『古代に真実を求めて』第十八集
『盗まれた遷都詔―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―』正木裕
盗まれた「聖徳」 正木裕

四天王寺と天王寺 服部静尚(『古代に真実を求めて』第十九集)


九州王朝の難波天王寺建立

古賀達也

一 法隆寺と難波天王寺

  『日本書紀』天智紀に記された法隆寺(若草伽藍)焼失後、和銅年間頃、跡地に移築された現法隆寺の移築元寺院の所在地や名称について、古田学派内で検討が進められてきましたが、未だ有力説が提示されていないように見えます。わたし自身も、倭国の天子である多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院ですから、九州王朝倭国の中枢領域にあったはずと考え、筑前・筑後・肥前・肥後を中心に調査検討を行ってきましたが、有力な手掛かりを見いだせずにきました。
 しかし、近年到達した前期難波宮九州王朝副都説により、摂津難波も九州王朝が副都をおけるほどの直轄支配領域であるという認識を持つに至ったことから、この地も法隆寺移築元寺院探索の調査対象に加えるべきではないかと考えています。
 前期難波宮が九州王朝の副都として創建されたのは六五二年、九州年号の白雉元年ですが、それ以前の七世紀前半から摂津難波が九州王朝にとって寺院建立の有力地であった史料根拠があります。それは現存最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』所収「年代歴」です。そこには、九州年号「倭京」の細注に次の記事があります。

 「二年、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)

 倭京二年(六一九年)に九州王朝の聖徳と呼ばれていた人物が難波に天王寺を建てたという内容ですが、当初わたしはこの記事の難波を博多湾岸の「難波」という地名と考え、その地に天王寺が建てられたと考えていました。しかし、筑前の「難波」であれば、九州王朝内部の記事ですから、単に天王寺を建てたとだけ記せば、九州王朝内の読者には判るわけですから、地名の「難波」は不要なのです。しかし、あえて「難波天王寺」と記されているからには、筑前ではなく摂津難波の難波であることを特定するための記述と考えざるを得ません。
 たとえば同じ『二中歴』「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」と寺院建立記事がありますが、こちらには観世音寺の場所に関する記述がありません。それは観世音寺と言えば太宰府の観世音寺であることは九州王朝内の読者には自明なことであり、従ってわざわざ「筑紫観世音寺」などとは表記されなかったのです。ですから「難波天王寺」とあれば、読者には摂津難波の天王寺と理解されるように記されたと考えるほかないのです。
 また、倭京二年の建立とされていますが、「倭京」は多利思北孤の時代の九州年号です。その二年に「聖徳」という人物が建てたというからには、これも同様に聖徳と記せばわかるほどの九州王朝内の有力者と考えられます。恐らく多利思北孤の太子である利歌弥多弗利のことではないでしょうか。多利思北孤の太子である利歌弥多弗利が聖徳と称されていれば、文字通り「聖徳太子」となり、この利歌弥多弗利の伝承や業績が『日本書紀』に盗用されたのものが、いわゆる聖徳太子記事ではないかと推察しています。
 このように九州王朝は七世紀前半の倭京二年(六一九年)に難波に天王寺を建立していた史料根拠があるのですから、天王寺以外にも多利思北孤自身が建立した寺院が摂津難波にあっても不思議ではないのです。地理的にも遠く九州の寺院を移築するよりも、摂津難波の寺院を移築した方がはるかに容易ですから。
 このような認識の進展により、法隆寺移築元寺院の探索地に摂津難波を加えなければならないと考えています。更には難波の四天王寺の調査研究も九州王朝との関係から再検討しなければならないと思っているのです。

 

二 天王寺の古瓦

 前節で述べましたように、現在の四天王寺は地名(旧天王寺村)が示すように、本来は九州王朝の天王寺だったとしますと、その創建は『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注「二年、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事から、六一九年になります。
 他方、『日本書紀』には四天王寺の創建を推古元年(五九三)としています。あるいは、崇峻即位前紀では五八七年のことのように記されています。いずれにしても、倭京二年(六一九)より約二〇~三〇年も早いのです。どちらが正しいのでしょうか。
 ここで考古学的知見を見てみましょう。たとえば、岩波『日本書紀』の補注では四天王寺の項に次のような指摘があります。

 「出土の古瓦は飛鳥寺よりも後れる時期のものと見られる点から、推古天皇末年ごろまでには今の地に創立されていたと考えられる。」(岩波書店日本古典文学大系『日本書紀・下』五五八頁)

 『日本書紀』では飛鳥寺(法興寺)の完成を推古四年(五九七)としています。四天王寺出土の古瓦はそれよりも後れるというのですから、七世紀初頭の頃となります。そうすると『二中歴』に記された倭京二年(六一九)に見事に一致します。従って、考古学的にも『日本書紀』の推古元年(五九三)よりも『二中歴』の方が正確な記事であったこととなるのです。このことからも、この寺の名称は『日本書紀』の四天王寺よりも『二中歴』の天王寺が正しいという結論が導き出されます。
 このように、地名(旧天王寺村)の論理性からも、考古学的知見からも四天王寺の名称は本来は天王寺であり、倭京二年に九州王朝の聖徳により建立されたという『二中歴』の記述は歴史的真実だったことが支持されるに至ったのです。この史料事実と考古学的事実という二重の論証力は決定的と言えるのではないでしょうか。

 

三 盗まれた弔問記事

 九州王朝の難波天王寺が、後に近畿天皇家により聖徳太子が建立した四天王寺のことにされたとする仮説を発表してきましたが、この仮説は更に『日本書紀』に記された四天王寺関連記事中にもまた九州王朝の難波天王寺の記事を盗用したものがあるのではないかという新たな史料批判の可能性をうかがわせてくれます。
 こうした視点で『日本書紀』を精査したところ、推古三一年(六二三)条に新羅と任那からの使者が来朝し、仏像一具と金塔・舎利などを貢献してきたので、仏像を葛野の秦寺に置き、その他の金塔・舎利などを四天王寺に納めたという記事があることに注目しました。この四天王寺は九州王朝の難波天王寺のことではないかと考えたのです。
 難波天王寺は九州年号の倭京二年(六一九)に完成していますから、その四年後に新羅と任那は九州王朝に仏像や舎利を贈り、難波天王寺に金塔・舎利を納めたものと思われます。何故なら推古三一年(六二三)は九州年号の仁王元年にあたり、その前年に日出ずる処の天子である多利思北孤が没しているからです。隣国の天子が亡くなった翌年に仏像や舎利を贈るという、この使節の目的は弔問以外に考えられません。しかも多利思北孤は篤く仏教を崇敬した菩薩天子なのですから、それに相応しい贈り物ではないでしょうか。
 『隋書』イ妥国伝にも、新羅や百済がイ妥国が大国で珍しい物が多く、これを敬迎したと記されています。また、常に通使が往来するとも記されており、関係が緊密であったことがうかがえます。こうした関係から考えても、多利思北孤が亡くなった翌年に遣使が来るとすれば、弔問と考える他ありません。まかり間違っても、九州王朝を素通りして近畿の推古に贈り物をすることなど、九州王朝説に立つ限り考えられないのです。
 従って弔問使節が持参した仏像や舎利などが納められた寺院は九州王朝の寺院であり、推古三一年条に見える四天王寺は九州王朝の難波天王寺と考えざるを得ません。この時の奉納品が四天王寺に存在していたことは「太子伝古今目録抄所引大同縁起延暦二十二年四天王寺資財帳逸文」にも記されていますから、まちがいなく四天王寺=九州王朝難波天王寺に納められたのです。
 このように四天王寺を九州王朝の難波天王寺と考えると、『日本書紀』に盗用された九州王朝の事績を洗い出すことが可能となるケースがあります。『日本書紀』以外の四天王寺関連史料も同様の視点で史料批判することにより、九州王朝史の復原が進むのではないかと期待されるのです。

 

四 多利思北孤の学問僧たち

 『日本書紀』推古三一年(六二三)条の新羅と任那からの仏像一具・金塔・舎利貢献記事が九州王朝への記事となると、その後に記された新羅使節と一緒に唐より帰庫した学問僧たちも九州王朝が派遣した人物ということになります。
 そこには恵齊・恵光・恵日・福因等の名前が記されていますが、彼らこそが『隋書』イ妥国伝に記された、大業三年(六〇七)に多利思北孤が隋に送った「沙門数十人」の一員だったのではないでしょうか。少なくとも時期的にはピッタリです。彼らは中国で仏法を十六年ほど学んだことになりますが、その間、中国では隋が滅び、唐王朝が成立します。また倭国では多利思北孤が没します。
 このような東アジアの激動の時代に彼らは異国の地で仏法を学んだのでした。恐らくは帰国を果たせなかった沙門たちもいたことでしょう。この後、倭国は唐や新羅との関係悪化が進み、運命の白村江戦へと激動の時代に向かっていきます。

 

五 難波の古代寺院群

 二〇一二年九月、わたしは大阪歴史博物館(歴博)を訪れました。目的は前期難波宮整地層から出土した瓦を観察することでした。ところが、展示内容が一部変更されていたようで、いくら探しても見つかりません。しかし、よくしたもので別の瓦が展示してあり、わたしの目は釘付けになりました。
 それは「素弁蓮華文軒丸瓦」と呼ばれる三個の瓦で、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦とみなされています。時代も七世紀前葉とされており、四天王寺創建年代との関連などから六二〇~六三〇年代頃と編年されているものです(歴博の展示説明文による)。
 歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』にも記されていない複数の寺院が建立されていたものと推定できます。上町台地の高台を削って谷を埋めたてた整地層からの出土もありますから、それら寺院を取り壊して前期難波宮が造営されたことになるのかもしれません。
 こうした七世紀初頭(上宮法皇・多利思北弧の時代)の難波の出土状況(国内有数の寺院群=仏教先進地域)は、この時期すでに難波は九州王朝の直轄支配領域だったとするわたしの仮説を支持するように思われます。このように歴博訪問は多くの成果が得られましたが、更に貴重な知見を得ることができました。

 

六 四天王寺創建瓦の編年

 今回の歴博訪問ではいくつかの新知見がもたらされました。その一つは四天王寺創建瓦の編年を歴博では六二〇~六三〇年代としていたことです。
 『日本書紀』には四天王寺の創建を五八七年(崇峻天皇即位前紀)、あるいは五九三年(推古元年条)と記されているのですが、歴博では『日本書紀』のこの記述を採用せず、土器や瓦の相対編年と年輪年代などとの暦年をリンクした編年観を採用し、四天王寺の創建を六二〇年~六三〇年代としたようなのです。この六二〇年~六三〇年代という編年は、『二中歴』の「年代歴」(九州年号)に記されている「倭京二年(六一九)難波天王寺聖徳造」の倭京二年に近く、このこと(文献と考古学の一致)から七世紀における畿内の土器編年が比較的正確であることがうかがえるのです。
 今から十年ほど前、わたしは『二中歴』に見える「倭京二年難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州(博多湾岸)にあった難波ではないかと考え、「難波」と「天王寺」の地名セットや七世紀初頭の寺院跡をかなり探しましたが、結局それらしいものは見つかりませんでした。そのため「倭京二年難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州にあった難波とするアイデア(思いつき)を封印し、後に撤回しました。アイデア(思いつき)を仮説として提起するためには、その根拠(証拠)を探し、提示することが「学問の方法」上、不可欠な手続きだからです。

 

七 一元史観による四天王寺創建年

 二〇一四年四月、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)より資料が郵送されてきました。四月十二日に行われた「難波宮址を守る会」総会での記念講演会のレジュメでした。講師は京都府立大学教授の菱田哲郎さんで、「孝徳朝の難波と畿内の社会」というテーマです。近畿天皇家一元史観による講演資料ですので、特に目新しいテーマではありませんでしたが、四天王寺の創建時期についての説明部分には興味深い記述がありました。
 そこには四天王寺について、「聖徳太子創建は疑問あり」「瓦からは六二〇年代創建 六五〇年代完成」とあり、「六二〇年代創建」という比較的具体的な創建時期の記述に注目しました。かなり以前から四天王寺創建瓦が法隆寺の創建瓦よりも新しいとする指摘があり、『日本書紀』に見える聖徳太子が六世紀末頃に創建したとする記事と考古学的編年が食い違っていました。菱田さんのレジュメでは具体的に「六二〇年代創建」とされていたので、瓦の編年研究が更に進んだものと思われました。
 四天王寺(天王寺)の創建年については既に何度も述べてきたところですが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号部分細注によれば「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(六一九)としています。すなわち、『日本書紀』よりも『二中歴』の九州年号記事の方が考古学的編年と一致していることから、『二中歴』の九州年号記事の信憑性は高く、『日本書紀』よりも信頼できると考えています。菱田さんは四天王寺創建を六二〇年代とされ、『二中歴』では「倭京二年(六一九)」とあり、ほとんど一致した内容となっているのです。
 このように『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。

 (一)現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。

 (二)その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。

 (三)『日本書紀』に書かれている四天王寺を六世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。(四天王寺は当初は玉造に造営され、後に現・四天王寺の場所に再建されたとする伝承や史料があります。)

 (四)『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。

 (五)そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を作った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。『二中歴』以外の九州年号史料に散見される「聖徳」年号(六二九~六三四)との関係が注目されます。この点、正木裕さんによる優れた研究(「聖徳」を法号と見なす)があります。

 (六)従って、七世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。

 (七)『二中歴』「年代歴」に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。

 (八)『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついた理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。

 以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は七世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・六一九年)と創建瓦の考古学的編年(六二〇年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。西井さんから送っていただいた「一元史観による四天王寺創建瓦の編年」資料により、こうした問題をより深く考察する機会を得ることができました。

 ※本稿は古田史学の会ホームページ「新古代学の扉」に連載している「洛中洛外日記」に発表した記事を加筆修正したものです。(古賀達也)


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