『古代に真実を求めて』 第二十三集

四天王寺と天王寺服部静尚(『古代に真実を求めて』 第十八集

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2020年5月 聖徳太子の実像 @その2、十七条憲法は聖徳太子作でない 服部靜尚
        聖徳太子の実像@その3、十七条憲法とは 服部靜尚


聖徳太子は九州王朝に実在した

十七条憲法の分析より

服部静尚

一、はじめに

 『日本書紀』では、橘豊日(用明)天皇と穴穗部間人はしひと皇后の長男として廐戸皇子が現れる。(小字二行割注に)「更名豊耳聰とよみみと聖德、或名豊聰耳とよとみみ法大王、或云法主王」と示し、この皇子は初め上宮に居り後に斑鳩に移り、豊御食炊屋姬(推古)天皇の世に東宮(皇太子)につかれ、国政をすべて執りしきって天皇の代行をしたと伝える。これがいわゆる聖徳太子である。
 大山誠一氏(注1)は、この聖徳太子が実は架空の人物であったとした。氏は、聖徳太子に関する確実な資料は皆無であって、『日本書紀』編纂時に時の権力者らが理想的な天皇像を作り上げたのだとする。とすると、あの十七条憲法(六〇四年)は誰が作ったのであろうか。ここでは十七条憲法の内容からこれを検証する。

 

二、十七条憲法とは

 この憲法が言っていることを集約すると、次の三点である。
(Ⅰ)仏教を敬え。仏教以外に人の悪を正せるものはない。(第二条)
(Ⅱ)国に二君は無い。全ての国司・国造・百姓の主は君(王・天子)である。(第三条及び第十二条)
(Ⅲ)官僚の行動規範・服務規程。(残りの十四箇条)
「四に曰く、群臣百寮、礼を以て本とせよ」とか、「八に曰く、群卿百寮、朝早く出仕し、おそく退出せよ」とか、「十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと無かれ」が、官僚の行動規範および服務規定である。
 これについては岡田正之氏(注2)が指摘するようにモデルがある。北朝周の大統十年(五四四)に制定された六条詔書だ。北周の太祖(宇文泰)は(重臣の蘇綽に作らせた)この六条詔書を重視して、座右に置き、百官に習誦させた。地方長官(牧守・令長)がこの六条詔書及び計帳に通じなければ官を外すほどであった。つまり、北周の天子が地方長官へ課した規範書だ。その六条は次のような項目でできている。
其一 先治心(心を治めることを先とせよ)。其二 敦教化(教化を厚くせよ)。其三 盡地利(地の利を尽くせ)。其四 擢賢良(賢良を抜擢せよ)。其五 恤獄訟(獄訟を憐れむ)。其六 均賦役(賦役を等しくせよ)。

 十七条憲法には、(この六条詔書をモデルとする)官僚の行動規範に加えて(Ⅰ)(Ⅱ)の根本方針が盛り込まれている。瀧川政次郎氏(注3)は、「東方に迫りつつある隋の圧力」を前に官僚政治に基づく「強力なる中央集権的国家を建設せんとする思想が生まれ」これが憲法成立の背景だとする。その強力な権威を、十七条憲法では「儒教の絶対君主」と「仏教」に求めているのだ。
 ここで根本的な問題なのだが、(Ⅰ)「二に曰く篤く三宝を敬え、(中略)三寳に帰せずんば、何を以ってか枉(まが)れるを直さん。」と、(Ⅱ)「十二に曰く、(中略)国に二君非ず」「三に曰く、詔を承けては必ず謹しめ。(中略)君は即ち天なり」とは矛盾する。これが思想史的には大問題のようである。二葉憲香氏(注4)の言葉を借りると「承詔必謹の要求と篤敬三宝の要求とは、天皇自身が篤敬三宝による直枉じきおうの立場に立つことによってのみ、辛じてその矛盾の克服を考えるものであるとすることもできようが、現実には二つの思想の立場はたやすく相容れるものではない。」のだ。

 

三、古田武彦氏の言う「海東の菩薩天子」で矛盾は解消する

 『隋書』によると、倭国王アメ・タリシホコは隋の天子に仏教を教わりたいと申し入れる。
◆大業三年(六〇七)、倭国の王(阿毎)多利思比孤が使を遣り朝貢した。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて佛法を興したと聞いた。故に遣いに朝拝させて、沙門数十人を送って佛法を学ばせたい。」其の國書に曰く「日出づる処の天子日没する処の天子に書を致すつつがなきや」云云◆

 北朝隋は南朝陳を滅ぼして中国を統一したが、出身は鮮卑族と考えられる。新しく統治された側の元南朝は漢民族の国だったから、その夷蛮の支配には抵抗があったに違いない。『隋書帝紀』によると、初代皇帝楊堅(文帝)は(陝西省にあった)般若寺で生まれ、尼僧(智仙)に養育されたと伝える。即位後、国寺としての大興国寺を建立し、中国全土百十一一四州に仁寿の舎利塔を造らせた。隋は、「仏教治国策」でその統治の正統性を認めさせようとしたのだ。いわゆる私はこれこそが「国家仏教」と考える。タリシホコはこの国家仏教を学ぼうと数十人の沙門を送り込んだのだ。
 古田武彦氏(注5)は、「多利思北孤が日出づる処の天子と名乗り、隋の煬帝を海西菩薩天子と呼んでいることから、同時に自らを海東菩薩天子と意識していたはずだ」とする。菩薩は宗教上で万民を導く、天子は軍事・政治で万民の上に立ち実力を行使する。「海東の菩薩天子」であれば、「現実には二つの思想の立場はたやすく相容れるものではない」と、二葉氏が問題視したその矛盾が解消するわけだ。

 

四、十七条憲法の成立時期

 大山氏は、大化以前において第十二条に見える「国司」の用語、が大化以前においておよび国を単位に行政的支配を行う宮官人(つまり国司)の存在は考えがたいこと、憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれているが推古朝はまだ氏族制度の時代であり相応しくないこと、中国の古典から多くの語を引用している所が『続紀』や『書紀』の文章と似ていることを挙げて、『書紀』の編者自身によって作られたものだとする。つまり八世紀初頭の成立説だ。
 神崎勝氏の論考(注6)を参照して大山氏以外の先行研究を見ると、十七条憲法の成立時期は(左記①~④)七世紀初頭でもおかしいし、(⑤~)八世紀初頭でもおかしい、そのような政治体制を前提として作られていることになる。そんなわけの判らないことになっているのだ。

 ①大化前代に「国司」ひいては「国」と呼ばれた地方行政区画は国造の「国」以外にありえず、国司制の成立=国造制の解体とすれば、推古朝当時としては「国司・国造」という連称も考え難い。百姓から租税を徴収しそれを自己の有とするというのは、地方豪族たる国造本来の権限の範囲であり、従ってまた国造を「所任官司」とするのも誤りである。君主の地位を絶対視する思想や中央集権的な官僚制的性格は、氏姓制度のもとでは理解しがたい。氏・姓・氏祖・伴造などの問題を語っておらず官府組織の一大改革が行われたように見えない。独断を戒め衆議によるべしとする点は、蘇我氏専権時代には相応しくない。(津田左右吉一九四九年)

 ②推古朝当時に国民の全てが天皇を主とするというほど絶対的な地位にはない。(直木孝次郎、一九六五年)

 ③藤原宮跡出土の木簡に某司と呼ぶ役所名がないことなどから、国司の成立は大宝令成立以後のことである。(直木孝二郎・田辺昭三、一九八二年)

 ④公地公民が実施された天武持統朝ごろの偽作とみるのが最も似つかわしい。(直木孝次郎、一九八二年)

 ⑤「東方に迫りつつある隋の圧力」を前に官僚政治に基づく「強力なる中央集権的国家を建設せんとする思想が生まれ」これが憲法成立の背景だ。(瀧川政次郎、一九三四年)

 ⑥条文から「国造を通じてのみ人民を支配する程度の政治制度しか知らなかった」とみられる内容で、逆に「国造の廃された改新後では相応しくない」。(井上光貞、一九六五、一九七一年)

 これに加えて「五に曰く。(中略)永年にわたり訴訟を治める者は利益を得る事を常にしている。」とか、「十一に曰く(中略)日頃は手柄でもないのに賞を与え罪も無いのに罰している。」などの表現は「時弊を説いたように見える文字(津田左右吉、一九四九年)」、「目前の事態を念頭においた表現(井上光貞、一九五四年)」と指摘する。
 つまり一元史観でみると、七世紀初頭でもおかしいし、八世紀初頭でもおかしい政治体制を前提として、十七条憲法に作られていて、しかも成立時点で、その政治体制が実際に行われていて、そこに正さなければならない時弊が現われていたとなる。全く理解不能なのだ。

 一方、仏教の扱いに注目して十七条憲法をみると、その成立時期は絞られる。三項で示したように、『隋書』にある大業三年の遣隋使の目的と、十七条憲法の思想は合致する。
しかも、その時期は、実は七世紀初頭の非常に短い期間に限定されるのだ。なぜならば、隋の後を継いだ唐は、仏教に対する立場を大きく変える。いわゆる「道先仏後」で、何より道教が先にあって仏教は後に回される。すなわち唐の道僧格(六三七年成立と見られるが散逸)では僧尼は管理され、布教を含めて制限される対象となる。これに影響を受けて、我が国でも僧尼令ができる。「篤く三宝を敬え」の精神ではなくなるのだ。
 このあたりの状況を説明するため、二葉氏の論考(注4)よりを引用する。「(再現した道僧格と僧尼令の各条文を比較したところ)僧尼令で存在する条項で道僧格にたしかに存在したと考えられるもの十三条、存在不明なもの十二条、存在しなかったもの二条となる。存否不明の十二条の内七カ条は唐制と考えることができるし、第二十七条(焚身捨身の禁止)は道僧格にはないが貞観の僧制には、その先例を見出すことができる。このことから、僧尼令は単に道僧格を模倣しているのではないこと、独自な立場に立って唐制を取捨して編纂したものである。(中略)僧尼令を成立せしめた律令国家の宗教的立場は、(中略)神祇令を見てもわかるように明らかに神祇崇拝を立場とするものであり、(中略)神祇優先において一貫する。」つまり、道僧格の道教を神祇に置き換え、唐特有の制度は除いて、僧尼を管理する主旨は踏襲した、それが僧尼令ということになる。やはりそこには「篤く三宝を敬え」の精神はない。十七条憲法が持つ菩薩天子、菩薩天皇の思想はそこにはない。

 

五、十七条憲法は七世紀初頭に九州王朝で作られた

 一元史観では理解不能であって、成立時期は七世紀初頭に絞られる、という以上の考察結果を、九州王朝説で考えた場合はどうか、次のように考えると齟齬がないのである。
七世紀初頭、既に九州を中心に行われていた中央集権政治を、新たに畿内を含めた東日本で実施する。それらの地域では、これまで現地の王を通じての間接支配であったが、そこで初めて九州王朝による直轄支配を行おうとした、十七条憲法はそのために制定したものではないか。
 これは九州王朝の天子が、(既に九州の本拠地で実施していた)官僚による直轄支配を、東国に拡大するための(新しく派遣する官僚と西国の豪族への)通達として作られたものであった。
 第一に「君則天之」「国非二君」を示し、第二にその支配の正統性を支える仏教政策「篤敬三宝」をかかげ、第三に官僚の行動規範・服務規程を定めたものだ。
 『日本書紀』が示す十七条憲法を制定した聖徳太子は、九州王朝のアメ・タリシホコをモデルにしているのである。の中に実在したのである。

(注1)「『聖徳太子』研究の再検討」大山誠一、「弘前大学國史研究」一九九六年
(注2)「近江奈良朝の漢文学」岡田正之、一九二九年、および『蘇綽の六条詔書について』谷川道雄、『名古屋大学文学部研究論集(史学)』一九六七年
(注3)(注6)よりの引用
(注4)『古代仏教思想史研究―日本古代における律令仏教及び反律令仏教の研究』二葉憲香、一九六二年
(注5)「法隆寺と九州王朝」古田武彦、『市民の古代第5集』一九八三年
(注6)『十七条憲法の構造とその歴史的意義』神崎勝、立命館文學・立命館大学人文学会編、一九九七年


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