『邪馬壹国の論理』ー古代に真実を求めてー へ
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過日、石上神宮(奈良県天理市)の七支刀が公開された(昭和四十九年十月二十五日〜三十日)。わたしは四十七年秋、精査の機会をもったが、今回ふたたびこれに接する喜びをえた。秀抜なその姿に「これが本当にあの古代刀か?」と驚きの声を発する参観者がいたほど、それは生新な黄金の象眼の輝きを放つていた。
この七支刀のもつ歴史的意義については、長らく『日本書紀』の神功紀の七枝刀記事にもとづいて読解され、評価されてきた(たとえば福山敏男説)。これは“百済王が倭王に七支刀を献上した”とするものである。(銘文の泰和四年を東晋の年号〈三六九年〉とする。)
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ところが近年、逆の解釈が出された。“この刀は百済王が倭王に下賜した”とするものである(金錫亨説 ーー泰和四年は百済の逸年号〈史書に伝えられていない年号〉とする)。「献上」と「下賜」では正反対だ。それだけではない。東アジアの政治情勢への理解も逆転する。
前者の場合、近畿天皇家がほぼ日本側の統一を成就し、百済をも服属させていたこととなる(従来の日本側の理解)。これに対し、後者の場合、日本列島は百済など朝鮮半島の国々を本国とする、その「分国」(いわば古代的植民地)だったというのである。
わたしは右二説のいずれにもくみすることができなかった。両者とも、それぞれの先入見もしくは理論(一は『日本書紀』天皇中心主義、一は分国論)に立ってこの銘文を読む。しかし、肝心のこの銘文自体には「献上」をしめす語句も、「下賜」をしめす語句も、共にないのだ。この点、金氏が「宜供供侯王」の「供」の字を「与える」という意味だとして、倭王に下賜した「下行文書」の一証とされたのは、史料処理上、穏当でない。
したがって、東晋の天子を原点とし、倭王と百済王は大義名分上、あくまで対等の立場にいる。すなわち、両者とも中国の天子の下における侯王なのである。一方、この時点において百済王は、この異形刀を倭王のために特鋳して、倭王に贈り、もってその歓心を求める(政治的)必要があった。 ーーわたしは以上のように解したのである(古田著『失われた九州王朝』参照)。
これに対し、近来「金理論の修正説」が学界に現れている。一は上田正昭氏、一は李進煕氏によるものだ。
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上田説では、一方では、泰和四年は従来説通り東晋の年号としながら、他方では「百済王から倭王への下賜」という点は、金氏に従うのである。つまり、倭王を“百済王に服属する侯王”と見なすのだ。
しかし、この上田説には、重大な問題点があると思われる。なぜなら「東晋の年号を用いる」という行為は、すなわち東普の天子の服属下に自分(百済王)をおくことである(「正朔を奉ずる」という)。この点たとえば現代のわたしたちが西暦を使うのとは全く話がちがう。 この場合は、西暦を使ったからといって、別段自分が「イエスの誕生」を原点とする時の計算に従うクリスチャンだ、と表明しているわけではない。要するに、多くの国々に共通した「絶対年代」のものさしとして、いわば便宜的に使っているだけなのだから。このような現代日本の一種安易な使用法でもって、古代中国年号の大義名分の論理をおしはかり、混同してはならないのである。
だから、この東晋の年号を用いた銘文は、必ず東晋を原点(天子)として読むべきなのだ。すなわち「侯王」とは「東晋の天子の侯王」なのである。それなのに倭王と同じ「王」の称号をもつにすぎぬ百済王を原点として、倭王を“その百済王の侯王”と見なす。 ーーここに上田説には大義名分上の大きな矛盾点が存在するのではないだろうか。
これと同じことは、李説にも言える。李氏の場合、泰和四年を「北魏の年号」(四八○年)とする。とすれば、右と同じ論理によって“倭王は北魏の天子の配下の侯王”とならざるをえない。それなのに李氏は、内容面では金氏に従って、百済王原点主義(百済王の「侯王」としての倭王)の読み方をされる。すなわち論理の骨格において、上田説と同じ矛盾を犯しているのである。この点、実は金説の場合、この矛盾はなかった。なぜなら、泰和四年を「百済の逸年号」としたからである。これなら当然、百済王を原点として読むべきだ。(ただ百済王と倭王と、両者対等の「王」の称号である点は、明らかに矛盾している。)
この“年号のもつ論理性”を上田・李両氏の修正説では「留意」されなかったようである。ために年号だけ、東晋や北魏へと切りかえながら、そのあとの百済王原点主義だけ保存しようとされた。ここに両修正説の陥った根本の論理矛盾があるのではあるまいか。
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なお、わたしは一昨年七月、李氏にお会いしたさい、氏の「一 → 六」(銘文の日付)への日本側「手直し」説を直接お聞きした。それでその秋、本刀を検証したとき、この一点に注意を集中したが、遺憾ながらついに「改削」のあとを見出すことができなかったのである。
しかしながら、李氏の提唱された総合的な科学調査(毎日新聞、昭和四十九年十月二十一目夕刊)には、貴重な提案として心から賛意を表したい。もとより、神宮側にとって本刀は、何よりも「信仰上の霊刀」であるけれども、それは真の科学的検証によっていささかも傷つけられる恐れはない。むしろ、日本中の真摯(しんし)な注目を一段と深くうけるものと信ずるからである。
≪なお、二つの対照史料をあげる。その一は倭王武の上表文(四七八年)。ここで南朝の天子の「臣」と称している倭王が「北魏の天子の侯王」であった可能性はない。その二は高句麗好太王碑文。ここでは「永楽」という高句麗の年号が使われ、「(好)太王 ーー 新羅王」というように、称号も対等でない。七支刀の場合と好対照である。≫
(この論文は毎日新聞〈昭和四十九年十一月六日〉に「倭王ヘの献上か下賜か」として掲載された。)
補
右の論証に対し、上田正昭氏は『日本古代学の始まり』昭50・8・20刊、一六二ページ)は、前涼の王の例をあげ、これは「正朔を奉らず」して「東晋」の中国年号を用いたものとして反論された。しかし、これ〈前涼の例〉は、いわゆる「西晋の減亡」(建興四年、三一六)後も大義名分上、西晋終結の立場をとらず、依然、西晋年号(「建興」)を用いつづけた例であるから、上田氏の誤読(もしくは誤記)のようである(『晋書』五十六、張駿伝)。また氏は「倭王が東晋の配下の侯王であった証拠」はない、と言われるが、『晋書』(帝紀・列伝)によると、西晋(泰始)にも東晋(義煕)にも、倭国は朝貢している。(『宋書』はその間の状況を「世々貢職を修む」と要約している。)それゆえ、氏の判断は史料事実に反する。(なお、氏の場合、右の「東晋」を「西晋」と訂正されても、わたしへの反証とはとうていなりえない。これらの点、後日詳記する。)
〈一九七五・八・二〇追記〉