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巻頭言

古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦氏

古田史学の会全国世話人・事務局長 正木 裕

 故古田武彦氏は、古代史の真実の解明にその生涯をかけられた。ここにその事績を鳥瞰し追悼の辞としたい。
 氏は、青年時代、教職にある中で、親鴛の研究に精力を傾けられ、「後年の教団・研究者の視点」から「誤り」とされ「改訂」されてきた親鸞の文言が、実際は原文が正しく、かつその思想を正しく伝えるものであることを論証した。
 こうした研究成果を踏まえ古代史研究の道に進み、従来「方位も距離も“壹”の字も誤り」として、自説に都合よく解釈されてきた『魏志倭人伝』において、まず「邪馬壹国」を「邪馬台(臺)国」とすることについて、「原文を改訂しない」立場から、天子を指す「臺」が「邪」という。“?字”を用いる異蛮の国名に使われるはずはなく、かつ臺と壹は混同されることがないことを“用例”をもって明らかにし、国名は原文にある「邪馬壹国」が正しいことを示した。
 また、行程・里程(距離)記事についても、『魏志倭人伝』の記事、そして著者の陳寿は信頼できるとして、以下のような、解釈の“基本条件”を示した。
 (1).(短里)魏・晋朝では“短里”(一里は七七メートル程度)が採用され、『魏志倭人伝』の里程はこの「短里」で書かれている。
 (2).(部分里程の和は総里程に等しい)『魏志倭人伝』の各国間の里程(「部分里程」という)の和は総里程(萬二千金里』)に等しい。
 (3).(島廻り半周読法)総里程には対海国の半周八百里(一辺四百里)と一大国(壱岐)の半周六百里(一辺三百里)が合まれ、対海国は対馬の南部に限定される。
 (4).(道しるべ読法)各国に至る「方位」は、出発時点で、魏使が“向かう方向”すなわち「始発方向」である。
 (5).(道行き読法)距離数の前に「歴・行・渡(度)」などの「動詞」がある場合は、魏志が“実際に行った”経路であり、無い場合には、魏志が実際に行っていない“傍線経路”である。
 (6).(階段式読法)韓国内は「陸行」であり、「乍たちまち南乍たちまち東」とは「南に行ったり東に行ったり」を繰り返す“階段状の行程”を意味する。
 (7).(里数は国の中心まで)伊都国・奴ぬ国・不彌国への陸路の里数は「政庁・宮などのある国の中心」までの距離であり、「到る」とは“政庁・宮などに至る”こと”を意味する。
 (8).(最終行程ゼロの論理)最終行程の「不彌国」と「邪馬壹国」は“隣接”しており距離は「ゼロ」となる。

 氏は、こうした“基本条件”に洽って、『魏志倭人伝』を解釈し、博多湾岸にその中心部を見出した。これにより「絹の女王・鏡の女王卑弥呼」という記述が、初めて考古学上の出土物と整合することとなった。そして、「卑弥呼」の「呼」は「こ」ではなく、「鬼道に事つかえる女王」に相応しく、「神に棒げる犠牲に加えた切り傷」を指す「か」である。従って、女王の名は「ヒミカ(ひみか 日甕)」であり、『筑後国風土記』に「甕依姫みかよりひめ」として描かれているとした。
 また、一里を約七七メートルとする「短里」の存在は、中国最古の天文算術書『周髀算経しゅうひさんけい』により確かめられ、『三国志』では「倭人伝」ばかりでなく「東夷伝」で「韓地」の「方四千里」が「短里」なら約三〇〇キロメートルとなり現地の実距離と一致し、また、扶余ふよの「長城の北、玄菟を去ること千里」、高句麗の「遼東の東千里」も、各「郡治」と秦・漢代の長城との実距離と一致する。
 氏は、これらに加え『三国志』の全里程記事を分析し「魏・晋朝」では「短里」が採用されていたことを明らかにされている。
 さらに、“自明の理”であるはずなのに看過されてきた「部分里程の和は総里程に等しい」ことは、氏の「島廻り半周読法」によって見事に確認されることになった。また、「地図を待たない魏志」が「道しるべ読法」により方位を記すのも道理にかなっており、「道行き読法」は『魏志倭人伝』の文面を“一つの文字・動詞”まで精査された氏ならではの発見といえる。「乍南乍東」が「たちまち~たちまち」と読むことも“中国文献における用例”をもとにすべきとする、氏の“実証主義”の大きな成果だ。
 そして、「神話は全くの虚構ではなく、何らかの史実にもとづくものである」との見解から、『記・紀』の記事や出土物等をもとに、「天孫降臨」とは銅矛等の青銅の武具を携えた対馬・壱岐の「海人あま(天)族」の、豊穣の稲作地帯(瑞穂の国)筑紫博多湾岸への“侵攻”であることを明らかにした。
 この正しさは、紀元前二世紀頃とされる吉武高遺跡や、怡土平野における三雲・平原・井原遺跡の群を技く質と量の青銅器及び、菜畑遺跡はかの「縄文水田」の発見等により確認される。
 また、「我が国はその始まりから近畿天皇家が統治してきた」とする「大和朝廷一元史観」に対し、。中国史書に見えるが記・紀には記されない”「王」たち、即ち紀元五七年に光武帝から金印(志賀島)を授かった委奴ゐぬ国王、一〇七年に後漢に朝貢した帥升、三世紀の卑弥呼・壹与、五世紀の倭の五王などは、「海人(天)族の後裔=天孫族」として一貫して九州を本拠とし我が国を統治した「九州王朝」の天子達だとする「九州王朝説」を打ち出した。
 そして、「神武。東征』も、『記・紀』編者の知るべくもない河内湖などの「難波の古代地勢」と生駒山麓の「日下の盾津」に上陸したといった「東征」行路記事が一致することや、大和での銅鐸の消滅などの考古学的見地から、「筑紫(銅矛圏)から近畿(銅鐸圈)への“侵攻”」だったとし、「神武」以後の近畿天皇家は、筑紫を本拠とする「海人(天)族」の“分派”を称していたとした。
 さらに、古代目本には九州王朝を始め東北・関東・出雲などに「王朝」が存在したとする「多元史観」を提起した。これは、後年の青森三内丸山の巨大遺跡の発見や、出霊神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡からの膨大な銅剣・銅鐸・銅矛の出土により裏付けられ、氏の先見性を示すこととなった。三内丸山は『東日流外三郡誌』の描く世界がリアルであることを示すものだ。
 また、『隋書』に記すイ妥王多利思北孤や「法隆寺釈迦三尊像光背銘」に記す上宮法皇と「記」・「紀」の推古“女帝”・厩戸皇子の記述が決定的に矛盾し、『隋書』に「阿蘇山有り」とあることから、多利思北孤こそ上官法皇で九州王朝の天子であり、その事績が『日本書紀』の厩戸皇子(聖徳太子)の記事に取り込まれたとした。さらに、「君が代」や「筑紫舞」を九州王朝の文化として位置づけ、白付注の戦いは九州王朝によって主導され、その敗北が九州王朝滅亡の原因となったとし、壬申の乱を唐の支援を得た天弐による九州から近畿にかけての「大乱」だとしたのは、多元史観の真骨頂といえよう。
 そして、古田氏が“再発見”した「九例年号」は、その後の市民の手による豊富な使用例の発掘によって、七〇一年の「大和朝廷による律令体制の発足と大宝年号建元」以前における九州王朝の存在を示す大きな証左となり、「年号交代」と期を一にする「評から郡へ」の転換は、「評」は九州王朝の制度、「郡」は大和朝廷の制度とすることで「郡評論争」に真の決着をつけた。
 さらに氏は、「万葉集」の分析に進まれ、「題詞は二次資料、本文こそ一次資料」とする観点から、九州王朝に関する人麻呂の歌などが大和朝廷の歌として「盗用」されていることを明らかにした。その結果、天武が逃れた吉野宮が「佐賀なる吉野宮」であり、『書紀』に記す持統の吉野宮行幸が、三四年前の九州工朝の天子の“軍事基地吉野”への視察の盗用であるとした。
 古田氏の視野は世界に広がり、縄文人が黒潮に乗り南米エクアドルなどに達していたことを、現地に赴き“甕棺”等により確認し、また、最晩年においても神話の確認にギリシャヘの視察を計画するなど、その意欲は衰えることがなかった。
 ここに述べた古田武彦氏の事績は「ほんの一端」にしか過ぎず、今や氏の口からその全貌の解説や新たな発見を聞くことはできないが、幸いにしてミネルヴァ書房が氏の著作の復刊に取り紀んでおり、その事績を引き継ぐに足る最低限の“材料”は残されている。我々に必要なものは「古田武彦氏の古代への情熱」を少しでも多く受け継ぎ、研究を進めていくことだろう。
 氏の逝去を心より惜しみ、感謝と追悼の言葉を贈りたい。


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