大和三山の歌 (高山は畝傍雄々しと・・・)英文はありません。

初めに
 
この解説は、古田氏の『古代史の十字路』(東洋書林)ー万葉批判ーの解説です
 又史料批判の考え方を理解していただくために、印影本のコピーも添付しました。


古田武彦講演会 一九九九年七月十六日       古代と万葉の画期線より
於:大阪 北市民教養ルーム

大和三山の歌(高山は畝傍雄々しと)

1 香具山は 畝傍雄々しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし

岩波古典文学大系に準拠
『万葉集』 巻一 第十三歌ー十四歌
中大兄[近江宮に天の下知らしめし天皇]の三山の歌
13
香具山は畝傍雄々し(愛し・惜し)と
耳梨と相あらそいき
神代より斯(か)くなるらし 古昔(いにしへ)もしかなれこそ
うつせみも 嬬(つま)を争うらしき
(原文)
高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相<挌>良思吉
反歌14
香具山と耳梨山と あひし時
立ちて見に来し 印南国原
(原文)
高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良

 それで読むまでもなく、皆さんご存じの歌です。この歌に関して私は非常に大きな不審をいだきました。何が不審かと言いますと右に原文が書いてありますが、そこで見ますと、最初は「高山波」とあり、反歌のほうも「高山与」とあり、二つの歌は両方とも「高山」となっている。この「高山」を「香具山」と読んでいる。本当にこう読んで良いのか。それが私の最初の疑問の始まりでした。東京から帰ってきて、さっそく現地に訪れた。古田史学の会水野氏が奈良市在住であり、その他の会員と共に現地を訪れた。写 真をコピーしましたが、 畝傍、耳成とあり、一番低い丘のような山が香具山です。これが「高山」ですかね。三つの山で一番低いように見えますが。なぜ一番低い山を「高山」と呼ぶのでしょうか。「高山」をなぜ香具山と呼べるのでしょうか。私のような単純な頭の者には分からない。
 それでいろいろ悩んで調べたのですが、いきさつを話すと面白いが時間ばかり食いますので、いきなり結論に進みたいと思います。まず水野さんに お願いして、パソコンで万葉集の原文の中に「高山」という言葉がいくつ有るか、調べていただいた。そういうことが出来るのですね。それで「高山」が合計二十二個有る。その中で「高山」という字を「香具山」と読んでいるのはこの二つの例だけである。後は全部、高山は「高山」。私のような 単純な人間の頭では、あと残る二つのこの高山も「高山」と読むべきである。これは奇抜な考えではありませんよね。まったくの常識論。そういう疑いを 持つに至った。
 それで、「高山」を高い山と考えたら、どこの山だって良いように見えるが、「高山」の中にも固有名詞がなくはない。たとえば「不尽の高山」。これは富士山のことですが、これも固有名詞といえば、固有名詞である。

 そうすると、それらの例を見ていて私が考えましたのは、この二十二例中に、中大兄が知っている高山が一つだけある。それは巻二の先頭にある有名な仁徳の后、磐(いわの)姫の歌の2番目である。

岩波古典文学大系に準拠
万葉集 巻二 第八十五歌ー八十九歌
相聞
難波高津宮に天の下知らしめし天皇の代 [大鷦鷯天皇、謚(おくりな)して仁徳天皇といふ]
磐(いわの)姫皇后、天皇を思ひたてまつる御作歌四首
85 きみがゆき,けながくなりぬ,やまたづね,むかへかゆかむ,まちにかまたむ
君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
右一首の歌、山上憶良臣の類聚歌林に載す

86 かくばかり,こひつつあらずは,たかやまの,いはねしまきて,しなましものを
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを
(原文)如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物<呼>

87 ありつつも,きみをばまたむ,うちなびく,わがくろかみに,しものおくまでに
ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに
88 あきのたの,ほのへにきらふ,あさかすみ,いつへのかたに,あがこひやまむ
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ
或本歌曰
89 ゐあかして,きみをばまたむ,ぬばたまの,わがくろかみに,しもはふるとも
居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
右一首、古歌集の中に出づ。
(原文は八十六歌のみ確認のため参考に掲載。)

 万葉集第二巻の大王仁徳の后である磐(いわの)姫が詠った歌である。その2番目が「高山」の歌である。ここの高山は「高山」である。「香具山」という人はいません。そうすると中大兄が「高山」と詠った場合、中大兄が知っていた高山の歌はこの歌である。仁徳の后の歌である。後の歌は八世紀以後の歌ですから。我々が万葉を見たら有るけど中大兄が知っていたはずがない。
 中大兄が知っていた間違いなしの歌は磐姫が詠ったこの歌である。
 そうすると、この歌で磐姫が詠った高山とイコールの高山だから、中大兄が「高山」と書いた。中大兄は詠ったが、字を知らないと言う人はいませんから、当然中大兄が「高山」と書いた。そうであるならば磐姫が詠った「高山」とイコールの「高山」という認識が中大兄にあったからそう書いた。
 理屈ですけれども単純な理屈ですね。
 そうすると中大兄の高山という山の存在がどこであるかを知るためには、仁徳の后の高山を調べれば良ろしい。このように考えてきた。さいわい仁徳の高山の存在は分かる。なぜならば仁徳が今で言えば、八田姫命(やたのひめみこ)、今で言えば愛人といちゃついて、正妃である磐姫は非常に憤慨して、浪速宮を捨てて実家の方へ帰ってしまった。最近のテレビで見る事件のようだが、帰ってしまった場所が分かっている。山城の筒城宮(つづきのみや)である。この名前は関西、なかんずく京都に住んでいる人にとっては馴染みの場所で ある。なぜかというと二・三十年昔は山城のこの辺り、今の木津町・山城町 あたりを綴喜(つづき)郡と言った。手紙の宛先にいつも書いていた。発音は馴染みの場所でした。そこの山城町の中に綴喜郡の郡名の元となった筒城(つづき)がある。現在の同志社大学新田辺校舎のある所がそこである、と言われている。そこから遺跡が出てきて、どうも山城の筒城宮の遺跡であろうと認定されている。磐姫が拗(す)ねて帰った山城の筒城の宮の場所はおおよそは分かっている。どう間違っていても山城町界隈、その辺りである。そうしますと、その山城の筒城宮、しかもその裏山に高山がある。これも「高山はどこだ。どこだ。」と探していたら、生駒市高山町に高山があった。それで生駒市の正木さんという郷土史のベテランの方、この方にお聞きしますと「高山に御案内します。」と言って、御案内していただいた。
 そこの高山、そこを高山として御案内して頂いた。生駒市高山町から車で10分。地理的にはゴルフ場があって、車で池やゴルフ場を通 り、そのゴルフ場から歩いて十分ぐらいで岩を上れば頂上に達する。そこへ行ってビックリした。ご存じの方には分かり切っていることだが、辺りの景色が八割方見える。大阪府の七・八割方が見え、仁徳の浪速の宮があったとおぼしきところも見え、仁徳陵もおぼろげながら位 置が推定できる。それから北は私の住む向日市も見えている。比叡山が北の正面に観察でき、京都(市)は全部見える。北の七割は見える。南東の奈良市も北の三割は見える。ところが山城の綴喜(つづき)郡の所は見えない。なぜ見えないかというと樹木が茂っていて見えない。正木さんは「あの木を切ったら見える。」と言っていた。そういう感じのところである。京都と奈良の間だから、ほとんど目の下に見える。わずか三・四百メートルの高さで、絶景で三都を見下ろせる、そんな見晴らしのよいところがあるとは ぜんぜん知らなかった。水野さんもご存じなかったし京都の古賀さんも知らなかったみたいだ。知らない方も結構いらっしゃるので、ぜひ一回行って来られたら良いと思う場所である。バスで近くまで行けますので。
 (編集者別記。行政区画から言うと現在は大阪府交野(かたの)市に属する交野(こうの)山です。
 その交野(こうの)山は海抜三百四十四メートルです。南の生駒山は六四二メートルです。)

図一 大和三山と飛鳥三山地図

 ということで、彼女が詠った、磐姫が詠った「高山」は、実家の直ぐ裏の「高山=交野山」であるということを確信した。それで私が凄(すご)いと思ったのは、「高山の磐根しまきて死なましものを」というのは、「あなたが浪速宮でいちゃついているのを、不倫をしているのを、私は死んで死骸となって、それを見下ろしていますよ」とそういう歌だった。今まで思いもしなかった。ゾッとする、鬼気迫る歌だった。私は思いもしなかった。『人麻呂の運命』(原書房)でこの歌を扱ったが、そこまでの理解には達していなかった。あの「高山」を見て、この歌の真の姿を知ることが出来ました。
 さらに磐姫の最初の歌が、私には意味が分からなかった。

85 君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ

 「あなたが出て行かれて、日が経ち長く経った。山を訪ねて迎えに生きましょうか。それとも待っていましょうか。」となる。意味は訳せるけれども、ピンと来ない。仁徳は登山家だったのかという感じでしか受け取れなかった。ところが今回歌の持っている意味が分かった。案内して頂いた正木さんに聞きますと、今でも鷹が、空を飛ぶ鷹が急降下してパッと降り、野ネズミか 野兎などを捕まえて上がっていく。正木さんは何回かその光景を見たと言っていた。中近世では鷹匠の拠点があったそうだ。つまりここは禁猟区だった。関係する地名も幾つも挙げられていた。もちろん古代もそうである。そのような歌がある。となりますと、この歌が分かるんですよ。仁徳はいわゆる 狩りに行くと称して、高山の方へ行った。狩りに行くと言ったのだから、三日ぐらいは帰らなくとも良い。ですけれども一週間経っても、十日経っても帰らない。ほんとは狩りは口実で、密かに八田姫といちゃついていた。それが結局磐姫には分かった。
 「もしかしたら傷でもしたらいけないので、高山にお迎えに行きましょうか。しかし大体は真相は分かっている。それともここでじっと待っていたら良いでしょうか。」きちんとピントが初めて合った。高山が禁猟区であると分かってから。ですからこの高山は山城からすぐ裏の、現在の交野(こうの)山である。この「高山」は本来は神野山(こうのやま)ではないか。神様の「神(こう)」、野原の「野(の)」と読むのだと思います。現在の交通 の「交(こう)」は当て字というか、音を当てているだけです。
 ということで、私にとって仁徳の后磐姫の詠った「高山」が判明した。とすると同時に自動的に、中大兄の「高山」も先ほどの論理によってイコール。こうならざるを得ない。大阪府交野(かたの)市の交野山(こうのやま)の「高山」である。では、あれは大和三山とちがうではないか、という方がおられるかも知れないが、今あるのは飛鳥三山である。大和三山とは言えない。なぜ飛鳥三山を、大和三山とオーバーに言うのか。畝傍山、耳成山、香具山だったら飛鳥三山である。ところが「高山」だったら、ぐっと北側にあり大和三山で ある。それで交野山(こうのやま)の高山、畝傍山、耳成山が大和三山である。
 しかも、この裏付けというのが、次々と分かってまいりました。
 地図を見てみて下さい。これも大きな収穫があった大分県別府湾の件ですが、この副産物として分かったことで思わぬ 収穫がありました。湯布院の教育委員会から送ってもらった小冊子に、ここでも三山争いの伝承があったことが分かりました。どういう話かというと鶴見岳と由布岳という山があり、その下に離れて祖母岳(もしくは久住山)がありまして、この三山争いの説話です。
(由布岳は海抜高度千五百八十四メートル、鶴見岳は千三百七十五メートルです。)

 結論はハッキリしていて、「妻争い」に祖母岳が負ける。それで祖母岳が 負けて、すごすごと現在の位 置に逃げていった。退却して行った。祖母岳が現在あるのは、大分県と熊本県と宮崎県の境にある、二千メートル弱の山です。だから現在離れていますという「お話」になっている。三山争いの、その一つが離れていることに意味がある。もちろん離れているのは地球の造成で、地殻変動で離れているのであって、その離れているという事実、そこへ「三山争い」というお話を、人間どもが離れていることに合うように「お話」を作ったというか付加している。その場合負けて離れたのが祖母岳、勝って恋に結ばれたのが鶴見岳と由布岳であるというオチが着いてある。
 同じような例が東北地方の岩手県にある。ここでは盛岡市の北に岩手山、西北に姫神山があり、この二つの山は夫婦だった。ところが岩手山は横暴な旦那で、何かにつけて姫神山が気に入らない。それで姫神山を追い出した。(方言でホンだした。)それで女性の姫神山は泣く泣くずっと南の方にある男の早池峰山(はやちねだけ)へ逃げていって泣きついた。この山は岩手県と福島県の境にある有名な男性の山です。ところがそれを聞いて怒ったのが岩手山。「よその男性の所へ行くのは何事だ。」と、男の勝手ですが、けしからんと怒鳴り込んで取り返しに行った。この場合も、岩手山と姫神山は東西に並んでいる。並んで接近していることが大事である。早池峰山は姫神山から二十キロ以上は離れているし、岩手山からは三十キロ以上離れている。それが大事である。だから離れているところへ、また取り返しに行ったというお話が出来る。この場合も離れているのは、地球の造成で離れている。それが基盤になって、人間どもが離れていることに合うように「お話」を作ったということに変わりはない。
 となりますと、もし「飛鳥三山(畝傍山、耳成山、香具山)」での話であるならば、三山争いは決着が着いていないことになる。上から見たら正三角形で、未だ争っていることになる。今未まだ争い中ですとなる。しかし話そのものは、決着が着いている。

 参考までに言っておきますが、『播磨風土記』を見て下さい。有名な揖保(いぼ)の里にある話を見て下さい。
播磨風土記
上岡の里 (元は林田の里なり)土は中の下なり。出雲の國の阿菩の大神、大和の國の畝火・耳成・香具山、三つの山闘相うと聞かして、此を諌め止めむと欲(おもほ)して、上り來まし時、此處に到りて、乃ち闘い止みぬ と聞かし、其の乗らせる船を覆せて、坐しき。故、神阜と號く。阜(おか)の形、覆せたるに似たり。

(元は林田の里なり)は小さい字です。 神は[示申]、原文は異体字です。

 だから『播磨風土記』に阿菩(あぼ)の大神が、仲裁に行こうと思ったが、争いが止んだということを聞いて、乗っていた船をひっくり返したという話がある。だから決着は着いている。しかし今の姿では決着が着いていない。「飛鳥三山(畝傍山、耳成山、香具山)」ではまだ決着は着いていない。ところが生駒の北側の交野市の交野山(こうのやま)だったら決着が着いている。「高山」が負けたわけです。そして恋を成就したのは、その畝傍山と耳成山ということになる。だから大和三山はやはり高山でなければならない。香具山では具合が悪い。

 この問題とは別に史料批判として大切な問題もある。『播磨風土記』、そこの「香山(かぐやま)」は何かという面 白い問題もある。史料批判上面白いですが、時間の関係で簡単に済ませますと、そこにある写 本のコピーは『播磨風土記』の写本で天理図書館蔵の三条西家版です。『播磨風土記』は三条西家版、これしかない。問題の部分は後から書き込まれた部分です。本来の『播磨風土記』ではない。ところがいらんことをしている。岩波古典大系その他は、余計なことをしている。書き込まれた部分は、風土記のスタイルになってない。だから風土記のスタイルに書き直して、今読んだ活字の形にして いる。こんなやり方はあるんですかね。全くこれはやりすぎである。他の文献から取って、後で参考資料として書き足している。だからそれは『播磨風土記』の文章ではない。それを書き直してはいけません。本文化してはいけません。しかも詳しくいうと面 白いが、上大岡の北側、現在の龍野市にあるのですが、そのすぐ北隣の町が新宮市。その一角に文字どおりの香山(かぐやま)がある。そこにくっ付けた解説である。それを現地の解説だから、どういう本か知らないが参考にするのは良いですよ。それを付記するのも良いですよ。ところが、それを学者が『播磨風土記』のスタイルでないから書き直して、『風土記』のように入れるという作業は、元からあった『播磨風土記』のように入れるようなことはやってはいけない。これを最初にやったというか、こういう認識をしたのは万葉研究のさきがけである仙覚。仙覚はちょっとやっただけだが、契沖は大々的にやり、合理化した。後世の人はこれに従ってきた。このことは入り口だけで止めておくが、私などは史料批判上大きな問題と思っています。

図五 播磨風土記(写本)
図六 香具山(播磨)


播磨風土記揖保郡
上岡の里 (元は林田の里なり)土は中の下なり。出雲の國の阿菩の大神、大和の國の畝火・耳成・香具山、三つの山相い闘うと聞かして、此を諌め止めむと欲(おもほ)して、上り來まし時故。形、覆せたるに似たり。
(原文)
土中下 出雲國阿菩大神 聞大和國畝火香山耳成 三山相闘 此欲諌止  上来之時 到故 形似覆上岡里 (本林田里)
注記として
(此處に到りて、乃ち闘い止みぬと聞かし、其の乗らせる船を覆せて、坐しき。故、神阜と號く。)
(原文)
(此處乃聞闘止 覆其所乗之船而坐之 故號神阜)

香山(かぐやま)の里(元の名は鹿來墓なり)土は中の下なり。鹿來墓と號くる所以は、伊和の大神、國占めましし時、鹿來りて立ちき。山の岑(みね)。是も亦墓に似たり。故、鹿來墓と號く。後、道守臣、宰たりし時に到り、乃ち名を改めて香山と為す。
(原文は、ここは略。史料批判に関係しないため。)

 とにかく今必要なことは「三山争いは決着が着いている。」という伝承があったことは疑いがない。飛鳥三山なら決着が着いていない。離れている高山なら決着が着いている。やはりあれは生駒市高山の先の大阪府交野市の交野山(こうのやま)である高山と考えなければならない。現在の行政区画でいうと奈良県生駒市の先である「高山」、交野山(こうのやま)と考えなければいけない。
 としますと、磐姫(いわのひめ)が「高山の磐根し枕きて・・・」と詠ったのは、景色がよいたまたま自分の裏山だから使ったわけではない。三角関係の恋に敗れて無念の涙を飲んで、破れて退いたのが「高山」、そこで私も自分も無念の涙を呑んで死ぬ 。そしてあなた達のいちゃついているのを見下ろしてやろう。凄(すご)いですね。
 だから磐姫の歌の前に、恋に破れた「高山」、そういうイメージがあった。
 そうすると中大兄が詠っている「高山」もそういう二つのイメージ、三角関係の恋に破れて退いた大和三山の「高山」。その上に仁徳との恋に破れた磐姫が死骸となって見下ろしている「高山」。その「高山」を天智 (中大兄)が詠っている。もし言われていることが本当なら、額田王(ぬ かたのきみ)と、天武と天智の争いとなる。どうも額田王と天武がいちゃついたりしていて、自分の方が恋に破れているという位 置にあるという感じで作っているものではないか。
 これも一言述べてみると、単なる叙述の歌として「三山争い」という立場で言えば、先頭は「高山」でなくともよい。「耳成」山でも「高山」でもどちらでもよい。逆にしても同じですね。
 「耳成は 畝傍雄々しと高山と相争い・・・」と、逆にしても論理関係は 同じである。ところが長歌も短歌も皆「高山」が先頭になっている。「高山」というイメージを出そうとしている。だから「高山」を最初に持ってきている。「高山」と「耳成」、どちらが最初かという問題を論じた注釈は余りないが、私は意味があると思う。それは磐姫が無念の涙を飲むにいたった「高山」であり、山としても恋に破れた「高山」である。その「高山」を長歌も短歌も主語にしている。そういうことを、やっと後になって理解した。
(今回は説明を省略しますが、なお畝傍は男と見る方が良い。・・・・・『人麻呂の運命』ー原書房ー参照)
 以上私はこの「高山」を飛騨の高山ではないかとか、色々悩んで探したことが御座いましたが、皆さんのおかげで「高山」はここにあるという決着をつけることが出来たと感じおります。
 以上の例のように分かりますように、仙覚・契沖が読んだことを国学は絶対化してきた。それを明治以後、現代の学者も武田祐吉氏、澤瀉久孝氏、犬養孝氏など大家の方々も皆右に習えとばかり来ておられるのを見て、私としては、驚いたというか、目を覆(おお)いたい気持ちになったことを率直に申させていただきます。そういう問題はこの歌だけではない。


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