出雲王朝と出雲銅鐸 古田武彦

出雲王朝と出雲銅鐸

出雲王朝について

 古田武彦氏は、1975年「盗まれた神話」という著書の中で、「大和朝廷」・「九州王朝」に先行する縄文の『出雲王朝』の存在を国譲り神話から提起し、国生み神話とその後の黒曜石の分布などの考古史料から証明を行いました。そのほかには鉄剣銘文の「臣」、部民性の史料批判等の論証を通じて『出雲王朝』の存在について、確固たるものにしました。
 今日『出雲王朝』という言葉は、古田武彦氏の先行説を隠す形で、世の中に流通を始めています。そのような見方からは、加茂岩倉遺跡出土品と荒神谷遺跡出土品を同一の時期であるとの解釈が行われています。
 そのような見解では、『九州王朝』と、先行する輝かしい存在である『出雲王朝』が、霧の中に閉じ込められています。その霧を払うために、最も古代の見方を試される出雲銅鐸について、古田武彦氏の見解を対置してみました。
 又、インターネットでは新しい概念である『出雲王朝』についての考え方と参考文献を提示致します。
 最後に、「国引き神話」をデータとして、掲載を考えましたが、異体字が余りに多く断念しました。これは、異体字そのものに意味があり、私達の常識と違った古代の世界の教養を示していると考えています。
(残念なことに「縄文都市」「縄文国家」という言葉も、古田武彦氏の先行説を隠して使われています。これについても私たちは問題にしています。)

追記
 以上話題になっている出雲銅鐸への対応です。いずれ英文を加え、縄文時代の評価を含み、国譲り神話を含めた出雲王朝に対する発表を行いたいと考えています。

掲載


一 古田武彦 関西講演会より

歴史ビッグバンの現代

古田史学の会代表 水野孝夫

 この記事は、去る六月二九日の講演会(講演三時間、レジュメ八ページ)の内容を要約紹介するものです。

1 出土が続く銅鐸と鋳型の解釈

 加茂岩倉遺跡出土の銅鐸を現地確認し、荒神谷遺跡出土品との比較、両者に共通する×印の存在などに関する見解はすでに会報などで述べた。改めて整理して述べると、両者はもちろん無関係ではないが、性格も時期も異なる。
 荒神谷は鐸、筑紫矛、出雲矛のセットをもち、加茂岩倉は、鐸のみである。出雲矛は一般に銅剣といわれているが、矛か剣かは木の柄の長さで分けるべきで、穂先と柄の凸と凹で分けるものではない。ここにこだわるのは出雲神話には、「八千矛の神」はあるが「八千剣の神」はないからで、神話との関連を考えるのは当然である。
 荒神谷はオオクニヌシの国譲りのあと独自の祭器をもつことを禁じられたのではなかろうか。ただし「武器型の祭器は許さぬ」との筑紫側要求を「全ての金属製祭器が許されぬ」と過大に解釈したフシは伺える。ここは「勝手な想像だ」と思われるかも知れないが、和田家文書「東日流六群誌大要」の「荒覇吐神一統史」に祭器が埋めた話がでてくる。(新古代学第二集P.93)。よく読むと「ウチモノを禁じられたのに、祭器ことごとく埋めた」と書いてある。荒神谷ー加茂岩倉を結ぶ話が和田家文書で解けてくる。この文書の内容はおそらく出雲大社の周辺から出たものではなかろうか。出雲大社古文書の存在を予想するが、きっと「この神社の由来は古い、天皇家よりも古い」と書いてありそうに思える。
 加茂岩倉への埋納は弥生後期初頭であろう。これは「神武の近畿侵入」と関係する。侵入までは近畿は銅鐸圏だった。記紀には、神武は苦心の末に侵入に成功し、現地で「神聖」とされていた人々を殺しつくしたむね書かれている。こんなことをウソ・イツワリで書くだろうか。神武架空説はおかしい。弥生後期になると金属器の出土はヤジリを除いてなくなる。小林行雄説では「統一権力が生じて、共同体の祭器は不要になり出土しない」と説かれ、考古学会では信じられているようだが、新権力者が金属器を必要としないとは信じられない。銅材料が入手できないので銅鐸をつぶしてヤジリを作るしかなかったのだろう。
 加茂岩倉で注目されるのは、兄弟銅鐸とされるものが奈良の上牧から出ていることである。大和での反銅鐸勢力に駆逐される直前の時期の姿を示している。兵庫県豊岡市の気比遺跡銅鐸との兄弟もやはり加茂岩倉から出ている。気比は山脇近くの穴に玉砂利を敷いた上に銅鐸が重ね合わされ、ご神体のような形で祭られていた。加茂岩倉もご神体のように大切にはしているが外的から隠して埋納しているという姿である。
 さて先日出土して会員有志と見学した奈良・田原本町の銅鐸鋳型は待ちかねていたものであった。実は出土地区を過去に調査したことがあった。『古代は沈黙せず』で報告したように、金属を加工した土地には「公害」が発生するわけで、出雲と共に昭和薬大の専門家と一緒に奈良も調査した。土地汚染については不明だったが今回出土の幼稚園敷地のそばから三本の水路があるのを知った。農業用としては三本は多いと思い、金属加工のためかと目星をつけていた。鋳型はミゾに捨てられていた。ここは工房跡ではないとされる。しかし工房は遠くはないだろう。鋳型の廃棄は「使い捨て」か「永久廃棄」かが問題だ。弥生後期には実物の出土がないから「永久廃棄」だろう。とにかく銅鐸世界は奈良には実在した。記紀にはない。言い過ぎを恐れずにいえば、天皇家にとっては銅鐸は「思い出して欲しくない」ものだった。もっと突っ込むなら「銅鐸信仰の勢力はどうなったか」という問題がある。神名としては残っている可能性がある。神社名鑑から神名を拾って、記紀にない神をマークすれば候補名簿が出来る。もっと大切な問題。「銅鐸信仰の人々はどうなったか」。素直に服属しなかった人々もあったと思われる。 この人々の行方と「非差別部落」の問題とは関連しあっているのではないか。

(以下は略)
・・・

制作者 補注(1997.12.1)
 尚、和田家文書(東日流外三郡誌)については、所有者和田喜八郎氏が偽作したとして、訴えられていた裁判は「和田喜八郎氏の偽作説は成り立たない。」という最高裁判所の審判が下りました。
 (朝日新聞 1997年10月14日参照「著書は盗作ではない。」ー最高裁、真偽論争に決着ー)


二 古田史学会報17号 1996年 12月28日より

出雲銅鐸に関するデスクリサーチ

神武ショックと銅鐸埋納

古田武彦氏の電話インタビュー(『多元』一六号より転載)

1 前回(一九八八、昭和五九)荒神谷出土の銅矛・小型銅鐸を一期(A型)、今回のを二期(B型)とする。両者の時期は異なる。
 一期は前回考察したように、「天孫降臨ショック」とすれば、二期は神武ショック(神武〜崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)であると考える。

2 銅鐸は楽器説と祭器説があり、その両者であろうといわれているが、単なる道具だけだったとは考えられない。神そのものか、百歩ゆずっても「依り代」であろう。

3 森浩一と佐原真の《壊された 対 壊れた》論争があり、その後はっきりした発掘例があって《壊された》ことで決着し終った(と、わたしには見えている)が、この論争は貴重で、「それではなぜ壊したのか」という点は結論が出ていない。その点を追求すべきである。

4 豊岡市気比の銅鐸のように下に玉石を敷き、丁寧に埋納した例があることからも、神そのものである可能性が高い。  奈良県上牧遺跡の例も気比遺跡のものも出雲の加茂岩倉のものと“兄弟銅鐸”といわれているが、どちらも弥生中期乃至後期初頭どまりで、それ以後大和からは出土していない。

5 同笵銅鐸の鋳型の産地の特定はこれからの問題だが、(今の論点にとっては)余り重要ではない。しかし但馬や大和(及び近畿周辺)から延々と出雲まで運んだというのも可能性は確かにあるが、より少ないケースだ。今後出雲から鋳型が出る可能性がより高い。加茂遺跡からも一期の小型銅鐸の拡大型が出ている。今回の銅鐸も技術的には同一線上にあると考えられる。

6 文献面からは、『出雲国風土記』(大原郡神原郷、岩波大系本二三六〜二三七頁)に「大神の御財(みたから)を積み置き給ひし処」の記述があり、今回の加茂町に当たる。
 なお、一期のA型は『東日流六郡誌大要』に荒神谷に埋めた記述があることは先に指摘した。

7 神武など紀の「大倭……」はみな「ちくし」であるという考察は以前発表したが、初期の近畿大和政権が九州の分派(過激派)として行動したことは想像できる。出雲は筑紫と近畿の両勢力に挟み撃ち状態になり、パニックに陥って銅鐸を隠したのが今回発掘されたものであろう。

8 出雲市から直径約四百メートルの大型環濠集落(弥生後期)が発見されている。この現象は筑紫・近畿両勢力の挟み撃ち状態に対抗するためであろう。

9 松本清張氏等がベトナムの例を挙げて主張した(祭祀不使用期間の)埋納貯蔵の説は、出土状況を見ると、それだけでは考えにくい少なくとも現在まで掘り出されていないことは確かで、三角縁神獣鏡などを奉ずる反銅鐸勢力(九州と近畿)が勝利し、銅鐸勢力のその後の消滅を物語ることは確かである。

<強調点>以上は今年十月二六日に得たアイデア(8のニュースは「産経新聞」朝刊十一月二日)であるが、あくまで新聞などのニュースをもとにしたものに過ぎない。従ってこの点の是非は、あくまで現地(出雲)に足を踏み入れた上でなければ確かなこと(私の見解)は出させない。秋田孝季の言のように「歴史は足にて知るべきもの」だからである。従って「デスク・リサーチ」としての一案であることを強調する。
                               古田武彦

  付論
今回の考察に対する「論理の筋道」を記しておきたい。

(一)加茂岩倉の発掘が報ぜられてより、十月二十五日まで、わたしは「迷霧」の中にあった。それは前回の荒神谷出土群と今回の出土群と、両者を「一連のもの」として理解していたからである。

(二)しかるに翌二十六日、前回と今回を別の時間 帯に属するもの、という仮説を導入したとき 、にわかに「迷霧」の外に出ることができたのである。

(三)なぜなら、もしA型(一期)の主体(埋納者α)とB型(二期)の主体(埋納者β)を同一集団である、としてみよう。「α=β」のケースだ。

 この場合、数々の矛盾が現れる。その一をあげれば、A型では数量的に莫大なものは、三五八本の「銅剣」(わたしはこれを出雲矛と呼ぶ)であり、筑紫矛と小銅鐸が共埋納されている。ところが、B型では、ほぼ同時期の中細型・広型〜平型銅剣が一切姿を見せていない。一方では「剣」を拒否し、一方では「剣」を主とする。両者全く基本姿勢を異にしている。「α=β」の立場は理解不能の矛盾に陥るほかはないのである。

(四)ところが、「α≠β」とすれば、問題は一変する。同じ出雲西部でも、「一期」と「二期」とでは様相を異にする。これは、他の例でいえば、同じ東京湾の西岸部でも、江戸時代と明治以降ではシンボル物は一変する。前者は「葵の御紋や武士の刀」などであり、後者は「菊と三種の神器」などである。これに比すれば、出雲西部の場合、「銅鐸」という「神のシンボル」を共有するだけ、連続性はより強いと言えるかもしれぬ。
 以上が骨子だ。詳細は、「新聞の活字やテレビ」ではなく、“足”で知ったあとにする、これが鉄則、秋田孝季翁の教訓である。
                   一九九六年 十二月十二日 古田武彦


<編集部>本稿は多元的古代研究会・関東の機関誌『多元』十六号より転載、ならびに古田武彦氏より「付論」、「出雲紀行」(7頁)を新たにいただきました


 古田史学会報17号 1996年 12月28日より

出雲紀行

-- 使うための「×」と使わないための「×」。

古田武彦

 十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。あの荒神谷の出土のさい、お世話になった有藤進さん、また、黒曜石のデータで御教示いただいた宍道正年さんなど。有藤さんと共に現在の斐川町の文化課課長の富岡俊夫さんに御同道いただいて加茂岩倉(加茂町)の現地に着いたのである。
かなり坂道を上ったあと、平地にたどり着く。工事用のトラックが置かれた、その平地から、さらに十数メートル上に、問題の現場がある。加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

 降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

 「 この前のと今回のとは、埋納の時期がちがうと思います。

 第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五〜六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

 第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

 第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と重ね入れになっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

 第四、昨日報道された「×」印も、その状態が全くちがいます。

  1.  荒神谷では、九十パーセント以上、“×”がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
  2.   荒神谷では、六個の銅鐸には全く“×”がないのに、今回は銅鐸につけられています。
  3.  一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の“柄”のところに“×”がつけられています。ここには“木の柄”がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。


 ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
 ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。


 『×』の入れられた時点は、おそらく、荒神谷の場合、製造直後、まだ冷え切らないときではないか、と思います。鉄ならもちろんですが、固い竹などの切っ先でも、あるいは入れることができたかもしれません。ところが、今回のはもう銅鐸面が冷えて固くなったあとですから、鉄の刃物を使ったのではないでしょうか。

 ここで一つ提案があります。それは「×の筆跡の科学検査」です。外形は外から観察できますが、銅器の場合、問題はその『深さ』です。その『深さ』の変化の追跡から『筆跡』が分かるわけです。
 これには、いい方法があります。レーザー光線らよる反射光の測定です(平坦度測定器)。これによって荒神谷の大量『銅剣』の三百二十数個の『×』を測定し、表やグラフにする。一方、今回の『×』に対し、同じ方法で測定し、それが荒神谷の方のグラフの中の、あるいは外の、どの位置にあるか、判定するわけです。
 これは是非やってほしい。わたしも、その装置の専門家と打ち合せ、彼も喜んで協力する、と言ってくれています。もちろん、わたしの手柄にしたいというのではありませんから、他の方々と協力していきたいと思いますので、皆さんジャーナリストの方々も御支援下さい。
 要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。 」

 以上であった。

 右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。荒神谷には見事な展示館ができていた。忘れがたい。

 翌日、出雲市の環濠集落を見た。文化財係主事の三原一将さんや皆さんのおかけだった。下古志町の正蓮寺周辺遺跡だ。幅四・八メートルの二重環濠が直径約四百メートルにわたるという。ただ、道路開発の線内に限られ、全体像のごく一部、いわば断片にとどまっている。しかし加茂岩倉の埋納時期の出雲をつつんでいた軍事的緊張をしめすものとして、きわめて重要な発掘だ。おそらくこの環濠群の中心部には「宮殿」もしくは「神殿」があったのではなかろうか。この点、注目したい。

 このあと、斐川町出西公民館長の池田敏雄さんのお自宅に案内された。出雲の中の出雲その現郷だった。お聞きし、お見せいただいたお話や遺跡、言葉に尽くせぬほどすばらしかった。荒神谷と加茂岩倉の間にそそり立つ大国(大黒)山。大国主命と少名彦名命の「国見の山」だ。改めて記そう。水野孝夫さんと太田斉二郎さん(運転)に導かれ、夜霧を越えて帰洛した。


4 解説

出雲王朝について

吉野ケ里の秘密

−解明された「倭人伝」の世界− 古田武彦 光文社

P175  第5章 縄文文明を証明する「国引き神話」抜粋です

トップへ戻る

第5章 縄文文明を証明する「国引き神話」

「国ゆずり神話」のしめす「出雲中心」時代

 オクタープが高まったところで、局面をすすめよう。
 「筑紫中心」の時代が実在した、とすれば、その前に「出雲中心」の時代が実在せねぱならぬ。わたしはそう考えた。
 なぜなら、有名な「国ゆずり神話」。天照大神が、出雲の大国主命にせまって、「国ゆずらせ」に成功した話だ。そして孫のニニギを「筑紫」に派遣したのである。(天照大神の原産地は、壱岐・対馬。古田『盗まれた神話』参照)
 だから、「筑紫中心」の「国生み神話」が真実なら、つまり、歴史の背景をもつなら、「国ゆずり神話」のしめすところ、「筑紫中心」時代の前に、「出雲中心」時代の実在したことも真実。わたしはそう考えざるをえなかった。

  「だって、筑紫とちがって、出雲には、たいした出土物がない」

 この嘲笑の声を、三百五十八本の「銅剣」(「出雲矛」)の出土が粉砕したのだ。この大出土の研究史上の意義を、このような形で〃とらえまい〃とするのが、大多数の研究者の「暗黙の了解」となっているかに見える。たが、それはしょせん、無駄だ。

出雲風土記土「国引き神話」の謎

 やっと、本題にめぐりあうことができる。
 わたしが新たに対面したのは、出雲風土記の「国引き神話」だ。
 八束水臣津野命(やつか みず おみ つ の みこと)が、小さな出雲を大きくしようと、次の四カ所から国を引っぱった。

  1 志羅紀の三埼(しらぎ の みさき)
  2 北門の佐伎の国(きたど の さき の くに)
  3 北門の良波の国(きたど の よなみ の くに)
  4 高志の都々の三埼(こし の つつ の みさき)

 この中で、1 と4 とは、異論がない。
 1 は新羅。今の慶州あたり。朝鮮半島の東岸部、南半。要するに、韓国の日本海岸だ。
 4 は越前・越中・越後の「越(こし)」。能登半島あたりだ、といわれる。

 異論があるのが、2 と3 。たとえば、岩波書店の日本古典文学大系本の注。
 2 は鷺浦(さぎうら)。
 出雲大社の真北、日本海岸にある。ここだという。
 3 は野波。
 松江の真北、これも日本海岸。この野波を、「よなみ」と、〃まちがえた〃と。
 あやしい。ことに、3 の〃まちがえ〃説など。邪馬壱国は、邪馬台国の〃まちがい〃という、あの手だ。
 それに第一、これらはいずれも、レッキたる出雲。そこから、国を引っばっても、出雲が大きくなるはずはない。まるで、タコの足喰い。
 これに代わる説として、出雲の隠岐島説が出た。島前(どうぜん。三つ児の島)と島後(どうご。西郷町のある方)と、二つある。これだ、というのだ。
『市民の古代』(大阪市民の古代研究会発行、一九八一、第三集、新泉社刊『合本市民の古代』第一巻所収)で、清水裕行さんの発表した説。
 あとで、出雲の速水保孝氏、出雲研究で名のある門脇禎二氏もつづいたが、これも、わたしの目からは、不満。なぜなら、この隠伎島は、黒曜石の産地(島後)として、古代出雲繁栄のもと。古代出雲の心臓部だ。(八世紀に、行政区画として、隠岐国と出雲国が分けられたにすぎぬ)
 だから、ここから、「国」を引っばったのでは、「タコの足喰い」ならぬ、「タコの心臓喰い」。
タコは、死んでしまう。神話も死んでしまう。

 

「北門」はウラジオストックだ

 では、どこか。わたしは考えた。考えるだけが、わたしの得手。

 問題を整理してみた。異論のない、1 と4 をもとにして。

 第一、出雲以外。(ここは、数学の「以上」「以下」とちがい、出雲をふくまない「以外」)
 新羅も、越も、出雲ではない。

 第二、現代の日本国家の中でも、外でもいい。
 越は中。新羅は外。

 第三、出雲から見て、北。「北門」だから。

 第四、大きな、出ロ・入ロ。「北門」だから。
 四回のうち、「北門」が二回。新羅や越より、大きい国だ。
 以上の条件に合うところ、どこ。
 いっぱつで、決まり。ウラジオストック。
 ここしかない。地図をあけてみたら、何と、出雲大社の真北に当たっている。ここまで、律儀でなくてもいいのに。
 日本海の北側では、ここしかない、といいたいほどの、大きな港。もちろん、ナホトカもふく、いわば、大ウラジオ湾。

 では、分けてみよう。

 2 は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の東岸部。ここには、ムスタン岬という、巨大な岬が突出している。
 これだ。大ウラジオ湾の一翼、そう見なしているのだ。

 3 は、これこそ、ウラジオストックを頂点とする、沿海州。「よなみ」とは、〃良港〃の意であろう。「よ」は〃良〃。「な」は〃那〃。「那の津」などの「那」だ。港湾部をあらわすことば。「み」は〃海〃か、〃神〃か。先に出た「野波」と、同類語だ。

 さて、全体を見よう。
 出雲を原点として、左(西)に新羅。上(北)へ行って、北朝鮮の東岸部。さらに上右(北・東)ヘまわって、沿海州。そして右(東)へさがって、能登半島。
 つまり、これは、世界だ。古代出雲をめぐる、世界の各地から、「国」を引っぱってきて、大出雲は生まれた。
 これは、そういう壮大な神話なのだ。

 

「国引き神話」は縄文時代に成立した

 もっと、こわいことがあった。
 わたしは、この神話を「縄文時代の成立」、そう考えた。いや、考えざるをえなかった。なぜか。
 思い出してほしい。あの記・紀神話の中の「国生み神話」は、「矛」と「戈」を〃道具立て〃としていた。弥生の銅矛、銅戈だ。だから、「弥生時代の成立」、そう考えた。
 では、今度は。
 金属器が登場しない。〃道具〃は、つなと杭(くい)だ。どちらも、金属器じゃない。「乙女の胸[金且](むなすき)」という形容句みたいのが出てくる。「[金且](すき)」というのは、その文字で見れぱ、金属器。「金へん」だから。だが、この〃文字当て〃は、八世紀。出雲風土記の書かれたとき。

(付記 金且(すき)は異体字です。雰囲気を損ないますが、[金且]で表示しました。)

 これに対して、大切なのは、実体。「すき」というのは、木製もある。むしろ、木製が元祖。縄文時代から、ありうるもの。
 つまり、どれをとっても、「金属器でなければならない」ものは、ないのだ。あの「国生み神話」と、えらいちがい。
 さて、考えてみよう。
 弥生時代に、中国大陸・朝鮮半島から、金属器が入ってきた。えらいカルチャー・ショックだ。いや、カルチャーどころしやない。政治ショック、軍事ショック、宗教ショックだった。
 剣や矛や戈は、本来、武器。宗教的儀礼にも使われた。鏡は、本来は日用品だが、わが国では、太陽信仰(天照大神)の〃小道其〃、太陽を〃うつすもの〃として使われた。いずれも、権力者のシンボルとなった。
 だから、「国生み神話」には、このショックをもたらした、矛や戈が主役を演じたのた。
 とすれば、こういう金属器がいっさい登場しない「国引き神話」これは、「弥生以前」、つまり、縄文時代に成立した。そう考えざるをえない。
 そこで、「国引き神話」は、縄文時代の成立という、途方もないテーマが成立したのだ。
 こわかった。だが、論理を避けることはできない。誰にも、それはできない。できたように見えるのは、当人が自分の両手で、自分の目を、ただおおっているだけだ。わたしはすでに少年時代の終わり、次の言葉に接した。広島の旧制高校、一年生。十六歳のことだ。

「論理の導くところへ行こうではないか。たとえ、それがいずこに到ろうとも」

岡田甫先生が、ソクラテスの言葉(趣旨)として、紹介してくださったもの。以来、わたしの根本指針となった。

 

出雲の漁民が作った「国引き神話」

 作ったのは、誰か。これは、簡単だった。出雲の漁民だ。この神話全体が、漁民の生活の中から生まれている。労働の歌だ。
 彼等の、一番の道具。生活の基本をささえる道具。それは、舟だ。一日、舟を使う。夕方になって、舟をおさめる。つなで引く。杭にしばりつける。そうしないと、夜のうちに、波で舟が流されるおそれがあるからだ。
 瀬戸内海のような、内海なら、いざ知らず、日本海のような外洋に面し、対馬大海流を眼前にした、この出雲では、不可欠の用意だったのであろう。
 わたしの祖先は、土佐。高知県だ。まさに太平洋という、外洋に面した海洋民だった。だが、わたし自身は、広島県。呉市や広島市といった、瀬戸内海の港湾都市で育った。海は、やさしかった。
 はじめて、日本海を見たとき。沖合に流れる、黒い流れに目を奪われた。いや、心を奪われた。
 この黒い海流を前に、それを思った。日本海南部沿岸人の生活は展開された。古も今も、喜びも悲しみも。
 この「国引き神話」は、その海の民の産物なのであった。古代の出雲の漁民たちにとって、日本海の西半分、それが「世界」なのであった。
 以上の考えを、わたしは話した。昭和六十年、島根県仁多郡横田町の講演会、そして翌日、斐川町主催のシンポジウムで、それを話した。(古田『古代の霧の中から−出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店刊、所収)
 これに早速、噛みついてきたのが、出雲研究の老舗風の門脇禎二氏。
 「新説で面白いが、結論への論証過程に疑問が残る」(『検証・出雲の古代』学習研究社刊)
 言葉は、学者風だが、〃片腹いたい〃と一蹴した感じ。さらに「古田はこっびどく批判された」などと書く人物まで登場する騒ぎとなった。(藤岡大拙氏。山陰中央新聞昭和六三年一月十一日)
 そんな騒ぎは、御愛嬌。問題は、真実。とるに足るのは、真実だけだ。わたしのほうは、門脇氏の懸念は、先刻承知。いままでの常識、学的常識といってもいい、その常識では、「縄文に遠洋航海なし」が、不動の信念だった。
 だから、わたしが倭人伝中の「裸国・黒歯国」をめぐって、アメリカ大陸との大交流を説いたさい(『「邪馬台国」はなかった』)も、これを多くの学者は、一笑に付し、嘲罵をわたしにそそいだのだ(たとえば、藤間生大氏)。これと同じだ。

 

出雲とウラジオストックの交流の証拠

 わたしは、ソ連に向かった。ウラジオストックヘ。昭和六十二年の夏。門脇氏や藤岡氏等が〃語り〃はじめる前だった。  わたしの目ざすところは、黒曜石。出雲の隠岐島産の黒曜石を、ウラジオストック近辺に求めることだった。もちろん、縄文時代の遺跡の中から。
 岩埼義氏や藤本和貴夫氏の御好意で、訪ソの学者グループに入れてもらった。他の方は、政治学・経済学の方が多く、古代史はわたし一人だった。わたしの旅行の目的は、こうだった。

 「もし、わたしの分析が正しけれぱ、縄文時代に、出雲とウラジオストックとの間に交流がなけれぱならぬ。新羅や越との古代交流に関しては、異論がない。とすれぱ、四回のうちの二回の『北門』つまり、ウラジオストックは、それと同じく、あるいは、それ以上に、出雲と交流していたこととなろう。とすれば、その痕跡、証拠となるものは、何か。土器など。しかし、一番いいのは、黒曜石だ。腐らず、顕微鏡による屈折率の検査で、産地が分かるから」と。

 そこで、黒曜石を求めて、ウラジオストックへと向かった。この旅行のことを書き出すと、きりがない。毎日、毎日が逆転劇だった。しかし、いま必要なのは、最後。失敗だった。
 他には、いろいろ、貴重な収穫があった。前に書いた、ハバロフスクで見つけた「女性骨偶」も、その一つ。
 しかし、最後の日、念願のウラジオストックに入れて(これが大変だったのだ)、市長や各研究所で大歓迎をうけて、そして最後の瞬間に、黒曜石はスルリと、わたしの手から脱け落ちた。「いまは、歴史博物館は、改築中だから、見せられない」といって、なんと、「日露戦争以後の展示室」へ連れて行かれたのだ。一緒に行ってくださった、二人のソ連の学者は、わたしの目的を百も承知。だから、何回も、交渉してくださったのだが、答えは、くりかえし「否(ニエット)」。
 建物を見にきたのではない、黒曜石を見にきたのだ、という言い分は、「上司の許可がない」の一言に勝てなかった。
 あと、三人で海岸に出て、タ方の海を見つめた。一人の方がつぶやいた言葉が忘れられない。
「モスクワは、遠いです」
 連日の〃逆転劇〃の中で、わたしは了解していた。「モスクワ」とは、ペレストロイカ。〃お役所流儀をやめよ〃という通達を指していた。それは、なお、いまだしー、だったのだ。
 しかし、この旅行は、収穫があった。たとえぱ、海。このとき、行きも、帰りも、すぱらしい天侯に恵まれた。日本海はいつも上機嫌だった。
 わたしは、甲板にいた。船室にいても、くりかえし、海を見つめていた。飛びこんでも、泳げそうたった。もちろん、それではつづかないけれど、舟なら−−。縄文の舟だ。舟なら、やすやすと、対岸、つまり沿海州へ行ける。わたしは、それを確信した。
 荒れた日の日本海。これはすさましい。瀬戸内海人間には、思いもつかぬ荒れよう、狂いようだ。「海の神の怒り」そういう言葉や観念は、誇張ではない。実感だ。
 だが、このときわたしの径験したような、絶好の日和。それも、あるのだ。わたしたち、現代の都会人間とは異なり、古代、縄文の漁民は、その日和の来る、季節と風向き、それをよく知っていたのではあるまいか。老人たちは熟知していたことであろう。

 

「常識」を覆えした黒曜石

 わたしが空しく日本に帰ってから、わずかに八カ月。向こうから、キューピッドの使者がきた。
 ソ連の科学アカデミー・シベリア研究所のR・S・ワシリェフスキー氏だ。
 それが、冒頭に書いた、早稲田大学の考古学実習室での講演だった。その結び、それは黒曜石だった。ウラジオストック周辺の三十数カ所の遺跡から出土した、七十数個の黒曜石、それをもって来日された。そして立教大学の原子力研究所の鈴木正男教授に、顕微鏡による屈折率検査を依頼した。

 その結果、約五割が出雲の隠岐島(おきのしま)の黒躍石、約四割が秋田県の男鹿(おが)半島の黒曜石、約一割が不明(中国と北朝鮮との国境の白頭山のものか)。この結果をしめした。これがワシリェフスキー氏の講演のしめくくりだった。

 しかも、氏が持参された黒曜石の遺物(鉄)の出上遺跡は、放射能測定によると、前二○○○年から前一五○○年のものを中心にしている、という。日本でいう、縄文後期前半頃だ。放射能測定できぬ遺跡の場合も、新石器時代(日本でいう縄文時代)のものには、まちがいない、という。
 なお、ウラジオストック周辺というのは、一○○キロくらいはなれた地点をもふくむ、というから、かなり広範囲だ。(ただ、さらに広大なシベリア全体から見れぱ、もちろん、一部だ)

古代東アジア 足摺岬
 この図はDISCOVERY OF THE NEW CONTIENT IN THE PRE-COLUMBUS PERIODの図表と同じです


 以上の情報に接し、わたしに〃酔っばらった〃ような、昂ぶりが体内からつきあげてきたこと、御理解いただけよう。やはり、論理は、わたしをあざむかなかったのだ。
この「発見」は、日本の学界に対して、画期的な意義をもつ。

 第一に、「縄文は、沿岸漁業に限る。彼等に遠出は不可能」そのように主張してきた、考古学の旧常識、それは打ち破られた。

 第二に、「現在に伝わっている伝承は、せいぜい室町以降。ほとんど江戸時代以降である」といった、「伝承」に関する民俗学の常識は打ち破られた。

 第三に、日本列島の歴史を「大和中心」でまとめることは不可能だ。まして「天皇家中心」など、とても、とても。あるいは「出雲中心」あるいは「東北、中心」の歴史観、すなわち、わたしのいう多元史観が、やはり不可欠だった。

 第四に、何といっても、「シュリーマンの原則」は、ここでも貫徹していた。神話・伝承の記録と考古学的出土物との一致、この肝心の一事がここでも、立証された。

 まして、ずっとあとの弥生時代、その同時代史料たる倭人伝と、日本列島の出土物分布と、この二つが一致せぬはずはない。

 そして第五。どんなに、従来の常識から見て、突拍子がなかろうとも、論理に従いきる。それが学問の生き死にする、要(かなめ)の場所である、ということ。


5 参考文献

参考文献一覧

トップへ戻る

上の資料に加えて下記の報告などを参照して頂ければ幸いです。

盗まれた神話
−記・紀の秘密−
朝日文庫  朝日新聞社
P395 第14章 最古王朝の政治地図
古代は輝いていた1
−『風土記』にいた卑弥呼−
朝日文庫  朝日新聞社
  第4章「アマテル大神」の原型性 出雲から筑紫へ
P110 第6章 日本列島各地の神話 出雲の統一神
古代は輝いていた3
−法隆寺の中の九州王朝−
朝日文庫  朝日新聞社
P144 第2章 出現した出雲の金石文
P304 第3章 『万葉集』の謎 出雲人の作歌
古代史を疑う
駸々堂
P093 〈その4〉 疑考・大国主命−「大国古事記」論
P173 〈その7〉疑考・「古代出雲」論−門脇禎二説をめぐって
P209 〈その8〉疑考・「古代出雲」不信論−未来像への試行
古代の霧の中から
−出雲王朝から九州王朝へ−
徳間書店
 
銅剣358本銅鐸6個銅矛16本の謎に迫る
−古代出雲のロマンを求めて
島根県簸川郡斐川町
三種の宝器 国譲り神話に高い関連
古代出雲−神話の層位学
よみがえる卑弥呼
−日本国はいつ始まったか−
  駸々堂
P007 第1編 国造制の史料批判
        −出雲風土記における「国造と朝廷」
P061 第2編 部民制の史料批判−出雲風土記を中心として
P111 第3編 続・部民制の史料批判−「部」の始源と発展
倭人伝を徹底して読む
朝日カルチャーブックス
  大阪書籍
P076  5 出雲と播磨の倭 
P257  3 出雲からの出土物
まぼろしの祝詞誕生−古代史の実像を追う−
  新泉社
P301 出雲と多元史観−鉄剣銘文の「臣」をめぐって
古代は沈黙せず
  駸々堂
P007  第1編 出雲風土記の中の古代公害病
     −その自然科学的研究
吉野ケ里の秘密
−解明された「倭人伝」の世界−
  光文社
P175 第5章 縄文文明を証明する「国引き神話」
天皇学事始め
  新泉社
P038  5書き変えられた『出雲風土記』
古代史をゆるがす
−真実への7つの鍵−
  原書房
P130 2「新式の祝詞」の時代

 これは主に講演の公開です。 新古代学の扉インターネット事務局 E-mailは、ここから


ホームページへ


Created & Maintaince by "Yukio Yokota"