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「二倍年暦の世界」 古賀達也(『新・古代学』第七集)へ
古賀達也
『新・古代学第七集』に発表した「二倍年暦の世界」では、初期仏典や中国周代史料そして古代ギリシアにおいて二倍年暦による年齢表記がみえることを指摘し、仏陀の生没年や古代史編年さえも再検討が必要であることを述べた。本稿はその続編である。その結論は、古代において二倍年暦は広く使用されていた痕跡があり、その存在はまずゆるがないと確信すると同時に、古代ヨーロッパやエジプトの歴史編年の見直しをも避けられないのではないかと考えるに至った。
その一方で、この結論が現代の歴史常識とかけ離れていることから、わたしはとんでもない錯覚に陥っており、大きな間違いをしているのではないかとの危惧もいだいている。しかしそれは、「論理の導くところ」の結果であり、「どこに至ろうとも」わたしにはほかの道はなかった。読者、識者のご批判を切願する所以である。
拙稿「孔子の二倍年暦 (1)」において、周代成立の『管子』『列子』『論語』が二倍年暦(二倍年齢)で記されていることを明らかにし、中でも『列子』には人間の最大の寿命を百歳とする記事が見えることを指摘した。次の記事だ。
「楊朱曰く、百年は壽の大齊たいせいにして、百年を得うる者は、千に一無し。設もし一有りとするも、孩抱がいほうより以て[民/日]老こんろうに逮およぶまで、幾ほとんど其の半なかばに居る。」(『列子』「楊朱第七」第二章)
【通釈】楊子がいうには、百歳は人間の寿命の最大限であって、百歳まで生き得た人間は、千人に一人もない。若し千人に一人あったとしても、その人の赤ん坊の時期と老いさらばえた時期とが、ほとんどその半分を占めてしまっている。
『列子』(明治書院、新釈漢文大系、小林信昭訳注による)
人間の寿命の限界を百歳とする記事だが、これと同じ認識が『荘子』にも見える。
「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈みたんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*びょうゆ・死喪しそう・憂患ゆうかんを除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具ぐを操とりて、無窮の間かんに託す、忽然こつぜんたること騏驥ききの馳はせて隙げきを過ぐるに異なるなきなり。其の志気を悦ばし、其の寿命を養う能わざる者は、皆道に通ずる者に非ざるなり。丘の言う所は、皆吾れの棄つる所なり。亟すみやかに去りて走り帰れ。復またこれを言うことなかれ。子の道は凶凶[イ及][イ及]、詐巧さこう虚偽の事なり。以て真を全うすべきに非ざるなり。奚なんぞ論ずるに足らんやと。」(『荘子』盗跖とうせき篇第二十九)
【口語訳】いまおれ(盗跖)は、お前(孔子)のために人の情というものについて話してやろう。目は美しい色を見たいと望み、耳はよい音色を聴きたいと思い、口はうまいものを味わいたいと願い、心の欲望は満たされたいと望むものだ。ところが人の寿命は最高の長生きでも百歳、中の長生きは八十、下の長生きは六十で、病気とか親戚の死亡とか心配ごとの期間を除くと、中間で口をあけて笑える楽しいときは一月(ひとつき)のあいだにやっと四、五日ていどだ。天地の大自然は尽きるときはないが、人間の死は必ずやってくる。有限なこの身を無限の大自然のなかに寄せているのは、忽然とした瞬時のことで、まるで駿馬が戸の隙間(すきま)を通過するようなものだ。己れの欲望を満足させ己れの寿命を養うことのできないようなやつは、すべて道に通じたものとはいえない。お前の話すことはおれにはすべて無用なことだ。とっとと失(う)せて逃げ帰れ。二度というまいぞ。お前の教えは狂気(きちがい)じみてあくせくしていて、いかさまの嘘っぱちの事だ。本来の真実を全うできるようなものではない。とても話しあう値うちはないぞ。〔( )内は古賀注〕
『荘子』(岩波文庫『荘子』第四冊、金谷治訳注による)
[民/日]老(こんろう)の[民/日]は、民の下に日です。
病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は表示できません。JIS第3水準ユニコード5EBE
[イ及]は、人編に及。JIS第3水準ユニコード4F0B
この『荘子』盗跖篇は盗跖と孔子の会話等からなっているが、もとより実話とは考えにくい。しかし、当時の人間の寿命の認識が示された記事であり、百歳を最大として八十歳を平均的な寿命、六十歳を平均よりも短い寿命としている。これは一倍年暦の五十歳、四十歳、三十歳であり、後代の『三国志』に見える中国人の没年齢記事ともよく対応している。(2)
荘子は戦国時代末期の人物で、孟子と同時代の人物とされる。(3) 従って『荘子』は、周代においてその末期まで二倍年暦が使用されていたとする史料根拠と見なし得るであろう。同時に文献としての『荘子』は前漢の初め頃に原形が成立したと見られており、(4) 前漢代初頭においても二倍年暦が記憶された可能性も無しとはできまい。
『荘子』には盗跖編以外にも二倍年暦によると思われる老齢記事がある。
「臣は以て臣の子に喩さとすこと能あたわず、臣の子も亦たこれを臣より受くること能あたわず。是ここを以て行年七十にして老いて輪を斬*きる。」(『荘子』天道篇第十三)
【口語訳】わたくしはそれを自分の子供に教えることができず、わたくしの子供もそれをわたくしから受けつぐことができません。そのため七十のこの年になっても、老いさらばえて車作りをしているのです。『荘子』(同前、第二冊)
斬*(き)るは、表示できず。別字。JIS第4水準ユニコード65B2
ここでは七十歳を「老」と表現されており、これは一倍年暦の三五歳に相当することから、現代の感覚からは「老」と表現するには違和感がある。しかし、先の盗跖篇からもわかるように、当時の平均的な寿命とされる「中寿」が八十歳(一倍年暦の四十歳)であったことからすれば、七十歳(一倍年暦の三五歳)が「老」と表現されても、それほど不自然ではなくなる。
あるいは、現代の「老」とは異なった「老」の概念が周代にはあったのではないかという示唆も古田武彦氏から得ているが、今後の研究課題としたい。
『論語』が二倍年暦により記されていることを明らかにしてきた(5) が、もし拙論が正しければ、孔子の弟子達もまた二倍年暦で語り記したはずである。今回、孔子の弟子の一人、曾子(曾参そうしん、あざ名は子與しよ)の言をまとめた『曾子』において、二倍年暦が使用されていることが明らかになったので、報告する。なお、『曾子』のテキストと訳は武内義雄・坂本良太郎訳注岩波文庫本によった。(6)
現存『曾子』は十篇よりなっており、その年齢表記記事に二倍年暦が使用されている。次の通りだ。
1) 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免ゆるすべし。」(曾子立事)
2) 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
当時の人間の一般的な寿命は三十歳代、四十歳代であり、1)の記事も二倍年暦として見なければ、「一般論」としての説得力を持たない説話となろう。2)は百歳という年齢表記から二倍年暦として理解せざるを得ない用例である。なお付言すれば、1)の記事は『論語』為政第二の記事、「而立(三十歳)」「不惑(四十歳)」「知天命(五十歳)」「不踰矩(七十歳)」との対応からも興味深い。少なくとも曾子のこの言は、師である孔子の言葉を十分意識したものであることを疑えないであろう。
以上のように『曾子』に見える二倍年暦の用例を紹介したが、同じく曾子の言として『礼記』に採録されている記事にも二倍年暦の用例が見える。
「曾子曰く、宗子は七十と雖も、主婦なきはなし。宗子にあらざれば、主婦なしと雖も可なり。」(岩波文庫『孝経・曾子』所収「曾子集語」による)
正式な跡継ぎたるものは七十歳(一倍年暦での三五歳)であっても主婦(正妻のことか)がいなければならないが、跡継ぎでなければいなくてもよい、という内容である。当時としては三五歳は「老齢」であり、この七十歳も二倍年暦として理解しなければならない。
『荀子』は周代末期の思想家荀況の思想を伝えたものである。全三二篇中に年齢表記記事は少ないが、次の例が二倍年暦によっているようである。
1) 「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙こぞって事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
2) 「古者、匹夫は五十にして士つかう。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。
※岩波文庫『荀子』金谷治訳注による。(7)
1)の例は、八十歳・九十歳という当時としては考えにくい高齢記事であることから、二倍年暦と見なされよう。2)は仕官する一般的な年齢を五十歳とすることから、明瞭な二倍年暦の例である。これがもし一倍年暦であれば、当時としては寿命の限界と認識されていた五十歳になって初めて仕官するなどということはナンセンスである。このように周代末期の史料『荀子』も二倍年暦であったと考えざるを得ないのであるが、そうすると次に見える喪服期間月数から、周代の二倍年暦は現在の半月を一ヶ月として、その十二ヶ月で一年(現在の半年)とするものであることが推定できる。
「三年の喪は二十五月にして畢おわる。」(巻第十三、礼論篇第十九、『荀子』同前。)
儒教の喪服期間は三年とされるが、それが二五ヶ月とされていることから、この三年とはいわゆる“あしかけ三年”であることがわかる。すなわち、二四ヶ月(二年)と一ヶ月だ。そして、この一ヶ月は一倍年暦の半月に相当することから、ここでいう三年の喪は現在の一年と半月に相当することになる。したがって、本来の儒教の喪服期間は約一年ということになり、これであればそれほど非現実的な長期間ではないのではあるまいか。
同時に二十歳のことを弱冠というが、これも現在の十歳のことであり、それであれば“弱”という表現もピッタリである。このように二倍年暦による『荀子』の史料批判の結果、儒教の礼体系がよりリーズナブルな制度として認識できるのである。
以上の用例が示すように、孔子の弟子たちも二倍年暦で語っており、『論語』をはじめ『荀子』に至るまで、周代史料が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないと判断できよう。
今から十年ほど前、和田家文書偽作キャンペーンに反論するため、菅江真澄(8) について調査研究したことがあった。そのおり、菅江真澄が北海道に渡った時の紀行文『えぞのてぶり』に、次のような超高齢のアイヌのことが記されていることを知った。
「また奥山のトシベツというコタンに住むアヰノで名をコウシといい、歳は百歳を三十ばかり越えているものが、ことし十年ぶりでこの海辺に出てきて、青山氏をわがニシバ(主人、貴人)と頼んで会見したいと、きのうこの役所に来たというのがいた。このコウシの老人(チャチャ)を見ると、いっこうに老(ふ)け、おいぼれたようすはみえなかったが、ただ昔風にウムシヤ(おじぎ作法)をしたり、その人が身につけていた調度の彫刻(テント)も、現今のアヰノらのさまとはおおいに異なっていた。このような世にも稀な高齢の人もあったものかとひとりごとして、このコウシの姿を見まもっていると、ここにいる通訳が言った。
『アヰノの高齢者は珍しくない。カヤベ(茅部)の浦のポンナヰのウマキというメノコ(女)の歳の数を聞くと、百四十歳になったという』
シヤバポロは頭がたいそう大きく、腕は細長く、身のたけは四尺にたりないアヰノで、それと、百歳に余る鬚(レキ)も真白な老人とふたりがさしむかいになって、コウシが盃(ツーキ)をあけるとシヤバポロがひさげ(かたくち)をとってついでいる《盃をツーキ、蝦夷の発音は説明しがたく、とても記すことができない、通訳に問うべきである》。」
菅江真澄『えぞのてぶり』(平凡社東洋文庫『菅江真澄旅覧記2』内田武志・宮本常一編訳)
菅江真澄が北海道で会った、「いっこうに老(ふ)け、おいぼれたようすはみえなかった」百三十歳のアイヌ老人、通訳が「アヰノの高齢者は珍しくない」と紹介した百四十歳の老女など、これら超高齢アイヌは二倍年暦による年齢表記と考えざるを得ない。しかし、菅江真澄も通訳も、それとは知らず、「世にも稀な高齢の人」と認識しているのである。現在のアイヌが二倍年暦を使用しているとは聞いたことはないが、菅江真澄日記によれば、江戸時代のアイヌには二倍年暦が残っていたことになり、日本列島における最も新しい二倍年暦の使用例ではあるまいか。
江戸時代屈指の歴史家、新井白石(9) の著作に『蝦夷志』がある。その中で北海道のアイヌ(蝦夷)の風俗や文物を紹介し、暦法に関する記述が見える。
「また文字無し。甲子(干支)を知らず、寒暑を以て年を紀す。虧盈を以て月とする。」(『新井白石全集』)
この記事によれば、アイヌの暦法は暑期(夏)と寒期(冬)とに分けてそれぞれ一年としていたと理解できよう。同様に月の虧(か)ける期間と盈(み)ちる期間をそれぞれ一ヶ月としていたのであろう。従って、十五日を一ヶ月とし、それの十二ヶ月(一倍年暦の半年)を一年とする暦法のようである。この白石の著作は徳川幕府の公的調査に基づいたものと考えられるが、先の菅江真澄によるアイヌの超高齢表記を理解する上でも、貴重な記録である。
また、長手漠氏「アイヌ古謡における『二倍年暦』とその考え方 ーー知里真志保著『地名アイヌ語小辞典より』(10) 」によれば、「今のアイヌの古老は我々と同様に一年を四季に分けて考えているが、古くはpaikaru(春)もchuk(秋)も無かったらしく、古い地名や謡もの、語り物の中には春や秋は全く出てこないという。そこではsak(夏)はもっぱらmata(冬)と対立するものとして考えられている」とあり、アイヌの二倍年暦の可能性について言及されている。この内容も白石の記録とよく対応している。
以上のように、江戸時代までアイヌは二倍年暦を使用していたことは確実と思われるのだが、そうすると彼らの二倍年暦は南洋パラオ起源(古田説)のものが伝播したのか、それとも独自に発生したものか、あるいは大陸から伝播したのかという問題に直面するが、これは二倍年暦研究における今後の重要な課題である。
古代ギリシアの哲学者達が軒並みの高齢であり、現在日本以上の長寿社会であることから、それら年齢表記は二倍年暦によるものとすることは既に述べてきた所である。(11) そこで今回は古代帝国ローマにおける二倍年暦の痕跡を紹介する。
ローマ帝政初期の政治家、セネカ(ルキウス・アンナウエス、前四頃〜後六五)の著書『人生の短さについて』に次のような年齢表記記事が見える。
「そこで、沢山の老人のなかの誰かひとりをつかまえて、こう言ってみたい。『あなたはすでに人間の最高の年齢に達しているように見受けられます。あなたには百年目の年が、いやそれ以上の年が迫っています。』
セネカ『人生の短さについて』(岩波文庫。茂手木元蔵訳、一九九三年第二五刷)
「沢山の老人のなかの誰かひとり」とあるように、ここに記された百才近くの超高齢老人は沢山の老人のなかの一人であり、他にも同年齢の老人がたくさんいることを前提としての記事である。したがって、こうした百歳近くの老人の存在が一般的な現象というのは現在日本でも考えられないことから、この記事も二倍年暦による年齢表記であり、一倍年暦での五十歳ぐらいの「老人」のことと考えざるを得ず、それであれは当時としてもリーズナブルな年齢となる。
従って、セネカは二倍年暦でこの『人生の短さについて』を著しているのであり、当時のトップクラスの政治家であるセネカが二倍年暦を使用していたということは、当時のローマ帝国では二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ないのである。少なくとも、人間の年齢表記は二倍年暦であったようである。ちなみに、セネカの父(マルクス・アンナウエス・セネカ)の生没年は前五五〜後四〇とされ、八四歳で没したこととなる。(12) この高齢も当時の人間の寿命としては考えにくく、二倍年暦の可能性を高く有している。もし一倍年暦であれば、セネカは父が五一歳の時の子供となり、不可能ではないものの、やはり年齢的に違和感がある。この点も二倍年暦とすれば、無理なく解決できるのではあるまいか。
すでにこの頃のローマでは著名なユリウス暦が使用されていたと思われ、セネカによる二倍年暦の使用は一見矛盾したように見える。異なった暦の混在か、カレンダーと年齢表記で異なった暦が使用されていたケースが想定できるが、この点は『人生の短さについて』の分析からは明確にし難い。
セネカよりも百年前の古代ローマの哲学者・政治家、キケロー(マルクス・トゥッリウス、前一〇六〜前四三)の著書に『老年について』があり、その中にも二倍年暦と考えられる高齢記事が散見できる。次の通りだ。
聞くところによると、ブラトーンの老年がそのようなものであった。彼は八十一歳の時、書きながら死んだ。イソクラテースの老年もそうだ。彼は『パナテーナイア祭演説』と題する作品を九十四歳で書いたと言っているが、その後更に五年生きた。その師、レオンティーノイのゴルギアースは満百七歳を過ぎて、しかも研究でも仕事でも片時も怠ることがなかった。
マルクス・ウァレリウス・コルウィーヌなどは、既に十分に人生を生きた後で農地に住んで耕作に従い、百歳まで熱中し続けたと聞き及んでいる。この人の一度目と六度目の執政官職の間には四十六年が介在するから、先祖たちが老年の始まりと考えたそれだけの期間、彼は名誉公職の道を歩んでいたことになる。
物の本によれば、かつてガーデースにアルガントーニオスとかいう王がいて、八十年間君臨し、百二十歳まで生きたということだが
キケロー『老年について』(岩波文庫。中務哲郎訳、二〇〇四年第一刷)
ここに記されたギリシアの哲学者はもとより、ローマの執政官の高齢も二倍年暦年と理解せざるを得ないであろう。そうすると四十六年間の執政官職期間も二倍年暦となり、執政官の在職年代に基づいた古代ローマの編年にまで二倍年暦の影響が及ぶ可能性を有すのである。
このキケローの『老年について』は古代ローマの政治家、大カトー(前二三四〜一四九)による対話編という形式を採っているのだが、この大カトーことマルクス・ポルキウス・カトーは八十歳で次男をもうけており、大カトーの年齢表記も同様に二倍年暦と考えざるを得ない。従って、セネカに先立つキケローもまた二倍年暦の世界に生きていたのである。そうすると、本稿で記した大カトーはもとよりセネカやキケローの生没年も二倍年暦による再検討を迫られよう。そして、ことは彼らの年齢にとどまらず、古代ローマ帝国史の絶対編年をも再検討を促すのである。
ヘロトドスがその著『歴史』に記しているように、一年が三六五日であることは古代エジプトでは早くから知られていた。それはナイル川水位の増減を観測して求めたとされている(13) が、そのエジプトにおいても二倍年暦の痕跡が散見される。
古代エジプトの歴代王朝の編年を記した文献史料にマネトー(前三六七頃〜二八三)の『エジプト史』がある。同書は今日用いられているエジプト年代記の骨格となったものだが、完全な形では残されておらず、他の文献に引用されたものが残っているだけである。信頼性が高いとされるこの『エジプト史』には、紀元前三一〇〇年頃の初のエジプト統一王朝から前三四三年の最後のエジプト人ファラオ、ネクタネボ二世まで三〇の王朝の存在が記されている。
その『エジプト史』にはセメルケト王(前三〇〇〇年頃)の在位年数を一八年間とするが、現存する最も早期の碑文、バレルモ石(前二四九八〜二三四五頃作成)には九年間と記されている。(14) この在位年数の差はちょうど二倍であり、マネトーは二倍年暦で『エジプト史』を記したことがうかがえるのである。そうすると『エジプト史』に基づいて編年された古代エジプト絶対年代は揺らぐ可能性を有する。また、古代エジプト人の平均寿命は四〇歳前後、あるいは三○歳にも満たなかったと考えられている(15) が、『エジプト史』には在位年数(没年齢ではない)が五〇年近くの王が何人も存在していること(16) も、二倍年暦の可能性を高めるのである。
古代エジプトにおける最も著名なファラオの一人がラメセス二世(在位、前一二七九〜一二一二)であるが、ラメセス二世は六七年間在位し、九二歳(異説もある)で没したとされる。当時としては驚異的なこの長寿も二倍年暦による表記と考えざるをえない。(17)
幸いにもラメセス二世の場合、そのミイラが現存しており、X線撮影も行なわれている。(18) X線写真によれば、ラメセス二世のミイラには九二歳とは思われないほどに歯が残っており、やはり四六歳のミイラとした方が穏当のように思われる。少なくとも科学的調査を行えば、九二歳と四六歳のどちらが相応しいかは判明するはずだ。ラメセス二世のミイラは二倍年暦を決定的に証明できる「動かぬ証拠」ではあるまいか。
同様に五〇歳で没したとされるトトメス一世(在位、前一五二四〜一五一八)のミイラも調査の結果、まだ成長が終わっていない年齢(一八歳以下と推定)であることが判明(19) しており、断定はできないものの、この場合も二倍年暦と考えた方がより妥当なケースである。
本稿では各ファラオの在位年数を通説により表記したが、これらも二倍年暦による再計算が必要であり、その結果、地滑り的に在位年や編年が移動することを避けられないと思われる。そして、当然のこととしてあの巨大ピラミッドやスフインクスの製造年代も軒並み新しくなる可能性が生じるのである。
世界の古典などに散見する二倍年暦による年齢表記の見直しにより、二倍年暦を一倍年暦と誤解した上で作られた従来の古代史編年そのものが揺らぐ可能性が避けられないと思われるが、もしそうであれば、本誌第七集の先稿「二倍年暦の世界」で提案した仏陀の生没年「前四二三〜三八三年」も見直しを迫られよう。
同様に、エジプト・ローマ・ギリシャなど相互に関連有す歴史事績も二倍年暦による編年の相互検討と調整が必要となろう。また、中国では周代の編年が地滑り的に変動することから、夏殷周の遺跡や遺物とされてきた文物の位置付けも見直しが必要となる。
国内史料においても延喜二年の「阿波國板野郡田上郷戸籍」に頻出する超高齢者群なども二倍年暦により検討が必要であろう。(20)
このように、二倍年暦から派生する研究テーマは大きな可能性と発展性を秘めているのであるが、筆者の力ではそれらすべてに取り組むことは不可能である。歴史の真実を愛する世界の歴史家・考古学者による緻密で実証的な研究と批判が望まれるところである。
《注》
(1) 「古田史学会報」No.53。二〇〇二年一二月三日、古田史学の会発行。
(2) 倭人伝に倭人の二倍年暦による年齢表記があるが、『三国志』は基本的には一倍年暦で表されている。古田武彦氏の調査によれば、『三国志』に記された没年齢の平均は五二・五歳だが、多くは三〇代、四〇代で没している。
(3) 紀元前四世紀後半。岩波文庫『荘子』、金谷治氏の解説による。
(4) 同(3)。
(5) 「孔子の二倍年暦」古田史学会報No.53。
(6) 岩波文庫『孝経・曾子』一九八八年第三刷。
(7) 岩波文庫『荀子』一九六一年第一刷。
(8) 菅江真澄(一七五四〜一八二九)。江戸中期の国学者・紀行家。本名は白井英二。三河の人。東北各地や北海道を四〇余年にわたり旅行し、多くの紀行文を残した。和田家文書にも登場する。
(9) 新井白石(一六五七〜一七二五)。江戸中期の朱子学者・政治家。名は君美。幕臣として将軍を補佐した。学者としても優れ、合理性と実証を重んじ、日本古代史に合理的解釈を試み、外国事情にも意を用いた。
(10)『古田史学の会・北海道ニュースNo.4」(一九九五年一二月)所収。
(11)「ソクラテスの二倍年暦」古田史学会報No.54、二〇〇三年二月。
(12)セネカ『人生の短さについて』(岩波文庫、茂手木元蔵訳、一九九三年第二五刷)の解説による。
(13)吉成薫『エジプト王国三千年』(講談社選書メチエ、二〇〇〇年)
(14)パレルモ石の年数表記は二年に一度の家畜頭数調査に基づいているとし、実年数を求めるためには二倍にしなければならないとする説(『大英博物館古代エジプト百科事典』原書房、一九九七年)もあるが、それだと『エジプト史」に記された王の在位年数の長さが説明しにくい。
(15)吉村作治監修、フランソワーズ・デュナン等著『ミイラの謎』(創元社、二〇〇〇年第一版五刷)では四〇歳前後、死産等を考慮すればさらに低くなるとする。同(13)では三〇歳に満たないとする。
(16)吉村作治監修、ピーター・クレイトン著『古代エジプトファラオ年代誌(創元社。二〇〇一年第一版四刷)によれば、次の通りである。ホル・アハ王、六二年間。ジェル王、五七年間。ニネチェル王、四七年間。カフラー王、六六年間。メンカウラー王、六三年間。メンチェヘテプ王、五〇年間。センウセレト王、四四年間(共同統治一〇年間を含む)等。
(17)著者が西洋の二倍年暦の研究を始めたきっかけは、二〇〇二年六月の古田史学の会関西例会において、木村賢司氏(古田史学の会会員・豊中市)から、ラメセスニ世の長寿に対する疑問を質されたことによる。
(18)『ミイラの謎』(創元社。二〇〇〇年第一版五刷)掲載のX線写真による。
(19)同(18)。
(20)二〇〇三年四月一九日の古田史学の会関西例会において同戸籍が二倍年齢による表記とする研究を筆者は発表した。
〔初出一覧〕
はじめに 書き下ろし
一 『荘子』の二倍年暦「古田史学会報」No.58 二〇〇三年一〇月古田史学の会編
二 『曾子』『萄子』の二倍年暦「古田史学会報」No.59二〇〇三年一二月古田史学の会編
三 アイヌの二倍年暦「古田史学会報」No.60二〇〇四年二月古田史学の会編
四 ローマの二倍年暦「古田史学会報」No.63二〇〇四年八月古田史学の会編
五 ファラオの二倍年暦 書き下ろし
おわりに 書き下ろし