古田武彦・古代史コレクション9 『古代は沈黙せず』 ミネルヴァ書房 2012年1月刊行 中刷


第二篇「法華義疏」の史料批判

その史料科学的研究

第四章

    一

 その後、研究はさらに進展した。

 その一は、巻頭二行文における「大委国」の問題である。
 わたしはすでに既発表論文「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』、駸々堂出版刊、所収)によって、次の帰結をしめしている。

(一)「三国史記」によれば、この史書に出現する「倭」は、一世紀から七世紀後半まで、一貫して「チクシ(ツクシ (26) )」を意味する。
(二)それが一変し、「日本」という国名に「更号」(呼び変え)されたのは、新羅の文武王十年(六七〇)のことである。
(三)右の「日本」とは、やがて(七二〇年に)「日本書紀」を成立させた近畿天皇家のことを指すと見られるから、右の「更号」は単に形式上の国名変更にとどまるものではなく、「チクシからヤマトへ」の“権力中枢の変動”を意味するものと思われる。
(四)八世紀の諸天皇(元明・元正・孝謙・聖武・桓武)はそろって即位の詔において、自分たちの権限が「天智天皇の始め給うた『不改の常典』に拠っている、と言明している。
(五)これは従来説のように、皇位継承法や近江令といった解釈では妥当しえない。なぜなら、元明・元正天皇が最高責任者として編成された正史、「日本書紀」に記載されていないからである。
(六)それは「日本書紀」の天智紀、それも「天皇」として在位した四年間(天智七〜十年)中に特筆大書されていなければならぬ。
(七)それは、天智十年(六七一)正月の項に、「皇太弟(のちの天武)が、天智天皇の宣を奉じ、 冠位・法度之事を施行した」とある、この記事を除いて、妥当するものはない。
(八)右の冠位とは「大化五年」の「制冠十九階」の修正形としての「天智三年春二月」の「換冠位階名」の内容を指すもの、と思われる。そこに提示(発布)されたものの「施行」である。
(九)同じく、右の法度とは、“根本法”の意義であるから、大化元年から大化五年に至る一六個の 「詔」「奉請」「制」を指す(先の「大化五年」の制冠をふくむ)。そこで宣布されたものの「施行」が、この「天智十年」にあった、というのである。
(十)この点、明治維新以後、“鼓吹”された「大化改新」という用語は、「天皇親政」の歴史的先範として、(「明治維新」の正当化のために)「造作」された概念であり、「日本書紀」そのもののしめす史料事実には合致していない。
(十一)これに反し、「日本書紀」中、これほど大量の「詔」類が列挙されているのは、他に皆無である。その施行が天智の世にあった。ーーこれが当正史の主張する、根本にして最大の力説点であった。
(十二)八世紀の諸天皇が即位のさい、こぞって強調し、己が即位すべき「天皇位」の根本としたのは、右の「天智十年の施行」そのものに他ならなかった。
(十三)「日本書紀」で、白村江の戦は、天智二年(六六三)に当てられている。ところが、「旧唐書」及び「三国史記」では竜朔二年(六六二)になっている(白江の戦)。「一年の誤差」が存する。 これによって見れば、この「天智十年」(六七一)は、「三国史記」の新羅文武王十年(天智九年、六七〇)と「同年」である可能性が高い(前者は正月、後者は十二月頃)。
(十四)従って、この「天智十年の施行」を契機として、白村江の戦に敗れた「倭国」(チクシ)が消滅し、代って「新、日本国」の誕生すべきを宣言された可能性が高い。
それゆえ、「廃倭国、建日本国」の詔勅が、天智十年」(六七〇か)に出されたもの、と見られるけれ(十五)ども、それは「日本書紀」に記されていない。それは「神武天皇の即位元年」をもって「日本国の創建」と“称し”た「大義名分上の虚構」のため、“消し去られた”もの、と思われる(これと同類の例として、文武三=七〇〇年〜文武四=七〇一年の間に出されたはずの、「廃評、建郡の詔勅」もまた、「続日本紀」中から“消され”ている)。
 以上がその要点であった。

 

  二

 右と呼応すべき国内史料、それは「万葉集」における「ヤマト」の表記である。

 その巻頭にあるのは、雄略天皇の歌であり、次いで舒明天皇の歌である。
 山跡乃国者(大和の国は)〈「万葉集」巻一ー一、雄略天皇〉
 山常庭 村山有等(大和には、村山あれど)・・・蜻島 八間跡能国者(あきづしま、大和の国は)〈「万葉集」巻一ー二、舒明天皇〉

いずれも、「山跡」「山常」「八間跡」の表記が使われている。

これに対して、「倭」の用例の初出は柿本人麿の歌である。
  天[八/小]満 倭乎置而(天(そら)にみつ、大和を置きて)ーー持統の時。〈「万葉集」巻一ー二九、柿本人麿〉
右のような傾向は、「万葉集」全体を通じて変わらない。
  在 山跡 皇兄(大和に在(いま)す皇兄)〈「万葉集」巻四ー四八四題詞、難波天皇ーー仁徳か孝徳ーーの妹〉
  
 注)[八/小]は、八の下に小。万葉集(岩波日本文学古典大系)を見て下さい。表示できません。
 
 これに対し次のように、柿本人麿以来、各歌人とも、そろって「倭=ヤマト」の用法をしめしている。
  倭[八/小]者(大和には)ーー持統の時、〈「万葉集」巻一ー七〇、高市連黒人〉
  倭恋(大和恋い)ーー文武のとき。〈「万葉集」巻一ー七一、忍坂部乙麿〉
  倭国者(やまとの国は)ーー天平五年。〈「万葉集」巻五ー八九四、山上憶良〉
  倭辺上(大和に上がる)ーー神亀三年の歌のあとに載す。〈「万葉集」巻六ー九四四、 山部赤人〉

 右のような変化が、時間的にもっとも“きわどく”現われているのは、天智朝である。

  山跡有 大嶋嶺[八/小] 家母有猿尾(大和なる、大島の嶺(ね)に、家もあらましを)〈「万葉集」巻二ー九一、天智天皇。鏡王女に賜う御歌〉
  天皇(天智)崩後之時、倭大后御作歌一首〈「万葉集」巻二ー一四九題詞、倭大后〉(歌は「人はよし思ひ止むとも玉鬘(かずら)影に見えつつ忘らえぬかも」)

 右の九一は、天智天皇自身の歌であるから、「天智七〜十年」の間の作であると考えられる。あるいは、それ以前の皇太子時代の作である可能性もありえよう。ここでは旧来の「山跡」の表記が用いられている。天智自身の表記法の反映と見られよう。
 これに対し、当の天智天皇の崩後、倭大后によって作られた挽歌の題詞で、「倭大后」の表記が現われている。この大后は古人皇子の娘とされている(「日本書紀」、天智紀)から、これは当然「倭=ヤマト」の用例と見られる。

 すなわち、ここでも、

A「天智十年」頃、以前ーー山跡
B「天智十年」頃、以後ーー倭

という変化がしめされている。

 右のように、
(一)「三国史記」では、「倭=チクシ」の用法が「六七〇」において終結したことが記述されている。
(二)「万葉集」では、「倭=ヤマト」の用法が「六七一」以降、出現している。
 この両事項の時間的一致は、偶然とは見なしえぬ「相応関係」をしめす、そのように考えざるをえないのではあるまいか。

 

   三

 右でえられた「六七〇〜七一」の間の「倭」の意義の変動、この新たな物差しによって、今問題の当本の巻頭二行文を検討してみよう。
 先述来の論証のしめすように、この二行文が「上宮王自身の表記」であるとすれば、七世紀前半のものとなる。とすれば、
 右の物差しによる限り、

  「大委国=チクシ」

という帰結にならざるをえない。従来考えられていたように、

  「大委国=ヤマト」

の意と解することは不可能なのである。

(「古事記」・「日本書紀」は、八世紀初頭の成立であるから、基本的に「倭=ヤマト」という、新たな表記法にもとづいていること、当然である。従ってこれらの文献の用例をもって、この巻頭二行文の文面を理解することは、史料批判上、不適正といわざるをえないのである。)

 以上の分析に従えば、この「上宮王」をもって「聖徳太子」と解してきた従来説には、越えがたい矛盾のあることが知られよう。

 

   四

 わたしはすでに、法隆寺の本尊たる釈迦三尊の光背銘文に関して分析を行った。(「法隆寺釈迦三尊の史料批判ーー光背銘文をめぐって」『仏教史学研究』第二十六巻第二号、昭和五十九年三月十日、本書所収。及び『古代は輝いていた』第三巻、参照)

 その要旨は左のようである。

(一)銘文中の「上宮法皇」の没年は、法興元三十二年(推古三十年、二月二十二日)である。これに対して、「日本書紀」では聖徳太子の没年は、推古二十九年二月五日である。当然両者は別人である。なぜなら、「日本書紀」の成立は太子の没年後、わずか百年であり、その間に関係者(とその子や孫)内で、その正しい没年が“忘れ去られ”たり、“あやまられ”たりするはずはないからである。
(二)右の「上宮法皇」の死の翌年に作られたという銘文でありながら、ここには推古天皇の存在の痕跡もない。これは、「上宮法皇=聖徳太子」という従来説にとって、不可避の矛盾である。
(三)「法皇」とは、“僧籍に入った天子”“仏法に帰依した最高権力者”を指す用語であり、終生「太子」という、ナンバー・ツウの位置にとどまった、聖徳太子に対して用いうる称号でない。
(四)「鬼前大后」「干食王后」という、銘文中の表記も、それぞれ “天子の母”や“天子の正式の妻”を指す語法であって、“太子の母”や“太子の妻”には適切ではない。
(五)銘文冒頭の「法興」という年号は、「辛巳」年を「三十一年」とする点から見ると、崇峻天皇四年(五九一)を元年とすることとならざるをえない。すなわち「推古ーー崇峻」にまたがる年号となろう。とすれば、これは近畿王朝内の年号とは見なしえない(崇峻が殺害された、という「日本書紀」の記事から見れば、なおさらである)。
(六)以上のように、「上宮法皇=聖徳太子」説にとって、解決しがたい矛盾が続出するのに対して、新たに「上宮法皇=筑紫の多利思北孤」説に立つとき、諸矛盾はことごとく解消する。
  1. 聖徳太子と没年時の異なることは、当然である。
  2. 推古天皇が銘文中に出現しないこともまた、当然である。
  3. 多利思北孤は「日出ずる処の天子」を自称している上、「跏趺(結跏趺坐)」して坐ったとされている(隋書窟国伝)から、「法皇」の称はきわめて自然である。
  4. 同じく「大后」「王后」の称も、全く不合理ではない。
  5. 「法興」という年号が、「崇峻ーー推古」の両者にまたがる点も、別王朝の存在であれば、何の矛盾もない。
(七)多利思北孤は「阿蘇山有り・・・」(隋書窟国伝)の記述のしめすごとく、九州の王者である。さらに後漢の光武帝のとき、また安帝のときの「 [イ妥]奴国」の後継王朝として記述されているから、志賀島の金印の出土した、博多湾岸をふくむ「筑紫の王者」であることが判明する。いわゆる九州王朝がこれである。
(八)「上宮(うえのみや)」は、二つの宮殿(上宮と下宮)もしくは三つの宮殿(上宮と中宮と下宮)があったさい、これらを区別するための普通名詞である。聖徳太子はかって「上宮」(奈良県桜井市)に居したために 「上宮太子」と称されたが、没した地は斑鳩(法隆寺の地)である。「上宮」ではない。これに対し、銘文中の「上宮法皇」は、他に在所名の記されたものはないから、当然この「上宮」で没したものと見られる。九州にも、 大分(上宮峯)や阿蘇山(もと山頂にあったもの。現、阿蘇神社は「下宮」)や太宰府裏(竈門(かまど)宮)等に存在する。
(九)したがって、この釈迦三尊は、法隆寺が全焼してのち再建されたとき、九州から“移送”された上、本尊として「定置」されたものと思われる。

以上がわたしの論証であった。

 

   五

 先に、 巻頭二行文について分析したところ、この「大倭国上宮王」は「チクシの上宮王」と解すべし、という帰結に至った。
 そして、この二行文が、七世紀前半以降のもの(欧陽詢の書風をしめす)とすれば、右の「上宮法皇」その人が、この「チクシの上宮王」である可能性はきわめて高い、といえよう。
 もちろん、先にのべたように、「チクシの上宮」も唯一とは限らず、その宮殿の主が、当然「王」と呼ばれるべき存在であることを思えば、「上宮王」という一語で特定人物に限定することはできぬともいえよう。
 しかしながら、「七世紀前半・筑紫・上宮王」という三点の一致からすれば、「上宮法皇」と呼ばれた多利思北孤その人と一致する可能性は、はなはだ高いといわねばならぬ。
「上宮法皇」は、他からの敬称である。これに対し、当人自身が「上宮王」と記しうること、すでにしめしたごとくである。

 

  六

 右のような、一見意想外と思われる帰結を支えるべき、他の論証がある。それは「大委国」の「委」という文字である。
 この文字が「倭」を意味すべきことは、いうまでもない。ところが、中国の各代の歴史書において、すべて「委」に非ず、「倭」の文字が用いられていることも、周知のごとくである。「漢書」「後漢書」「三国志」「宋書」等、すべて例外がない。
 唯一の例外というべきは、「漢書」本文の倭人項に対する、魏の如淳注であろう。

如淳曰、如 墨委面、在帯方東南万里。
(如淳曰く、墨の如く委面して、帯方東南万里に在り)

 右は倭人の「鯨(げい)面」をしめす表現であろうから、この「委」は「倭」を示唆するもの、そのように見なすことができよう。けれども、この一文を見て、巻頭二行文の筆者が「委」字を書いたとは考えがたい。なぜなら、これは一注記にすぎず、それに対する漢文の本文には、

 楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。

 とあって、明白に「倭」の文字が用いられている。この一字を斥けて、注記中の文字を採用すべき道理はないのである。
 では、巻頭二行文中の「委」字は、いかにして出現したのであろうか。
これに対して、考えうる唯一の可能性、 従うべき典範がある。ーーそれは、 志賀島の金印中の「委」の字である。

 漢委奴国王

  ここでは明白に「委」が使われている。「倭」ではない。これを受け取った博多湾頭をふくむ筑紫の王者が、この一字「委」をもって、自国に対する正規の国名・用字と受けとめたことは、当然である。金石文によって証言された、由緒深き用字なのである。
 この「金印」そのものは、志賀島の地中に埋納された。 (27) しかし、地中に「埋蔵」される前に、これが大いに 「使用」されたこと、 わたしにはこれを疑うことはできない。なぜなら、金印とは、 すなわち、いわ「鋳型」である。だからこそその文字は、全体が「逆文字」となっているのである。これを紙や粘土板などに「捺印(なついん)」すれば、通常の形の文字となる。そのような「使用」を全くせずに、いたずらに地中に「埋置」したなどとは、信じがたい。逆に、十分に地上で「使用」し終ったからこそ、その王者の死後、地中に埋めた。ーーそのように解することこそ、自然ではあるまいか。
 とすれば、当該王朝(九州王朝)の中では、この「委」こそ正字、そのように解しつづけ、伝来し伝承しつづけたとしても、むしろそれが当然ではあるまいか。なぜなら、中国側の史書ーー「漢書」「後漢書」「三国志」等を見て、そちらに出ている「倭」の文字を“正し”と見なし、実際に自己の王朝に授与された印文中の「委」を“誤字” のごとく見なすこと、その方がむしろ、ありえざる事態なのではあるまいか。
 これに対し、大和の聖徳太子の場合、「委」字を用いる可能性は考えがたい。なぜなら、「古事記」「日本書紀」中には、志賀島の金印に関する記事がない。すなわち、近畿天皇家には、この金印に対する「歴史的伝承」が存在していないと見なす他ないからである。
 したがって、聖徳太子が中国の史書を見て書く場合、それらの本文はすべて「倭」であるから、当然この用字に従うはずであり、異例の「委」字などを用うべき可能性は考えられないからである。
 この巻頭二行文は、先述のように、“無造作に”書きしるされている。ではそのために、“うっかり”と、このような“異例”の字形をしるした、そのように考えうるであろうか。ーー考えがたい。
なぜなら、「上宮王」といった王者にとって、国名は重要である。“うっかり”書きまちがえる、といった性格のものではない。
 しかも、“無造作に”書きしるすときほど、平常の“書きぐせ”が露呈するものではなかろうか。
 その上、この執筆者は、「国」の字を“追記”している。すなわち、自分の書いた二行文に対して“見直し”て追記しているのである。もし「倭」が是、「委」が非であったならば、そのさい「イ( ニンベン)」を追記したのではなかろうか。すなわち、この「委」の字面は、執筆者自身によって “再検査”をうけているのである。
 以上の分析によって、この巻頭二行文は、やはり「大和の聖徳太子」ではなく、「筑紫の上宮王」による執筆であることが判明する。後者はおそらく、九州王朝の王者、多利思北孤、すなわち「上宮法皇」と同一人である可能性が高いであろう。
 右の帰結は、先の「倭(チクシ)から倭(ヤマト)への用字変動」(天智九〜十年)という物差しのしめした結果と一致する。両者併せて、本稿の到達した帰結の正当であったことを証言するものといえよう。

 

   七

  最後の局面についてのべよう。
新たに提起すべき問いは次のようである。
ーー「本文の作者(執筆者)は、自己の著作(書物)を何と呼んでいたか」と。

 これに対する回答は、容易かつ明確である。なぜなら、第一巻の巻末に、

 法華疏 第一

 とあり、これは本文と同筆跡(用紙も同一)であるから、作者自身が自己の著作を「法華疏」と呼んでいたことは確実である(右に対する「第二・第三・(第四)」等は存在しない。再装本作製のさいの「削除」のためであろう)。

 ところが、巻頭二行文は、これと異なり、「法華義疏」となっている。従来は、このちがいに対して特に留意されることがなかったけれども、今やこの二行文と本文とは、
(一)一方(本文)は、「中国産の苧麻」であり、他方(二行文)は「国産の可能性のある大麻」である。全く用紙を異にしている。
(二)両者の筆跡も全く異なっている。
(三)一方(本文)の上に、他方(二行文)は貼布されている。すなわち、本来、両者は別々の成立をもっている、と見なすべき史料状況なのである。
 その上、両者の「書名」は異なっている。一方(本文)は、「法華疏」、他方(二行文)は「法華義疏」である。

 右のような状況から見ると、この両者間の書名のちがいの、軽々に見すごすべからざることが知られよう。然り、両書名は名のしめす通り別書である、と。ーーこの帰結である。

 

   八

  隋の嘉祥大師、吉蔵の著述に、左の書がある。

法華義疏 十二巻(五八九以後)

 ここでは、 書名は、 文字通り、二行文どおりの「法華義疏」である。「筑紫の上宮王」たる多利思北孤が、隋の煬帝のもとへ使者や多くの僧侶を派遣したとき、隋朝はこの吉蔵をもって「国師」のごとく遇していたこと、先述のごとくであった。
とすれば、その「上宮王」の所蔵書の中に、この吉蔵の「法華義疏」の存したことは、むしろ当然というべきではあるまいか。
 では、二行文中の「非海彼本」の一句は、右の問題といかに関係するのであろうか。
 吉蔵は、まぎれもなき中国の僧侶であるから、その著作に対し、「非海彼本」という言は一見、回避しがたき矛盾と見えよう。
 しかし、問題は「本」の一語にある。
 「三国志」に関して、紹キ* 本・紹興本という称呼のあることは著名であるけれど、これらは刊本の呼び名である。南宋の紹キ* (年号)年間、および紹興(年号)年間に成立した刊本を指すのであるが、「紹キ* 書」とか「紹興書」とかいわず、「本」の字を用いる。

キ*は、[臣巳]に四黒 です。表示できません。

 同じく、親鸞の主著、「教行信証」の真筆本は坂東本と呼ばれている。坂東報恩寺の旧蔵であったことをしめす用法である。
 いずれも、草本・刊本の別を問わず、「本」の呼称が用いられている。これによってみれば、「海彼本」とは、「海彼書」とは異なっている。吉蔵の著書に対し、倭国側の人物(僧等)が書写した場合、文字通り、それは「海彼の本に非ず」なのである。
 この点、わたしたちは、現代日本語において、「本」を“書物”の意に使い馴れすぎていたため、この文字の別の用法に気づかずにきていたのではあるまいか。
 もとより、この二行文は、ただその「断片」が“切り取られ”て、貼布されているものにすぎないから、確定的な断案を下すことは不可能である。けれども、右のように見なすとき、はじめて“矛盾なき理解”を一貫してうることが可能となったのである。

 

   結び

  本稿の論証を要約しよう。

(一)従来「法華義疏」と呼ばれてきた著作の本文は、その内実において「聖徳太子の真作にして真筆」とは、到底見なしがたい。六世紀中葉、もしくは後半期の人物で、「南朝偏依」の立場をとった人の著作である。

(二)これに対し、巻頭二行文は「大委国上宮王」自身の自作・自筆の文面と見なされる。

(三)顕微鏡及び電子顕微鏡撮影の所見によれば、本文(中国産苧麻)と二行文(大麻、国内産か)と、両者全くの別の用紙である。後者は、その「断片」があとから貼布されたものにすぎない。

(四)現存御物本は四巻本であるけれど、本来三巻本であった可能性が高い。「法華疏第一」の表記のみあって、「第二」「第三」「第四」を欠く点、「法華疏下巻」の表記のみあって「上巻」「中巻」を欠く点、いずれも、原型本とはいちじるしく「変形」させられた再装本である。

(五)本文には本来、「奥書」の存在した可能性があるけれども、それは“除去”された、という疑いがある。この点を立証すべき痕跡が、現コロタイプ本の第四巻の冒頭に(二点の墨汚点として)存在しているけれども、残念ながら、その後(コロタイプ本作製ーー昭和四十六年ーーの直後か)、右の痕跡は削り去られたようである。表具師による“美化のための作業”による、と思われる。

(六)代って現存御物本の第一巻冒頭部に、注目すべき「長方形の削除部分」が発見された。顕微鏡所見によれば、鋭い刃物で長方形に切り取り、重ね合わせられた和紙の表面の一〜二枚分を「削除」したものである。その目的は、その部分に墨で書かれていた文字を“取り去る”ことにあったようである。第二巻と第三巻では、これとほぼ同じ部位に「法隆寺」という墨の文字が(貼布された紙の上に)記せられている。この点から見ると、第一巻のこの場所には、「法隆寺以前の旧蔵者」の名が書かれていた可能性が高い(この点は、赤外線による検査によって、今後検証すべき可能性がある。)。

(七)二行文の「大委国」は「ヤマト」ではなく、「チクシ」を指していると見られる(天智十年を境とする、以前〈倭=チクシ〉、以後〈倭=ヤマト〉という「倭」の指称変化を物差しとして)。

(八)右の二行文の筆跡は、隋の欧陽詢の書風を受けているから、七世紀前半以降の筆跡と見られる。

(九)「七世紀前半(以降)における、筑紫の上宮王」 に該当する人物としては、 「隋書」 [イ妥]国伝中の多利思北孤(=上宮法皇)がもっとも高い可能性をもつ。彼は九州王朝の王者であり、遣隋使を派遣した(推古朝の聖徳太子の場合は、初唐期の遣唐使)。
(十)二行文中の「大委国」の「委」字は、通例「倭」字である。中国の歴代の史書に拠る限り、本文はすべて「倭」であるから、「委」を書くべき必然性及び可能性はありえない。これに対し、九州王朝の場合、志賀島の金印中の「委」字を正字(国名の正規の表記)として継承していた、という可能性がある。それゆえ「筑紫の上宮王」という、先記の「新しき物差しによる判定」を支持し、裏書きしているのである。これに反し、「古事記」「日本書紀」には、志賀島の金印に対する認識が全く欠如しているから、「大和の聖徳太子」が「委」字を書く可能性はないであろう。なぜなら、そのさいは、歴代の中国の史書の本文に拠って「倭」と書くべきこと、必然の帰結だからである。

(十一)本文の作者(執筆者)は、自己の著述を 「法華疏」と呼んでいた。 ところが、 二行文の著者は 「法華義疏」と書いている。用紙も、筆跡も異なっている上、後者(二行文)は、ただ、その断片が「貼布」されているだけであるから、この二つの書名を「同一の書」と見なすべき必然性はすでに存在しない。その上、隋の嘉祥大師、吉蔵に、全く同名の書「法華義疏」のあることから見れば、この二行文は、その吉蔵の著作を“指して”用いられている、というこの帰結は、史料状況から見てもっとも自然な理解となろう。

(十二)さらに「非海彼本」とあって、「非海彼書」等とない点から見れば、これは “海の向うの著作ではない”の意ではなく、“海の向うの人の書写ではなく、日本列島の人による書写本である”の意ではあるまいか。吉蔵の名著を、倭国から渡った僧侶などが“書写した本”、すなわち「書写本」を意味する一句だったのではあるまいか。それを、多利思北孤が、自家の書架に収蔵したのである。

以上である。


最後に、本稿の論証の意味するところを大局から観察してみよう。

 第一に、 本疏に対し、 「聖徳太子の真作にして真筆であり、それが法隆寺に伝来されてきた」 という、従来の通説的理解は、遺憾ながら支持することは不可能である。

 第二に、現存御物本は「再装本」であるが、その背後には“改竄(かいざん)”という目的のあったこと、ほぼ疑いがたい史料状況を検出することとなった。それは、法隆寺内で、“旧蔵者名を消す”ために行われたもののようである。

 第三に、しかも、現存御物本は、実は異種の史料を 「合成」した、後世(八世紀)の故意にもとづく「改竄」であった可能性が高い。

 第四に、より重大な問題は次の点である。 本稿の論証がしめすように、従来の「近畿天皇家一元主義」のイデオロギーの立場からは、この第一史料を実証的に解明すること、それは不可能である、と。

 逆に、九州王朝の存在をふくむ多元史観の立場からはじめて、徹底して実証的な分析が可能となった、と。
 右のように、旧史観(一元史観)と新史観(多元史観)との当否を分かつもの、それが史料批判的方法と史料科学的方法と、二つの方法論が共にしめした帰結だったのである。

 本報告のため、真に学問的な寛容の精神をもってお力添えいただいた故坂本太郎氏と宮内庁の関係の方々に深く謝意を表したいと思う。


(26) 現地音が「チクシ」である。
(27)この金印を授与された王者の墓と考えられるけれども、一方「後時埋納」説も存在する。

追記
  昭和六十一年七月二十八日午后三時、わたしは坂本太郎氏のお宅を訪れた。そして当時到達していた、「法華義疏」に対するわたしの所見(本稿第一〜三章中のもの)をのべた。氏はすでに不治の痼疾をえておられたが、これに聴き入り、快く紹介の労をとってくださったのである。自己に反対の立論に対する学問的寛容の精神に対し、わたしは深刻な感動を覚えた。爾後七カ月にして、氏は没せられた。つつしんで本稿を御霊前に捧げさせていただきたい。
                               〈一九八七・十一・三十・稿了〉


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