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『市民の古代』九集 古田武彦とともに 1987年 講演録

景初四年鏡をめぐって

古田武彦

 今日は十一月の下旬に入りましてようやく冷えこんできました。お天気はどうかと心配していましたら、すっかり晴れてきました。前にはよく、わたしが旅行なんかに加えていただきますと雨がふりまして「雨男だ」、「嵐を呼ぶ男だ」といわれておりましたが、最近は「晴男」といった感じになりました。昨日も、一日旅行で滋賀県にまいりましたが見事な晴れでございました。
 本日は先程、藤田さんからご紹介ありましたように最後に質問時間をとってほしいということで、私の方から一方的にしゃべるだけではなくて、皆様のご質問をいただいて私の現在知っているところを申し上げる、これは非常に大事だと思っています。
 実は、今年の夏、中国にまいりました。去年も藤田さんや皆さんと一緒に好太王碑にまいりましたが、三月にも、また、八月にもまいりました。今度は同じ中国でも方向が全く違って内蒙古、それからシルクロードというコースに、私としてははじめてまいったわけです。この旅行の中で、私としては、多くの非常に深い問題にぶつかってきたわけでございます。こういう話も申し上げたいんでございますが、大変大きな話にもなりますので、それで時間がとられますと、本日予定したテーマの時間がなくなるということを恐れまして、その問題は後の方に回して、時間のある範囲で質問にお答えしたい。先ず、最初の問題について申し上げるというような形にさせていただいたらと思っています。
 さてそこで、表題では「古代王朝と近世文書ー景初四年鏡をめぐって」という風にさせていただきましたが、「景初四年鏡」云々という副題の方は、ご存じのようにこの十月に、「主題」が決まった後の時点で出てまいった問題で、これは是非、十分にお話し申し上げたいということでこの副題をつけていただいたわけです。ご存じのように十月四日でございますか、福知山の丘陵の古墳の中から鏡があらわれてきて、その一番奥まった一番高い場所の四号墳からあらわれ、その鏡の中に中国の年号、それも古代史の研究者、あるいは関心のある方は誰でもピンとくる「景初」という言葉が今回はっきりと、読める形で、一字欠けているという形ではなく、「景初四年五月丙午之日」ではじまる銘文をもっているということはご存じの通りでございます。

新聞報道の構造

 これをスクープしましたのは京都の人はご存じのように、京都新聞だったようで、十月八日の一面の大部分をとって出されたわけです。その後NHKテレビなんかが、午后・夜にかけて、何回かこの報道を流したようです。私の方はたまたま、仙台の外里富佐江さんという若い主婦の方ですが、元大阪の会に出ておられた方です。大阪の朝日カルチャーで「通史」をやっていました。「倭人伝を徹底して読む」の前です。あれにも出ておられた方で、その「通史」の中で、わたしが卑弥呼とは実は、「ヒミカ」と読むんだとはじめて言ったわけです。この時赤ちゃんがおられて、生まれる以前から決めていた名前のーヒミカ(コ)」ちゃんが会場にきておられましたが、ダンナ様の転勤で仙台で、読者の会を作られました。その方と会のことでご連絡いただいて話している時に「NHKのテレビで鏡が出たというのを見ました」とお聞きしたのが、私がその鏡の事を知った最初だったわけです。
 ところがその次の十月九日には、全国紙朝日、毎日、読売に報道されました。もっとも、これも細かい話になりますが八日の夕刊で、おそ版というのは紙面がすっかり変わるんです。新聞関係の方は常識ですが、そのおそ版で報じた全国紙もあるようです。まあ一般的には十月九日の朝、報道されたわけでございます。その後、大阪の朝日新聞の方から電話がかかってきました。そして「景初四年鏡」についてのコメントを求められたわけです。しかしその時点では、私は現物を見ておりませんので、お答えを避けました。現物を見ずにコメントをする、これは一番こわいことなんです。
 一つの例を申し上げますと、例の飛鳥から「日本書紀の原資料か」という木簡が出たという、あの報道があったわけです。私なんかもそれを新聞で見て、すごいものがでたなと、かなり日本書紀の信ぴょう性という、そういうものが確かめられるんだとこう思って非常に喜んでこの記事を読んでいたわけです。現地へとびこんでいったわけですが、その時岸俊男さんが責任者(橿原考古学研究所の所長)でした。京大教授であった岸さんですね。新聞記者と応答しておられるところをたまたま岸さんにお会いするために、同じ部屋のはしっこで待っていて、記者との応答を聞いたわけです。新聞記者の方々は「日本書紀の原資料ですね」「壬申の乱の関係ですね」と確認しているのです。ところが、岸さんは非常に慎重な方ですので、「そういうことまでは言えません」と一所懸命言っておられるわけです。ところがそれを何とか、その言質と言っては変ですが、岸さんの言葉を取ろうとして、各新聞社の記者が共同会見で“せめたてる”といったような、いわば、そういう状況をうしろで見るということになったわけです。
 つまりこれはどういうことかというと「日本書紀の原資料」ということが、その前に一部でていましたから、今度は壬申の乱に関係した事件であると見てよいですね、という形の質問が主になっていましたね。それを一所懸命岸さんが“おしかえして”おられたのを記憶しています。結局どういうことかというと新聞記者側とすれば、木簡がでた、木簡といえば簡単に言えば荷札のようなものですから、大和に住んでいる人物の名前なんかでてくるわけです。これは考えてみれば当たり前のことなんです。さて日本書紀の七世紀後半あたりになったら出てくる人物が架空の人物だなんて、そんなことをいう人はまずいないわけです。大和界隈に住んでいたに違いないわけです。
 だからその時あった国名がそこに現われるのは当然ですし、人名がそこに現われるのも不思議ではないわけです。しかし、我々からみると非常に大変なことだと思うんですね。たとえば、筆跡です。こういう点について七世紀後半の筆跡というのは私なんかもいくら見ても見足りないというか、いくらあっても不足だと、もっといろんな字について全部筆跡がほしいとこんな感じを常時しておったわけです。ですからすばらしい希少価値があるわけです。しかし、それは私のような研究者の立場であって、一般の読者を相手にしている新聞としては、それではニュースの「トップ」は、「一面」は、とれないわけです。「日本書紀の原資料だ」とこうやれば「トップ」がとれるわけですね。「一面」はとれる「記事」にできる。だからやはりそういうところに持っていこうとするわけです。
 ところが最初のコメントをする学者は「すばらしいですね。今回の出土は実にすばらしいです。日本書紀の原資料がでたということは最近にないことである。日本書紀の研究は大きく前進すると思う。」こういうコメントをだした学者もいたわけです。ところが、実際は、あとからのやりとりを私が見ますと、最初の第一報の段階では、コメントした人は「現物」を見ていないわけです。新聞記者の方は電話で「今度出土した木簡は、もしかしたら日本書紀のもととして使用されたという話もありますが」とこういう風に電話の向うでいうわけです。現物を“見ていない”学者は、「それはすごい話ですね」とこうくるわけですね。学者が「日本書紀の研究のためにも大変な進歩になりますね」とこういうとそれが記事にパッとでるわけですね。ところが実際に現物から見ますとすぐわかりますように、「日本書紀の原資料」という場合は少なくとも文章が出なければいけないわけです。文章が出て、その文章が、日本書紀の文章に一致していれぱ、「これはやっぱり原資料」という話しになっていくわけです。
 ところが実際には単語だけだったら、今言ったようにその人物がいたことは間違いないわけですから、単語がでたからと言って「日本書紀の原資料だ」ということにはならないわけです。というようなことが段々にわかってきました。皆さんのように古代史にくわしい方は違いますが、一般の読者は「日本書紀の原資料がでたらしい」という見出しだけを頭にセットしておられる方が日本全国の大多数じゃないかと思うんです。実際は、皆さんだったら、そういう性格のものではなかった、ということはおそらくご存じだと思います。それでその学者にすると“あの第一報は大分オーバーだったな”“でも、新聞だからしょうがない”という形で、何とか了解している、という構造があるわけです。

改元の詔勅

 それ以来、私はつくづく思うんですが現物を見ずにコメントするということは、これはさせる方が悪いとも言えますが、新聞社側にすれば、やむをえない点もありますから、やはり答える側が、そこは慎重に応答しないといけない。やはり、“現物を見て”責任ある答をするという、そういう姿勢が大事だと私はつねづね思い、そのようにしてきているわけです。今回、またそういう問題にぶつかったわけです。私としましては、現物を見ていないからはっきりしたことは言えないと申したわけでございます。現物を見ない段階で質問を受けた内容がですね、いわゆる「景初四年」という年号がでていると。これは朝日新聞の朝刊にでていましたからそれを見てもらっても間違いないんだと。「ところがその景初四年という年号が暦にはない、ちょっとおかしいんじゃないかという話がでているんだが」という質問をいただいたわけです。私としましては、その点は暦にないからと言ってですね、にせものというか ーーにせもの説は出ていなかったんですがーー 疑問だとか、疑わしいとは言えませんよということをお答えしたわけです。
 これはですね、簡単に問題の性格を理解していただくために、私の個人的な話をさしはさまさせていただきます。私は還暦を迎え、還暦の祝いをしていただいて、非常に恐縮に存じたんですが、大正十五年の生まれでございます。ところが大正十五年は同時に昭和元年であります。昭和元年生まれの方は非常に少数というか少ないわけです。つまり十二月の二十五日ですか、おしつまって大正天皇がなくなるということがありまして、昭和になったわけです。昭和元年の人は、三六五分の六位の人しかいないわけです。ところが、こういう年号の変え方というのは、我々はそういう形で明治以後、経験していますが、必ずしもいつもそうだとは限らないわけです。たとえて言いますと、景初でいいますと景初三年がすんで、景初四年になって、たとえば景初四年の一月十五日というような時に、改元の詔勅がでたとしますね。そういう場合、改元の詔勅の出方は、二種類考えられるわけです。というのは現在の大正、昭和の場合のように一月十五日から正始元年とするという、そういうやり方があるわけですね。言い変えると、景初四年は十四日間、つまり一月一日から十四日間が景初四年ということになるわけです。
 しかしもう一つのやり方があるわけです。十四日間さかのぼって正始元年とする。というのは、元旦がなくて元年とするのは景気が悪いから、十四日前の「元旦」を正始元年元旦とするという詔勅が出るというケースがあるわけです。こういう場合は、実情は景初四年というのは十四日間あったんだが、しかし暦の上ではそれは消されてしまう。つまり「景初四年はなかった」事になる、というようなやり方もあるわけです。これは「どの王朝も必ずこのやり方をする」という事が決まっていれば楽なんですが、歴史学の上で、かならずしも ーー 一定の傾向ぐらいは、ありますが ーー 決まっているとは言えないわけです。細かい話をすれば、前になくなった天子と新しい天子との関係ですね。仲が悪いというか、対立するような、何かの派閥活動で、次の天子が登場した場合と、自然に親子の関係でつづいたという ーー大正昭和はそうでしょうけどーー これらのケースとまた違ってくるという事はあるわけなんです。
 要するに一つ一つ、確認を取らなければいけないわけなんです。ですから、今、言っていることは、一つまあ仮定した例で言ったんですが、暦の上で「その年号がない」と言っても、それでは現実になかった、歴史上の事実としてなかった、と断定はできない、という事があるわけです。有名な例では、例の三一六年、西晋が滅亡しています。そして暦の上では東晋になっているわけです。西晋は洛陽を都としておりました。全国支配です。東晋は、今度は建康、今の南京ですね、そこを都にした。中国のほぼ南半分の支配です。ところで、東晋の年号に“暦の上では”なっているわけです。しかし実態は、そんなに簡単なものではなくて、中国の中の、ある「地方」では西晋の年号がずうっと使われ続けられたんです。事実は、そういうことです。
 だから、そういう場合はそういう実態に則して考えていかなければいけないわけです。ですから暦に無いからと言って、それをいきなり“にせもの”であるとか、疑わしい、とかいう風に見てはいけない ーーと、これは一般論として私は、この時お答えしたわけでございます。ところがその時は、学校へ出る直前で、忙しくて、調べるヒマがなかったもんですから、あと帰ってきて調べてみますと、どうもこのケースでは、今私がもうした一般的な心配、ある意味では慎重さですが、それは当たらないという事が、はっきりしてきたわけでございます。と言いますのは、『三国志」の少帝紀斉王というところを見ますと、第三代の天子になりますが、ここを見ますと、景初三年正月に第二代の明帝が死んでいるわけです。卑弥呼が使いを送った時の魏の天子ですね。彼が死んだ。前年の景初二年の十二月に病気になって、景初三年の正月に死んだ。まだ若い、壮年の天子だったんですが、亡くなったんです。それで、その後、斉王が位についたわけです。ところが位についてすぐ年号を変えるというやり方を斉王はしなかったわけです。代って「この一年間、明帝の喪に服してすごす。だから年号も改めない」という意志が表明されたわけです。
 そうしておいて、十二月になって、この正月と十二月の間に、倭国との交渉問題なんかがでてくるんですが、その後十二月になって、斉王の詔勅がでてくるわけです。これがいわゆる改元の詔勅なんです。要するに翌年からを正始元年とするという詔勅です。ここに十二月のあつかいをめぐったちょっとした注釈が入ってきます。いわゆる殷の暦、夏の暦の問題をめぐってありますが、今はこれは、直接関係ないので省略いたします。要するに「正始元年正月」にするんだという予告の詔勅がなされるわけです。この場合に、十二月の何日に出されたかという事は書いてないんです。だけどおそらくこれは十二月の三十一日とかいうんじゃなくて、十二月の上旬とか、そういう時ではなかろうかと思われるんです。なぜかと申しますと、その洛陽で年明けて改元しますとこう言いましても、これを全国に、中国の天子が統治している各地に知らせるというのはこれはなかなか時間がかかるわけです。早馬で知らせるとか、早駕籠で知らせるとか、かなりのスピードで伝わっていくらしいんですが、それでも一週間や二週間はどうしてもかかります。
 そしていよいよ年あけて、といいますか、その正始元年の正月に全国で正始元年の正月を祝うという、そういう予定のプログラムに従って詔勅が出されたというケースだろうと考えられます。一年前から喪に服するといってちゃくちゃくと準備していたわけですから、年が明けたら変わるんではないか、という予想はみんな持っているわけです。そういう予想の上に立っていよいよ「改元の詔勅」がだされるという、まあ理想と言えばおかしいかもしれませんが、そういう、よく準備されたケースである。こういうことは帝紀を見るとわかりますので、こういう立場にたって考えると、このケースはさっきいいましたように、実際は、景初四年があったけれども、暦の上でないだけだ、とこういうケースにはちょっと考えられない。一般にはどっちともいえない、というケースも多いんですよ。しかしこのケースは、どうもそういう心配をする必要はなさそうだ。一般論としてはいろいろありえても、このケースについては、ちょっといえないケースであるということが、帰って資料を調べているうちに私には確認されてきたわけです。

「中国」と「夷蛮」

 そうなりますと、現実にそういう「景初四年」と見える銘文の文字がある、という問題はどうなるのか、ということが次にでてきます。今の問題について、実は「残された領域」があるわけです。今申しましたのは、「中国の天子が直接支配している領域」に関することでございます。ところが、それよりほか、つまりあまり使いたくない言葉なんですが、古代中国では、自分達のことをまさに「中国」という言葉が示しますように、まん中の国である。そして天子のいる国である。またその民が中華の人間であると。それに対して、周辺の民族はいわゆる「夷蛮」、ふさわしくない表現かもしれませんが、一段“格の落ちる”連中である、という、現代で言えばまさに「民族差別」です。古代東アジアでは、中国側が正規の文書、正史をもってですね、まさに中国人と周辺の民族とをはっきりと「差別扱い」をした文書を出し、正史をだしています。それをまた喜んでといってはおかしいですが、周辺の民族も受け入れる、という、そういう時代であったことは、これはもう事実でございます。
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。もっと他の言葉でいい言葉があれば、と考えたのですが、ちょっと思いつかずにきているんですが、またいい言葉があれば教えて下さい。今はこの言葉を一応かっこつきで使わせていただきます。つまり、今言ったことの次、第二の側面として、いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。もちろん「正式」以外の伝え方もありうるわけでしょうが、これはあとにまわして、一応正式にはですね、そういう形で伝えられるその周辺の国がどの位の年数をあとで使いがくるかということは一定できません。遠い国もあれば近い国もありますので、三カ月後にくるのもあれば、半年あとにくるのもあれば、一年後にくるのもあるでしょう。
 そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
 さて、まず最初に京都新聞、ついで各全国紙で報道された時「景初四年鏡がでた」。そして、「それは中国製である」、「とすると三角縁神獣鏡も ーー盤竜鏡という名前で伝えられていましたがーー 盤竜鏡と同種類の鏡であるから、三角縁神獣鏡もまた中国製である」と。そこで「三角縁神獣鏡が中国製であるとすれば、魏から卑弥呼(ヒミカ)に送ってきた鏡も三角縁神獣鏡と考えてよろしい」と。とすれば「邪馬台国はやっぱり大和、つまり近畿説が正しい」と。ま、こういう形に話が論理的につながっていたわけです。
 もしたった一面の鏡の性格いかん、というだけの話だったら、新聞の第一面のテーマにはなりませんよね。鏡なんかあちこちからでていますから。ところが実は、でたのは一面の鏡だが、これによって全三角縁神獣鏡が中国製か、あるいは国産かという、それを判定する鍵なんだ、それは同時に邪馬台国が九州だか近畿だかというそれをうらなうキイポイントになる。これが中国製だということになると邪馬台国は近畿だ、やっぱり卑弥呼は近畿にいたという話になってくる。 ーーこういうニュアンスが京都新聞の第一報や全国紙の第一報でも、にじんでいたことを、おそらく古代史に関心の深い皆さんはお見のがしにはならなかったと思うのです。
 なお、今度は私自身が経験した一つのエピソードを加えさせていただきますと、今回の京都新聞の第一報ではですね、鏡の研究家としてナンバーワンの専門家である京都大学の名誉教授になっておられる樋口隆康さんが、コメントというより、この方の判定というものを基盤にして記事がつくられていたことを、京都の方はご存じのことでございましょう。全国紙の場合も朝日新聞など、この型の記事のものがあった、と思います。私は、あとで京都新聞の第一報をみて、あれ、と思ったのです。というのは京都新聞の一面、ほとんど全部とったようなスクープで樋口さんが次のように語っておられるんです。「私はまだ現物は見ていない。いないが、写真で見るとどうもこれは・・・」という、そういう話しになっているんです。各地の皆さんがご覧になった分では、そういう形のコメントはなくなっていたと思うんです。そうなんです。これはさっき私がいいました、学者の不幸なケースという感じもいたしました。それはさておきまして樋口さんが非常に喜んでおられる様子も紙面から伝わってきました。
 これには私の個人的な経験から見ても、わかるところがあったんです。樋口さんのところには京都にいる時分、しょっ中おうかがいしていました。何か間題があると樋口さんの所におうかがいしてそのお持ちの資料を見せていただいたり、見解をお聞きしたりしたわけです。同じく、同志社大学の森浩一さんの所にもしょっ中おうかがいしてご意見をお聞きしたり、関係の資料を見せてもらったわけなんです。これは私自身の研究の基本的な姿勢でこさいまして、京都におります時 ーー今でも基本的に同じですがーー 単独で研究しております。しかも非常に今まで言われていないようなこわいテーマにぶつかっている。私にとってこわいのはこういう時、ひとりよがりになって、自分だけの思いこみで袋小路に入ってしまうということがやはり一番こわいわけです。自分が学界で常識になっている資料を知らないがためにまちがって“思いこんでいた”というケースもあるんじゃないか。あるいは今までにもすでに、こういう風に考えられていたのに、それを知らないために、自分が一人で喜んではいないか。そういうことは ーー親鸞研究の時もそうでしたが、古代史研究の時にも、絶えずあったわけです。そういう場合に、そういうものに対する私自身の対策としては、その問題についての権威者というか、あるいは学界の常識をもっている方、あるいは非常にすぐれた論文や本を出している方、その方に直接ぶつかって、何回もぶつかって、当面の問題点をただす、というやり方を親鸞の場合にも、また古代史の場合にも、やってきたわけです。そういう中でやはり、「ああこういうことであったのか」と、学びながら、そして自分の考え方を確かめてきていた、というわけです。
 そういう方々は私にとって非常にありがたい存在であったわけです。親鷺研究における藤嶋達朗さんとか宮崎円遵さんとかいう方々、あるいは古代史では、考古学の方々で樋口さんとか森さんとかいう方々のところに私はたえず、遠慮なしに、何かおきたら飛びこんでいった。そういう方々は忌憚なく私の質問に答えてくださったという経験があるわけです。もちろん樋口さんと私は意見が全く違います。樋口さんは三角縁神獣鏡が卑弥呼のもらった鏡である、という見解をもっておられる方である。「卑弥呼の鏡」という論文もございます。にもかかわらず私にはしょっ中いろいろと見せてくださったし、またしょっ中教えてくださった、という方でございます。

筆跡と字体

 ところが、ある時、樋口さんが私におたずねになった。というのは、例の「景初」の「初」が見えない鏡がございます。たとえば、黄金塚の画文帯神獣鏡、また島根県の神原(かんばら)神社の三角縁神獣鏡、いずれも「景初」の「初」が読めません。また正始元年と呼ばれるもので「正」が欠けているものがあるわけですね。あれについて「古田さんは何という字だとお考えですか」ということを、行った時に聞かれたわけです。「いやあれはないから言えません」とそっけない話なんですが、そうお答えしたわけです。「何か、朝鮮半島あたりの年号とお考えですか」と聞かれたので、「いやそれもわかりません」と。「そういう可能性があるかも知れませんが、そうであるとはわかりません。ないから読めない。出てきたらそれを読む。というのが私のやり方です。」という事をお答えしたことがあるわけです。「ああ、そうですか」。何かこう、消化不良みたいな感じで言われまして、それ以上おっしゃられることはなかったわけです。しかしまあ、樋口さんが私の論点「ないものは読めない」と言っていることを、強く意識しておられる、という事がよくわかったわけです。そういう私自身の個人的な経験があるわけです。
 まあ言っても別に失礼にはならないと思いますが、魏の年号鏡として、“景初四年という年号のあることがはっきりと言える鏡”が出たということで非常に喜んでおられるのが、新聞記事を通じて、ひたひたと伝わってまいりました。特に樋口さんが言っておられるのは、島根県の神原神社の景初三年鏡と比較してこれは非常に「筆跡」と言うか「字体」が、似ていると。だからこれはどうも、偶然の関係では無いというコメントを入れておられるのが印象に残りました。つまりここで、樋口さんが言っておられるのは、これは盤竜鏡一面の話ではなくて、これが中国製である、すなわち景初という魏の年号をもっているから、中国製である。とすればこれと同類の性格を強く持っている神原神社の三角縁神獣鏡も中国製になる。とすると、他の三角縁神獣鏡もみな中国製になる、わけです。こういう論理の連鎖を樋口さんがお感じになっている様子が、私にはまざまざと伝わってきた。特に京都新聞の第一報で見たとき、伝わってきたわけです。
 さて、こういう自分の個人的な経験を思いおこしておりましたが、今や問題は実に“逆転し始めた”感じがあるわけです。なぜかといいますと私が今申しました、いわゆる年代論です。景初四年論から言いますと景初四年という年号は中国内で天子の直轄領内でつくられた金石文ではあらわされない性質の年号である。特に洛陽で、中国のド真中で作られた鏡でこういう年号があらわれることはおかしい。まして実際に魏の明帝の意志を実行したのは斉王の時ですが、その斉王が卑弥呼に送ってきた鏡に“存在しなかった年号”があったんでは格好がつきません。自分の方が「景初三年」までで、この「景初」の年号は終りだ。もう年が明けたらこの年号は使いませんよ、というおふれを景初三年の十二月に出しておいて、おふれに反した景初四年という年号鏡を倭王のところへ送る、これはもう全く自己矛盾もいい所で、全くこれはありうる話ではない。天子はいちいち忙しいから、単なるミスだろうと言えばおしまいですけれども。そういうミスを、中国製にしたいという自分の都合のために“しくむ”のはやっぱりフェアではない。素直にというかスムーズに考えた場合、これはやはり中国本土でつくられた、なかんづく洛陽でつくられた、さらになかんづく魏の天子が倭王たる卑弥呼に送った鏡ではありえない。
 じゃ何がありうるのかと言えば、日本列島における国産鏡、いわゆる「夷蛮鏡」なら、ありうるわけです。もちろん、日本だけでなく、中国の東西南北、いわゆる「夷蛮」の地であれば、いいわけですが。しかし、今、日本列島で出てきているわけですから、まず日本列島という「夷蛮の地」と考えるのが一番素直でしょうからね。日本列島という「夷蛮の地」で製作された鏡、国内鏡ですね、国内生産鏡としての性格を非常に明確に持っている、漢字の文面で証明している、というそういうケースであるということに“逆転”してきたわけでございます。
 なお念のために申し上げておかなければいけないのは「五月丙午之日」という言葉でございます。これは考古学界では、ご存じのように吉祥の意味をもった“決まり”文句でありまして、必ずしも文字通りにとって「五月の真最中につくった」というものには限らない、ということはよく知られています。
 なぜかといいますと丙午(ひのえうま)というのは、日本では非常によくないイメージがありまして、「ひのえうま」生まれの女は男をくい殺す、などと言われて、現に、その「ひのえうま」生まれの子供が少ないという話が現代でもある位です。これなんか、はっきりいいまして、いわゆる迷信であります。その迷信も中国系でない迷信で、これも国内産の迷信です。中国ではどうも、「ひのえうま」の女は結婚相手に具合が悪いなんて話を聞いたことはありません。もちろん、現代中国でも「迷信」はかなり残っているとは思いますよ。民間においては、「迷信」はかなり残っているとは思いますが、「ひのえうま」の女はダメだという「迷信」はまだ知らないわけです。これは現在わたしの理解するところでは、おそらく日本列島産の迷信であろう。というのはですね「ひのえうま」というのは結局“いきおいがよろしい”馬が非常にいきいきとしてはつらつとした姿を示しているのが「ひのえうま」です。ですから「ひのえうま」の女というのはいきおいがよい、活発であるわけです。活発であって、いきおいがいいのが嫁さんに不適当である。だんなさんを上廻るからダメだと、おそらくこんな話になっていったんでしょうね。
 中国の十干十二支という、いわゆる暦の編年が日本列島では非常に権威をもって“新しいもの”“舶来”といいますか、一種の権威をもったものとして受けとめられていた時期があったんではないか。もちろん日本列島産の縄文時代以来の「迷信」も、当然あったと思うんです。本当に「迷信」かどうかはわかりませんけどね。この時代は一つの“生活の知恵”だったのかもしれませんが、時代が移るにつれ、「迷信化」していったものかもしれません。それは“古くさい”「迷信」と見て信用しなくなっている若い人にとって、中国という新しい先進国の暦に結びつけた迷信は、これは迷信じゃないという形で受けとられるふんいきがあったんではないでしょうか。この辺もまた研究なさる方があるとおもしろいと思います。と言うのは、現在でもこれと似た事件が起こっています。例の血液型で何かA型とかB型とかO型とかいうものですね。それが年配の人間よりも若い女性なんかが飛びついている、という現象があるわけです。
 それはともあれ、丙午というのはいきおいのいい日である。もちろん五月もいきおいのさかんな月でありますから、五月丙午というと、火が非常に燃えるのにさかんな月である。だからその時は鋳造物をつくるのに非常にふさわしい、この時につくった金属製品がこわれない、と。これも迷信と言えば言えなくないかもしれませんが、吉祥の“お目出たい言葉”として「五月丙午之日」の句が選ばれているわけです。実際は四月につくっても五月丙午の日と書く、六月につくっても五月丙午の日と書くというケースがあるということが知られているわけです。ただし、「正月丙午之日」というのもあるので一月、二月につくっておいて、「五月丙午之日」と、はたして書いたかどうかはちょっと疑問なわけです。こういう問題も含めて、どうにも「景初四年五月丙午之日」という表現は、中国本土内ではできえない、もしくは大変できにくい、ということになるわけです。これは中国産ではなくて国内産、いわゆる「夷蛮鏡」というべきものであろう、という結論になってくるわけなんです。

反字と逆字

 なお、次の問題があります。この鏡には、ひっくり返した字、「反字」という言葉、これもあまり安定した言葉ではないと思いますが、使われております。「陳」という字体が鏡に映したもののようにひっくり返っているわけですね、反字です。更に「孫」という字、右の方では三行目の最後、左側の方は、読み下しが書いてありますので「=孫」と書いてあるから、“糸辺に子”という字があるのがおわかりでしょう。これも私が作った言葉なんですが左右逆になっているので、「逆字」という風に呼んでおります。「逆字」という言葉はおそらく、辞書を見てもないんじゃないでしょうかね。もちろん「ない」ということには意味があって、中国ではあんまりこういう字は使わないから、「ない」ということなんでしょう。

景初四年鏡銘文

(文言は、読むために並べた参考です。逆字があります。画像を見て下さい。)
景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人[言名]之位至三公母人[言名]之保子宜[糸子]壽如金石兮
〈読み下し〉
(一) 景初四年、五月丙午之日
(二) □(=陳)是(=氏)、鏡を作る。吏人、之に[言名]すれば、位三公に至り、母人、之に[言名]すれば、子を保ち[糸子](=孫)に宜(よろ)しからむ。
(三) □(=壽)は金石の如し(□=兮(ケイ)=終尾辞)

 今回、早速福知山に飛んだのですが、市役所の三階でしたか四階でしたか現物を拝見したわけです。最初、現地にまず行って、あと実物を拝見したわけです。本当にもう目をこすりつけるようにして拝見し、手にとって、存分に拝見できたわけです。そうして見てみますと、実は「反字」の類はこれだけではなかった。読み下しでごらんいただければわかりますように、「寿(じゅ)は金石の如し」と。銘文ですと最後の行の先頭に変な様に書いているでしょう、これは苦心して反対に書いてみたんですが、これを新聞では「嘉(か)なること金石の如し」という風に報じていたわけです。それで朝日新聞の方からの問い合わせの場合も、「『嘉なること金石の如し』となってますが、これはどうでしょう」ということが言われましたが、「聞いたことがありませんね。普通は『寿は金石の如し』なら、よくあるんですが、『嘉なること金石の如し』はちょっと、聞いたことがありません。」こう言ってたんです。ところが、実際に現地にいって、現物を拝見しますと、これはやはり「寿の反字」である。“ひっくり返し字”である。いわば「鏡字」であったわけです。見ていただければ分かりますように、「壽」という字をひっくり返してみると、下の「口(くち)」が向かって右側にきます。そうすると「嘉」という字に似てくるわけです。最初にこれを読まれた方が、「嘉」と判断されたわけですね。誤報といえばおおげさですが、字をあやまって判断されたわけです。実際は「寿」のひっくり返し字であったわけです。それで今度は、最後の「兮(けい)」ですね、ケイという音の字ですが、普通日本の読み下しでは読まない字ですが、これが明白に“ひっくり返し字”「反字」になっていたわけです。その他にもですね、「反字」とおぼしきものがないことはありません。たとえば「母人」の「母」など、「あれも『ひっくり返し字』かもしれませんね」という話が、現地ででたんですが、そういえば言えないこともないかもしれないが、しかしこういう字は大体左右似ていますので、これが本当に反字であるか、あるいはこういう書体であるか、ということはそうすぐ判定しにくいということで、これはあえて言わなくてもいいだろう、ということになったのです。
 しかし、今あげました「陳」とか「寿」とか「兮」とか、これははっきりした「反字」であるわけです。「孫」もはっきりした「逆字」です。それらは確認できたわけです。これにつきましてもですね、こういう「反字」が中国であるかないかという問題について、最初電話がかかってきたときから話はでておりました。「中国製でも、こんなの、よくありますよ」という意見の方もあったことも聞きました。この場合、ちょっと注意しなければいけないのはですね、「中国製でもよくありますよ」というのが、後でよく聞いてみますと、三角縁神獣鏡だったと。つまり、「日本産」の三角縁神獣鏡ですね、これは確かにあるんですよ。それを「中国製」という立場にもちろん立っている人が「中国にもありますよ」という返答になっていたことがわかってきた、そういうケースもあるんです。
 これじゃ私の方は困るわけですね。だから“文句なしの中国製”にそれがあるかないかが問題のポイントなわけです。私はありていに内輪話を全部申し上げさせていただきますが、字の問題について、やっぱり問題がでたら、いつも意見をお聞きする方があるのです。私は無知無学な人間ですから、こういうことはいくらやってもやりすぎることはないわけです。京大の尾崎雄二郎という方で、かつて『三国志』の魏志倭人伝の版本をもとめるという探究をやりました。この時もやはり、古代史の学者にとびこんでいって意見を聞いたわけです。ところが、意外に日本史の古代史の学者は、「三国志』の版本の問題について無関心というかあるいは知らない人が多かった。そういう事情を知ったわけでございます。この点は、『「邪馬台国」はなかった』の中で、最初の所に書いています。なかにはご親切に、「やめなさい、あなたは親鸞だけやっていればいいですよ」ととめてくれた学者さえいたんです。そういう中で『三国志』の版本を教えて下さったのは、当時京都大学の教養部の助教授をしておられた尾崎雄二郎さんであったわけです。二十四史百納本を私に貸して下さった。私にとっては、非常に大きな喜びでありました。その後、数奇な運命と言いますか、尾崎さんと邪馬一国問題をめぐって論争するような局面がでてまいりました。尾崎さんはあれですね、卑弥呼を「ヒムカ」と読まれて、それを宮崎県の「日向(ヒムカ)」に関係するんではないか。壱与(イヨ)を四国の「伊予」に関係するんではないか、という、そういう向きの論文を書かれたりしました。私は立場は違っておりましたので、邪馬一国の問題について反論させていただいたことがあったわけです。にもかかわらず、それ以前にも、それ以後にも、論争にもかかわらず、私はとびこんでいって「文字」の問題についておたずねすると、非常に端的に、親切に、自分達の中国学の者の判断、学界での判断、ご自分の判断をのべ、また資料というものを何の忌憚もなくお見せいただく、そういう方です。有難いことといつも感謝しています。
 この方に、今は東京と京都に離れていますので、失礼ですが電話でお聞きしたわけです。そうすると尾崎さんは「先程のような文章は、中国ではちょっと考えられませんね」という判断を示されました。特に今の「反字」の問題について、「通常の文章や金石文などを含めて、鏡のことは、私(尾崎さん)はよく知りませんが、一般の金石文ではそういうものは見たことがありません」と、いうことなんですね。ただちに何のけれん味もなくお答えいただいたわけです。まあ、これは常識かも知れませんが、こういう金石文や中国の文章に絶えずふれておられる尾崎さんの判断として、的確にお答えいただいたわけです。
 中でも特別の問題をもっているのは「陳是」の「是」です。この字は「氏」と同じと考古学界では梅原末治さん以来、言われていますが、実際はこれは「名前」かもしれません。それは別として、“「陳」という人が鏡をつくった”という文が先頭にあることは、明らかです。つまり、「陳」という人は、鏡を作ったご本人であるわけです。“ご本人が自分の名前をひっくり返して書く”というのは、ちょっと考えにくいことです。皆さん、ご自分の名前をついひっくり返して書くということがありますかね。ちょっとないわけです。「古田」なんていうのはひっくり返しても古田ですが、「武彦」になると「武」なんていうのは面倒になりますね。ということですから、“ご本人がひっくり返して書く”というのは、ちょっと、ありにくい。大体文字を知っている人間が“ひっくり返して書く”というのはむずかしい。知らぬ人間なら、どっちでも同じかもしれませんね。なまじ知っている人間がひっくり返して書く、ということは、漢字では起りにくいわけです。“意図して”やらないと、なかなか“うっかり”とはできにくいわけです。そうすると、これはどうもご本人が作った鏡ではないんではないか、という問題がでてくるわけです。
 この点については実は私も電話で申したんですが、すでにそれを強調しておられたらしいのが森浩一さん。森浩一さんがどうも本人が「陳」をひっくり返したのはおかしい、と語っておられたのが、新聞にも載っていました。森さんの判断は基本的に正しい、とこういってよいだろうと思うわけです。
 他にも、日本列島の中から出てくる墓の中には「陳」とか、作鏡者にあたる字が、ひっくり返っているケースが時々出てくるわけです。これも今回と共通のテーマが存在するわけでございます。鏡を作るとき、「モデルになる鏡」があって、その「そっくりさん」を作るのが一番簡単なわけです。つまり、粘土を平たくしておいて、それに鏡をバァーと押しつけて、それを取ったら、そこに“そっくり”が写るわけですね。ところが一字だけひっくり返ったのを作ろうと思うと大変です。大変むずかしいでしょうね、“全面そっくりさん”が一番楽なんです。この鏡のように一部分だけひっくり返ったり、逆になったりしているという現象は、技術的には大変むずかしいことをやっているわけです。うっかり寝ぼけてやったから、一字だけひっくり返った、二字だけ逆になった、ということには、ならないわけです。

ミスか故意か

 問題を原則的に立ててみますと、こういう「反字」や「逆字」の生じるケースとして、ミスで生じるというのが一つと、もう一つは故意にそういうことにしたというケースが一つ、この二つ以外にはないですね。ミスか故意です。そして見るとですね、この場合、さっき言ったことからいいますと、ミスであるというケースはもちろんおいておかなければいけませんけれども、どっちかと言うとミス説にあたる可能性は大変少ないということです。でなければ故意になるわけです。「故意」とは何か。「反字」というのは、中国や、ことに日本では現象としては存在するんですが、これの研究というのは従来、あまりないんですね。考古学者でも、文字学者でも、それ自身を研究対象にして研究した本なんかを、私は見たことがないですね。ことにこういうのが多い、日本の中では、そういう研究者がでてしかるべきだと思うんですが、まだ、でておりません。特に、鋳造した職人は語ってくれないわけです。工人は無口である、ということのようです。
 中国でも日本でも「こういうことをなぜやったか」ということについて何か、記録を残してくれれば、日本の方でも中国の方でも、それはまた、貴重な資料で論じやすいのですが、そういう記録がないわけです。そういう作った人自身の証言によってではなくて、結果を見て、我々がその理由を想像するより仕方がないわけです。そこで考えてみますと、さっき言ったようにペッタンコ、ペッタンコで“全面そっくりさん”を鋳造した場合には、これは言わば、「偽造」になりますね。“陳さんがいない”場所でも、いくらでもつくれるわけです。陳さんが死んでも、陳さんのとそっくりの鏡がいくらでも作れるわけです。作る側から言えば、そのほうがいい、つまり陳さんご本人がつくった本物と見られたら、結構だ、というような人もいるかもしれない。そうなると「偽造」です。陳さん作と思って高く売れれば結構。ということだったら、完全に偽造じゃないですか。「職人は偽造など、お手のものだ。」という考え方もあるかもしれません。
 しかし、それとは逆に「職人こそ潔ぺきだ」という考え方も、あるわけです。結局、潔ぺきな人も潔ぺきでない人もいるんでしょうが、工人が「偽造であると見られることを欲しない」という場合、その場合には、一部分ひっくり返す、というやり方がありうるわけです。それを単純にご本人が間違えて、自分の名前などを“うっかりひっくり返す”ということはちょっと考えられません。また何か意図があって、自分で字をひっくり返して書くというのも、ちょっと考えにくいですね。そうすると、せっかく“ひっくり返してある”のにこれが「偽造」と思ったら、それは思う方が悪いのです。
 「偽造でない証拠にこのようにひっくり返してあります」という可能性もある。特にこの場合なんかは、陳さん、陳だけじゃなくて全体の文章としてまして、この「景初四年五月丙午之日」という第一行がひとまとまりの文章、読み下しの方がそうなっていますのが、第一番目。「陳」から「保子宜孫」までの第二番目がひとまとまり。第三番目が「寿如金石分」と、おめでたい文句でひとまとまり。その第二番目の先頭の「陳」と、そして最後の「孫」と、「反字」もしくは「逆字」になっている。そしてまた、三番目の先頭の「寿」と最後の「号」が「反字」になっている。という具合に、何か、文節の最初と最後を変な字にしているという感じがあるわけですね。そうしますとこれは、ミスではなくて、何か意図してこういう風にしたんじゃないかということがうかがえる、そういう傾向をもっている。「反字」をやる人は、必ずこういう意図でやるという事にはなりません。しかしこの鏡は、どうもそういう性格を持っているようである。そうすると、いよいよもって、これは「偽物」ではなく、「模造鏡」であるという性格を持っているのです。
 さて、この問題について『週刊読売』で書いた時、「反字」などは現実的には、中国でもあり得ると、こう書いたんです。はじめ『週刊読売』から「これについて文章を書いてくれ」とこういう申し入れがありました。それで何人か合わせて、私もコメントを出すのかと、思っておりましたら、「原稿用紙十枚書いて欲しい、私一人だ」という話だったんで、びっくりしました。「それにしてもまだ実物を見ていないから書けない」とことわったんですが、それでも、なお是非書いてほしい、という話がくり返しありました。その結果、「実は今晩発って福知山にいくんだ」という話をしましたら、「それじゃあらかじめ、十枚のうち、何枚か書いてもらって、それに現地で見たことを一枚分か、二枚分でもつけ加えてもらえないか、現地の通信局からファクシミリで送ってもらえればよい」と。「ではやりましょう」という話になりました。
 あらかじめ、さっきもいった、現物を見なくても言える、論理的な問題を八枚分、書いておいた。その上で、現地に行って現物を見て、すぐ読売の通信局に行き、原稿用紙二枚分書きまして、すぐファクシミリで東京へ送ってもらった。最近はなかなか便利になったと思います。その文章を見ていただきますと、この二枚分がはっきり、それとわかる形で書いてございます。東京にいる時、書いた文の中に「論理的には、これは中国でもありうる」と、今、言いました「反字」「逆字」の問題を書いたんです。
 私は、福知山に、次の朝早く立つ、その前の日に書道美術館(台東区根岸二ノ十四)にまいりました。これは、東京の上野駅のとなりの鶯谷の駅から十分ばかり歩くと書道美術館、中村不折さんという、明治、大正の書道の第一人者と言われる人ですが、そのお子さん ーーお子さんといっても七〇歳をすぎておられる方なのですーー がその方が館長になっておられます。中村不折さんが所蔵されておられた貴重な品を展示してあります。月曜、火曜以外はあいております。上野の東博にも、その前に行きましてここは数は多いんですが、数少ない書道美術館の方がうんと質のいいものが集まっていた、と私は感じました。この中で特に私が目ざしましたものは魏の鏡です。
 この陳列目録にもでておりますが、魏の甘露五年(二六〇)の鏡、これを見にまいりました。実にみごとな鏡でして、書体といい、また、鏡の金属の質といい、すばらしい鏡です。私がここに行ったのは、本物というか、間違いない魏の鏡を見ておいて、よく見て目にとどめておいて、福知山の出土鏡を見てみよう、比べてみようと、こういうことで前の日に行ったのです。
 その時に館長さんに質問してみたんです。「このような『逆字』『反字』になっているのは、中国にありますか、見たことはありますか」と。すると「あります」というお答えでした。「全部裏返しになっていたのを中国で見たことがあります。」とこういうお答えでございます。私は「間違ってそういう風にしたのか、それとも意図があってそうしたんでしょうか。」「意図」というのはたとえば、全部ひっくり返っている場合、「反字」になってる場合、ここに紙を押しつけて、拓本をとる普通のぺースで、簡単に拓本がとれるわけです。
 つまり簡単にまともにとるために、全文ひっくり返しに書いたというケースがありうるわけです。そういったような「何か『意図』があって、そうしたものでしょうか」と聞きましたら「いやそれは、もうはっきりした意図があって、おそらく、今あなたがおっしゃったようなそういった類の意味があってそうしたものと思います。なぜなら、偶然に一字だけひっくり返った、そういうものではありませんから」という風にお答えになっていた。「そういうもの以外には『ひっくり返し字」は、私は見たことがありません」こういうご返事であったわけです。

異体字と夷蛮

 私が今この問題にくどくどとふれておりますのは、論理的には中国でも「反字」はありうると思います。なぜかと言いますと、条件が二つあります。まず第一は我々が現在、中国本土、つまり中華人民共和国と呼んでおりますが、そのほとんどの地は夷蛮の地であるという問題がある。黄河流域が本来、彼等の中心の地でありまして、今度、私が行きましたシルクロードの新彊省なんていうのは夷蛮の地である。内蒙古だって夷蛮の地である。今の広東、ああいうところも夷蛮の地である。時代によって違いますけどね。だから、今の中国のかなり大多数のところは夷蛮の地であったわけです。ということはさっき私が言いました中国と夷蛮といういい方をしました場合、その中国では中華人民共和国を思いうかべていただいたら正確ではない。現代、「中国」と我々がよんでいる所の中にも、「夷蛮鏡」は産出されうるんだ、というテーマがございます。
 なかんずく、ややこしくなってきますのは、南北朝や五胡十六国の時代に入ってまいりますと、中国が夷蛮と呼んでいた新興旬奴とか何とか、いろいろいますが、そういう民族がどっと北方から黄河流域に入ってくるわけです。そこで王朝を立てるわけです。そうすると、かつての「夷蛮」が今度は中国の中枢部をおさえる新王朝を築く、というような状態がでてくるわけです。これが、文字の問題にどういう影響を与えたか、という問題はちょっと簡単には決めがたい複雑な様相を帯びているわけです。現の証拠に、羅振玉の、異字を集めた『増訂碑別字』『碑別字拾遺』は、北朝系の王朝、たとえば北魏などの石碑に現われた「異体字」が非常に多いわけです。一言でいえばそういった文字における混乱が中国本土内で生じた、という歴史的な状況の反映であろうと、こう思うわけです。ですから、さっき中国と日本という形では非常にわかりやすかった「夷蛮鏡」問題、実は現在の中国本土内部にも「夷蛮鏡」の問題は存在するであろう、といった、判定上はややこしいのですが、こういう問題が一つある。そうすると、「中国へ行ってそれを見ましたよ」という話がでた場合、それは実は現在の中国本土内であってもかつての夷蛮で製作されたものであるという可能性がある。最後にもう一ついいますと、仮にそれがかつての夷蛮の地で作られたものでも、中国へ「献上」され、洛陽から出土する可能性もあるわけです。このような可能性も絶無とは言えません。非常に判定上困るんですよ。しかし論理的には、そういう問題も現実には存在する場合もありうるのです。
 第二の問題としてですね、さっきいいましたようにうっかりミスではなくて、「故意」にした、しかも、さっきの仮説的な想定の場合のように、これが“完壁なる工人の精神のあらわれ”として、あえてひっくり返す、というケースもある。これは日本列島の工人のみが潔癖であったなんていうことはちょっと我々うぬぼれていうわけにはいきません。そのお手本もまた、中国の工人にあったと、考えて不思議ではない。むしろ、その方があたり前ではないか。そうすると、中国でも当然「模造鏡」という問題は起こりうるわけです。とくに名作に対しては。そうすると、中国でも模造鏡、あるいは模造金石文があった場合、「ひっくり返し字」が存在する可能性はあるわけです。新しい研究者がやる場合に今のような問題に当面しながら、それに苦慮しながらやっていくという問題が出てくるわけでございます。ですから“ひっくり返し”の「反字」、「逆字」間題からは確かに「中国製でない」可能性を一応は含んでいる。
 しかしこの問題からは、「模造鏡」という問題は言えても、必ずしも「中国産ではない」という所へただちには進みにくい、そういう性格をこの問題はもっている。「模造鏡」問題を「反字」、「逆字」はもっている。しかし全く無関係ではなくて、やっぱり“夷蛮地における模造”ということがおびただしく行なわれている。特に日本の場合は鏡が特殊な意味をもちましたので、単なる女の人のお化粧品ということにとどまらない。太陽信仰のために、鏡が権力者に非常に重視されるという、日本列島における伝統がございます。そこにはことに、こういう「模造鏡」が非常に多く出てくるという、問題をもつわけですから、日本列島で「反字」、「逆字」問題は重要な問題になっていることは確かです。
 しかし中国本土でもこれは全く絶無である、と断じるわけにはいかない。中国の工人において、完壁なる精神の表現として、すでに生じていた可能性も十分我々は考慮していかなければいけない、ということです。
 いまの後半の問題は、言わない方が話がスッキリしたかもしれません。しかし、みなさんも古代史については深い認識をもっておられるわけですから、一応の認識では満足されないわけですから、そういう問題を、一見複雑だが事実もっている、ということをお考えいただければありがたい、こう思って申し上げたわけです。

「[言名]」と「母人」の問題

 なお、もう一つ問題がございます。それは、「[言名]」という字がございます。この字は、中国では通例には、あまり使われない字である。よく使われるのはもちろん金へんの「銘」です。有名な和泉黄金塚古墳で、そこから出て来たと言う画文帯神獣鏡、ここに「[言名]」が出てまいります。そこでまたそのお手本になったと私が論じたわけですが、神原神社古墳鏡に「[言名]」という字が出てまいります。神原の方は文章が長いのですが、それを切りちぢめて和泉黄金塚の方の文章が出来上がっている。ところが切りちぢめた結果が「これ」という代名詞の示すものが無くなっている、と言うことを私が論じたわけでございます。帝塚山大学でも報告致しました。

[言名]は、言偏に名。

 また角川文庫の『邪馬一国の証明』でしたか、その中でもこの問題についての文章を載っけたわけです。ともかく、この黄金塚古墳にも神原神社古墳にも「[言名]」が出てくる。今度のにも「[言名]」が出てくるわけです。これからしても二つの鏡と今回の鏡とは、関係が深そうである、といえるわけです。しかも関係は深いんだが、このごんべんの「[言名]」はどうも洛陽のど真中では、あまり使われる字ではない。そうすると日本列島の工人か、あるいは朝鮮半島の在地の工人が渡来したか、そう言った人々の、一種の「俗用」ではないか。これは王仲珠さんが呉から来た工人が作った鏡だと言う考えを出しておられるように聞いているのですが、その場合には、呉の工人がこう言う字を使っている、しばしばこの「[言名]」を使っている、という実例をあげて説明を書いて頂くと我々としては非常にありがたい。今の尾崎さんのような中国の文字の研究家の目には「中国では通例は、あまり見ることができない」と言う風に言っておられました。こういう問題も一つございます。
 二つ問題があって中国では、あることはあるにしても、あまり多くは使われない文字である。これはどうか、という問題が一つ。もう一つは、例の辰馬の考古資料館で ーー『週刊読売』でわたしは「博物館」と書いていますが、正確じゃなくて考古資料館辰馬の考古資料館ーー に収蔵されていた鏡が今回の福知山と“そっくりさん”であると言うことが分かってまいりました。毎日新聞のスクープで、夕刊でしたか、載っておりましたが、それが日向=宮崎県で出て来た鏡です。ここでそっくりさんが出て来た。ここでもそっくりさんですから当然ながら「[言名]」である、と言うことであります。ここでも「ごんべんに名」の問題が一つある。
 もう一つ問題は「母人」の問題。これは、私が現地に行く前に「母人」と言う言葉は知らないなあと思って、尾崎さんに確かめますと、尾崎さんも「『母人』と言う言葉は私は見たことがありません。中国ではまず使わない表現だと思います」というお答えをいただきました。これは私は「なかれ」ではないのではないかと考えて、『週刊読売』の場合も「母」(はは)と書いて「なかれ、か」と言う風に注をしたと思うんですが、現地に行って目をつけて見ますと、「なかれ」ではなくて「はは」なんですね、やっぱり。この点、後で奥野正男さん ーー私についで三角縁神獣鏡国産説と言うものをデザインから立論された研究者ですがーー 毎日新聞にお書きになったのを見ると、これを「なかれ」として扱って読んでおられるんです、もしかして奥野さんはまだ現物を見ておられないじゃないか、と言う感じを持ちました。私が現物を拝見したところでは「なかれ」ではなかった。「なかれ」にしてもうまく読めないんですが。「人をしてこれに詑せしむるなかれ」なんていう、何となく分かったような分からない表現ですのでピンと来ない。
 そうではなくてここは、一応すっきりした形の対句、つまり「吏人これに[言名]すれば、位、三公に至る、母人これに[言名]すれば、子を保ち孫に宜しからん」と言う形の対句になっている。字数は合いませんが。その吏人というのは言うまでもなく、官僚です。これが[言名]すれば ーー[言名]すればというのは意味がはっきりしませんが、これを使えばというような結論的にはそういった意味だと思うんですがーー この鏡を使うならば、位は、三公に至るだろう。三公というのは天子のもとでの最高のナンバー3までが三公。立身出世して人臣の位を極めるであろう。そう言う縁起のいい鏡である。「母人」というのは日本人だったらすぐ意味が分かるんですね。「母者人」というお母さんになる人が、これを使ったら子供や孫に宜しからん、つまり“いい子供や孫が生まれますよ”と、こう言っているわけです。ですから意味としては「母人」の方が非常によく分かる意味ではあるわけです。ところが、この「母人」が中国ではどうも普通、現われてこない、と言う状況がある。この辺もどうも呉の工人が作ったにしては・・・。では呉の鏡では「母人」という言葉を使っているのかと言うことを王仲珠さんが説明して頂ければ有難いのです。我々の今、持っている知識では「母人」と言う言葉は中国ではあまりないんだから、それが呉の鏡では特に好んで使われるということがあれば、もちろん、我々が持っている現在の知識を絶対化する必要はない訳です。普通の我々の考え方からいうと非常に中国人の表記には、ふさわしくないという感じです。

中国産か国内産か

 さて真の問題はその次に出てまいります。というのは、さっきいいました様に、この鏡が「国内産」だということは、たとえばこれと非常に共通な表記を示す神原神社古墳の鏡も「国内産」であることを意味する。言わんやそれを圧縮した鏡である和泉黄金塚古墳の「景□三年鏡」も「国内産」であることを意味する。日向の場合も「国内産」であるということを意味する。ひいては三角縁神獣鏡全体が「国内産」であることを意味する、と言う風に、さっきいいました「中国製の論理」が逆転して「国内産の論理」に反転して行く訳です。これは最初は中国製という形で「邪馬台国近畿説有利か」と言う感じで流れたのが、それから一週間、十日たつ内に、どうも逆流を生じて来たようです。
 それは森浩一さんが私の前の日に現地に行かれて、祭日でしたが、見られて「これは中国製と言うのは非常に問題だ」と言うコメントをされてサンケイ新聞がその記事を出しました。それから私が注目している方に菅谷文則さんという方、現在橿原考古学研究所の所員の方だと思うんですが、若手のといいますか、三十代の方だろうと思いますが、この方は末永さんが館長の時に中国側との交渉の結果、「研究者を北京に派遣する、受け入れて欲しい」「よろしい」と言うことで二年間、北京へ行って鏡の研究をしてこられた。鏡の専門的研究者として北京に二年間留学されたわけであります。これは非常に意味が深いわけですね。我々中国へ行きますと博物館等で鏡があれば座り込んで見るわけですけれども、しかしそれは展示された物にすぎないわけです。中国では日本と違って鏡と言うのは中枢を成す器物じゃないですから、たかだかお化粧品みたいな手廻品ですから、展示の数も少ないしあんまり大きな場所もとっていない。それをいつも残念に思っているんですが、しかし専門の研究者として北京に居られたら、北京のみならず鏡をずっと見て廻って研究されているわけですから、そういう意味ではこの菅谷さんがどのような見解を示されるかということに私はかねがね関心を持っていたわけです。
 ところが丁度私が福知山に行っている頃だと思うのですが、東京の東アジアの古代文化の会で菅谷さんが講演の講師か何かで出られ、その時、報じられたばかりの景初四年鏡について語られて「私はかねがね、三角縁神獣鏡は国産であると思い、主張もして来たが今回の出土によっていよいよそれが確かめられました」ということを非常に、まあ、興奮して話された。そしてその司会者の方が「私は今まで司会をよくやって来たけれども、講師がこれ程興奮してしゃべられたのは初めてです」といわれたそうです。その時会場におられた方から私は直後にお話をお聞きしたわけです。私が直接聞いた話じゃありませんが、そう言う話が伝わってまいりました。私は「ああ、さこそ」と言う感じを持ちました。今のように日本の鏡はもちろんよくご存じで、かつ中国の鏡に二年間没頭された菅谷さんが今のように三角縁神獣鏡を国産と考えておられると。それで今度の「景初四年鏡」はその確証であると考えられたという風に聞いたわけですが、このことには深い意味があるだろうと私は感じたわけです。
 なお、その後王仲珠さんが来られて橿原考古学研究所で講演されて「やはりこれは国内産である」と言う旨を述べられたようです。しかし王仲珠さんの場合、「三角縁神獣鏡が、日本国産である、中国製じゃない」という議論と同時に「邪馬台国は近畿である」と言う説とダブッているわけでそれがどう言う風になっているのか、つまり卑弥呼がもらった魏の鏡、百面と言うのはどの種類の鏡なのかと言うことについての王さんの見解を私はまたゆっくりお聞きしたいと思います。また王さんがどこかでおっしゃった件があれば、教えて頂ければありがたいと思います。もちろん私の王さんに対する批判といいますか、そういうものは『多元的古代の成立(上下)』の「下」の方に載せてあり、それを王さんに送ってありますので、受けとったという返事はいただいたと思いますが、それに対する新見解は私としては受け取ることが出来ずにおります。
 さて、今の話で大体、今回の鏡についての一つの答えは出て来たと思うんです。要するに、この鏡はやはり「夷蛮鏡」、「日本国内産の鏡」であると言うことが一つと、その事は即ち全三角縁神獣鏡に及ぶ性格であると。ところでもう一つ細かい話しを致す様ですが付け加えさせていただきますと、今の辰馬考古資料館にも“そっくりさん”があると言う報道がありました時に、これを「三角縁神獣鏡」であると言う形の報道がなされたわけです。それでちょっととまどったのです。というのは、さっきも書きましたように盤龍鏡と言う風にこれを理解していたわけです。特に森浩一さんが私の前の日に行ってこれをご覧になって「これは三角縁ではありませんね」そして「斜縁盤龍鏡ですね」と言う風に言われたと聞いたのです。その点私も特に朝日新聞の高橋徹さんと一緒に、一所懸命見たんですが、どうも三角縁と見るには不足だと言うか、「三角縁と迄は言えませんねえ、斜縁と言うところが妥当ですねえ」と言う結論に二人とも達していたわけです。ところが今の新聞報道では、「三角縁神獣鏡」と報道されたので混乱したわけです。
 つまり“そっくりさん”と言うのは“全面そっくりさん“ではなくて、一部文字とかデザインがそっくりさんである。縁はまた違うんじゃないかと言う風に、現地では想像したんですね。実物を見ない段階では、辰馬の方のを知らない段階では。ところがその後、朝日新聞の高橋さんの方で確認をされたらしいんですが、田中琢さん ーー田中卓さんは古代史、琢さんの方は考古学者、奈良の国立博物館にいらっしゃる方ですーー この琢さんが鏡の専門家ですので、この方の解説でスクープ記事が出ていた。そのスクープでは「三角縁神獣鏡」とはっきり書いてある。
 そのことを確認して見ますと、実物の問題ではなくて分類の問題でありまして、つまり三角縁は、この部分が三角です(,△)。これに対して斜縁と言うのは、左上が三角縁程とがっていない、かすかに、幾分確かにこうなってはいるんだが()三角縁と迄はちょっと言えないと言うのを従来、斜縁と呼んでいたわけです。そしてこれ(,□)を平縁と呼んでいる。ところが田中琢さんの見解では「斜縁も三角縁の一種である」と言うことで「三角縁神獣鏡」と呼ばれた。だから「実体の把握の違い」ではなくて「分類の違い」であると言うことが分かって来たわけです。確かにこの私がお聞きした田中琢さんの判断は、成程と思いましたのは、こう言う所が斜縁というのは厳密ではあるように見えますが、実際は、“何度までが三角縁で何度から斜縁“などとは言えないわけです。そうするとその辺を区別するったって、区別しにくいわけです。そうするとやはり名前で見たら三角縁と斜縁では完全に字が違いますが、実は同類であって、大きく三角であるのに違いはないから、「三角縁」と呼んでおいて、その中に「斜縁」と言う物を入れると言う、そう言う田中さんの判断は確かに私は、誤りではないと思う。
 先の樋口さんが盤龍鏡と言われた、あの盤龍も神獣の一つであると言う考え方です。だからそう言う盤龍鏡と呼び斜縁盤龍鏡という呼び方、これを三角縁神獣鏡と呼ぶのは、呼び方の違いであり、実体の違いではない。こう言う問題が今回のいきさつを通じてはっきりして来たわけです。と言うことは、先程からくり返し言っております様に、「この鏡が中国製だと言うことになれば三角縁神獣鏡が中国製だと言う可能性が高まって来るし、この鏡が国産と言うことになれば、三角縁神獣鏡全体が国産と言う性格が高まって来る」と言うことが、今の分類の問題からもお分かり頂けたと思います。
 さて、ここから出て来る新しい問題がある訳でございます。まずこの文章をみてみると、この文章は非常に変な文章と言えなくもないんです。まあ「男性が、(もちろん権力者、豪族でしょうけれども)この鏡を使ってくれたら、大変立身出世しますよ」と言う、「女性が、(女性は母になる人ですから)これを使ってくれたらいいお子さんが生まれますよ、お孫さんもいいお孫さんができますよ。いい子孫が出来ますよ」という、言い換えればこの鏡が作られた段階では、誰がこの鏡を使うか一切不明である。人間には男性と女性しかいないですからどちらがお使いになっても結構この鏡はいけますよ、縁起いいですよ、とこう言っている文章なんです。だからこの文面はどうも魏の天子が卑弥呼に送るのにふさわしいような感じじゃないわけです。はっきりいいましたら、これは商業生産のための鏡のPR文句であるという感じがはっきりと出ているわけです。
 この鏡は、要するに商業生産用に作られた鏡ではないかと言う問題が出て来る。実は、皆さんそう聞くと、びっくりされる方もおられるかも知れませんが、このことを従来から強調しておられるのが、先程から言っております樋口隆康さん。樋口さんは、鏡は、商業生産用に作られたということを重視すべきだと言うことを今迄も繰り返し述べておられた。しかし樋口さんの場合は、中国製説ですからあくまで商業生産うんぬんは中国における商業生産、中国における鏡生産に関する話であったわけです。ところが今のように「国内産」だと言う話になって来ますと、これは日本列島内における商業生産、しかも西日本における商業生産ですが、当然、原鏡は景初四年時点で作られている筈です、「夷蛮鏡」として。その景初四年時点においてすでに「商業用の国内生産」として作られたのではないかと言う間題が出て来るわけです。これは、ちょっと、今迄の我々のイメージにない考えじゃないでしょうか。しかしねえ、これは言い過ぎのようですが、私の本を読んでいただいた方なら必ずしも驚かれないかも知れません。
 と言うのは、たとえば『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)の本をお読みいただきますと、いわゆる前漢式鏡と呼ばれる物が、立岩、博多の東側の立岩から出ています。見事な漢字であります。しかし、この見事な漢字を内容的に見てみると非常に不自然な省略がある。韻をふんでいる字が欠けて削り取られていたり、漢字がつめられていたり、或いは、文章が全然成り立たないものにつめられておったり、中国人が行う省略では、ありえないような省略が行われているという指摘をしまして、これはいわゆる日本製ではないか。事実、中国の鏡にもめったに見られない程、立派な鏡なんです。大きさといい、デザインといい、それは実は、中国ではたかだか女の人のお化粧品、男の人の手廻品でしかない鏡が、日本では太陽信仰の聖なる器として作られたからこそこれだけ立派な鏡が作られたんじゃないかということを論じました。これは前漢式鏡と呼ばれているものです。
 また糸島郡の井原で出て来ました後漢式鏡、この中で、「王が不思議な気配が立つのを見てこれを探したところ、そこから善銅が産出するのを見た。」と言う風な意味の文面がありました。どうもこれは、中国の鏡にはない文面である。呪術的な王者と胴の産出に関する文面である。だからこれも「倭国産の鏡」であるとしなきゃならないんじゃないかと言うことを私は論じたわけです。ということは、言い換えますと、卑弥呼と同時代、もしくは、それより前の時代には「倭国産の鏡」が作られていた、というテーマを見せていたわけでございます。
 この点は、もう一回、改めて考えてみますと、倭人伝の中に錦の問題がございます。つまり中国から錦を送られて来た、龍の模様の付いた色鮮やかな様々の模様が付いて送られて来た。送ったと言うことは、中国の天子の詔勅で述べられている、ところが同時に卑弥呼の方からも倭錦(倭国の錦)を献上したと言う事が述べられている。また壱与からも異文雑錦、中国から見て変わった模様をした雑錦、龍の模様なんかじゃない倭国独特の模様でしょう、雑錦が献上されたことが書かれております。ということは、倭国は既に錦を生産していた。錦の材質は絹です。そこへ本場の中国から本場の錦が送られて来たという構造になっている。まさか中国から送られて来た錦を見て「これはいいな、この模造品を作ろう」てんであわてて模造品を作って送ったなんて、そんな風に簡単に技術はうつるもんじゃないですからね、当然「卑弥呼以前からすでに錦は作られ続けていた」こういうのが自然だろうと思うんです。

鏡は商業生産されていた

 そうすると鏡もまたそうではないか。“何も鏡って作るのを知らない所へいきなりどーんと百枚送られて来た”と理解すべきか、それとも“鏡を既に倭国では作っていた、そこへ本場の鏡が送られて来た”のか。しかし鏡を献上したという話は無いじゃないかという反問が当然あるでしょうね。しかしこれは考えて見れば当たり前です。何故かといえば、鏡は倭国でこそ太陽信仰をバックにして最も神聖なる器具である。しかし中国ではお化粧品である。手廻り品である。こんな物を中国の天子に献上したら“笑われもの”です。そういう向こう側の事情を承知だ。だから鏡なんかは送らなかっただけである。鏡生産能力がないから、残念ながら送らなかった訳ではないでしょう。どうも我々は、この辺をただ「鏡百枚」だけを見ておりまして、そう言う形で見ておらなかったわけです。その事柄を、実状を考えれば、倭国における鏡も既に生産され始めていた、され続けていた。そこへ本場の鏡が来た。こう理解するのが私は自然ではないかと思うわけです。
 さてそういう状況の中で考えて見ますと、皆さん、ここでひとつ疑問を感じられていると思うんですが、日本列島の中で商業生産の鏡なんて、そんな無茶じゃないかとお考えでしょう。これについても、この間題についてすでに大分時間もとっておりますので、細かい説明は出来ませんが、大まかな説明をさせていただきますと、瀬戸内海の香川県に去年まいりました。それは、弥生時代の瀬戸内海で何故その讃岐に弥生時代の金属器が集中しているのか。つまり銅鐸とか平剣とか鉄製品とかが讃岐に大変集中しているわけです。ところがそう言うものは当然大陸から来た物と思われるものです。瀬戸内海の中で讃岐が一番大陸に近いならいいけども、そうじゃないですから、一番遠い、というに近い位ですから、何故讃岐に集中しているのか、と言う疑問を永らく持っていたんですが、これは、出雲をやっている内にその答えが出て来ました。
 つまり出雲で旧石器、縄文にかけて隠岐島の黒曜石によって「富める出雲」が繁栄していった。それをバックにして弥生時代になって金属器が出雲にあつまって来た。それは結局、八千矛神というような大国主の時代を生んだ。つまり「縄文をバックにして弥生を理解しなければいけない」と言うテーマですね。同じテーマで考えて見ますと、瀬戸内海の旧石器、縄文はサヌカイトの出土地である。サヌカイトは讃岐石ですから、讃岐のサヌカイトが瀬戸内海の各地で使われたわけです。ということは言い換えると、「富める縄文讃岐」というものになっている。このことがつまり弥生時代になって金属器が入って来る時に、讃岐に金属器が集中して行った理由です。もちろん大和とかそういう所もありますけどね、讃岐が大変に富める、弥生の金属器状態になったということの背景はやはり「縄文讃岐」を背景に考えなくてはならない。ということでサヌカイトを現地に見に行ったわけです。でその事は、はっきり確認できたわけです。
 ところがそこでまた新しい疑問、難問が起こって来た。といいますのは、皆さんよくご存じの様に瀬戸内海に三本の橋がかかっている。ところで三本かかっている橋の内の真ん中の瀬戸内大橋は、岡山県から香川県に対してかかっている。それは島々を橋げたでつらぬいて付けられた。ところが、その島々の中から、おびただしい石器が何千何万と言う石器が、出土して来た。それがいずれも弥生とか縄文とかいう物じゃなくて旧石器の石器であった。しかも材質を調べて見るといずれも讃岐のサヌカイト、中でも金山のサヌカイトで作られていた。今、自動車ならまあ二〜三時間で行けるでしょうけれども、当時、自動車はないですから、エッサエッサと運んで来るわけですから意外と時間とエネルギーを使って運んでいる。そこで製造しているわけです。
 いって見れば製造工場、製造集団、もう一つ付け加えますと、今は島ですが当時の瀬戸内海は今と地形が変わっていますから、私はおそらく突端部とか波止場とか、そう言う地形になっていたんではないか、これを試みるのは簡単でしょう。いわゆる瀬戸内海の海深図を海運局で ーー神戸なんかに有りますねーー いただいて、その五十メートル下、百メートル下ととって行ってその当時の地形が表われれば、私は今、島になっている所は、何かの突端部になっているそう言う地質年代が有ったんじゃないか。今でいえば臨海工業地帯、そういう海に臨んだ便利な所で作っている。こういう例は他にもあります。下関で佐賀県から腰岳の黒曜石を持って来て下関の突端部の岬の所で製造している。それを製品にして売りさばいている、それがあることを下関の前田博司さん(読者の会をやっていただいている)に教えていただいてうかがいました。
 同じように、黒曜石もサヌカイトもそうやっている。考えて見ると、その場合作りっぱなしじゃいけないわけです。当然運搬業者が運んでいるわけですね。大分の方だか大和の方だか、舟で当然運んでいるわけです。となりますと、製造業者有り、運搬業者有り、という事になってくる、これはもう我々の旧石器に対する今迄のイメージを一変させるものです。
 縄文ですら狩猟採集で「喰っちゃ寝、喰っちゃ寝」という形でおそわって来た。まして旧石器なんて本当に「野蛮」もいい所なんです。これは民族差別ではなくて時代差別かも知れません。我々が無知なためにあの旧石器なんて非常に野蛮視して来た。しかし今の状況から見ると我々が考えているような、でたらめな時代というか野蛮な状態じゃない。そんな自然状態じゃなくて、やはりそこには製造の場が有り、製造する人々有り、運搬する集団有り、という構図を考えないと、旧石器と言う時代が解けないんじゃないか、こういう、私は本当にぼう然とするような新しい問題を与えられて帰って来たのを記憶しています。これは、瀬戸内海のそば、大阪に住んでおられる皆さんに是非また押し進めていただきたいテーマだと思うわけです。
 さてこう言うことをご紹介すれば、これは旧石器ですから「弥生時代に商業生産は無理でしょう」なんていっていると笑われるんじゃないかという、感じは一挙におわかりいただけると思います。なおかつ、弥生に関して情報が欲しければ『三国志』の魏志韓伝、これを見れば、そこに鉄が出る、それを「韓、穢*(わい)、倭したがいてこれをとる。諸市買、鉄を用う。」つまり鉄を持って行けば何でも買えると言っている。つまり「中国の銭の如し」と言うんですから、中国のような銭というああ言う文字を刻んだ貨幣はない。しかし実際は鉄が貨幣の代りをしている。「鉄本位制」なんていう変な言葉を作りましたがね。言い方を変えれば「鉄という貨幣が通用している貨幣経済の社会である」と言いかえてもいいわけです。ということは、言い換えれば、そういう「鉄という貨幣」だけがあって「商品」が無いって事はないですから当然、「商品経済の時代」である。韓、穢*(わい)、倭とも商品経済の社会の中にある。ただ彼らは、我々のような銭ではなくて鉄を貨幣に使っている、とこう言う風に見なすこともできる。

穢*(わい)は、穢(わい)の本字。三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 そう言う目で見れば「弥生時代の日本列島に商品経済は無理でしょう」なんていう我々の感覚は、やはりひとつの先入観で考えていたのではないか、ということでございます。さて、そうなってまいりますと、要するに日本列島では景初四年に先立って「鏡の商品生産」が行なわれていた。もちろん豪族や権力者たちの間でしょうけども。そういう新しい問題が浮かび上って来る。この問題を押し詰めて、今後の若い方々の研究に委ねなくてはならないんですけども、なお二、三点申しておきますと、我々はこの場合、こういう概念が必要であると思うんです。「多発的、多層的な商業生産」という概念です。一般商業生産というのは、鏡の場合は豪族間の商業生産物という概念が必要になって来ます。たとえば出雲で三百五十八本の銅剣 ーー実は出雲矛だと思いますーー 昨日、西さんから提供して頂いた資料に剣と同じ形をしてて柄がずうっと長い、全部木でできている、そういう物の載ったカタログを北九州市のもので載っているのを見せていただきました。本来の矛は、こうだったんではないかというひとつの材料をいただいて嬉しかったんですが、ともかく我々が出雲矛といっているもので、考古学者が従来、銅剣と呼んでいるもの、これを考えて見ますと、これが何処で作られたかという問題があります。
 私は、これに対しては第一候補出雲、第二候補筑紫、第三候補大和、第四候補その他と、常識論ですが、そう言う順序で考えていいだろう。で一番可能性があるのがやはり出雲である。『出雲風土記』にも大国主のために楯(たて)と桙(ほこ)を作ったという記録が二回にわたって出てまいりますが、それは彼等が嘘をついたというものではないだろうと、こう思っている訳です。そうしますと、三百五十八本が、もう使うことをストップされている事を意味するか、埋納されたままで使っていない訳です。そうすると仮にそこで生産されていたとする第一仮説に立ちますと、生産もまたストップされたと考えざるを得ない。生産だけ続けられていて使用だけストップとは考えられないですから。そうしますとその場合、従来作り続けられていたという事は何を意味するかといえば、まず第一に銅材料が流入して来る流入ルートがあったということです。出雲には、銅の産地は有ります。日本海と宍道湖の間などにそれは存在しますが、それだけではおそらく足らないと思います。そうしますと九州の遠賀川の上流に近い採銅所とか、或いは、兵庫県の生野銀山のつらなりの、銅が出る山脈とか、場合によると徳島県辺りの銅山とか、という辺りから銅が流入して来たルートが出雲へ向けて存在したであろう。それが第一。
 第二に工人集団がいただろう、それも日本列島で抜群の能力を持つエリート的な工人集団がいなければ当然作れない訳です。ところが、今のように生産がストップするという事は、それが後どうなったかということを当然含む訳です。そうすると、その人達は全部、銅の流通は事前にストップして工人は四散して農業か漁業に帰ったという可能性もあるでしょうが、しかし“別の銅製品を作り出した”という可能性もある。「別の銅製品」とは何か、それは鏡である。その場合はもちろん彼らだけで、今迄ああいう物を作っていたのが、一挙に鏡を作るというわけには行きませんので、当然鏡作りのノウハウを持った工人が楽浪だって呉だって帯方だっていいんですが、そういう所からまねかれて、そういう人を何人かまねいて来れば、後はこちらは本来非常に技術を持った工人集団ですから、そういう人達に指導されて鏡を作る、と言うことは充分に可能である。
 これは、おそらく、「国譲り」という事件に直接か間接か知りませんが、関係があると思います。つまり「国譲り」があって、すぐ、ぱっと使用も生産もやめたのか、或いは、それから何段階かまたあってやめたのか知りませんが、直接か間接か、やはり「国譲り」というあの事件と無関係ではないと思います。埋めた時期が、正直いって不明で分かりませんのでね、「物の時期」は大体わかっているが、「埋められた時期」はわからない。わからないから、断言は出来ない。だから「国譲り」の直後であるか、それから後何十年経ったか、何百年経ったかわかりませんけど、しかしやはり出雲がかつての「中心の時代」を失った、という事とは、私は無関係ではないと思う。ああいうたくさんのものが埋蔵されたことや、使用・生産ストップもそれと無関係ではないと思います。
 そうなりますと今のように出雲で鏡生産が行われていた可能性がある。今の所、どうも「ごんべんの名」([言名])と言うのが日向で出てきて、和泉黄金塚で出てきて、それで福知山で出てきましたが、どうもそれの一番のもとを成しているのが島根の神原神社古墳らしい。神原神社ってのは、神原と言うのは例の三百五十八本出土の神庭とすぐ隣、何かそこに関係があるのかなあと、においにすぎませんので、何らの断言も申す段階ではありませんけども、そう言うことがあります。同じように今度は、のちに神武が大和に侵入したということになりますと、それ迄唐古で銅鐸を作っていた、優秀な銅鐸という日本列島抜群の銅製品を作っていた工人集団が有り、また大和では銅ができませんので兵庫県や徳島県から入っていた。ところが、神武の侵入によって、銅鐸生産はストップ。代って鏡生産の時代へ。ここでも、先の出雲のケースと同じ問題が生ずるわけです。ここに、いわゆる「鏡作神社」の問題も、あるわけです。
 以上のように、日本列島中で、別地域で、別時間帯に、いわは多元的に、鏡生産がはじまっていた。この問題に注目していただきたいと思います。

 本講演録は一九八六年十一月二十四日、大阪国労会館にて行なわれた市民の古代研究会主催の古代史講演会によるものです。テーマは、「古代王朝と近世の文書 ーーそして景初四年鏡をめぐってーー」で、「近世文書」は割愛しました。


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