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研究発表

『大化改新の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判

平成十七年十月三十日、東京大学駒場、日本思想史学会大会

古田武彦

 おはようございます。古田でございます。朝早くからご苦労さまでございます。昨日はシンポジウムでテキストの解釈をめぐって議論がありましたが、丁度その翌日の今日、朝の最初にですね、テキスト及び解釈をめぐる事例と言いますか、根本的な、一つの事例を検討する、ということになったようでございます。
 井上光貞さんにつきましては、わたし自身に思い出があります。それは例の有名な、埼玉県の稲荷山古墳、稲荷山の鉄剣ですね。あれが新聞で発表されまして、その次の年だと思うんですが、東大の史学会の大会で、もちろん場所も東大ですが、井上さんが記念講演をされたのです。わたしは一番最前列で、わたしの方から見て右手、井上さんの方から見て左手に坐っておりましたから、井上さんもわたしのことを気にしておられたかと思うんですが、内容も非常に九州王朝説を意識した記念講演でございました。
 昨日のように、その時の井上さんの姿や表情も思い浮べることができるんですが、昨日計算してみると、もう三十年くらい前で、今、学生の方はまだ生まれておられない、というような時だったなあと、感慨にふけったわけでございます。
 さて、その井上さんが学界に決定的な報告を以て登場されたわけです。それがここにあげました「大化改新の信憑性」です。
 今申しました井上さんの御発表、昭和二十六年の十二月、東大で行われたわけでございますが、これはあまりにも有名でございまして、日本書紀の大化改新の詔勅、そこには「郡」という言葉がずらずらとたくさん出てくるわけです。これはどうもおかしい。当時「郡」という言葉はなかったはずで、「評」でなければならない、という一点にしぼった、鋭い御発表であったわけです。
 そのときの司会者が恩師の坂本太郎さんで、「今の井上氏の発表には、わたしは反対である。しかし今日は司会者であるから、それについては言わない。改めて論文でこれに対する批判をのべる」と、こうお約束されまして、その通りに反論が出、またお弟子さんの井上さんの再反論がでる。十数年にわたる論争がつづきまして、しかも壮観というべきでしょうね、学界が二分されまして、各自どちらかに味方して、古代史学界全体にとっての大論争となったわけです。
 それは藤原宮の木簡が、七世紀末のものが「評」という文字を現わしていた、 ーー八世紀になると「郡」になるわけですがーー これによって永年の論争に決着がついたわけです。

 あまりにも有名な論争をふりかえりましたのは、もちろん、勇気をもって挑戦された、若き日の井上さんもすばらしいわけですが、それにも劣らずすばらしいのは、それを受けて坂本さんが敢然と再反論をしておられた。これがなかったら、あゝいう展開にはならなかったであろう。権威者は、批判が出たからといっても、黙って知らん顔をする人もあるようですが、坂本さんはそうではなかった。ということのすばらしさをわたしは銘記したいと思っております。
 それはともあれ、そのときの井上さんの発表が正しかったということになりまして、それがその後の古代史の原点、さらには日本歴史の出発点、そういう位置を占めることになったわけです。これは皆さん御存知の通りです。
 ところで、その場合、問題があります。それはそのとき坂本さんが自分の説の敗北をいさぎよく、率直に認められた上で、「しかしなおかつ、わたしには納得できないところがある。それは当時が『郡』でなく、『評』であったことははっきりしたんだけど。大化の改新の時ですね。それを何でわざわざ「郡」と書き変えなければならなかったか。日本書紀がですね。一ヶ所や二ヶ所ではないんですからね。全面的に『評』を『郡』に書き換えてる。これが分らない。わたしにはいまだに納得できない。」こういうことを書かれたわけですね。これは非常に鋭い、正しい疑問であったと、わたしは思うわけでございます。
 もう一つの問題は、ですね。井上さんの最初の発表は、題が先に言いましたように「大化の改新の信憑性」という題でありましたように、この焦点は「郡」という一字に矢が向けられたんですが、「これは『評』でなければならない。」という形で、その矢が向けられたんですが、実は「大化改新詔、全体」、さらには「大化改新、全体」とも言えますが、その全体の信憑性を疑う、という姿勢で、発表がされていたわけです。これは津田左右吉さんがそうでございましたからね。それを受けての井上光貞さんの研究であったわけです。
 ところが、さっき言いましたように、「井上説が正しかった」ということが判明しましたあとで、井上さんの立場は、微妙に、或は大きな変化をしていた。ま、御本人は「変化していない」と言われるかもしれないが、はたから見てると変化していると見えたわけです。なにかと言いますと、その後の井上さんはですね、「大化の改新は、あのとき、六四五(「むしとく」に)にあったんだ。詔勅も出されたんだ。これはまちがいない。ただ、あそこの「郡」を「評」に書き変えればいいんだ。」端的に言うと、そういう立場に立たれるに至った。これに対して、門脇さんとかその他の方々が訂正の論を出されまして、いわゆる近江令の天智天皇の代に下げるとか、「大化改新」の内容をですね、或は浄御原律令、天武天皇の段階に下げるとか、そういった説が出て、学界をにぎわわしたわけなんですけど、井上さんはさっき言いましたように、「大化改新はあった。六四五の時点にあった。ただ、あそこにある『郡』は『評』に直さなければいかんのだ。」という立場をとられることに至ったわけです。
 いずれにいたしましても、先ほど言いました「坂本疑問」と申し上げておきますか、坂本さんの提出された疑問は生きっぱなし、といいますか、死ぬことなく、生きつづけていたわけでした、見えていたわけです。
 たとえば、京大の、現在いらっしゃる鎌田元一さんが出された有名な論文がありまして、「評」という字が出現する史料をくまなく検討されて、これは結局、「評」という制度を作ったのは、孝徳天皇自身である、孝徳天皇が「評制」を創始されたんだ、と、こういう結論を出された。つまり井上説を完成といいますか、井上説を完成し、敷衍した説を、これも比較的若い時の鎌田さんが出されまして、それが学界一般に認められて現在に至っていると思うんです。しかしこの鎌田説に立ってみても、この「坂本疑問」は、“すでに大化の改新時に評だったら、なぜそれを日本書紀は書き変える必要があるんだ。孝徳天皇がせっかく評という制度を作られたのに、なんでそれを消し去って郡に変える必要があるんだ。”という坂本さんの疑問に答えることができずに現在に至っている。というようにわたしには見えるわけでございます。
 この点、わたしはすでに何回も、指摘したことがございますが、学界からは回答を見出すことができません。

 さてわたしには、この問題の結着点は非常に簡単明瞭である、こういう風に見えているわけでございます。なぜかと言いますと、いわゆる「評督」が「評」の支配官職であることは、誰も疑っておりませんが、この「評督」が九州から関東まで出現していることも、これはよく知られております。
 問題は「評督」の上部単位。「評督」はたくさんいたわけですから、たくさん各地にいる「評督」の上に立つ官職の人は誰であったか、という問題なんです。これはもう、わたしは疑いもなく、「都督」であったと思うわけです。 ーー「都督」。
 なぜかというと、「評督」の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀の半ばから七世紀の末までに限られている。それに対して「都督」の方は、四〜五世紀から存在した。中国を原点として東アジアに有名な官職であったことは、誰ももちろん疑う人はいないわけです。
 それが前提にありますので、それと全く無関係に日本列島で「評督」を作ったとは考えられませんので、やっぱり、「都督」の下部単位としての「評督」という位置づけは、わたしはこれを疑うことはできない、と、そう思うわけです。
 そうしますと、「都督」のいたところは何と呼ばれたのか。これはもう明らかでありまして、「都督府」と呼ばれている。これは中国の各歴史書を見ましても、よく出てくるのですが、「都督」のいるところを「都督府」と呼ぶわけです。
 それで日本列島の場合、「都督府」があったのはどこか。文献や地名の痕跡はどこにあったか。こう見てみますと、これは、一つしかない。つまり、筑紫都督府です。筑紫都督府というのが唯一の出現例です。
 文献的には日本書紀、天智六年の十一月です。天智六年の十一月に、「筑紫都督府」という言葉が出てまいります。一回だけ、出てきます。それは、幸いなことに、現地名にも裏づけられています。太宰府のところで、土地の人がそこを「都府楼跡」と呼んでいることは有名です。「都府」というのは、「都督府」の略が「都府」。「太宰府」のことを「太府」と書いてありますからね。「太宰府」のことを「太府」と呼ぶように、「都督府」のことを「都府」と略したということは、これは異論はございません。ですから「都督府」があったことが文献上、またいわゆる地名の伝承上、存在するのは、この太宰府だけである。日本列島、広しといえども、この太宰府だけである、ということはハッキリしております。
 これに対して、たとえば、大和都督府とか、飛鳥都督府とか、近江都督府とか難波都督府とか、聞いたこと、ないですね。
 もちろん、古書記・日本書紀という天皇家で出した、天皇家側から出された文献にも、全く出てまいりません。まさか、書き忘れた、ということはないでしょうね。
 また現地伝承、今の特に大和とか、難波、大坂とか近江とかいうのは、大変、研究が濃密に行われている場所であることは御承知のとおり、国家も、これに予算を出してさかんに支援している、地方自治体も支援しておりますがね。しかしその中で「都督府跡」という伝承があるところは、一回も発見されておりません。つまり、文献にもなく、地名伝承にもないのが、「近畿の都督府」なんです。
 これに対して、史料にもあり、現地伝承にもあるところが、九州、太宰府の都督府なんです。
 そうしますと、さっき言いました、九州から関東に至る「評督群」の上部単位、上部の原点、これはどこかというと、疑いようもなく、歴史学の公平な ーー先入観でどこへもっていってやろう、ねじまげてやろうという、イデオロギーは、わたしは反対ですが、そういうものに立つのは学問ではないと思っておりますが、そういうイデオロギーに立たずに、史料を直截に見つめる以上は、「都督府」は太宰府にあった、と、こう考えざるをえないわけです。
 そうしますと、有名な、いわゆる「倭の五王」、讃・珍・済・興・武、これいずれも「都督」を称したこと、任命されたり、自分で称したりしていたことは、宋書倭国伝に出てきて有名でございます。「使持節、都督」です。「使持節、都督」という形で出てまいります。つまり「倭の五王」は「都督」であった。「都督」を称していた。いいかえれば、「倭の五王」のいた場所は「都督府」と呼ばれていたわけです。それはどこか。
 先ほどの、わたしが申し上げたところに従う限り、「筑紫」以外にありえないのです。
 この点は、わたしから見ると、全く意外ではない、といいますかね。たとえば「多利思北孤」というのが「日出ずる処の天子」というところにも、「阿蘇山有り」とハッキリ書いてあるんですからね。「阿蘇山有り」とハッキリ書いてあるのを、学校の教科書なんかではカットして、決してのせませんからね。本文にも、のせないし、教科の指導要領にも、のせないことになっている。あれは、入ると、生徒は当然「阿蘇山は九州じゃないの。」と言い出しますからね。いかに慎重に除いていても、事実はやっぱり、「阿蘇山有り」とあるんですからね。
 というようなことに、自然の関連をもっているわけです。
 
 それに対して、従来の歴史学はどういう態度をとってきたか、と言いますと、要するに、あそこは、日本書紀の「原、史料」を書く人間が、うっかりまちがえて書いた、そのまちがえて書いたのを、日本書紀がまた、ウッカリミスで、そのまま書いてしまったんだ。 ーーちょっと何か、口に出して言うのも、はずかしいような、言いにくいような話なんですが、そういう説明になっていて。念のために、「まさか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんから、岩波・古典文学大系、日本書紀の下巻三六七頁注二一をご覧ください。そこには「原史料にあった修飾がそのまゝ残ったもの」と記しています。
 九州の太宰府を指すだけであって、「筑紫都督府」という言葉には、意味がない。誰か知らん人間がそう原史料に書いてしまって、日本書紀のウッカリ者の編者はそれをウッカリ写してしまった。だからこれは、カウント・アウト、「史料」と見なくてもいい、そういう立場をとっているわけです。これは、岩波の古典文学大系の、ここは青木(和夫)さんですが、井上さんの後輩のね。でも、もちろん、青木さんだけじゃなくて、井上さんとか家永さんとか、みんなで作られた本ですからね。岩波の古典文学大系の、この本は。岩波の古典文学大系のこの本の、その立場がこれなんです。


 しかし、わたしの目から見ますと、写本 ーーわたしは親鸞研究以来、いつも古写本から出発して古写本に帰る立場ですがーー で見ますと、日本書紀のここは古写本に恵まれています。北野本、京都の北野神社の北野本。重文ですがね。これにハッキリと「筑紫都督府」というのが書かれています。一行目の最後から二行目の先頭にあります。また卜部兼右本。古典文学大系が底本として依拠した卜部本ですが、ここにもハッキリと「筑紫都督府」と出ております。その他、中間の伊勢本・内閣文庫本など全部、「筑紫都督府」が出ていて、一〇〇パーセント「筑紫都督府」は出ている。その一〇〇パーセント古写本に出ているものを、学者が「これは誰かがウッカリミスで書いたのを、ウッカリまちがいで書いただけだから、これは史料として扱わない。カットする。」と。わたしは、わたしの古写本の処理の方法論に立つ限りは、こういうテキスト処理の仕方は、見たことがない。
 例の教行信証の最後の「主上、臣下、背法違義」のところを、戦争中はあれをカットして空白にした、という、有名な例があるんです。これは今から見れば、とんでもないことだったわけですけど、ね。それを今度は、「空白」にはしない、ちゃんと印刷はされてますけど、印刷はされてあっても、「ここは、相手にしなくていいんだよ。」と。「誰か、ウッカリミスのやつが書いて、それを日本書紀の編者がウッカリ写してしまっただけなんだから、ここは史料としなくていいんだよ。」という解釈で、すぎてきているんです。
  わたしはやはり、わたしの古写本に対する理解からすると、「このやり方ができるんだったら、もう何でもできる。」と。「邪馬壹国」を「邪馬台国」にやき直すどころの話じゃないんですね。
 この一単語の問題が意味するところは、皆さん、お分りだと思うんですが、日本の古代史全体に影響を当然ながら及ばす。またその日本の歴史の原点をなず歴史像に、根本的な検討をもたらさざるをえない、ということも、お分りいただけるかと思います。
 なお、これにつきましては、いろいろとその他の問題がともないます。
 先ず「於て」問題。北野本にはなく、後代のト部本等に出てきます。これも論じ出すと面白い。こたえられないように面白い、古写本、テキスト処理の問題なんですが、これがございます。
 また有名な「那須国造碑」。井上さんも重要な史料として引用された「那須国造碑」の問題がある。ここになぜ、中国年号がいきなり、飛びこんでくるか。「永昌元年」。これもハッキリ言いましたら、「北朝暦の年号」です。「南朝暦の年号」ではないわけです。この問題。
 さらに「浄御原京」「藤原京」、ここには「大極殿」がなかった、という問題。つまり、ここには「大極殿があった」という現地伝承がないんですね。それを学者が ーー岸俊男さんなどーー 「ここに大極殿があったにちがいない」という解釈で、それが「想定」されて、教育委員会から出された、何十万部という資料が印刷されて、日本国中、教科書にものせられてきているわけです。が、現地伝承には「大極殿はなかった」のです。
 この点、わたしが特に言いますのは、わたしがおります京都府の向日市、ここには長岡京の大極殿がある。ここには、畠と藪だけのところを、持主は「大極殿」「大極殿」と、江戸時代から言っていた。なぜか知らないが、大極殿。ところが、発掘してみると、「何か知らんが、大極殿」と言っていたのが、やはり「大極殿」の跡だった。
 同じく、奈良の平城京にも、「太極の芝」と呼ばれたところがあった。なぜか知らないが言われていた。しかし発掘してみると、「太極の芝」のあるところが、「大極殿」だった。これらは八世紀の前半・後半の話ですよね。
 それなのに、その直前の藤原京には「大極殿」の伝承がない。その前の浄御原京に至っては、それに当てるべき場所さえなかった。そして藤原京は、「鴨公(かもきみ)神社」となっているところを、無理矢理これに当てて書き直して、これに当てて書いているんですね。
 というような問題にも、いろいろと派及するところがあるわけでございます。これらの問題にはもちろん、今日は、限られた時間で申せませんので、また皆さまから御質問をいただけましたら、喜んでわたしの方から御返事を研究所なり、研究室の方へ御報告させていただきたい。そう思って今日は参りました。
 また、年寄りが大それた問題を申し上げたわけでございますが、是非とも皆さまが心広く受けとめていただければ、わたしとしては幸せでございます。どうも、有難うございました。

〈質疑〉
 A氏 「『評督』の上部単位は『都督』である」について。「評督」というのが意味としては「評を督する」という風のもので、これに対して「都督」というのは“督を都(す)べる”なのか。“都(す)べて督する”なのか、その場合、“すべて督する”という、その「督」は「評」に限られるのか。「評督」の「督」と「都督」の「督」は確かに同じ「督」ではありますけれども、そのつながりがどうか。「都督」が「評督」の上位にすわる、おかれるものとお考えでした。けれども、それ以外の可能性、或は「都督」と「評督」と二つを上部・下部と連続してつなげていく、それ以外の可能性はないのか。全く別件のものではないのか、ということは全く存在しないのか、どうか。

 古田 ハイ、分りました。どうも有難うございました。いい御質問を有難うございました。おっしゃる通りの問題があるわけでございますが、しかしこれに「すじ」を通してみれば簡単だとわたしには思われる。なぜかというと、「都督」と「評督」は、どこで誰が作ったか分らないものが、バラバラにある、ということだったら、むすびつけていいかどうかという疑問が出るわけです。
 しかし「都督」というのは、レッキとした、中国側の歴史に歴代出ている官職名でありまして、「都」はもちろん「みやこ」だけではない「すべて」ですよね。“自分の管轄下にあるものすべてを監督する”という「都督」だと思う。それが各地方、中国の内部や外部に「都督」がいた。百済王や新羅王も、「都督」です。中国の天子が任命した「都督」なんです。「百済の都を監督する」ではなくて、中国の天子のもとにおいて自分の責任範囲をすべて監督する。「すべて」というその対象は、天子のもとにおいてすべての責任範囲を監督するという「都督」です。「すべて」の対象は「天子」なんです。「国民」ではないんです。ということは中国の「都督」に対しては何の疑いもないわけです。これを疑う場合には、中国の歴史自身を疑ってかかる人があれば別ですが、それでない以上はこれは確定したことだと思っております。
 次に、それよりあとに、日本で「評督」という言葉が作られたことはまちがいないわけです。その場合は「評」という概念が作られてそれにつ「評督」というのを長官にしたことはまちがいないんです。その場合には「都督」という存在がいることを忘れて、ウッカリミスで忘れてしまって、“何だか監督するという意味で「評督」という言葉が偶然できてしまった。そのとき「都督」とは全く関係がないよ。” ーーというのは、これはむしろ「空想」と言うか、「空想」は大事なんですが、アイデアとして考えるのは重要なんですね。しかし、その場合は、その証明がいるわけです。「証明責任」は、そっちにあるわけです。「これは都督とは関係ないよ。空想で作っただけだよ。」というその証明をするのは、「空想」をする、ーー 「空想」は貴重ですが、その貴重な「空想」が単に「空想」に終っているのか、それとも、それが歴史的な実体をもつのか、の証明は、そっちの方がしなけりゃいかん。
 それに対して、まともな「すじ」は「都督」というのは、東アジアにあるんだから。「評督」という言葉は、個人が勝手に日記に書いたものではなくて、ちゃんと制度なんだから。その制度を作る人々が「都督」という存在を、うっかりミスでみんなが忘れて勝手に作って喜んでいた、というのは、先ずこれは考えられない。
 だからやはり、「評督」は「都督」の下部単位だというのが、話の「すじ」だと思う。そうじゃあないよ、という人がいて、いいんです。しかしその人がその「証明責任」を背負ってその証明をしなけりゃいかん、というのがわたしの「証明責任」に対する考え方でございます。時間がありませんので、今日のところ、簡単ですが、これだけです。

 A氏 これは、古田さんに、どう、という問題ではないんですが、中国に「評督」があった、という用例を探さねばならない、と思いました。もう一つは、「評督」という例はあるが、「督評」という例はないか、という問題です。

 古田 中国の例は、ないんです。「評督」というのは、中国にはありません。「評督」は、先ず、日本列島独自の称号です。
 空間的には、ほぼ日本列島だけです。空間的には朝鮮半島にも、かかるかもしれないが、先ず日本列島だけの称号です。そして中国にはないんです。
 ただ「評」というのは、あります。中国で軍事・政治をにぎっている人物を、「評」と称している例がありまして、その「評」が楽浪・帯方にもいたわけで、軍事・政治をにぎっている例があるわけですから、倭国も当然それを知っていて、ビリビリしていたわけです。
 その「評」という言葉を使って、日本で「評督」という言葉を作ったと考える、そう考えるのが、一番「すじ」の通った解釈です。
 中国の楽浪・帯方郡の「評」を忘れて、自分で勝手に「評」という言葉を使ってみていたら、偶然それが一致していた。ということは、ちょっとこれは無理で、そう考えるなら、先ほど言ったように、その「証明責任」がその人にあるわけです。
 中国には「評督」はないんです。そして日本で「評督」を作った場合に、「都督」と無関係に、「都督」を知らずに、これを作った可能性は、わたしは先ず、無いと思う。
 「いや、『都督』」を忘れて、それを作ったんだよ。」と言う方がいたら、その方にその証明をしてもらわなければ、どうしようもない。こういうことでございます。どうも有難うございました。
 
 司会 時間がまいりましたので、これで終わります。


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