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お断り:2007年夏現在古田武彦氏は、銅鐸国は狗奴(コノ)国、東[魚是]国は南九州に比定しています。

本資料では、丸数字○1は、(1)に変換しています。


『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ書房)III
2010年6月刊行 古代史コレクション4

金印の「倭人」と銅鐸の東魚是*(とうてい)人」

 嵐山や苔寺へつづく、竹藪の長い岡がある。その一隅をなす朝夕の散歩道を歩きながら、わたしはいつも考えてきた。
 それは、わが国の古代史の本をあけると必ずぶつかる、あの不審な一ページのことである。
 日本列島の弥生期の遺跡から出土する二種類の青銅器。
 銅鐸、そして銅剣・銅矛・銅戈。
 この存在について書いていない教科書(高校)は、まず無い。
 一方、日本列島の人々は当時「倭人」と呼ばれていた、と。これも必ず出てくる。
 そこで、子供はわたしに質問する。“銅鐸圏の人々も、銅剣・銅矛・銅戈圏の人々も、どちらも「倭人」なのか?”と。
 このむき出しの問いに、一体どう答えたらいいだろう? わたしはギョッとして藪下道で立ちどまってしまう。
 思えば、銅鐸は「楽器」の形をしている。銅剣などは「武器」の形である。だが、それはいわば“出身”をしめすものだ。実際の使い道が、当時の「神聖な祭器」であったこと、それは疑いない。とすると、一方は平和的な祭器、他方は攻撃的な祭器。このあまりにも異質のシンボルをかかげる人。このクッキリしたちがいを無視して漢代の中国人は、どちらもひっくるめて「倭人」、そう呼んでいたのだろうか? けれども古代社会の中で、この二つの神聖なシンボルは、選挙戦のときだけ幅をきかせるような現今のシンボル・マークなどには及びもつかぬ、重大性をはらんでいたのではないだろうか。こう考えると、子供の問いに対して、“そう、両方とも「倭人」だ”などと、わたしにはとても答えることはできなかった。

魚是*は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7

 

   古代史の中の空洞

 そのうち、ある朝、気づいた。子供の目がピシッと率直に結びつけた二つのもの。一つは青銅器、一つは倭人。この二つは“出所”がちがうのだ、と。青銅器の方は、日本列島の土の中から出てくる。実物はまぎれもない。だが、「銅鐸」という呼び名は、後代人のつけた名前にすぎぬ。
 しかし、「倭人」の方はちがう。紀元前後の弥生時代に、その時代の中国人がそう呼んでいた生(なま)の呼び名”なのである。
楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。

 これは後漢(一世紀後葉)の班固の書いた『漢書』地理志に出てくる。
“だが・・・”わたしは竹の葉を洩れる日の光の条(すじ)を目で追いながら、こう考えた。“『漢書』地理志の中では、「倭人」以外の民族はいったいどうなっているのだろうか。そうだ。全部抜き出してみよう。そしてその中に「倭人」記事を置いてみよう。そしたら、もっとハッキリするかもしれない”と。
 早速、飛んで帰って、調べてみた。
 すると驚いたことに、この種の記事は「倭人」以外に、たった一つしかない。
会稽海外に東魚是*人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。

 先の「倭人」は「燕地」(中国の東北地方、遼東半島に至る)の項に出てくる。が、この方は「呉地」(揚子江、河口の南)だ。倭人は楽浪郡治( 今の平壌付近)を通して貢献した。この東魚是*人は、会稽郡治(今の蘇州付近)を通して貢献している。
 わたしに意外だったのは次の二点だ。
 第一。わたしは思いこんでいた。“何しろ、大漢帝国のことだ。数多くの周辺の民族が当然「歳時貢献」(定期的に貢物をもってゆくこと)していただろう。倭人も、その中の一つにすぎなかったにちがいない”と。何の証拠もない。一つのムードとして、そう感じていた。だが、“百の思いこみより、一つの調査”だった。事実は、わたしの先入観をうち砕いたのである。
 第二。「東魚是*人」記事は、先の「倭人」記事とスタイル(文体)が全く同じだ。つまり、この二つはワン・ペア(一対)の史料である。とすると、いやが応でも“この二つをセットにして”理解しなければならない。それなのに、従来は「倭人」記事だけを、勝手に“切り抜いて”使ってきたのだ。これは不自然だ。 ーーわたしはそこに、日本古代史の中に横たわる重大な空洞をかいま見た思いがしたのである。

魚是*は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7

 

   孔子は知っていた

 この時以来「東魚是*人」は、わたしの頭の中を離れなかった。だが、なかなか解けない。第二字「魚是*(なまず)」が難関だった。“東のなまずの人”では何とも奇妙だ。だが、ある初夏の昼下がり、ふと大漢和辞典をめくっていて、ついに解けた。
 そのヒントは「高句麗」という国名にあった。『三国志』は全都この字面だ。ところが別に「(り)」という字面がある。『宋書』(五世紀)ではすべてこの形。このとき、中国側(南朝の劉宋)は高句麗に八百匹の馬を求め、「献」ぜしめている。だから、特産物を示して「馬偏」をつけたのだ。
 このヒントから考えてみた。「魚是*」から「魚偏」を除いた「是」。この字の音は普通「シ」とか「ゼ」だ(意味は“これ”“よい”)。だが、「テイ」と読むときはちがう。「辺」や「尽」と同じ、一番はしっこという意味なのである。とすると、「東魚是*人」とは、“東の一番はしっこの人”という意味になるではないか。わたしの目の前は開けた。 ーー“これだ。「魚偏」は特産物のたぐいだ。要するにこれは「東の海の一番はしっこの地(島)に住む人」という意味なのだ”
 「倭人」の方が“東の海の島”に住んでいること、それは中国人には早くから知られていたようである。
 なぜなら、右の倭人記事の直前に、班固は孔子の言葉を引いている。それは中国に道が失われたら桴(いかだ)に乗って海に浮かび、東夷(九夷)の国ヘ行こうという趣旨だ。そして例の「楽浪海中に倭人有り・・・」へとつづくのだから、東夷(朝鮮半島より日本列島にかけての民族の呼び名)の中でも、半島部分でなく、「海中の島」が目ざされていたことになる。それでなければ、「海に浮かぶ」という必然性はない。つまり、“孔子は「倭人のことを知っていた!”のだ。
 こうなると、『論衡(こう)』(後漢の王充著、班固と同時代人)の「(周の時)倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す」(巻八)とか暢(ちょう)草、倭より献ず」(巻一三)とか「成王の時〈前十一、二世紀〉倭人暢を貢す」(巻一九)といった類の記事も、むげにはばかにできなくなってきそうだ。(「鬯艸」「暢草」は“祭酒に使う香りのよい草”。)
 なぜなら、孔子が「中国に道が失われたら」と言うとき、「道」というのは「周の天子への忠節」が根本だ。春秋末期、諸侯が実力を失った周の天子を軽侮していたのを嘆いている。だから、先の孔子の言葉は“そんな中国より、周の天子のもとへ東海の島からはるばる素朴な献上物(暢草)をもってくるような「道」ある民、倭人の島へ行って教化しよう” ーーそういう意味だと考えると、ぴったりするではないか。
 最近、中国本土で烈しい批判(批林批孔)にさらされている『論語』だから、かえって日本の方がよく読まれているのかもしれない。とすると、今こそ“御本人の「大予言」の成就のとき”とさえ思われてくる。
 冗談はさておき、焦点はこうだ。“「倭人」は「東海の島」に住む民族だ。ところが「東魚是*人」は、その〈倭人よりさらに東のはしっこ〉に住む民族だ”と。これが字の意味から見て、またこの二民族がワン・ペアになっている点から見て、避けることのできない結論である。(詳しくは『歴史と人物』昭和四十九年九月号、古田「銅鐸人の発見」及び『盗まれた神話』朝日新聞社刊、参照。)
 では、基準となる「倭人百余国」とは、どこだろう。わたしたちは、それを知るための、まぎれもない黄金の鍵(キイ)をもっている。ほかでもない。志賀島の金印だ。(「漢の委奴(いど)の国王」と読む。古田著『失われた九州王朝』第一章参照。)金印は、一部族の首長に与えられるものではない。諸部族統合の王者に与えられるものだ。すなわち「倭人百余国」の統一者に与えられているのである。これこそ、筑紫を原点(最密集出土地)とする銅矛・銅戈圏(福岡県より大分県ヘ)、さらに銅剣圏(瀬戸内海周辺)、これらの領域だ。すなわち、先の武器型祭器圏、これが「倭人百余国」なのである。その統合の王者の首都圏に当たるのが、志賀島をふくむ博多湾岸とその周辺だ。(光武帝の「金印授与」〈西紀五七年〉のとき、班固は二十六歳。)
 このように「倭人百余国」の位置がハッキリしてみると、先の問い“倭人の、さらに東のはしっこに当たる、とされる「東魚是*人」とは何者か” ーーその答えは、もはや疑う余地もないーー “銅鐸圏の人々”である。

 

   神聖な音楽を献上

 東魚是*人と銅鐸人との共通性は地理的位置だけではない。最大の魅惑点、それは消滅時期が一致することだ。銅鐸が三世紀(初・中葉から末葉にかけて)に消滅する。これは考古学上、有名な事実だ。
 ところが、東魚是*人も同じなのだ。『漢書』と『後漢書』に出現し、「三都賦」(西晋、左思著)に後漢末の貢献記事があるのを最後に、プッツリと「蒸発」してしまうのだ。三世紀後葉に成立した『三国志』には全く姿を現さぬのである。“なぜ、銅鐸人は三世紀に消えたのか?”この世紀の大量蒸発事件こそ、日本古代史の秘密を握る鍵だ。(別の機会にのべたい。)
 一つ、楽しい話がある。その入り口は“「東の一番はしの人」という意味をあらわすのに、なぜこんな風変わりな宇を使ったのか?”という問いだ。「是(てい)」は魯国(孔子の故郷)の方言だという(『春秋公羊伝』)。なぜ、「東辺人」とか「東極人」という、普通の字を使わなかったのか。
 そのヒントは、次の言葉だ。まず「[革是][革婁](ていろう)氏」、これは“四辺の夷蛮の献上する音楽を司る官”(「周礼」)だ。次に「[革是](てい)訳」というのは“夷蛮の音楽の歌詞を翻訳すること”だ。つまり「是(てい)」という字は、“四辺の夷蛮が中国の天子に献じた音楽”に関係した文字なのである。ここに、「東魚是*人」は特産物の「魚」だけでなく、“自己独特の民族的楽器による音楽を「献上」したのではないか?”という問題が浮かび上がってくる。そう!「神聖な楽器」としての銅鐸だ。
 だが、今は歩を返して再び倭人の行方を追うてみよう。
 一世紀中葉に「倭人百余国」を代表して金印を授与された「委奴国王」。彼の後継者は百五十年のあと、三世紀にどうなっていただろうか。消え去ったか? 否。移転したか? 否。同じ博多湾岸とその周辺を首都圏とし、著名な女王を「共立」していた。その名が卑弥呼。そしてその首都圏は「邪馬壹国」と呼ばれたのである。
 今は、さらにその最中心部を指定することができる。それは「須玖遺跡ーー太宰府ーー基山ーー朝倉」の線だ。つまり、もとの筑紫郡・朝倉郡を中心とする地帯である。そして首都圏を挟(はさ)む二つの重要地域がある。東は香椎宮から宗像神社に至る領域。西は糸島郡。この両者とも“博多湾岸の首都圏にとっての「聖域」”だった。
 わたしにとっても、今まではまだ精細には確定できなかったこれらの問題が、意外にも、『古事記』『日本書紀』の分析を通してクッキリと浮かび上がってきたのである。

魚是*は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
[革是]は、革編に是。JIS第3水準ユニコード97AE
[革婁]は、革編に婁。

   補

 この点、わたしの本『盗まれた神話 ーー記・紀の秘密』は朝日新聞社刊)に詳述されている。


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