『古代に真実を求めて』 第二十集

 


九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬

所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判

古賀達也

一、「建元」と「改元」の論理

 面白い本を読みました。所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣)です。所さんといえばテレビにもよく出られている温厚で誠実な学者ですが(その学説への賛否とは別に、人間としては立派な方だと思っています)、残念ながら大和朝廷一元史観にたっておられ、今回の著書も一元史観に貫かれています。しかし、約八百頁にも及ぶ大作であり、年号研究の大家にふさわしい労作だと思います。
 同書には古田武彦氏の九州王朝説・九州年号(倭国年号)や著作(『失われた九州王朝』)も紹介されており、この点は古田説を無視する他の多くの歴史学者とは異なり、所さんの誠実さがうかがわれます。もっとも、古田氏の九州王朝説に対して「学問的にまったく成り立たない」(十五頁)と具体的説明抜きで切り捨てておられます。
 同書中、わたしが最も注目したのが「建元」と「改元」の扱いについてでした。まず、所さんは我が国の年号について次のように概説されています。

「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)

 すなわち大和朝廷最初の年号を意味する「建元」が「大化」とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。

「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」(一二七頁)

 この解説を見て、失礼ながら苦笑を禁じ得ませんでした。『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」と記されたのですから。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、それとも改元なのでしょうか。原文改訂の手段としてカッコ書きにすればよいというものではないと思うのですが。
 所さんは「大宝」を「改元」と説明し、久禮さんは「建元(改元)」と奇妙な表記で解説される。すごい「曲芸」ですね。いつから歴史学は学問としてこのような「手法」が許されるようになったのでしょうか。これこそ研究不正としてなぜ毎日新聞やNHKは、小保方さん(イギリスの商業誌に掲載された論文の約八〇枚の写真中、三枚の写真に結論に影響しない過誤があっただけ)や笹井さん(同論文執筆指導しただけで、死ぬまで叩かれるようなことはしていない)以上にバッシングしないのでしょうか。このように「学問的にまったく成り立たない」のは、古田氏の九州王朝説ではなく、へんてこな「建元」「改元」解説をせざるを得ない、大和朝廷一元史観の方であることは明白です。

 

二、「九州年号」金石文と木簡

 前節で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(十五頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・一九九〇年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。
 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(二六頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(一九八三年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(六九九)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(六八八)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。
 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見により、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。
 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。

 

三、誤読された『二中歴』

 所さんは『年号の歴史』において、九州年号を仏教僧侶・関係者による偽作とし、その時期は鎌倉時代末期には出揃ったとされています。次の通りです。

「私は、『善記』以下三十あまりの『古代年号』が出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差し支えない(けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)と考えている。」(十六頁)
「“古代年号”の創作者は、おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係が深い人物と推測して大過ないと思われる。」(二七頁)

 このような所さんの見解の根拠は、『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」が最も成立が古いとされ、その『二中歴』の成立を鎌倉末期と理解されたことによるようです。

「周知のこどく、『二中歴』は、平安後期(天治~大治〔一一二四~三〇〕ごろ)成立の『掌中歴』と『懐中歴』とをもとにしながら、新しく大幅に増訂した類聚辞典で、文中に後醍醐天皇を「今上」と記しているから、一応その在位年間(文保二年〔一三一八〕から延元四年〔一三三九〕まで)に成立したとみてよいが、その後数代約一世紀の追記が認められる。」(十六頁)

 しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされているのです。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。
 したがって「年代歴」に収録されている「古代年号」(九州年号〔倭国年号〕)は遅くとも鎌倉初期あるいは平安時代には「出揃った」と言わなければならないはずなのです。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いているのです。

 

四、平安時代成立の九州年号史料

 所さんは『二中歴』の成立時期に対する誤解から、九州年号の「出揃い(偽作)」時期を鎌倉末期とされ、平安時代の史料には存在しないとされています。しかし、「『赤渕神社縁起』の史料批判」(『古代に真実を求めて』十七集所収。古田史学の会編。二〇一四年、明石書店)などにおいて、わたしは平安時代に成立した『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市赤淵神社蔵)に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しました。こうした史料の存在も所さんはご存じなかったようです。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、八二八年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。
 なお、古田先生が紹介された『続日本紀』神亀元年十月条(七二四)の聖武天皇詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」を所さんは九州年号とは見なされていません。「白鳳」「朱雀」も『二中歴』に見える「古代年号」に含まれているのですから、九州年号(倭国年号)が成立の早い史料に見えないとするのは誤りです。

 

五、『二中歴』「年代歴」の誤読

 所さんは『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」(九州年号)を信頼できないとして、鎌倉時代末期の僧侶等による偽作とされたのですが、信頼できないとする理由は次のようなことでした。
 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号記事の末尾に次の記述があり、その「只有人伝言」を「九州年号はただ人が言い伝えている」と解し、九州年号は確かな出典や根拠が不明な言い伝えにすぎず、信頼できないとされたのです。

「已上百八十四年、年号卅一。代〃不記年号。只有人伝言。自大宝始立年号而已。」(句読点は所さんによる。十七頁)

 この末尾の一行を所さんは「公式の年号は大宝よりはじめて立てられた」と理解されたのです。和風漢文ですので、こうした訓みも不可能ではありませんが、逆に「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みも考えられるのです。したがって、どちらの訓みが妥当かは『二中歴』全体から編者の認識を読みとる必要があります。
 たとえば『二中歴』「第一 人代歴」の継体天皇の細注に「此時年号始」(この時に年号が始まる)とあり、「年代歴」に記されている最初の古代年号「継体」が継体天皇の時代に始まったと記しているのです。古代年号の最初の「継体」は元年干支が丁酉と記されており、その年は西暦五一七年で継体天皇の十一年にあたり、まさに継体天皇の時代に相当します。
 『二中歴』「第七 官職歴」冒頭にも「孝徳天皇大化五年始置百官八省」とあり、『日本書紀』の「大化」年号が記されています。ここでも『二中歴』編者は「大宝」以前に年号があったと認識しているのです。
 このように『二中歴』編者は、「大宝」以前に「年代歴」の古代年号が実在したと認識しているのです。ですから、「只有人伝言。自大宝始立年号而已。」は「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みのほうが『二中歴』編者の認識に対応した訓みとなるのです。

 

六、偽作説の淵源「戦後型皇国史観」

 所功さんによる九州年号(倭国年号)偽作説が『二中歴』の誤読や九州年号金石文・木簡の存在の「無視」という誤謬により成り立っていることを指摘してきましたが、所さんの誠実なお人柄からすると、無視でなく本当にご存じないのかもしれません。テレビなどで拝見する限り、所さんが皇室を敬愛されていることを疑えませんが、そのために古代における近畿天皇家以外の権威・権力者の存在が見えないとしたら、歴史学者として残念というほかありません。
 古田氏が提唱された九州王朝説は九州年号(倭国年号)説と密接不可分な関係にありますから、九州年号の存在を否定できない限り、九州王朝の存在を認めざるを得ません。したがって、九州年号偽作説は古代における近畿天皇家以外の日本列島の中心王朝(九州王朝〔倭国〕)を絶対に認めないという「戦後型皇国史観」を思想的背景に持っているものと思われます。この「戦後型皇国史観」は学説というよりもイデオロギーに近く、不思議なことにマルクス主義歴史観が席巻した戦後史学界において、より強固に学問的装いを持って成立したのです。
 その「根拠」として所さんの九州年号偽作説は学界に浸透していくのですが、現代の高速情報化社会にあって、いつまでも九州王朝説や九州年号(倭国年号)の存在を国民の目から遠ざけることは到底不可能です。今上陛下の「生前退位」(ご高齢の方に「生前○○」などという表現は失礼。「譲位」というべき)が国民的関心事となっていますが、年号(改元)もまた関心事となることを疑えません。そして天皇制と元号が続く限り、本稿冒頭に指摘した「建元」と「改元」の論理から逃れることはできません。これからも近畿天皇家一元論者(戦後型皇国史観)は改元の度に九州年号(倭国年号)と古田武彦氏の亡霊に怯えることでしょう。(古田武彦先生の一周忌に思いを馳せつつ記す)

※本稿は「古田史学の会」ホームページ連載の「洛中洛外日記」から転載、加筆修正したものです。「偽作説の淵源『戦後型皇国史観』」のみ新たに書き下ろしました。(古賀)


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