古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1 明石書店 『親鸞』ー人と思想ー

これは清水書院版(
1970年4月15日発行)の III 永遠の対話ー『歎異抄』ー の抜粋とあとがき です。

親鸞

ー人と思想ー
古 田 武 彦 著


III 永遠の対話
ー『歎異抄』ー

『歎異抄』ー解説


 わたしたちは、全章において、親鸞の死に立ち会った。これ以上、何をいうことがあろう。しかし、わたしはいわねばならぬ。親鸞がのこした、日本人の魂の古典、『歎異抄』のことを。
 この本は常陸国親鸞集団から生まれた。常陸国河和田(かわわだ)の唯円(ゆいえん)が、老親鸞のことばを記録したのである。ここにしるされた親鸞のことばは、息づまるほどの迫力をもっている。唯円が、くいいるような目をして、親鸞の語ることばを聞き、その一語一語を心にきざんだであろう。
 唯円は正応二年(一二八九年)八十九歳で死んだ、という。この伝えにしたがえば、唯円が二十歳の青年の日、親鸞はすでに八十九歳だったことになる。四十九歳もちがうのだ。親鸞が死んでから、二十六年目に当たる正応元年(一二八八年)に覚如が、唯円に会った、という記録がある。(慕帰絵詞 ぼきえし)だから少なくともこのころまで生きていたということは、確かである。
 『歎異抄』が作られたのは、親鸞の死後だ。しかし最初から今の形をとっていたのではない。その原形は、「親鸞聖人御物語(しんらんしょうにん おんものがたり)」と呼ばれる、ごくささやかな、親鸞のことばだけの抜き書きだったとおもわれる。その理由はこうだ。『歎異抄』のはじめには「親鸞語録」とでもいいたいような十箇条が置かれている。その第三条と十条を除いて、他はすべて最後に「云々(うんぬん)」という文字が置かれている。そのうえ、この十箇条の前にある序文まで「云々」という文字がついている。この点、存在するいろいろの(『歎異抄』)古写本にあたってしらべたところ、ほとんど例外がなかった。これは偶然だろうか。いや、この「云々」ということばには理由がある。これは、唯円が自分の前に書いておいた「親鸞聖人御物語」という小冊子から引用してのせたから、この「云々」をつけたのである。序文の場合はつぎのようである。まず訳をかかげよう。

(A)ひそかにわたしの考えをめぐらし、大体昔と今のようすをくらべ考えてみると、現在の人々は死んだ先生(親鸞)が口づから伝えてくださった真実の信心とちがっていることを歎(なげ)き、後の専修念仏を受けつぐ人々の疑いとまどいをまねくことを思う。幸いに縁あるみちびき手によらなければ、どうしても専修念仏の門にはいることができようか。まったく自分だけのさとりでもって、絶対他力の教えの内容を乱されないようにしてほしい。
(B)それで、死んだ親鸞聖人の御物語の趣がわたしの耳の底にとどまっているいるところを、いささかしるした。専修念仏に心を同じくする行者の不信をなくするためであると、云々

 原文でみると、(A)の部分は、その語数が「4・4、9・9、8・8、7・7」となっていて、きれいなリズムの文章になっている。親鸞も好んだ四・六駢儷(べんれい)文という文章の形だ。ところが(B)の部分は違う。「11・4・3・11」という形で、すっかりリズムを乱している。文章の性質が違うのだ。この(B)の部分こそ、前に作られていた小冊子の序文の一部だったのだ。だから、「云々」ということばが最後につけられたのである。
 これまで、「序文にまで、“云々”がついているのはおかしい。」と、ささやかれながら、「何かのまちがいだろう」と思われてきた。しかし、すべての古写本が一致して、こういう形をしめしているのだから、けっして偶然の写しあやまりではないのである。
 してみると、第三条の有名な悪人正機の文章と第十条の念仏本質論とは、『歎異抄』を作られるとき、新たにつけ加えられたものだ。『歎異抄』が作られた動機を考えるうえで、重要な意味をもってこよう。
 この点、第十一条以下、最後(第十八条につづく結文)までの、唯円の文章中に引用されている「親鸞のことば」も同じだ。みな、「云々」でなく、「おほせさふらひき」ということばで、くくられている。これも『歎異抄』をつくるとき、唯円が新たに書き加えた「親鸞のことば」なのである。

 「古親鸞ノオホセコトサフラヒシオモムキ、百分カ一(ヒトツ)、カタハシハカリヲモテヒイテマヒラセテ、カキツケサフラウナリ」

 唯円が右のように、『歎異抄』の末尾にいっているのは、新たにつけ加えらたものなのである。

 したがって、『歎異抄』は、前からあった「親鸞聖人御物語」と、新たに書き加えた「親鸞ノオホセコト」と、二種類の「親鸞のことば」をふくんでいるのである。
 このように、『歎異抄』成立の段階と、その意義を考えていくことは重要だ。親鸞没後の親鸞集団のようすが知られるからである。しかし、今は、これについて語るまい。
 また『歎異抄』が本願寺教団の手にわたって伝えられるうちに、起こった奇妙な「切断」事件。ー古写本(『蓮如本』)の伝来の中に突き出された、権威主義の「黒い手」。この興味深いミステリーについても、今は、これについて語るまい。
 まっすぐに「親鸞のことば」にすすんでゆこう。(まず訳をかかげ、これに解説した。)


『歎異抄』
ー親鸞のことばと私のこたえー

(「親鸞のことば」は古田訳)
・・・
・・・
P232(清水書院版のページ数です。)
 以上で、『歎異抄』のはじめにかかげてある十章は終わる。このあと、唯円の文章がつづき、そのころの親鸞集団内の腐敗した人々を批判している。今は、その中にちりばめられた親鸞の珠玉のことばを抜き出してみよう。みな、唯円が直接親鸞から聞いたものだ。ます、第十三条のわたしたちを驚かすことば、

「他(ひと)を千人殺しつくしてごらん。そしたら唯円は必ず救われるだろう。」

唯円は驚いた。「とても、わたしの力量では、一人でも殺せそうにはありません。」と、かれらしく正直に答える。すると親鸞は、たたみかけるようにいう。「それでわかるだろう。往生のためなら、“千人殺せ”といわれたら、すぐ殺せるはずだ。だが、唯円は殺せない、という。殺そうと思っても、一人でも殺せないときがある。殺すまいと思っても、千人でも殺してしまうことがある。」と。
 親鸞は何がいいたいのだろう。その理由を身にそなわった「業縁(ごうえん)」ということばで、かれは説明する。ひとりひとりには、かれ固有の運命があるというのだ。自分がもっとも真剣に意志し、決断してゆくとき、自己の内部に定められていた運命は、その全貌(ぜんぼう 全部の姿)をあらわすのだ。しかし問題は、もっと奥にある。「自分の救い(往生)のためなら、千人でも、わたしは即座に殺す。」といいきっている親鸞のことば。これは単なる「たとえ」ではない。どうせ仮空のことだから強がっていっているのではない。かれの時代は戦乱の時代だ。人をたくさん斬ってきた人々は、すぐ隣にもいた。親鸞集団の中にもいたであろう。そういう状況の中でかれは、「わたしは往生のためなら、千人でも殺す。」といいきったのだ。これは自分の立場の基本をしめしたものである。往生はミダのみちびきだ。そのみちびきの声が、「千人殺せ。」というならば、ただちにそれにしたがう。なぜなら、それはミダー絶対の声ーだから。現実に暴力をふるい、人を殺してきた人々と、自分を同じ側に置いたのである。
 親鸞はいいたかったのだ。「往生」は自己の内の絶対の問題だ。それは他の何者にも、けっして変えられない。この道を自分がゆくなら、だれかが傷つくだろう。だれか死ぬかもしれない。だれだれを一生、深い悲しみに落とすだろう。そんことでやまるものではない。それでやめられるなら、はじめからきっぱりやめとけばよい。人間の内部深くに眠っている「絶対」の深淵(しんえん ふかいふち)などにあやまって手を触れぬがいいのだ。何が何でもこれをさしおいて自己の生きていく道はない。人非人(にんぴにん)・人殺し・反道徳者・裏切り者。どんな非難の矢が飛んできても、突き刺さっても、そして、ついには心臓を突き破っても、「かまわない。」と静かにいえる者だけが、「絶対」に至る狭い門を通りぬけられるのだ。
 しかし、これはだれにも見えぬ、深い内部の事件だ。じっさいに何が起こるか。だれも知らない。外形はどのように進行するか。他(ほか)も知らない。自分も知らない。はなばなしく劇的に展開するか。それともたいくつきわまるものに、一生、見えているか。それは、ひとりひとりのもっている「業縁」によって決まるだけだ。「目に見えるもの」だけによって見ようとする人々の目には、たいそうちがって見えるにすぎないのである。
 わたしたちには、もっとも、きちがいじみた印象を与えるのは、最終章にあげられた、つぎのことばだ。

 「アミダ仏が永遠の昔から思いつめてこられた願いを、よくよく考えてみると、ひとえに親鸞一人(ひとり)のためだった!」

 このように親鸞はつねに語っていたいたというのである。
 ここから、専修念仏者ひとりひとりの心がまえの教訓をよみとることは、やさしい。みんな「アミダ仏は自分一人のためだ。」とおもえ、というのである。絶対者対一人一人(ひとりひとり)という図式(ずしき)で、近代宗学的に講釈することは、学者にはお手のものだろう。
 しかし何かおかしい。そんな一般化を許さぬような、切迫した語気を、わたしたちは、親鸞のことばに感じないだろうか。「たとえば、わたしの心がまえは」などと、かれはいっているのではない。自己の体験の歴史をふりかえり、その真相を知って、がくぜん(あまりのことにびっくりさま)としている、かれの呼吸が伝わってこないだろうか。これは何だろう。
 わたしは十代の終わりに、『歎異抄』を読んだ。はじめから、このことばが胸に突き刺さり、深い疑いをうんできた。このことばのひびきが、そのままつかめたら、そのときわたしは、はじめて親鸞を知ったのだ、とさえ、おもった。では、今はどうか。わたしはこうおもっている。このことばは「三願転入」の論理のうえにたっている。
 永遠の過去からの、親鸞個人の心の歴史。永遠の過去からの永遠の未来をおおう、アミダ仏の全人類救済の歴史。その二つをつらぬくのが、親鸞にとっての「三願転入」の論理だった。
 承元の大弾圧の後の亡師孤独の模索も。その中で生まれてきた「金剛信心」。そこで、はじめて親鸞はアミダ仏の真の願いを知ったのである。
 比叡山時代の煩悩も、越後の流罪も、東国の孤独も、みな、このためであったのだ。わたしの中に「金剛信心」を芽ばえさせるためだ。それによって、わたしを救おうとするためだったのだ。それはなぜか。わたしがそれほどの救いなき悪人、見捨てられるのが当然の身であったからだ。そういうわたしだからこそ、ミダはだれよりも第一に、わたしの中に「金剛信心」を見いださせようとしたもうたのだ。それゆえ、わたしは自らを証人として、人々に「金剛信心」をすすめなければならない。ミダがわたしを起点としてはじめようとしている、全人類救済の仕事。それが成就(じょうじゅ)してゆく道すじの出発点に、わたしはひとり立たされているのだ。

 このような自覚が、親鸞の日常をみたしていたのだ。現代人からみれば、きちがいざだとしかいえないような考え方。だが、ここにのみ中世人親鸞の思想が誕生した、その秘密の大地があったのだ。
 しかし、もっとよく考えてみよう。わたしたちの「心」とは何だろう。それは一つの、かってな「主観」にすぎず、人類史の進行とは別のところで動いている、と考える、わたしたち近代人の考え方に問題はないだろうか。どこで人類史は進行するのだろう。英雄の命令の中で、か。「客観的」な法則の中で、か。人間の精神の進展とは、結局、わたしたちの「心」の進展にささえらているのではないだろうか。
 これは「客観的」なものを個人の心持ちの世界に閉じこめようとするのではない。逆だ。わたしたちの「心」の世界は、はかり知れぬ壮大なスケールをもつ。人類の全思想史の中にあって、もっとも重大な思想責任をもつ。ここで成し遂げられるものは、全世界のだれに対しても隠しだてはできぬ。このひとりぼっちの世界で起こることには、全人類の面目(めんもく)と運命が賭(か)けられているのだ。
 それゆえ、わたしたちは自己の中の「絶対」なものに直面することによって、人類史が自分に課した運命ー使命といってもよいーに立ち会っているのだ。
(このような、わたしたち、ひとりひとりのになわされている動かすことのできぬ責任。これから逃避するとき、近代人好みの「ささやかな心の世界」という考え方がうまれるのである。)
 このような場にたっているとき、一時代の体制が常識化させている「善悪」の判断など、ふりかえることはできない。それゆえ、親鸞は「善悪のふたつ、まったくもって、わたしは知らないのだ。」といいはなつのである。「善だ。」「悪だ。」ということば、「永遠の道徳」のような顔をしている。しかし、じっさいはそのときの体制のしくみ、うつりゆく時代の好みにあうものが「善」とされているにすぎぬ。だから、それを基準にして判断し、行動することを、親鸞はキッパリ拒否したのである。
 それゆえ、かれは「善悪ノフタツ惣(ソウ)シテモ存知セサルナリ」という。
 体制によって作られた「善悪」の世界。虚構(つくりごと)のしくみ。それは明日は過ぎゆくであろう。たとえ、今日は堅固にみえていても。だから、それを「ミナモテソラコトタワコト」とかれはいう。
 「道徳」や「常識」の名でかためられた、体制の“魔術”。それを打ち破る、反逆の精神。これこそ、永遠の「わたしの魂」だ。
 かれは、「若き親鸞たち」に、このように語っているのである。


宗教は滅び親鸞はよみがえる。

 宗教とは何か。この問いに一律に答えることはナンセンスだ。たとえば親鸞の場合。それは自己の内面を解放することだった。人間の中にある絶対の精神が目覚めることだった。かちばった時代のしくみの重石の下に、生きている人間をおさえようとしたした、あらゆる古い力。それへの反抗の精神だった。
 これに対し、封建時代の本願寺教団の場合は逆だ。民衆の精神を眠りこませる、巨大な機械・装置だった。身分差別を強制する武士たち支配階級の、たのもしい協力者だった。農民たちに「この世は苦しい。しかしあの世では救われる。」と説いた。この現実の世で、封建支配に反逆する、人間精神の誇り高き挑戦をおしころす役割をになったのである。同じ「宗教」と名で呼ばれるものが、こんなに正反対の性格をもつ。これは矛盾(むじゅん)だろうか。いや、人間の歴史の深い道理をあらわしているのだ。
 一つの「思想」が誕生する。そのエネルギーは、何によってうまれるか。その時代の体制的思想との衝突(しょうとつ)がはげしければはげしいほど、大きな爆発力がうまれるのだ。そのとき「社会の常識」となっている思想の、最も弱い点を鋭く突き刺しているからだ。その一点から、体制全体がガラガラとくずれ去る。それを予感するとき、権力者は新しい思想に向かって、猛然と、強圧と迫害の限りをつくす。しかし、そうすればそうするほど、自分が完全だと称している体制のもっている矛盾が、大きく、さらに大きく、民衆の目に映(うつ)るのだ。つまり民衆が目ざめはじめるのである。
 やがて、古い支配体制がくずれ去った後、かって反逆の精神だったものが支配者の思想となる。すべては合理化され、新しい精神が社会全体にふきわたったようにみえる。反映の時代だ。しかし、そのとき、革命精神のエキスはおとろえ、腐敗しはじめる。これは不可避(ふかひ のがれることのできない)の真理だ。「革命」も「反抗」も、体制とそのもとにおける時代の通念に対するものである以上、自分自身が体制そのものとなり終わったとき、同時に「革命的」「反逆的」ではありえないのである。
 たとえばマルキシズムの場合を考えよう。ヨーロッパのキリスト教単性(一宗教独裁)社会は、かって反抗的だった原始キリスト教の反映した姿だった。人類のいろいろな貴重な財産をうみだした。しかし、その繁栄の陰の、どうしょうもない矛盾。偽善。それをマルクスは突いた。
 この戦闘的な反神論者を体制が憎めば憎むほど、かれの思想の真理性を立証することとなった。それゆえ、この思想は多くの国で支配者の思想となりはじめている。しかし、この国々が繁栄すればするほど、マルクスの思想のエキスはおとろえてゆくだろう。死に絶えてゆくのである。
 マルクスは、貧窮の中で三人の男子を死なせている。栄養失調で。それは、かれが体制と妥協しなかったことの、悲しき証拠であった。
 しかしマルクスの思想が体制化した国々では、マルクスの思想をよく憶え、賞賛するものほど、快適な地位が保証される。このような中で、千たび「革命的」ということばをくりかえしても、もはやそのことばの真の意味は、歴史の流れのつぎのにない手にうつっているのである。
 わたしは、これを、「衰亡(すいぼう)の論理」と名づける。表面の「繁栄」は、内面の「衰亡」の写し絵なのだ。
 体制の支配者はいつも願望する。自己の体制が永遠につづくことを。民衆にコマーシャルソングを教えこむ。自己の体制だけは「千代(ちよ)に八千代(やちよ)に」繁栄する、という歌を。しかし、いつの時代の、どんな体制も、永遠ではあり得なかった。滅び去っていった。
 その対応者である思想も、同じ運命だ。体制的思想に対する反逆者として誕生し、成長する。やがて体制そのものとなって繁栄し、そのまっただなかに衰亡の相(そう)を進行させる。やがて死滅する。
 このように、すべての思想は、人間と同じく、「有限な寿命」をもっているのである。
 だから、宗教も人間精神の産物として「有限な寿命」をもつ。かって、人類史の中で人間精神を覚醒(かくせい 目ざめさせること)させる、偉大な役割を果たし、ついで人間精神を抑圧する、醜悪(しゅうあく)な役割に変じた。やがて歴史のうえの自らの役割を終えて、徐々(じょじょ)に静かに死に絶えていく。それが発掘した数々の貴重な遺産を、氷河の痕跡のように、人間精神の中にのこして。
 宗教は誇ってよい。親鸞のような、偉大な魂を、自らの名のもとにうみだしたのだから。
 しかし、宗教は誇りつづけてはならない。
 「親鸞精神」の権威者のような顔。それは偽善者の顔だ。逆に真宗教団への反抗者たちの中に、現代に生きている「若き親鸞の顔」を見いだすこととなるだろう。それがだれも動かすことのできぬ歴史の逆説(パラドックス 一見、矛盾しているよう深い真理をあらわしたもの) ー「衰亡の論理」である。
 ここで一つのたとえを語ろう。
 広島に「死の陰」があった。原爆が落とされたとき、石段のうえにすわっていた人の影がのこっていたのだ。人の姿は吹き飛んでない。その「影」だけを、石段に黒々とのこして。わたしもそれを見たが、今は消えてしまった。消えることのないのは、歴史の石段の上の「生の影」だ。ひとりの人間が、力をこめて生きぬくとき、その築いた形は繁栄し、衰亡するだろう。しかし、その人間の魂の、のこした「生の影」は不滅だ。
「南無阿弥陀仏」の声は消えるだろう。わたしは、いっぺんも唱えはしない。宗教の役割も過ぎ去るだろう。わたしはどんな墓地にも葬(ほうむ)られたくない。
 けれども、親鸞の生きた真実、かれの「生の影」は、今も、未来も、わたしたちの中に生き生きと、よみがえりつづけるのである。


あとがき
ー若き魂への手紙ー

 この本は、わたしの内部のたたかいの中から誕生した。半生のたたかい。この一年間の日々のたたかい。
 こんな一年間が、わたしの生活の中にあろうとは! およそ思いみたこともなかった。いままでのわたしは、くずれ去り、親鸞はかって、かいま見たこともないような姿で、たちあらわれたのである。
 しかし、今は、いろいろ語るべきときではない。もう、わたしは、この本の中に、すべてをぬりこめてしまったのだから。 
 だからわたしは、今、新しい出発点に立っている。
 これから、わたしの生が、いずこにおもむくか。それはだれも知らぬ。
 わたしは知っている。これは、若い魂に贈る、わたしの手紙だ。
 だが、わたしはこれを「遺言」としない。明日からのわたしは、また新しい探求の道に立つのだから。
 そして、明日からのわたしは、さらに「新しい親鸞」を発見するだろう。
 『歎異抄』については、多くのことをカットせざるをえなかった。また、いつの日か、それを書きたいとおもう。
 そこでまた会おう。
 ただ、その日まで、きみとあなたが、なお、生きのびているならば。


目次そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。

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