古賀事務局長の洛中洛外日記
第38話 2005/10/21

浦島太郎の御子孫が講演

 古田史学の会会員に浦島太郎の御子孫がおられることは、以前このコーナーでもご紹介しましたが(第30話「浦島太郎の系図」)、その御子孫である森茂夫さん(京都府網野町)から、「網野神社の証言1─系図から見えてくる丹後の歴史─」というパワーポイントによるファイルが入ったCD-Rが送られてきました。
 期待しながらファイルを開いてみると、森家の系図や美しい丹後半島の風景など、盛り沢山の内容で、わたし一人で見るにはもったいないものでした。そこで、より多くの方にこのパワーポイントを見ていただこうと、森さんに大阪での講演をお願いしましたところ、快く引き受けていただきました。
 古田史学の会・関西では毎年一月の例会を新年講演会としてきましたが、森さんにはその新年講演会で講演していただくことにしました。演題は「子孫が語る浦島太郎の系図と伝承」です。日時は来年の1月21日(土)の午後1時30分からで、会場は大阪駅前第2ビルにある大阪市立総合生涯学習センターの予定です。くわしくは本ホームページの例会案内に掲載しますので、ご参照下さい。
 なお、当日は森さんの講演に先だって、水野孝夫代表より「浦島太郎は南米に行った」という内容の「あいさつ」が30分ほどあります。こちらも興味深い仮説です。ご期待下さい。皆様のご来場をお願い申し上げます。


2004年 8月 8日 古田史学会報63号より

会員からのお便り
浦島伝説
           竹野郡網野町 森茂夫
 ご無沙汰しています。今日店頭に並びました平凡社「別冊太陽 カタリの世界」の一章に網野浦島伝説が掲載されています。昨年秋から冬にかけて網野神社、森総本家、そして別家である父の家に突然取材に来られました。この時、私も同行しましたので、私の写真や拙論も恥ずかしながら紹介されています。多くのことをお話ししましたが、紙幅の都合や編集者の意図もあり、あのような形で出版されています。もしもよろしければご覧下さい。
 なお、網野浦島伝説の次に伊根の浦島伝説が掲載されています。ここで「あれっ」と思ったことを言いますと、「延年祭」で捧げられる「立花タチバナ」です。その形なのですが、宮嶋宮司は「農業の繁栄や養蚕の繁栄を祈っての形」と解説しておられます。
 しかし、古田先生に確か西江さんという方が進言されたように記憶していますが、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)はバナナであるというなるほどと思わせる説を私はすぐに思い出しました。
 この不思議な物体は俵かもしれないし、繭かもしれないとは思うのですが、太いアケビのような形やぶら下がり方を見ると違和感を持ちます。また、「タチバナ」と命名されている以上、古代より言い伝わっているタジマモリの非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)をイメージした造形かもしれないと考えるのです。
 そしてその非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)は「橘の実」の形ではなく、別の食べ物に似ているわけで、あえて言えば「アケビ」、西江説を支持しながら考えるとバナナ、という思いを持ちます。もちろん、「思いつき」で「実証的」な考察ではありませんが、つけ加えてお知らせしておきます。
  (二〇〇四年五月)


2002年12月 3日                     古田史学会報53号より転載

会員からのお便り
浦島太郎の二倍年暦

                竹野郡網野町 森 茂夫

 昨年十月、東京でお会いしてからごぶさたしておりまして申しわけありません。現在の職務がなかなかに忙しく、例会出席や「古田史学会報」への投稿もできないままです。もちろん、真剣な意志と論稿を書く能力がないことが一番の理由ですが。
 さて、古田先生には古代史を観る眼を育てていただき、本当に感謝しております。
 ところで、いくつか疑問を述べさせてください。一つ目は「万葉の十字路」の一節に関するものです。古田先生はその中で【〈籠よ み籠もち〉の歌は雄略にあらず、丹後の現在の籠神社近くを舞台に歌われたもの】とか【ヤマトの神と丹後トヨウケの神の歌】と言う新見解を出しておられます。丹後人としては嬉しいのですが、少し強引かなとも思います。かつての籠神社宮司さんの証言や「熊野郡誌」掲載の古老の口碑、久美浜町に残る「仲原家文書」によっても、海部氏は養老年間まで久美浜町海士にいたと見て取れます。これは、実は国宝祝部氏系図からも推測できるのです。祝部氏系図中の養老年間に祝部として奉職した人物が二〜三系統かさなっていることが以前から注意されてきました。

 海部直[イ吾]佰道祝「従乙巳養老元年合卅五年奉仕」─────────────
 児海部直愛志「従養老三年至于天平勝宝元年合卅一年奉仕」─────
 児海部直千鳥祝「従養老五年至于養老十五年仕奉」・弟海部直千足・弟海部直千成

 というように養老年間中、祝が重複するように記載されているのも久美浜町川上海士と天橋立籠神社との並立を示唆しているように思えます。広辞苑(昭和三〇年版)には籠神社のことを「こもりじんじゃ」とも説明しています。その根拠はわからないのですが、「籠」は確かに「こもる」とも読みます。そして久美浜町海士には「小森」という姓がたいへんに多いのです(私の妻の母は海士出身で旧姓小森です)。また、大江町元伊勢神社のある所を「河守(こうもり)」と言いますので、三系統の祝がいても理屈に合いそうです。それから、久美浜町海士の近く、川上の須田(黄金の環頭太刀が出た湯舟坂2号墳がある)には古田さんが人名かと考えられた「押奈戸手」とひょっとして関係あるかなと思ってもみるような姓、「戸出(とで)」さん「土出(どで)」さんもいるのです。また、もともと海士にいた海部氏が現在伝世鏡として所有している「奥つ鏡」「辺つ鏡」(前漢・後漢鏡)についてです。海士の矢田神社(古い伝統を持つ式内社)は海部直の祖「建田背命」を祭っているのですが、相殿に「建田背命」の子、「和田津見命(海神)」三柱の、「表和田津見命」「中和田津見命」「底和田津見命」を祭っています。これはあの金印が出土したすぐ近くにある志賀海神社の祭神と一緒なのだそうです。弥生北部九州と何か関係ありそうにも思えます。
 いろいろとわくわくしますが、しかし、いずれにしましても、近年とみに有名になった籠神社のルーツについては慎重な検討がいるということ、宮司さんもかつての歴史的事実からジャンプしてややハイテンションな説明をしがちになっておられないかということ、「籠」という字やその他のことだけでこの神社を〈籠よみ籠もち〉の歌と関係づけるにはもう少し別の論証も必要だということを感じています。
 二つ目に「浦島太郎」の末裔として質問させてください。古田さんは多倍年暦の証明の一つとして「浦島太郎三百年生存問題」を取り上げ、南方に六倍年暦(結局現在の五十年で、妥当な生存期間)の土地が在った証拠と確か言っておられたと思います。古賀さんも最近の会報でそれを紹介なさっていたと思うのですが、これは勘違いだと思いますのでその理由を述べてみます。「昔の世に水の江の浦島というものがあって、ひとり海上に出て、二度と帰ってこない。もう三百年あまりの年がたった。(丹後国風土記逸文)」と浦島子に語ったのは南方人ではなく里人の丹後人でした。倭人である丹後人が六倍年暦を使っていたというのはちょっと無理な話ですし、語り手を取り違えた推理だったと言えないでしょうか。
 しかし、この話は実は古田さんたちの多倍年暦には有利なのです。雄略紀二二年(一応西暦四七八年)に丹後を出発した浦島子が二倍年暦の地、倭国(丹後)にその暦で三百年後に帰ってきました。現在の年暦百五十年後に帰ってきたのですから四七八+一五〇=六二八年に丹後に到着したのです。「古老の相伝える旧聞異事」を掲載した風土記の書かれた8世紀段階では、浦島子帰国はまさに「古老の相伝える旧聞異事」として矛盾なく語られることができるのです。読者も、かつて二倍年暦を使っていたことを知りながら読むので、合理的に理解することができたはずです。ところで、平安時代に書かれた『水鏡』には常世の国におもむいた浦島子が天長二年(八二五年)に帰ってきたと書かれているようです。これは二倍年暦の記憶が薄れてしまった9世紀日本人が四七八+三〇〇=八〇〇年頃に帰国するはず、という解釈から起こったフィーバーだろうと思うのですがどうでしょう。
 以上、非礼を省みず疑問に感じたことを書かせていただきました。あるいは私の方が間違っているかも知れませんのでそうであればご指摘くださるとありがたいです。急に寒くなってきました。お体、お大切に。
 〈十月二七日ちょっと暇なひとときを使って〉

大阪新年講演会済み

期日 2006年 1月21日(土)
  午前1時半より午後4時半
場所 大阪市立総合生涯学習センター
大阪駅前第二ビル 5階
第1研修室
挨拶

講演

講師

「浦島太郎は南米に行った」代表水野孝夫

子孫が語る浦島太郎の系図と伝承

森茂夫氏(本会会員)

参加費 700円


洛外洛中日記一覧

資料編に戻る

ホームページに戻る


制作 古田史学の会