中村幸雄論集 九州王朝の滅亡と『日本書紀』の成立
問題の提起─『記・紀』の矛盾について
戦後すでに久しいが、相変らず文献・史料を操作・曲解してまで、天皇家中心の大和朝廷一元説に固執している諸説に疑問を抱き、原典である『古事記』『日本書紀』を文字通り正確に読み、歪められない真の日本古代史を再構成しようと試みる者が、先ず直面するのは両書の記事に矛盾があり、
どちらを信頼すべきかについて確信が持てない点であろう。
『記・紀』の矛盾とは、共に官撰の史書である両書は、天皇家系図等、大筋では大体一致しているが、個々の説話を逐一比較すると、
(1) 量は少ないが、 『記』にのみあり、 『紀』にない説話があると共に、 反対に、『記』にはないが、『紀』には大量に載せられている説話がある。
特に顕著なのは、朝鮮半島記事の取り扱いであり、『記』では神功皇后記以外はそれが皆無であるのに対し、『紀』では多くの天皇の時代に大量に見られると共に、その一国である百済の史書からの引用が多い。
(2) さらに、本来精粗の差はあっても同一であるべき説話が、両書で異っている例が多く、どちらを信頼すればよいのか、判断に苦しむことがある。例えば、
イ 最も単純な天皇の年齢も、両書で一致するのは少なく、ほとんどの天皇の年齢は異っている。
ロ 出雲征服説話の場合、 『記』では景行時代、 倭建命の事蹟であるが、『紀』では崇神時代で あり、登場人物も異っている。
ハ 両書に共通する崇神時代の大和の「疫病記事」の原因も、『記』では三輪山の神である大物主神の恣意であるが、『紀』では天照大神を崇神が祀ったことに対する大和の神の怒りの表現である(この点については、従来『紀』は誤読されていた)。
など、両書の記事の相違を例挙すると限りがないので省略するが、従来の歴史学者は自説に都合のよい方の記事を引用するだけで、なぜ、両書の記事が相違するのかを根本的に究明しようとされてはいないようである。
「隼人の反乱」=「九州王朝の滅亡」の発見
私は前述した『記・紀』の矛盾に興味を持ち、
『古事記』成立、七一二年
『日本書紀』成立、七二〇年
のわずか八年間に、共に官撰の史書である両書の編集方針に、なぜ、このような大きな変更があったのだろうかと疑問を抱き、私なりにその八年間の事件を調べた。
〈非才ではあるが、私も「『古事記』(序文・本文)偽書説」、「『日本書紀』偽書説」の存在を知っているが、枚数の都合により検討は省略する。〉
以上の疑問を持って、『続日本紀』を読むと、その八年間の最大事件は、
元正天皇、養老四年(七二〇年)
「二月、太宰府奏す。隼人反し、大隅国守陽侯史麿を殺す。」
「三月、中納言正四位大伴宿称旅人を以つて、征隼人持節大将軍とし、刀を授け、従五位下笠朝臣御室に助勢させ、民部少輔従五位下巨勢朝臣真人を副将軍とす。」
「六月、詔して、『今、西隅の小賊、乱をたのみ、化に逆りて、しばしば、良民を害す。因つて、持節将軍正四位下中納言兼中務卿、大伴宿称旅人を遺して、その罪を罰し、巣居を盡さしむ』。(大伴旅人らは)兵を治め、衆を率い、凶徒を斬り掃ったので、酋帥は面縛して降伏し、命乞いをした。」
の一連の「隼人の反乱」記事であろう。しかし、この反乱については、一般にたんなる辺境の一事件として重要視されていないようである。
しかし、私は、 この事件は重要な意味を持つのではないかと思った。 その理由は、 私が 『市民の 古代』第八集に 「『万葉集』ヤマト考」 を発表し、 「天智→元正」間の天皇の称号である
「倭根子天皇」の、 「根子」は、 対立する二者が、 相互に自らの正統を主張する 「元祖・本家」的な表現であり、 「倭根子天皇」は「倭国正統国王」を意味し、その称号の継続しているうちは、九州王朝も継続している筈であると、説明していたからである。
そこで、「隼人の反乱」と「倭根子の消滅」には、何かの関連はないのかと、隼人の本拠であった現鹿児島県(薩摩・大隅・薩南諸島)記事を、中国史書・『日本書紀』『続日本紀』から抜粋し、
その連続する意味を究めたところ、通説的な大和朝廷一元説は文献の“上滑り的読法” により成立していることが発見されたのである。
現・鹿児島県地域の大和朝廷への帰属時期 I
九州、 なかんずく、 その南端の、 現・鹿児島県地域は、 いつから、 大和朝廷に帰属したのか。
皇国史観的な大和朝廷一元説者は、直ちに景行天皇の九州遠征をあげるであろう。一方、古田武彦氏はその著書で、この説話を熟読すると、筑紫の王者の九州全土平定説話であることが判明し、大和
朝廷が七二〇年、その過去を装飾する目的で編集した『日本書紀』は、すでに滅亡していた九州王朝の史書を盗用しているのだ、と主張している。
両者のいずれが正しいかについての私見を述べると、『日本書紀』には、景行以後、敏達迄 (それも後述する通り、敏達の殯宮への隼人の参加に過ぎない) 、 南九州記事は皆無である。
もし、 大和朝廷 一元説者の通り、景行以後、大和に帰属していたとすれば、もっと記事があって当然であり、記事がないことは、古田氏の主張を裏付けているとも言えるのである。
ゆえに、鹿児島県地域の帰属を、問題視されている景行の記事のみにより判断するのは不適当であり、他の史料・記事の検討を導入すべきであろう。先ず、中国史書を検討することにする。
ところで、鹿児島県地域の出現する中国史書は、唯一つ、『広志』だけである。
「案ずるに、倭の西南を航海すること一日、伊邪分国(屋久島?)あり、布は無く、革で衣服を作っている(後述する天武十年、六八一年の種子島記事と対応している)。」
この記事の倭国は九州であり、大和ではなく、屋久島を含む薩南諸島は、九州王朝(倭国)の支配下にあったことを述べている。
そして、この状態は、その後も長く継続していたと推測される。その理由を、『日本書紀』「『続日本紀』の記事を検討することにより証明する。
『日本書紀』敏達紀
敏達十四年(五八五年)、 敏達死亡、その殯宮に隼人が参加していた記事がある。大和朝廷一元論者は、薩摩が大和の領国であったから、隼人が動員されて来た、と解している。
しかし、極端な例であるが、戦国時代、織田信長が南蛮人から献上された黒人を家来としていたことは広く知られているが、そのことをもって信長がアフリカを支配していたとは言えないと同様に、隼人が大和にいただけで、薩摩を大和の領国であったと判断するのは独断ではなかろうか。たまたま隼人がいたことが珍しかったから、記録されたとも解されるからである。
『日本書紀』推古二四年(六一六年)
「イ 三月、掖玖人(屋久島人)三口帰化す。
ロ 五月、夜勾人(屋久島人)七口来る。
ハ 七月、 掖久人(屋久島人)廿口来る。前後合せて丗口なり。皆、 朴井(大和の地名)に 置く。未だ還らざるに皆死す。」
この一連の記事は、当時、屋久島で何事かがあり、難民が漂着・死亡したことを述べているのであるが、文調は屋久島は大和の領国ではなく、外国であったことを示している。
『日本書紀』舒明紀
「 イ 元年(六二九年)四月、田部連を掖玖(屋久島)に遺す。
ロ 三年(六三一年)二月、掖玖人(屋久島人)帰化す。」
この記事は、推古紀の屋久島人の漂着に不審を持った大和が、その原因を探るため、使を出したことを述べているのであるが、この「遣使」は外国に対するものであり、後出する領国に対する「巡察使」とは異なる点に留意されたい。
『日本書紀』天武紀
(1) 「六年(六七七年)二月、多禰島(種子島)人を、明日香寺の西槻の下にもてなす。」
今度は種子島人が難民としてではなく、公式に来たのであるから、外交儀礼として明日香寺で応接したのであり、当時、明日香寺はたんなる仏教寺院ではなく、現在の迎賓館的存在であったのである。
(2) 「八年(六七九年)十一月、馬飼部造連を大使とし、上寸主光父を小使として、種子島に遺す。各々位を進めた。」
この記事は、(1) に興味を持ち、 詳しく種子島を探る目的で調査団を送ったことを示している (当時、大和朝廷は種子島を含む薩南諸島の地理・文物を知らなかった。薩南諸島は明らかに外国であった
ことを示している)。
(3) 「十年(六八一年)八月、先に(天武八年)、種子島に遺した使が帰国して、地図を献上し、その島は『京』を去ること五千余里(去京五千余里)、筑紫の南の海中に在り、髪は短かく切り、革の衣を着て、稲作は盛んで、年に二度獲れ、他の産物は、くちなし・藺草であり、その他、海産物等、種類は多い。と復命した。」
この記事で最も注目しなければならないのは、「去京五千余里」である。当時、種子島は、(1) 、(2) により大和の領国ではなかったことは判明しているが、独立国ではなかった。その主国を「京」により示しているのである。
そしてその「京」は文中の筑紫と解する外はない。なぜならば、「筑紫→種子島」の距離は、当時使用されていたと推定される「短里(魏晋朝の里制、一里=七五メートル前後)」に相当し、「大和→
種子島」の距離は、現在までに判明しているすべての「里制(一里は何メートルか) 」に一致しないからである。
この記事は、前述した『広志(三世紀成立)』が示している「倭国=九州」「薩南諸島=九州の領国」の状態が、七世紀まで継続していたことを示している。「布はなく、革で衣服を作る」風俗が、三世紀の屋久島と七世紀の種子島に共通していることは、『広志』の記事の正確さを証明していることになる。
『日本書紀』の記事は、種子島の産物として、くちなし・藺草をあげているが、この二品は現在も薩南諸島の特産品であり、遣種子島使の復命が正確であったことを裏付けている。
(4) 「九月、(八月帰国した遣種子島使が伴ってきた)種子島人を、明日香寺の西の明日香川の傍で饗応した。種々の楽を奏した。」
この記事も外国人に対する応接である。
(5) 「十一年(六八二年)、
イ 七月、隼人多く来り、方物を貢ず。この日、大隅の隼人と阿多(薩摩)の隼人が朝廷で 相撲し、大隅の隼人が勝った。
ロ 丙辰、種子島・屋久島・奄美大島の人々に、それぞれ、いろいろな禄を賜った。
ハ 戊午、隼人等を明日香寺の西で饗応した。種々の音楽を奏し、それぞれ、いろいろな禄を賜った。多くの人々がこれを見物した。」
イの「方物を貢ず」は、一見したところ「朝貢」であり、この時点で薩摩・大隅は大和朝廷の領国になったように見えるが、例えば、現在の大相撲の海外興行の際、相手国に記念品を贈呈するように、手土産を持って大和へ興行に来たと解される。
ロ、ハの「禄を賜う」も、江戸時代の武士のように「俸禄を賜ふ」、即ち、 「臣従」と解するのは 無理であり、「大和へ来た記念品」を授けた、と解するのが妥当であろう。この段階ではいまだ鹿児島県地域は領国ではなかったのである。
(6) 「十二年(六八三年)、三月、遣種子島使が帰って来た。」
この道種子島使は、(5)の残りであろう。
(7) 「十四年(六八五年)、九月
都努朝臣牛飼を、東海(道)の使者とす、石川朝臣虫名を、東山(道)の使者とす、佐味朝臣少麻呂を、山陽(道)の使者とす、巨勢朝臣粟持を、山陰(道)の使者とす、路真人迹見を、南海(道)の使者とす、佐伯宿弥広足を、筑紫の使者とす、各々判官一人・史一名なり、国司・郡司、および、百姓の消息を巡察す。」
この記事は、今まで私が主張してきた「鹿児島県地域は、いまだ大和朝廷の領国ではなかった」を、はっきりと証明している。
西海道(九州)以外は、 それぞれ、 各街道に巡察使(領国内を巡察する)を任命しているが、 西海道 (九州)が筑紫に限定されている理由は、当時、大和朝廷の勢力圏は筑紫までであり、他は勢力外であったといえよう。
筑紫の大和朝廷帰属の時期と理由
前述した(3) の天武十年記事と、 (7) の天武十四年記事を単純に比較すると、 九州王朝(旧唐書の倭国)が、大和朝廷(旧唐書の日本国)に、その本拠地である筑紫を奪われたのは、天武十年から十四年の期間中となる。しかし、そのように単純に判断すると、「何故、筑紫の主権が移動したのか」の理由が理解できない。
私は、(3)天武十年の「去京五千余里」は、遣種子島使が実地に測量したのではなく、継続して九州王朝の領国であった種子島人の主張をそのまま紹介したもので、実際は、すでに筑紫は大和の勢力圏にあったと推定している。
なぜならば、古来から筑紫を本拠とし、日本列島代表として、中国歴代王朝・朝鮮半島諸国と交流していた九州王朝(倭国)と、一地方政権に過ぎなかった大和朝廷の勢力逆転の経緯は、次の通りであるからだ。
イ 古田武彦氏の主張する通り、百済救援の為、朝鮮半島に出兵し、白村江に大敗したのは九州王朝であった。
ロ その敗戦を収拾する講和会議(天智四年の劉徳高の来日)の条件は、
朝鮮半島に直面している筑紫からの九州王朝の退去であり、九州王朝はその条件に従わざるを 得なかった、と推定される。
ハ 九州王朝の衰勢に乗じ、大和の天智(天命開別)は、「天命を受けた」と称し(天智七年、時人日、天命将及乎。懐風藻序文、天智受命)、近江に新王朝を開いた。
「天智新王朝説」については、『市民の古代』7集に発表した私稿「天皇の神格性の意味と、その発生消滅に関する考察」を参考にされたい。
ニ 新興の天智は、筑紫の空白に注目し、直接、唐とその帰属を交渉した。
「この年(天智四年) 、小錦守君大石らを大唐に遣す。云々。」
ホ 唐も、筑紫から九州王朝を追い出したものの、海を越えての直接統治は無理なので、天智の 申入れに同意し、筑紫の統治を委任し、朝鮮半島に対する脅威を解消したと推定される(中国伝統の「遠交近攻策」である)。
私は、『三国史記』新羅本紀、六七〇年(天智九年)の「倭国更えて日本と号す」はイ〜ホを述べた ものと推測している。
あるいは、(3) 天武十年の「去京五千余里」の「京」は、筑紫を追われた九州王朝が一時的に都していたから命名されたとも推定される「豊前国京都郡」であったかもしれないが、いずれにしても、
天武十年には、筑紫は大和朝廷の領国化していた、と推定し得る。
現・鹿児島県地域の大和朝廷への帰属時期II
『日本書紀』持統紀
(1) 「元年(六八七年)五月、(前年死亡した天武の殯宮に)隼人の魁帥、各々、己の衆をひきい、互に誅(シノビゴト)を進めた。」
一般に、この記事も「当時、薩摩は大和朝廷の領国であったから来た」と解釈されているが、“ 発想の転換 ”をし、前述した天武十一年に大和での相撲興行に成功した「お礼」と、外国元首に対する弔問として来たと解釈するのが正解と思える。
(2) 「六年(六九二年)五月、 筑紫の大宰率、 河内王等に詔して日く、 沙門(僧)を大隅と阿多(薩摩)に遣して、仏教を伝えしむ。」
前述した天武十四年の記事の通り、大和朝廷の勢力は筑紫以外には及んでいなかった。この記事は一見したところ、平和的な「仏教布教」を述べているように見えるが、以下の持統九年紀・文武二年紀との関連を探ると、持統六年には、筑紫以外も征服しようと企て、その手始めに、薩摩・大隅に
僧侶を送り込み、布教の名の下にスパイ活動をさせたのである。
(3) 「九年(六九五年)三月、文忌寸博勢・下訳語諸田等を種子島に遣し、蛮の所居を求めしむ。」
六年に薩摩・大隅に送り込んだスパイの報告により、薩摩・大隅を攻めるには、先ず、薩南諸島を切り離すことが必要と知り、種子島に調査隊を派遣したのである。
(4) 「九年(六九五年)三月、己未、隼人大隅を饗え、丁卯、隼人の相撲を西の槻の下に観る。」
また、隼人の相撲興行が明日香寺であった。
『続日本紀』文武紀
(1) 「二年(六九八年)四月、 文忌寸博士等八人を南島(薩南諸島)に遣し、 国を覓*めしむ(覓*国使)、因りて戎器(兵器)を給す。」
「覓*」は「覓」の俗字、爪を立てて見るの意。持統九年の調査により、薩南諸島は征服可能と判断し、いよいよ武装した「覓*国使(征服軍)」を派遣したのである。
(2) 「三年(六九九年)七月、種子島・屋久島・奄美大島・トカラ諸島の人が、朝宰(先に派遣した覓*国使)に従って来り、方物を貢ず。位を授け、物を賜ふこと、各々差あり。」
薩南諸島は、落日の九州王朝を見限り、大和朝廷に降伏し領国となった。そこで代表者は大和朝廷の官人に任命され、「授位」された。「授位」が正式な降伏の証明である。
(3) 「三年(六九九年)八月、南島(薩南諸島)の献物を、伊勢太神宮、その他の諸社に奉納した。」
大和朝廷は、九州王朝征服の第一歩としての薩南諸島の降伏がよほど嬉しかったのであろう。その献上品を伊勢神宮その他に分けて献納した。
(4) 「四年(七〇〇年)六月、薩末比賣・久賣波豆・衣(薩摩の地名)の評督・衣の県の助督・衣の君弖自美、 また、 肝衝難波・肥の人等を従え、 武装して債国使の刑部真木等を剽却したので、筑紫の惣領に勅して、犯罪者として罰させた。」
この記事は、薩南諸島の降伏に味をしめた大和朝廷が、「覓*国使(征服軍)」を筑紫から有明海沿いに南下させて、勢力を拡大しようと試みたが、薩摩・肥後連合軍に反撃され、失敗した事実を述べているのである。
(5)
「大宝二年(七〇二年)八月、 丙甲、 薩摩の多[ネ執]*(種子島)、 化を隔て、 命に逆ふ。ここに於いて、兵を発し征討し、遂に戸を校し、吏を置く。」
文武三年(六九九年)、新たに大和朝廷の版図に入った種子島で、反乱があったが、すぐ鎮圧された。
インターネット事務局注2004.1.31
多[ネ執]*の[ネ執]*は、示偏に執です。
『続日本紀』元明紀
「和銅六年(七〇八年)、 それまで日向国に所属していた肝衝を大隅に割き、 姶羅四郡を以って、(大和朝廷の領国としての)大隅国を始めて置いた。」
文武四年、筑紫から南下し、有明海沿いに薩摩を攻撃しようとして失敗した大和朝廷は、鋒先を変え、東海岸沿いに南下した。その戦に敗れた九州王朝は、和睦の為、日向・大隅を割譲すると共に、後述する通り、「人質」を差出し、薩摩一国のみに局限されてしまったと推定される。
大分県の宇佐神宮に、昔、当地で官軍・賊軍の戦があり、戦死した賊軍を葬ったと伝えられる「熊襲塚」があることは知られているが、その戦の時期は伝えられていない。私はその時期はこの和銅年間ではないかと推定している。
『続日本紀』元正紀
(1) 「霊亀二年(七一六年)五月、太宰府から次の通り奏上してきた。
イ 今まで、豊後と伊予の間の豊予海峡は、「航行禁止」であるが、(日向・大隅を統治する上で)不便なので、五位以上の高官の使者は自由に航行できるようにして頂きたい。
ロ (和銅六年、七〇八年の和睦の際)、「人質」にした隼人の収容期間は、すでに八年になり、問題がありますので、今後はその年限を六年にして、交替させては如何でしょうか。その奏上はもっともであるので許可した。」
イの豊予海峡が航行禁止であり、ロの隼人を人質としていたことは、九州王朝は薩摩一国に限定されたが、いまだ存在しており、その反撃を恐れての「戒厳令」的措置であったのである。
(2) 「養老四年(七二〇年)
イ 二月、前掲、隼人反乱し、大隅国守を殺す。
ロ 三月、前掲、大伴旅人らを遠征軍司令官に任命。
ハ 六月、前掲、大伴旅人らに対する賞賜。」
前述してきた通り、九州王朝は、和銅六年(七〇八年)、日向・大隅を放棄し、人質を出すことを条件として、大和朝廷と和を結んでいた。しかし、大和は相変らず圧力を加え続けたと推定される。そしてこの年になり、九州王朝の怒りは爆発し、大隅国守を殺してしまった。
だが、大伴旅人を持節将軍とする大和朝廷の攻撃は激しく、九州王朝は降伏を余儀なくされ、完全に滅亡したのである。
七二〇年以後、九州が完全に大和朝廷の領国になったことは、聖武天平二年(七三〇年)正月、大宰帥であった大伴旅人が邸に九州全土の官人(大隅・薩摩の官人を含む)を集め、「梅花の宴」を催していることにより証明される(『万葉集』巻四)。
九州王朝の状況と『記・紀』の記事の変化
以上の通り、九州王朝と大和朝廷の勢力交替の過程を辿ると、
イ 七一二年、『古事記』成立
九州王朝は勢力を失い、薩摩に局限されたとはいえ、なお存在していた。
ロ 七二〇年、『日本書紀』成立
九州王朝は最後の反撃を試みたが失敗し、完全に滅亡していた。
ゆえに、私は両時点における政治状況の変化が、両書の内容に影響を与えていると推定している。紙数の制限されている本稿では、その全体を説明できないので、問題を朝鮮半島記事問題に局限すると、次の解釈が成立する。
A 七一二年『古事記』成立時
大和朝廷は、九州王朝に止めを刺す寸前であり、両者の状態は再逆転の可能性はなくなっていた。それゆえ自らの過去を装飾する目的で、九州王朝の先在を無視した史書の編集にとりかかった。その際、先ず造作が容易な、当時の「古代史」部分である推古までを述べた『古事記』を編集した。
舒明以後の天智新王朝成立を含む「現代史」部分は、滅亡寸前とはいえ、九州王朝が未だ存在していたので取り扱いは難しく見送った、と推定し得る。
B 七二〇年五月、『日本書紀』成立時
すでに九州王朝を滅した大和朝廷は、『古事記』では触れなかった舒明以後の「現代史」部分を含む 『日本書紀』を急いで編集した。
『日本書紀』が大慌てで編集されたことは、「継体崩年の謎」「継体→欽明間の二朝併立説」「天智紀の称制と即位後の記事の重複」等の記事の混乱により推定される。
その際、史官は『古事記』のようにたんに九州王朝を無視するだけでは、史書として不十分なことに気付いた筈である。
なぜならば、いくら我国の史書だけを修飾しても、外国、特に九州王朝が最も親しく交流していた朝鮮半島には、両国の交流を詳しく述べている「百済史書」があり、両者が整合しないと、『日本書紀』の造作が簡単に見破られてしまうからである。
そこで、 史官は造作の程度を深め、 九州王朝の史書と推定される『日本旧記』 を盗用し、 『百済史書』の記事との整合性に注意して、 古来から朝鮮半島諸国と交流していたのは大和朝廷であったように造作したと推定される。
『百済史書』は、 『三国史記』『三国遺事』には、 書名をあげて引用されず、 『日本書紀』に引用される だけで、その存在は謎とされているが、私は『日本書紀』成立時、確実に存在し、史官はその存在を
重視し 『日本書紀』を編集したと考え、その消失は「歴史の偶然」であったと推定している。
結 語
以上の通り、本稿では紙数の都合もあり、朝鮮半島記事だけを対象としたが、私は『記・紀』の 記事の変化の原因は、すべて、両書の成立時期の政治状況の変化、即ち、九州王朝の滅亡に由来すると判断している。今後、本稿では割愛せざるを得なかった他の例についても逐次解明する予定である。
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