人麿終焉の地をめぐって 古田武彦(講演記録「歴史と歌の真実」)へ
人間、古田武彦さんとの出会い
難波収
私は一九六〇年、オランダ国立ユトレヒト大学の「ゾンネンボルグ」天文台に留学しました。その後、一九六二〜六四年、西ドイツはキール大学の理論物理学研究所兼天文台に留学。一九六四〜八八年、主席研究公務員としてユトレヒト大学勤務。そして、定年退職し、現在ユトレヒト市に在住し、微力ながら日蘭文化交流の促進や核兵器反対・平和運動などにも協力しています。
一九九二年晩秋には、オランダのアンネ・フランク財団編集の写真物語『アンネ・フランク』を翻訳しました(平和博物館を創る会編・平和のアトリエ刊、アンネの一生を、時代を背景として説明したもので、『アンネの日記』を読むためには欠かせぬ資料です。どうぞ皆さん、見て、読んで、特に若い世代に広めてください)。
たいていの人と同じく、私も日本を離れていっぱしの「愛国者」になりました。それが暫くこちらにいると、如何に自国のことに無知であるかを思い知らされ、特に歴史の本が欲しいと思っていました。たまたま一九七四年の夏、ライデン大学にみえた関西大学国史学教授の有坂隆道氏ご一家を我が家にお招きした際、「よい歴史の本はないか」とお尋ねしたところ、「実はそれがないので困るのです」というようなお話でした。
そんなこともあって、一九七五年に二百冊ほどの本を日本から買い寄せました。大半は歴史の本で、その中に古田さんの『「邪馬台国」はなかった』と『失われた九州王朝』とがありました。これらの本については、どの号だったか『朝日ジャーナル』で家永三郎氏の行き届いた書評を読んで購入を決めたのでした。
この二書が同年八月一三日に着いて以来、夏休みから、さらに毎晩、毎週末をその勉強に当てました。専門の本でも、こんなに熱を入れて読んだ本はちょっとない位。そして、この二書によって始めて、首尾一貫した日本古代史のイメージが得られかけたのです。前から持っていた井上清『日本の歴史』、井上光貞『日本国家の起源』(何れも岩波新書)など何冊かの本では、結局何のことだか分からずに終わった(いや、実は、読めば読むほど判らなくなった)箇所が、古田さんの根本的な、科学的な検証の結果、まことに快刀乱麻を断つ如く解明され、そしてそれまで散らばった概念の集積だった古代日本の歴史が俄かに脈絡一貫して生き生きと蘇ってくるのを、心から慶んだものです。まず「壹」と「臺」の錯乱の有無を『三国志』全体について検証するという、この着想と実行力が素晴らしい。「里」の問題にしても然り。いわば付録である「魏志倭人伝」を、主篇に関連して読むという基本的なことが、何故それまで為されなかったのか、思えば不思議です。
古田さんのこの二書に基づき、私は日本古代史を勉強し直したのですが、何分素人の悲しさ、手持ちの資料も極めて乏しく、質問したい事項が山ほど生じて来ました。思案の末、未知の著者に、「唐突ながら失礼を顧みず敢て一筆申上げます」と、二書についての質問の手紙を七五年一〇月五日付けで書き送ったのです。A4判のリポート用紙一〇枚にぎっしり、計六二項の質問に一連番号と場合によっては更にアルファベットをつけ、「もしお時間が許せば御教示を頂き度いと存じます」とお願いした訳です。余りにも厚かましく、返事が貰えるかどうか甚だ危ぶんだのですが。
年明けて一九七六年一月二二日、私はずっしりと重い書留航空便を受け取りました。差出人はHuruta Takehiko.来たのです、古田さんからのご返事が、A4判で何と一四枚の 。
お手紙は、「やっとお便りをさしあげる機を得ることができました。堪えがたい喜びです。十月五日づけの貴簡をえてより、いつも御返便を、と望みつつ、今日まで果たせませんでした。昨年末まで研究と原稿に追われていました。(中略)大晦日よりはじめてやっと年賀状を終えた所です。そしていよいよ、宿望の御返事です。今まで多くの読者からお便りをいただきましたが、もっとも精細を極めたお便りに、心底深く深く動かされました。心より『有難うございました。』と申し上げます。また、同じ大正十五年の生れ、とは奇遇です。いつか、ゆっくりと一夜を語り明かしたい、そう思う心がしきりです。・・・・」という嬉しい書き出しで始まり、私の質問ないしコメントの一条一項に対して詳しい説明がぎっしり。そして末尾には、「この御返事のためにここ数日間、朝から夜までぶっとおしでしたが、とてもとても楽しい作業でした。本当に有り難うございました。・・・いつか、御面謁をえ、お話をうけたまわる日を楽しみにしております。 一九七六、一月十八日 古田武彦」とあるのです。「数日」どころか、二週間も三週間もかかった重労働だったでしょう。
未知の素人の一読者に対して、この著者の御返事の懇篤さ、真撃さ、そして博学なこと。私は感銘感激し、胸が熱くなりました。私が逆の立場だったら、これだけの対応が出来るだろうか? 私には自信はありません。もちろん私だけが特別ではなく、多くの質問者が古田さんから同じような感銘を受けたことでしょう。さればこそ、一般市民の間に、学会や文部省などから敢えて無視されている古田さんの自由公正な学説を支持拡大する動きが、澎湃(ほうはい)として起こったのでしょう。またお手紙で知ったのは、私が広島陸軍幼年学校にいた頃(昭和一五年四月〜一八年三月)、古田さんは旧制広島二中に在校されたとか、私たちはどこかですれ違っていたかも知れません。
さて、このお便りを契機として古田さんとの文通が始まり、私が二度目の帰省で岡山に向かう一九七八年一〇月二日に、京都駅で、古田さんに始めてお目にかかり一刻を語り楽しむことができたのです。そのとき古代史第五の新著『邪馬一国への道標』を頂きました。それからは、折にふれて文通したり新著を頂いたりしました。その後、何度か帰省の度に、私(と家内)は古田さん御夫妻と面談できることを大きな楽しみとしてきました。私の兄(広島高師卒、昨年五月に病歿)も、狛江市に住む弟も、古田さんの歴史に親しむようになりました。面白いことに、古田さんは星や宇宙に憧れを持たれ、息子さんに「光河」(天の川、銀河と同義)という名を付けられたそうです。
私の方も何かお役に立てばと、些かのご協力に努めました。オランダに住む私たちにとって殊に嬉しかったのは、一九九〇年五月に古田さん御夫妻をライデンにお迎えできたことです。ライデン大学日本学科のボート教授のアレインジメントにより、五月一〇日に、古田さんに国立民族学博物館で「日本古代史の新局面」と題して日本語で講演していただきました。急な知らせだったにも拘らず、四十数名の聴講者があり、その半数はオランダの学生でした。吉野ケ里のビデオに始まる日本古代史は、オランダでは初めての話で、皆さん大きな興味を持って聴いた様子です。その後の夕食は、日本人六、七人で御夫妻を囲んでの話の二次会で大いに盛り上がりました。私自身も、お二人と同じインターナショナル・センターに三日間泊まって色々お話ができて幸いでした。
私たちは有志で「在蘭日本史研究会」を創りました。その目的は、(1) 古田史観に基づく日本歴史の見直し、(2) 一六〇〇年に始まる日蘭交渉史の勉強、(3) 第二次世界大戦における日蘭関係の調査研究、などです。(1)の勉強として先ず『古代は輝いていた』を輪講すべく、古田さんを煩わせて朝日新聞社から文庫版を一二組送ってもらいました。ところが、同志はあちこちにばらばらに住んでおり、且つそれぞれ仕事を持っているので、一緒に集まっての輪講は残念ながらまだ実現しておりません。
職業がら私は考えてきました ーー地球は一つの惑星で、自然には政治的な国境はない。星も碌に見たこともない現代人と違って、我々の祖先は自然に生きてきた。大陸は歩いても行けるし、大洋では海流が巡っている。だから大陸内および大陸間の人類の交流は吾人の考えるよりはるかに活発だったに違いない、と。この思いは、私が一九六〇年にフランスの客船で五週間以上かかってオランダに来たときに、ますます強まりました。更にトル・ハイエルダールの実験が確信を与えてくれました。
それで、古田さんが『「邪馬台国」はなかった』の末尾で「裸国・黒歯国」を太平洋の彼方、アンデスの岸に比定されたことに対して、私は最初の手紙でこう書きました。
「小生、昔から地球規模の人類の交流は今我々の一般に考えるより遙かに盛んだったのではないかと考えて来ました。例えば太平洋・大西洋をルートとする環状の交流、又ユーラシアの東西間の往来等。そこで、本書に述べられた人達の以前の論文
Betty J.Meggers & Clifford Evans,"A Transpacific Contact in 3000 B.C."
in Scientific American, Vol.214,Jan., pp.28-35,1966
を目にした時は感激しました。そして直ちに手紙を書き、堀江青年のヨット渡航の事を述べて、この論文並びに類似の報告の別刷を送ってくれと頼んだのでしたが、不着だったのか遂に返事はもらえませんでした。この度貴殿のこの書にこの記事を見出し全く快心の思いです。今迄の歴史家の中にはここまで気がついた人は全然なかったでしょうね。(中略)これらの国々がメヒコかエクアドルか兎に角太平洋の彼方の国で東南だと言い得るためには、そこから九州まで帰って来た者が一人や二人でなく少なくとも片手か両手の指で数える位はいなければならないと思います。これの確証ありやという問題です(無い物ねだりですが)、(中略)何はともあれ非常に面白い解釈です。多くの学者からは随分非難がありクレージーだと言われたかも知れませんが、私は積極的に支持します。」と。
この英語論文の趣旨は、エクアドルのバルディビアで発掘された古い土器の形式は、日本、それも九州から漂着した漁師によって伝えられたものではないか、というものです。
これに対する古田さんの御返事ーー
「この一見奇矯な問題に理解をおしめしいただき、感激いたしました。ことに早くから関心をもっておられたとは、驚きです。わたしは、ただ文献の解読から、論理に導かれてここに至ったのだからです。自分でも“こわかった”のですが、(今回の『邪馬壹国の論理』にのせた)「海賦」に相逢し、十分な自信をもつことができました。・・・・」
古田さんは、古代史第一書では一九七〇年一〇月一六日号の『ライフ』の記事に言及され、次いで『邪馬壹国の論理』でバルディビアのことを詳論され、更に『倭人も太平洋を渡った』を訳出された(一九七七年、創世記刊)。私の心配に対しては、古田さんは既に『文選』の中から、「海賦」を探し出して、論証されておいでだった。
バルディビアのことについては、一九五八年と一九六二年にも英文の短い報告があり、一九六五年には前記の二人の著者(夫妻)とエクアドルの考古学者エミリオ・エストラーダ(問題の土器の発見者でエヴァンス夫妻を発掘に招いた)との三人による分厚い報告書がワシントンのスミソニアン・インスティチューションから刊行されています。しかしサイエンティフィック・アメリカンでの論文は、この業績を一般向きに紹介したもので、今からでも十分訳す価値があると思います。どなたかやっていただけませんか?
昨一九九四年七月二日、銀座近くのホテルに古田さん御夫妻をお迎えして夕食しながら最新の成果を伺った際、私はこの新著を頂きました。
この時の帰省は私にとって甚だ淋しい旅でした。それに先立つ五カ月間に相次いで四人の身内を失ったのです。即ち、九三年の末に京都の義母が急死し、続いて去年二月には義父が逝きました。その一年前に糖尿病が発見された私の家内は、内服薬で血糖値も落ち着き帰京を楽しみにしていたのですが、四月二〇日の出発予定の二日前に急に気分が悪くなり、四月二六日に俄に急性肺炎で亡くなりました。更にその八日後には、岡山の実兄が脳内出血で手術の甲斐もなく不帰の客となりました。洵に天を怨むの思いでした。オランダでは法により火葬後一カ月経ってやっと遺灰(骨は碾ひいて粉にする)を家族に渡してくれます(希望すれば)。家内の兄妹たちの勧めもあり、六月の始めに妻の遺灰の一部を受取り、日本大使館で封印してもらって日本へ持ち帰り、両親の眠る京都の先祖代々の墓に入れました。次いで岡山で兄の四九日並びに納骨を済ませ、最後の一週間を東京に滞在したのでした。
私は歌や俳句などとは甚だ縁遠いのですが、古田さんの「君が代」の論証や萬葉集の歌の新しい深い解釈には、なるほど、なるほどと感心していました。ところがこの『人麿の運命』の中に、誠に身につまされる歌がありました。それは人麿の妻、依羅(さよみ)娘子の作った歌
直相者 相不勝 石川尓* 雲立渡礼 見乍将偲 (萬葉集巻二、二二五)
尓*は、爾の別字。JIS第3水準ユニコード5C12
です。古田さんは、こののように解説されました
「相不勝」を、「あひたへざらん」と読むべきではないか、と提唱され、次(著書、一七四〜一七六頁)。
「わたしは、あなたの無残な屍を見るにしのびません。かわりはてた、あなたのお顔やお姿を、これからの朝夕、思い出していたくはありません。雄々しかったあなた、やさしかったあなたのお顔やお姿を、いつまでもわたしの心にとどめていたいのです」
「わたしが勝えきれないだけではありません。あなたも、自分のそんな顔、そんな姿を、わたしに見られること、それをいつもこのわたしに思い出されつづけていること、そんな死後にはお勝えになれないでしょう。わたしはそう思います。だから、こんなに行きたくてたまらないあなたのもとに、わたしはやはり行きません」
「あなたも、わたしも、おたがいに勝えきれませんよね」
ユトレヒト大学病院の集中治療のベッドで息を引き取った私の妻は、諸々の機械やパイプが取り外され、清拭された後、私たちと対面しました。やや黄色味を帯びた白蝋のような顔には、家にいるとき何度か床に倒れて打った傷痕があり、下顎から首が腫脹して、いかにも苦しい戦いを闘って精魂尽きて敗れたという感じがありました。娘とともにその時いわば記録として二、三枚の写真を撮ったのですが、それは正しく「見るに耐えない」のです。「君も、こんな顔を、こんな写真を、もう見られたくないだろうなぁ」と思ったのです(いま置いてあるのは、孫娘を抱いた、いいお祖母さんぶりの写真です)。ですから、古田さんのこの章を読んだとき、「そうだ、そうだ、その通りだ!」と心の中に叫んで、涙が止まらなかったのです。この歌は、私にかなりの慰めを与えてくれました。そして、よい本を頂いたと嬉しく思いました。
ただし私は、この歌の始めの「直相者」を、「ただのあひは」と読むことに抵抗を覚えるのです。「ぢかに」あふことを、「ただの」とか「ただに」とか訓むのは、どうも腑に落ちません。古代史勉強仲間のマロトー=神沢・茂美さんから借りた澤潟久孝(おもだかひさたか)の『萬葉集注釈巻第二』(中央公論社、昭和四五年版、五〇六頁)を見ても、この訓みの根拠は弱いと思います。当時の漢字の使い方から推して、「直」を「ぢき」(呉音)、あるいはその詑り「ぢか」とした日本語がもう存在したのではないかと、私は思うのです。(序でながら同書でみると、「あひかつましじ」という在来の読み方には、事実上何の根拠も認められませんね。よくもまあ、こんないい加減な訓みを付け、それに従って来たものだと、いささか呆れます。古田さんの解釈には、何時に変わらぬ深い論証と人間味との結合が見られます。)結局、私は、この歌は素直に
ぢきにあはば(あふは) あひたへざらん 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ
と読んだらどうかと思うのです。ご批判ください。
(なんば・おさむ理学博士・オランダ在住)