『邪馬壹国の論理』(目次)へ
お断り:2007年夏現在古田武彦氏は、銅鐸国は狗奴(コノ)国、東[魚是]国は南九州に比定しています。
太宰府天満宮に張楚金の『翰苑』第三十巻が蔵されている。唐の顕慶五年(六六〇)、つまり白村江の戦いの三年前に成立した本だ。だが、この倭国の項の研究は少ない。まして他の蕃夷(ばんい)の国々(十四国)の記事には多くの貴重な史料が含まれているが、見すごされてきたようだ。
たとえば、最近よく議論される「任那」問題。これを“まぼろしの存在”“架空の国名”であるかに見なす人々がある。しかし同書の新羅の項にその実在が次のように明記されている。
地、任那を惣(す)ぶ。〈雍公叡註〉今、新羅の耆老(きろう)に訊(き)くに、云う『加羅・任那は、昔新羅の為に滅ぼさる・・・』と。
この雍公叡の註は、太和五年(八三一)以前に成立していたとされる。
次に、三韓の項で気付いた新しい問題に目を転じよう。「境は[魚是]壑(ていがく)に連なり、地は鼇波(ごうは)に接す。南、倭人に届き・・・。〈雍公叡註〉[魚是]壑は東[魚是]人の居、海中の州なり。鼇波は海を倶(とも)にするなり。(海を)有するなり」
「鼇波」は東海のことであるから、ここは日本海に当たる。そのかなたに海中の州があり、そこに東[魚是]人の居があった、というのだ。「[魚是]壑」の「壑」は地下の住居(あなぐら)のことだから、弥生期の住居の類ではないかと思われる。
さて、『漢書』地理志にこの東[魚是]人は、左記のように倭人と好一対で現れる。
○会稽海外、東[魚是]人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。(呉地の項)
○楽浪海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う。(燕地の項)
しかし、東[魚是]人は『後漢書』では倭伝内に書かれ、『三国志』では姿を消す。つまり三世紀に突如跡を絶った、なぞの民族なのである。わたしは先に右の倭人を、筑紫を原点とする銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)圏の国々だと見なした(古田著『失われた九州王朝』)。では、東隣の銅鐸圏の国々は全く大漢帝国に無関心だったのだろうか。そんなはずはない。 ーーそこが東[魚是]人(海上、東のはしの意か。「是=てい=」は辺・尽の義)の国だったのである。いずれ改めて詳報するつもりである。
[魚是]は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
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