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『古事記』神武東征説話の新・史料批判 古賀達也
古田武彦 講演記録神と人麻呂の運命2 三 降臨以後(『古代に真実を求めて』第5集)
古田史学論集『古代に真実を求めて』第六集 明石書店
2003年 4月 1日発行
古賀達也
『古事記』神武東征説話中に九州王朝の天孫降臨神話が盗用されていたことを、「盗まれた降臨神話ーー『古事記』神武東征説話の新・史料批判」(注1. )にて発表したが、幸いにも拙論に対して賛否両論にわたるご意見ご批判を得ることができた。研究者として深く喜びとするところである。そうしたご意見に応えるためにも、前稿での対象とした『古事記』と同様に、本稿では『日本書紀』神武紀の史料批判を行い、天孫降臨説話の盗用というテーマについて再び論じることとしたい。
前稿における論証の眼目は、神武記に記された神武の三つの呼称であった。一つは、「神倭伊波禮毘古命(いはれひこ)」であり、今一つは「天神御子(みこ)」、そして「天皇(または神倭伊波禮毘古天皇)」である。これら三つの呼称が神武記に混在しているのだが、この中の「天神御子」に注目すると、それは熊野から紀伊半島を縦断し、大和盆地に突入するまでの間のみに使用されており、この「天神御子」による説話部分は天孫降臨神話(恐らくは天津日子番能邇邇藝(あまつ ひこ ほのにきぎ)命による糸島・肥前侵略説話)からの盗用としたのである。
それでは、『日本書紀』神武紀における神武の呼称はどうであろうか。基本的には全編を通じて、終始「天皇」の呼称で説話が綴られているが、他に「天神子(あまつ かみ みこ)」「天孫(あめみま)」「天壓神(あめおすかみ)」という呼称が若干例使われている。次の通りだ。
1. 對(こた)えて曰(いわ)く、臣は是れ國神なり、名を珍彦(うづひこ)と曰う。曲浦(うらわ)に釣魚(つり)す。天神子来(いで)ますと聞けり、故れ即ち迎え奉る。
2. 時に長髄彦(ながすねひこ)聞きて曰く、夫(そ)れ天神子等来(いで)ます所以(ゆえん)は、必ず将に我が國を奪わんとす。
3. 武甕雷神(たけみかづち)登ち高倉下(たかくらじ)に謂りて曰く、予が劔の號(な)を[音市]*靈と曰う。〔[音市]*靈、此をばフツノミタマと云う。〕今當(まさ)に汝が庫の裏(うち)に置くべし。宜(う)べ取りて天孫に獻(たてまつ)れ。
[音市]* は、音編に、市の上を切ったもの。表示不可ですので、『日本書紀』を見て下さい。
4. 弟猾(おとうかし)即ち詣(まうけ)至り。因りて軍門を拝みて告(もう)して曰く、臣が兄兄猾(えうかし)の逆を為る状(かたち)は、天孫到りまさむとすと聞きて、即ち兵を起こして、将に襲わんとす。
5. 時に烏其の營(いおり)に到りて鳴きて曰く、天神子汝を召す。
6. 兄磯城(えしき)忿りて曰く、天壓神の至りますと聞きて、吾が慨憤(ねた)みつつある時に、奈何にして烏鳥のかく悪しく鳴くやといひて、〔壓、此をばオスと云う。〕乃ち弓を彎きて射る。
7. 烏即ち避(たち)去りぬ。次に弟磯城(おとしき)が宅(いえ)に到りて鳴きて曰く、天神子汝を召す。
8. 時に弟磯城(おとしき)慄*、然(お)ぢて改容(かしこま)りて曰く、臣、天壓神至りますと聞きて、旦(あした)夕に畏ぢ懼る。
慄*は、心編に、栗の西と世を入れ替え。表示不可ですので『日本書紀』を見て下さい。
9. 吾が兄兄磯城 (えしき)、天神子来でますと聞きて、則ち八十梟帥(やそたける)を聚(あつ)めて、兵甲(つわもの)を具えて、與に決戦わんとす。
10. 故(かれ)、吾、饒速日(にぎはやひ)命を以て、君として奉へまつる。夫れ天神子、豈両種(あにふたはしら)有さんや。奈何(いかに)ぞ更に天神子と稱(なの)りて、人の地を奪わん。
11. 天皇の曰く、天神子亦多(さわ)にあり。汝が君とする所、是實(まこと)に天神子ならば、必ず表物(しるしもの)有らん。相示(み)せよ。
12. 饒速日命、本より天神慇懃(ねんごろ)したまわくは、唯天孫のみかということを知れり。
以上、「天神子」が七例( 1. 2. 5. 7. 9. 10. 11.)、「天孫」が三例( 3. 4.12. )、「天壓神(あめおすかみ)」が二例(6.
8. )だが、その殆どが会話の中で使用されている。なお、この他に椎根津彦(しいねつひこ)が神武を「我皇(わがきみ)」と呼んでいる例が一件あるが、これは「天皇」呼称の変形と見なし、ここには挙げなかった。また、饒速日命も長髄彦や神武から「天神子」と呼ばれている。
「天神子」や「天孫」の呼称は神代紀において頻繁に使用されるが、神武以後の各天皇紀になると、具体的な人物を指す例としては神武紀以外には表れない(注 2. )。従って、この呼称部分も天孫降臨神話からの盗用の可能性が高いように思われる。前稿でも指摘したように、天照大神の子供でも孫でもなく、五代も後の神武が「天神子」や「天孫」と呼ばれることがそもそも不自然なのだ。
また、「天壓神(あめおすかみ)」という呼称は、『古事記』には見えない兄磯城・弟磯城説話中のみに表れることから、これも天壓神(あめおすかみ)と呼ばれる人物による天孫降臨説話からの盗用ではあるまいか。この神名は他に見えず、どのような神かは不明であるが、天忍穂耳尊の「オシ」と壓の音が近いことから、天忍穂耳尊の別名かもしれない。「天壓神(あめおすかみ)」は兄磯城から「天神子」とも呼ばれていることから、天忍穂耳尊であれば天照大神の子供であり「天神子」という表現もピッタリである。
次に「天孫」という呼称だが、武甕雷神(たけみかづち)・弟猾(おとうかし)・饒速日(にぎはやひ)命それぞれの発言中に見える。まず、武甕雷神は天孫降臨時の神であることから、これも天孫降臨神話からの盗用の可能性が高い。従ってこの記事は天孫降臨神話に有ったものであろう。
兄猾・弟猾説話(『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯)は前稿において糸島半島(宇多川原・加布羅(かぶら) )での説話であることを述べたが、ここでも「天孫」という呼称が使用されていることから、兄猾・弟猾説話もやはり天孫降臨神話からの盗用とすべきであろう。更に、『日本書紀』の兄猾・弟猾説話には天香山が度々登場することから、この説話は天国領域とその近くを舞台とした説話であったはずだ。このことも、同説話を盗用とするわたしの仮説を支持するものである。
饒速日命も前稿で指摘したように、天孫降臨時の神である。以上のように、神武紀に見える「天孫」呼称は三例とも文字通り天孫降臨神話からの盗用と考えざるを得ないのである。
『古事記』と『日本書紀』の神武東征説話を比較すると、『日本書紀』の方が分量も多く、初代の天皇としてより飾られている。たとえば、「天壓神」が登場する兄磯城・弟磯城説話もその一つである。すなわち、九州王朝系史料からの盗用がより進んでいると考えられる。同時に、大義名分上からの説話の変更も見られる。その一つが、長髄彦説話だ(『古事記』では登美能那賀須根毘古(とみの ながすねひこ)または登美毘古(とみひこ)とする)。
長髄彦との戦いによる矢傷が原因で、神武の兄五瀬尊は死亡し紀國の竃山に葬られる。長髄彦は『古事記』では最初に登美能那賀須根毘古という名前で紹介され、その後の説話では登美毘古として表れるのだが、神武が登美毘古を討って勝利したという明確な記事はない。ところが『日本書紀』では、「乃ち殺しつ」と五瀬命の敵討ちを果たした説話となっている。どちらが真実であろうか。もちろん、『古事記』の方だ。何故ならば、もし勝利したのなら、そのことを『古事記』に記されないはずがない。しかも、長髄彦(登美毘古)は銅鐸圏中心領域の王者あるいは正規軍の長である。神武兄弟が河内湾に突入して、敗北を喫した相手である。もし、その長髄彦に勝利したのなら、神武とその子孫が大和盆地の一隅橿原に数代にわたって蟄居(注
3. )した説明がつかないし、大和盆地から銅鐸が消滅するのも神武の時代よりも後のことだ。すなわち、神武は長髄彦(登美毘古)に勝てなかったのである。この「長髄彦(登美毘古)の論証」により、わたしたちは大和における神武勝利説話の多くが天孫降臨神話からの盗用であった可能性の高いことを知ることができるのである。
長髄彦問題について、今一歩考察を進めよう。それは、長髄彦自身は神武の時代の人物であったのか、天孫降臨時の人物であったのかというテーマだ。というのも、『古事記』では那賀須根毘古(ながすねひこ)と登美毘古という二つの名前で表記されており、両者は別人ではなかったかという疑問が生じるのだ。恐らく、どちらかが天孫降臨時の抵抗勢力で、他方が神武東征時の抵抗勢力だったのではあるまいか。にわかには断定できないが、可能性としては那賀須根毘古が天孫降臨時であり、登美毘古が神武東征時ではないか。たとえば、より修飾が少ない『古事記』では、五瀬命に矢傷を負わせた相手を登美毘古と記しており、この時の神武の呼称は神倭伊波禮毘古(かむやまと いわれひこ)命であり、天神御子ではない。従って、この部分は天孫降臨神話からの盗用ではなく神武自身の伝承部分と思われる。従って、そこに記された登美毘古という人名を重視すれば、神武東征時の銅鐸圏の王者であったと見なすべきであろう。他方、那賀須根毘古は『古事記』では、河内湾突入の最初に登美能那賀須根毘古と一回だけ登場し、登美能(とみの)とわざわざ地名を付けて、その後に表れる登美毘古と同一人物であるとするための伏線として記されているだけである。
そうすると、長髄彦は天孫降臨時の抵抗勢力となるのだが、『東日流外三郡』や東北地方の伝承に登場する長髄彦との関係が注目されよう。『東日流外三郡誌』によれば、長髄彦は日向の賊に追われて稲穂を持って津軽に逃れてきたとされる。すなわち天孫降臨時に筑紫を追われて逃げてきた長髄彦こそ、『古事記』『日本書紀』の神武東征説話中に盗用された長髄彦と同一人物であることになり、うまく整合するのではあるまいか。
『古事記』に比べ、『日本書紀』の神武紀には神武の業績を誇るために、多くの説話が盗用付加されていることを述べてきたが、他方、逆に『古事記』にある地名がカットされている例も散見される。たとえば、前稿で指摘した訶夫羅前(かぶらさき)もその一つだ。『古事記』には「故、ここに宇陀の兄宇迦斯、弟宇迦斯の二人ありき。故、まづ八咫烏を遣わして、二人に問ひて曰ひしく、『今、天神御子幸でましつ。汝等仕へ奉らむや。』といひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ。」という地名説話が記されているが、『日本書紀』には見えない。これも訶夫羅前という地名が大和の宇陀には現存しないが、糸島には宇多川原から4キロほど西の雷山川河口(前原市)に加布羅(かぶら)という地名があり、昔は岬であったと思われる(注
4. )。従って、『日本書紀』編纂者はこの地名説話をカットしたのだ。
古田武彦氏が「南方みなみかた)の論証」(注 5. )で指摘されたように南方も『日本書紀』ではカットされている。神武の時代、弥生時代(中期末)の大阪湾・河内湖の地形と、南方(新大阪駅の近く)から脱出するルートはよく一致するが、七~八世紀の近畿天皇家の史官たちにとって、この弥生時代の地形に基づく脱出ルートは理解できなかった。従って、『古事記』では伝承通り採用されたものの、『日本書紀』ではカットされたのである。
先の訶夫羅前(かぶらさき)のケースは、大和に同名地名が存在しなかったためにカットされたのだが、南方のケースは当時の地形に対応していないため不合理と判断されてカットされたものである。この南方と同様のケースが「吉野河の河尻」だ。『古事記』では、神武が熊野から紀伊半島を縦断し、最初に到着したのが「吉野河の河尻」とされている。しかし、山越えして到着するのならば吉野川の川上でなければならない。たとえば、本居宣長はこれを不審とし、『古事記伝』において、この河尻は河上の誤りであろうとした。
この「河尻」は地形名詞であり、必ずしも河口を示すとは限らず、奈良県吉野近郊に「○○尻」という地名があることから、『古事記』の「吉野河の河尻」も不自然ではないとする説が伊東義彰氏より出されている。(注
6. )氏の説は留意すべき点少なくないが、この場合、『日本書紀』ではカットされていることを重視すべきではあるまいか。『日本書紀』編纂時点において、編纂者達にとって「吉野河の河尻」という表記は、南方と同様に不合理と理解されたのであるから、やはり佐賀県吉野における侵略説話の盗用部分と判断するほうが良いように思われるのである。こうした『日本書紀』でのカットは降臨神話からの盗用説を支持する史料状況ではあるまいか。
『日本書紀』編者が改変したのは地名に留まらない。古田氏が論証されたように、神武東征ルートにも改変の手が加わっている。『古事記』では神武の発信地を糸島郡日向(ひなた)としているが、『日本書紀』では宮崎県日向(ひゅうが)と改変されている。その為、「速吸の門」が『古事記』では鳴門海峡(古田説)とされていたのが、『日本書紀』では豊予海峡になったりしている。もちろん、歴史事実として正しいのは『古事記』の記述の方である。
これと同様に大和内での神武の行軍ルートも『古事記』と『日本書紀』では異なっている。『古事記』では、熊野から紀伊半島を縦断した神武は吉野河の河尻に至り、そこで魚獲りをしていた贄持之子(にえもつのこ)に出会う、次に井氷鹿(ひか)、そして石押分之子(いわおしわくのこ)と出会った後、宇陀に突入し兄宇迦斯(えうかし)との戦闘に入る。このように、吉野河の河尻から宇陀までは主線行路である。これに対して、『日本書紀』では熊野から菟田にいきなり入り、兄猾(えうかし)との戦闘に勝利した後、神武は吉野見物に向かうのである。そしてまず井光と出会い、次いで磐排別(いわおしわく)之子、最後に水にそって西に向かい苞苴擔(にへもつ)之子と出会う。従って、吉野行きは戦闘とは無関係であり、菟田に突入した後の傍線行路なのである。
この改変も、吉野河の河尻から東に宇陀へと向かう『古事記』のルートが、『日本書紀』編纂者には不自然と映ったためであろう。そのため、井光から苞苴擔之子と出会う吉野行きを傍線行路に変え、菟田から西に向かうルートへと改変したのである。しかし、この熊野から宇陀への侵入説話を天孫邇邇藝(ににぎ)命による肥前侵略説話からの盗用と見なした時、『古事記』に記された東から西へ向かうルートの方が適切となる。
前稿で既に述べたところでもあるが、佐賀県有明町杵島山地の東南に稲佐山があり、稲佐神社もある。この杵島山地一帯は昔、熊野の里と呼ばれており、北西の山には熊野神社、東側の須古には熊野小路という字地名が現存し、南西には久間町がある。邇邇藝(ににぎ)命らはこの肥前熊野に上陸した後、肥前「吉野川」(現、嘉瀬川)の河尻に出たのだ。その時、歌った歌が次の歌だ。
「楯(たた)並めて 伊那佐の山の 樹の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養(うかい)が伴 今助(す)けに来ね」(『古事記』神武記)
杵島山地の稲佐山の東北には多田という地名が並ぶようにあり、この多田が「楯(たた)並めて」と詠み込まれたのだ(注 7. )。『日本書紀』に見える丹敷(にしき)浦と類似地名の「錦江」もこの近くにある。そして、更に東へ向かい井氷鹿(井光)らと遭遇したのではあるまいか。もしかすると、その井氷鹿(井光)と関連するかも知れない神社名が江戸時代の地誌『筑後志』に見える。
○三瀦郡 威光理明神社同郡六丁原村にあり。
威光理明神社同郡高津村にあり。(『筑後志』巻之七)
この威光理明神社の威光理は「いひかり」と読むのではあるまいか。もしそうであれば、井氷鹿(井光)と関係があるように思われる。三瀦郡六丁原村と高津村は共に筑後川下流域東岸にある。従って、佐賀県とは隣接しており、地域的にも先の「神武」説話とよく対応しているのだ。しかも、佐賀県は吉野ヶ里で有名なように、○○ヶ里という地名が夥しく存在する。この「いひかり」も「いひヶ里」ではあるまいか。こうした傍証も、神武東征説話に天孫降臨神話の肥前侵略説話が盗用されたとするわたしの仮説と対応している。威光理明神社については今後現地調査を実施したいと考えている。現時点では断定は控えるが、興味深い神社名でもあり、ご紹介しておきたい(注
8. )。
『日本書紀』神武紀の史料批判により、前稿では明確にできなかった降臨神話の盗用範囲がいくらかは特定できたように思われる。今回は触れなかった部分も、その多くは盗用ではないかと考えている。たとえば、神武紀中の戦闘記事には荒坂津・男坂・女坂・墨坂など、「坂」地名が見られるが、これらも神武歌謡の「意佐加(おさか)」と同様に佐賀県の佐賀と関連する地名ではないかと考えている。今後の研究課題だ。未(い)まだ論証上不十分な点も少なくないが、読者のご批判をお願いして、ひとまず擱筆したい。
(注)
1. 古賀達也「盗まれた降臨神話-『古事記』神武東征説話の新・史料批判-」、『古田史学会報』
No.四八、二〇〇二年四月。『古代に真実を求めて』第五集(二〇〇二年七月、明石書店)に転載。
2. 「天神子」という表記は神代紀と神武紀にしか表れない。「天孫」は神武紀以降では皇極紀(四年条)に一例見える。
3. 神武は銅鐸圏との戦いに敗れ、事実上降伏に近い「和睦」をして橿原に入ることを許されたのではないかという説が西村秀己氏により発表されている。(「神武の行った道」、『古田史学会報』No.
四九、二〇〇二年四月)
4. 力石巌氏(古田史学の会・九州代表)の御教示による。
5. 古田武彦『ここに古代王朝ありき -- 邪馬一国の考古学』一九七九年、朝日新聞社。
6. 伊東義彰「『神武が来た道』について」、『古田史学会報』No. 四九、二〇〇二年四月。
7. 古田武彦氏の御教示による。
8. この他にも、佐賀市には碇ノ天神(太宰管内志による)という神社や、碇姓が密集している地域(佐賀市・東与賀町・上峰町・江北町)がある(上条誠氏の御教示による)。この碇もイヒカリと関係があるのではないかと注目している。
インターネット事務局注2003.4.1
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これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)五・六集が適当です。
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