『古代に真実を求めて』第十八集
盗まれた分国と能楽の祖 -- 聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤 正木裕
盗まれた「聖徳」 正木裕

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集


聖徳太子架空説の系譜

水野孝夫

 文献にあらわれる歴史的人物は誰でも、一旦は架空ではないか?と疑ってみること、これは必要なことかも知れない。科学や学問は「なんでも疑ってみること」から始まるのだから。そして実在だったと思われる証拠を確かめて、納得できたら実在を信じる。これぞ探求者のあるべき姿であろう。

 最近では聖徳太子架空説が有力らしい。教科書での表示が厩戸皇子(聖徳太子)とカッコつきになったり、架空らしいと発言する学童が増えたとか、『聖徳太子はいなかった』に類する題名の本が書店に並んでいたりするようだ。今や誰もがインターネットに親しみ、「歩きスマホ」が問題になる時代。
 代表的な検索プログラム「google」で、検索語「聖徳太子はいなかった」を投入した検索で、二〇〇八年のある時点では約十五万件のヒットがあったらしいのが、二〇一四年秋の現在、わたしの実験では五十万件に増えている!
 
 大山誠一氏著書に教えられて、文部科学省の学習指導要領を調査すると、中学校の社会科・歴史的事項・古代の部の関連事項が、

平成一〇年告示では、
●大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ、その後、天皇・貴族の政治が展開されたことを、聖徳太子の政治と大化の改新、律令国家の確立、摂関政治を通して理解させる。

平成二〇年告示、準備を経て二四年度完全実施では、
●律令国家の確立に至るまでの過程,摂関政治などを通して,大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ,その後,天皇や貴族の政治が展開したことを理解させる。

 最新版では、「聖徳太子」も「大化の改新」も消えてしまったのである。

 なぜ、こんなことになったのか、経過を追おうというのが本稿の目的なのだが、これだって、ネット検索結果をコピペ(丸写し)すれば、一瞬にほぼ完成みたいなもの。
 世界的に有名になった学術論文でもコピペが噂された事件があったばかり。
 しかし、筆者がそんなことをすると読者に失礼であるばかりか、読んでいただく意味がない。「ネットで検索してね」の一句で終えた方がマシ。やはり筆者の体験を中心に綴るほかはない。それに「Wikipedia」のような代表的なネット上の辞典類では古田武彦説を無視していることが多いから。

 昭和二十(一九四五)年八月十五日、大日本帝国は太平洋戦争で敗戦。この日を境に日本の学校の歴史教育は変った。教科書で皇国史観や戦争賛美を述べた記述は墨塗りされた。わたしはそれを体験。
 『日本書紀』の出版は占領軍命令で禁止され、この本は「禁書」になるかもしれないと感じて、この本を隠そうとした方々があったと聞く。「禁書」という用語は、中国の歴史にも登場するが、日本でも『続日本紀』に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初」禁書を隠しておくと重い罪に問うという詔勅が出された例もあった。
 まぁそんなこともなくて、講和条約が成立後、岩波版の『日本書紀』が発売されたのは昭和三十一(一九五六)年のことだった。
 わたしは昭和十年生まれ、丁度学制の変わり目に在籍した。入学したときは小学校とはいわず、国民学校。
 中学校は新制。高校も新制の第一回生です。お蔭で?これらでの入学試験を知らない。
 昭和三十二(一九五七)年に就職。初任給の千円紙幣に印刷された人物は「聖徳太子」だった。
 聖徳太子は国家公認の歴史上人物だった。高度経済成長の時代、五千円札、一万円がふつうの世の中になっても、紙幣に印刷された人物はもっぱら聖徳太子。国家が聖徳太子の実在を保証してくれているような安心感があった。それが昭和五十九(一九八四)年に夏目漱石、新渡戸稲造、福沢諭吉といった文化人に変ってから、聖徳太子架空説が有力になってきたように感じます。
 紙幣の人物が、誰に変えられるか、その理由は明らかにされませんし、ニセ札防止などの理由もあるらしいから、その理由は噂の域を出ませんが、聖徳太子の実在を支える証拠とされていたものに疑いが生じたこともあるだろう。例えば、紙幣の肖像のもとになった法隆寺に伝わる画像の人物は、聖徳太子とは別人だという説が出たり、聖徳太子作成と伝わる十七条憲法が太子の時代のものとしては合わないとか、条文内に矛盾があるとか、聖徳太子自筆とされていた法華義疏など三経義疏が内容から中国での著作ではないかと疑われたり、写本が中国で発見されたりしたことも影響したように考えられないこともない。

 中国の史書『隋書』俀国伝(唐代の貞観十年(六三六)成立)には、日本列島にあったはずの「俀国」の王「多利思北孤」が隋帝にあてた有名な国書が引用されている。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。「天子」は世界にただ独りと思っている隋帝はカンカンに怒り、「こんな失礼な文書は今後報告するな!」。史書にはやや穏便に表現されているが、これでは、この時代、征伐の軍隊を差し向けられてもおかしくない。
 国書というからには王から王への文書のはずだが、日本列島側での当時の天皇は推古天皇のはず。女帝だ。ところが「多利思北孤」は妻をもつ男性である。この話は明治期以降の歴史教育に利用された。推古天皇またはその摂政・聖徳太子の「隋に対する対等外交だ」とする。
 日清戦争で日本は勝利し、中国の軍事力が日本を越えていないと感じられるようになった時代に流行した。ただ、推古天皇とすると、女性を男性と誤らせることになるし、聖徳太子とすると、「太子であって王(天皇または元首)でないものが天子と称してもよいのか」という疑問を生じる。
 これは古田武彦氏が古くから主張されているが、国定教科書である『日本書紀』を信仰するかたちの学界主流には受け入れられていない。

 古田武彦氏は『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十(一九八五)の中で、唯一の聖徳太子真筆本とされてきた『法華義疏』を、坂本太郎東大教授の宮内庁への推薦を得て、実物を顕微鏡で調査し《昭和六十一年(一九八六)》、重要な部分に紙が切断され、貼りつがれていることを発表された。古田武彦『古代は沈黙せず』駸々堂、昭和六十三年(一九八八)不定期雑誌『季節』第十二号、エスエル出版会、には裏話もおさめられている。

 問題は、歴史教育の中心柱として扱われてきた『日本書紀』に「聖徳太子」という連続した四文字は現われないという事実である。「聖徳」や「皇太子」は現われても、「聖徳太子」の四文字はない。この四文字が現われるのは奈良時代以降とされる文献ばかりである。

 平成七(一九九五)年正月号の雑誌「歴史と旅」は、「知られざる聖徳太子像と隠された史実」と題した特集で、七人の研究者の論を掲載。

古田 武彦 九州王朝からの「盗用」だ
小林 久三 騎馬民族の若き王子
王   勇 中国僧慧思の後身だ
小林 恵子 突厥可汗達頭だった
石渡信一郎 蘇我馬子の分身だ
三浦  昇 外交上の天皇だ
松尾  光 山背大兄王の投影か

他に有名な研究者として次が挙げられる。

大山誠一『(聖徳太子)の誕生』吉川弘文館 平成十一(一九九九)
谷沢永一『聖徳太子はいなかった』新潮新書 平成十六(二〇〇四)ほか多数

 古田学派で聖徳太子を扱われた本としては、次がある。

山崎仁礼男『蘇我王国論』三一書房 平成九(一九九七)
室伏志畔『法隆寺の向こう側』三一書房 平成十(一九九八)
合田洋一『聖徳太子の虚像』創風社出版 平成十六(二〇〇四)
合田洋一『新説 伊予の古代』創風社出版 平成二十(二〇〇八)

 以下は、筆者の感想である。
 昭和年代には国民の多くに実在と信じられていた「聖徳太子」は平成年代に入ると急激に「架空ではないか」という論が多くなった。
 戦後の民主主義教育が普及し、低学歴の人が減少するとともに、情報伝達方法が進化し、特にインターネットの急速な進歩が、いろいろの説を紹介するようになったことが、大きいと思われる。
 ただ「架空」としても、モデル人物があるのかというと、モデルを想定されている研究者が多いが、複数のモデルの複合なども考えられ、簡単ではない。
 また、「聖徳太子」問題だけではなく、仏教や文字の輸入、「大化改新」とはなにか、古田説でいえば、「九州王朝」は最後にはどうなったのか?という問題を含め、新たな古代史像を求めてゆく必要があると考える。


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