『東日流外三郡誌』序論 日本を愛する者に(『新・古代学』第7集)
『真実の東北王朝』(駿々堂)へ


2001年1月20日(日)午後1時から5時
古田武彦講演会 場所:大阪 北市民教養ルーム
演題 続・天皇陵の軍事的基礎 その他

逃げざる陵墓

神の手の論証・年輪年代測定法・曲水の宴と東北王朝・続天皇陵の軍事的基礎

1 神の手の論証

 お渡しした一枚だけの半ピラの資料から始めたいと思います。これは藤村新一氏の経歴を記したビラです。去年古代史に関して大きな事件がございました。これは藤村新一氏がねつ造して自分が発見した。こういう事実を述べた。それが毎日新聞でスクープとして発表された。これは反面 から言えば大変な出来事でたまらない事件です。しかし反面からいうと、日本のジャーナリズムにとって、明治以来の最大のスクープではないか。私は日本のジャーナリズムの歴史を研究したことはありませんが、私の感じではこれだけの大スクープを、日本のジャーナリズムが行ったことはないのではないか。世界ではあるでしょうが。その意味ではひじょうに輝かしい事件です。その意味では、うらはらに最大の事件となりました。
 ところが『和田家文書』の偽作説。偽作論者が言い続けて騒いできました事件。関西でも非常に大きな影響をうけましたが、それにたいする反対証明。和田喜八郎氏による偽作説、これに対する徹底的な反対証明になっている。私はそういう問題に、あの事件のあと気がついてきました。
 その問題に関しては古田史学の会・仙台の佐々木広堂さん、彼がこの問題に対して非常に詳しいので資料をお願いしたら、さっそく送って来られました。藤村さん自身が発見したという仕事の全貌、それを知りたいとお願いしました。そうしますと藤村さん御当人が一九九八年二月二十二日に、二年前にまとめた『前期・中期旧石器時代発見:調査略年表 藤村新一(東北旧石器文化研究所)』というリストを送っていただきました。
 コピーして本日お渡ししたのは、その一枚目と三枚目です。途中の二枚目と他の資料、藤村さんによる略歴・地図による遺跡の位 置・旧石器遺跡の見取り図などは、ここにもちろんありますのでお回し致します。
 それでは、このようなことが、なぜ意味があるのか。従来偽作論者が言ってきた偽作説の重要な論点に、次の問題がある。有名な大発掘があると、必ず後で和田喜八郎から、それと同じものが『和田家文書』にあるよ。そう言って出てくる。要するにニュースに敏感というか、新しい発掘に敏感で、それに合わせて文書を製作する。そういうやり方を繰り返し、繰り返し行っている。そういうことをくり返し偽作論者は、あちこちで書きまくっている。これもごく最近正月発行の週刊誌や月刊誌にも、そういうことが書かれています。
 その主なものを言いますと、一番目は稲作。これは昭和三十二年あたりに、青森県に稲作の痕跡が出てきた。水田が出てきたのはもっと後ですが。これに対して『和田家文書』では、ご存じの長髄彦(ながすねひこ)。彼は『古事記』『日本書紀』に出てくる長髄彦と別 人だと私は考えておりますが。彼は筑紫・福岡県から兄さんと一緒に津軽に亡命した。その時に稲作・稲の穂を持って行った。そのことが『和田家文書』に、繰り返し書かれている。絵にも描かれている。それを偽作論者に言わせると、和田喜八郎が昭和三十二年ごろに青森に稲作がある、そういう報道をいち早く取り入れたものだ。和田喜八郎が言っているような昭和二十三年頃に、天井から文書が落ちてきたというのは、まったくのデタラメ・大ウソであると。もし昭和二十三年頃に天井から落ちてきたとなれば、昭和三十二年頃よりも早いですから。
 次に二番目は有名な出雲荒神谷。そこから銅鐸その他が出てきた。これは昭和五十九年、私が関西から東京へ呼ばれて行くときですが有名な発見があった。これは『和田家文書 荒覇吐(あらはばき)一統史』ですが。そこに出雲荒神谷とまで書いてある。それでびっくりしますが。そこに銅鐸の絵が出ている。ただこの銅鐸の絵は後期銅鐸です。実際に出雲荒神谷で出てきたような前期の銅鐸ではなくて立派な後期銅鐸です。他に描かれている剣も、絵と出てきたものとはスタイルが違います。また私たちには良く分からない鉄器や銅器で良く分からないものが描かれております。これに対して、昭和五十九年ニュースが出てきた後、和田喜八郎がでっち上げたものだ。絵と違うのではないかと指摘すると、あまり同じだと困るからすこし違わした。そういう問いには、そのような便利な論法を使った。
 三番目は、さらに有名な青森県三内丸山。平成六年、六本柱とおぼしき跡が出てきた。私が紹介したものですが、ちょうど東京の昭和薬科大学を退くときに、和田さんから送っていただいてコピーしていたものです。『丑寅日本国絵巻』、それにやはり六本柱の建物が描かれている。しかし三内丸山に建っているものとは、大きな相違がある。今三内丸山遺跡に建っているものは、一階がない。風が通 るさばさばのところです。天井にあたる2階のところから屋根がついている。これに対して『丑寅日本国絵巻』の方は、地面 のところに第一に人が座る場所がある。もちろんそこは神を祭る場所です。そのような違いがある。。私はこれは重要な違いだと考える。一階が無いというのは、南方のスタイルである。南方の場合は、今普通 の人が住む住居でも一階はありません。なぜ無いかと言いますと、結局津波などが来たときにさっと水が通 って欲しい。涼しいということもあるかも知れません。日本の神社建築は、だいたい一階が素通 しである。あれは南方の系列の証拠です。もちろん日本には北方の系列と南方の系列があり、両方が結びついていると理解しています。南方はもちろん黒潮。北方は樺太や北海道は大陸にくっ付いている。現在でも樺太は(冬は)氷で繋がっている。当然ながら、北方系列で来たものは一階が素通 しであれば、寒くて住んでいられない。『丑寅日本国絵巻』に書いてある建物は、北方系列。ところがなぜか三内丸山遺跡に建っているものは、南方系列の一階が素通しに作っている。おそらく神社建築が頭にあったのだろう。九州佐賀県吉野ヶ里の建築は、高さに問題があるが一階が素通しでも仕組みとしてはよい。南方系列だから。しかし青森県三内丸山は、あれではいけない。まさに『丑寅日本国絵巻』では北方系列になっていた。
 それに『丑寅日本国絵巻』は、私が昭和薬科大学に居るときに、和田さんから送ってもらっていてコピーしたものです。『丑寅日本国絵巻』は三内丸山が騒がれる前から、存在していることは良く分かっていた。ところが偽作論者はそんなことにお構いなく、「また偽作した。三内丸山が出たから、それを種にして『丑寅日本国絵巻』を作った。」そのように書きまくっている。今言ったような違いも、きちんと『新・古代学』に私は書いてある。それも前と同じく「あまり同じでは困るから変えた。」と無視して書いている。今年の正月号でも書いてある。『週間新潮』『正論』などにおおまじめに掲載されている。
 このような代表的な例をあげましたが、実は彼ら偽作論者がまったく忘れた、あるいはまったく忘れたふりをしている問題がある。それが何を隠そう「藤村発掘ねつ造問題」である。
 この藤村さん自身が作製された資料の先頭に書いてあるのは、昭和十一年から書いてあります。もちろんこれは藤村新一さんが関わったものではありません。藤村さん自身がが直接関わったものは、一頁目の一九七五年(昭和五十年)、宮城県において石器文化談話会が結成された。それに藤村氏は加わった。その会の結成直後と言ってよい時期から、藤村新一さんの活躍が始まっていく。たとえば昭和五十年藤村新一さんによって、宮城県三太郎山B遺跡から、中期旧石器時代の薄片(スクレーパー)が発見された。これは藤村さんが、御自身で書いています。それから藤村さん、藤村さんと出てくる。お回しした二枚目、そしてコピーした三枚目(段落としては倍の五・六段となる。)の最後まで、平成九年北海道美唄市で中期旧石器時代の薄片(スクレーパー)まで藤村新一氏の手により発見された。

 ですから一九七五年から一九九七年十月の一番最新の資料まで書かれています。

 それで一昨年、一九九九年(平成十一年)九月に和田喜八郎氏は亡くなられた。

 そして藤村氏の旧石器捏造事件が判明したのは二〇〇〇年、昨年である。

  ですから和田喜八郎氏は、幸いというか不幸というか、今の藤村新一氏の旧石器時代捏造問題をまったく知らずに死んでしまった。和田喜八郎氏にとっては、藤村新一氏は輝かしいままで生を終えた。和田喜八郎氏はあの忌まわしい事件を全く知ることはなかった。これは事実です。

 それでは『和田家文書』に藤村発掘の痕跡はあるか。

 つぎに始まりを調べてみてハッと気がついたが、公式に発表された『和田家文書』は、『市浦(しうら)村史』資料編が昭和五十年から五十二年にかけて上・中・下が出る。昭和五十六年に本編が出る。
 これは藤村新一氏が一九七五年(昭和五十年)に石器文化談話会に参加して活躍を始めたのと同じ年です。その同じ年に『市浦村史』が発刊され始めた。もちろん発刊されたという事は、それ以前に存在し編集されたという事です。あと次々発刊された。
 それで藤村新一氏が世に出て活躍した二十四年間に、同じ時期に『和田家文書』が発刊され知られてきましたが、藤村発掘に対応するものは『和田家文書』には全くない。いくら探してみても、偽作論者がそのつもりで一生懸命さがしてみても対応するものはまったくない。
 私自身について言うと、何回か和田さんに藤村発掘について話したことがある。それは新聞の一面に何回か出ましたから。特に東北では大きな話題になっていましたから。凄いと思って和田さんに話題にした。しかし和田さんに言っても、和田さんはなにか面 白くない顔しか見せなかった。それは普通何か関係があると、「これは『和田家文書』にもあるよ」。そう言われるのが、彼のお得意の返事である。こちらから見たら、そんなに一致していないと思えるものまで、関係しているという言い方を十八番(おはこ)にしていた。その十八番(おはこ)が出ない。何回か藤村発掘を話題にしましたが、その度に反応が乏しい。反対もしないけれど。ムーンとうなって黙ってしまった。そして次の話題に移っていった。そのような経験を何回か持っている。これは私の経験ですから、今言ったように客観的に藤村発掘の中で『和田家文書』に対応するものを探して欲しい。
 しかし藤村発掘の中で『和田家文書』に対応するものはゼロである。これの持っている意味はすさまじい反証力を持っている。だいたい私から見れば、和田さんから送ってきたものから見て、そんなものでは有り得ないことは分かっている。さらに筆跡問題では『新・古代学』でさんざん証明を行いましたように和田喜八郎さんの筆跡とは違う。『和田家文書』明治写 本の筆跡は、明治の和田末吉さんの筆跡であり、またその息子さんの長作の筆跡である。それは明治・大正を中心にして、昭和の始めぐらいまでに書かれたものである。それはくどいぐらい筆跡をもって証明した。そんなことは『新・古代学』をご覧の方はご存じである。しかし、無責任な人々はそんなことは知らない顔をして、そういうデタラメな宣伝を行っている。そして何かニュースがあれば、すぐそれにかこつけて偽作をするという噂を流している。これが和田喜八郎の手口だったという事を、今年の正月号ですら、あちこちに記事として書かれている状況である。昨年の終わりにも書かれている。そういう無責任な偽作論に対して、完全にとどめを刺す論証が、今言ったテーマである。
 今後、藤村発掘問題に知らない顔をして、なお偽作説を唱える者がいたら、その人は良心がない。彼は学問的良心がゼロである。そう言わざるを得ない。ただキャンペーン・プロパガンダのために偽作説を言っているに過ぎない。そのことは確信して良い。そのようにきちんと言ってあげたら良いと思います。
 このようにこの事件は、古代史の上でも、またジャーナリズムの上でも輝かしい事件だったのですが、意外や意外『和田家文書』の信憑性、特に「和田喜八郎氏の偽作説」に対して、完全な否定論証が成立したことを、この大阪の地で皆さんに御報告させて頂きます。

 

2 年輪年代測定法

 さて次のテーマに移らせていただきます。
 ここで最初に扱いますのは資料『埋蔵文化財ニュース』(奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター 2000. 6.30)九十九号の抜粋を見てください。
これは最近話題になった「年輪年代法の最新情報ー弥生時代〜飛鳥時代ー」です。年輪年代測定法、これはドイツなどヨーロッパで非常に発達した研究で、日本でも遅ればせながら研究し非常な成果を上げていますことはご存じだと思います。これの持っている意味は非常に大きいと私は考えています。時間の関係で結論から申し上げますと、だいたい百年ぐらい従来の考古学編年は間違っていた。百年ぐらい遡(さかのぼ)らせなければならない。
 われわれは発掘というと、現地の発掘調査員の意見を、考古学者の意見を聞くのが習わしでありましたが、その場合彼らは考古学編年によって答えていました。「弥生中期」とか「古墳初期」などです。さらに土器偏年により、さらに細かく答えていました。何年か前までは、それはあくまで相対編年であって、それを三世紀始めとか、絶対編年で示さない時期もあったのです。たとえば今から二十年前は絶対編年を答えなかったのですが、最近は割とハッキリと土器編年では「三世紀始め」とかの回答が出てきていた。さらに細かく言い出す人は今の日本の土器編年によると三年毎に形式を追って分かる。そのように言い出す人まで現れていた。いわばその土器編年の信頼が頂点に達しつつあった段階で、そのときに年輪年代測定法が出てきた。一番最初は皆さんご存じの池上曽根遺跡(大阪府和泉市弥生考古博物館)、そこから理想的な年輪年代測定法が出来る材料が出てきましたので、それによって検査すると何と百年ぐらい年代を早めなければならない。そういうことが分かってきた。十年ぐらい前、この時は研究者も一般 の人も、みんな本当かいな。よほど池上曽根遺跡の従来の土器の判定が間違っていたのではないか。?をもって聞いておった。
 ところが次々とそれを証拠立てる材料が出てきた。特に三年ぐらい前、飛鳥池(奈良県橿原市)から例の富本銭が出てきた。それが「『日本書紀』の記述と合うのだ。」ということになった。ところが奈良国立文化財研究所(奈文研)が、「合うのだ。」は良いのですが土器編年ではなかった。つまり土器編年より百年古い。年輪年代測定法によって合うのだ。それで奈文研は報告書に一節を設けて「年輪年代測定法について」と報告した。報告書にそういう方法論について、一節をもうけて詳述するということは非常にめずらしいことです。年輪年代測定法によると、『日本書紀』天武記に合う。この段階で池上曽根遺跡(大阪府和泉市弥生考古博物館)の単独ミスではない。やはり土器編年を百年遡(さかの)ぼって考えなければならない。従来の土器編年では合わない。それが客観的に奈良国立文化財研究所(奈文研)から明らかにされた。これは非常に大きな意味を持っていると考えます。その後、奈文研から上に掲げた「年輪年代法の最新情報」というものが出ました。

 それで『日本書紀』天智記の記事について述べ、これの持っている意味について端的に申し上げます。

『日本書紀』天智記(岩波、日本古典大系に準拠。)
天智三年・・・是歳、封馬・壱岐嶋・筑紫國等に、防(ぼう)と烽(ほう)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名(なづ)けて水城(みずき)と曰ふ。
天智四年・・・秋八月に、達率答[火本]春初を遣して、城を長門の國に築かしむ。達率憶禮福留・率憶四比福夫を筑紫國に遣して、大野及び椽(き)、二城を築かしむ。耽羅、遣して來朝り。

(天智三年は、白村江の戦いの翌年です。)

 この二つの記事はおかしい。私は博多で講演したときは、さかんに言ってきた。ここでも言ってきた。なぜおかしいかというと白村江で負けたわけです。唐の軍隊が乗り込んできたわけです。そういう時期に対馬や壱岐に要塞を作る。狼煙(のろし)台を作る。防(ぼう)は防人の立てこもる拠点です。烽(ほう)は狼煙(のろし)を挙げる所です。要塞は敵を相手に作るものです。その敵は誰か。百済は滅び高句麗もまもなく滅びるときに、相手は新羅や唐だけです。新羅や唐を敵対国として、対馬や壱岐に要塞を作った。そういうことになるのではないか。唐の占領軍が筑紫に来ている。こんなおかしな話はない。防(ぼう)や烽(ほう)を作って天智天皇が楽しむ。そんな楽しむために要塞は作れない。特定の敵を仮想敵国として予想してこそ要害を作る。水城(みずき)を作るというのも同じです。軍事的な目的を持っていることは明らかです。白村江で負けて仮想敵国である唐の軍隊が筑紫に乗り込んで来ている。その中で、そんな軍事的な目的で果 たして要塞を作れるでしょうか。
 これらの記事は全くおかしい。とうぜんこれらの記事は、白村江の戦いの記事より前に来る記事である。白村江の戦いを始める場合、何も準備をしないで、さあ戦争だ。要塞は負けてから作りましょう。私には、そんなことは考えられない。とうぜん白村江の戦いという大決戦の前に、烽(ほう)や防(ぼう)を作ったり水城(みずき)を作ったりして、そういう準備を盛んに行って最後に白村江の戦いに突入する。私のような人間に理解できる話は、それ以外にはない。
 六世紀の終わり五百八十九年には、倭国の御主人とあおいでいた中国南朝・陳が滅亡した。そうしたら次は倭国だとこう考えるのが当たり前だ。いやそればかりではなく、六世紀の半ばには任那(みなま)が滅亡した。ここを支配していたのは倭国だ。それならば次は倭国だと考えないほうがおかしい。あの六世紀の段階で、当然ながら、あのような要害を作ることがあって当たり前だ。それをとぼけたように唐の占領軍が筑紫に来ている六百六十五年段階になって作りはじめる。これを見ても『日本書紀』の記事は大嘘だ。神代の巻や神功皇后もあやしいが、しかし七世紀段階は『日本書紀』も信用できる。大化の改新(乙巳の変)のところはあやしくても、最後の天武・持統記の頃は信用できる。日本の学界はそう言っていた。みんなで渡れば恐くはない。これが日本の学界の通 説・定説です。しかし私はいくら言われても私の理性からはおかしい。そんなことは有り得ない。この記事は完全にウソ記事である。六世紀に近畿天皇家が作らせたのなら、それを引き下げて書く理由はない。と言うことは、やはりこの本当の記事の主語は近畿天皇家ではない。よその記事を切り取ってきて、景行紀や神功紀のように、はめ込んだ、この話は言わなくとも、何回も聞かれた論理だ。しかし従来の歴史学者やジャーナリズムの人々は、一切これに耳を貸そうとはしなかった。その耳を傾けない理由は、正面 から聞こえてこないが、間接に伝わってきた。歴史学者の見解では、古田はそんなことを言っているが、「考古学の土器編年が『日本書紀』と一致している。」、そのように聞こえていた。水城(みずき)の周りに土器が出る。また対馬の土器が出る。それらの土器編年が『日本書紀』と一致している。それは固い証拠である。古田が考古学の土器編年を信用できないと言っても駄目である。そういうことを歴史学者が陰で言っているという声が、間接に聞こえてくる。しかし直接聞こえてこないし論文も出ないから反論もできません。古田は土器のことを知らない。ですから古田なんか相手にするな。そういう声が聞こえて来た。

 ところが今回、年輪年代測定法で考古学の土器編年を百年ぐらい遡(さかのぼ)ると成ってきた。そうしますと私の方は、それはそうでしょう。それでなければ土器編年はおかしいですよ。

 それに対して六世紀半ばにしても、土器編年と年輪年代測定法は合うのだと言えば、二枚舌も良いところです。そう言わざるを得なくなって来ている。日本人は、一般 の人はおとなしいから、そんなことは学者に言わないと思う。言わないから学者は黙り込んでいる。
 光谷さん、年輪年代測定法の中心になっている方の報告によれば、今青森県から大分県まで年輪年代測定法の判定基準が完全に出来ている。奈良で行われたシンポジウムでもそう言っておられた。なぜ大分県か。福岡県がなぜないのか(笑い)。福岡県に木がないのか。杉はないのか。そんなことはない。ハッキリと言われたわけではないが、ようするに福岡県の方々はやりたくない。行うと今言った問題が出てくる。大分県なら『日本書紀』の記事はあまりない。しかし福岡県・筑紫なら『日本書紀』の記事がたくさんある。これと正面 衝突する。百も承知。やはり古田が言っていたとおりだと言わざるを得なくなる。だから年輪年代測定法を行わない。しかしこんなことは姑息(こそく)極まる。考古学の土器編年は全体のものさしですから、青森県から鹿児島県までみんな連なっている。ですから福岡県も繋(つな)がっている。
 これは私は非常に興味深い問題として、見守っている。
 もちろん、これもこまかく言うと全てが百年遡るわけではありません。七・八十年だったり、百十年だったりします。意外なことに大阪の狭山池などは逆に百五十年ばかり下に下がってしまう。そういうケースもある。ですが八割ないし九割は上がってしまう。やらないで頑張っていても、福岡県の方もいずれ百年遡(さかのぼ)る可能性が高い。そういう見方をしている。

 

3 九州王朝と東北王朝

ー「曲水の宴」が意味するものー

  この年輪年代測定法の問題は、各地方のいろいろな問題に波及します。次に申し上げたいのは、これと関連して「曲水の宴」の問題です。
 「曲水の宴」跡とおぼしきものが、四・五年前に福岡県久留米市の郊外から出ました。現在報告書(1995 筑後国府 久留米市教育委員会文化財調査報告書第一〇〇集)も出ています。この報告書を見ますと、疑いなく「曲水の宴」跡です。溝は普通 排水するために真っ直ぐに作る。ところがこの溝は曲がっていて、しかも粘土を張り付けて、この形を維持するよう塗り固めている。この溝に水を流して、お酒を入れた杯(さかずき)を流して、自分の目の前に来るまでに歌(漢詩)を作る。詠む。「曲水の宴」というのは、中国の民間で始まりまして、それが天子の遊びに昇格して、中国特に南朝で盛んに行われたことはまず疑いがない。
 ところが問題はそれはいつ頃か。久留米市の報告によると、八世紀の初頭以来である。これも細かくいうと、溝自身は下限が十一世紀、上限は不明と書いてある。ところが側の建物。建物なしに溝だけ作っても仕方がない。ところが側の建物が、八世紀から十世紀、十一世紀と作られている。ですから側の建物にいて遊びをした。そう考えますと、八世紀の初めぐらいが上限ではないか。そう考えられて報告書は作られている。ですから八世紀の国司の館で「曲水の宴」が行われたものであろう。そのような感じで書かれてある。その場合変なことがある。もし国司などが天子の遊びをした。その事自体も、これが許されるでしょうか。私の趣味だから文句言わないでください。そういうことが通 じる時代かどうか。天子の遊びとして名声を獲得しているわけですから。それを一国司が行えば、やはり不遜(ふそん)だということになりませんか。おとがめが、あるのが普通 だと思いますが。次は、それは少し保留して国司の館としますと、問題は「曲水の宴」跡が久留米にしか出てこないことです。近畿でも東海でも全国至るところに国司がいたわけですから、そこから「曲水の宴」跡が発見ということは聞いてはいない。もし国司が「曲水の宴」を行ったのなら、近畿や関東からも「曲水の宴」跡が出なければ説明が付かない。たまたま久留米の国司が「曲水の宴」が好きです。そんな説明で満足していたように見える。

 私の立場からは、年輪年代測定法以前の報告書である。年輪年代測定法の概念を入れていない従来の報告なのです。この点は非常に微妙ですが、この久留米の「曲水の宴」跡の報告書は奈良国立文化財研究所(奈文研)報告の前の年に出た報告書です。ということは、年輪年代測定法の概念を入れれば百年ぐらい従来の考古学編年を遡(さかのぼ)らせなければならない。七世紀始め頃になってくる。そうすればまさに九州王朝の天子の時代になってくる。五百八十九年中国南朝が滅亡以後、代わって天子を称したイ妥*(タイ)国が、畏れおおいから曲水の宴を行わない。そのようなことは考えられない。それに曲水の宴そのものは、中国南朝が盛んに行ったものです。太宰府にも曲水の宴の痕跡があるようです。

 その話は今まで何回も行いましたが、それとともに新しくでてきた問題があります。「多元的古代・関東」の下山昌孝さんからの御連絡でしたが、東北にも「曲水の宴」痕跡があるようです。有名な仙台の多賀城跡のようです。そういう御連絡を受けた。さっそく下山昌孝さんから古田史学の会・仙台の佐々木広堂さんに連絡されて、資料を送っていただきました。
 その資料を見てみますと、まごうことなき「曲水の宴」の跡です。山王遺跡IV ー多賀前地区考察編ー(平成八年三月 宮城県教育委員会・建設省東北地方建設局)を見れば、次々重なっていますが、それは時期を替えてつぎつぎ作られています。そして代表的には「(2)南1西2区 Eー古田氏引用記号」の部分が代表的なところです。そして報告書には、九世紀初頭頃とみられる。そう書いてあります。そして久留米の場合と同じく「曲水の宴」という言葉は使ってはいませんが、そこに京都市の文化財である『北野天神縁起絵巻』の「紅梅殿の庭園(第五〇図)」図を載せてあります。これと同じだと書いてありますから、間違いなく「曲水の宴」跡だと考えていることは明らかです。
 問題は九世紀初頭頃と見られると書いてあることであり、これも久留米と同様、国司の館であるとなっている。そうすると日本中の国司の中で、なぜか仙台と久留米の国司だけが風流人である。「曲水の宴」を行った。そういう話になる。これもおかしい。
 これも年輪年代測定法の概念を入れますと、九世紀初めが八世紀初めになる。

 そうすると、ここの場合。非常にありがたいことに、どうしても衝突せざるをえないテーマがある。ご存じの多賀城碑、『真実の東北王朝』で紹介しましたが、そこに「神亀元年・・・天平寶字六年」とあり、神亀元年(七百二十四年)から、ここに多賀城を築いた。そして天平寶字六年(七百六十二年)に、この石碑を作った。こう書いてある。
 そうすると「曲水の宴」の跡が存在するのは、九州久留米市筑後国府跡と東北宮城県仙台の多賀城跡だけです。
 ところが八世紀初めに「曲水の宴」が存在した。こうなりますと多賀城を築く前に、大和朝廷がここを支配する前に「曲水の宴」が存在した。つまり大和朝廷が軍事的支配を行う前に、軍司令官が敵の陣地に乗り込んで「曲水の宴」を行った。そういうことはありえない。そうしますと、これは何か。つまり安倍貞任・宗任という、あの東北王朝側のおこなった「曲水の宴」跡である。そういうことになる。

 これで問題になるのは、仙台に行く毎に、佐々木広堂さんが言われたのは、どうもおかしいのですよと。何がおかしいのか。六世紀や七世紀の岩手県や宮城県から出てくる遺跡に見事な城郭遺跡のようなものが出てくる。それを今まで大和朝廷の城郭遺跡だと考えていたが、六世紀や七世紀に大和朝廷が進出していたとは言えないので教育委員会が困っているようですよ。現地にも連れて行っていただいた。それが年輪年代測定法の概念を入れますと、五世紀や六世紀となりまして、いよいよ大和朝廷が進出(侵略)した後だと言えなくなる。
 それでこの問題の今回の最後に申し上げたいことは、『真実の東北王朝』で強調しましたことです。これも端的に言いますと福島県の太平洋側にたくさんの製鉄遺跡がある。宮城県よりの福島県武井(ブイ)というところにぼう大な製鉄遺構がたくさん出てきた。しかも最初の段階は、竪型炉の遺構である。それが後の段階では横型炉の遺構に代わっている。福島でおこなわれたこの製鉄遺構の報告会や、「たたら」研究会でも、従来は大和朝廷の製鉄遺跡として報告書は処理されている。変なのはこの二つはスタイルはぜんぜん違っている。しかし違っているのは何かの理由で替えたのだろう。そういう説明になっている。しかし私はこの時、同じかもしれないが違うかもしれない。竪型炉の遺構は東北王朝側の製鉄遺跡、横型炉の遺構は大和朝廷側の製鉄遺跡である。その可能性もやはり保留すべきである。今から見ればそう遠慮がちに、強調して言った。
 しかも、これに関連して重要な問題は多賀城近くに柏木遺跡というものがあります。この遺跡から竪型炉の遺構が見つかった。しかも八世紀始めです。それが大和朝廷の多賀城に記載された七百二十四年よりも前になる。そうすると今までの考えでは都合が悪い。今までは蝦夷など野蛮人に近い者に製鉄などが出来るはずがないのだ。製鉄を始めたのは大和朝廷、そういう大前提で考えている。ところが従来の考古学編年でも、柏木遺跡は八世紀始めなのである。ところがこれをどんな論理を使って説明しているか。おそらくこれは何かの間違いだろう。二十何年後にずらして考えよう。やはり多賀城を建てるときの製鉄遺跡と見るべきだ。その多賀城を建てるときに、釘などが必要だから製鉄遺跡を作ったと考えるべきであろう。そのように報告書に学問的報告書と云うべきものに、そのように書かれてある。
 私はそれはおかしいのではないか。こう無理して考えるよりも、蝦夷国に製鉄能力があったと見る考え方が、学問としての見方ではないか。そういう考え方を可能性として学問として考えるのが、一つの筋ではなかろうか。今から見ると遠慮して、そういう形で論じている。ところがこの柏木遺跡の製鉄遺跡は従来の考古学編年で八世紀始めだった。ところが年輪年代測定法を入れると七世紀始めとなる。そうすると百二十四年後に持ってきて、釘を作らなければならない。いよいよもって無茶苦茶となる。

 もうこれ以上は、お話せずとも分かると思いますが、これは従来はイデオロギーが先に立っている。発達した能力を持っているのは大和朝廷だけだ。東北の人間なんて野獣の如き人間である。『日本書紀』にあるように、変な木に登って、穴に潜っての記事がある。そういうイメージを作っておいて、そういう野蛮な連中に、製鉄などは出来るはずはない。学問的な見方に基づたものではなく、そういうイデオロギーに基づいた理屈付けをしていた。ところが年輪年代測定法を入れると、完全にそれが出来なくなる。やはり東北王朝という存在を認めなければならない。そういう時が実は来ている。年輪年代測定法は、実はそういう発展性を持っている。

 おもしろい考えを披露しますと、良くご存じの前九年の役です。八幡太郎義家が「衣のタテはほころびけり」と言うと、安倍貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と返答したという有名な話があります。あの話も考えてみたらおかしい。なぜかというと、下の句を八幡太郎義家が言うと、相手が上の句を告げる。あれは普通 では出来ない。歌を詠んだ経験があります。これぐらいの経験では出来ない。しかもあれは馬に乗っているから、スピードが要求される。馬に乗ってのんびりと一晩考えましょう。そういうわけにはいかない。アッという間に答えなければならない。あの能力は何か。私は実はあれは曲水の宴の能力ではないか。曲水の宴という言葉そのものは雅やかですが、内容はスピード競技です。つまり上から杯(さかずき)が流れてくる。ゆっくり曲がっているといっても、ある程度のスピードがある。杯が目の前にくる前に、前の人に調和する歌を詠まなければならない。ですから歌の善し悪し以上にスピードとタイミングの競技なのである。カルタ取りも同じように、スピードとタイミングの勝負である。ですから、もちろん義家は近畿でも武将でも、大宮人のはしくれです。ところが、ところが相手もさるもの、ちゃんと瞬間に上の句を返した。そういう話です。つまり相手も曲水の宴というスピード競技の能力を訓練されて持っていた相手である。そういう相手であると義家は知っていたから、下の句を投げかけた。今まで何回か扱ったことがあるが、「曲水の宴」のことは考えたことはなかった。しかし「曲水の宴」跡という東北王朝の都が発掘されたことにより、初めてあの歌の持っている意味がようやく分かってきた。
 さらに私にとって重大なことは、なぜ多賀城碑があそこに作られたか。多賀城碑の意味が分かってきた。何とかの碑ならいたる所にたくさん作っている。しかし石碑で作っているのは多賀城だけです。なぜあそこにだけ石碑を作ったのか。そういう問題が残っていた。もし『真実の東北王朝』を私が発刊したときに、討論が歴史学者や考古学者とおこなわれていたら、とうぜんその問題に行き着かざるを得なかった。ところが、誰もみんな知らない振りをして、賛成も反対もしないものだから、私も今まで考えずにいた。ところが良く考えてみると、一番のキーポイントはその問題である。これで問題がはっきりした。「曲水の宴」が行われていたということは東北王朝側の都、中心地だった。東北王朝でも、至るところで「曲水の宴」を行っていたわけではない。するとその中心地である多賀城を占領して、その記念に碑を建てた。そのように話が、パッと結びつく。
 将来語るべきであるという問題で言えば、宮城(県)という地名は何だ。大和朝廷が「宮城(みやぎ)」という地名を付けたのか。この地名は百も承知の地名である。しかしこの地名の持つ恐るべき意義について皆さん考えたことがありますか。大和朝廷でなければ、誰が付けたのか。そういう、つぎつぎ新しい問題に発展する。それを議論・論争していれば次々発展してきたと思う。
年輪年代測定法という新しいテクノロジィにより、新しいこのような議論を提起することができました。

 

4 続・天皇陵の軍事的基礎について

  本日の主題というべき提起は「天皇陵の軍事的基礎について」は会報で述べさせていただきましたので、その続編について申し上げたいと思います。
 ようするに箸墓のようなでかい古墳が急にどうして作られたのか。今度は又朝鮮半島で高句麗・新羅と激突しているときに、あのようなでかい古墳を作る余力があったのか。それに取り組んだ。
 なおかつ天皇家の本来が、あの熊野を通って侵入した神武たち。彼らは軍事集団であった。それを天皇家の淵源(えんげん)とした場合、問題が解けてくる。
今回問題にすることは言ってみれば簡単である。この前述べたことは、死者を祭るという平和的な目的、それと要塞という軍事的な祭り。この二つは楯の表と裏と同じように対応している。今日は逆というか、言葉の上だけで逆なのですが、死者を祭るという祭祀目的をA、軍事的な目的をBとしまして、この二つはずれている。必ずしも重なっていない。これを第二原理として提起したい。

『古事記』
孝霊天皇
大倭根子日子賦斗迩の命、黒田の廬戸宮に坐しまして、天の下治らしめきき。この天皇、十市縣主の祖、大目の女、名は細比賣命を娶して、生みませる御子・・・また富夜麻登玖迩阿禮比賣(おほやまとくにあれひめ)命を娶して、生みませる御子、夜麻登登母母曾毘賣(やまとももそひめ)命。・・・
・・・

 記述は『古事記』ですが、箸墓は『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫命、この倭は「やまと」でなく「ちくし」と詠むべきだと私は思いますが。呼び名の問題は今回は省略しまして、一般 には倭迹百襲(やまとももそ)姫。
  その姫は、孝元と兄弟ですが、あの墓を作ったのはおそらく崇神。あるいは垂仁。代表的には崇神ですが。しかし倭迹百襲姫に比べて、孝元・孝霊の墓は大きくない。
  孝霊の墓はこの間、見に行きましたが、明治の時あのあたりの墓を二・三囲って作ってある。箸墓には及びもつかない。十代開化になると前方後円墳、私の言う方円墳。前方後円墳と言っていますが、前に立つとお分かりのように、「これが前方後円墳かしら?。」と疑うような方円墳。もちろん箸墓には及びもつかない。では倭迹百襲(やまとももそ)姫命は孝元や開化より、うんと偉かったのか。うんと徳が高かったのか。うんと実力があったから、あのようなでかい墓が作られたのか。答をすぐ言わせてもらうと、私はそうではないと思う。それでは、なぜあのような大きい墓が作られたのか。それは軍事目的。先に述べましたように。三方に人を派遣して倒した。しかしまだ、敵は茨木市東奈良遺跡に猛烈な軍事勢力を持って襲いかかろうとしている。そのような軍事的緊張の中で、敵からの一番の軍事的ルートは木津川です。その進行最終地点は大和の都のあるところです。その目の前に巨大な軍事的要塞を築く必要がある。地元の三輪山信仰それも関連あるかも知れませんが、その名目を倭百襲姫命のお墓ですとして、その名目を付けて作った。死者を祭るという祭祀目的A、軍事的な目的Bが対応しているという大前提をおいて、より細かく考えると、AとBは必ずしもきちんと対応していない。AとBのズレの問題。そう考えますと、問題はよけいに良く分かる。たとえば箸墓(桜井市北)の南、対極にある桜井市南のメスリ山古墳。耳成山がそびえ、畝傍山が良く分かる。メスリ山古墳はかなり大きな古墳ですが、全体が丘陵にありますから、かなり高い位 置にある。今の二つの山と高さは拮抗している。まさに耳成山・畝傍山とメスリ山古墳、さらに箸墓とで飛鳥を護っている。上がってみて初めて分かりました。さらに吉野への道があります。天皇家にとっては、熊野はふさがれた道ではなかった。神武達が通 った道だ。さらに別の勢力が熊野・吉野を通って襲いかかってきても全く不思議ではない。この場合神武達のようなゲリラではなくて、堂々と紀ノ川・吉野川を上がればよい。飛鳥をメスリ山によって吉野川から護っている。そういうことを初めて知った。メスリ山古墳から何百人分のおびただしい武具が出たことでは有名です。武具が出たことで軍事目的であることは明らかです。それにそうでしょう。古墳に葬られた人物はだいたい剣を持っている。あの剣は何の目的で持っているのか。亡くなって邪気を払うためとか聞いて、我々はなんとなく納得しているが、そのような古代人はいないのではないか。それは何か。死んでも武装した姿を失わない。この土地を敵から護る。そういう意志を込めて葬ったのではないか。ですから古墳を武装した砦として使わない方がおかしい。いままでさんざん剣を持った死者を見ながらそう考えない方がおかしい。しかし今までそのようなことを聞いたことがなかった。
 もう一つの問題は円筒埴輪の問題です。この円筒埴輪、特殊器台と呼ばれるものが箸墓から出まして面 白い現象が見られます。
 もともと吉備には特殊器台というものがありまして、その中できらびやかなものを円筒型埴輪と呼びます。岡山県の近藤義郎さんを中心にして発掘・研究が進んでおりまして、楯築(たてつき)の弥生墳丘墓、それいらい特殊器台が次々発展し、展開している筋道が明らかにされております。ところが岡山では弥生の中期から古墳時代始めにかけて連続して発展している吉備の特殊器台は、箸墓ほど大きくはない。そのような円筒埴輪(吉備型特殊器台)と同じものが、ある時とつぜん箸墓に出てくる。これがなぜ分かるかと言いますと、箸墓は陵墓で宮内庁の管理下で入れませんが、その下の濠(ほり)。大池と言いますが、これは宮内庁の管理下ではない。つまらん話ですが、幸いにも円筒埴輪がその大池に落ち込んでいた。この落ち込んでいた周辺の円筒埴輪を調べると特殊器台であることが分かっている。それは初めから池に落ち込んでいたのではなくて、箸墓の上に並べてあったものが落ちこんだものだ。そのようなあり方をしていますので、箸墓の上にあったことは分かっている。箸墓そのものは調査も何もしていませんし、囲いの内側に考古学者を入れさせてはくれませんから。このような話を外国の学者に聞かせたら、笑われそうですが。とにかくそういう形で、岡山と大和の同じ時期に同じものが円筒埴輪として、一致して出ている。そういうことは分かっている。これの持つ意味を、考古学者が言わなかったことを私は言いたいと思います。
 この箸墓が出来たのは、今言ったように崇神のころに出来ている。今の大阪府茨木市東奈良遺跡を中心に、広く大きくて強大な銅鐸圏。それが敵対勢力として存在していた。その時期に垂仁天皇の三道将軍の記事がある。『日本書紀』には四道将軍とあるけれども、『古事記』の三道将軍が本来である。『日本書紀』は『古事記』の三道将軍を手直しして、一道である西の吉備を付け加えて、格好良く四道将軍に手直ししたものに過ぎない。そのように考えている。ですから歴史事実としては「三道」である。ということは西の東奈良遺跡から吉備のほうは、崇神の支配下に入ってはいない。ところが、その時に吉備とそして箸墓に、同じものが登場する。

『古事記』
崇神天皇
御眞木入日子印惠の命、師木の水垣宮に坐しまして天の下治らしめしき。
・・・
又この御世に、、大毘古の命をば高志道に遣はし、その子建沼河別命をば、東方
十二道に遣はして、麻都漏波奴【自麻下五字以音】人等を和平さしめたまひき。又日子坐の王を旦波國に遣はして、玖賀耳之御笠【此人名也。玖賀二字以音】を殺さしめたまひき。

  背景はやはり「神武東侵」。「東行」でも良いが、やはり侵略の「侵」。本来の出発地は筑紫の日向(ひなた)。博多湾岸・福岡県吉武高木遺跡がある日向(ひなた)ですが、そこを出発して途中の吉備にきた。吉備で最終の戦闘態勢を整えて、大阪湾に侵入し、後負けて熊野迂回をして大和へ侵略した。ですから実質的な軍事的な支援を行ったのは吉備軍である。ですから大和へ侵入した神武集団は、初めから吉備のバックアップを受けていた勢力である。このような事実が背景にあると思う。
 それと同時にここから先は想像しますと、箸墓が出来る。そうすると落成式のお祭り(祭祀)が行なわれます。そうするとそのお祭りの時に、今の銅鐸圏の人も呼んだと思います。敵対勢力であると言ったが、それは大まかに言って敵対していますが、いつも戦闘していたわけではない。和睦と敵対をたえず繰り返していたと思う。その証拠に、垂仁天皇の時に沙穂姫という相手の中心権力者の妹を奥さんにもらっている。あれは完全な政略結婚である。そのような軍事的対立があったから結婚した。同じように考えますと、この箸墓の落成式の儀式には、銅鐸圏の人も呼ばれてきたと思います。呼ばれて来たら特殊器台がそびえている。あれ! あれ! 彼らは岡山の特殊器台のことは良く知ってる。弥生中期から連続して吉備の特徴を備えている特殊器台について、東奈良の人々が知らないはずがない。その自分たちの良く知った岡山勢力のシンボル物が目の前にそびえている。何を意味するか。つまりお前たちは、今こうやって儀式に来ているが、攻めようと思うならば、後ろに吉備軍が控えていることを忘れるな。そういう警告です。このように友好的な招待は、同時に軍事的な恫喝を含んでいたのではないか。そのように考える。今まで、このような解説を聞いたことはないと思う。軍事的な意味と言いますと、この問題は避けて通 れないと考えます。近藤さんにもぜひ報告したい。そのようなことを申したかった訳で御座います。

  もう一つ大事な問題があります。一言で言うと「逃げざる陵墓」という問題を提起します。
お墓というものは亡くなった本人を祭るということが一番表向きの理由ですが、巨大古墳になると軍事的な意味が大きな比重を占めます。小さな円墳では、そんな意味は余りないが。
 ところが忘れてはならない問題は、特に巨大古墳でない初期の古墳である綏靖・安寧・懿徳陵などをふくむ問題です。
つまり神武・綏靖・安寧・懿徳・・・といったお墓が次々作られています。私はそういう人々は実在だと考えています。このささやかな外部からの侵略者が、次々と大和盆地で勢力を拡大していく。特に一番拡大したのは九代目の開化になってですが、ようやく奈良盆地の北の端まできた。それまでは大和盆地の中・南部に、お墓が作られています。
 その墓の持つ意味は、ようするに敵と戦う。この場合、最初は銅鐸圏。初めは周りは全部敵である。そして七・八代までは奈良市内も銅鐸圏である。その敵と戦う。この戦う場合、将軍・リーダーはとうぜん九州から来た連中です。しかし九州から来た人々は一握りです。いつまでもこの連中だけで戦うわけにはいかないから、とうぜん兵士が要る。その兵士は、かっての銅鐸圏の人々です。簡単に言えば、唐子・鍵遺跡の人々です。彼らを自分たちの支配下において兵士にして戦います。そこで実際にその戦う兵士の心理を考えてみます。私は兵士になったことはないが、勝手に兵士になったつもりで考えてみます。戦うのは命がけですよ。兵士は命がけで戦っても、大将は形勢不利となれば、負ければ九州へ逃げ帰るのではないか。彼らは本来大和の人間でない。余所者(よそもの)です。形勢不利と見れば、吉野・熊野か紀ノ川からか知らないけれど、逃げ出してしまうのではないか。そうすれば死んだだけ損をする。そういう不安を持っていれば戦いにならない。その時神武の墓が作られます。どうせ神武の墓は実際は多分この部屋ぐらいの小さな弥生墳丘暮だと思いますが。それは墓を作ったということは、「我々はここに墓を作った。墓をおいて逃げることはない。」そういうコマーシャル。とうぜん儀式は行う。続いて綏靖・安寧・・・とおそらく小さな墓を作っていったと考える。こんな小さな墓では、どうせ軍事的な役には立ちません。しかし明日香近辺に墓を次々と作っていくということは、我々は再びここから逃げることはしないのだ。そういうコマーシャル。そういうピーアールに役立つのが、墓である。そういう墓の性格を私は強調している。それが原点になっていると私は強調している。
 そこから壮大な考えに飛翔した。
 そこから先は空想というか作業仮説と言っても良いものです。たとえばイスラエル人にとってのイスラエルの土地も同じではないか。彼らはイスラエルの余所(よそ)者です。これはバイブルを見ればすぐ分かる。『出エジプト記』から始まっている。エジプトを出た。そこから物語は始まっている。彼らはエジプトで何代も奴隷労働をさせられていた。何代もエジプトのピラミッドを作らされた。その中でおそらくエジプトの権力内部の分裂や亀裂が生じ、それに契機にモーゼが引き連れて、イスラエル人がエジプトを脱出した。

  この話をすると、どうしても話をしたいことがある。私がエジプトに行ったとき、日本人の旅行グループの一員として行ったのですが、高いエジプト・カイロの町を見下ろせる城郭でしょうが、そこへ連れて行かれた。
そこで同乗した人が、
「モーゼもここに居ったのですか。」という話をされました。
「そうでしょう。この辺に居たと思いますよ。」
その時に、うっかり手で町を指さした。私はモーゼを実在と考えていますから。
そうすると女性でカイロ大学を出た優秀な通訳の方が、
「いや違いますよ。こちらですよ。」と方角を指示しました。
 私は驚きました。別に特定の方向を指で指し示したわけではない。モーゼたちがカイロの町に居たという意味で、町のどこかを指さしただけです。
 私はギョッとしました。そういう伝承が伝わっている。もちろんモーゼひとりが居たという意味ではなくて、奴隷労働をさせられていたユダヤ人たちの居住区がそこである。そのような伝承が伝わっていた。それだけエジプト人にとってはリアルな話である。

  この話はそれだけご紹介して元に戻りますが。とにかくユダヤ人はエジプトを脱出して、東に向かった。そのユダヤ人が、エジプトに連れて来られる前は、元はシナイ半島のシナイ山の近くに居たらしい。それでシナイ山の神のお告げがある。だからイスラエルの地に行った。どこの山でもお告げがあっても良さそうなものだが、シナイ山でなくてはいけない。シナイ山の神様が、彼らの神様である。そのシナイ山に特別 の意味があることをエジプトへ行って知りました。ピラミッドの石がありますが、煉瓦のように長方形に切ってあります。その石を金属器のない時代、何で切ったか。それはシナイ山の石で切った。シナイ山の岩は硬い。その岩でないとピラミッドの石を切れない。我々から見ると、シナイ山の岩は地殻変動で硬い岩になった堅さの違いにすぎませんが、古代人から見るとそうではなくてシナイ山の岩は、シナイ山の神様から授(さず)かった特殊な岩である。その岩を使って、石を切りピラミッドを作ることが出来る。
 そのシナイ山のほとりに、彼らは元住んでいた。そこに住んでいたなら、そこに帰ればよい。しかしそうはいかなくて、有用で神聖な場所ですから他の民族が占拠していた。それで彼らはシナイ山に入ることが出来なくて、紅海を決断して渡った。途中海が割れて、潮が引いたという作り話が入っていますが。
 それでイスラエルに行った。そこに先住民が居たことははっきり書いてあります。その先住民を追い払って、彼らの祭壇を壊した。残った先住民には、もしイスラエルに留まりたいのなら、自分たちの神の祭壇をこわしてエホバの神を祭れ。それをしない人間は追い出すか、居り続ければ殺す。それは我々の神エホバの意志である。実に手前勝手な理屈ですが、そのように『聖書』に書かれている。
 これがウソでない証拠に、モーゼをBC三〇〇〇年と一応時間帯を設定しますと、それ以前の一万年前、五千年前の土器が出てくる。ですから先住民が居たことは間違いがない。それはイスラエル人ではない。ですから当然のことながら、ユダヤ人は今イスラエル人と言っていますが、イスラエル人は余所者(よそもの)です。
 そこから先は私の考えです。推定ですが、イスラエル人は余所者(よそもの)ですから、そこに墓を作って神聖な場所と称したのではないか。「神聖な墓があるから、この土地は譲れない。」と、そのように『聖書』に書いて唱えたのではないか。それで『聖書』にこう書いてあるから譲れないと言った。逆に言うと彼らが、イスラエルの土地を神聖な場所だ。イスラエルの土地は、自分たちの土地だ。そのように主張したのは、イスラエルの土地は自分たちの土地ではなく、イスラエル人は余所者(よそもの)であるという証拠である。
 このイスラエルの場合も、私が頭の中で考えた作業仮説ですが、「逃げざる墳墓」という問題が提起される。
 この場合も、イスラエル人は余所者(よそもの)だから、形勢が不利になったら、又どこかに逃げていくかも知れないと思ったら、馬鹿らしくて戦えない。しかし我々は既にここに墳墓を作ったのだから、聖地にしたのだから、もう我々はここを去ることは出来ない。逃げることは出来ない。こういう主張を語るに至ったのではないかと考えている。これはまだ仮説の段階ですから、これから『聖書』を読みなおしてみる。原文で読んで確認してみる。そのような作業をやり直したいと考えている。

 これから先の提起は、いよいよもって単なるアイディアです。回教徒も基本的に、これと同じことではなかろうか。マホメットが、初めからイスラエルで生まれたとは聞いたことがない。どうせイスラエルの余所者(よそもの)であろう。メッカやメジナならともかく。イスラエルが回教の本来の出発地であると聞いたことがない。
 回教徒もイスラエルが出発地でないからこそ、彼らはイスラエルに墳墓を作ったり聖地に仕立てた。そして『コーラン』のアラーの神のお告げによる。そう主張したのかも知れない。私は『コーラン』は『バイブル』以上に詳しくはないから、今のところ単なる作業仮説です。私のイメージでは、そのように考える。
 つまり彼らが譲らず、そこは自分の聖地だといっているのは、彼らはいずれも余所者(よそもの)である証拠である。本来イスラエルの土地は、イスラエル人のものでもなく、キリスト教徒のものでもなく、ましてや回教徒のものでもない。そういう問題が出てくると密かに考えている。
もし調べてみて、本来そうではなかった。イスラエルは何代に渡って回教徒が住んでいました。マホメットの出発地はイスラエルでした。とうぜんですが楔形文字の時代から、回教徒はイスラエルに住んでいました。そうなっても私はぜんぜんかまわない。私の作業仮説が間違っていた。それだけの話です。ユダヤ人にとっても同じです。ユダヤ人が何万年前に住んでいたのを証明できればそれでよい。私の作業仮説が間違っていた。それだけの話です。
 今言ったこのような話は、おそらく回教徒の間では、言えない話である。またユダヤ教徒の間でもあまり言えない話である。キリスト教世界でもあまり言いたくない話ではないか。そういうことは思ってはいても、書いたり喋ったりしたら危ない話だ。今日の夜道は危なくて一人で歩けない。そういう話であるかも知れない。
 ちょうど戦争(第二次世界大戦前)中の日本が、天皇家の「天孫降臨」がウソだ。インチキだ。そう言えば大変だったと同じように。それと同じように現在でも・・・。
 その点、我々は幸いにもそうではない。『日本書紀』、『万葉集』についても、自由に批判しうる立場にある。同じように『聖書』、『コーラン』などを非常に尊敬しながら、この尊敬するという立場が非常に大事ですが、これらを史料として冷静に自由に扱いうる時間帯と場所に現在いる。これは素晴らしいことです。そのような立場は、いつも地球上に存在したことがないし、現在でも地球上のどこでも出来る話ではない。我々には、いま出来る。

 ここから先は、すこし大風呂敷を広げてみますと、もし私が回教の神学者やユダヤ教の神学者やまたキリスト教の神学者と論戦を行ったとします。そうすれば間違いなく私が勝つ。これは勝ち負けの問題ではないですが、間違いなく私が勝つ。それは私には護るべきものがない。だから先入観がない。調べてみて間違っていれば、その瞬間に間違ったと言えばよい。あれは間違っていたと撤回する他はない。しかし向こうの人はそれぞれ護るべきものがある。回教徒やユダヤ教徒やキリスト教徒は、それぞれその護るべきもののために理屈を付けているだけである。これは戦争中(第二次世界大戦前中)、我々の先輩が行ったことです。これでは勝負にならない。論争を行わないうちから、オオボラを吹いているようですが。
 今の問題でも、私たちは彼らを越えることができる。また私たちは全回教徒や全ユダヤ教徒や全キリスト教徒を、彼らを人類のために越えなければならない。そういう位 置にいる。これを一つのサンプルとして申し上げたわけで、ございます。


 これは講演の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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