『古代に真実を求めて』第七集
歴史のまがり角と出雲弁・3 へ


<講演記録> 二〇〇三年一月十八日 於:北市民教養ルーム

歴史のまがり角と出雲弁3

人類の古典批判

古田武彦

 三 『論語』の史料批判

 去年の秋にツアーの形で中国山東半島へまいりました。孔子が生まれた曲阜(きょくふ)へ参りました。それでお聞きの方も多いと存じますが、もう一度言わさせていただきます。それは、孔子の理解に対しみんな誤解しているのではないか。そのように感じましたので述べさせていただきます。

 たとえば先頭の有名な一節、誤解しているのではないか。誰でも知っている文章です。わたしも学校で教えて来ました。しかし良く読んでみると問題を含んでいる。

   巻一 學而第一 一
  子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知亦而不慍、不亦君子乎、
  子曰(い)わく、学びて時にこれを習う。亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる。亦た、楽しからず、人知らずして慍(うら)みず。また君子ならずや。

 この一節も、ひねくれて考えてみると、遠くから来た人とは楽しい。それでは近くから来た人はあまり楽しくないのか。そのように皮肉に考えなくとも良いように思うが、英語に訳しにくい。それに「人知らずして慍うらみず。」、これも英語に一番訳しにくい言葉で、「慍うらみず。」、つまり悶々として、ストレスを生じて、自分からねじ曲がっていく。つまり自分から曲がっていくのが「慍うらむ」です。それをきちんとした意味に取ると、「君子 ならずや」と「君子」が、なぜ、ここに出てくるのかが問題です。ですから、ただ読んで流せば問題はないように感じますが、一語一語検討していくと理解できない。なんとなく落ち着きがない。
 それで有名な『諸橋大漢和辞典』を編集された諸橋轍二さんが書いた『如是我聞、孔子伝(上・下)』(大修館書店)を見ますと、かなり事情がわかってきました。これによりますと、孔子の親父さんは名門、ただし元名門です。春秋戦国時代、宋の国の名門だった。ところが動乱が起きて、攻撃されて魯の国へ亡命した。ここでは落ちぶれた名門。子供が九人出来た。お母さんもいろいろだと思います。ところがほとんどの子が、女の子だった。一人だけ男の子が居たけれども、その子は智恵遅れの子だった。それでは将来が悲観的である。そこでこれではいかんと、もう一人男の子が欲しいと若い女性をめとった。この若い女性が生んだのが孔子だった。十番目の子供。孔子が生まれて三年目におとうさんが死んだ。それで孔子は、非常に生活が困難であった。そのあたりは、子罕第九が事情を示しています。。

   巻第五 子罕第九 六
  太宰問於子貢曰、夫子聖者興、何其多能也、子貢曰、固天縦之将聖、又多能也、子聞之曰、太宰知我者乎、吾少也賎、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也、
  太宰、子貢に問いて曰く。夫子(ふうし)は聖者か。何ぞ其れ多能なる。子貢が曰く、固(もと)より天縦(てんしょう)の将聖(しょうせい)にして、又た多能なり。子これを聞きて曰(いわ)く。太宰、我を知れる者か。吾れ少くして賤(いや)し、故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子、多ならんや、多ならざるなり、

 太宰、これは人の名前です。子貢は孔子の有名な弟子の一人です。太宰という弟子が、孔子の有力な弟子である子貢に聞きました。「孔子先生は聖者ですか。何でもお出来になるし、何でもお知りです。彼は聖者ですから、そのようにお出来になるのですが。」、そのように聞きました。「そのとおりだ。天性の天才ですから、何でもお出来になるのです。」、そのように子貢は、孔子を持ち上げたというか、模範的な返事をしました。孔子はそれを聞いて、「太宰は、わたしのことをよく知っている。なぜわたしが、いろいろなことが出来るのか。百姓は出来る。鍛冶屋もできる。蚕を飼うのもできる。なんでも、やらせれば出来る。そのようなことを感心しているが、それは何故かというと、わたしは若いとき賎(せん)だった。賎しい身分だった。それで賎しい仕事、鄙事(ひじ)やなんでも仕事をしなければならなかった。だから鄙事(ひじ)でも、なんでも働いて日銭を得て、それで生活をする若い時の生き方だった。だから、なんでもやらざるを得なかっただけだ。ですから本来君子は、なんでも出来なければいけないか。そんなことはない。なんでもしなくてすめば、一番結構なことだ。それだけのことだ。それを、わたしを大変持ち上げて言われることは、わたしとしては不本意だ。このような返事をしています。
 これはやはり孔子の故事来歴を語る重要な史料だ。それで、諸橋轍二さんが書いた『孔子伝上・下』をもとにして言うならば、孔子のお父さんは若い女を妾(めかけ)にして、孔子を生ませたのであると思います。そして三年目に死んでしまった。お父さんが死んでも、お母さんが高い家柄の身分から来た女性ならば、別に生活に困らない。お母さんは、何か占いをして生活を立てていたようだ。そのような賎しい身分の女性だから、他の九人のお母さん・子供も、孔子のお母さんを相手にしない。そのようなあやしげな女をつかまえてきて、子供を生ませた。そのように回りは見ていた。だから孔子も、お母さんの生活を支えるために、いろいろな仕事をした。生活を支えるために日々の賃仕事に行って、日銭を稼がざるを得なかった。そういうことであると思います。
 さて、こういう立場から、先頭の學而第一の一を視てみます。ここでは、「人知らずして慍うらみず。」が、キーポイントの言葉です。なぜならば、孔子はいろいろ勉強して、いろいろ凄いこと発見したと毎日思っています。それを周りの人に言うわけです。詩経・書経には、こんな凄いことが書いてある。しかし曲阜の人は誰も相手にしてくれません。なぜなら回りの人間は、みんな孔子の生い立ちを知っています。何を言うか。彼は、親父が若い女に狂って生ませた不倫の子供ではないか。あやしげな子供ではないか。そういう言い方をしたか知りませんが。そんな奴が、何を偉そうに言っているのだ。そのように、曲阜の人間は、孔子の相手を誰もしてくれない。だから「人知らずして」。回りの人は、誰もわたしの心を理解してくれない。まともに相手にしてくれない。この場合、普通は、人間心がゆがんでくる。これはよい考えだと一生懸命言っているのに、まともに受けとめてくれない。一生懸命やるだけ損だ。博打でもやろう。楽しくやろう。そのように、ゆがんでくるのが当たり前です。普通の人間だ。ですが孔子は、自分はそのように心がゆがまずに済んだ。それには二つ理由がある。一つは礼記(らいき)・詩経など古典を何回も読んで読んで読み抜いていく。そのようなことを徹底して繰り返した。今のように、注釈書がたくさんあるわけではない。読んでもわかりにくい。それこそ「読書百編、意自ずから通ず」で、繰り返し読んで、読み抜いていく。あっそうか。周公がこのように言っているのは、このような意味だ。何回も繰り返し読んで、新しい発見を繰り返して行く。この世界は、誰にもじゃまされない世界です。人が理解しようが理解しようが関係ない世界です。そういう自分だけの世界を持っていたことが、心がゆがまずに済んだ理由の第一です。「学びて時にこれを習う。」ということです。
 もう一つは、曲阜以外の遠くから人が来る。簡単に言えば、曲阜以外の人間が自分の書いた文や手紙を読んで、なかなか良いことを書いている。曲阜に行って、一度会ってみよう。そう思って来たりする人が、一年に一度か、半年に一度かわからないが来ます。それで孔子は感激する。やはり、今までわたしが考えたことはウソでなかった。無駄ではなかった。これだけぜんせん知らない人が、わたしの書いたことに反応してくれる。これは嬉しい。「朋あり、遠方より来たる。」は、そのことを指す。しかも、こんなに人生に楽しいことがあるのだ。自分で本を読んで、新しい発見を繰り返す。それも楽しいけれど、それとは違って意味で嬉しい。このように人間と人間が共通の理解に立つこともあり得るのだ。「亦た、楽しからずや」非常に楽しいことだ。
 ですから「慍うらみず。」という言葉には意味があった。意味深長だった。近くの人間は、相手にしてくれない。孔子のような賎しい人間がなにを言っても。言ったことの内容ではなく、孔子の生まれ育ちを、親父のスケベエ、そういう目で、世間の人は見ている。しかし自分は、ねじ曲がらずに来た。
 最後の「亦た、君子ならずや。」、これも孔子が照れていっている。これも君子というものではないか! と、一言照れて付け加えたのです。そのように、わたしは理解する。
 これもひとこと言っておきますと、『論語』という本は、どのような解釈も出来る本である。解釈の勝手な本である。親鸞の『歎異抄』のような書物とは違う。たしかに『歎異抄』には親鸞の断片の言葉が並んでいます。しかし一方、本人が書いた『教行信証』という細かく書き連ねた完結した基本の理論書があります。ですから親鸞の基本的な考え方が、『教行信証』を見れば出ています。どの問題についても。ですから『歎異抄』の断片説話が、いったいどのような意味を持つかは『教行信証』に出ているところから見ると、このような意味合いと理解しなければならない。議論が出来ますし確認が可能なわけです。それを本願寺の後世の僧などが、違った解釈をしているが、それを私どもなどが親鸞の直接史料から見るとそのような解釈は無理です。そういう事が言える。ですから基準尺があるのが親鸞などのケースである。
 ところが孔子の場合は基準尺がない。孔子が直接書いたもの、親鸞で言えば『教行信証』にあたるもの、それがあれば良いけれども、ない。参考になると言えば『春秋』が在ることにはあるが、しかしこれは人が勝手に事実を並べたものであって、それに意味を見出して理解しようとする人もいるが、とにかく孔子の思想的立場を明確にあらわした自分の書物は存在しない。ただ断片を並べた『論語』があるだけです。ですから断片の『論語』をどう解釈するかは、基本的にその人は勝手である。そのような性格の資料である。ですから、このように解釈すべきであるという事を決める権限はどの学者にもあるわけではない、どの学者も平等に孔子に相対することが出来る。その点は、それが『論語』の魅力といえば魅力になる。

 そこで、わたしは『論語』の断片に対して、やっとこれなら理解できるということを、今申し上げた次第です。
 それで『論語』の中で、一番重要と考えられる問題を述べさせていただきます。

  巻第三 雍也第六 十一
  子曰、賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其楽、賢哉回也。
  子曰(い)わく、賢なるかや回や。一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴょう)の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかや回や。
  先生がいわれた。「えらいものだね。回は。竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、狭い路地(ろじ)のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は(そうした貧窮の中でも)自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね。回は。」

 『論語』の中で、顔回という弟子は特別ですね。質・量ともに特別で、出ている回数も多いし、出ている質がすごい。それは有名な言葉ですが、顔回が死んだとき、孔子は「天予れを喪(ほろ)ぼせり」と言いました。(巻第六 先進代十一 十一)この件は、しかし他の弟子が聞いていたら、どう思ったのでしょう。
 先生は、俺たちがまだ生きているのになんだ。孔子は思いやりが大事だと言ったと思いますが、(他の弟子に対して)ぜんぜん思いやりがない。なんか凄い突出した扱い。それが大きな疑問。それでまた同じく凄いことがあった。あるとき諸侯が孔子に聞いた。「あなたの弟子に、学を好むと言える者がいますか。」これは当たり前の質問であると思いますが、答えがすごい。「おりません。昔、顔回という者がおりました。彼が死んだあとは、後学を好むと言える者はいません。」、そのように答えました。これも何か、他の弟子は立場がない。これも何か異常と言えるほどの答です。もう一つある。ある弟子が、顔回と自分を比べて言った。「わたしは顔回に比べても、少しも望めません。」これの孔子の答えも、また凄い。「そのとおりだ。おまえもわたしも顔回には、及ばない。」。他の弟子に対してはない態度です。孔子にとっては顔回は特別な存在であることは明らかである。
 ですが何がどのように孔子にとって顔回は特別な存在であることは解き明かされていない。そのようにわたしには見える。それを解くカギが、「陋巷(ろうこう)に在り」という言葉である。
 これを普通に読んでいれば、別になんの問題はない。そこに岩波文庫の訳を掲げておきます。わたしも授業で教えたときは、その程度の理解を教えました。しかし先ほどの『如是我聞、孔子伝(上・下)』(大修館書店)を見ますと、諸橋さんが中国に行きまして曲阜(きょくふ)の汚らしい旅館に泊まりまして、朝起きて外を見ますと、側にそこに陋巷街(ろうこうがい)という繁華街・色街の看板がありました。わたしはこれを見まして、つまり「陋巷ろうこう」と言うのは、地名である。もちろん現代の地名が、古代までずっと続いている保証があるわけではありません。ですが、そういうことに気が付いた。今までは、この文は顔回がただ貧しい。それだけのことだと考えていました。ですが顔回が、陋巷(ろうこう)に好きで住んでいたわけではない。要するに彼は金があったけれども、本ばかり買っていたから好きでそこに住んでいたと考えていたと考えていました。ですが、それは間違っていました。ですが古代ではそのようなことはあり得ない。現代なら永井荷風のような風流人がいて、そこに住み着くということはあり得るが、古代では、荷風のように顔回が陋巷が好きで、たまたまそこに住んでいたということはあり得ないのではないか。
 つまり何をわたしが言いたいかと言いますと、それは『諸橋大漢和辞典』を引きます。そこに「陋宗(ロウソウ) ーー いやしい家柄」とあり、それで陋巷に住んでいるのが陋宗ではないか。賎しい血筋の人が住んでいるのが、陋巷(街)なのではないか。つまり顔回は賎しい血筋の人だったのではないか。そういう考え方です。いや顔回は、士太夫のような高い身分の人だった。あるいは裕福な身分の人であった。彼の趣味でたまたま陋巷に住んでいた。そのようなことは机の上の考えとしては言えるけれども、春秋戦国時代には、そういうことはあり得ないと思います。
 わたしのささやかな経験から言いますと、京都で住んでいたときのことを『失われた日本』(原書房)で書きました。上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)では大変な違いがある。京都では上京に住んでいると威張るというか、良いところに住んでいるというイメージがある。その家自身はどうでもよい。住んでいるところです。逆に南の下京区・南区のほうが、下町というイメージがある。肩を落として住んでいるところを言う。そのようなイメージがある。
 芭蕉はそれを逆にして、下京を舞台にした俳句がすばらしいと言った。

  下京や雪積む上の夜の雨

 この句を「上京や」と読めば平凡なのだ。貴族の家でお茶会などで、雨が降ってきた。風流だというレベルの話です。そのような俳句がすばらしいというのならば、わたしは二度と俳句を作りたくない。わたしの作りたい俳句は、貧しい人々のところで。下京での生きている人々の息づかい。道端で泣き叫ぶ子供、物売りの声と駆け寄る人々、そこでの会話、雪の道に雨が降れば、明日働けなくなり、お米をどうしょうかと嘆いている姿。人々が嘆き悲しんでいる。ドタバタが起きている。そういう世界がわたしの俳句の世界である。
 そのような経験があって、事実がわかった。江戸時代の京都すらそうであったし、まして春秋戦国時代には、非差別が二重・三重にあった。征服・被征服が繰り返された過酷な時代です。
 顔回も、その一人である。奴隷ではない。奴隷では孔子のところに弟子入りは出来なかったでしょうから。自由民ではあったでしょうが、自由民の最低レベルの民。
 ですから孔子も、顔回が陋巷にありと言ったときは、そのことを知っている。おなじ曲阜の人間です。聞いているまわりの弟子達も、顔回がどういう血筋で、どこに住んでいるかを、よく知っている。その上での、やりとり。ですから、ところが孔子は、その陋巷に住んでいる顔回はすばらしい。そう言って誉めている。誉めている孔子は賎人(せんじん)である。賎しい身分の人。聞いている優等生、孔子にとっての優等生顔回は陋人である。もっと下の陋人である。ですから本質的には、言ってみれば『論語』は賎人語録である。受けとめる顔回の立場から言えば、陋人(ろうじん)語録である。そういう性質の書物として受けとめるべきではないか。そのような問題にぶつかった。それで孔子の基本思想、短い期間内で基本思想を表したものを言いますのは、難しいようですが、実はきわめて簡単です。

  巻第六 顔淵(がんえん)第十二 一
  顔淵、問仁。子曰、克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、請問其目、子曰、非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動、顔淵曰、回雖不敏、請事斯語矣、
  顔淵、仁を問う。子曰(い)わく、己を克めて礼に復(かえ)るを仁と為(な)す。一日己を克めて礼に復(かえ)れば、天下仁に帰(き)す。仁を為すこと己れに由(よ)る。而して人に由らんや。顔淵の曰く、請う、其の目(もく)を問わん。子曰(いわ)く、礼に非ざれば、視ること勿(な)かれ、礼に非ざれば、聴くこと勿かれ。礼に非ざれば、言うこと勿かれ、礼に非ざれば、動くこと勿かれ、顔淵の曰(い)わく、回、不敏なりと雖(いえ)ども、請う、斯の語を事(こと)とせん。

 顔淵とは、顔回のことです。要するに、顔回が「仁とはどういうことか。」を、孔子に聞くわけです。「己を克めて礼に復(かえ)れば、天下仁に帰(き)す。仁を為すこと己れに由(よ)る。而して人に由らんや。」と答える。そうしますと顔回はよく分からないわけです。顔回はもっと具体的に言って下さい。それだけでは、わたしは分かりません。そのように言うわけです。すると、孔子は言います。「礼によって視ろ、礼によって聴け、礼によって言え、礼によって動け」という言い方をしました。すると顔回は「わかりました。わたしは愚かな人間ですが、今日の教えによって、生きることを致します。」そのように返事しました。
 この言葉も考えてみたら、変です。われわれは「礼儀」という言葉を使いますが、ここの「礼」が「礼儀」ということなら、たいへんおかしい。「礼によって視ろ、礼によって聴け、礼によって言え、礼によって動け」、まさに官僚的な、杓子定規なことになり、ロボット人間のようです。そんなことを言われて、顔回が分かりましたというのも変です。
 これを、わたしは「礼」という言葉は、われわれが聞かされた「礼儀」という意味ではない。「礼」という言葉、それは「天の秩序」を示しています。これは『論語』に用例があります。天上には、たくさんの星がある。その中に「北辰=北極星」が中心に居て、回りの星が取りまいています。「譬(たと)えば北辰の其の所に居(い)て衆星のこれに共(むか)うがごとし」(巻第一 為政第二 一)このように天には秩序がある。その天には道理、理法がある。それを孔子は「礼」という言葉でよぶ。その理法をもとにして、一個人が行うことが「仁」なのである。
 ですから「仁」という用語は、なにも難しいことはない。これは、大自然の道理から言って、どう視たらよいか。どう調べたらよいか。どう動いたらよいか。それだけ行えば、それが「仁」です。全部「仁」なのです。そのように顔回に言っています。そういうかたちで「仁」を身につけた人間を、孔子は「君子」とよぶ。
 これも「礼」や「君子」という言葉は、孔子が使う以前に、使い古された言葉です。孔子以前は、孔子の言うような途方もない意味はない。「礼」という言葉の使われ方も、『礼記らいき』『周礼しゅらい』で使われているが、単純な礼儀作法のような意味あいです。かわいらしい意味です。ところが孔子は、その「礼」に途方もない意味を付け加えた。これは旧約聖書に、新約聖書に付け加えたようなものです。新しい理屈を付け加えた。ささやかに使われていた「礼」という言葉に、「天なる秩序」、大自然に存在する道理というような意味を付け加えた。それで『論語』に繰り返し、繰り返し出てきます「礼」という言葉は、そのような意味で使われています。
 それに対して「仁」も同じです。孔子以前に、「仁」という言葉はあります。たいへんささやかな意味で使われていたにすぎない言葉を、それを孔子は途方もない意味に転換させた。「礼」を身につけた人間個人の規範を「仁」とよんだ。何回も何回も「仁」という言葉が出てきます。「仁」を身につけた人間を「君子」とよんだ。「君子」という言葉も、以前に出てきます。孔子以前に出てくる「君子」という言葉の使い方は、明確です。身分の高い人を「君子」と言います。身分の低い人間が「小人しょうじん」なのです。そういう意味しかなかった。
 それを孔子は、そのような旧約聖書的な意味を廃棄して、ぜんぜん違う新しい意味を付け加えた。どんな身分であろうと、新しい「礼」を「仁」として身につけた人間が「君子」なのだ。それで顔回が分かりましたと答えました。それで従来の考え方なら、いやしい血筋の陋人の顔回が、なにを理屈を言っても、どんなに頑張っても「君子」にはなれない。うまい理屈を言ったからといって、明日から太夫にしましょう。そんなことはあり得ない。しかし孔子のいう「君子」はそうではない。どんな陋人でも、「天なる秩序」つまり「礼」を身につけて行動すれば人間ならば、彼は「君子」である。逆もまた、ありうる。士太夫や諸侯であると威張っていても、彼の行動が「天なる秩序」に反していれば、彼は「君子」ではない。このようになる。諸侯に対する裁きの論理にもなりうる。これは孔子が諸侯にいろいろ理想を説いて、食い違い容れられず去って行った。判断基準が違う。相手の諸侯の方は、自分は諸侯である。孔子はたいした身分ではない。孔子の教えを飾りというか、今までの自分に良い智恵を付け加えてくれれば、お金ぐらいを出そう。それぐらいのつもりで会っている。孔子のほうは、ぜんぜん違う。あなたの名前は君子でも、あなたのやっていることは「君子」とは言えない。そのように、はっきり言うわけです。それで折合は付かない。去っていく。
 それで今のような考え方を孔子は確信を持って言うわけです。自分は賎人だが、今のような「礼」を身につけて「仁」を為せば「君子」になれるということを、孔子は確信をもって人に言うわけです。今のような確信を、そのとおりに理解したのは孔子よりさらに身分の低い陋人であった青年の顔回です。あっそうか。陋人の自分も、なにも恥じることはないのだ。天なる「礼」を身につけて「仁」を為す。それだけが全てだ。先生である孔子はそう言われた。
 孔子は、そう理解してくれた顔回が嬉しかった。この顔回が生きている限りは、俺が死んでも大丈夫だと思った。なぜなら他の弟子は、士貢などいろいろ居ますが、士太夫など、そこそこの身分だ。いちおう良い身分だ。これも極言しますが、他の弟子たちは、自分の良い身分の上に、さらにプラスアルファとして、(別に他の教えでも良かったけれども、)孔子さまの教えも知っているのだ。プラスアルファの教えとして、世の中に吹聴できる。そういう教えとして彼らは聞いていた。孔子には、それは本当の教えとは、言えなかった。孔子には、自分の本当の教えを掴んだのは顔回ひとり。そういう気持ちがあったのではないか。だからその顔回が、予想に反して、死んだ。三〇歳ぐらいに死んだと言われていますが、若くして死んだ。 だからその後、後の弟子たちは、自分の教えを単なる飾りのように担ぐ者だけだから、後を継ぐ者は残っていない。だから、あのように言った。
 「学を好む。」と言ったのは、詩経や五経を勉強して覚える。そんな「学」なら、顔回が死んだら「学を好む者はいない。」、そのような表現にはならない。わたしが今言ったような「学」。人間のあらゆる身分や差別やあらゆる偏見を、断固乗り越えるのが、今言ったような「学」である。それをまともに受けとめるような人間を、「学を好む。」と言った。孔子はそれ以外の人間には、「学」という言葉を使いたくなかった。

 儒教は、その後栄えた。漢代には国教にもなった。あと南宋の朱子学は有名であり、日本に来れば、徳川幕府は朱子学を唯一の学問として公認した。その意味では、儒教は、栄えに栄えた。
 孔子が言った「天われを喪(ほろ)ぼせり」、これは錯覚であったのか。そのような疑問を、最初は持ちました。しかし、そうではなかった。孔子の言ったことは、たいへん正確だった。結論から言えば、漢代以後の儒教は、本来の孔子の教えが滅んだ後で、栄えたあだ花である。生意気な言葉ですが、そのように考えます。
 『論語』は、さきほど断片集であると申し上げましたが、その断片の中には大きく分けて二種類ある。孔子や願回のやりとり。これは孔子や願回が書いたものか、すぐ側の人が書いたものか、分かりませんが直接の原稿。親鸞の『歎異抄』の先頭の文言と同じように値打ちがある。
 その後には、お弟子さんが先生の孔子からこのように聞いたと書いてあります。それは最近の研究にあるように、たとえば白川静さんがよく言われていますが、お弟子さんの各流派が作製した文言である。各流派のボスが、わたしの先生は孔子さまから直接このような話を聞いた方なのだ。そのような権威付けに『論語』の中に押し込んだものだ。御推薦押込論語が、かなりあります。かなりというか、三分の二ぐらい占めている。それらを全部、本当に孔子が言ったことだと解釈してきた。漢代から今まで。ですから『論語』とあれば、それをぜんぶ同じ思想として考えなければならない。最大公約数が孔子の教えである。そのように解釈してきた。しかし、それでは本当に解釈は出来るはずがない。ですから今言ったように、大きく分けて二つに分かれる。こまかく分ければ、もっと分かれる。
 要するにお弟子さん論語。これは「親に孝。君に忠。」など。忠、これが大事だ。漢代にはこれが欲しい。漢代などの儒教は、結論がハッキリしている。漢の劉氏は、漢の天子に忠誠をつくすのが、儒教の目的だと言って欲しい。だから国教になっている。しかし漢の劉邦。沛公、彼はご存じのように天子の血筋ではない、洛陽の商人。しかも、かなりいかがわしい商人だったらしい。それが一転、風雲に乗じて天子になった。天子と称しても、だれも信用してくれない。彼は今までへんな物を、俺に売りつけた奴だ。そういうことをみんな知っている。だから儒教の力を借りて、元が商人であれ何であれ、いったん天子になったなら、それに忠節をつくすのが孔子さまの教えである。そういうイデオロギーを楯にして、統制をはかった。国教という使用価値があった。それはそれで使用価値があったのでしょうが、孔子が望んだことは、そのような小さなものではない。そうでなければ顔回ひとりが死んだぐらいで、「天、我を滅ぼせり。」なんて途方もない言葉を言うはずがない。
 それと同じことですが朱子が言ったのは、元に対して、南朝の天子が正統の天子である。その南朝の天子に忠誠を尽くすのが、儒教の目的である。簡単に言えば、そういうことを言った。それは、それで役に立った。しかし孔子がそんなケチなことを考えたはずがない。顔回に、後を託そうと言うはずもない。
 徳川氏も征夷大将軍を名乗ったが、たいへんな負い目があった。しょせんは三河の田舎大名。それが風雲に乗じて豊臣氏を倒し、大名たちを統合し天下を取った。しかし三河の田舎大名であったことを誰でも知っている。家康の手練手管も、良いことも悪いことも知っている。それを林羅山を通じて、家康は朱子学を持ち込んだ。各大名に忠節をつくすだけではダメなのだ。おおもとは将軍さまである。その将軍さまに忠節を尽くすことこそが儒教の教えの本質である。そういうことを三島の塾を通じて各藩で教育した。朱子学以外を学問とは呼ばなかった。簡単に言えば将軍さまが一番偉いという一言を言えば、優等生になれる。しかし、その教えが裏目に出て、徳川の後半期に、山崎闇斉・吉田松陰などの勤王の朱子学が出てくる。今日から将軍家と言っても三河の田舎大名では、だれも信用してくれない。信用してくれないから、鎌倉幕府を開いた源頼朝公も名乗られた征夷大将軍。それに徳川家も、天皇から征夷大将軍に任命された。だから昨日まで三河の田舎大名とは違っているんだよ。そういう理屈付けの為に征夷大将軍ということを活用したが、その活用が裏目に出た。つまり朱子学の立場から言えば各藩の大名だけでなくて将軍さまに忠節をつくさなければならない。しかし考えてみれば将軍さまは、自分で言っているように征夷大将軍。もとは、今は萎(しお)れていて京都に押し込まれている天皇家、その天皇家から任命された征夷大将軍ではないか。そうするとその天皇家に忠節をつくさなけばダメなのではないか。そのような理論が歴史を作る。そのような論理が歴史を作って、天皇家を担ぎ出すというかたちになって行く。
 ですから明治以後の天皇家の中心体制というのは、儒教に支えられているとも言える。よく国学に支えられているとか、神道に支えられているとか言われます。それもウソではないが大きな論理として、江戸時代は朱子学の時代だ。その朱子学に支えられて、名前だけだった天皇家が押し出されて、もう将軍さまの時代ではない。天皇家に忠節をつくすべきだ。そのような論理が歴史を作ってきた。明治以後の百三十年を支配しているのは朱子学の論理である。そういう言い方も出来るし、言った方が正確である。そういうことはあまり言って欲しくないし、教科書にも書けないから、日本の儒教を勉強している人も、あまり言いません。しかし本当は、そのようなカラクリになっている。
 しかしそのことは、孔子から言えば「天、我を喪ぼせり」。滅んだ後に、国家のために、権力者の利益のために道具にされた儒教。本質を失った儒教である。そのように、わたしには見える。この大阪にも儒教の専門家がおられるから一度お会いしてみたい。

 ここでぶつかった問題は、親鸞と似たような問題にぶつかってしまっった。わたしは、親鸞がどのような人間だったか。それだけに関心がある。それで調べていくうちに、本願寺が言っていることと、かならずしも一致しなくなってきた。それで本願寺と関係がだいぶ悪くなって、わたしの最初の本が本願寺関係の出版社から出せなくなった。こちらは別に本願寺とは関係がない。本願寺を悪く言うとか、良く言うとかは関係なく、あくまで親鸞その人が、言ったこと、行ったことを調べたに過ぎない。
 親鸞は、後鳥羽上皇が師の法然を流罪にし、自分も流罪にした。盟友である安楽・住蓮を御所川原で首を斬った。逆謗闡提(ぎゃくぼうせんだい)。もっとも悪辣な男である。はっきり『教行信証』(坂東本)に書いている。そのもっとも悪辣な連中を救い取るのが、阿弥陀仏の本願である。そのようなことを見事に書きぬいてる。彼は『教行信証』を添削しぬいているが、一生そこの部分は、まったく手が入れられていない。東本願寺にある坂東本。それを見て、わたしは感動した。それが親鸞。
 それが明治以後、本願寺は天皇家と親戚関係になるなど、かえって迷惑になった。江戸時代もそうですが。そのような江戸時代の教学、明治以後の教学とわたしが言ったことは相容(い)れない。相容(い)れなくとも仕方がない。わたしが勝手に親鸞の教えを作るわけではない。そういう問題になった。本来の親鸞のエッセンスは、そこにございます。それとにたような問題が孔子にもある。もちろんバイブル・コーランにも同じ問題があるのではないかと考えています。
 以上たいへん重大な問題を駆け足でめぐって、ご静聴有り難うございました。

日時・・・二〇〇三年一月十八日(土)
場所・・大阪市北区・北市民教養ルーム


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制作 古田史学の会
著作  古田武彦