弥生の土笛と出雲王朝 2003年3月16日(日)大阪府八尾市高安いずみ苑

国生み神話 弥生の土笛ー陶土員*(トウケン) 鶴と亀

弥生の土笛と出雲王朝 3

古田武彦

四、「国生み」神話

 次に舞台を九州に移します。「国生み神話」というものがございます。
 イザナギ・イザナミの神が、「天の沼矛」を天上から海の中に差し入れる。かきまわしてコオロコオロと垂らしたら、まずオノゴロ島ができ、それから大八島が出来た。このような話です。わたしは、これは歴史事実を反映していると考えています。
 もちろん神様がいて、この神様が実際に矛を海の中に入れて引き上げる。それ全体が歴史事実である。そんなことは、ありえない。
 それでは津田左右吉が戦争中言ったように、まったくのウソ話・作り話。歴史事実とは関係がないのか?津田は七世紀の近畿天皇家の歴史官僚が思いついて、まったく造作したものだ。そういう立場をとりました。「造作(ぞうさく)」という言葉が、津田左右吉が言ったことの学問的な述語のキーワードになっています。それを戦前・戦争中に言ったことはすばらしいですが、それが戦後定説になって教科書を支配するようになった。戦前にはあまり神話を持ち上げすぎて、その反動で戦後は神話はまったくのウソであるという説を持ち上げたのが戦後の歴史学であり、教科書です。
 わたしは、どちらも正しくはない。戦前のように、気が狂ったように天照大神(アマテラスオオミカミ)が天空、スカイ(Sky)から降りてくる。神が日本列島にお遣わしになった。その子孫が、明治天皇睦仁・大正天皇嘉仁・昭和天皇裕仁である。外国の人に話せば、だれにでもバカにされるしかないような話が教科書の先頭を飾っていた。そのような話がインチキであることは当たり前のことです。同時に津田左右吉が言ったように、七世紀の近畿天皇家の歴史官僚が頭で、でっち上げたという話も、わたしにはこれも同じくペケである。
 なぜならばその矛(ほこ)と弋(か)。槍の形をした武器が矛、鎌の形をした武器が弋です。その矛と弋で、国を作ったと言っています。ところが矛と弋は実在のもので中国の殷・周・漢あたりで、盛んに使われたものです。弋が早く、矛は遅い。それが朝鮮半島を経由して対馬・壱岐に入ってきた。なによりも筑紫(現地ではチクシと発音する。)では、たくさんの矛や弋の鋳型が出てきている。もちろん矛や弋の実物も、圧倒的にたくさん中心的に筑紫から出てきている。対馬・壱岐も出ますが博多湾岸が中心。ということは矛や弋が出てくる博多湾が中心になって「国生み神話」が作られている。これを大和の七世紀の歴史官僚がどうやって作れるのでしょうか。大和の七世紀の歴史官僚が、筑紫に発掘に行って、矛や弋がいっぱい出てくる。そしてその鋳型がたくさん出てくる。これらを元に、一つ神話を作ってみよう。そのように思うはずがない。しかしながら弥生時代の歴史事実と合致している。わたしは博多湾にある能古島。その島が神話のオノゴロ島のもとになった島であると考えています。そのように弥生時代の筑紫の状況と、あの神話が合致している。つまり、これは歴史事実である。どのような歴史事実か。弥生時代の筑紫を中心に支配していた権力・王権が、この「国生み神話」を作った。そして自分たちが筑紫を支配しているのは、このような神話に基づいている。だから正しい支配だ。そのようなことを言っています。
 それで今まで書いた本で言わなかったことを、話をもう半歩進めて言います。こういう神話を、かれらが作らねばならなかったということは、かれらがほんらい博多湾岸の正当な支配者でなかったことを示している。なぜならば、かれらが縄文以来順調に発展して、弥生以後順調に権力者になったならば、何もこのようなあり得ない話を、こういう神話を作って流布する必要はない。このような話を作って流布しなければならないということは、彼らの権力がほんらい正統でなかったことを示している。
この話は、どこから来たのかを話しているとおもしろいですが、今回は立ち入らずに先に進みます。
(『古代に真実を求めて』第六集講演記録参照)
 とにかく彼らは正統でない方法で、新しい侵略者として博多湾岸を中心として征服して倭国というものが成立して行く。そういう自分たちの非正統性。正しくない行為。それがあのような神話を作って流布しなければならない理由です。それがわたしの理解である。
 同じようなことが、地球上の各地で今もあると思う。たとえばイスラエル。バイブルに基づいて、ここがわたしたちの神聖な土地である。またイスラム教徒はコーランに基づいて、ここはわれわれの神聖な土地である。そのように言っています。これはほんらいの正当な支配者ではなかった証拠である。同じ論理で、そのようになりませんか。わたしは将来この問題を扱いたい。この問題を扱ったらキリスト教とユダヤ教とイスラム教と正面衝突します。ですが、わたしは正面衝突しても勝つと思う。わたしは、ぜんぜんイデオロギーがない。わたしは、反キリスト教でも、反ユダヤ教でも、反イスラム教でもないから。あくまで人類の歴史を事実として理解する立場です。この方法でとらえる。立ち向かう。向こうのほうは、護るべきものがある。バイブルを護らねばならない。コーランを守らねばならない。それに反するものは許さない。そういう先入観できています。だから勝負したら絶対わたしのほうが勝つ。勝ち負けの問題ではないですが。言い換えると、未来の人類の歴史は、わたしのほうにある。わたしはそれを確信しています。わたしは七十六歳、まもなく死にますから、皆さん是非ともやって下さい。だれが、やっても絶対に勝ちます。このような大事な問題を二・三分で言って申し訳ありませんが。
 急いでもとに戻りますが、今述べた国生み神話と国譲り神話は、筑紫(チクシ)の政権が、わたしのいう九州王朝が、自分たちの正統性を、ほんらいは正統でない支配を合理化するために作ったものである。このように考えます。それはわたしのいう九州王朝が発展する話につながります。今は省略します。
 今問題になるのはさきほどの「国譲り神話」。つまり神話が言っていることは、出雲から国を譲らせて、博多湾岸を中心として国を築いたと言っているわけです。それはリアルである。弥生の権力が、自己を正当化する必要があって作った話です。そういう神話を作る必要があった。そのことが歴史事実であると言っています。神様が矛を海に突っ込んだことが歴史事実ではない。あのような神話を作らねば、自分たちの権力の支配と維持が出来なかったというのが歴史事実である。そうすると出雲に中心権力があったのを譲らせた。実際は反乱を起こして簒奪したのですが。それならば前段階に出雲王朝が存在した。それがリアルと考えなければ、わたしの考え方は完成しません。それでわたしは、三十年近くまえに出雲王朝という考え方を、早くから出しました。
 ですが、わたしが三十数年前に九州王朝という考え方を出したときは、だれも無視してあまり悪口を言われなかった。ですが出雲王朝と言い出した時、すぐに、もう古田はダメだ。有名な学者が、もう古田の学者としての生命は終わった。そういう声が出始めた。これも直接ではない。新聞記者の方を通じて伝わってきた。新聞記者は、両方の学者にコンタクト出来ますから。
 それで九州王朝と言ったときは、まだ矛や弋を中心に博多湾岸から出てきています。それは、だれでも知っている事実である。それを基盤に、弥生時代のあの神話はリアルであると言いました。それに対して、だれも正面から反対することは困難である。賛成する者はだれもいませんが、表では知らない振りをし、内心は反対しにくいと思っていたと思います。
 ところが出雲王朝となると、何も根拠はないではないか。出土物が何もないではないか。神話だけあって、まったく出土物がない。だからこそ皇學館大學の学長を務められた田中卓さんが唱えられ、梅原猛さんらが受け継がれた説。つまり『出雲風土記』は作りものである。大和の神話を、出雲に場所を移し代えた、つくりものにすぎない。津田左右吉流に言えば造作である。田中卓さんのアイディアを頂いての梅原猛さんの出世作。そういう状況だった。根拠は神話だけあって出土物が何もないという状況を、もとにして理論化された。そこへわたしが、出雲王朝と言い出した。だから古田はもうダメだ。
ところが状況は、二十数年後荒神谷を初め次々と出てきました。このすさまじいスケールです。出雲以外はどこも立ち打ちできない。今でもまだ足らない、と言っている人がいます。ですが出雲が王朝で足らなければ、他にどの王朝に足るところがあるのか。こう言いたい。ですから今、出雲王朝という概念を笑える人はいなくなった。ですが古田が言いだした出雲王朝という概念が本当ですと講演でお聞きになったことはないでしょう。内心ではそう思っておられるはずです。ですから出雲王朝という言葉は、あれだけ発掘があれば現在地位を確保したと思っております。今後まだまだ出てくるでしょう。

 

五、弥生の土笛

 さて本日の最後は、今日の本番である弥生の土笛というテーマに入らせていただきます。初めに吹きました弥生の土笛は、発掘されたものではありません。発掘されたものと、そっくりに作りました模造品です。下関などに行けば買うことが出来るかも知れません。
 これが最初出てきましたのは山口県下関の綾羅木(あやらぎ)遺跡です。本当におもしろい字地名の遺跡ですが、そこで出てきたとき、たいへん騒がれました。下関で古代史が論じられるときは、たいへん話題になりました。しかしこれが、何を意味するかについては回答がなかった。もちろん、これが何かについては、判明しています。有名な学者である国分直一さんが発表され、中国の文献にあることを証明された。元は中国にあるということが分かっております。陶土員*(トウケン 一番簡単な字です)というものが、『周礼』という中国の古典に出てくる。穴が六個あいている。全体が卵形である。厳密に考えれば問題がありますが、大まかには同じである。弥生の口笛が、陶土員*である。この国分直一さんの考えは人々が広く承認するところとなった。そういう意味では、陶土員*というものの正体は分かった。

インターネット事務局注記2004.10.1
陶土員*の土員は、土偏に員です。

 しかし、わたしが分かっていないと言いましたのは、この陶土員*というものが、歴史の上に置いて、あるいは政治・文学・その他においてどういう意味を、どのような位置づけを持つかは、まだ解明されていないとわたしは考えています。下関で十回ぐらい講演したことはございますが、その度に陶土員*について、どう考えておられますかと尋ねられ、まだ勉強中ですと返事したことが、何回かございます。

 それで最近になり、やっと分かってきました。まず中国の陶土員*の性格を考えてみますと、やはり儀式・儀礼の場の笛である。それも中国の宮廷などの儀礼の場の笛として発達したものである。もちろん、とうぜん最初から宮廷の場ではなく、発達段階においては諸侯だったりするでしょうが。

 それで、そのこと自身がたいへんなことを意味します。それは、この弥生の土笛がでてくるところが、日本海岸。それも西の端が福岡県宗像の隣の島の大島。それから下関の綾羅木遺跡。特に、鳥取県米子市・島根県松江市からほんとうにたくさん出てきました。綾羅木遺跡を追い越した。広島県からも出てきています。これで見ますと弥生の土笛の中心地が出雲であることは疑いがない。東のはしが舞鶴。その近くの京都府峰山町から出てきた。これは弥生中期にまたがるかも知れないという現地の教育委員会の方の見解です。それから東は越の国。そこから出ないということは意味があるでしょう。そこから東は陶土員*を受け付けない。そのような感じです。別の言い方をしますと、出雲王朝の直接の勢力範囲は、東は舞鶴止まりではないか。そういう地理的分布そのものに非常に意味がある。西の端が大島。東の端が舞鶴。中心が圧倒的に米子・松江。つまり、これが圧倒的に出雲が中心であることは疑いない。
 もう一つ大事なことは出てくる時期は、圧倒的に弥生前期の二百年間なのです。従来の考古学編年なら紀元前百年。最近の編年は、一〇〇年ないし一五〇年さかのぼりますから、紀元前二百年から二百五十年。それが弥生前期の終わりです。弥生の始まりは以前の考古学編年なら紀元前三百年、今の編年なら紀元前四百年から四百五十年。その弥生前期しか出てこない。舞鶴の一つだけが例外で、他はすべて弥生前期。
 だから弥生中期には、まったく出てこない。これは不思議な話ですが、よく分かる話です。なぜ、よく分かるかと言いますと、先ほどの「国譲り」が、弥生前期末・中期初めのところです。これを博多湾岸に目を移して見ると、ひじょうに良く分かる。よく言われる三種の神器、これが弥生中期初めからです。弥生前期には出てこない。新しい矛や弋で権力を樹立した新しい支配権力は、三種の神器の支配権力である。これで見ますと「国譲り」が行われたのは、弥生前期末・中期初めである。

 以上、筑紫・出雲の状況を簡単に言いますと、紀元前二百年ぐらいの弥生前期末・中期初めに「国譲り」が行われた。
 これも中国の歴史を考えるとおもしろいですよ。秦の始皇帝が登場した時です。中国の情勢と関連はあると思います。

 それで紀元前二百年ぐらいに、三種の神器が筑紫に出てきてくる。それ以前は出雲で陶土員*が出雲を中心に出ています。陶土員*は、中国では宮廷の儀礼の場で使われています。そうしますと「国譲り」以前の出雲のシンボル的な楽器が、陶土員*だった。となると陶土員*が『古事記』『日本書紀』に出てこないことに意義がある。そうでしょ。これだけ日本列島から陶土員*が出てきてる訳ですから、日本列島に存在したことは疑いがない。それなのに『古事記』『日本書紀』には、宮廷の儀式について書きながら陶土員*のことはまったく書かれていない。また、出雲のことについて書きながら、陶土員*のことはまったく書かれていない。あれだけ出雲のこと、われわれは出雲から王朝を譲られた。そういうことを、ピーアールしながら陶土員*のことは書かれていない。これは非常に意味深い。
 つまり『古事記』『日本書紀』は、自分たちが敵対した、自分が征服した前の王朝の貴重なものについては、いっさい書かないという立場に立つものである。
 世界の歴史の中で、いろいろな国があります。その中で前の王朝のことはいっさい書かないという立場に立つ王朝の歴史書があります。また前の王朝のことについて書いてある歴史書もあります。中国などでは割合前の王朝のことを、後の王朝が書くという風習ができています。その点では、ありがたいですが。しかしながら中国でも全部書いているかというと、そうではありません。横道に入りますが、中国は黄河流域を中心とした歴史としては書いてあります。しかし南は江南、会稽山を中心と揚子江文明は書かれていない。『史記』などには、カボト遺跡などのことはいっさい書かれていない。また西は、西王母などの玉の文明についても、いっさい書かれてはいない。自分たちの黄河流域を中心とした歴史書として書いてあります。自分たちが支配された、その前の王朝についてはいっさい書かれていない。そういう態度を中国の歴史書は取っています。しかし、われわれが知っている『三国志』などの段階については、前の王朝の歴史を、後の王朝が書くということは、大体において成立しています。そういうありがたい状況ですが、しかしヨーロッパなどでも行われていない。 元に戻りまして『古事記』『日本書紀』は、不正直というか、前の王朝について無視する、認めないという立場に立つ歴史書である。これにわたしが力を入れて言っている理由はお分かりでしょう。近畿・東海の銅鐸のことがいっさい書かれていない。近畿で銅鐸がたくさん出てきます。あれほど膨大な量の銅鐸が出てきています。あれほどすごい姿を、明確にもって世に出てきています。しかし『古事記』『日本書紀』には、銅鐸のことはいっさい書かれていない。いっさい無視して書かれています。
 あれは知らないのではない。前の文明、前の王朝の貴重な祭祀されたものだから無視する。貴重でないから無視するのではない。言っては失礼ですが、三種の神器よりずっと立派です。三種の神器は、言葉は立派ですが、中身は大したものはない。勾玉は起源は古いものですが、それほど大したものではない。剣は権力者は皆持っている。後は金属器の鏡ですが中国から来ただけです。それを三種類まとめただけです。問題を明らかにするために、あえて三種の神器の悪口を言いますが、銅鐸は三種の神器よりも、もっと立派な国家のシンボルです。三種の神器ごときものでも、国家のシンボルとしてはだれも疑っていない。そうであれば銅鐸が、国家のシンボルでないはずがない。その銅鐸を『古事記』『日本書紀』は、いっさい無視しています。このいっさい無視している意味が大事です。以上の問題が、先ほどの陶土員*のことで分かった。つまり銅鐸は、それ以前の王朝の重要な遺物だから無視した。陶土員*の問題で論証をともなって、はっきり答えが出てきました。
(陶土員*の解説と図表は、ものが語る歴史1『楽器の考古学』同成社山田光洋著などにもございます。)

 次に行きます。わたしが思いますのに、陶土員*は中国の朝廷の儀礼の場で使われたものです。これは、そのとき詩がともなっていた。音楽だけではなくて、肉声の言葉の詩がともなっていたと考えています。
 なぜかと言いますと、中国には『詩経』という世界でもひじょうに貴重な古代詩歌集があります。それを見ると韻律を持っている。○○トン、××ツ。リズムを持っています。韻を踏んでいなければ中国では詩とは呼ばれない。
 中国の朝廷の儀礼の場で、今は陶土員*を例にとって言ってますが、楽器に合わせ詩をうたう。そうすると、のべつまくなし、みさかいなしに声を出すわけではない。リズムに合わせねばならない。

 中国人は韻律を踏んでいる。すごいと中国の文学について研究者は言います。それでは北京原人が脚韻を踏んだ詩を歌っていたか。わたしはそんなことはないと思う。北京原人を例に出すなと言われるかもしれんが、獣の叫びのような声を出していたと思う。まかり間違っていても、しっかり韻律を踏んだ中国語を喋っていたとは思えない。それが周代になって明らかに『詩経』に見るような、しっかりと韻律を踏んだものになったのは、儀礼の場で楽器に合わせて詩が歌われる。そのとき、のべつまくなしでは合いません。やはり○○トン、××ツと合っていく。ハーモニーが出るのだろう。それで見事な韻律をもった『詩経』という、世界でもまれな古代詩歌集が成立出来たのは、それには楽器の存在を消すことは出来ないだろう。そのひとつに陶土員*があることは明らかです。そういう判断をしました。これが第一段階。

 第二段階は、日本で陶土員*を真似して、弥生の土笛を作ったことは明らかである。日本の土で作ってはいますが、明らかに陶土員*を真似して同じようなものを作ったことは疑いない。その場合も、さきに言ってますが、出雲の朝廷の儀式の場で陶土員*を使った。
 この出雲朝廷のことは『出雲風土記』では、きちんと書かれてある。ところが国学者たちは、勝手にそれに当たるところを除いて原文を作り替えた。それを岩波古典体系は、本文にしている。この作り替えられた本文を、皆さんが読んでいることになる。下の注を見ると、こういう写本では、このように書かれているが直した。それは間違いである。そのように書かれている。要するに「出雲朝廷」があっては、ぐあいが悪い。(近畿)天皇家以外の朝廷があっては困る。出雲朝廷と理解できるところは、すべて原文の書き換えをおこなっている。『出雲風土記』は各所で書き換えをしています。それについて詳しく書いた論文(『古代は沈黙せず』駿々堂)がありますが、結論から言えばそういうことです。ですから出雲朝廷というものが成立していて、その出雲朝廷のもとに国造というものがあったことは『出雲風土記』に書かれています。
 その出雲朝廷でも、同じく儀礼の場があり、その儀礼の音楽に対して、詩が歌われていた。中国に対して、日本だけは音だけ聴いて楽しんでいた。そんなことはないと思う。それが最初は、『詩経』と同じ中国の詩を歌った。日本側が依頼して、中国人に来てもらって弥生の土笛を作って『詩経』を聴いた。しかし、われわれが中国語の『詩経』を聴いても分かりません。やはり日本語の詩が欲しい。当然なのです。そこに五・七・五・七・七が出てきた。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくるそのやへがきを

 そのことが『古今和歌集』の序文に書いてあります。これはかなり尊敬する紀貫之の見識。へんな言い方ですが、言っていること全部が当てはまるものではありませんし、すべてを絶賛するのではありませんが、とくに詩に対する分析能力は非常に高いものがある。『古代史の十字路』(ー万葉批判ー東洋書林)で、詳しく論じています。簡単に言いと、彼は五・七・五・七・七のリズムが、今の出雲で成立したのは間違いないだろう。しかし詩は、それ以前からあったのだ。これが紀貫之の見識の凄いところです。つまり五・七・五・七・七のリズムになっていない詩がある。それのほうが古い。それに対して五・七・五・七・七が、新しく成立したものである。それが出雲で成立した。そういう本質的なことを、ピシャッと、とらえています。スサノオが作ったどうかは分からないけれども、出雲で成立したということには意味がある。なぜなら出雲中心で、陶土員*が使われたことは明らかである。わたしの仮説では、陶土員*で音だけでなく詩が歌われている。その詩は中国語でなく日本語である。その日本語のリズムといえば、やはり五・七・五・七・七である。だから出雲で五・七・五・七・七という定型が成立したという『古今和歌集』の序文の論証は、無視することができない。だから、わたしは紀貫之の説に賛成する。
 と言うわけで、だれでも知っている五・七・五・七・七の和歌。その省略形としての俳句。これが成立した淵源が出雲にある。出雲暦だけではありません。その意味で、陶土員*は、まさに日本の歴史を明らかにする上で、重要な楽器である。

 

六、鶴と亀の交わるところー日本列島<

 最後にひとつ発見というか、話題になることを紹介して終わりにしたいと思います。
 結婚式やお祝いでの席につねに演ずる謡に「鶴亀」があります。今まで内心では軽蔑していた。実際に鶴や亀がいないのに、抽象的に歌って喜んでいる。あまり言ったことはないけれども、内心はそう思っていました。こんど、その問題を再検討して、わたしの歴史認識がいかに浅はかであったか。そういうことを七十六歳にしてようやく気が付きました。これも裏付けが必要で、確認しなければなりませんが。
 それでこの結論は、日本列島の歴史はどうも一つではない。沿海州からの一つの淵源がある。それも当然で日本列島と言いましても、実際は日本半島だった。今でも冬は樺太(サハリン)のところは、大陸と氷でつながって、歩いて来れます。ですから昔は、太古はもっと地続きです。
そうすると沿海州に、粛慎・靺鞨と呼ばれた人々が居たことは中国の歴史書にも書かれているから、疑う人はいない。そういう人々が、日本半島に遠慮して来なかったということはありません。絶対に来ています。歴史に絶対という言葉を使うことは危ない話ですが、絶対に来ています。ですから日本列島に第一陣として来た人々は粛慎・靺鞨と呼ばれた人々と同質の人である。この話は一番筋の通った話であり、このことは疑っておりません。この問題の裏付けの話もありますが、機会があればお話しいたします。
 それだけか。もう一方は太平洋から来た。これは天(海士)族がそうですが、海の民族が来た。そこで交わったところに日本列島が成立し、日本人が成立した。
もちろん朝鮮半島・中国・ハワイなどから、いろいろ人がやってきて、これだけということはありませんが。大きな筋は、やはりアジア大陸沿海州側からの伝播と、太平洋からの伝播。それが交わるところに日本列島の土地も成立し人間も成立している。大まかに言って、それはウソではない。そのように痛感してきました。
 それで気が付いてみると、鶴はシベリアから来るのではないか。大陸から来る。日本列島へは、南の鹿児島・宮崎にも来る。日本列島は鶴列島らしい。
 亀、これは太平洋側から来る。産卵はご承知の宮崎県から高知県、静岡県までの太平洋側に来る。しかし残念なことにどこから来るか分からない。出てくる場所は不明。それで調べている人にハッパをかけたい。簡単ですよ。調べる装置を亀に付けて人工衛星で調べる。やりませんか。それと関係があるかどうか知りませんが、調べる人が出てきた。アメリカの大学院の学生です。アメリカでは、その大学院生のアイデアにお金を出すスポンサーがついた。それで今言ったように日本列島の亀さんに電波の発信装置を付けた。それを人工衛星で監視する。そうすると、その亀は黒潮に乗って、日本から太平洋を渡ってアメリカ西海岸に行った。そこから先は行方不明になった。それには理由がある。電波をキャッチして位置を測定する人工衛星は、そこまでしかカバーしていなかった。そこから先は不明。それから三・四ヶ月して、亀さんは太平洋マリアナ沖に現れた。
 そこから先は、わたしの推定ですが、その亀さんはペルー・エクアドルまで行ったのではないか。海流は、サンフランシスコの沖では止まりませんから。亀さんは自分の力だけで泳いで、サンフランシスコへ行ったのではない。黒潮に乗って、その上で自分で泳いでサンフランシスコへ行った。ですから黒潮はまだ続いている。ここはフンボルト大寒流が北上してきまして、暖流である黒潮とぶつかる。そして混ざって太平洋を西に流れる。ですからプランクトンなどが大量に発生する。それを求めて魚もたくさん集まる。そうであれば亀さんも、栄養が豊かなこの海域に行ったのではないか。
(これも大事な余計な話をしますが、浦島太郎が亀に乗って行ったのは、南米のペルーでないかと推定しています。質問されれば言いますが。)
 いろいろ余計な話もしましたが、鶴が大陸から来ることは間違いありません。同じく亀が太平洋全体から来ることも間違いありません。すると鶴はシベリアから来る霊鳥の代表です。亀は太平洋から来る霊獣の代表です。それが日本列島が接点。あの民謡が、日本の歴史を一言で表しています。そんな重大なことがらを、内心はバカにしていた。人に公然と言わなくてよかった。
しかし、やるべき調査をまだしていない。今考えたところです。民謡大全集などを見て調べていない。鶴と亀の民謡の分布がどうなっているか、今後調べたい。日本列島全部ではないと思います。皆さんの中で、民謡がお得意の人は調べていただけたらありがたい。
日本列島の歴史はどうなっているかと人に聞かれれば、それは鶴と亀の交わるところであると一言で表すことが出来る。
以上、当たるも八卦。当たらぬも八卦の話として聞いていただいてけっこうですが、以上で終わらせていただきます。
 (終り)


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