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古田武彦・古代史コレクション10

第三章 日本中央碑の思想

ミネルヴァ書房

古田武彦

 巫女の語りを聴きながら

 みちのくで、どうしても行ってみたいところがあった。ここへ来なければ、みちのくを知りはじめることはできない。何も、これという理由はないのだけれど、わたしはそう思ってきた。やみくもに、思いつめていた。 ーーそれがこの、恐山(おそれざん)だった。
 わたしは今、全身を耳にしている。有名な巫女(いたこ)のXさんの語りに聴き入っている。その声は、諭(さと)すように、泣くように、喜ぶように、また時として悲しむように、畳々と、絶えることなく続いている。
 もちろん、彼女は、わたしに向かって語っているのではない。わたしの隣に座っている、品のよい、老年近い、つつましい風体(ふうてい)の女性。巫女のくどきにうなずきながら、目にはうっすらと涙を浮かべている。その女(ひと)に語る。
 語るのは、巫女の口を“借り”た亡夫である。 ーー今年も、この山へ、自分に会いにきてくれてうれしい。自分は、なつかしい家の者たちと別れて、本当に淋しく思っている。昨年の秋にひきつづき、また、この夏、会いに来てくれて、本当にうれしい。
 嫁は、よくやっているが、まだ若い、お前から見たら、不足はあろう。あれやこれや目にあまることも、朝といわず、夜といわず目につくこともあろう。だが、それは、若い身の上、止(や)むをえぬこと、自分の若いときのことを思えば、それも止むをえぬこととわかろう。家の者のためじゃ、可愛がってやってほしい。嫁を可愛がってやれば、家の中は明るくなる。それが、お前のつとめじゃ。自分がいなくなって、つらいことも多かろうが、何とか、苦しいこともがまんするのじゃ。すまんと思う。お前をおいて、早うここへ来てしまうて、つらい目にあわせている。すまんと思うている。本当にそう思うている。
 今年の十二月には、孫に注意してほしい。思わぬけがなどするかもしれぬ。そういうことがないように、よくよくお前が注意せねばいかん。お前が注意すれば、ふせぐこともできる。よいか、今年の十二月じゃぞ。
 そして来年の三月の終わりには・・・。

 脈々と伝えられる人間智

 このようなくどきが、延々とつづく。畳々とひびく。時々、手にもった、大きな数珠のようなものを、思い出したように、かきならす、一大叙事詩の中の間奏曲のように。そしてまた、泣くようにくどきがはじまる。
 もちろん、それは、青森弁、否、“巫女弁”だ。わたしのような、よそ者に、すらすら分かるはずはなかった。なかったけれど、くりかえし、くりかえし、聴くうちに伝わってきた人間の心、古(いにしえ)も今も変らぬ、情(なさけ)と息吹(いぶき)が伝わってきた。人間の内奥(ないおう)が見えてきた。そこには、何一つ、不条理なもの、迷信めかしいものも、わたしにはついに、見出すことができなかったのである。
 わたしは昔、子供の頃、読んだことがある。それは、江戸時代の、占いの名人といわれた人についての逸話だった。
 彼は、修業のため、風呂屋の三助となった。そして毎日、客の背中を流しつつ、客の話を聞いた。客は、湯気の中、裸同士の気安さで、己(おの)が身の上を語った。悩みをうちあけた。欲(よく)を語った。
 それに相槌をうちつつ、彼は学んだ。人間の世のすみずみ、人の心の裏と表。そして人間の肉体と心、骨格と性格、人相と情愛、それらの間の、不可思議の相関関係を学んだ。修業を積むこと、二十年余。後日、占いの名人とうたわれるに至った、と。
 その“占い”とは、決して、摩詞不思議の妖術などではなかったであろう。むしろ、実践による、人間智の達人だったのではあるまいか。その間に“まじえ”られる「手相」「人相」の術とは、あの巫女が、時折“間奏曲”のように打ち鳴らす、数珠玉のひびきのような役割を果していたのではあるまいか。
 人々は、酔い痴(し)れたふりをして、ほとばしり出る人間智に耳を傾けていたのではあるまいか。と、巫女たちは、至妙の、人生の芸術家のように見えたのである。

 結び草にたくす母の情

 ここは、つらい山である。嘆きにおおわれていた。己(おの)が子に先立たれた母親たちのすすり泣く思いが、あちらにも、こちらにも染みついていた。たとえば、失われた幼子を祈るお堂。折り鶴や駄菓子、生前、その子たちが喜びとしていたであろう、くさぐさのものが満ちあふれている。ここで親たちは、早くも己がもとより立ち去った、幸薄い子たちと対面し合うのである。祈りの声、念仏のひびきは単調であり、その単調さの連続が、聴く人をしてやりきれぬ思いにさそう。
 外に出れば、起伏する丘のたたずまい。陰鬱(いんうつ)な大地が、低音のしらべのように拡がり、天なる死者の国に至る、接点へと向かっているようである。そこは、賽の河原。幾たび、母親たちは、幼き死者のために、小石を積み上げ、低い声で泣いたことか。
 哀切を極めた光景、それは、結び合わされた、草の姿である。十数センチはなれて生えている草と草が、上の部分で結び合わされている。死せる子に向かって、「わたしは、お前を忘れていないよ」と告げる沈黙のサイン。それが、この、天に向かってひき結ばれた草、一面に空の風になびいている、無数の結び草の祈りなのである。“わたしも、お前のそばに行くからね。もうすぐ、淋しくなくなるよ。待っててね”、風にゆられつつ、草は、そのように叫んでいた。

「巫女がここに集められたのは、比較的新しいことだったようです。いわゆる、宗教の統制策ですよね」
 大畑線の田名部(たなぶ)駅から、わたしを案内して下さった川森則策さんの解説である。先ほどは、この山の歴史の生き字引、森勇男さんに御紹介下さった。森さんは東通(ひがしどおり)村の助役をしておられる。激務の間を縫って、現地に案内して下さった。
 確かにそうであろう。いわゆるゴミソと、巫女のちがいも有名だ。ゴミソは、今でも、村のはしばしに見受けられる、という。
 その上、この山の巫女たちには、後ろ楯、いわば“一大スポンサー”がいる。円通寺(えんつうじ)だ。曹洞宗である。巨大な伽藍の新築のさ中だった。にぎやかな店が羅列している。日本列島のあちこちに見られる、門前町のにぎわいと変わらない。その裏手の山が、硫黄のふき出す火山。その横合いが恐山へとつづく。
 この円通寺の経済的繁栄を、巫女たちを慕ってくる、この地帯の、また日本中の庶民がささえてきたこと、何の疑いようもない。知れ切ったことだ。
 その上で、わたしには、あの結び草のならわしが、古く、古く、悠遠の歴史を遡(さかのぼ)りうる、民俗の伝習であること、悲しめる母たちによって、語り継がれ、行いつがれてきたものであること、それを疑うことができないのである。
『万葉集』の中の、哀切な歌、
  磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む
  (有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首、巻二、一四一)

も、このような結び草に類した伝習が、日本列島に存在した事実をしめす。それは、七世紀段階の証言だけれど、この悲しき伝来は、旧石器・縄文の女たちの心をうけつくもの。 ーーわたしには、そのように思われて、しようがない。何も、金精(こんせい)さま(石棒と石皿。信仰対象として、田の端に現存)だけが、古代から現在に到達した、現物証拠ではないのだった。

宇曽利山湖をのぞむ恐山の光景 真実の東北王朝 古田武彦

 

たった四文字の記念碑

 みちのくには、不可思議な“現物証拠”がそそり立っている。
「日本中央」
 たった四字、それだけの碑だ。まさに日本列島広しといえども、最短の石碑ではあるまいか。おそらく、世界くまなく探し求めても、比肩しうる記念碑は少ないであろう。
日本中央碑をおさめる覆堂、東北町提供 写真と図は別表示)
 ところは、青森県東北町千曳(ちびき)。ささやかな、小舎が作られている。その寄進者の名前が、所在の村の名と共に列記されているけれど、その中には「坪(つぼ)ーー 」の名もある。そう、あの「壺(つぼ)の石文(いしぶみ)」で有名な「壺(つぼ)」、それがこの地帯では“姓”として、実際に用いられていたのである。
 古代東北の研究者を悩ませているテーマ、それは「二つの壺碑(つぼのひ)」問題だ。二つの史料をあげよう。
  Aいしぶみのけふのほそ布はつはつにあひみても猶あかぬけさかな
 (『堀河百首』〈一一〇二〜〇五頃成立〉所収の藤原仲実〈一〇五七〜一一二八〉の作)
  B壺碑 市川村多賀城に有。
  つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺計歟(ばかりか)。苔を穿(うちが)て文字幽(かすか)也。四維国界之数里をしるす。
「此城、神亀元年、按察使(下略)」と有。聖武皇帝の御時に当れり。(中略)爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也。
(松尾芭蕉『奥の細道』元禄二年〈一六八九〉五月八日)
 右のBは、御存知、多賀城碑だ。これを芭蕉は「つぼの石ぶみ」と呼んでいる。
 しかも、右の(中略)部で、彼は、次のように流離(りゅうり)の名文をものしている。
  「むかしよりよみ置る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念・・・」

と、のべているのだ。すなわち、芭蕉はAの歌の中に出てくる「いしぶみ」をもって、この多賀城碑に比定したのである。
 確かに芭蕉のいう通り、この「いしぶみ」は代々の和歌の中に登場した(一〇六〜七ぺージ、参照、インターネットは下)。
 これらは、平安時代から鎌倉時代にかけての歌だ。ことに、平安中・後期から鎌倉初期にかけてのものが多い。ということは、ほぼ“共通の時間帯”に諦まれたものだ。だから、これらは「同一の概念」つまり、“同じ石碑”を指す。そういう可能性が高いこととなろう。なぜなら同じ“時代”に、それぞれがあっちやこっち、まちまち、思い思いの「石碑」を想定し、それを「歌枕」にして歌を諦む、などという図は、ちょっと考えにくいことだからである。
 では、その「石碑」はどれか。その答は、ズバリ、青森県の「日本中央碑」だ。芭蕉の考えたような「多賀城碑」ではなかった。次にその論証をのべよう。

 (1) 日数経てかく降りつもる雪なればつぼの碑跡やたゆらん
  (懐円〈十一世紀初頭〉作。『歌枕名寄』に「良玉集」より転載)

 (2) いしぶみのけふのほそ布はつはつに逢見ても猶あかぬけさかな
  (伸実。 ーー前出)

 (3) いしぶみつかろのをちにありときくえぞ世の中を思ひはなれぬ
  (清輔。十二世紀中頃の歌人。藤原顕昭〈後出〉の兄。『清輔朝臣集』および『夫木和歌抄』所載)

 (4) むつのくの奥床しくぞ思ほゆる壼のいしぶみそとの浜風
  (西行。十二世紀後半。『山家集』)

 (5) みちのおく壼のいしぶみ有ときくいづれか恋のさかひ成らん
  (寂蓮。十二世紀後半。『夫木和歌抄』)

 (6) おもひこそ千嶋のおくを隔てねどえぞかよはさぬ壼のいしぶみ
  (顕昭 ーー後出。『六百番歌合』「遠恋」)

 (7) 思ふこといなみちのくのえぞ云はぬ壼のいしぶみかき尽さねば
  (慈円 ーー次の歌と共出)

 (8) みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬかき尽してよ壼のいしぶみ
  (頼朝。慈円との贈答歌。建久六〈一一九五〉年、『拾玉集』〈慈円の歌集〉および『新古今和歌集』)

 (9) みちのくのつぼのいしぶみかき絶えてはるけき中となりにけるかな
  (阿仏尼。『うたたねの記』〈十三世紀〉)

 (10)請ひかば遠からめやは陸奥の心尽しつぼのいしぶみ
(『仙台金石志』〈安政四=一八五七年成立〉に和泉式部作として掲載。ただし、宗祇の『名所方角抄』所載では、作者名なし)

  ーー以上、安倍辰夫氏「壼碑」による。

 「日本中央碑」こそ「壼の石碑」だ

 第一に、清輔の歌(3) を見よう。そこには明白に「つかろ(津軽)のをち(遠地)」とある。この表現にふさわしいのは、宮城県の多賀城碑ではなく、青森県の「日本中央碑」の方であること、自明である。
 これに対して、「『つがろ』といっても、現在の青森県地方に限らず、東北地方全体を指したのだろう」といった見解があるようだけれど、これは無理だ。ちょうど、『古事記』の神代巻の「天孫降臨」項の、
  竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降りましき。
の一節の「竺紫」に対して、“九州全土”の意に解して、強引に“宮崎県と鹿児島県の県境(高千穂山・霧島連峰)”へと持っていった、あの本居宣長の手法と同じだ。そのような強引な読解法の背景には、「近畿天皇家を、天照大神の直系の子孫としたい」という、イデオロギー的欲求があったのである。なぜなら、「神武東侵(いわゆる『東征』)」の出発地が「日向国(宮崎県)」である以上、「天孫降臨地」を、同じ日向国近辺としなければ、「天照→神武」をストレートに直結させにくくなるからだ。
 だが、表記法上からも、考古学的分布との対応からも、それは、従来降臨地として“推定”されていた宮崎・鹿児島県境ではなかった。福岡県の高祖(たかす)山連峰(日向(ひなた)峠・日向山・日向川等あり)のクシフル峯(だけ)だったのである
(この点、詳しくは、古田『歴史学の成立 ーー神話学と考古学の境界領域ーー」昭和薬科大学紀要第二十三号、一九八九年、参照)。
 これと同じだ。「『つかろ』は津軽に限らず」とするのは、やはり「底意(先入観)」ある議論だ。そうでなければ、「東北地方全体を津軽と称した」「遠隔地はすべて津軽と呼んでいい」、そう主張したいなら、その確かな用例群を列記すること、それが何より重要。だが、それはない。
 第二、今まで二度出てきた、顕昭。彼は清輔の弟だ。この顕昭が冒頭に出した藤原仲実の歌(A。また(2) )に対して、次の注を付していることは、有名である。

「顕昭云(いわく)。いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本の東のはてと云(い)へり。但し田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付けたれば石文と云ふと云へり。信家の侍従の申ししは、石の面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云ふなり。(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云へば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ」

 この注に対する、詳細な分析は、あとまわしにしよう。今、必要なこと、それは、次の一点だ。「顕昭は、この『つぼの石文』を『日本中央碑』と見なしている」、この明確きわまる点だ。
 だとすれば、先の清輔は、この顕昭の兄であるから、その歌の「つかろ」は、やはり津軽の意と解して、何のさしつかえもない。
 とすれば、この「つかろ」を“東北地方全体”や“遠隔地”の意に拡大ないし“朧化(おぼろげにする)”して、「この歌からでは、『つぼの石文』がどれであるか、指定できない」という主張は、やはり無理なのである。万一、「兄と弟と、主張が同じとは限らない」などといって、“兄弟分離策”に奔ろうとする人がいたなら、いよいよフェアーな解読法といえなくなること、疑いがない。

 その時、多賀城碑は地上になかった

 第三に、決定的な証明がある。それは次の点だ。
「天平宝字八年(七六四)〜永禄(一五五八〜七〇)の中頃、以降」の間は、多賀城碑は地上に存在しなかった。 ーーこのレッキたる「事実」である。
 最初の時点は、恵美朝葛*誅滅の時だ。すでに第二章でのべたように、創建された多賀城碑は、わずか「二年間」で、その偉容を没した。なぜなら、朝葛*顕彰碑、しかも「自画自賛」碑の性格をもつ、この碑が、彼の「逆賊」として公認された当年(天平宝字八年)以後、なお地上に「健在」だった、とは到底考えられないからである。そのさい、字面が削平されず、埋没されたにとどまったのは、土地の人々の、そして新任の責任者(田中朝臣多太麻呂か ーー陸奥守従四位、兼鎮守将軍)の“思いやり”だったであろう。

朝葛*(あさかり)の葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366

 以降、八百年間、多賀城碑は地中に埋没し、“人目から姿をかくし”てきた。
 A奥州宮城郡ニ坪石文ト云名所ハ古ヨリ其名高ク侍り・・・又去ル永禄(一五五八〜七〇)ノ中コロ彼石文ノアタリヲ其隣里ノ農人畑ヲウタントテ土を掘カヘシケルニ不思ニアヤシキ石ヲ掘出シケル・・・(『文禄清談』寛政七年〈一六六七〉書写本。文禄は「一五九二〜九六」)
 B近き比ほひ、陸奥の国宮城の郡の土の中より出たりし碑も。其文字はわきまふべけれど、其体は又さだかならず。
  [割註]万治・寛文の間(一六五八〜七三)、土の中より出しよしを云なり・・・
(新井白石『同文通考』巻二、八分飛白〈正徳年間=一七一一〜一六〉)
 右はいずれも、多賀城碑「再出土」に関する所述であるが、両者、約一世紀の“誤差”がある。
 けれども、当碑「再出土」所伝は、右のAを上限とする。すなわち、この時期以降、ことに江戸時代になって喧伝され、芭蕉も、これを訪ねたのである(元禄年間〈一六八八〜一七〇四〉、水戸光圀が仙台藩に対し、当碑保存勧奨の書簡を贈ったことは、著名)。
 従って、先にのべたように、「天平宝字八年から、少なくとも、『永禄』時点までは、当碑は地上になかった」 ーーそのように見なす他はない。
 とすれば、今問題の「平安中・後期から鎌倉まで」の間に、歌枕に歌われた「壺の石文」は、“地上に存在せぬ”この多賀城碑であるはずはない。もし、かつて地上に存在した「二年間」(天平宝字六〜八年)の記憶だったとしたなら、それが平安中・後期になって、いきなり歌に現われるとは、不可解だ。
 だからやはり「壺の石文=多賀城碑」という、芭蕉の判断はまちがっていた。わたしの敬愛する、世界第一流の大詩人も、この点は、些少のミスにつまづいたようである。

 削り取られた裏面

 わたしがはじめて、「日本中央碑」に接したのは、昭和六十年十月のことだった。青森市で市民古代史の会を作って、わたしを呼んで下さった鎌田武志さん等、会のメンバーの方々に御案内いただいて、現地に到着した。
 荒れた凹地に、粗末な小屋、その中に鎮座していたのが、問題の石碑だった。「日本中央」という四字も、うすく、かつ、えどり直された感じだった。ぐるりと、四囲をまわって観察しても、他に何もない。文字も、形ある刻みも、一切ない。
 何か、取り付く島のない、そういった感じが残った。会のメンバーの方々も、何か、わたしの目新しい発言でもあるか、と期待されていたかもしれないけれど、わたしには、何も言うべき言葉はなかった。目新しい「発見」といえば、小屋(鞘堂)の寄進者の名に「坪ーー」という氏名を見出したこと、それくらいだった。
 だが、東京に帰ってあと、本郷の街並みを歩いて、天然記念物の楠の木の下を通り抜けてゆく道すがら、ハッと気づいた。
「あの、石碑の裏に、何かあったのでは」
 もちろん、建碑者の名前、建碑時点、そして建碑の由来などだ。表記の四文字の簡明さはいいとしても、それだけでは、いくら何でもひどい。「石碑」の体(てい)をそなえていないのではあるまいか。
 ことに、表記の四文字は、単なる道路標式ではない。一種の「イデオロギー」といって悪ければ、昴然(こうぜん)たる誇示がある。造碑者の見識がひそめられている。そう思う、わたしの直観はあやまっているだろうか。
 とすれば、そのような、誇りある建碑者が、何も、自分の名前を“隠す”必要はない。建碑時点を“あいまい”にする必要はない。むしろ、それを「明記」するはずだ。なぜ、ここが「日本中央」なのか、簡潔に注記するはずだ。何も贅言(ぜいげん)はいらない。「〜より、〜に至る、云々」と書けば、容易にその意志は表明されえよう。何よりも、「〜所在の誰々」という、建碑者の名前が、その意志を告げるであろう。
 わたしが雑踏へと向かう道を辿りながら、到達した思惟(しい)、それはお察しいただけよう。
「あの石碑は、裏面が削られたのではないか。」
 これだ。再び、青森へ向かった。鎌田さんのところから、下斗米弘さんが車で現地へ連れていって下さった。八戸市の方で、年来の、わたしの本のファンだという。前にも、八戸の丹後平古墳にお連れいただいたことがあった。
 二人でじっくり、観察した。表ではない。裏だ。やはり、地肌ではなかった。石の地肌ではなく、「削平」のあとがあった。もちろん、その原因は不明だ。自然の力による「削平」つまり“崩れ落ち”か、それとも、人工による「石碑としての造型」のための「削平」か、あるいは、わたしの想定したような、「後代人による、文字湮滅(いんめつ)という改竄(かいざん)」のための「削平」か。一切不明である。
 けれども、ともかく、「自然の、石の地肌ではない」、この一点は、確認できた。それで、よし、としなければならなかった。自分の足で、一点を確認する。それが歴史学の基礎なのであるから。
(このあと、平成元年十二月、三たび現地を訪れ、一層よい条件〈晴天、昼すぎ〉の中で熟視したところ、まぎれもなく、当石碑の背面が人工で“削り取られ”た、その状況を確認できた。一一三ぺージ左側の写真参照、インターネットでは下の写真)。

日本中央俾 真実の東北王朝 古田武彦

 

 古歌に反映する二つの異なった認識

 先に挙げた「平安・鎌倉期の十首」中に、気になる表現がある。慈円と頼朝の贈答歌だ。
  (7) 「・・・壺のいしぶみかき尽さねば」(慈円)
  (8) 「・・・かき尽してよ壺のいしぶみ」(頼朝)
 いずれも、共通してふくまれている趣旨、それは“「壺のいしぶみ」は、書き尽くされていない”というテーマではあるまいか。
 もちろん、ただ「ふみ(書簡)」の枕詞のように「壺の石文」を利用しただけ、という見方もありうるけれど、やはり両首に共通した趣意は、「壺の石文」そのものに対する認識を背景としている、そう考える方がすじではあるまいか。
 つまり、両人の目には、この石碑が、「日本中央」とだけあって、何の“趣意解説”もない、その事実を知っていたからこそ、この贈答歌となったのであろう。少なくとも、そう考えたとき、「壺の石文(=日本中央碑)」をここに“借用”した、その手法はきわめて適切だったこととなろう。
 以上の考察に誤りがなければ、鎌倉初期における当碑の姿は、わたしたちが現在見ているものと大差なかったようである。
 ところが、これとは、一種、趣を異にしたもの、これが(10)の「伝、和泉式部作」の歌だ。
  「・・・心尽しのつぼのいしぶみ」
 ここには、「書き尽くされていない。残念だ」といった、慈円・頼朝贈答歌とは逆に、「心尽し」と表現されている。“日本中央碑は、心が尽くされていみ”というのだ。これはなぜか。
 この歌を、『仙台金石志』(安政四年〈一八五七〉成立)は和泉式部の作としてあげている。これが正しければ、(1)〜(10)中、「最古の歌」となる。だが、『仙台金石志』に先行する『名所方角抄』(宗舐)には、作者名がない。
「したがって年代も作者も不明の歌としておこう」
と、安倍辰夫氏は書いておられる。穏当な判断だ。だが、「和泉式部作」か、どうかは別としても、ここに描かれた当碑のイメージが、鎌倉初のケースとは、いささか「撰を異にする(様子がちがっている)」ことに注意しておきたい。歌意に「論理性」を求めるのは、“ないものねだり”だけれど、同時に、歌は、得がたい、そして率直な「同時代史料」なのであるから。

 忘れられた偉才、秋田孝季の証言

 実は、この「日本中央碑」に対して、明解な注解を書き残した、江戸時代の学者がある。寛政年間(一七八九〜一八〇一)に活躍した、津軽藩の学者、秋田孝季(たかすえ)である。わが国出色の偉才、その詳細は後にのべるところ、今は、問題の一節を紹介しよう。

「第七十一番 都母の石碑
 都母の石碑は、北斗の領極むより、糖部都母の地ぞ、日本中央たりとて、安倍致東が建立せり。
 角陽国、神威茶塚国、流鬼国、千島国、日高渡島国、奥州、筑紫、琉球島を数へ、日本中央と刻せりといふ。よって、名久井岳を日本中央山とも称す。  秋田 孝季」
 〈「安倍安東秋田氏遺跡八十八景」〉
 右の文は、「日本中央碑」の図(一一八ぺージ参照、インターネットでは別表示)に対する解説である。最初の「角陽国」については、当書の筆頭に次の解説がある。
「第一番 神威茶塚国北方角陽国
 荒覇吐族、古来より海を恐れ、また崇むるに、舟を造りて、この国に渡り、永住せし民あり。氷海を渡りしは、トナリとぞいふ皮舟にて、海獣および大鯨を狩る。
 この国にては、日輪、角光せるとぞあり。夜虹ぞ光走す。一年をして、白夜、常夜あり。神の歳は、人間の一年を一日昼夜にせる故とぞいふ。  秋田 孝季」

 この「神威茶塚国」は、カムチャッカ半島であるから、その北方の「角陽国」は、アラスカである。右の描写には、その土地に対する「認識」が反映している。
 その「角陽国」を北限とし、「流鬼国」(樺太。右の第三番に記す)や「日高渡島国」(北海道。第四番等に記す)と共に、南の「筑紫・琉球島」に至る地域、その「中央」に当るのが、「奥州」の、この地(糖部都母)だ、というのである。
 その上、当碑の建碑者の名前まで明記されている。「安倍致東」がその人だ。
 この人は、秋田孝季によれば、〈上図、インターネットでは下〉のように、あの「安倍貞任」(後三年の役で源義家に敗れた。一〇一九〜六二)の、約十一代前だ。だとすれば、八世紀末〜九世紀の人物であることは、疑いないであろう。すなわち、近畿天皇家が東北地方の北半を征圧せんとする、十〜十一世紀より前の段階の人物なのである。

安倍日之本将軍系累
 二百十九代安国
 二百二十代安東
二百二十一代致東
二百二十二代東長
二百二十三代長宗
二百二十四代長国
二百二十五代安尭
二百二十六代安治
二百二十七代国東
二百二十八代国長
二百二十九代頻良
 二百三十代頼良
二百三十一代貞任
二百三十二代高星
二百三十三代高暁
二百三十四代高恒
二百三十五代尭秀
二百二十六代尭恒
二百三十七代恒秀
二百三十八代貞季
二百三十九代貞秀
 二百四十代尭治
二百四十一代尭東

 先の孝季の筆致は明確であり、単なる“自己の臆測”とは見えぬものがある。また、単なる「臆測」で、歴代(二百五十七代の俊季に及ぶ)の中の、一人物を「特定」できるはずもない。孝季は、稀代の記録書写伝存者であっても、決して“自由なる創作者”ではなかった(この点、後述)。
 けれども反面、孝季の書写、伝存した記録・史料が、そのまま歴史の真実を語っているかどうか。それは未定である。なぜなら、彼の執筆した文書(自筆、再写本をふくむ)の大半はまだ未公開であるため、その点を実証的に確認するすべが存しないからである。
 従って、基本的には、右の孝季の記載が真実を語っているかどうか、それに対する客観的判断は「保留」とせざるをえない。これが学問としてのすじ道である。
 ところが、この問題に限っていえば、思いもかけぬ「裏付け」が、次々と現出することとなったのであった。

 沖縄と北海道をむすぶ四世紀前後の大交流

北海道 赤井川 黒曜石 真実の東北王朝 古田武彦

 わたしは北海道の千歳空港に向かう飛行機(ANA55便)の中にいた。洞爺(とうや)湖に近い、有珠(うす)遺跡。その地に臨むためである。昭和六十三年五月に報ぜられた有珠遺跡。そこから、ゴホウラの貝飾りが相当数出土した、というのである。これは、“事件”だ。
 ゴホウラとは、日本列島では、沖縄の南方を特産地とする貝である。それよりさらに南の、赤道方面や南太平洋にももちろん分布するけれど、その棲息分布の北限が、沖縄諸島の南海域なのである。それが北海道の遺跡から出現したとなれば、「北海道〜沖縄」間の交流が存在したこと、それが実証されることとなろう。ときは、恵山(えさん)式と呼ばれる頃。三世紀から四世紀にかけての時期だ。
 夜おそく、有珠駅に着いた。人気の少ない旅館で眠った。朝早く、伊達市教育委員会の仁木行彦さんが迎えに来て下さった。電話では、「舟を出してあげましょう」といって下さっていたのだけれど、この時間帯なら、歩いてゆける、とのこと。潮の干満で、島になったり、陸つづきになったり、そういう地形に遺跡があるのだ。有珠火山の爆発による、火山灰で出来た「造成島」なのである。着いてみると、そこは墓地群。有珠湾を本拠とした、有珠湾の王者たち、その海洋の支配者の墓地が、低い丘陵部にあった。有珠湾を見おろしていた。
 午後、JR室蘭本線に乗った。札幌に向かう。札幌医大の一画、百々(どど)幸雄教授の研究室で、出土物に対面できた。解剖学第二講座の大島直行さんが懇切に解説して下さった。目を奪ったのは、動物の骨に刻まれた、かんざし様の飾り。一本、一本、精巧な熊を刻み込んであった。「人相」も、たたずまいも、大きさ、雄・雌・子供と、一本、一本、特徴を異にしている。日常、各種の様態の熊と接し、その生活の呼吸を把握している人々、その首長のものである。
 「九州人が葬られているのでは」、早トチッて、そのようなコメントも新聞に載っていたけれど、とんでもない。熊祭の伝統をもつ、レッキたる「有珠湾の王者」の墓だった。
 さて、問題の貝飾りは、果して本当に「ゴホウラ」か。この問いに対する、正確な回答をわたしが手にしたのは、先日(平成元年十月二十八日)の富山シンポジウムの際である。
 久しぶりに再会した、長崎県教委の正村林護さんが、情報のもたらし手だった。この方にはじめてお会いしたのは、かつて対馬へ行ったとき、峰町の佐賀(さか)遺跡でだった。その発掘責任者だったのである。
 シンポジウムの会場では、司会役の森浩一さんの慫慂(しょうよう)で、佐賀遺跡出土の鹿笛と同じ型の自作笛を嚠喨(りゅうりょう)と鳴らして、会場を酔わせられた。縄文後期の遺跡である。
 その正村さんと、二人で夕食を囲んだ。そのお話によると、有珠遺跡出土の貝飾りは、文句なくゴホウラ。ただし、北部九州に出土する、例の「貝釧」ではない。四角に切ったゴホウラに点々と穴があけられている。首飾りの類である。
 ところが、これとソックリ同一の型の、ゴホウラの首飾りが、正村さんのお膝元、佐世保市の宮の本遺跡から出土する、という。
「原材料は、沖縄ですが、佐世保で製作されたものが、有珠へもって行かれた。 ーーそう考えていい、とわたしは思います、です。ハイ」
 実直な、ベテランの研究者、正村さんの言葉にわたしはうなずいた。まさに、「有珠 ーー 佐世保 ーー 沖縄」の大交流は、四世紀前後の頃、すでに行われていたのである。
 正村さんの情報は、それだけではなかった。みずから発掘された佐賀遺跡から出土した、貝の飾物、それが何と、北海道から津軽海峡、そして岩手県の北部までを、南限とする棲息域の貝を使用していたのだ。サルアハビ・ユキノカサがこれである。
 こちらは、時間帯が「縄文後期」であるだけに、一層すごい。

有珠遺跡出土のゴホウラの貝飾り

 

 縄文期の日本海をめぐる大航海時代があった

 すごいけれど、わたしには「不可解」ではなかった。なぜなら、すでにその前年昭和六十三年四〜五月、ソ連の学者(ソ連邦科学アカデミーシベリア支部歴史文献学哲学研究所)、ルスラン・S・ワシリエフスキさんのもたらされた黒曜石の鏃の分析によって、「ウラジオストック〜出雲(隠岐島)」及び「ウラジオストック〜秋田(男鹿半島)」の交流が実証されていたからである。
 ただ、後者は、当の分析者、鈴木正男さん(立教大学原子力研究所、教授)によって「訂正」された。「秋田(男鹿半島)」でなく、「北海道(赤井川村)」だった、というのである。
 この赤井川(上図)の黒曜石は、有珠湾の王者も使っていた。そして津軽海峡を中心とする東北地方北部にも、この「赤井川の黒曜石」が分布していたのだ(北海道の大半は、十勝地方周辺の黒曜石)。
 その上、鈴木さんの報告によれば、北海道の十勝石は、ソ連と中国の国境の黒竜江の中・下流域に分布しているけれど、その年代が、何と、二万年前、つまり旧石器時代だ、というのである。
 これらの報告や情報は、わたしには、いずれも“我が意をえた”ものであった、といっていいであろう。なぜなら、いずれも、文献分析上から、これを「予見」、「予告」していたところだったからだ。
 第一は、出雲風土記の「国引き神話」。八束水臣津(やつかみずおみつ)の命は、四領域から国を引きよせた、という。

1). 志羅紀の三埼(新羅)
2). 北門の佐伎の国(北朝鮮)
3). 北門の良波の国(ウラジオストック周辺)
4).高志の都々の三埼(越)

 右の2). 3).は、わたし独自のアイディアだった。論理の導くところ、その仮説しか、ありえなかったのである(出雲の北にして、出入口になっているところ)。しかも、その時期は、縄文時代。神話中に「金属器」(弥生期)が出現しないからだった。
 この大胆な仮説の“裏付け”を求めて、わたしはウラジオストックに向かった。昭和六十二年八月のことだ。その目的が達せられなかった代り、八ヵ月あと、向こうから「福音」がきた。それがワシリエフスキ氏の来日だったのである。
 氏のもたらした、ウラジオストック周辺の遺跡の黒曜石の鏃、それは縄文後期前半を中心とするものだった。その時期、まさにわたしの予測した通り、「両地間の大交流」は、事実だった。わたしの仮説は、実証されたのである。
 以上が、日ソ両国の研究界にまたがった学問交流の実際だ。
 A昭和六十年七月二十七日、島根県仁多郡横田町で講演(右の仮説発表)。
 B昭和六十年七月二十八日、斐川町中央公民館大ホールでシンポジウム(同右)。
 C昭和六十年十一月三十日、右のAを『古代の霧の中から ーー出雲王朝から九州王朝へ』(徳間書店刊)に収録、刊行。(第1章 古代出雲の再発見)
 D昭和六十一年三月一日、『斐川町荒神谷出土、銅剣三五八本、銅鐸六個・銅矛十六本の謎に迫る』(島根県簸川郡斐川町発行)に、右のBを収録、刊行。
 E昭和六十二年八月、日ソ学術交流シンポジウム(ナホトカ)で、右の趣旨を学術報告。
 F平成元年六月三十日、『吉野ヶ里の秘密』(光文社、カッパブックス)で、右の趣意を叙述(五章「縄文文明を証明する『国引き神話』」)。
 右が、わたしの仮説に関する記録だ。この仮説の“裏付け”となったのが、ソ連の学者ワシリエフスキ氏や鈴木正男氏の分析だった。
 以上のような研究史上の事実にもかかわらず、あたかも「古田説はなかった」かのような処理を、今後もとりつづける学者があれば、後代の笑いをまねくことであろう。

 アラスカから沖縄までを活躍範囲に

 以上の問題をふりかえってみよう。
 第一、縄文後期において、すでに「出雲ーー ウラジオストック」「北海道南部(津軽海峡近辺)ーー ウラジオストック」「北海道南部(同上)対馬」間に、交流が行われていたことが証明された。すなわち、縄文後期は、日本海をめぐる、一大航海時代だったのである。

 第二、以上の状況は、縄文時代の終えたあとも、継続していた。その事実をしめすものが、有珠遺跡の証言であろう。四世紀頃、北海道南辺の地と佐世保、さらに沖縄南方の海との間に「一大長途の大交流」の存在していたことをしめしたのである。古墳時代前期頃の史実である。

 第三、以上は、わたしたちの“いまだ知らざる”史実であった。ということは何か。『古事記』『日本書紀』という、近畿天皇家の「正史」のもたらす“史的情報”は、「空間的」にも、「時間的」にも、日本列島の古代史の“全体”をおおっていなかった。いいかえれば、その一部にすぎなかった。
 この一点の事実が明白となったのである。

 第四、次に、先の「有珠湾の王者」のケースを考えてみよう。この王者を「U王」と呼ぶ。
 北海の王者U王は、九州の西域と交流していた。そして沖縄の南域についての「認識」をもっていたこと、疑いないであろう。その地の特産のゴホウラの飾りを、幾つも身につけていたからである。
 とすれば、彼は、逆の方向、すなわち北海道の北域、さらにその北のカムチャッカ、アラスカ方面に対しても、「九州の西域」もしくは「沖縄の南域」以上に、“活躍の海域”また“認識の領域”をもっていたこと、おそらく確実ではあるまいか。なぜなら、彼は「北海の王者」であり、北海道とその周辺は、“故郷の大地”そして“故郷の大海”であったからである。すなわち、「アラスカ、カムチャッカ〜沖縄」の間は、U王にとって、「認識の範囲内」に属していたのである。

 第五、以上の事例によってみれば、六〜七世紀前後の時間帯において、津軽海峡周辺を中心として活躍していた安倍氏一族が、「アラスカ〜沖縄」間に対する認識をもっていたこと、何等不可解ではない。むしろ、必然といえよう。すなわち、秋田孝季の記述した内容は、決して“不当”ではなかった。それが判明したのである。

 『日本書紀』の「粛慎国」とは

どこかもう一つ、わたしの遭遇した、重要な史料があった。

 三月(やよひ)に、阿倍臣(あへのおみ)名を闕(もら)せり。を遣(つかは)して、船師(ふないくさ)二百般を率(ゐ)て、粛慎(みはせし)国を伐たしむ。阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)を以て、己が船に乗せて、大河(おおかは)の側(ほとり)に到る。是に、渡島の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて営(いほり)す。営の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「粛慎の船師多に来りて、我等を殺さむとするが故に、願(こ)ふ、河を濟(わた)りて仕官へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚し至らしめて、賊(あた)の隠所(かくれどころ)と其の船数とを問ふ。両箇(ふたつ)の蝦夷、便ち隠所を指して曰はく、「船二十余艘なり」といふ。即ち使を遣して喚す。而るを来肯(まうきか)へず。阿倍臣、乃ち綵帛(しみのきぬ)・兵・鉄等を海の畔に積みて、貧(ほし)め嗜(つの)ましむ。粛慎、乃ち船師を陳ねて、羽を木に繋けて、挙げて旗とせり。棹を齋めて近つき来て、浅き処に停りぬ。一船の裏より、二の老翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち単衫(ひとえきぬ)に換へ着て、各布一端を提げて、船に乗りて還去(かへ)りぬ。俄(しばらく)ありて老翁更来て、換杉を脱き置き、并て提げたる布を置きて、船に乗りて退りぬ。阿倍臣、数船を遣して喚さしむ。来肯へずして、弊賂弁(へろべ)島に復りぬ。食頃(しばらく)ありて和(あまな)はむと乞す。遂に聴し肯へず。弊賂弁は、渡島の別。己が柵に拠りて戦ふ。時に、能登臣馬身龍(むまたつ)、敵の為に殺されぬ。猶戦ひて未だ倦(う)まざる間に、賊破れて己が妻子(めこ)を殺す。
(岩波日本古典文学大系『日本書紀』「斉明天皇六年」)

 右について分析してみよう。
 先ず、この「阿倍臣」が船師二百艘を率いて攻撃した、という「粛慎国」とはどこか。これが問題だ。
 この国名は、歴代の、中国の史書に出現する、著名な国だ。その史料をあげよう。
 (1) 成王既に東夷を伐ち、粛慎来賀す。(『尚書』序)
 (2) 粛慎・燕毫、吾が北土なり。〈注〉粛慎は北夷。玄菟の北、三千余里に在り。(『左氏伝』昭王、九)
 (3) 是に於て粛慎氏、[木苦]矢に貢す。(『国語』魯語下)
 (4) 粛慎の国、白民の北に在り。(『山海経』海外西経)
 (5) 粛慎は、今の悒*婁なり。(『漢書』東夷伝)

悒*婁(ゆうろう)の悒*(ろう)は立心偏の代わりに手偏に邑。JIS第三水準、ユニコード6339

 (6) (悒*婁)古の粛慎氏の国なり。(『三国志』魏志悒*婁伝)
 (7) 粛慎氏、一に悒*婁と名づく。不咸山の北に在り。夫余を去る、六十日行なる可し。東、大海に浜し、西、冠漫汗国に接し、北、弱水に極まる。其の土界、広袤数千里。(『晋書』粛慎氏)
 (8) 靺鞨、蓋し粛慎の地。後魏、乏を勿吉と謂う。京師の東北、六千余里に在り。東、海に至り、西、突厥に接し、南、高麗に界し、北、室韋に鄰す(『旧唐書』靺鞨伝)。
 右のように、周代以来、連綿と、この「粛慎」の名が出現している。いわば、アジア大陸、東北方の名門といっていい。その上、注目すべきは、「東、海に接す」とされている点。この「海」とは、もちろん、日本海である。つまり、沿海州。日本列島の、いわば“お向かいさん”なのである。
 さらに注目すべきこと、それは(7) の『晋書』は唐代(房玄齢、五七八〜六四八)の成立だ。七世紀中葉に書かれた本である。そこで「粛慎氏」という標挙(伝名)が行われているのを見れば、同時期(斉明紀)の「阿倍臣の討伐対象」として、この「粛慎」の名が使われているのも、うなずけよう。当然ながら、この(斉明紀の)粛慎は、沿海州一帯を古くより領有してきた、古代中国の史書以来、著名な粛慎なのである(これに反する、津田左右吉説については、後述)。

 「大河」=黒竜江の証明

 では、粛慎の中のどこか。旭大な領域であるから、それが問題だ。
 だが、この史料には、貴重なキーワードがひそめられていた。
「大河の側(ほとり)に到る」
の中の「大河」だ。幸いにも、広大な沿海州の日本海岸に、「大河」は一つしかない。黒竜江だ。ウラジオストックには、「大河」はない。同じく、「黒竜江の河口〜ウラジオストック」間にも、他の「大河」は存在しない。従って、一見“とりとめのない普通名詞”に見える、この「大河」は、十分な特定力をもっているのだ。
 それだけではない。この「大河」は、普通名詞ではなく、固有名詞である可能性すらあろう。なぜなら、沿海州側のみならず、朝鮮半島(東岸)側、日本列島(北岸)側をふくめて、要するに、日本海圏全域を通じて、ピカ一の特大河川、それはたった一つ。この黒竜江以外にない。
 わたしたち日本人の目には、“大きな川”に見える江の川(中国地方)や信濃川(中部地方)なども、この黒竜江に比べれば、まさに“ちっぽけな川”にすぎない。要するに、黄河や揚子江のある中国大陸において、ようやく比肩の“相手”をもつ。全日本海圏では、比肩の“相手”がいないのである。
 わたしは、昭和六十二年八月、この黒竜江を舟で巡行した。ハバロフスクだ。対岸(中国側)の見えぬ、その川幅の広大さ、そして何よりその水量の豊富さに圧倒された。その点では、黄河や揚子江以上とさえ見えた。これが、日本海圏、その北端部に流れこむ川なのである。日本海を論ずる場合、ここに流れこむ、この一大長流を“抜き”にして語るのは、重大な“片手落ち”、否、“両手落ち”ともいうべき一大欠落なのではあるまいか。
 このように考えてみると、一方で、日本海対岸の重要な一大関門、ウラジオストックについて、「北門(きたど)」と呼んできた古代日本人が、他方で、この北端の一大長流を「大河(おおかわ)」と呼んでいたとしても、何の不思議もない。わたしはそう思った。
 ーーそして二年後(昭和六十三年)、青森県藤崎町の藤本光幸さんのお宅で、和田喜八郎さんがそこに持参して下さった和田家文書、あの秋田孝季の記した地図(明治期再写本、一三三ぺージ、インターネットでは別表示。)を見たときの驚き。それは、日本列島を中心に、北はアラスカから、南は東南アジアの方まで、描かれた大略図であったけれど、その北方、黒竜江のところには、何と「大河」と書かれているではないか。わたしは、ことの意外に、あるいは、ことの当然に、空恐ろしくなってしまったのである。

 黒竜江流域と大交流していた古代アイヌ族

 次に、「蝦夷」問題。
 これこそ、本書の眼目をなすテーマだから、詳細は改めてのべるとして、「阿倍臣の率いた船師二百艘」の正体は何か。これも、本文を正確に読めば、明白だ。
「阿倍臣、陸奥の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の側に到る」
 右にのべている通り、「阿倍水軍は、すなわち、蝦夷水軍」なのである。いいかえれば、この「阿倍臣」とは、「陸奥の蝦夷のリーダー」なのだ。何の誤解も、ありえない。
 けれども、わたしは最初、誤解していた。“「陸奥の蝦夷を以て」とは、何人か、「水先案内人」として、雇ったことをいうのだろう”と。「船師二百艘」の全体は、他(非蝦夷人)だ、と思っていたのだ。これは、先入観、全くわたしの(あるいは、わたしたちの)先入観に導かれた誤解だった。この点、改めてのべる機会があろう。
 次に、「渡島の蝦夷」。これは、当然「北海道の蝦夷」だ。今は、「渡島(おしま)」というと、北海道の南端部、函館を南端とする半島部を指す地名だ。しかし、本来は、北海道全島を指した地名であったであろう。なぜなら、一言にして明晰、「半島は『島』ではない」からだ。
 と、考えてくると、この「渡嶋の蝦夷」とは、ズバリ言って、“古代アイヌ族”であろう。少なくとも、その概念と深い脈絡をもつ人たちであること、わたしには疑うことができない。あの、四世紀頃の「有珠湾の王者」も、アイヌ族と同じ、「熊をシンボルマークのごとく使用し、髪飾りとしていた人々」だったのである(アイヌ族問題については、別に論ずる)。
 この人々が、黒竜江の河口に、「一千余」も「屯聚」していたこと、何の不思議もない。なぜなら、北海道と黒竜江の中・下流域とが、二万年前、まさに旧石器の時代から、延々たる一大交流を行ってきたこと、すでに、黒曜石の十勝石の分布が証明した。ならば、黒竜江の河口を「拠点」とせずして、いかにして交流できるのであろうか。当然至極の道理ではあるまいか。
 このように考えてくると、この史料の記載するところ、“架構”でなく、真実の香りがする。わたしには、そのように感ぜられるのである。

 リーダーは大和朝廷下の人物にあらず

 もっとも肝心のテーマに向かおう。
 それは、「阿倍臣」の身もとだ。『日本書紀』を“信ずる”人は、この「船師二百艘」を「大和朝廷の軍勢」だと思っているであろう。そう思った上で、「これは信憑できる記事だ」「いや、信憑できない」といった議論をしてきたのである。
 では、聞こう。もし、これが、本当に「大和朝廷派遣の一大船団」だったとしたなら、なぜその全軍統率の中心リーダー(「阿倍臣」)の名前すら分からないのだろう。「名を闕(もら)せり」と注記せねばならないのであろう。
 しかも、時は、七世紀中葉だ。八世紀初頭に成立した『日本書紀』にとって、わずかに半世紀前の「事件」だ(斉明六年は、六六〇。書紀成立(七二〇)の六十年前)。
 もちろん、それでも、はしばしの部将なら、まだしも。中心の統率者の名前が分からない、とは。“阿倍臣に当る人”とだけ分かって、実名が分からないとは。いずれも“信じられない”話だ。
 回答は一つ。書紀の編者たちは、「他の文献」から、この資料を「引用」し、「転載」しただけで、その実体を知らないのである。そして肝心なこと、それは、その資料が「大和朝廷内のものではない」 ーーこの一点だ。
 でなければ、いくら「引用」や「転載」したとしても、当時の関係者やその子供たち(孫まではいかない)に、その従軍の実際を聞けば、その中心統率者の「名前」ぐらい、簡単に判明するであろう。だのに、それが「分からない」ということは、すなわち、大和朝廷内に「その関係者は、いなかった」 ーーこの帰結しかないのである。
 この点、「史実かどうか分からない。おそらく造作だから」などといってみても、「逃げ道」にはならないであろう。なぜなら、もし、そんな作り物、つまり「造作」なら、「名を闕せり」などと書かず、麗々しく誰々と、実在の誰かの人名なりを架空の作り物の人名なりを書けば、すむ。
 そうでないのはやはり、
「その事件はあった。しかし、それは近畿天皇家の事件ではなかった」
という帰結、それしか選択の道はないのである。

 盗用された九州王朝の史書

 以上の帰結を読んで、とまどわれる方もあろう。しかし『日本書紀』という歴史書の“読み方”として、これは不可欠の「方法」なのである。その証拠をあげよう。
 先ず、神功紀。そこには、
 a卑弥呼(ひみか)の記事(三回。倭人伝より)
 b壱与(いちよ)の記事(一回。晋の起居注より)
 c朴堤上(ぼくていじょう)の記事(一回)
といった記事がある。a、bは、いずれも三世紀だが、当然、卑弥呼と壱与とは別人である。また朴堤上説話は、五世紀初頭の事件だ。だから、これらの記事や説話が、同じ「倭の女王」ないし「倭王」に関するものでないことは、自明だ。だのに、神功紀は、委細かまわず、神功皇后その人の事蹟として、あるいは「引用」し、あるいは「叙述」しているのである。無理無態だ。第一、神功皇后は応神天皇の母親だから、四世紀中葉後半の人物であるはず。それが三世紀や五世紀の「倭王」を“兼務”できるはずはない。
 その上、大事なこと、それは、次の三点だ。
 第一に、吉野ヶ里遺跡の発掘のさししめしたところ、倭人伝の倭国の中心、すなわち卑弥呼・壱与の邪馬壱国は、北部九州(博多湾岸とその周辺)であることは、動かせなくなってきた(古田『吉野ヶ里の秘密』参照)。
 とすれば、『日本書紀』が他(筑紫の倭国。九州王朝)の史実を「盗用」して、自己の「正史」を構成していること、疑いがたい。
 第二に、この点、「朴堤上説話」も、例外ではない。「倭国の都」の臨む海辺から、“夜から翌朝まで”の間に、新羅の慶州への海路(北鮮暖流)に乗じたことを語る、この説話の場合、大阪湾岸を脱出の出発点としたのでは、到底不可能。やはり、少なくとも、九州北岸、おそらくは博多湾岸あたりを「倭国の都」の地と考えなければ、スムースに、現地の土地鑑に立つ理解はえられないのである(『三国史記』『三国遺事』)。すなわち、「倭国の都」は筑紫であり、三世紀と変わっていないのである。
 この点、『三国史記』『三国遺事』が、百近い「倭」の記事を載せ、その中には「卑弥乎(=呼)」の記事までありながら、「倭都の変動(たとえば『東遷』)」を一切記していない、その史料事実とも、対応し、合致しているのである。
 してみれば、ここでも、書紀という「正史」は、他王朝(先在王朝)たる九州王朝の史料を「盗用」しているのである。
 第三に、これらの手法は、決して「神功紀」だけの特例ではない。六・七世紀段階においても、次々と発見された。たとえば、
 1)「大化・白雉・朱鳥」の“飛び飛び三年号”は、いずれも「九州年号」からの盗用であり、孝徳紀の「白雉説話」も、それと一連のものである。
 2)宣化紀の詔勅(宣化元年五月項)は、「磐井の詔勅」からの“換骨奪胎”すなわち、「盗用」である(「市民の古代」第十一集、新泉社〈東京〉刊、参照)。
 3)同じく、継体紀の詔勅(継体二十四年二月項)も、筑紫の君(九州年号の創始者)の詔勅からの「盗用」である(平成元年十一月、「市民の古代」〈大阪〉、「古田武彦と古代史を語る会」〈東京〉等で講演)。
 4)雄略天皇の遺詔(雄略二十三年八月項)は、隋の高祖の遺詔(高祖紀、仁寿三・四年項)の“換骨奪胎”、いわば「盗用」である(この点、『日本古典文学大系』注記、参照)。
 以上、驚くべき、しかも同一の手法が次々と判明してきたのである。このような、書紀の「編集の手法」からすれば、この「阿倍臣の粛慎攻撃」記事についても、同一の手法の発揮と見なして、何の不思議も存在しない。
『日本書紀』には、“身元不明”の史書が再度出現している。
 (1) 『日本旧記』(雄略二十一年三月項、注記)
 (2) 高麗の沙門道顕の『日本世記』(斉明六年七月項、注記)
 いずれも、「日本」に関する本でありながら、何天皇のとき、何年に、書かれたか不明だ。『日本旧記』の場合は、著者も不明である。
 しかし、古代の「史書」は必ず、当時の権力者と深いかかわりがあり、その命によって作られることが多い。中国・日本などの場合、とくにその観が深い。
 しかるに、折角、その書名及び記事を出しながら、それらの歴史的成立の経緯を書かぬ、というのは不審である。
 この不審に対する答、それは一つだ。
「これらの史書は、近畿天皇家内で作られたものではない」
 これだ。すなわち、先在王朝たる、九州王朝の史書、それがこの二書だったのである。

 「日本国」は九州王朝の独創

 右の二書中、後者(『日本世記』)は、斉明六年に当る記事が「引用」されている。とすれば、同じ年の「阿倍臣の粛慎攻撃」記事もまた、同一の史書(『日本世記』)から「盗用」した、と見なすこと、それはおよそ自然の道理ではあるまいか。従って、
 (1) 『日本世記』は九州王朝の史書である。
 (2) 九州王朝は、自己のことを「日本」と称していた。
 この二点が、重要な帰結をうるのである。

『旧唐書』に次の、有名な記事がある。
  「或は曰(い)ふ。倭国、自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」(日本伝)
『旧唐書』にいう「倭国」とは、九州王朝のことである。倭国伝の冒頭に、
  「倭国は、古の倭奴国なり」
とある。この「倭奴国」とは、後漢の光武帝から贈られた金印の国だから、志賀島、すなわち九州(筑紫)の王者の国を指す。ここの「倭国」とは、その後継王朝なのである。
 その「倭国」が、みずから「日本」と改名した、といっているのである。
 それゆえ、のち(八世紀以降)に近畿天皇家がみずからを「日本」と称したとき、それは、“独創の国名”ではなく、「模倣」、あえていえば、九州王朝から「襲名」した国号だったのだ。
 「日本」を最初に称したのは、九州王朝だったのである。

 粛慎攻略は日本と隋の軍事緊張の反映

 このように理路を辿りきたったとき、わたしは愕然(がくぜん)と想起した、『隋書』倭国伝の瞠目(どうもく)すべき記事を。
「その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る」

 わたしは、この記事を次のように解した。
 「この『東西五月行』が『九州』だけにとどまるものでなく、四国から九州へとつながる日本列島の全体を指していることはいうまでもない」
「問題はつぎの『南北三月行』だ。ズバリ答えよう。これは、つぎの南北に縦貫する線をいっているのだ。
 対馬ーー壱岐ーー九州ーー種子・屋久ーー奄美諸島(沖縄諸島)」「『東西』の場合の『東端』が青森県までか、北海道までか。それともさらにその北や東北につらなる島々をもふくむか、それは明らかではない(一方、関東地方まで、ということもありうるかもしれぬ)」(『失われた九州王朝』第三章「東西五月行南北三月行」)
  要するに、この一見“途方もない”表現に対して、多利思北孤(たりしほこ 筑紫の王者)が、
 A日本列島をふくむ、長大な、島々のつらなりとその海域をもって、「日出ずる処の天子」(自己)に、大義名分上、所属すべき領域とし、
 B中国を中心とする、大陸部をもって、「日没する処の天子」(隋の煬帝)に、大義名分上、所属するところ、とする、「二人の天子による、二つの世界の分割統治」の区画分け支配の提案だったのではあるまいか。
 そして、その「二つの世界」の接点を探る軍事行動、それが、先の「阿倍臣」一大船団の「粛慎攻撃」、黒竜江河口への接触となったのではないか、と思われる。
 これに対する、中国の天子(唐)側の回答、それが「白江の戦(白村江の戦)」であった。

 弥生期以前「日本」の中央は蝦夷国だった

 以上の探究によって、わたしは、「日本中央碑」に対する理解の、輪郭を得ることができたようである。
 それを要約すれば、次のようだ。

 第一。秋田孝季による、明快な解説は、彼自身がその依拠史料を記した、一層厳密な基礎史料が出現するまで、一応その真否に対する判断は保留せざるをえない(孝季は、通例、依拠資料、採択・書写年月日等を明記する習慣をもつ学者である。この場合、それがないのは、一種「絵巻」風の、この資料の性格によるもの、と思われる。すなわち、より詳密な、書写記録は、後日、十分に期待しえよう)。

 第二。しかし、この「日本中央碑」が、八〜九世紀の建碑である、とすれば、十分、「青森県を、地理的中心とする」ような地理認識は、彼等(津軽海峡の王者。阿倍氏)に十二分に存在しえたこと、旧石器・縄文及び恵山式(四世紀前後)の地理認識から見て、わたしには、疑うことが不可能である。

第三。ここに現われた「日本」は、「大和朝廷呼称の日本」(八世紀以降。厳密には、天智末年〈六七一〉以降)のものではなく、「九州王朝呼称の日本」(右以前)の継承、と考えざるをえない。第四。「阿倍臣」は、大義名分上、筑紫の王者(日出ずる処の天子)の輩下(「臣」)の地位にあったけれども、決して単なる「一部将」ではなく、むしろ「蝦夷国の王者」そのものであったと見られる(後述、参照)。
 それが「臣」を称したのは、あたかも、あの「倭王武」が、当時(南朝劉宋)の、中国の天子に対し、「臣」と称した(倭王武の上表文。『宋書』)のと同一である。この事実は、何等、「倭国」が独立の国家であったことと矛盾しないのである。
「阿倍氏(安倍氏)」の場合も、同じだ。
 一方では、筑紫の王者(日出ずる処の天子)に対しては、「臣」を称しつつ、他方では、「独立、蝦夷国の、輝ける王者」でありつづけたのである。その輝ける意義と誇りを表示したもの、それがこの「日本中央碑」における、「中央」の一語だったのではあるまいか。確かに、金属器(弥生期)流入の前、旧石器・縄文と、北海道・東北地方は、日本列島の先進地帯、輝ける一大文明中心だった。その文明伝統を承けた、「中央」の二字、それは決して単なる虚辞ではなかったのである。

[東奥日報 昭和24年6月29日]
“新古今集”にも見える「壼の石碑」現存か
   甲地村地内土中から発見

「壺の石文」発見場所
東北町立千曳小学校蛯名学級制作の「坪の石文」カレンダー(一九八八年版)より。川村種吉氏らが石を掘り出す様子を描く。

 

 多元史観を証明する「日本中央碑」

 このように考察してきた今、平安期の顕昭が『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の中に、
「但し田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付けたれば石文と云うと云へり」
と書いたことの、不当であったことが判明する。
 確かに、この四文字は、「えどり直された」観があり、田村将軍がこれに弓のはずで、“えどり直した”などということは、あるいはあったかもしれぬ。しかし、彼がこの石碑を「創建」したはずはない。なぜなら、近畿原点や関東原点の視点で、ここ(青森県)が「中央」となるはずはないからである。また、それなら、『続日本紀』以降の、近畿天皇家側の「正史」に、それが麗々しく記載されるであろうからだ。しかし、それはない。
 しかも、当然あったはずの、「裏面表記」、つまり「創建年月日、創建者、創建由来」などが“削平”されたらしいこと、その上、確実なこととして、近年(昭和二十四年)まで、埋没させられて、地上にその姿を見せなかったこと、それらがすべて、「意味不明」となってしまうからである。
 これに反し、「九州王朝呼称の『日本』」を称した上、「輝ける東北王朝」の誇りある意識の表明たる「中央」の二字を刻んだ、この碑は、ながらく「隠滅」の運命を甘受させられてきたのであった。近畿天皇家の勢力が現地に及んだ平安前期頃以降、「歌枕」に現われ、やがて消えてゆく、その経緯の意味するものは、何か。
 その甘受させられてきた運命こそ、逆に、誇りある、古代東北の歴史の実在を証言するものであろう。
 しかるに、戦前の皇国史観はもとより、戦後の津田左右吉風の「造作」史観もまた、「史実と伝承を峻別する」と称して、この「日本中央碑」のもつ意義を“抹殺”しようとしたのである。
 もとより、それは、東北の歴史を「純正史学」の立場より樹立しようとの一努力であった。そのために、“あいまい”に見えた「日本中央碑」を切り捨て、平安中・後期に出てくる和歌中の「つぼの石文」を、“正体不明の歌枕”として、歴史の世界から切り離そうとしたのである。
 しかし、その“純粋な”努力は、逆にしめすこととなった。それは、次の一事である。
「近畿天皇家一元史観からは、金石文という第一史料に対しても、十分な解説を行うことが不可能である」と。
 日本列島の古代の歴史に対する、多元史観的見地、その正当さを証明しようとして、地下よりよみがえりきたったもの、それがこの「日本中央碑」なのであった。


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和田家文書の中の新発見特集 和田家文書の検証『新・古代学』第二集

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