは橋というと固定したものと思い込んでいますが、ここでは外せるから「浮橋」。われわれは「天の浮橋」というと、天上にかかる壮大な橋をイメージして、それをまた喜んでいましたが、あれは実は汚らしい板だった。漁師さんたちが今も使っている日常用語だった。祭は「天の浮橋」を渡って船に乗り込んで行き、船が出て行って、そこで終わる。待たされるだけ待たされまして、あっけなくそこで終わった。中での神事はいろいろあるのでしょうが。
 これは何かというと、よろよろと出てきたのは事代主。神社の大きな看板に書いてありますが、天照の軍勢と戦い破れて、本土決戦というか最後の場面。その時事代主は、いろいろ戦いはあったが、もう戦いはやめよう。その代りわたし一人が犠牲になって死のう。わたし一人が死ぬ代りに出雲の人々を傷つけないことを、天照たちに約束して欲しい。そしてそう言って海の中に入っていってお隠れになった。そう言われれば『古事記』『日本書紀』にもそんな感じで書いてあるけれども、よく分からなかった。海の中へ入って行ったということは自殺したという事です。海の中へ入って行き自殺したということは、『古事記』『日本書紀』では書いていないけれども、土地の人々は永々と伝えていて、われわれを護るために海の中へ入ってお隠れになった。

 実は恥を言いますが、わたしは一人で美保神社に何回も来ています。ですが看板はあまり見ない。どうせ看板には建前しか書かれていないと看板は読まずに中に入っていた。ところが五十人ばかりのツアーに講師として参加させていただきました。その時神社の境内で、ツアーの参加者の方から古田さん質問して良いですかと言われ、この看板には事代主は自殺したようなことに見えるのですが本当ですか。そういう質問を受けました。それでわたしは看板を真面目に見ましたが、確かにそのように書かれています。それまでわたしは、神社の案内をそれほど真面目に読んだことはなかった。歴史の資料にもならない話や単なる天皇家とのつながりを誇示する自慢話か、ウソじゃないけれども体裁ぶって書いてある。そのように思っていた。

 ですが看板に書いてある青柴垣神事。われわれに代って事代主がお隠れになった。これは毎年、この行事を行っています。この天照の反乱=国譲りの事件は、弥生の前期末・中期初めですから、以前の編年では紀元前百年、最近の編年では紀元前二百年から二百五十年に上がります。その時から二〇〇三年の今まで毎年青柴垣垣神事を延々と続けています。凄いというか、すさまじいというか、神社伝承とは偉いものだ。そう感嘆しました。ほんとうに今までの自分が恥ずかしくなりました。
 先ほどの阿麻氏*留(アマテル)神社の伝承もそうです。今まで、この話は何回もしてきましたが、さらに言わせてもらえば柳田国男・折口信夫という民俗学の大家がおられます。彼らをたいへん尊敬はしていますが、先ほどの小田さんの伝承を書かれていますか。あれだけ各地をまわって伝承を集められた。しかもあれは一人で集められたというよりも、お弟子さんが集められて、さらに孫弟子さんも協力されて、柳田さんが収録された。ですが先ほどの対馬の話、天照が出雲の一の家来である。あの話がなぜないのか。それが新たな疑問だった。

 これについて結論から言います。柳田さんは、わたしから見ると二つの弱点があります。一つはセックス。有名な遠野物語がありますが、あそこにはセックスの話はまったくない。それである学者の方が、遠野物語を語った人、名前が出ている人にお聞きになりました。遠野物語には、セックスに関する話はないのですか。遠野物語には、ぜんぜん出てこないですが。答えは、いえいえそんなことはありません。たくさんございます。あれらの話は柳田国男さんに呼ばれ、お宅に伺って話せと言われてお話しました。ところが、セックスの話を始めると、だまれ!そんなけがらわしい話をするな!聞きたくないと真っ赤な顔で怒鳴りつけられました。それ以後は、そんな話は一切お話しませんでした。
 この話信じられますか。自分で現地に行って話を聞く。そうなのかと思っていましたが、人を自分の家に呼びつけておいて話をさせる。そのこと自体が凄い話ですし、セックスの話をいやらしいと言って怒鳴りつけて止めさせる。これもすごい。わたしは柳田さんを尊敬はしていますが、明治人としてそういう面があった。これが一つ。これは学者が書いてあったから知ったことです。

 もう一つ書いていないことがある。柳田国男は天皇崇拝主義者です。これは明治人として天皇がすべて根本だ。ですから天皇の威厳に反することには、何を言うか!と排斥した。セックスどころではない。一括して受け付けなかった。小田豊さんは、わたしより年上のお爺さんです。あの話を何回もお爺さんから聞いたと言っておりました。ですから、そのお爺さんの頃ですから、柳田国男やその弟子・孫弟子が、あの話を一切聞いていないとは信じられない。しかしあの話は、完全に『古事記』『日本書紀』に反している。正確に言うと『古事記』『日本書紀』には、良く読めば合っているが、いわゆるわれわれが聞かされた天照大神(アマテラスオオミカミ)は、神の中の最高の神である。その概念には反している。だから柳田国男は、小田さんの話を採用しなかった。証拠と言われれば、この話は聞いたけれでも採用しないよという書き付けでもあれば一番良い。けれども、わたしの推定では柳田国男が聞いていなかったというよりも、柳田国男のイデオロギーにまったく反していた。だから却下された。それも明治人として当然だと言えば言えるでしょうが、わたしの考える学問ではない。

 わたしのいう学問とは、天皇家に有利であろうと不利であろうと、事実は事実である。こちらは天皇におべんちゃらをいう必要もないし、特に反天皇の識者にすり寄る必要もない。あくまで事実を事実として、ありのままに捉える。何回考えてもそれしかない。手品はないです。
以上、今述べた重要な話が、柳田・折口両氏に採用されていなかったという意味は非常に深いと思います。


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