『松前史談まさきしだん』』第30号(平成26年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
平成25年9月21日 松前町北公民館に於いての講演録
みな様こんにちは、合田洋一です。今年も大勢の方にお集まり戴きまして誠にありがとうございます。私の講演も今回で六回目、六年が経ちました。これも偏にみな様の古代史への関心の強さの賜と、感謝申し上げます。
さて、本日の演題は『天武天皇の謎 -- 「万世一系」系図作成の真相』です。この時代は、「九州王朝の終末と新生日本国の成立」の過渡期にあって、わが国では未曾有の動乱期でした。
そのような中で、政権移譲に伴う九州王朝と新生・日本国の主となる近畿天皇家との関係、そこに主役として登場した天武天皇とは一体如何なる人物であったのか。出自や事績などは“謎”が多く、未だ確論に至っていないと考えられることが数多くあるように思います。
そうである所以は、当代史料が少ない上に “勝者の歴史書”で通説となっている『日本書紀』の記述が、この時代の解明に立ち塞がり、真実の歴史を覆い隠しているからだと思われます。
そこで私は、この時代の“闇”を少しでも切り開くことができればとの想いから、ここに表題の奥深いテーマに敢えて挑戦することにしました。
とは言え何分にも、推測の域を出ないことが多いことから、“小説の世界だ”、あるいは“文献史学ではない”とのお叱りを受けることを覚悟の上で、 “仮説論証”をしましたので、みな様のご批判を仰ぎたいと思います。
なお、本文中でカッコ内古田説としている古田武彦氏の出典については、誠に残念ながら、紙面の関係上省略させて戴きました。お詫び致します。
また、論述にあたり“用語”での混乱を避けるために、次のように表記しました。
一,「近畿天皇家」と「近畿王朝」という使い分けをしていますが、「王朝」は “宗主国の朝廷”を意味すると看做(みな)し、王朝交代の文武天皇の大宝元年(七〇一)を境として、前を「近畿天皇家」とし、後を「近畿王朝」としております。
一,「天皇」称号は、これも文武天皇の大宝元年に始まるとされています(古田説)。それ以前の近畿天皇家の称号は「大王」であり、また「天皇 謚号」も奈良時代以降ですが、当小論では便宜的に通例の —— 天皇としておきます。
一、八世紀成立の『古事記』『日本書紀』における系図作成の意図、及びそれに伴う歴史観の基本軸を、「万世一系・近畿王朝一元史観」としております(これについては<項目十>で詳述します)。
ところで、「天武天皇」の人物像の通説は、となると次のようです。
第四十代天武てんむ天皇は諱(いみな)を天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)といい、天皇になる前は大海人(おおあま)皇子(みこ)で大皇弟とも呼ばれた。天武の名は後世の天皇謚号(しごう)。父は第三十四代舒明(じょめい)天皇、母は第三十五代皇極(こうぎょく)天皇(のち重祚ちょうそ そして第三十七代斉明天皇)。第三十八代天智(てんじ)天皇の五歳下の実弟。都は飛鳥(あすか)浄御原宮(きよみがはらのみや)。皇后は天智の娘・[盧鳥]野讃良(うののささらの)皇女(ひめみこ)皇后は天智の娘・(のちの第四十一代持統天皇)。(のちの第四十一代持統天皇)。天文・遁甲(とんこう 占星術)・方術(占いの術)を能くした。実兄・天智の死後「壬申の乱」を起こし、甥である天智の息子・大友皇子(明治時代に諡号された第三十九代弘文天皇)を死に至らしめ、政権を掌握した —— と。
[盧鳥]野讃良皇女の[盧鳥]は、JIS第3水準ユニコード9E15
『日本書紀』(以下「紀」と言う。岩波文庫全五冊本から引用)全三十巻のうち二十八巻と二十九巻が天武天皇の事績、そして次の三十巻目は妻の持統天皇の事績です。「紀」の編纂は天武の生前に企画され、孫の元正天皇の養老四年(七二〇)、天武の息子・舎人親王(とねりしんのう)により完成をみました。
事績の記述においても、天武は「紀」全文中六八七行で第一位、第二位は欽明四四五行・第三位孝徳三七五行・第四位持統三三六行・雄略三一〇行・以下二〇〇行代が五人・一〇〇行代が十一人・あとは二桁・一桁代が二十人です(『天武天皇と九州王朝』砂川恵伸著、二〇〇六年、神泉社)。
これを見てお解りの通り、巻数・行数ともに天武は断トツで、「紀」は天武のために作られたことは事実です。勿論、この時代は“現代史”であるので天武に関する史料事実が多く、力が入るのは当然としても、私が見る限り「紀」はこの時代の勝者である天武を称揚し、かつ“政権簒奪”を正当化するために作られたのです。そのため、天武に都合の良いように“好き勝手”に編纂されたものと思われます。そして、後述しますが、「万世一系・近畿王朝一元史観」を創出するために、同王朝に先立つ九州王朝やその支配下の全国に数多あった諸国を“なかった”ことにして抹殺したのです。その結果、この時代が全く矛盾だらけの訳の解らないものになってしまったようです。
(なお、当小論で度々用いている“なかった”の語は、古田武彦氏の「九州王朝説をなかったことにしている」という近畿王朝一元史観学派に対する古田氏の基本的な揚言に従っています)。
「紀」には、天武の妃と子供を詳細に記しています。これを天武の妃・その子供・妃の父を婚姻順に並べると次のようです。
一、額田(ぬかたの)媛王(おおきみ) —— 十市(とをちの)皇女(ひめみこ)(弘文妃) —— 鏡王(かがみのおおきみ)
一、尼子娘(あまこのいらつめ) —— 高市(たけちの)皇子(みこ) —— 胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん) —— 九州の大豪族(皇族)・宗像(むなかた)大社主
一、[木穀](かじ)媛娘(ひめのいらつめ) —— 忍壁(おさかべの)皇子(みこ)・磯城(しきの)皇子(みこ)・泊瀬部(はつせべの)皇女(ひめみこ)・託基(たきの)皇女(ひめみこ) —— 宍人臣(ししひとのおみ)大麻(おおまろ)
一、大田(おおたの)皇女(ひめみこ) ——大来(おおくの)皇女(ひめみこ)・大津(おおつの)皇子(みこ) —— 中大兄(なかのおえの)皇子(みこ)(のちの天智天皇)
一、[盧鳥]野讃良(うののささらの)皇女(ひめみこ)(持統天皇) —— 草壁(くさかべの)皇子(みこ) —— 天智天皇
一、大江(おおえの)皇女(ひめみこ) —— 長(ながの)皇子(みこ)・弓削(ゆげの)皇子(みこ) —— 天智天皇
一、新田部(にひたべの)皇女(ひめみこ) —— 舎人(とねり) 皇子(みこ) —— 天智天皇
一、氷上娘(ひかみのいらつめ) —— 但馬(たじまの)皇女(ひめみこ) —— 藤原大臣
一、五百重娘(いほへのいらつめ) —— 新田部(にひたべの)皇子(みこ) —— 藤原大臣
一,太[豕生]*娘(おほゐのいらつめ) —— 穂積(ほづみの)皇子(みこ)・紀(きの)皇女(ひめみこ)・田形(たかたの)皇女(ひめみこ) —— 蘇我赤兄(そがのあかえの)大臣(おほまえつきみ)
[豕生]*は、草冠に豕生、JIS第3水準ユニコード?8564
天智の娘四人のうち大田皇女と[盧鳥]野讃良皇女は、天智の生前に娶り、大江皇女と新田部皇女は天智の没後に娶ったようです。
当時、叔父・姪の婚姻は問題ではありませんが、それにしても、「紀」において実の兄とされた天智天皇の娘四人も弟の妃にすることは、あまりにも異常です。裏を返せば、天武は天智の最大の政敵だったことになります。これは、天智と天武の兄弟説に大きな疑問を投げかける一つのポイントです。
そして、ここで注目すべきことは、胸形君徳善の娘を娶っていることです。「胸形君は九州王朝の天子の系列」とも考えられており、大海人皇子の最大の支援者で、近畿天皇家“簒奪”のための原動力が彼にあったのではないかと思われます。そのことは、徳善の孫にあたる高市皇子が後に太政大臣(或いは天皇——後述)になっていることからも推測できます。
「紀」の舒明天皇の条に
「二年の春正月の丁卯(ひのとう)の朔(ついたち)戊寅(つちのえとら)に、宝皇女(たからのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす。后(きさき)、二(ふたり)の男(ひこみこ)・一(ひとり)の女(ひめみこ)を生(あ)れませり、一(はじめ)を葛城皇子(かつらぎのみこ)と曰(まう)す。近江(あうみの)大津宮(おおつのみやにして)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)なり。二(つぎ)を間人皇女(はしひとのひめみこ)と曰(まう)す。三(つぎ)を大海皇子(おおしあまみこ)と曰(まう)す。浄御原宮(きよみはらのみやにして)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)なり」
とありますが、ここには大海皇子(大海人皇子)後の天武天皇の生年月日が書かれておりません。「紀」のどこにも書かれていないのです。従って、崩御の年齢が不明であるため、兄とされる天智との年齢差もまた不明なのです。
ところが、鎌倉時代成立の『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に、「天武の没年齢は六五才」とあって、『本朝皇胤紹運録』には「天武は推古三一年(六二三)誕生」とあります。
そのようなことから、大和岩雄(おおわいわお)氏は、「天武は天智より四才年上」であると論述しています(『天智・天武天皇の謎』一九九一年・六興出版。なお、これについては佐々克明氏の先行論文『天智・天武は兄弟だったか』がある)。また、井沢元彦氏も、「没年齢六十五歳(数え年)なら、天武は六二二年生まれということになる。しかし、その「兄」のはずの天智天皇は、六二六年生まれだ。すなわち、弟の天武の方が天智より四年早く生まれたことになってしまうのである(『逆説の日本史』2「古代怨霊編」一九九八年・小学館文庫)」
と述べております。私も、これに関しては後代史料に基づいているとしても諸兄の説に賛同します。
更に私なりに付け加えると、前述した天智の娘四人を天武の后に差し出しているのです(但し、天智の生前に二人、没後二人)。実の弟とされる者に政略の“具”として大切な娘を、です。不思議を通り越しているといっても過言ではありません。また、後述する「大皇弟」の検証及び前回も論述した天智・天武の母親であるとされた“斉明さいみょう天皇は近畿の天皇ではなく九州王朝の「天子」だった”(古田説)ことから、天武は天智の実弟ではなかったことが明白です。
なお、中国には「天子」の下位称号として「天王」があります。日本の「天皇」はこの「天王」と同格のようです。これは、唐の意向に従い、天子称号を使用できなくなったための代用と考えられます(古田説)。即ち、九州王朝の「天子称号」は、近畿天皇家の「天皇称号」より格上なのです。
通説では「大皇弟」とは天皇の弟のこととされています。しかしながら、「紀」で「大皇弟」と記されているのは天武だけです。初見は、天智天皇三年(六六三)の条、
「三年の春二月(きさらぎ)の己卯(つちのとう)の朔丁亥(つきたちひのとのゐのひ)に天皇(すめらみこと)、大皇弟(ひつぎのみこ)に命(みことのり)して、冠位(かうぶりくらゐ)の階名(しなな)を増し換(まか)ふること、及び氏上(このかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)等(ら)の事を宣(のたま)ふ」
とあります。
ところで、「大」の付かない「皇弟」は、用明天皇二年四月の条に「皇弟皇子」・孝徳天皇の白雉四年の条に「皇弟等」・白雉五年の条に「皇弟」が出現しております。
これについて砂川恵伸氏は、「大皇弟」の意味として、概略次のように述べています(前掲書)。
「三国時代の呉の孫堅の呼称が『大皇』であり、倭国は『(呉の)太伯の子孫』とも自称していることから、北朝系の隋・唐に対抗して南方系支配者の呼称を採用した可能性はないとはいえない。大海人皇子は自分の身分を『大皇の弟』と呼称した」
と。しかしながら、果たして中国の故事にかこつけた単なる呼称だったのでしょうか。否、私の考えは次の通りです。
「大皇弟」の初見の、天智天皇三年条の時、天智はまだ天皇になっていない「中大兄皇子」の時代であり(「紀」によれば、天智の即位年は天智七年の正月)、そうなると天皇の弟すなわち「皇弟」を意味しません。それならばどのような意味があるのか。
ずばり申し上げると、「皇弟は天皇の弟」を意味し、「大皇弟とは天子(天皇より格上)の弟」を意味するのです。
因みに、『隋書ずいしょ』「イ妥国伝たいこくでん」に登場するイ妥(倭)国王 “阿毎(あま 天)多利思北孤たりしほこ”はその国書に、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなしや云云」
として、「天子」を名乗っていました。
つまり、大海人皇子は、当時日本列島の宗主国である「九州王朝の天子の弟」だったのです。
では、その時の天子は誰だったのかについては後述しますが、この「大皇弟」の論証が、拙論の最大のキーポイントとなりました。
また、次に述べる「真人」の称号からも、そして大海人皇子(天武)は九州王朝の姓である“天(あま 海士・海人に同じ)”を名乗っていることからも、また諱(いみな 死後に言う生前の名前で姓ではない)も天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)であり、九州王朝の皇子であった、と。
因みに、近畿天皇家にも「天」の諱を名乗っている天皇がおります(「紀」による)。それは、三五代皇極(天豊財重日足姫尊)、三六代孝徳(天萬豊日尊)、第三七代斉明(皇極に同じ — 重祚)、三八代天智(天命開別尊)、それに近畿王朝になってからの天武系の四二代文武(天之真宗豊祖父尊)、四五代聖武(天璽国押開豊桜彦尊)、そして天智系の四九代光仁(天宗高紹)です。
この中で近畿王朝以前の天皇について言えば、皇極は九州王朝の斉明と合体させた諱であり、天智についての命名も系図上斉明の息子で天武の兄とするからには「天」にする必要があったのです。また、孝徳についても斉明の弟としているため、「万世一系」系図作成のための創作ではなかったか、と。断定はできませんが、付言しておきます。
余談になりましたが、これらのことから大海人皇子は九州から近畿にやって来た時から「大皇弟」であっても不思議はなく、従って「紀」に言うところの、天智即位前の「大皇弟」の記述もおかしくありません。また、「近畿天皇家」にとっては、極めて重大な出来事であった「乙巳いっしの変」(中大兄皇子蘇我入鹿を殺害)にも大海人皇子の存在は、影も形もなく、突如、天智三年に登場することも肯けます。
そして、天武の暴虐無人な振る舞いを語る有名なエピソードとして、
天智「即位の儀」の後に催された祝宴の最中、酔った天武が天智の面前で、槍を振り廻し床に“ぐさり”と突き刺した ——
ということが『藤氏家伝』(藤原氏初期の伝記・天平宝字四年<七六〇>成立)にあります。これなども、普通の弟ならばできることではなく、「大皇弟」であったればこその所業と見ることができます。
それにしても、天武に「大皇弟」の尊称があったことから、「紀」は儒教思想に基づく「長幼の序」の観点から、天智の弟としてデッチ挙げるのに都合がよかったのです。つまり、天武が史書上、弟に成りすますことが、後世、その所業を少しでも和らげることになるからです。
天武天皇の諱(いみな)は「天渟(あまのぬ)中原(なはら)瀛(おきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)」であり、「八色姓やくさのかばね」の「真人」の称号を名乗っています(「紀」)。
「八色姓」とは「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師((みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の八つの姓(かばね)をいい、天武天皇十三年(六八四)に制定したとされています(「紀」)。
しかしながら、この六八四年時の宗主国は、まだ九州王朝倭国なので、この記事は矛盾しております。しかも「八色姓」を制定した天武天皇自身が、臣下第一等の「真人」を自らの称号にするということは、全くおかしい話です。
従って、この「八色姓」は近畿天皇家の制定に係るものではなく九州王朝の制度であり、これは大海人皇子(天武)の九州居住時代の称号だったのです。
「紀」は、天武天皇の父は第三十四代舒明天皇、母は第三十五代皇極天皇(重祚して第三十七代斉明天皇)であるとしています。果たして本当でしょうか。
今まで見てきた通り、天智と天武は兄弟ではなく、天武は「大皇弟」「真人」の称号から九州王朝の人となります。従って、通説の近畿天皇家の舒明・皇極(斉明)を父母とする系図は、全くの創作です。
更に言えば「宝皇女たからのひめみここと斉明さいみょう天皇は九州王朝の天子である」ということになると、なお一層系図の虚偽が明確となります。
また、推測の域を出ませんが、前回も述べました舒明天皇も“伊予滞在五ヶ月(「紀」)”の検証から、九州王朝の天子だったと考えられるのです。
古田氏はその著『壬申大乱』で、『万葉集』巻一に登場する“中皇命なかのすめらみこと”を、「七世紀中葉・<白村江の戦い>以前の九州王朝の天子」としていることから、私は中皇命こそが舒明天皇ではないかと考えております。
ところで、天武が「大皇弟」であるならば、一体如何なる天子の弟だったのか、ということです。そして、父母は?
以下に、このことについて私の仮説を述べ、問題提起とさせて戴きます。
「紀」による通説ならば、斉明の崩御は六六一年なので、天武は天子・斉明の息子とされていても不思議はなかったのですが、白鳳年号(六六一〜六八三年)が斉明の年号(古田説)だとすると問題が生じます。それは、「紀」では六七二年天武が近畿天皇家の天皇として飛鳥浄御原宮で即位、六八六年崩御とありますが、この間「白鳳年号の論証」により、九州王朝の天子・斉明が六八三年までは確実に生きているのです(その後も年号改元で生存の可能性あり)。そうなると、 “斉明・天武の親子説”は時系列的に無理です。
一方、「大皇弟の論証」から、天武は“天子の弟”でなければならないので、それでは天武は誰の弟なのか、ということになります。そこで、この時代の九州王朝の天子である人物として、次の三名を挙げることができます。
一人は“中皇命”です。古田氏によると「白村江の戦い」(六六二年)以前の天子であり、彼が拙論の舒明天皇だとしても「紀」では六四一年崩御とあるので、時代的には離れ過ぎており、弟とするのは無理と考えます。
二人目は、唐の捕虜となった“筑紫君・薩夜麻さちやま”です。薩夜麻は斉明の摂政(古田説)ということでもあり、斉明の後を継いだ天子と考えられ(斉明の実子か)、年齢も天武の方が上と思われることから、これも時系列的に弟ではありません。
三人目は斉明です。時代の整合性を加味して、消去法で見るならば、斉明こそが天武の“姉”になります。つまり、天武は「天子・斉明」の息子ではなく“弟”、即ち「大皇弟」だったのです。
それでは、天武の父母は、となると残念ながら今のところ不明とせざるを得ません。
一方、兄弟ではなかった天智の父母はとなると、母は系図の通り「天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめこと皇極」であり、父は不明ですが舒明の諱(いみな)とされる「息長足日広額おきながたらしひひろぬか」という人物だったことも考えられます。
このように手の込んだ系図を作成した理由は、後述する「易姓革命」に起因すると考えます。
なお、『松前史談』二十八号で、舒明天皇は『隋書』「イ妥国伝」に登場する“歌弥多弗利(上塔の利)”ではなかったかと記しましたが、これは時代的には少し無理があったようです。
いずれにしても、「紀」はこのように系図を勝手に作り替えたため、この時代は不透明極まりないものになってしまったのです。
天智天皇崩御(六七一年十二月三日)後に起こったとされる「紀」による「壬申の乱」の顛末ついての概略は、次のようです。
戦争の開始宣言 —— 天武元年(六七二)六月二十二日「諸軍を差し発(おこ)して、急(すみやか)に不破道(ふはのみち)を塞(ふせ)け。朕(ちん)、今発路(いでた)たむ」
同月二十四日 —— 大海人皇子吉野出発、伊賀国から伊勢国に入る
戦争の終結 —— 同年七月二十三日 大友皇子自殺
戦争の期間 —— 三十一日
この「壬申の乱」については、古田武彦氏が『壬申大乱』(二〇〇一年・東洋書林、その後二〇一二年・ミネルヴァ書房より復刊)でその虚構を既に明らかにしております。それをかい摘んで述べますと、
古代馬の走行距離から考察した三森堯司氏の説(「馬から見た壬申の乱 -- 騎兵の体験から『壬申紀』への疑問」『東アジア文化』十八号一九七九年) —— 騎兵であった自らの体験から記事を詳細に分析した結果である、
「乱の六月二十二日から二十九日にかけての馬の活躍は、不可能と断定せざるを得ない」を挙げて、古田氏は『日本書紀』での戦争の行程は到底無理であり、その実態は虚像であつた、と。
万葉歌人・柿本人麿が『万葉集』で「壬申の乱」を歌ったとされる作歌場所は、「滝の歌」「吉野の河の歌」「鵜川の歌」「船出の歌」などの検証から、大和の吉野ではなく肥前の吉野(吉野ヶ里などがある吉野地方)であった。
また、『日本書紀』「持統紀」の吉野行幸の舞台の吉野も、奈良県の吉野ではなく佐賀県の吉野ヶ里だった。持統天皇の在位九年間に三一回(この内十一月から二月までの冬期間八回)の吉野行幸が記録されている。これは、九州王朝の軍都であった肥前・吉野ヶ里への天子の軍事視察の記事を、九州王朝の史書から“盗用”して、三四年遡らせて(「丁亥」の論証)「持統紀」大和の吉野へ“はめ込んだ”ものだった。
「紀」中に全七回登場する「倭京」は、「やまとのきょう」と読むのではなく、「ちくしのきょう」と読まなければならない。そこは太宰府を中心とした博多湾岸及び筑後に跨る一帯であった。「九州年号」にも「倭京六一八年〜六二二年」がある。これも筑紫から大和への“換骨奪胎”であった。
『古事記』の「履中紀」に、「近飛鳥」と「遠飛鳥」が出現する。結論からいうと、「近飛鳥」は奈良の飛鳥(明日香)であり、「遠飛鳥」は筑紫の小郡(おごおり)井上地区(現在の小字は「飛島」であるが明治一五年までは飛鳥)である。九州王朝の史書に“筑紫の飛鳥”とあった記事を、“大和の飛鳥”として「紀」に“切り取り・はめ込んだ”(二〇一二年十月六日松山市での「古田史学の会・四国例会百回記念古田武彦先生講演会」の講演録を大下隆司氏が『古田史学会報』一一三号に掲載)。
また古田氏は、天武天皇の宮とされている「飛鳥浄御原宮」について、次のように述べておられます。
「この宮殿の所在地は、通説の奈良の『飛鳥』ではなく、筑紫の小郡(おごおり)の『飛鳥』である。また、宮の読み方は『あすかきよみがはら』ではなく『あすかじょうみばる』である(二〇一〇年十一月六日、八王子・大学セミナーハウスでの講演)」
『日本書紀』「巻二十九天武二年(六七二)二月条」では、この「飛鳥」の宮において大海人皇子(天武天皇)が即位したとされていましたが、古田氏の「飛鳥小郡説」に従えば、これも九州王朝の史書からの盗用で「紀」に“切り取り・はめ込んだ”舞台で即位したということになるので、この説は成り立ちません。
これらのことでお解りの通り、大海人皇子による「近畿天皇家簒奪」の正当化を図るため、「紀」に一巻(第二十八)を割いてまで書き綴った「壬申の乱」の記述そのものは、実は虚構だったのです。但し、大友皇子殺害に至る大乱は、場所は特定できませんが、筑紫や肥前の吉野から瀬戸内海を経由して近畿一円を舞台に行われたと考えます。
天智天皇の崩御について「紀」には、
「「天智天皇十年(六七一)九月に病床に伏した(或本では八月としている)。十一月には疾病(みやまひ)は更に重くなった。天皇は東宮(天武)を臥内(おおとの)に引き入れ、『朕は疾病が甚だ重いので、後事を汝に託す』と。東宮は自らを疾(やまひ)と称して固辞した。後の政に大友王を推し、臣、天皇の為に出家することを乞い願う。天皇これを許す。剃髪して僧になる。天皇は袈裟を贈る。それを着て吉野山に入った。太政大臣大友皇子が皇太子となった。天皇は十二月三日近江宮で崩御した。十一日新宮で殯(もがり)した」
とありますが、ここには陵墓の所在地が記されておりません。「紀」のどこにも記されていないのです。それも、「紀」において天皇陵が所在不明なのは天智天皇ただ一人です。
因みに、持統天皇も「紀」に陵墓が記載されていませんが、「持統紀」は、孫の皇太子・軽皇子(文武天皇)に位を譲った処で終わっているので、この時点ではまだ生きており、陵墓の記載がないのは当然です。このあとの『続日本紀』には、陵墓は記載されております(天武天皇の檜隈大内陵に合葬、大宝三年十二月二十六日)。
ところで、山城国宇治郡山科(やましな)に立派な陵が存在していることから、『岩波文庫』注では、ここが「紀」にある天智の「新宮」であると記しています。
これにより通説は、天智天皇が近江宮(滋賀県大津市錦織遺跡)で病没し、その陵墓は山科(京都市東山区山科御陵上御廟野町)にあるとしています。
ところが、後世(四〇〇年後)の書である『扶桑略記』には、これとは異なる全く不思議な記述が遺されていたのです。
「十月、天皇(天智)病に伏す。そして、天皇に後事を託されたが、自分(大海人)も病気がちであることを理由に固辞し、出家して吉野山に入った。十二月三日天皇が崩御した」
——ここまでは、「紀」と同じですが、次の記述が問題なのです。
「一伝。天皇、馬で遠乗りに出かけ、山科郷に行幸した。還って来なかった。行方不明になったので、山林を捜索したが履沓が落ちていたので、その地に陵墓を造った」
次に意味不明の記述があります。それは、
「以往諸皇不知因果恆事殺害」
とあって、井沢元彦氏は前掲書で、
「『以往(のち)諸皇(しょこう)因果(いんが)を知らず、恒(つね)に殺害(さつがい)を事(こと)とす』だろうが、これでは意味が通じない。学界でもこの部分は謎とされている。
『つねに殺害を事とす』とある以上、やはりこの天智天皇『消失』事件も『殺害』と看做(みな)されていた、と考えるべきではなかろうか」
としております。
私も同感です。その上、次のような疑問点があります。それは、重病であった天智が遠乗りに出かけること自体も不思議なのですが、天皇ともあろう人が大勢の供も連れずに出かけるものでしょうか。それも、近江宮(滋賀県大津市)から遠く山を越えて山科(京都市東山区)まで行き、行方不明になったので山林を捜索したけれど発見できず、また沓が落ちていたのでその地を陵墓として、遺体の代わりに沓を埋葬した、と(「沓塚」の伝承あり)。
そのような天皇陵など類例を見ません。何しろ、「紀」には陵墓の記載がないのです。これも前例がありません。そこで、「紀」の重病から崩御したという記述と、それに対する『扶桑略記』の「一伝」による不慮の死の、どちらが真相なのかということになります。
病気で亡くなったのなら、近江宮の近くに陵墓を造るはずです。遠く離れた山科にわざわざ造るというのは変です。
私は、井沢氏や砂川氏が述べている通り、天智天皇は暗殺されたと考えます。推測の域を出ませんが、病気ではなかった天智天皇は、遠乗りしたの山科(やましな)の木幡(こはた)で暗殺されたのではないか、と。それも、九州王朝の「大皇弟・大海人皇子」によって、です。
また井沢氏は、天智妃である「倭大后やまとのおほきさき」の『万葉集』一四八番歌、
「青旗あおはたの木幡こはたの上を通ふとは目には見れどもただに会はぬかも」
これを、桜井満氏の『万葉集』訳注(旺文社刊)、
「天皇の霊魂は山科の木幡を彷徨さまよっている」
との解釈を挙げて、これも「天智は暗殺された」証拠としております。
何とも意味深長の歌で、論証に値すると思います。
そこで、『扶桑略記』の信憑性に関しての史料批判ですが、この書は、平安時代末期成立の比叡山功徳院の阿闍梨・皇円(浄土宗開祖の法然の師)という高僧が、神武天皇から堀河天皇までを編年体で書いた歴史書で、総合的な日本仏教文化史です。
私は、極めて真面目な書と認識して、ここで採り上げております。そこに「一伝」によると書かれた記述は、当時は書けなかったことでも、ほとぼりがさめた後世になって、伝承などを採り上げることもあると思います。井沢氏も述べていることですが、天台宗の総本山の一つである三井寺(園城寺)の開祖は大友皇子の息子・与多王(天智の孫)であり、同じ天台宗の皇円ならば、このような伝承は知っていたかも知れません。また、この寺の境内に弘文天皇陵があることから、この記事は虚偽ではなかったように思えてなりません。
私は、九州王朝の「天子・斉明」の弟で「大皇弟・真人」と称されていた「大海人皇子」が、「白村江の戦い」(六六二年)の敗戦で唐の進駐軍や復員兵でごったがえしていた九州王朝の首都・太宰府を脱出して、近畿に逃げ込んだと考えます。その際、近畿天皇家に対して九州王朝からの何らかの密命を帯びていたのかも知れません。
その当時の近畿では、「中大兄皇子」の「天皇家」が、大豪族であった蘇我本宗家を滅ぼし、「白村江の戦い」にも参戦しなかったため、実力を蓄え台頭してきて、近畿地方に覇権を確立していたようです。
そこへ、大海人皇子がやって来たのです。九州王朝は朝鮮半島での戦いに敗れ、亡国の瀬戸際に追い詰められていたとはいえ、皇子は“腐っても鯛”で、まだ格式だけはしっかりあり、往年の栄光を背後に決め込んでやって来たのです。その時、砂川氏が前掲書で言われるように、九州王朝の“七枝刀”などの宝物を持ち運んで来たことも考えられます。
それは、古田氏が述べておられる九州・久留米にあった九州王朝の宝庫「正倉院」の“御物”だったかも知れません。
そして、一方の天皇家の中大兄皇子は、“やっとこさ”即位して近畿天皇家の主・天智天皇となったのですが、侵入者で最大の政敵となった格上の大海人皇子に、脅威を感じて娘を二人も差し出し、歓待に務めたと思われます。
しかしながら、天智との蜜月は長くは続かなかったようです。その理由としては、天智は当初、後継者を大海人皇子としていたものの、そのうちに息子の大友皇子を当てたい、と考えたためではないかと思われます。
そのようなことから、大海人皇子は天智天皇を山科の木幡で暗殺したと考えます。『扶桑略記』にあるように「遺体」がなかったということと、「紀」に歴代天皇で陵墓が記されていないのは天智天皇ただ一人であるという事実が、それを雄弁に物語っていると思います。
その後、大海人皇子は九州の大豪族で嫁の父・胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん)と豊前の大豪族であった大分君((おおきだのきみ)恵尺(えさか)をバックにして、近畿の豪族達をも味方に付け(「近江遷都」反対の不満分子か)、筑紫や肥前から近畿を舞台に争乱を引き起こし、大友皇子を自殺に至らしめ、近畿天皇家を簒奪したのです。
ところで、「壬申の乱」は一つの見方として「易姓革命」だったのです(なお、これについては井沢氏や砂川氏も述べていますが、具体的には拙論とは違います。また、前述のように「紀」による「乱」そのものの経緯は虚構)。
「易姓革命」とは、中国の儒教に基づく王朝交代の理論で、天子の徳がなくなれば天命が別の姓の天子に改まることを意味します。つまり、別の国姓への王朝交代であり、王朝が替われば国姓も替わるということになります。
それでは、「易姓革命」であるとする根拠について、私は次のように考えます。
九州王朝倭国の天子の姓は「天あま」です。『隋書』「イ妥国伝」に、イ妥国(大倭国・倭国)王「姓は阿毎(天)」、「字は多利思北孤」とあることによって知ることができます。一方の近畿の天皇家には諱(いみな)はあっても姓はありません。但し、古田氏によれば、「近畿の天皇家は九州王朝の分家」であり、「当初は姓があった」と述べておられます。しかしながら、この時代は近畿の天皇家には既に姓が無かったのです。従って、姓が“有る”ところから“無い”ところに替わったのです。故に、この場合は「姓が替わる王朝交代」と言えます。
因みに、近畿の天皇家に姓が無いことについて古田氏にご教示戴いたことですが、「近畿の天皇家の言い分として、姓が無い方が特別の家系で、姓が有る方が格下である」ということのようです。これも“勝者の論理”による言い分と解すべきです。
なお、この時点では、日本列島の宗主国として九州王朝倭国が厳然として存在していることから、明確な「易姓革命」とはまだ言えないのです。それは、あくまでも九州王朝の枠組みの中での一王権の交代であるからです。従って、完全な「王朝交代」は、大宝元年(七〇一)まで待たなければなりません。
つまり、天武による「近畿天皇家簒奪」のために引き起こした“争乱”は「易姓革命」の“序章”と言えましょう。
そして、「紀」は儒教思想に基づいて書かれていることから、何としても“簒奪”による王朝交代と、後世そしられることを避けたかった。そのためにも、“血のつながり”を建て前とする「万世一系」の系図を作成しなければならなかったのです。つまり、中国とは違って“「易姓革命」を隠すため”だった。それ故に、弟に成りすましたのです。
また、このような“からくり”を、「紀」は九州王朝の天子であった「斉明」を、近畿の天皇「皇極」に、重祚という形でむりやり合体させ、「天智」と「天武」の実母にしたことも挙げておきます。
更に、古田氏が述べておられることですが、『三国志』「魏志倭人伝」に登場する「卑弥呼ひみか」と「壹与いちよ」を合体させて「神功皇后じんぐうこうごう」を特出したように、“合体の手法“は「紀」においてはお手のものでした。
それでは、天武は格上であった九州王朝の皇子だったのに、格下の近畿天皇家に入り込んで、何故九州王朝を“抹殺”したのでしょうか。
それも、中国の歴代王朝に“認知”されていて、悠遠の歴史を背負っていたにも係わらず、です。
また、何故天子・斉明を「紀」で「狂心の渠たぶれごころのみぞ」で象徴される“狂人”扱いにしなければならなかったのでしょうか。そして、系図を改作してまで「万世一系・近畿王朝一元史観」を創出しようとしたのでしょうか。
それには、大きなポイントが三つあります。
まず、“抹殺”の背景を考えるにあたって、最も重視しなければならないこと、それは中国の存在です。かつて、中国大陸の歴代王朝は九州王朝・倭国の宗主国でした(五一七年倭国の磐井が独立するまで)。倭国は中国歴代王朝の朝貢国であり、臣下の礼を取って爵号を授与されていたのです。
つまり、中国は世界の中心であるという所謂「中華思想」が基本にあって周りの国は全て蛮族であり、日本列島は“東夷”と位置づけられておりました。
ところが、中国大陸は四世紀から続く南北朝争乱期でしたが、五〇二年南朝「梁」による倭国王の称号降格を契機として、中国臣従を止めたのです(古田説)。その後も、統一国がなかったこともあり、大陸とわが国とはその間の正式な国交がありませんでした。
それが、五八一年「隋」が興り、やがて中国全土を統一したため、日本列島の宗主国の九州王朝・イ妥国(倭国・大倭国)は、六〇〇年に慶賀の使節を派遣しました。また、イ妥国は六〇七年にも使節を派遣しました。その時、イ妥国の天子・阿毎(あま 天)多利思北孤(たりしほこ)の「国書」が問題となりました。前述しましたが、そこに記載された文言、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなしや云云」(『隋書』「イ妥国伝」)
これは、わが国の尊厳を見事なまでに表現しましたが、中国から見れば「天子」を名乗るなどとはもっての外、許されないことだったのです。隋の皇帝「煬帝ようだい」は烈火のごとく怒りました。つまり、「天子は世界で唯一人」であり「二人天子」は論外だったのです。『隋書』にある「此の後、遂に絶つ(国交断絶)」がそれを示しております。
そして注目すべきことですが、隋朝が短命(三七年間)に終わった大きな理由が、わが国からの国書の文言“天子”にあったようです。それは、
「隋の将軍であった“李淵(唐の初代皇帝)”がクーデターを起こした大義名分は、東夷の国のイ妥国が“天子”を名乗る無礼極まる行為にも係わらず、隋は何もしなかった」ことにあったようです(古田説)。
このように、中国にとって “天子”の語は「唯一無二」の極めて重いものだったのです。
ところで、七世紀中半から朝鮮半島に争乱が勃発しました。それに巻き込まれた九州王朝倭国は、大国・唐に刃向かったのです。それは、唐と新羅の連合軍が百済攻略戦を仕掛けたのを期に、倭国は百済の応援要請で唐に敵対したのです。世に言う「白村江の戦い」で、陸戦も含めて四度戦って倭国側はすべて負けました。完敗でした。その際、近畿天皇家は倭国を裏切って参戦しませんでした。
そこで、唐にとって「白村江の戦い」は、倭国がおこなった先述の中国(事実は隋)に対する “非礼”に、鉄槌を加えることにあったのです。
そして、中国の慣習として、敵対した者に対しては徹底的に破滅させ、墓をも暴くということがあったようです。そのため、敵対した九州王朝の本拠地・九州北部の大きな古墳は、進駐軍により徹底的に破壊し尽くされたものと考えます。現実に、地下の状況は解りませんが、地上にある古墳の存在が少ないことからも解ります。それに対して、近畿の巨大古墳は、戦いに賛同したと思われる蘇我馬子の墓と伝えられている「石舞台古墳」以外は無傷で遺されております。それは、近畿天皇家がこの戦いに参加していなかったことの証左です。
戦後、九州王朝倭国の同盟国・百済は完全に亡くなりました。同じ朝鮮民族の新羅に併呑されたのです。一方の倭国は、国が大きくまた遠隔地でもあったため、結局のところ九州王朝から、七〇一年に成立した近畿王朝に、政権の委譲で済まされたのです。
そして「紀」において、敵対した国は“なかった”ことにしたのです(古田説)。また、「神籠石城・朝鮮式古代山城・水城」などの大土木工事を行った天子・斉明を、「狂心の渠たぶれごころのみぞ」で象徴される“狂人”扱いにしなければならなかったのです。今までは、斉明は天武の母と考えられていたため、よくも実母を狂人にしたものだと思っていました。しかも、「紀」は儒教思想によって編纂されたと考えられているのに、実母に対する扱いとしては、何とも解せなかったのです。ところが、“姉”であるならばそれもありうるか、と思い直しております。
また、天武・持統は唐の進駐軍司令官であった郭務宗*(かくむそう)の庇護のもと、九州から近畿への政権移譲を成就させることができたようです(古田説 —— 天武の短歌に登場する「淑人よきひと」の論証)。それだけに唐の権威に逆らうこともできず、「紀」は作成当時既に進駐軍はいなかったのですが、その“背後霊”の下、編纂されたものと思われます。あたかも、『日本国憲法』が進駐軍のマッカーサー元帥の下、作られた構図に似ております。
宗*は、立心偏に宗。JIS第4水準、ユニコード60B0
そこで、天武は九州王朝倭国の皇子であったにも係わらず、敵対した我が王朝を“なかった”ことにして抹殺したのです。それに伴い同じく九州王朝傘下の「関東王国(群馬・栃木・埼玉県中心)」「吉備王国(岡山県)」「越智王国(愛媛県)」「風早王国(愛媛県)」などの参戦した国々もなかったことにして、史書上から抹殺したのです。
易姓革命については、前項で縷々述べましたので、ここでは重複を避けます。
系図作成は、唐に敵対しなかった近畿の「天皇家」に入り込むことが得策と考えたためのようです。そこで、天皇家の一員になるべく、“勝者の論理”で彼らの都合の良いように、「万世一系」の系図を作成したと考えます。但し、古田氏によれば「万世一系」という言葉は、『古事記』『日本書紀』には存在せず、明治維新以降「強調」されはじめたようです。しかしながら、その言葉はなくても“血のつながり”を建て前とする「系図」を作成したのです。
それは、“天照大神”などの九州王朝の祖先神や各地に伝わる神々を、一系にまとめた神話を創り、それを「大和王家」の初代“神武”につないで、「万世一系・近畿王朝一元史観」を創出したのです。この間、数度の断絶があっても、むりやりつないだのです。例えば、九代“開化”と十代“崇神”、或いは二十五代“武烈”と二十六代“継体”の断絶など。
天武天皇及び天武政権を担った人達は次のようにも考えたのではないでしょうか。
九州王朝倭国の首都は太宰府を中心とした博多湾岸の北部九州でした。ここは、日本列島の端に位置し、中国や朝鮮半島に最も近いため、文化・経済面に於いては最先進地帯で王朝の発展につながりました。しかしながら、「白村江の戦い」で散々の目に遭いましたので、対外戦争を考慮すれば、近いが故に不的確と思ったのではないでしょうか。それに対して、近畿地方ならば日本列島の中央(当時は北海道・東北・沖縄は日本国にあらず)に位置しているため、国家統治のためにも良しとしたと考えます。
従って、以上述べた三つのポイントから「紀」編纂にあたり、天武及び天武政権の人達にとっては、九州王朝を抹殺して天皇家の系図に収まることは、やむを得ない仕儀だったことかも知れません。しかしながら、案外“好都合だった”と思ったようにも見受けられます。それは、古の栄光を背負っていたとはいえ、すっかり落ちぶれてしまった“敗残国の天子の弟”で、しかも天子・斉明の後継者として薩夜麻の存在があることから、もはや表舞台に出ることも適わなかった天武にとって、正に千載一遇のチャンスだったのです。
なお、九州王朝の抹殺に係わったのは、天武は勿論のことその後継者と、それに当時の政界の実力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと 藤原鎌足の次男)が大いに関与していた。いやそれ以上に不比等の仕業と言っても良いのではないか、と思っております。
天武から称徳天皇まで九代・八人(孝謙天皇は重祚して称徳天皇)は天武系の天皇であり、急死した称徳天皇に替わって、次の四十九代光仁天皇(即位時六二歳)からまた天智系に戻ります。以後天武系は一人として皇位には着けませんでした。
ところで、皇室の菩提寺である京都の「泉涌寺せんにゅうじ・霊明殿」に、天智天皇と光仁天皇から昭和天皇(南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇及び皇后の位牌が祀られています。ところが、そこには天武系の天皇の位牌がないと言うのです。
これについて井沢氏は、位牌が無いことについて、前掲書で歴史家小林恵子氏の発見にかかることとして、次のように述べています。
「天武系七人の位牌がないということは、つまり祀られていないということで、この七人の天皇は<無縁むえんぶつ>として扱われていることになる(実際は八人ですが、井沢著では四十七代淳仁天皇<淡路廃帝>を除いたか —— 筆者)」
としております。つまり、桓武天皇の父・光仁天皇を天智天皇の直系として位置づけ、天武系八人の天皇を、皇室の仏壇から排除していたのです。
更にまた、井沢氏は、これも小林恵子氏の発見にかかることとして、
「平安時代になってからの記録を調べると、歴代の天皇陵に対する“奉幣の儀ほうへいのぎ”が、天武系の天皇に対しては、まったく行われていない」
即ち、仏式・神式ともに、天武系の天皇は皇室の祭祀から除外されているという驚くべき事実です。これは何を物語っているのでしょうか。
このことは取りも直さず、九州王朝の大海人皇子(天武)に、近畿天皇家の天智・弘文が殺され、王権を簒奪されたこと、また好き勝手に系図を改作されたことに対しても、天智系による恨み骨髄の復讐の仕儀にほかならないと考えます。それでも、「万世一系・近畿王朝一元史観」を貫くためのこれは最低限の忍耐ではなかったか、と思われます。
そして、五十代桓武天皇が、都を天武系の大和国・平城京(奈良市)から山背国(のち山城国)・平安京(京都市)に移したことは、一般に言われている“怨霊”から逃れるためばかりではなく、天武系を払拭するための所為ではないでしょうか。
以上論述してきましたが、この天智・天武・持統天皇の時代は、『古事記』『日本書紀』を編纂した直近の時代でもあって、生存していた人達も大勢居たと思われます。そのため後世の通説論者は、この時代の歴史は概ね間違っていないだろうとしていました。ところが、“古田学派”を自認している私から見れば“やはりこれもそうであったか”ということになりました。この時代の通説も、ご多分にもれず矛盾だらけの曖昧模糊でした。
しかしこれは、口幅ったいことですが、古田史学の九州王朝説であればこそ、論証の糸口がつかめたと考えます。例えば、天智と天武の「兄弟問題」などは、先学の著書をいくら読んでも、どうも釈然としなかったのです。ところが、拙論の最大のキーポイントとなったのは「大皇弟」の論証です。それは、天武が「天皇」より“格上”の「天子」の弟だったこと。即ち、「天子・斉明の弟」だったことが、「兄弟問題」を始めとする「天武天皇の謎」を解き明かすことになったと思っております。
それにしても、まだまだ解らないことがあります。例えば、持統は天皇であったのか。天武の次の後継天皇は持統ではなく、天武の長男の高市皇子ではなかったのか。これについては、『日本霊異記』(にほんりょういき 平安時代初期成立・仏教説話集)に「太政大臣長屋親王」とあって、永らくこの“親王”問題が物議を醸していたのですが、近年、長屋王邸宅跡から出土した「長屋親王木簡」で“親王”だったことが判明したのです。そうであるならば、親王とは天皇の皇子に限られるので、その父・高市皇子が天皇でなければなりません。これは、「紀」は持統の意に沿い、また藤原不比等やその息子達の思惑もあってか、持統の実子でない「高市天皇」を消し去った、と。
ところで、話は変わりますが、越智国にあった斉明天皇の「紫宸殿」問題。これについては、遺跡の発掘はまだなので、殆ど解らないことばかりですが、「天武が近畿に入り天皇家の主となっていた頃、斉明は越智国明理川を九州王朝倭国の“首都”にしていた」と私は考えております。
思うに、ここに「紫宸殿」が在ったということは、これは“唯一無二”の崇高なる天子の宮殿名でもあり、この時代の日本列島の宗主国は、まだ九州王朝倭国であったからです。
以上です。ご静聴誠にありがとうございました。
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