古代史再発見第1回 卑弥呼(ひみか)と黒塚 -- 方法 1998年9月20日(日)
                         大阪豊中市立生活情報センター くらしかん


これは卑弥呼の鏡ではない 改訂版

さよなら!「邪馬台国」

邪馬一国は九州(糸島・博多湾岸)である

 1998年8月の大阪府高槻市安満(あま)宮山古墳での鏡の発見に続き、奈良県天理市黒塚古墳と、三角縁神獣鏡の発見が相次いでいます。しかも古墳時代の鏡である三角縁神獣鏡を「卑弥呼の鏡」として、存在しない「三国志の邪馬台国」が近畿に比定されています。そういう状況を直視し、批判する報告として、ここに古田武彦氏の報告を掲載致します。
 以上の目的で元は資料を一枚にまとめたため、大変データが重たくなっています。ダウンロードの上、ゆっくりお読みください。又良くご存じの方は、龍の書体の変化画像のみダウンロードされれば理解できると思います。
 また関連する史料として、「魏志倭人伝」そのものの史料批判は、『「邪馬台国」はなかった(朝日文庫)』か、『失われた日本(原書房)』を、「邪馬臺(ダイ)国」の史料批判は『失われた日本(原書房)』、を御覧下さい。

 次に、古田史学の会・東海講演会(1997年10月26日)分を改訂いたしました。横田の認識不足のため、誤解が生じた点があり、ご迷惑をおかけしました。さらにラジオ放送を含む史料を追加しました。この改訂は、「三角縁神獣鏡の史料批判」の掲載に伴い改訂したものです。

2001年 5月

 

掲載

 


これは卑弥呼の鏡ではない。Part 2

「黒塚古墳」を観る

古田武彦氏の報告(98.1.17)から

 今回天理市柳本町の前方後円墳「黒塚古墳」(全長130メートル)に行って参りました。そこで写真を撮らせて頂き、じっくりと見学し調査員と懇談して参りました。
 結論から言えば、世間の風潮や新聞報道とは逆にこれで『邪馬壱(台)国は近畿ではない』ことが確定したと考えています。
 この古墳の良い所は、それぞれの鏡の位置と位取りが明確に判明したことであろうと思っています。他の遺跡では「卑弥呼の鏡」といわれる三角縁神獣鏡が必ずしも被葬者の遺体の何処から出土したか判明していない。今回は三角縁神獣鏡31面 が回りから出土し、他の鏡(今回は画文帯神獣鏡)との関係が明確になった点である。三角縁神獣鏡31面 は木棺の回りに置かれており、木棺内には一枚も入れられていない。三角縁神獣鏡は大切に扱われていない。棺内からは、三角縁神獣鏡よりやや古い時代の鏡である画文帯神獣鏡一面 が立った状態で出土した。水銀朱の層がこの鏡を境に南側で濃くなっていることから、画文帯神獣鏡付近が遺体の頭部にあたる可能性が高い。画文帯神獣鏡は、棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別 して扱われており、埋納に特別な意味があったと推測できる。また木棺外であるが、朱と漆を施した板の上に置き、木棺の北側の外に立てかけていたと思われる波文帯盤龍鏡(17号鏡)も区別 すべきである。三角縁神獣鏡に入れる考えもあるが、区別されるものである。
 今回の発掘で、現場の実務担当者がほとんど「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。」という見解を打ち出したところが興味深い。 (河上邦彦氏は三角縁神獣鏡を葬具であるとの見解、石野博信氏は「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。」と明言し、中国へ鏡の研究に行かれたことのある菅谷文則氏(滋賀県立大学教授)は、国産鏡であるとの見解。)  これで「さまよえる卑弥呼の鏡」となった。これで卑弥呼の鏡は九州に集中してる漢式鏡のどれかであることが、固まったと思う。もちろん複数の種類であってもよい。
 魏志倭人伝との関連でいえばこの遺跡には(鏡と)絹と矛が同時に出土しない。その点からも「卑弥呼の時代」ではない。
 あとは(九州の)考古学者が編年を見直して頂きたい。

割竹形木
図は「いにしえの学舎」からの転載です。

古墳解説より<抜粋組替>
 板石と人の頭ほどの河原石を「合掌型」に積み上げた特異な構造の竪穴式石室(長さ8.3メートル)が後円部で発見され、石室内には長さは約6.2メートルの割竹形木棺が納められていたと推定され、木棺を置いた粘土床一面が水銀朱の層(中央付近で厚さ約5センチ)で赤く染まっていた。
 三角縁神獣鏡は石室の東西と北側で出土。すべて棺外で、西側の16面は1面を除いて鏡面 (文様のない面)を内側にして石室壁面に立て掛けた状態だった。配置にばらつきのある東側の15面 も埋納当初は同じような状態だったと推測されている。鏡はいずれもほぼ完形で、直径22〜24.5センチ。その内の3面 の鏡式が判明。鏡背には「張氏作」など、鋳造した工人の名前が刻まれていた。3面とも国内各地に同じ鋳型で作った兄弟鏡があり、1面 の三神五獣鏡は静岡や兵庫、岡山県など計8面の兄弟となった。
 北側にあった波文帯盤龍鏡(17号鏡)の周辺で漆の膜が検出され、この鏡を乗せる板や木箱があった可能性もある。
 棺内からは、三角縁神獣鏡よりやや古い時代の鏡である画文帯神獣鏡一面が立った状態で出土した。文様などから中国製で、魔よけの意味を持つ水銀朱の層がこの鏡を境に南側で濃くなっていることから、調査委では画文帯神獣鏡付近が遺骸の頭部にあたる可能性が強いとしている。
 画文帯神獣鏡は、全国でも10面ほどしか見つかっていないタイプである。1月11日、京都大学人文科学研究所の岡村秀典助教授の鑑定で明らかになった。大和(おおやまと)古墳群では、同タイプの画文帯神獣鏡が大和天神山古墳(奈良県天理市)と桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)の2ヵ所で確認されている。
 黒塚古墳の画文帯神獣鏡は木棺を安置していた粘土床の中央付近で一面見つかった。棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別して扱われており、埋納に特別な意味があったと推測されている。
 直径13.5センチと画文帯神獣鏡の中では小ぶりで薄く、中央にある鈕(ちゅう)の周囲に乳(にゅう)と呼ばれる小さな突起が4つ配置されていた。突起にはいずれも竜の文様がからみ、周囲を半円と方形の文様帯がめぐっている。


「多元的古代」研究会・関東 多元 Vol.23 Feb.1998

大君は神にしませば 

- 黒塚・芭蕉・万葉 -

抜粋

古田武彦

        一

 宿願を達した。すでに昨年から「黒塚情報」は得ていたけれど、現場で見るのははじめてだった。
 一月十日(一九九八)にはじまる、新聞・テレビ報道の大勢は「邪馬台国、近畿説確定へ」といったムードだった。しかし連日の各紙の記事を一つ、ひとつ検討すると、わ たしには逆の結論、「近畿説の崩壊」しか見えてこないのだった。ニュース解禁日の前、現場を見たはずの記者たちの目と、わたしの目、どうしてこんなにちがうのだろうか。不審だった。
 もちろん「目」だけの問題ではない。先ずは判断力だ。大和内部から「三十一〜二面」もの三角縁神獣鏡が出た。すでに大和の隣、山城(京都府)の椿井大塚山古墳から三十二面の三角縁神獣鏡が出ている。これらとの同型鏡も、日本列島各地方から出ている。いわゆる「天皇陵」古墳からは、もっと出るかもしれない。何しろ、三角縁神獣鏡と名のつく鏡の出土は五百面前後。「銅鏡百枚」(倭人伝)どころの騒ぎではない。この数が率直に指さすところ、それは「舶載」ではない。国産である。
 次は石室内の配置だ。木棺内には、画文帯神獣鏡一面だけ。これがこの被葬者にとって一番の“お宝”だ。「死を共にする」鏡なのである。木棺の外、北側には波状帯盤竜鏡が一面、大ぶりの鏡だ。外側では“王様”の格である。“その他、大勢”が左右、十五面と十六面ずつの、問題の三角縁神獣鏡なのだ。どう見ても、“魏朝から賜った宝鏡 ”として、大切にされている姿、とは見えない。「三角縁神獣鏡=魏鏡説」の論者はいろいろと“理くつ”をつけるだろうけれど、それは“後(あと)理くつ”だ。最初から「三角縁神獣鏡は、棺内にあってはならぬ」などと主張していた論者は一人もいなかった。それが動かせぬ証拠だ。
 今回の発掘の学問的意義、それは「盗掘」されていなかったことだ。また椿井大塚山のように国鉄の軌道工事によって、石室が破壊され、頭からバラバラと鏡が降ってきた、などという惨状でもなかった。そのため、三角縁神獣鏡が他の鏡と比べて、どちらが尊重されていたか。被葬者本人や葬った当時の人々の考え方、それが一目瞭然。そこに値打ちがあった。それは「中心鏡」に非ず、「傍鏡群」扱いだったのである。
 木棺外の三十二面中でも、三十一面の三角縁神獣鏡は北側一面の波状帯盤竜鏡とは、明らかに「格差」がつけられていた。この一面が大きくて、キチンと北側中央に“鎮座”しているのに対し、両側の三十一面が雑然と土壁に挿しこまれている姿を直視するとき、「三角縁神獣鏡=魏鏡」説がガラガラと音を立てて崩れてゆく声を、わたしの心耳は確かに聞きとどけたのである。もはやいかなる「弁舌」も、わたしの「目」をおおうことは不可能である。
 現場に密着した経験をもつ考古学者たち(河上邦彦、菅谷文則、石野博信氏等)が次々と「魏鏡説」に対して首を横に振るサインをしめしはじめたこと、当然といえよう (もちろん、森浩一氏も)。
 では、真の「卑弥呼の鏡」はどこにあるか。当然、その答は一つだ。糸島・博多湾岸だ。三角縁神獣鏡が「非魏鏡」となれば、他には「前漢式鏡」と「後漢式鏡」と「多鈕 細文鏡」の集中する、右の地帯以外にありえないのだ。
 これに対し、「後漢式鏡のみ」を取り出して「卑弥呼の鏡」に当て、この方法から 「倭国の首都圏」を占(うらな)おうとする立場、これは無理だ。なぜなら、「後漢式鏡」が集中出土するのは「井原」と「平原」(前原市)だ。ところが、「井原」とそれこそ溝一つへだてたような「三雲」は「前漢式鏡」だ。「倭国の首都圏」を言う場合、「井原」「平原」だけを取り、「三雲」を「首都圏外」とするわけにはいかないのだ。となると、「三雲」と同じ「前漢式鏡」の「須玖岡本」(春日市)や「立岩」(飯塚市 を、首都圏から“はずす”わけにはいかないのだ。  その上、何よりも、最古の「三種の神器」をもつ「吉武高木」(福岡市)を欠いた「首都圏」論など、およそナンセンスとしか言いようはない。  以上、わたしがすでに『失われた日本』(原書房、二月刊予定)の「後書き」に書いたところだ。  では、「三角縁神獣鏡=非魏鏡」説の論者は、右のような自明の帰結へと、なぜ至らないか。彼等の「目」をふさいでいるのは、次の二つの「仮説」だ。

 第一、糸島・博多湾岸は「伊都国」及び「奴(な)国」であって、「邪馬台国」ではない。
 第二、弥生後期(二〜三世紀)の北部九州は「小型[人henn方]製鏡」の時代であって、「前漢式鏡」「後漢式鏡」の時代ではない。

 右を吟味しよう。
 第一は、ご存知の通り、「漢の委奴(ゐど)の国王」と読むべき志賀島の金印を「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と、三段細切れに読んだ「あやまち」にもとづく。「すでに破れた仮説」にしがみついているのである。
 第二は、中国の史書(三国志)に「銅鏡百枚」と書かれた、注目すべき「舶載鏡の時代」に、中国にもっとも近い北部九州(対馬・壱岐をふくむ)から出るのが、お粗末な「小型[人henn方]製鏡だけ」というのは、何かおかしい。何がおかしいのか。もちろん「出土物そのもの」や「それらの分布」がおかしいのではない。考古学者の“築き上げた”学者造りの「時間の編年」がおかしいのである。 いずれも、「三角縁神獣鏡=魏鏡説」に対しては、「仮説を絶対化するもの」と非難しながら、自分の“ふりかざす”仮説の「仮説」性には目をつむり、これを「絶対化」しつづけている。これが現在の「三角縁神獣鏡=非魏鏡説」の論者の姿ではないだろうか。
 たとえば、倭人伝に、女王の宮殿が「兵(兵器)」で守衛されているといい、その「兵」として「矛」と「鏃(骨と鉄)」があげられているが、「銅矛の鋳型」の集中するのは、博多湾岸だ。ここ以外に、そのような集中地があるのだろうか。---ない。
 「邪馬台国、東遷説」の論者に問う。大和盆地に「銅矛の鋳型」あるいは「鉄矛の生産中心遺跡」が見つかったのだろうか。わたしは知らない。
 黒塚から出土した絹布、それは筑紫という「弥生の絹の大海」から、ここ大和へ「絹の伝播」のあったことを物語るであろう。興味深い発見だ。だが、それで「邪馬台国、大和説」や「東遷説」が軽易に成り立つか。是非三思九考してほしい。
 一月十三日の黒塚訪問の帰り道、そのようにわたしは考えつづけていた。
<略>
    一九九八年一月十九日
 - 故、エバンズ博士の命日を記念して-

  〈追補二〉
 黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡に「同出徐州」の文字のあることが報ぜられた(一月二十三日)。新聞の写真で見ると、きわめて稚拙な文字だ。『ここに古代王朝ありき』 (朝日新聞社)の表紙に特出した「至海東」字に比べれば、かなり劣っている。師匠(渡来工人)と弟子(日本列島人)の差であろうか。今後全鏡の全貌が明らかになる日が楽しみだ。(委細考証、別述)
      一月二十三日・記

 


二  古田史学の会・東海講演会(1997年10月26日)より抜粋

鏡と山一国

古田武彦

1、安満宮山古墳の青龍三年鏡を観て

 最初は大阪府高槻市安満(あま)宮山古墳から出てきた鏡について始めたいと思います。青龍三年という銘の入った鏡が古墳から出てきたので、ショッキングな事件として新聞に取り上げられました。東海はどうか知りませんが関西では、これでいよいよ邪馬台国は近畿に決まった、というムードをあおり立てた新聞もありました。
 その為かどうかは分かりませんが、出土した青龍三年鏡という鏡の見学会に8月2日参りました。参加者が四千人とすごい行列でした。それで私は当日は焦点を決めて青龍三年鏡の龍の字だけを確認することに致しました。
 しかし、それだけでは研究の上では具合が悪いので、高槻市教育委員会にお願いして、9月の初めに改めて2時間半に渡り、青龍三年鏡を含む5枚の鏡をじっくりと観察させて頂いた。

その結果、結論から言いますと

これらの鏡は、「中国からもらった鏡とはとんでもない。そんなことはありえない。」というのが率直な印象であり結論である。

2、「青龍三年」方格規矩(きく)四神鏡(2号鏡)について

 最初は卑弥呼の鏡か?と言われた青龍三年鏡から述べてみたいと思います。この鏡の「龍」という字が誠におかしな書体で書かれている。本来は旧漢字であり、若い人にはなじみがないが行書体の「龍」が本来の龍である。
(ストロークフォントによるサンプル表示、行書体そのものではありません。)

竜書体

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 ところが、安満(あま)宮山古墳の青龍三年鏡の旁(つくり)は[大]である。ここに書かれているのは跳ねあがりがない止めてある「大」という字体である。こんな龍の字は書では、観たことがない。

龍03龍02

図は2号鏡と拡大図です。いずれも、森本氏のホームページからの転載です。元は高槻市広報です。

 これと同型鏡が出ていた。似ているが少し違う鏡が京都府弥栄町大田南5号墳から出た、青龍三年銘方格規矩四神鏡である。そこの「龍」の旁は似ているが少し違って点があり「犬」です。
 御説明頂いた高槻市教育次長の森田氏は、安満宮山の実物の鏡を持って京都府へ行き、大田南5号墳から出た鏡と並べてじっくりと観察された。実物を並べて観れば図柄や字面 はほぼ同じだけれど、たとえばある箇所の傷が大田南にはなかったが、安満宮山はある。そういう違いが各所にある。結論として大田南が古く、安満(あま)宮山は新しい。そういう関係がはっきりした。
(同類の型というか型自身が何回も変わっている。“踏み返し”というか、土型をとり、それによって再製する。ですから大田南をA1とすると安満宮山はA5位 となり、かなり変わってきている。)
 鏡を並べて観察できる機会はそんなに無く貴重な観察であり、森田氏の見解は信頼できる。龍の字の旁(つくり)も「犬」の点が取れて「大」になった。

 それで問題は、中国の書の歴史において、このような龍の字があったか。中国において、このような変な字があったのか。これが問題となります。
 鏡の書体そのものは、元々の「龍」の字の行書体を略した形である。旁(つくり)に「尤」という字に3本横棒を入れた字がある。これは3世紀以前の漢・魏・西晋の字である。ところが旁が「大」や「犬」という書体は私の調べたところ、4・5世紀北朝の北魏、東魏、西魏にならないと出てこない。南朝も東晋の4・5世紀にならないと現れない。
 今までになかった字が四・五世紀に現れる。有名な異体字の時代である。中国清代の学者羅振玉 (ら しんぎょく)の『増訂碑別字』にまとめられている。

なぜこのような変わった字が現れたのか。これには有名な歴史の切れ目がある。西暦316年である。

 316年鮮卑・凶奴が南下して、西晋の首都洛陽を占領し(北)魏を造る。(西)晋の一派は洛陽から逃れて建康(南京)に移り(東)晋を建てた。南北朝の時代が始った。こうなれば特に北朝は、武力はあるが文字を余り知らない北方の鮮卑・凶奴が支配者、文字を知っている以前の(西)晋の人々が被支配者となる。そうすると、どんな字が現れるか、興味ある問題だが、実例がたくさん現れた。。今までになかった字がたくさん現れる。316年以前と以後では、書体が一変する。
(念のため言っておきますが当時は全て魏であり、晋である。北魏、東魏、西魏、西晋、東晋も後の呼び名です。(西)晋が、異民族である鮮卑・凶奴に追われて、首都を洛陽・西安から建康(南京)に移したのが(東)晋であり、(北)魏から別 れて、(西)魏・(東)魏になりました。又三国志演義では、「蜀が正当で、魏は曹操が盗んだ魏である」という大義名分というか、変な感覚がある。「唐や宋に連なる北朝の北魏や東魏が正統の魏であり、時代は前だけど3世紀の魏は曹操が盗んだ魏である。」という意識であり、(曹)魏と名付けた。)

 旁(つくり)に三本横棒が消えたら、「尤も龍」の書体となる。316年以前は「尤も龍」も三本横棒が入った字でなければ、「龍」でなかった。しかし元の意味を忘れて三本横棒が無くなり、旁が「尤」となった。さらに乱暴な話だが、旁は「犬」になり、「犬龍」になる。しかしこれはまずいのではないか。龍は犬の一種であると言っても誰も信用しない。

 この鏡は旁(つくり)が「犬」ではまずいので点を取って、「大」になったのではないか。

 「青龍3年」の銘そのものは、(曹)魏の年号であると思う。しかし書体は4・5世紀である。古墳も4・5世紀である。

 もし、この鏡が「卑弥呼から貰った鏡」と主張する人は、中国の書の歴史において、三世紀の(曹)魏が、この書体であることを示さなくてはならない。このような証拠を示した新聞は全くない。

 念のため樋口隆康氏に書体の問題を確認したら「自分には書体の問題は分かりません。(やっていない。ノーコメント)」という返事をお聞きした。しかしこの問題を論じる場合、「書体の問題を抜きにして論じることは学問的とは言えない。」僭越だが正直言ってそう考える。
(樋口氏は京大の現役教授の頃から、何時も飛び込んで行ってお教え頂いている方である。人格者であり、私などとは立場が全く違うことをご存知ではあるが、いつも胸を開いて誠実にお答え下さる方である。)

 同じような問題をもう一つ言わせて頂く。
 拙著『失われた九州王朝』お読みになられた方は、ご存知のことと思うが、年号が問題になったのは、大阪府和泉市の黄金塚出土の「景初三年の鏡」である。末永雅雄氏が羅振玉 の『増訂碑別字』を元に卑弥呼の鏡だと発言された。うまく書けないが「示」に近い変な「初」という字体は羅振玉 の『増訂碑別字』では魏の書体である。しかし羅振玉の『増訂碑別字』では魏とあれば、4・5世紀の後(北・東・西)魏のことで、3世紀の(曹)魏のことではない。「景初三年」と書きながら書体は4・5世紀のものである。古墳も4・5世紀であり、3世紀だという人は誰もいない。
(私も『「邪馬台国」はなかった』を書くとき喜んで、後で分かってがっかりした覚えがある。)
 はばかれる言い方であるが末永雅雄氏は考古学者であって文献や書体はご存知無い。 以上の批判は公に反応がないが、個人的には反応があった。御挨拶に訪れたとき御本人から「何時もみんなに古田さんに学べと言っている。」と言われて恐縮したことがあった。つまり「書体の問題は大切だよ。きちんと調べないと、古田ごときに指適されるよ。」と言いたかったのだと今思う。


 今回も同じであり、青龍三年と(曹)魏の年号を書きながら、書体は4・5世紀の後(西・北)魏である。まかり間違っても卑弥呼が貰った鏡ではない。

 

3、三角縁「吾作」四神獣鏡(1号鏡)について

 この鏡は見事な三角縁神獣鏡である。全体の姿・形やデザインからの印象である。しかし銘文の字を見たら、がっかりした。有名な「東王父、西王母」の銘文があるはずだった。しかし東王父の「王」が半分ちぎれている。これは製作上仕方が無い。問題は「父」が全く存在しない。しかしもっと不思議なことは「西王母」が「王西 母」とひっくり返り、かつ「王西」が一字になっている。王の下に西がある。西王母がひっくり返っているのも、ひどい話だが、もっとひどいのは「王西」が一字に描かれている。すごくひどい。
 この鏡が中国の鏡だと皆さんは本当に思われますか。
 これも樋口隆康氏に確認すると「中国にもひどい鏡がある。」との返事だった。 私は一般 論はダメであると思う。実例を示して欲しい。中国洛陽などで実際に出土した鏡を写真で示して頂きたいと思う。私は中国では見たことがない。日本人が日本で中国鏡と認定した鏡を実例に揚げられても納得できない。
(十数回行っていて、何回も博物館で鏡を探してみた。そんなひどい鏡は観たことがない。)

 

4、「陳是作」半円方形帯同向式神獣鏡(5号鏡)

 もう一つ例を上げてみたい。この鏡も、見事な三角縁神獣鏡である。姿・形やデザイン、見た目は見事である。制作者が描かれてあるケースである。しかし、どうしても「陳」ではない。我々は陳と思っているから疑いを持たなかったが、よく観れば旁(つくり)は「束」である。旁に横棒がどうしても一本足らない。編は良いが、どう見ても旁は「東」ではない。「束」である。5・6倍の拡大鏡で見たが無い。
 これも同様樋口氏に同様聞きましたが、「元はあったが、踏み返しているうちに、線が一本無くなったのでしょう」と言っている。それはそのとおりだが、陳さん本人が製作したのなら、線が一本無くなっていても我慢するでしょうか。仮に陳さん自身でなくとも中国人であれば「陳」という姓は誰でも知っている。陳さんは日本人で言えば田中さんや鈴木さんに当たり、誰でも知っている姓である。これが、中国鏡なら姓を間違うでしょうか。国産の場合はこのような間違いは起きるが、中国の鏡ではあり得ないと考える。

 

5、安満(あま)宮山古墳の鏡のまとめ

 もう一度言明するなら、5枚の鏡は3世紀の卑弥呼の鏡ではない。中国鏡でなく、国産鏡である。樋口隆康氏を始めとする中国鏡とする説は学問的に納得できない。また近畿が邪馬台(一)国である証拠には全くならない。

 

6、なぜ、四・五世紀に盛んに「景初」・「青龍」という(曹)魏の年号を使ったのか。

<当日は略、追加 記録>

 現存する鏡は「青龍三年鏡」もそうであるが、「景初三年鏡」、「景初四年鏡」、「正始元年鏡」となぜか魏の年号である。他の国北魏などにも「青龍」の年号はあるが、「景初」・「青龍」・「正始」と三つも年号が揃っているので、いずれも(曹)魏の年号である可能性が高い。なぜ魏の「年号鏡」ばかりが出てくるのか。だから「卑弥呼が貰ってきた鏡」という話になっているが、「年号」として書いてあるのは「(曹)魏の年号」である。しかし書体は北魏・東晋の書体であり、造りは4・5世紀である。いずれも316年以後の書体である。これは一体どういうことなのか。

私はこのように考えた。
 あの卑弥呼が三国志の時代に「魏に送った使い」は大成功だった。もし呉に使いを送っていたら、倭国はひっくり返っていたかも知れない。呉だって近い。古くから交流もある。
 魏に使いを送り、友好条約を結んだことが大成功だった事が、証明されたのは、「280年呉の滅亡」である。西晋に中国が統一された。
 あの事件が当時の倭国の繁栄の源である。4・5世紀の倭国の繁栄の源である。そういう考えに基づいて、「年号鏡」は製作された。言ってみれば『対魏外交記念鏡』である。魏の年号を入れるということに、非常に意味がある。魏の年号を入れるということは、非常におめでたいことである。神獣を入れるということが南朝側ですという意志表示であり、それだけでは足りなくて、魏の年号を入れると更に喜ばれる。そういう状況だと考える。

 

7、なぜ、日本では三角縁神獣鏡なのか。中国では三角縁は画像鏡しかない。

<当日は略、追加 記録>

 このことは、この安満(あま)宮山古墳で明確に理解した。一つは重ねるためである。なぜならこの古墳では鏡が重ねられていた。普通 の鏡は鈕が突きだして、重ねにくい。ところが縁(ふち)が付いていると重ねやすい。樋口氏が編集した『三角縁神獣鏡研究綜鑑』(新潮社版 平成4年10月)の中で断面 図が出ていて測定すると、鏡は鈕の高さと縁の高さが同一である。もっとも完全に同一の高さでなくとも良い。布を置くから。それが一つの目的である。出雲銅鐸も入れ子にしている。日本人は重ねるのが得意である。
 もっと大事な理由があることに、さらに気が付いた。日本では、中国と違って部屋の中で姿見として使うわけではない。戸外で太陽の顔を映すのに使う。太陽信仰の小道具として用いる。戸外で太陽の顔を映すのに、縁(ふち)があったほうが安定がよい。いずれも日本の使用方法に合った縁(ふち)である。

 中国では神獣鏡は、戸内で用いるから縁は必要がない。神獣はあるけど、縁(ふち)は必要がない。中国で縁があるのは一つだけ、三角縁画像鏡だけである。武将・貴族などが遠征等の記念として、「出発」「凱旋」の様子などを描き、それに縁を付けている。まさに額縁そのものである。

 

8、なぜ、日本では4・5世紀に神獣鏡を盛んに作ったのか。

<当日は略、追加 記録>
 この話は西暦282年の西晋にさかのぼる。中国で呉が滅亡した2年後に大変な発見があった。墓の盗掘が元になって、地下から大量 の木簡が出てきた。漆(うるし)で周代の文字が書かれていた古文書であることが分かってきた。それを西晋の王朝が学者を動員して、我々が知っている漢字に翻訳させた。それを出版というか、世の中に公表した。二つあって『竹書紀年』と『穆(ぼく)天子伝』である。問題は『穆天子伝』である。穆王といって5代目の周王の伝記である。起居注(ききょちゅう)という生前の天子の行動の記録である。途中で終わっているが、内容は「西の方シルクロード、青海(湖)の傍ら西寧で、西王母が穆王を出迎え、宴を催して盛大に歓迎した。」という記事がある。
 今回新たに気が付いたのは、西晋王朝がこの事業(翻訳出版)を行ったのは、大変な政治目的があって行われた事業であるということである。
 どういう政治目的かといえば、

 「周の天子は神仙である西王母と東王父によって、祝福された天子である。それを受け継いだのが漢である。その漢を受け継いだのが魏であり、それを禅譲で受け継いだのが、我が西晋である。この禅譲を天が認めた証拠にこれが地下からちゃんと出てきた。要するに『西晋』の天子がいかに正統(正当)であるか。天の神々西王母と東王父もいかに祝福しているか。」

そういう宣伝に、世に発表した。

そう考えると謎が解けてきた。ご存知のように西王母と東王父の神仙思想が4世紀当たりに東晋に盛んに流行したことの謎が解けてきた。西晋を追われた一派が東晋を作り、そこで流布する。我々東晋こそ、西晋を正しく受け継ぐ王朝である。その証拠に西晋に『穆天子伝』が出てき、西王母と東王父はその保証人である。という大変政治的な思想である。
(注 西域は南北朝時代、南朝を支持していました。又『穆(ぼく)天子伝』そのものの分析については、『古代史をひらく』(原書房)を見て下さい。)

さらにそれが日本では、三角縁神獣鏡という鏡の中で神獣だらけである。我々は、西晋・東晋の王朝、南朝を支持します。そのシンボルである。

 

9、絹と鏡と山一国

 以上考古学と文献を照らし合わせるなら、卑弥呼の鏡は近畿の三角縁神獣鏡か、北九州博多湾岸の漢式鏡か。どちらかである。音合せの筑後山門を中心に分布する鏡は全くない。さらに一歩進めると、倭人伝と文献との関係では鏡と絹の組み合わせでないとダメである。鏡は銅鏡百枚と書いてあるだけだが、繰り返し書いてあるのは絹のことである。飾り絹のことを錦と言い、錦というものは、中国にとって比較にならない重要性を持っており、赤い地の上に龍の模様が付いているとか、青い地の上にこんな模様が付いているとか繰り返し述べている。倭国も又絹を生産し、卑弥呼(ひみか)や壱与(いちよ)も中国に献上するほど生産力があった。これは中国の回りの国では他はない。また壱与が献上した倭国の絹を異文雑絹と中国は表現している。倭国もそういう珍しい国であることが倭人伝に書かれている。鏡さえ出れば卑弥呼の国になるのではない。鏡と絹である。絹が一貫して出るのは北九州博多湾岸である。弥生の前期有田、中国の絹を含む弥生中期の須玖岡本遺跡、弥生後期・古墳初期は唐原(とうのはら)と絹の最初と最後は北九州博多湾岸である。弥生時代に一貫して、絹が出るのは北九州博多湾岸である。
(更に言えば、最初のシルクロードの到達点は九州博多湾岸である。)

鏡と絹の組合せでは漢式鏡の出る北九州博多湾岸しか有り得ない。

これに対する考古学者の弁明 たとえば佐原真氏の弁明がある。
「それはみせかけだ。我々はそうは考えない。九州は甕(カメ)棺に入っているから絹が残るんだ。出土の有り無しで、存在の有り無しは決められない。」と言っていた。「近畿は甕棺に入っていないから腐食して消えている。」という主張である。
(カメなら煮炊きをするから、神様に捧げる神聖なものならミカ棺と呼ぶべきである。形が同じだと言って同じ呼び名ではない。)
 今回の出土で、今までの弁明はダメである。考古学はモノで語るべきである。弁舌では納得できない。今度の大阪府高槻市安満(あま)宮山古墳の鏡は布付なのである。この布は麻(あま)である。麻と鏡である。きちんと残っていて麻である。2種類とも麻である。「石組みの中だから消えていた」と言っていたが、麻と鏡の組み合わせで残って出てきた。そうであれば以前の他の近畿の出土した鏡は布に包まれていない。と考えるべきである。近畿説にとっては重大な衝撃である。

 

10、奈良県天理市下池山古墳の鏡

 話は変わるが、近畿でも優秀な絹に包まれた内行花文鏡が出て来た。奈良県天理市の下池山古墳がそうである。(下池山古墳・中山大塚古墳の調査概報 学生社刊参照)
 私も橿原考古学研究所へ行って、発掘担当者に会って話を聞いて来ました。意外なことを私は知った。石室の御遺体の回りから出て来たのではない。石室は盗掘されてほぼ何も出て来なかった。古墳の北西の石室から少し離れた所。特別に50センチ四方の石組みを作り木箱に収納され、なんと5重の布に包まれて、一枚の鏡が出てきた。国産の内行花文鏡が出て来た。かつ布の一番外側が兎の毛皮、そして一番内側の2枚が錦である。これが非常に優秀な錦である。それが新聞に発表された話題の絹である。盗掘した人は、こんな所に鏡があると考えていなかった。
 埋葬した人々は何故このようにこの鏡を別にしたのか。この鏡を埋葬した人々の考えは、遺体は腐るので、こんな大事な鏡を遺体と一緒に埋葬するとはとんでもない。そこで遺体の頭と推定される北西の方に特別に奉納させて頂きます。埋葬された人も生前は特別大事にしていた。そういう判断である。
 大正時代の話として、別の古墳で同じ様なところから鏡が出てきたという報告もある。今度掘ってみるとそれと同じだった。樋口氏が発掘した京都府南部の椿井大塚山古墳でも、鉄道建設の作業員の報告として、石室から落ちてきたのとは別の所から3個の鏡が出てきたと報告があった。これも同じ可能性がある。確認した事実としては3カ所だけだが、本当は5倍・10倍あると考えるのが当然ではないか。
(下池山古墳・中山大塚古墳の調査概報よりの補足。同じ位置から同じ内行花文鏡が出ていたのは、大正7年天理市柳本大塚古墳です。)

 さてそこで、対照的に北九州博多湾岸では全くそのような事実はない。吉武高木、三雲、須玖岡本、平原の各遺跡を含め全て遺体の回りに置いてある。
 皆さんも御記憶の中に下池山古墳の鏡は何処かで見た鏡と思われるが、平原の鏡とそっくりである。九州の平原遺跡の内行花文鏡とやや小振りだが同じ形だ。
 九州は平原遺跡から女性の遺体の回りに平気で5面も置かれていた。九州の遺跡では平気で遺体の回りに置いてあるのに、近畿では一枚の鏡だけを特別室に木箱を作り、兎や絹の5枚の布に包んである。
 以上の現象をどう理解するかである。
 あの九州博多湾岸にある鏡文明。それを我々は尊崇し、その制度に従います。この鏡を頂いてきたのを我々の一生の名誉と考えます。そのような古墳の埋葬の仕方である。
 もう一度言うならば、私は三角縁神獣鏡を含め近畿の鏡は九州に対する忠誠宣言であると考える。スローガンとして言えば「順九反鐸」鏡であり、つまり九州の制度である鏡を尊崇し、近畿の銅鐸に反対し拒否する。そういう意志表示であると理解する。
 天皇陵も同じ立場で理解できるというのが私の立場だ。<略>

以上

 

制作者 当日講演録一部追加 漢音と呉音について

古田武彦

 混乱するが、事実を正確に捉える必要がある。「漢音」というのは、異民族であった鮮卑・凶奴の音が混じった音であり、後の唐や宋の学者が自分たちの正当化の為に「漢音」と自称し、漢・(曹)魏・西晋の音に「呉音」とレッテルを貼ったものである。それに唐や宋は北朝系である。言い方を換えれば、「漢音」というのは、本来の漢の人々が使用していた「呉音」の上に、支配者の言語である鮮卑・凶奴の音が載ったものであり、「呉音」というのは、西晋の首都洛陽を逃れて人々が、揚子江流域で支配者として使用した言葉である。本来の漢音、漢・魏・西晋に近い音が「呉音」と呼ばれていることである。
 ですから私たち日本人が読む「漢字の読み方」の方が古来の中国に近いのである。




5 参考文献

参考文献一覧

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 上の資料に加えて下記の報告を参照して下さい。
ここに古代王朝ありき−邪馬一国の考古学−
朝日新聞社
P015 第2章 倭都の痕跡
P058 第3章 三世紀の空白
P093   第2部文字の考古学

P134 第2章 三角縁神獣鏡
「邪馬台国」はなかった
朝日文庫  朝日新聞社
P122 2 戦中の使者 景初二年 景初三年鏡への疑い
失われた九州王朝
朝日文庫  朝日新聞社
P086  3 いわゆる魏晋鏡と上代音韻 魏晋鏡/富岡理論/富岡理論の源流/いわゆる景初三年鏡/・・・/「正始元年鏡」もあやしい
P569 補 章 九州王朝の検証/・・・/ 海東鏡の論証/三角縁神獣鏡の科学
続・邪馬台国のすべて
−ゼミナール−
朝日新聞社  共著
P047 四、鏡の論理 二つの「伝世」鏡/弥生遺跡出土鏡の中心領域/三つの出土品
古代史の宝庫共著

P085 邪馬壹国の諸問題 鏡の国/文字の国
古代の霧の中から
−出雲王朝から九州王朝へ−
朝日新聞社
P070   1 卑弥呼の宮殿の所在
P271 第9章 鋼鏡百枚
P285  3 弥生鏡の銘文
P293  4 立岩遺跡の舶載鏡
古代は輝いていた 1
−『風土記』にいた卑弥呼−
徳間書店
P238 第4章 物証論 
P255 第2章 「文字初伝」をめぐって
P119 第2章 古墳期の仏像と仏像鏡
邪馬一国の証明

 角川書店
P197 古代史を妖惑した鏡
まぼろしの祝詞誕生−古代史の実像を追う−
  新泉社
P234   古代史の構図 卑弥呼の韓鏡/邪馬台国論争の決めて/古墳期の三角縁神獣鏡
吉野ケ里の秘密
−解明された「倭人伝」の世界−
  光文社
P011 第1章 「邪馬台国」にトドメ刺す 「ここが卑弥呼の居城か」/吉野ケ里が、なぜ近畿説に衝撃をあたえたのか /近畿説論者がすがりついた「三角縁神獣鏡」
「君が代」は九州王朝の讃歌−市民の古代 別巻2−
  新泉社
P080 ○16梅原末治「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」
古代史をひらく
−独創の13の扉−
  原書房
P195 《考古学》の扉をひらく P196 第10の扉 卑弥呼の鏡はどれか


 鏡を巡る討論は「邪馬台国」徹底論争 (新泉社)を御覧下さい。又、問題となる梅原論文は、古代史徹底論争−「邪馬台国」シンポジム以後(駸々堂)を御覧下さい。

 これは講演記録の公開です。
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