日本のはじまり   古田史学の会・北海道ニュース第五号    1996年 7月
和田家文書文書関係は闘論コーナー

日本のはじまり

『東日流外三郡誌』抜きに
日本国の歴史を知ることはできない

古田武彦

  はじめに

 わたしが日本の歴史を学びはじめてから、もう五十年以上、たちました。ですが、まさかこのようなことを書く日が来ようとは、夢にも思ったことがありませんでした。
 だって、わたしの小学校・中学校時代、こんな本の名前など、口にしたこともなかったのです。いっさい知りませんでした。
 ですから、この本が日本の歴史を知るためには、なくてはならない本だなどとは夢にも思わなかった。それも、当然なのです。
 その本の名は「つがる・そと・さんぐんし」と言います。この本についてのお話です。



  一

 この本は今から約二百年前、東北の生んだ三人のひとたちによって書かれました。その名は秋田孝季(あきたたかすえ)、りく、和田長三郎吉次(わだちょうざぶろうよしつぐ)と言います。孝季は三春藩(みはるはん)に属し、りくはその妹です。今も、福島県に三春という町がありますが、そこです。吉次は津軽藩の中にいました。村のまとめ役です。今の青森県の五所川原市の飯詰(いいずめ)で庄屋だったといいます。青年の頃、孝季に会い、その学問と人柄に引かれ、生涯孝季を助けることとなりました。彼の妹、りくと結婚し、二人で孝季の仕事に協力したのです。
 孝季の仕事とは、当時三春藩の藩主だった秋田家の歴史を明らかにすることでした。その秋田家は、もとは、安倍(あべ)氏、あるいは安藤(あんどう)、または安東(あんどう)氏と言い、東北地方で大きな勢力をもっていた一族でした。
 その一族の祖先は、安日彦(あぴひこ)、長髄彦(ながすねひこ)*1)の兄弟だったと伝承されてきました筑紫(ちくし<現地>。或いはつくし<一般>)の日向(ひなた)の賊に追われて、この津軽の地へやってきた。そうかかれています。津軽とは今の青森県です。

  二

 この本を読むと、いくつかの謎につきあたります。たとえば、

 第一、なぜ「つがる」という地名に「東日流」という、変な三文字を当てているのか。音(おん)が当っているのは、最後の「流」という字だけです。「流罪」と書いて「るざい」と読みます。この[る」です。しかし、上の二字は、全く音が違います。

 第二、この本では、安日彦・長髄彦以来の国を「日下(ひのもと)」或いは「日本(ひのもと)」と言い、「日下将軍」などと、呼ばれていたことがくりかえし出てきます。「日下」は「くさか」とも読む字ですが、ここではそうではありません。「ひのもと」です。
 文字は、「日下」と書いても「日本」と書いていても、発音は同じ。

「わたしたちの国は、『ひのもと』という名前である。」

この一点がくりかえし主張ざれているのです。これは、なぜでしょう。

 第三、安日彦・長髄彦兄弟が、そこから来た、という「祖国筑紫の日向」とは、どこでしよか。
 孝李はこれを“九州の日向(ひゅうが)の国”つまり、今の宮崎県だと考えたようですが、果してそれでいいのでしょうか。わたしには疑問でした。この点から、もう一回考え直してみましょう。


  三

 筑紫というのは今の福岡県のことです。それは、薩摩といえば、鹿児島県、日向といえば、宮崎県であるように、よく知られたことです。
 ですから「筑紫の日向」というのは、“福岡県の中の日向という土地”を指します。事実、福岡県の中の福岡市の西寄りに高祖山(たかすやま)という連峰があり、その山々の中に「日向(ひなた)山・日向(ひなた)峠」があり、日向峠は、今はバス道の停留場となっています。
 またこの山々から日向(ひなた)川が流れ出し、博多湾岸にそそぐ室見(むろみ)川へと合流しています。その合流点には、吉武(よしたけ)高木という、わが国、最古の「三種の神器」(鏡と剣と勾玉)をもつ、弥生の墓があるので有名です。福岡市の西区です。
 以上、この地帯に「日向山・日向峠・日向川」という名前が密集していますから、ここが「日向(ひなた)」と呼ばれる地帯であったことは、疑うことができません。
 そしてここは、まさに筑紫国のの中に当っていますから、文字通り、「筑紫の日向」*2)なのです。
 安日彦・長髄彦の祖国、それはここ、博多湾岸だったのです。


  四

 もう数年以上、前のことになりますが、博多の方から興味深いお知らせをいただきました。*3)「博多には『ヒノモト』という字(あざ)地名が多い。」というのです。
 室見川の中流、やや河口寄りに日本(ひのもと)橋があり、その東には日本(ひのもと)団地があります。これがヒントになって調べてみると、博多湾岸に三カ所「ヒノモト」という字地名があることが分りました。福岡県で五カ所見つかりました。

  1 筑前国・那珂郡  屋形原村・日本(ヒノモト)
  2 筑前国・那珂郡  板付村・日ノ本(ヒノモト)
  3 筑前国・早良郡  石丸村・日ノ本(ヒノモト)
  4 筑後国・生葉郡  干潟村・日本(ヒノモト)
  5 筑後国・竹野郡  殖木村・日本(ヒノモト)*4)

 他にも、長崎県(壱妓)、山口県、奈良県などにも各一、二カ所、「ヒノモト」という字地名が見出されたようですが、博多湾岸が「ヒノモト」の最密集地帯であることは疑えません。
 ことに、日本列島で最大の弥生前期の水田地帯板付(いたつけ)の真ん中が「ヒノモト」である点、注目されます。その上、なぜか、この地帯では、弥生中期以降、プッツリと、水田が「消滅」しているのです。何が起ったのでしょう。
 ここにはたくさんの「縄文人の足跡」が水田の上に残されていたので有名ですが、その足跡の主(ぬし)たち、その子孫の人々はどこへ行ったのでしょう。一体彼等はどこへ消えたのでしょう。


  五

 東京駅を出発して、新幹線で西へ向います。その終点は博多駅。福岡市です。福岡県や福岡市、この「福岡」という地名の由来を知っていますか。
 江戸持代「黒田家は、吉備の国、今の岡山県の岡山市を拠点としていました。その屋敷町のある所の地名を「福岡」と言いました。その黒田家が「国がえ」となり、領地を筑紫今の博多近辺に移すこととなったのです。もちろん、江戸幕府の命令です。
 そして新たに、博多に中心拠点をおくこととなり、その新屋敷町を、再ぴ「福岡」と名づけました。これが、福岡市、やがて福岡県という地名の起りとなったのです。つまり、岡山から博多へ「福岡」という中心拠点の「地名をもって」移動したのです。
 このような例は、イギリスやフランスなどのヨーロッパからの移民が、新天地のアメリカへ、故国の「地名をもって」移動した、有名な一群の実例と同じ、「人情のしからしむるところ」東も西も、白人も日本人も、その人情にちがいはありません。
 さて、以上のような例をふりかえってみると、安日彦・長髄彦たちも、「ヒノモト」という「地名をもって」西から東へ、つまり筑紫から津軽へ、移動したのではないだろうか、ーーーこれが、今年になって、私がようやく気づいたところ、新発見だったのです。


  六

 上の新発見を裏付けるキイ(鍵)、その第一は、先に上げた「東日流」と書いて「つがる」と読む、あの不思議な文字です。「つがる」というのは、もちろん本来の地名です。おそらくは、アイヌ語さらには大陸の粛真(しゅくしん)や靺鞨(まっかつ)といった一大部族の言語とも関係があるかも知れません。ともかく、青森県の古代からの現地語だったのです。
 その「つがる」という地名に対して、なぜ「東日流」という三字を“当てた”のか。これが一番大切なところです。それは

「「ヒノモト」とい地名をもって、西(筑紫)から、この東(津軽)へ流れてきた。」

 その史実、その史実の核心を指しているのではないでしょうか。そう理解すると、最初は何とも“奇妙奇てれつ”に見えた、この三字がピタリと収まります、理解できるのです。
 先にものべましたように、この三字は、決して「つがる」という「音(おん)」を現わしたものではありません。表意つまり“意味を現した”ものです。その意味とは、彼等の辿ってきた歴史のすじ道、その史実を現わすための、意味深い文字使いだったのです。
 この基本の事実に、わたしは今やっと目覚めることができたのです。大きな収穫でした。


  七

 今回の発見の裏付け、その第二は、水田です。青森県の砂沢・垂柳(たれやなぎ)*5)などに、弥生時代の水田のあとが見出だされ、大きな話題となりました。
 その稲の水田の作り方も、福岡県の板付などと類似点の少なくないことが指摘されました。(他には、他には菜畑・唐古も)
 もちろん、板付(筑紫)青森県という気候の寒い地帯に適した工夫は色々と行われたようですが、基本は板付(筑紫)と砂沢・垂柳(津軽)と両者共通しているのです。時期的には枚付の方が古く、砂沢・垂柳の方が新しい。ですから、「伝播(でんば)」という矢印、その矢印の方向は、いうまでもなく、「筑紫から津軽」です。

 もう一つ、見のがせぬ、重大なことがあります、最初砂沢・垂柳などの「弥生水田」が見出されたとき、学者はもちろん、一般の古代史好きの人々も、みな、次のように考えました。

「九州から近畿、東海(又は北陸)、さらに関東地方や東北地方南半部へと伝播し、その最後に、ここ砂沢・垂柳というような、東北地方の北端部まで、稲作りの技術が至ったのだろう。」

と。つまり、「発見の順序」こそ東北地方の北端部の青森県の方が早かったけれど、やがて“(砂沢・垂柳より)もっと古い”水田が、東北地方の南半部、福島県や山形県や宮城県などから、きっと次々と見つかるだろう。そう考えたのです。

「弥生文化は、西から東へ」

という、大勢から見れば、一応もっともな考え方です。誰でも、そう考えたくなるでしょう。
 ですが、その後の経過、発掘状況を見ると、右のような「予想」は、決して予想通りにはいきませんでした。、事実とはくいちがっていたのです。
発掘の示した事実は、以外にも次のようでした。

「東北地方で、一番早く、稲作の水田が誕生し、発達したのは、北端部の津軽だった。」

 これが、率直な事実、発掘そのもののしめす、厳粛な事実だったのです。 そしてこの本『東日流外三郡誌』のしめすところも、安日彦・長髄彦は「稲」をたずさえて「筑紫の日向」をはなれ、ここ津軽で稲作の方法を教えた、と言っているのです。そう、彼等の道は対馬海流の流れゆくところ、海上の道だったのです。
 その長髄彦は、この本では何と、稲をもった姿でたぴたぴ描かれているのです。*6)さらに、中国渡来の集団(晋の君公子の一族)の渡来という事件も、安日彦・長髄彦と共に強調されています。


  八

 今回の発見の裏付け、その第三は、中国の歴史の本です。
 唐(六一八〜九○七)は、中国を代表する王朝の一つで、日本との国交も大変深く、長かった国です。
 この国について書かれた歴史の本が二つあります、一方を旧唐書(くとうじょ)、他方を新唐書(しんとうじょ)*7)と言います。その新唐書の中に、次のような不思議な文章があります。

「日本は、もと小国だったが、倭国(わこく)に、とって代わられた。」

というのです。

 この倭国という国名は、有名な志賀の島の金印の一世紀(AD五七)から、白村江(韓国)で唐と戦った七世紀(AD六六二)まで、この名前でした。それが八世紀はじめから「日本国」という国名で、東アジア世界に知られ、それが現在に至っています。わたしたちの現在の国の名前が、この日本です。
 ところが、その志賀の島金印以前、倭国より前に、すでに「日本」という国があった、というのです。その「日本」を倭国が併合(へいごう)した。つまり、とって代わったのだ、というのです。
 一世紀より前博多湾岸に、「日本」という国があった。八世紀以後採用された国号の「日本」は、この古い国号の新しい「復活」だった。
 これが、中国側の見たところ、日本の国号の本当の由来*8)だったのです。
 早くから文字をもち国際的な情報をもっていた、大国の唐、その国の歴史の本のしめすところ、それが実は「東日流外三郡誌」という、この日本列島の中の本のしめした伝承と、全く一致していたのです。その上、遺跡事実ともよく対応していました。
 これは果たして偶然でしょうか。いえ、やはり歴史事実がそうだったから、日本列島側の本と中国大陸側の本と、二うの本の書くところがピッタリー致した。遺跡事実もこれを裏づけた。
 わたしたちはやはり、そう考えるべきだと思います。それが一番自然です。


  九

 この「東日流外三郡誌」という本は「偽書(ぎしょ)」である。現代の人が作った本だ。こういった主張をする人が現われました。新聞も、そういった記事を何回ものせました。それも、実は、もっともなことだったのかもしれません。なぜなら、この本の貴重さは、おそらく空前絶後(くうぜんぜつご)、多くの人々にとって、全く予想もつかないことだったからです。

  [まさか、そんな。ウッソー。」

という気持ちから、この本のことを“消し去ろう。”という気持ちになったのも、無理はありません。
 ちょうど、あのドイツの有名なシユリーマンがトルコのヒッサリクの丘から、古代トロヤの古城とさんぜんと輝く黄金の財宝を見号に発見したとき、人々はあまりの意外さに驚き、逆にシュリーマンその人に対して、色々と疑いの目を向けました。

 「彼は詐欺師(さぎし)だ。ペテン師だ。実は古道具屋から買いこんだものを、地下から発掘した、などと言って、ウソをついているにちがいない。」

 アテネの博物館長やヨーロッパの有名な学者たちまで、ロ々にそう言いました。あまりにも予想外で、それまでの常識を裏切っていたからです。トロヤとギリシアとの、長い日の戦争のことをのべた「イリヤッド」(イリアス)、盲目の詩人ヘホメロスがこの叙事詩を、竪琴を聞きながら、ギリシアの町々を巡り歩く、語り歩いたという、あの「イリヤッド」は、ただのお話、歴史事実ではない。これがヨーロッパの学界では永らくの常識だったからです。
 しかし、それはあやまりでした。その常識はまちがっていました。*9)「イリヤッド」はまさに歴史事実の骨格を伝えていた。シュリーマンはペテン師ではなかったのです。
 これと同じように、今回の「東日流外三郡誌」、その内容は、東北地方の北端部、津軽の地に伝えられた、古くからの伝承を、江戸時代の三人トリオ、秋田孝季、りく、和田長三郎吉次たちが、ひたすら記録し、一生懸命構成に伝えようとしたものでした。
 それは、日本と言う国名、日本という国の歴史の始まりと本当の由来を、正直にかきしるしたものでした。
 少なくとも、この本に書かれたことによって、隣の国、中国の記録がいつわりではなかったこと、それがハッキリと証明されたのです。
 このような、貴重な記録和田家(五所川原市、飯詰)の代々の方々*10)に心から感謝したいと思います。
 和田長三郎吉次の子孫それが現在の和田喜八郎さんと、その家族の方々なのです。有り難う。この貴重な文書を未来まで大切に保存して下きるようお願いいたします。

和田家文書文書関係は闘論コーナー

<補>


新唐書

〈その一〉

百済伝と新羅伝には、それぞれ次の地形描写があります。

(百済)西は越州に界し、南は倭、北は高麗、海を踰(こ)えて乃(すなわち)至る。其の東は新羅なり。            <百済伝>

(新羅)東は長人(国名)を拒(へだ)て、東南は日本、西は百済、南は海に瀕(ひん)し、北は高麗。              <新羅伝>

 七世紀後半に滅亡した百済の場合は、「倭国」と言い、八世紀以降も存続し続けた新羅の場合は、「日本」と書いています。
 倭国伝と日本国伝を並べておき、倭国を七世紀以前、日本国を八世紀以降とした、旧唐書と歴史理解の骨格において、新唐書も同一の立場に立っていることがハッキリしています。

〈その二〉

もう一つの注意点、それは新唐書の中におかれた「日本伝」の得意な姿その位置です。
 通常、各伝の終わりに「賛して日(いわ)く」という一文がおかれています。
(時に、ないこともあります。)

 著者の意見又は「まとめ」です。この点、中国の歴代の歴史書の習慣といっていいものですが、新庸書も、同じです。

 ところが、「日本伝」はちがいます。「流鬼伝」などの短い文章と共に、東夷伝(列伝第一百四十五)の「末尾」のはずの「賛して曰く」の一文(かなりの長文)の前でなく、あとに付載されています。いわば“番付け”外のつけ足しのように。これは、なぜでしょうか。
 一応「賛して日く」で、東夷伝は終った形にしていて、いかにも「番外つけ足しです。」といった形にしているのは、「日本国側の言い分」として“特出”し、すでに公表され、東アジア世界周知の、旧唐書のしめした情報(倭国伝と日本国伝の両伝仕立て)と比較し是非を判断することを中国(と東アジア)の読者に求めた。このような姿勢の現われではないでしょうか。へロドトスの歴史記述法の中国版です。

 そのおかげで、わたしたちは「近畿天皇家中心の日本」(八世紀以降)の淵源をなす「弥生以前の古代日本」についての貴重な歴史情報を手に出来たのです。中国に対しても、ここに厚く礼を言いたいと思います。
(わたしがかって新唐書について論じた文章に「新唐書日本伝の史科批判−旧唐書との対照」「九州王朝の歴史学駸々堂刊)所収、があります。この論文は、その継承であると共に、大きな「歴史理解の変更」をふくんでいます。それは「日本と倭国」の関係についてです。ご参照下さい。)


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制作 横田幸男
著作 古田武彦