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「和田家文書」に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史の考察  藤本光幸

遺稿 「和田家文書」復刻版発行について 藤本光幸
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弔文

 藤崎からとどろいてきた雷鳴は、わたしの心の底を突きさしました。思いがけぬ、いや思い恐れていたその時が来たのです。
 すでに病魔におびやかされてより幾歳月か、いつも体力を上廻(まわ)る、その御気力に感服してきました。社長としてのお仕事と共に、この東日流外(つがるそと)三郡誌をふくむ和田家文書にそそがれた、広い愛情、その御熱意の深さにいつも打たれつづけてきたのです。
 思えば、津軽の世界の、あちこちの多くの人々が、いわゆる「偽書説」に惑わされつ、づけて右往左往していても、藤本さんは眉一つ動かさず、その文書の正当性、貴重性を疑われませんでした。見事です。
 その体躯と共に、わたしはあの明治維新の時の西郷隆盛の風貌をいつも思い浮べていました。その西郷すら、いわゆる「西南せいなんの役えき」には、事志(ことこころざし)と反する「朝敵」の汚名(おめい)をうけましたが、藤本さんは終始一貫、己(おの)が信ずるところ、微動だもせず、その生涯を見事に終えられました。男子の、否、人間の鑑(かがみ)です。
 今なお日本列島内に狂熱の信者たちの少なからぬ、いわゆる「偽作説」の霧は、やがてくまなく晴れわたる秋(とき)が来ます、必ず。それが歴史の裁きです。そのとき、藤本さんの勇姿は一段と輝き、日本人の教科書に刻まれることと信じます。今回の『和田家資料 3』(北方新社)の出版は、新しきその第一歩です。
 わたし自身、今回の訃報(ふほう)に接し、直ちに津軽、藤崎の地に飛んでゆこうと思いましたが、周囲から止められました。この十月末から十一月にかけて、予定が目白押(めじろお)しです。東京大学での研究報告や大学セミナーハウスの連続講義など、です。「七十九歳さいの身を考えよ。」と、周囲の戒めです。もっともです。
 ですが、わたしは思います。藤本さんから、あの和田喜八郎さんにお引き合せいただく幸いをうけた、わたしのなすべきこと、それは一つだけです。和田家文書の正当性、そのすばらしい、日本の歴史の中の史料価値を、世界の万世に伝えることです。これが遺憾にも、御葬儀(ごそうぎ)の席に出ることのできなかった、わたしの約束です。
 やがてわたしが生を終(お)えたとき、詳(くわ)しくゆっくりとその経緯(けいい)を藤本さんに御報告できると存じます。それまでゆっくりとお休み下さい。
     平成十七年十月二十五日
                           古田武彦


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