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『市民の古代』第7集 好太王碑現地調査報告 東方史学会好太王碑訪中団の報告 へ
これらをより良く理解するには『好太王碑論争の解明』(藤田友治著 新泉社)をご覧ください。
藤田友治
私達は長年、好太王碑の現地調査を念願していた。好太王碑は中国と北朝鮮の国境にあるため、戦後の長きにわたって日本人研究者が調査に行くことは阻まれていた。それ故、中国側が好太王碑の現地調査をまとめた研究論文、吉林省文物考古研究所所長王健群氏の「好太王碑の発見と拓本 (1)」が発表されたことを知ってたいへん喜んだ。私達は中国大使館のみならず、中国・北京の国家文物管理局や吉林省文物管理局にまで行って直接交渉していたが、現地調査は許可されず、待機させられていたから、碑の現状をどうしても正確に知りたいという思いが、禁止されればされるだけつのっていた。
王論文は、約三カ月にわたった現地調査を踏まえて、李進煕氏の提起する「好太王碑改削説」の検証をした結果、所謂改削説は成立しないことを明らかにし、更に李説は何故に成立しないかという根拠にふれ、その原因を拓工による誤鉤にありと結論づけ、かつ拓工父子を初天富(一八四七年 ーー 一九一八年)、初均徳(一八六五年? ーー 一九四六年)であると具体的に割りだした画期的な研究である。
王論文は好太王碑改削論争の決着をもたらした。周知のように李進煕氏の改削説に対して古田武彦氏の改削説への批判(2) 以来、史学界で白熱した論争となり、現地調査による決着が望まれていたのである。古田説は酒匂双鉤加墨本を双鉤したのは清朝の拓工であるとし、酒匂による意図的な改削ではないとしていた。王論文は古田説を追認し、李仮説は間違っていると決着させた(詳細は拙論「好太王碑論争の決着 中国側現地調査・王論文の意義と古田説について」『市民の古代』第六集を参照されたい)。
王健群氏は『好太王碑の研究(3) 』(一九八四年八月、吉林出版。翻訳は十二月、雄渾社)によって一層詳細に実地調査の成果をもとに自説を展開され、本年一月には日本でおこなわれたシンポジウム(4) に出席され「倭は海賊」であるという説を発表された。
私達は王健群氏の論文、著書の画期的な意義を認めかつその問題点について議論を深めるために「中国の好太王碑研究の意義と問題点 ーー王健群氏に問う」と題して公開討論会を呼びかけた。(5) 来日しておられた王健群氏に招待状を差し出し、また、中国大使館、出版社等を通じて対談を望んだが、諸般の事情で残念ながら実現できなかった。
本年三月二十三日から四月二日まで、東方史学会主催(古田武彦氏会長)の中国好太王碑訪中団を私達は組織し、好太王碑を日本人研究者の団としては従来になく長く(四泊五日間)現地に調査をした。また、三月三十日に長春、吉林省博物館において王健群氏と対談を行ない、白熱した討議をすることができた(詳細は本誌の「王健群氏との対談会」を参照されたい インターネット上ではなし、見出しのみ)。
雪降る好太王碑から、サクラの咲く日本に帰国するや「春蘭乍放、又聆清音」(春蘭が咲きほころぶとともにすがすがしい声に接し)という文章から始まる王健群氏が私にあてた手紙をうけとった。(6) この手紙は好太王碑に関する対談を呼びかけ、更に王氏の『好太王碑の研究』に対する私の批判に応えた丁寧な返事であった。事実求是を主張しておられる王氏らしく、誤りは誤りとして率直に認められていた。
『好太王碑の研究』は三カ月にわたる貴重なる現地調査を基に、好太王碑研究史上新しい画期を切り開いた労作であることは疑い得ない。待望した論文であるだけに、これを熱読し徹底的な分析を加えた結果、次の間題点が幾個所もあることが判明した(解釈上の視点の違いや見解の相違は除く)。
一、先行学説を解読する上での誤解(五カ所)。二、王氏の判読した碑文について従来の解読と比較すると、王氏が把握する論争点の間違い(十七カ所)。三、王論文と彼自身が作成した研究史年表とのくい違い(六カ所)。
以上、二十八ヵ所、具体的に根拠をあげた一つ一つの指摘に対して、王氏は約三分の二近い部分について誤りを認められ、「たしかに先生のご指摘のとおりで、再版時に改めたいと存じます」と返事され、更にご自身が最近気づかれた一カ所を誤りと認められ(私の指摘以外に)、私に教えて下さった。誤りを指摘した者に対して明確に応えるだけでなく、自ら自己の誤りを見つけ徹底しておられる態度に私は感銘を受けた。 (7)
長春でお会いした時には、病気はすっかり治っておられ、非常にお元気な様子であった。改削説否定後、好太王碑に関する研究は新たな出発点、地平に到達した。現地調査を踏まえた議論ができるようになった今日において、実事求是の精神に基づき新たな問題を提起したい。
従来、好太王碑が日本の歴史において非常に重視されてきた理由は、碑文中に「倭」が存在し、四〜五世紀の高句麗から見た東アジア諸国(新羅、百済、倭等)の国際的な関係が記されてあるからに他ならない。
碑文は、戦後の「科学的」歴史学を通じて、古代日本の政権関係と古代日朝関係史を考察する際の最大の物的証拠を提供し、一級金石資料であることは疑い得ない。
王氏は現地調査を経て、倭の出現を碑文中「十一ヵ所」も摘出しておられる。私達は現地でくり返し視察、調査をしたが、「八ヵ所」までは明確に確認し、従来説の「九ヵ所」と推定はできるが、どうしても「十一ヵ所」までを認めることはできない(詳細は本誌の「東方史学会好太王碑訪中団の報告」を参照)。
しかしこの点については、更に時間をかけて確認すればよいと考えるので、当面の問題は倭をどう把握すべきかという問題に的を絞る。
王氏は『好太王碑の研究」において倭=海賊説を提起され、日本におけるシンポジウムや中国・長春における私達との対談会の時の最大の論争点となったが、既に一九八二年の『学習と探索』において次のように提起しておられた。
「歴史からみれば、当時の倭は統一政権を形成してなかった。倭が百済と新羅を侵略したというのは、これは北九州一帯の掠奪者が、群をなして隊を組み、海盗(海賊ー引用者)の方法で朝鮮半島南部に進入し、人を殺して物を奪った、ということにすぎない。」(傍点は引用者、インターネット上では赤字)
王氏のこの「倭」=「海賊」説は、通説の倭=大和政権説とも異なり、新鮮な説であるかのように受けとめられている。が、果してそうであるだろうか。すべての学説は、先行学説を自己の生みの親として持っており、あらゆる意味において時代の子(へーゲル)である。生みの親から離れて、全く単独で独創的な生命が誕生することはあり得ない。王氏の海賊説も生みの親をもっているが、何故か自らその事を明らかにしていない。
一九六三年、金錫亨(キムソクヒョン)氏は朝鮮民主主義人民共和国社会科学院院長として、戦後の外国人研究者としてはじめて好太王碑の学術調査をおこなった。金氏の碑文解釈は、一九六九年『古代朝日関係史 ーー大和政権と任那』として翻訳、出版された。
「〔第六〕(永楽十四年項を意味している ーー引用者注)では、対倭の戦勝を強調しているが、百済の出陣もないこの戦いがさほど大きかったとは考えられない。ただ『不軌(き)』にもどろぼうのように攻め込んできたのであって、おそらく船で海賊のように襲いかかり無数の死体を残して逃げていったような比較的小規模の襲来を、碑文では誇張しているものと思われる」(同書三七六頁、傍点は引用者、インターネット上では赤字)
金氏は倭軍を海賊のようにとらえており、この倭は北九州一帯で三、四地域に別れて分布する古墳群の主人公とみなしている。この視点から、金氏は従来の日本の通説となっていた大和統一政権説を鋭く批判していたのであった。戦後の歴史学界において、「天皇主義」を払拭したはずの学者達が、考古学という科学的成果にもとづいて日本古代史を再構成したのであるが、なお近畿大和中心史観にとらわれ、四世紀の全国統一の物的証拠として好太王碑に現われた「倭」を利用していた。金氏はこの近畿大和中心史観に対して、全く逆転させて、「日本列島内において三韓以来三国に至るまで諸分国が実在した (8)」という日本列島内分国論を展開し、従来の日本人学者の朝鮮「植民地」論に対置させた。
このような状況の中から、好太王碑を見直し、再検討すべきであるという問題提起が李進煕氏に引きつがれ、周知のように好太王碑文改削説が生みだされるに至ったのである。李氏の主張も次のようである。
「事実、『三国史記』によりますと、『倭」が四世紀後半から五世紀にかけて新羅をしばしば襲っておりますが、それは波静かな五 ー 八月に集中しています。また、彼らは領土的支配をめざしているのではなくて、物質をかすめとって引きあげる海賊の集団にすぎませんでした。倭冦の場合は、潮と気象条件のよいときをえらんで行動しますから、植民地を維持するための兵の派遣とは質的にちがうわけであります。(9) 」(傍点は引用者、インターネット上では赤字)
李氏の海賊説は『三国史記』を根拠とし、航海条件を考慮しながら倭冦と結びつけている。そして、金氏、李氏ともに朝鮮半島に対する倭の植民地支配を断じて認めないという点は全く同様である。
これらの先行学説に較べると王氏の海賊説は具体的根拠に欠け、またその分析も極めて脆弱である。王氏の議論は後世(十六世紀)の「倭冦」の例をもってきて古代を論じているが、これは明らかに論理飛躍である。
王氏の学問に対する姿勢は私も敬服する。古代の国家関係史を把握するのに、「実事求是の態度で共同研究しなければならない。歴史は客観的な存在であり、実事求是の態度をとり、真理に従いさえすれば、正しい結論をひき出せるのである(10) 」との主張には全く同感である。
金氏、王氏、そして古田氏はいずれも倭を近畿天皇家とせず、当時の日本の国家を統一された単一の国家と見なしていない。三者はいずれも倭の勢力を北九州としている。では問題のキー・ポイントはどこにあるのだろうか。
「日本列島がまだ統一されていなかった四、五世紀では、国家関係が成立していたとは思えない(11)」と王氏の主張にあるように、「国家」という概念の把握に問題のポイントが存在する。このことは、王氏がどのような視点で従来の説に対したかを見ればよく解る。
「そこで、伝説と碑文を結びつけて、日本は当時すでに統一されていたと主張し、そうすることによって日本を国家として出現させ、任那日本府を定説化し、もともと誇張された言葉をさらに際限なく誇張したのだった。これは歴史を研究するものの良心に背くものである。」(傍点引用者、インターネット上では赤字 『好太王碑の研究』一八四頁)
この点も既に先行説にあたる金氏の主張は次のようである。
「以上のような碑文解釈も他ならぬ彼ら日本人学者の立場と先入観から生じている。朝鮮といえばまず植民地と考え、倭といえば大和中心の統一国家と考えるのである。これはかつて日本帝国主義者が、古代日本の『大帝国』論を歴史的に証明しようとしていた論理体系の基本であった。破産したこの『大日本帝国』式の先入観に、今日も日本の歴史家たちは固執している。」(『古代朝日関係史 ーー大和政権と任那』三七九頁)
王氏、金氏のいずれの見解も大和中心主義を批判する限りにおいては全く正しい。だが大和中心史観の歪みを正そうとされるあまり、当時の倭の過小評価、更に国家というものをどうとらえるかという点について矯小化してしまっている。統一大和政権以外に日本に国家がないという命題は、ほとんどの日本の歴史家とそれを根本的に批判しているはずの金氏、李氏、王氏らをも縛りつけ、同じ土俵上において国家をとらえさせている。
統一された国家でない限り、国家として認めないという立場をもし貫徹しようとするなら、当時の東アジアにおいて「国家」はどれ位存在するだろうか。中国の魏、呉、蜀のそれぞれも国家でなくなり、朝鮮の高句麗、百済、新羅もそれぞれが国家でないというのだろうか。表 I(中国文献に表された国名表記)を見れば、中国文献は基本的に倭を高句麗や百済、新羅(しばしば記述が欠けている)と同様に国家、異民族集団と認めている。今日の国境や国家形態から古代の国家を論じることはできないのは自明だ。この倭を金氏も王氏も北九州と考えていることは正しい。では、どうして「海賊」というような把握をするのだろうか。北九州を中心にした九州王朝(古田武彦氏の提起)という概念把握に達せず、近畿天皇家以外国家がないととらえてしまっているが故に、国家の認知を受けない略奪者集団、即ち「海賊」となるのであろう。国家の認知した略奪者は、即ち侵略軍(正規軍)である。
碑文においては、倭に対してその侵略行為のゆえに「賊」とか「冦」と表現している。これは事実、倭は「海賊」であったから「賊」とか「冦」とか称したのではない。この問題について、古田武彦氏は中国文献を渉猟した上で、好太王碑に「倭冦」「倭賊」とあるからといって事実をそのように見なすべきではなくて、「正統の天子の支配に冦(あだ)なし、これを賊(そこ)なうもの」という「大義名分論」から冦、賊と表現したのであると分析している。(12)
金氏、王氏の主張される海賊説では、何故に他国を略奪するのかという肝要のポイントが分析できず、この認識では当時の東アジアの国家関係史をリアルにとらえることは到底できないであろう。高句麗の社会構造において支配階層が全人口中に占める比率の高さに比べて、生産性の低さが基本的に他国侵略の主な原因である(詳細は「守墓人の制度」に関連して後述)。「広開土境平安好太王」とは、百済や新羅という隣国からすれば侵略王であり、賊であって決して「好太王」(美称)などではないが、高句麗からすれば広開土境をしたよき王となるのである。
『三国史記』新羅本紀においては倭兵の状況をリアルにとらえている。
「(奈勿王九年=三九四年)夏四月、倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ、草の偶人(人形)数千を造り、衣衣(衣を衣(き)て)兵(兵器)を持たしめ、吐含山の下に列立せしむ。勇士一千人を斧[山見]の東原に伏す。倭人、衆を恃(たの)んで直進す。」
[山見]は、JIS第三水準、ユニコード5CF4
この文章から物資をかすめとる海賊の類がどうしてイメージされよう。新羅、倭軍は敵対する国家関係として把握されない限り、新羅王が「倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ」という表現は理解されない。海賊と把握するところから文献、金石文の示すところとが矛盾を生じる。倭国側の侵略史も自ら次のように上表文として中国の順帝に差し出していた。
「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏みこえ、席の暖まる暇もなく戦ってきた。東方の毛人を征すること五十五国、西方の衆夷を服すること六十六国、海を渡って北方を平げること九十五国にのぼった。(中略)しかるに高〔句〕[馬鹿]は理不尽にも〔百済を〕併呑むしようと企て、辺隷(百済をいう)を抄掠し殺戮をやめようとしない。(中略)今は亡き父の済は、〔高句麗が〕入朝の海路を塞いでいるのを憤り、戦備を整えた百万にものぼる兵士たちも、義声をあげて感激し、大挙出征せんとしたが、その時、にわかに父(済)と兄とを喪い、まさに成就せんとしていた功も水泡に帰してしまった」(「『宋書』倭国伝」、『東アジア民族史1』井上秀雄他訳注、三百十二〜三頁)。
この記述も倭・百済対高句麗という関係を明らかにしており、倭は高句麗に勝利していない事実を、つまり高句麗側の好太王碑文にある「倭冦大潰」「残倭潰逃」「倭賊退」等の表記とよく合致している。倭王武は順帝から「使持節・都督倭 新羅 任那 加羅 秦韓 慕韓 六国諸軍事・安東大将軍・倭王」を認められているが、ここに高句麗は当然のことながら記載されていない。「百万にものぼる兵士たち」は誇張があるとは言えども、倭国側の命令で兵士達が侵略している事実は、王氏の国の歴史書である中国の『宋書倭国伝』に、また金氏の国の歴史書である『三国史記』にハッキリと記載されており、海賊の類ではないことを何よりも雄弁に語っていたのである。
好太王碑研究史上、王論文は画期的な意義をもつことは何人も疑えない。王論文の積極的な意義は、改削説の否定や倭=海賊説にあるだけではなくして、最も重要と思われるのは守墓人制度の観点から好太王碑をとりあげたことにある(学説史からは改削説否定は古田武彦氏によって既になされており、王論文は現地調査を踏まえた確認作業であったと言える)。
改削説に多くの学者達がかかわってきた反面、この問題については従来ほとんどとり扱われてこなかった。好太王碑はそもそも高句麗最盛期の長寿王が父の好太王の功績をたたえ、かつ守墓人の制を明確にするために建立したのであるから、従来の研究のように四面あるうちの第一面の第九行の「倭以辛卯年来渡海破百済□□新羅」という文字にのみ集中した感があるのは文字通り一面的であった。この点、王論文によって本格的で全面的な好太王碑研究の視点が切り開かれたといってよい。だが王氏はしばしば先行学説を無視ないしは誤読をしておられるのが目立つ。自らの説を展開する場合、どこまでも先行学説を正確に理解した上で、その先行学説の批判を行ない、確かな基盤の上で自説を展開しなければならないことは言うまでもない。彼は考古学者として、徹底的な実地調査をし、丁寧に仕事をすすめられた。だが、そこからどのように文献学上解釈をするかということとは別問題である。
守墓人とは、好太王碑の墓守り人のことであり、碑建立の根本的意義に属し、碑文にあるように守墓人の制を明確にすることにかかわる重要な問題である。碑文は「守墓戸国烟卅看烟三百都合三百卅家」とあり、国烟を三十家、看烟を三百家とし、合計三百三十家にしている。このことを明らかにするために、碑文の第三面から第四面の文字、即ち全体の約半分近くが費されているのである。国烟、看烟のそれぞれの碑文の出現個所とその出土地と数の分布は、表II(国烟・看烟の調査票)の通りである。
(・は別字もある。インターネット上は赤色表示。□は不明)
番号 |
名称 |
国烟 | 看烟 | 合計 | 語義の推定 ()内は、一面、二面における出現箇所 |
|
---|---|---|---|---|---|---|
旧 民 烟 戸 |
1 |
売句余 (メクヨ) |
2 |
3 |
5 |
紀元三十年、大武神王三年に豪民の尚須が帰属、売溝谷と同一か。 |
2 |
東海賈 (トンヘコ) |
3 |
5 |
8 |
東海地方の商人、東海谷と同一か。 | |
3 |
敦 城 (トンソン) |
4 |
4 |
高句麗滅亡直後の未降十一城の一つ、現在の瀋陽付近 | ||
4 |
干 城 (ウソン) |
1 |
1 |
(文献史料に見えない) | ||
5 |
碑利城 (ビリソン) |
2 |
2 |
(文献史料に見えない) | ||
6 |
平穣城 (ピャンヤンソン) |
1 |
10 |
11 |
永楽九年にも出ている、現征の平壌。 | |
7 |
此 連 |
2 |
2 |
城ではない | ||
8 |
俳 婁 (住婁ジュル) |
1 |
43 |
44 |
(文献史料に見えない) | |
9 |
梁 谷 (リャンゴク) |
2 |
2 |
豹貊(リヤンメク)の居住地域、昔から高句麗に包括されていた。 | ||
10 |
梁 城 (リャンソン) |
2 |
2 |
高句麗の西部地域にある大梁水、太子河流域と比定。 | ||
11 |
安夫連 |
22 |
22 |
城ではない | ||
12 |
改 谷 |
3 |
3 |
城ではない | ||
13 |
新城 (シンソン) |
3 |
3 |
高句麗の西北方の重鎮として、今日の藩陽にあたる。 | ||
14 |
南蘇城 (ナムソソン) |
1 |
1 |
新城と隣接、集安の北西、通化以東。現在の興京の内城に比定。 | ||
旧民姻戸小計 | 1 |
100 |
110 |
烟=煙 煙戸(ヨンホ) | ||
新 来 韓 穢 姻 戸 |
15 |
沙水城 (サスソン) |
1 |
1 |
2 |
|
16 |
牟婁城 (モルソン) |
2 |
2 |
(二 ー 一 ー 三十四〜三十六) | ||
17 |
豆比鴨岑韓 (ドビアムヂャハン) |
5 |
5 |
城ではない。 | ||
18 |
句牟客頭 (クモケクト) |
2 |
2 |
城ではない。 | ||
19 |
求底韓 (クヂョハン) |
1 |
1 |
城ではない。 | ||
20 |
舎蔦城韓穢 (サヂヨソンハンイエ) |
3 |
21 |
24 |
永楽六年の□舎蔦城か。 | |
21 |
古模耶羅城 (コロヤラソン) |
1 |
1 |
(一 ー 十一 ー十二〜十六) | ||
22 |
[日/火]古城 |
1 |
3 |
4 |
[日/火]は、日の下に火。第3水準、ユニコード7085 | |
23 |
客賢韓 (ケクヒョンハン) |
1 |
1 |
城ではない。 | ||
24 |
阿旦城、雑珍城 (アダンソン ・ジャブチン) |
10 |
10 |
(一 ー 十 ー 三十五〜三十七)、(一 ー 十一 ー 三〜五)現在の近畿道楊嵯峨山の南端、漢江の広津北側の地。永楽六年の□雑弥城か。 | ||
25 |
巴奴城韓 (ベノソニハン) |
9 |
9 |
|||
26 |
白模盧城 (クモロソン) |
4 |
4 |
(一 ー 十 ー 七〜十) | ||
27 |
各模盧城 (モモロソン) |
2 |
2 |
(一 ー 十 ー 十一〜十四) | ||
28 |
牟水城 (モスソン) |
3 |
3 |
|||
29 |
韓弓利城 (カングンリソン) |
2 |
3 |
5 |
(一 ー 十 ー 十五〜十六) | |
30 |
弥沙城 (ミ□ソン) |
1 |
7 |
8 |
(一 ー 十 ー 二十八〜三十) | |
31 |
也利城 (ヤリソン) |
3 |
3 |
(一 ー 十 ー 四十一〜十一 ー 二) 長油(ジャンタ)の高句麗名耶耶(ヤヤ)城あるいは夜牙(ヤア)城 |
||
32 |
豆奴城 (ドノソン) |
1 |
2 |
3 |
(一 ー 十一 ー 三十六〜三十八) | |
33 |
奥利城 (オリソン) |
2 |
8 |
10 |
(一 ー 十一 ー 六〜八) | |
34 |
須鄒城 (スチュソン) |
2 |
5 |
7 |
(一 ー 十一 ー 十七〜十九) | |
35 |
百殘南居韓 (ベクヂャン ナムゴハン) |
1 |
5 |
6 |
||
36 |
大山韓城 (テサンハンソン) |
6 |
6 |
(二 ー 一 九〜十二) | ||
37 |
農売城 (ノンメソン) |
1 |
7 |
8 |
(一 ー 十一 ー 三十三〜三十五) 永楽六年の婁売城か。 |
|
38 |
[門/壬]奴城 (ユンノソン) |
1 |
22 |
23 |
(二 ー 二 ー 三十四〜三十六) [門/壬]は、門の中下に壬。 |
|
39 |
古牟婁城 (コモルソン) |
2 |
8 |
10 |
(二 ー 二 ー 三十〜三十三) | |
40 |
[王彖]城 (チョンソン) |
1 |
8 |
9 |
一 ー 十一 ー 二十八〜二十九) | |
41 |
味 城 (ミソン) |
6 |
6 |
|||
42 |
就[次/口]城 (チュジャソン) |
5 |
5 |
永楽六年の就鄒城か。 [次/口]は、次の下に口。 |
||
43 |
三穣城 (サムヤンソン) |
24 |
24 |
(二 ー 二 ー 四十〜三 ー 一) | ||
44 |
散那城 (サンナソン) |
1 |
1 |
(二 ー 一 ー 二十六〜二十八) | ||
45 |
那旦城 (ナタンソン) |
1 |
1 |
(二 ー 一 ー 二十九〜三十一) | ||
46 |
勾牟城 (クモソン) |
1 |
1 |
(一 ー 十一 ー 九〜十一) | ||
47 |
於利城 (オリソン) |
8 |
8 |
(一 ー 十一 ー 三十〜三十二) | ||
48 |
比利城 (ビリソン) |
3 |
3 |
(一 ー 十一 ー 四十一〜二 ー 一 ー 一) | ||
49 |
細城 (セソン) |
3 |
3 |
(二 ー 一 ー 三十二〜三十三) | ||
新来韓穢小計 |
20 |
200 |
220 |
(シンレハンイエ) | ||
合計 |
30 |
300 |
330 |
王氏は「これまでは判読に誤りがあったため、百年あまりのあいだ、諸家の統計した烟戸の数は、碑文に記された総数と合致しなかった。あるものはそれを碑文の脱落のせいにし、またあるものはその他の原因を強調したが、実際にはそのどちらでもないのである (13)」といわれ、国烟、看烟の碑文上明確にされた数と合致したのは百年来、王氏だけであると受けとれる。しかし、従来においても国烟については次の三点の資料は碑文の数に正しく合致していた(この点、既に私は次の論文で詳しく明らかにしている。「好太王碑研究の新視点 ーー好太王碑改削説への反証」『市民の古代』第5集を参照されたい)。
一点目は朝鮮金石総覧の釈文(前間恭作氏)、二点目は水谷悌(てい)二郎氏の釈文(『書品』第一〇〇号)、そして三点目は、大東急記念文庫の双鉤加墨本(大阪府立茨木東高校地歴部復元釈文)である。
従って、研究史上では王氏の実地調査に基づく釈文は、四点目の正しい資料を提供されたこととなる。ところが、王氏は「水谷氏は、自らの解釈文にもとづいて統計すれば、碑文の合計数と符合するといっているが、それは間違いである。その他の研究者の解釈文によって統計しても、碑文に記載されている総数と符合するものはいまだかつてなかった (14) 」といわれる。「水谷氏は第三面第十行第三十四字の『三』を『二』とみなし」と王氏は主張するが、これは王氏の全くの誤解であり、水谷釈文に明らかなように『三』と正しく考えておられる。大東急記念文庫拓本は中国にはないものであり、またたとえ同じものがあったとしても復原しなければ解読できない保存状態であるので王氏はご存知なかったことはやむを得ない。しかし、もともと正しい結論を引き出していた水谷釈文を誤読した上で批判するというのは大きな間違いである。
国烟の数が碑文で「三十」になるとハッキリ書かれているのに、従来どうしてさまざまな数に分かれていたのだろうか(例えば酒匂本「三十七」栄禧本「三十二」、羅振玉本「三十五」、劉承幹本「三十六」、末松保和本「三十一」等々)。この国烟の数を合わなくさせている最大のポイントは、碑文第三面第十四行三十九字目の字であり、この字がブラック・ボックスのようにさまざまな数を示していたからである。ちょうどこの文字は第三面から第四面につづく、スミ角のところにあり、早くから碑面に損傷を受けていた部分であった。したがって釈文のみならず、拓本、写真でさえ異なった数として検出されていたところである。王氏はこの問題について、「第三面第十四行第三十九字の『一」以前は『二』に解されたが誤りである(15) 」といわれる。だが以前に「二」と解釈されてきたことなど、この百年間にもわたる碑文研究史上、一度もない。これを指摘したところ、王氏は「六」と書くべきところを「二」と書き誤ったとされたが、これも不正確であり一面的である。(16) 私は王氏の書き誤りを批判するのが目的でこの問題をとりあげているのではない。書き誤りは誰にもあり、訂正すればよい。そうではなくて、この文字は従来さまざまな文字に検出されており、国烟の数を合わなくさせている最大の個所であるという認識がないことで問題の本質を把握しておられないことを批判しているのだ。
第三面第十四行第三十九字は、従来次のような文字に分かれている。
1). 「七」と判読 ・・・ 横井忠直、三宅米吉、今西龍。
2).「四」と判読 ・・・ 栄禧。
3).「六」と判読 ・・・ 羅振玉、楊守敬、劉承幹、金毓黻。
4).「一」と判読 ・・・ 前間恭作、水谷悌二郎、末松保和(17)、藤田友治(18)。
5).「□」即ち不明とする……朴時亨、集安県博物館解釈文(解読者不明)。
この文字が何故に四通りもの数に読みとれるのか、私は拓本、写真等をくり返し比較しながら解明できずにいたが、中国吉林省博物館蔵拓本の「」という文字を見てようやくこの謎を解明することができた(詳細は拙論「好太王碑論争の決着 ーー中国側現地調査・王論文の意義と古田説について」を参照されたい)。この文字は拓工によって石灰が塗られ、仮面字となっており、「」の部分は碑面のキズであり、そこに石灰をどう埋めるかによって「七」「六」「一」に分かれるか決まるのである。国烟の総数が「三十」になるのには、「一」以外にはない。私は二年前にこう結論づけていた。
本年、三月下旬、集安の好太王碑の前に立ち、碑文をくり返し精密に観察した結果、やはり「一」が正しいことを確認した(古田武彦氏、山田宗睦氏らの認定も得た)。王氏も「一」と判読されたのは正しいが、何故に釈文の解釈がさまざまに分かれていたのかについての分析もないどころか、基本的に従来説を無視ないし誤読をしておられたようである。
私は王氏を批判するためにのみ、このブラック・ボックスを問題とするのではない。私はこの問題の分析から多くのことを学んだのであり、これからも学ぶために取りあげているのだ。一つは、碑文解釈上の釈文の正確度を測定する目安とし、一つは「改削説」以上に改削個所が存在するという問題(拓工による仮面字)、更に最近判明したことだが、このブラック・ボックスは時期により大きく変化していた。そして、この変化を分析することによって、次の問題を解明する手掛りを得ることができる。
王氏の大きな功績の一つは、初均徳抄本を発見したことだ。初均徳抄本のもつ意味は極めて大きい。拓工による仮面字がどのように作られたかを示しているからだ。ところで、この初抄本はいつ頃作成されたものだろうか。王氏はこれについて言及されておられないようだ。これも第三面第十四行三十九字をどう作字していたかによって手掛りを得ることができる。表III(第3面第14行39字の変化表)でハッキリしているように、一八九八年まで「七」であった文字が、一九〇五年以降は「六」となっており(一九〇九年まで)、第一回目の仮面字の作業は一九〇〇年前後(一八九九年 ーー 一九〇五年)であることが、初均徳抄本は「六」となっていることから解明できる。これは、李進煕氏がかつて主張されていた「石灰全面塗付作戦」の時期と合致する。拓工(初均徳)による仮面字を日本軍部の「改削」とした李仮説は誤りだが、一九〇〇年前後の石灰作業については確かに存在する。しかし李氏の主張のようにイデオロギー問題には全く関係がなかった。国烟の数を操作することに意味を認めることはできない。李氏の軍国主義批判の動機には全く賛成するが、王氏もいわれる実事求是に基づいてのみその軍国主義批判も説得力をもつ。この問題からも李仮説は破産する。しかし、李仮説の提起によって研究がすすみ、初抄本の年代を確立することができた功績は大きい。
年代は発表年代である ーー年代の不明なものは除外している)
年代 | 資料 | 字 |
---|---|---|
1883年 1889年 1898年 |
酒匂双鉤加墨本 横井忠直の釈文 三宅米吉 |
7 7 7 |
1905年 |
内藤旧蔵写真 楊守敬の雙鉤本 羅振玉の釈文 |
6 |
1913年 1915年 1918年 |
写真 今西龍の釈文 写真 |
7 7 7 |
1919年 | 朝鮮金石総覧 | 1 |
1922年 1934年 1959年 1966年 1983年 1984年 |
劉承間の釈文 金毓黻の釈文 水谷悌次郎の釈文 朴時亨 藤田友治の解読 王健群釈文 |
6 6 1 □ 1 1 |
王氏は守墓人制度を本格的にとりあげ、高句麗の社会制度の問題にまで深めてとらえられた。守墓人、国烟、看烟というのは明らかに奴隷の一形態である。
好太王碑文の第三面、第四面のおびただしい文字は守墓人制度の確立のために費されていたのである(これについては、王論文以前に私は古田武彦氏のアドバイスを得て守墓人、国烟、看烟のもつ問題を解明していた。拙論「好太王碑文研究の新視点 ーー好太王碑改削説への反証」を参照されたい)。しかも新来韓穢の烟戸は第一面から第二面に記載されている好太王が戦勝で得た城から略奪してきた烟戸である。表IIの国烟、看烟の調査表は好太王の功績をたたえた第一面・第二面と、守墓人烟戸の制について記述した第三面・第四面とが明確に対応していることを示している。
好太王碑文の最後の文字は、この守墓人の制度を今まで以上に強固に確立させる目的で書かれた成文法であると言える。「自上祖先王以来、墓上不安石碑」とは好太王以前に十八代続いた王墓に石碑を安置しなかった事実があり、守墓人を明確にしなかったことにより、烟戸に間違いが起こったり、貴族間で勝手に売買されてしまった。そこで、「又制守墓人、自今以後不得更相轉賣。雖有富足之者亦不得擅買。其有違令、賣者刑之。買人制令守墓之」と記載したのである。好太王碑文の成文法以後、守墓人を相互に転売してはならず、「富足之者」(貴族)であろうが、勝手に守墓人を買ってはならず、この法律に違反する者があれば、守墓人を売った者は、「刑」(体刑)にし、買った者は法律に従い守墓人にすると明確にしたものである。
『後漢書』高句麗伝や『三国志』魏書・東夷伝・高句麗条には「牢獄はないが、罪をおかした者は、諸加が〔集まって〕評議して死刑にする。その妻子は没収して奴碑にする」とあるところから、「刑」とは体刑であることは間違いない。王氏も体刑であると理解されているが、王墓の烟戸を売る者の罪を「重い」と考え、買った者の罪は「軽い」とアンバランスにとらえておられる。しかし、刑を決める評議制の出席者は「諸加」という支配階級の貴族であり、碑文にある「富足之者」である。従って必ずしも死刑という刑を自らに厳しく律していたか疑問であり、むしろ『説文』の徐[金皆]の注釈にあるように、刑とは刀で斬ることや、『書経』舜典伝にある五刑、入れ墨をする、鼻を切りとる、足を断ち切る、去勢する、極刑に処するような体刑と理解すべきであろう。王陵の烟戸を所有しているのは、一般の民ではなくて支配階級の上層部であり、自らの裁判で自らを死刑とするようなことをするであろうか。逆に、貴族であることをやめさせられ、一生涯最下層の差別された守墓人にさせらさることを、「軽い」と判断する王氏の認識を問う。やはり、どちらも厳しく処罰しようということを決めたと見るべきであろう。
徐[金皆]の[金皆]は、金偏に皆。JIS第4水準、ユニコード9347
「富足の者」とはどのような階層をいうものか考えてみよう。中国の諸文献、『後漢書』『三国志』『宋書』『南済書』『梁書』『魏書』『周書』『隋書』において王族、支配層の官名、被支配層等の記載を全て抜いて表にまとめると次の表IVとなる。
高句麗の王族は有力な五部族(涓奴(けんぬ)部、絶奴(ぜつぬ)部、順奴(じゅんぬ)部、灌奴(かんぬ)部、桂婁(けいろう)部)のうち、かつては涓奴部(消奴部という表記もある)から出ていたが、のちは桂婁部からでている。高句麗の王位継承には、部族間の承認や王を擁立する有力な貴族の認知がいる。認知されないと王となれないことは絶対王権のような支配体制ではなくて、部族連合国家を意味している。
井上秀雄氏は「なおこれらの諸官位名は滅亡期まで基本的に継承されており、絶対王権の時代でもその国家体制の基盤がいちじるしく変更されなかったことを示唆する」(『魏志』に現れた三世紀の朝鮮・日本の国家形態」『世界歴史6』岩波講座)とのべておられるが、表IVを見ていただければ解るように、『後漢書』から『梁書』までは、最高官位の相加から先人までの官位はほぼ一致していると言えるが、『魏書』『周書』『隋書』においては最高官位でさえ異なっている。とくに『周書』の「大対盧」という大官にいたっては、「大対盧は、強者が弱者を抑え奪いとっても自分がその位に就くもので、王が任命するわけではない(19)」とある。更に『翰苑』注の「高麗記」には「大対盧は国事を総和する。三年交代だが適職者があれば年限に拘わらない。交替する日はお互いにつつしまず、兵を整えて攻めあい、勝った者が〔大対盧に〕なる。王は門を閉めて自守し、制御できない」とあり、ちょうど、日本の戦国時代における天皇の位置を想起させる。この事は、井上氏の主張される「官位名の変更なし」を否定するだけでなく、高句麗における「古代絶対王権体制」なる概念をも疑わしむものである。この問題は王権の絶対性を意味せず不安定性を意味していたのである。
更に『三国志』高句麗伝が伝えるように、「高句麗の支配階級は耕作しない。〔したがって〕徒食するだけの者が一万余人もいる。下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて、〔主家に〕供給する(20)」とあるように、社会全体の人口に占める貴族階層の高率故に他国の侵略を行なわなければ支配階級の存立があり得なかったのである。それ故に、好太王は西暦三九一年から四一二年の在位約二十年の間、百済、新羅、碑麗、東扶余等の外国と戦い、更に倭の侵略軍と戦争をしなければならなかったのである。「国岡上広開土境平安太王」の正式名称は、百済との戦争で[水見]水と漢江の間の広大な土地を奪い、奴隷を奪ってきた功績をたたえ、それ故に新来の韓穢を烟戸とすることもできたのである。碑文を正確に判読する限り、略奪王である「好太王」の功績をたたえ、守墓人の制を明確にするために建立されたものであり、通説のように倭との関係を中心に考えたり、また王氏のように功績碑であることを否定し、墓碑と一面的に考えることも誤りである。広大な土地や人民を奪い獲得するために、即ち略奪戦争を行うためにさまざまな大義名分が碑文に書かれてあるにすぎない。
[水見]は、三水編に見。JIS第4水準、ユニコード6D80
書名 | 王 | 官名(支配層) | 被支配層 |
---|---|---|---|
後漢書 | 王族の消奴部から王、のち桂婁部から王 | 相加、対盧、沛者、古鄒大加、主簿、優台、使者、[白/巾]衣、先人(9) | 生口、奴碑 |
三国志 | 王 古雛加 ー正統の部長 |
相加、対盧、沛者、古雛加、主簿、優台、丞、使者、[白/巾]衣、先人など(10) | 下戸、奴碑 尊卑の身分にはそれぞれ等級がある 「下戸は賦税を給し、(中国の)奴客のようである」 (『太平御覧』巻783の『魏略』) |
宋書 | 安帝は高[王連](長寿王) 使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句[馬鹿]王・楽浪公 [王連]は、第3水準、 ユニコード7489 |
記載なし | |
南斉書 | 宋朝の末期、高[王連]使持節・散騎常侍都督営平=州諸軍耳・車騎大将軍開府儀同三司 | 記載なし | |
梁書 | 東明を高句麗の先祖(東明伝説) 後漢の光武帝八年(32年)朝貢の時に初めて王と称した。 |
相加、対盧、沛者、古鄒加、主簿、優台、使者、[白/巾]衣、先人(9) | 奴碑 尊卑それぞれの等級がある。 |
魏書 | 朱蒙伝説 鄒牟(好太王碑) [王連]を都督遼海諸軍事、征東将軍、領護東夷中郎将、遼東郡開国公、高句麗王 |
謁奢、太奢、大兄、小兄 頭には折風を冠り、その形は弁に似ている。太和15年(491)に[王連]の死後、高租は車騎大将軍・太傳・遼東郡開国公、高句麗王を遺贈康と諱(おくりな) | 民戸は前魏(曹魏)の時の三倍になっている 高句麗の領域は東西二千里、南北一千里。領民はみな土着のもの。 |
周書 | 朱蒙伝説 | 大宮=大対盧、太大兄、大兄小兄、意侯奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳属仙人、褥薩 官位は全部で十三等(扱い)大対盧は強者が奪権し、王は任命しない。 | 刑法により内乱の罪及び外敵に内応する罪とし、罪人の家人を奴碑とする。 |
隋書 | 朱蒙伝説 | 太大兄、大兄、小兄、対盧、意侯奢、鳥拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳属、仙人、12等の宮位 |
遊人(宮人につけない者か) 上戸と下戸の別 |
(参考文献・井上秀雄他訳注『東アジア民族史1』より藤田作成)
好太王碑の正面(第一面)に立つとほぼ真正面に禹(う)山(如山)の山頂が見える。第一面は南東、第二面は南西、第三面は北西、第四面は北東にそれぞれ向いている。現地に立ってみると、第四面から将軍塚の正面(開口部)がよく見える。好太王碑から将軍塚までの距離は約千六百六十メートル位である。従来、好太王碑と将軍塚とを関連づけて、将軍塚を好太王陵とする説があったが、将軍塚及び太王陵にしても中国の墓制である参道はこれまでの調査では認められていないので、参道を仮定した議論には無理がある。
一方、好太王碑の約四百メートル位(21) にある太王陵を好太王碑と考える説がある。この説は太王陵が南西の基底の長さ六十三・六メートル、東面六十二・五メートルの大石墓で、将軍塚より規模が大きく、また「願太王陵安如山固如岳」の文字磚(せん)が出土しているところをその根拠としている。
私は太王陵を好太王の陵墓と考える。その根拠については、従来説とは全く違う面から考察している。まず将軍塚を好太王の陵墓とするには、参道が認められないということから否定するだけでなく、好太王碑の第一面、即ち正面が南西を向いていなければならないと考えるのである。好太王陵がもし将軍塚であるならば、碑から正中線上にある将軍塚の正面(南西)と対応していなければならない。ところが、現地に立ってみると、事実は全く逆に好太王碑は南東をその正面としているのだ(机上での議論は、正中線上にあることで結びつけやすいが、将軍塚、太王陵ともに好太王碑と結びつけうる)。
王氏の主張されている好太王碑を墓碑とするならば、どうして太王陵に正面を向けていなかったのであろうか。この疑問は、好太王碑がもつ深い謎へと私達を導いていく。そもそも好太王碑の正面が南面しておれば、そこに「天子は臣下に対して『南面』する」という中国思想の影響を見い出せる。だが、好太王碑の正面はあくまで南東である(私達の団の前に現地に行かれた須藤隆氏のクリノメーターでの調査によっても、磁北から約四六度東である)。好太王碑は本来置くべき位置と実際に置かれた位置とがズレていると考えて、碑面の方位を処理できるだろうか。碑の高さ六・三九メートルもある巨大な一枚岩の角礫凝灰岩のことであるから、設置場所が当初の計画と若干のズレがあるのは免れない(事実、若干のズレはある)。しかし正面の位置をほぼ南か南西かへむけることは出来るだろう。正面をほぼ南東へ向けている事実を全てズレの問題としてすますことができるだろうか。
表V(如山と鴨緑江に面した好太王碑)の集安の地図はこの謎を解明する手かがりを与えてくれる。(23) 如山は現在は禹山と呼ばれている。その山頂から屋根を結ぶ線と好太王碑の正面とを結ぶ線とは、ほぼ直角に交叉する。しかも、将軍塚、好太王碑、太王陵を結ぶ線とほぼ平行になっている。好太王碑は建立当初から、如山を正面にして建立されたと考えるべきである。では、何故に如山を正面として建立したのであろうか。
第一面から第四面に書き込められた文字は、好太王の生前の功績をたたえるだけでなく、守墓人制度を明確にするために建立されたものである。墓碑であるならば、陵墓の山頂か墓の前に置けばよい。たとえ好太王碑のように巨大なものであっても、墓の前か横には置ける(従来このように考えられていた)。好太王碑建立の目的は墓守烟戸の制をハッキリと被支配民に告示する高札的側面があったと考えるべきであり、従って碑は好太王が重視した領域の中心的地域に立てられたものである。では、重視した地域とはどこか。
表Vの地図・表VIの図から解るように、「聖なる如山」(この概念は、現地で山田宗睦氏、古田武彦氏との議論に学んだものである)に向い、母なる鴨緑江にも誓って建立されたと私は考える。高句麗の始祖、鄒牟王の父は北扶余の天帝の子であり、これを如山と見、母を河神の娘とし、鴨緑江に具現させたと見ることができよう。この仮説は碑文の第一面の「惟昔始祖鄒牟王之創基也、出自北夫余天帝之子、母河伯女郎」とある文章にふさわしい場所を示している。地図に東崗、西崗とあるように、碑文のある場所は「国崗」という地域であった。好太王の諡号が「国岡上広開土境平安好太王」とあるのは、この聖なる国岡の地に埋葬したことを示す。
将軍塚の位置は、この国岡から離れすぎていて碑文と合致しないことが、この地図からも判明する。「聖なる」地域国岡にふさわしく、この区域には五[灰/皿](かい)墳、四神塚、角觝(かくてい)塚、舞踊塚等墓だらけといってよい位、おびただしく高句麗の墓がある。聖なる如山は、高句麗民族の「偉大なる始祖の父」を具現し、そのふところ(如山の山麓)は聖なる地域とされていたのであろう。
太王陵の表層部から出土した「願太王陵安如山固如岳」の文字磚(せん)は「太王の陵が山の如く、安らかで、岳の如く固きことをいのる (24)」(この訳は一般の考え方である。これに対し、如山・如岳を固有名詞ととり、太王陵を如山に安んじ、如岳を固めるを願うと読むと好太王碑の立地条件とよく関連する)とある。
私達が好太王碑に立った日も、中国側は太王陵を調査、整備していたので、正確な報告書を待ちたいが、従来の調査によっても、太王陵の東側に長さ二百二十メートルの堤が残っており、南側にも三百五十メートルの堤を確認している。耿鉄華氏によれば、陵園の総面積は少なくとも四平方キロメートルとされている。この「聖なる」区域に、好太王碑だけで国烟三十家、看烟三百家、合計三百三十家の守墓人が好太王の墓を守らさせられていたのである。守墓人にとっては、毎日太王陵の墓守りをさせられ、差別されて生き続けた。碑文に明記されたように、奴太王になってから奴隷として身売りされることはなくなったが、一生涯を死者の墓守り人として碑文にある通り縛りつけられたのである。守墓人制度は高句麗社会の厳しい社会構造を示していたのである。
この守墓人の制度を本格的に問題とすることなく、好太王碑研究はなされてはならない。当時の高句麗国家を奴隷制国家か封建制国家かという議論によって、この最下層におかれた守墓人制度の一層の解明がまたれるといえる。
註
(1).「好太王碑的発現和捶拓」と題して『社会科学戦線』(一九八三年四期、歴史学)において発表された。
(2).古田武彦氏は、一九七二年十一月十二日、東大で開かれた史学会大会で「好太王碑文『改削』説の批判」を発表され、その後、「好太王碑文『改削』説の批判 ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』について」(『史学雑誌』第八二編第八号)の論文においてまとめられた。更に「高句麗王朝と倭国の展開」(『失われた九州王朝 ーー天皇家以前の古代史』)において李説批判を具体的に展開した。
(3).最近古田武彦氏は「高句麗好太王碑」(『古代は輝いていたII ーー日本列島の大王たち」)において、王論文の意義を正確に評価され、かつその問題も指摘しておられる。
(4).シンポジウムのテーマは「四、五世紀の東アジアと日本 ーー好太王碑を中心に」ということであるのだから、奴太王碑改削説の李進煕氏、最近の改削否定説王健群氏の出席は当然ながら、学説史上最初の改削否定論者古田武彦氏への出席要請がなされなかったのは残念である。
(5).この公開討論会は王氏の来日にあわせて、東京、大阪の二会場、いずれでも王氏のスケジュール次第で参加していただくよう準備し、中国側に働きかけていたが、王氏のご病気と日程の関係で王氏の参加はいただけなかった。しかし、両会場とも約二百人の参加者を前に講師古田武彦氏と私とで、好太王碑研究の現段階の意義について深めることができた。
(6).二月初旬に私から王健群氏にあて直接差しだしたものと、別に雄渾社を通じて送付された手紙(翻訳して)に対して、王氏は吉林人民出版社を通じ雄渾社へ送付された。雄渾社は翻訳の上送って下さったものだが、間接ルートのため約一カ月以上を要し、結果的には王氏と対談をしている三月下旬ころに、日本に着いたものである。
(7).王健群氏が自ら指摘する誤りは、第二面第七行三十八字の“称”を釈文では誤って“衿”と書いている所であり、日本語でも文章中“矜(称)”としているのも誤りであると訂正された(王健群氏から私あての手紙より)。
(8).金錫享「三韓三国の日本列島内分国について」(『古代日本と朝鮮の基本問題』)参照。
(9).李進煕共著『古代日本と朝鮮文化』(プレジデント社)一〇八頁。
(10).王健群『好太王碑の研究』一八五頁。
(11).同書、一八五頁
(12).古田武彦『失われた九州王朝』二五三〜二五四頁。
(13).王健群『好太王碑の研究』一五九頁。
(14).同書、一一九頁。
(15).同書、一五七頁。
(16).王健群氏から私への手紙によると、再版時に改められるとのことである。
(17).末松釈文は、第四面第二行三四字を「二」と一つ多いために、合計「三一」となってしまった。
(18).大東急記念文庫本を大阪府立茨木東高地歴部の生徒達と復原して釈読したもの
(19).『周書』高麗伝、『東アジア民族史1』井上秀雄他訳注、一六三頁。
(20).『三国志』高句麗伝、同書一一五頁。
(21).文献によってデーターが違う。 耿鉄華氏によると約二百メートル、李進照氏によると約四百五十メートルとあり、太王陵のどこを基点とするかによって異なるものと思われる。中国側は現地調査をやっているようなので、いずれ判明する。現時点では地図上から算出した数値である。
(22).寺田隆信、井上秀雄編『好太王碑探訪記』五九頁。
(23).好太王碑と太王陵、将軍塚とのそれぞれの関連について、方向論から現地で古田武彦氏、永島暉臣慎氏らとの議論で認識を深めることができた。また、帰国後、渡辺好庸氏の提出された疑問に応える形で、私自身の考え方をまとめることができた。
(24).如山は現在、禹山と呼ばれているが、発音「如」は、ruであり、「禹」はyuであり、似ているが違う。(正確には違います。日本語では表示不可 ーーインターネット事務局)
〔追記〕
本稿を脱稿後に朴時亨著全浩天訳『広開土王陵碑」(そしえて)の出版を知り、訳者全浩天氏との対談で認識を深めることができた。碑文研究史上、全面的で体系的な研究であり、改削否定、倭=海賊説、守墓人研究といずれも王論文の先行学説にあたるものである。国烟の数が「三十一」と碑文に合致していない点、惜まれる。