一、はじめに

神武が来た道 1

伊東義彰

一、はじめに

 樹木の生い茂った広大な神苑の中に鎮座している橿原神宮は、普段は訪れる人とて少なく閑静なたたずまいの中に静まり返っていますが、正月には初詣の人波が押し寄せ、森厳な神苑も華やかに着飾った若い男女や家族連れで埋め尽くされ、拝殿前の玉砂利の広場などは立錐の余地もないほど混雑します。
 奈良盆地には、縄文時代や弥生時代・古墳時代など大昔に起源を持つ有名な神社があちこちに点在しているので、地元の人たちもさることながら他府県からも初詣に押し掛ける人が多く、正月三賀日は東西南北どの道路も車で混雑し、長時間の渋滞で身動きできなくなります。奈良盆地の年中行事の一つです。
 橿原神宮には、言うまでもなく人皇初代とされている神武天皇が主神として祀られています。だから橿原神宮にお詣りするということは、神武天皇を参拝することにほかならないわけです。初詣に押し寄せる大勢の人たちは、好むと好まざるにかかわらず主神である神武天皇をお詣りして、新年の幸運をお祈りしているのです。
 橿原神宮は大和三山の一つ、畝傍山の南麓にあります。実はその北側にも神武天皇ゆかりのものがあるのですが、知ってか知らずか初詣の人波はそこへは流れていきません。そこには神武天皇陵があるというのに。日本書紀に言う「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)」、すなわち神武天皇が葬られたとされているところです。橿原神宮に主神として祀られている神武天皇の墓所は、初詣で賑わう神宮と同じ神苑の中にありながら、訪れる人も少なく、別世界のような森厳さを漂わせています。
 現在の神武天皇陵は、江戸時代末期の文久三年(一八六三)に、「畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)」に治定(ちてい)されたもので、明治三八年(一八九八)、現地にあった二ヶ所の小丘を繋ぎ合わせて八角形の墳丘(径三三メートル、高さ六メートル)に造成したものです。この造成された埋葬施設もない墳丘に神武天皇が葬られているかどうかは、治定や造成の経緯(いきさつ)からして議論するだけ無駄でしょう。このような事情のわかっている人は、橿原神宮に初詣をしても神武天皇陵には参拝する気になれないのかも知れません。
 初詣をして神武天皇に新年の幸運をお祈りしたにもかかわらず、同じ神武天皇が葬られたとされている陵墓(りょうぼ)に人波が向かわない大きな理由は、陵墓治定や墳丘造成の経緯もさることながら、神武天皇その人が、作り出された架空の人物とされていることにあると思われます。作り出された架空の人物なら葬られたとされる墓も架空ですから、治定や造成の経緯を持ち出すまでもなく、誰が敬虔な気持ちで参拝するでしょうか。
 現在の歴史学では神武天皇は作り出された架空の人物とされていますから、小・中学校の社会科や高校の日本史の教科書には神武天皇の名前や説話は、一部のもの(『新しい歴史教科書』扶桑社)を除いてほとんど出てきません。作り出された架空の人物であり、その説話も過去の歴史事実を反映したものではないとされ、歴史上の存在を完全に否定されているのですから授業に使う歴史の教科書に出てくるはずもないのです。学校の教科書にも出てこないし、授業でも教わらないとすれば知識として吸収する機会がほとんどないわけすから、その名前や説話を知っている人もどんどん少なくなっているに違いありません。初詣の人波が神武天皇陵へ向かわないのも当然のことでしょう。初詣は日本人独特の宗教観と生活習慣に基づく年中行事の一つとして認識している人が多いのではないでしょうか。その神社にどのような神が祀られ、どのような伝承が語り継がれ、それが自分や家族、あるいは先祖とどのように関わっているか、などの宗教観に基づいて新年のお詣りをする人は少なくなっているのではないでしょうか。
 第一代天皇とされ、現天皇家の祖先とされている神武天皇については、いわゆる「神武東征」説話が古事記・日本書紀にかなり詳しく語られています。現在ではこの「神武東征」説話が全て作り話とされ、従って過去の歴史事実を何一つ反映したものではないとされており、それを証明するための研究が盛んに行われて、それ相応の成果を収めているやに見えます。すなわち、「神武架空説」は現在の常識であり、定説となっています。
 作り話だという前提で古事記・日本書紀の語る「神武東征」説話を一読すると、誰もが感じるのではないかと思いますが、何故?と首を傾(かし)げたくなる二つの不思議に出会います。しかも定説では二つの不思議に対する明確な答えが示されていないように思われるのです。
 一つは、何故、こんな話をわざわざ造作するのか、造作しなければならないのか、というような話がいくつも出てくるのです。神武を初代天皇として相応しい尊貴な徳の高い人物として造作すればよいものを、何故か、騙し討ちや残虐な殺戮場面を何度も描いて、むしろ残忍非道な人物に仕立て上げているようにさえ思えるのです。神武の後を嗣いだとされる綏靖天皇は、異母兄を殺して二代目に収まっていますが、何故、こんな話をわざわざ造作する必要があるのか理解に苦しみます。古事記にいたっては、神武天皇の死後、その子(多藝至美美命 たぎしみみのみこと)が神武の正妃だった継母(伊須気余理比売 いすけよりひめ)を自分の妃にした話まで載せています。綏靖(すいぜい)は、この異母兄であり、母(伊須気余理比売)の夫(義理の父)である多藝至美美命を殺して二代目の天皇になったとしているのです。こんな話までどうしてわざわざ造作したのだろうと不思議でなりません。
 二つは、「神武東征」説話には古事記・日本書紀が編纂された奈良時代にはなかった地形や、その地形にまつわる地名が出てくるのです。奈良県と大阪府の境をなす生駒山の西麓(大阪府側)のクサカ・タテツなど現在でも残っている地名です。これらは瀬戸内海を東へ航行してきた神武が、船を停泊して上陸し、長髄彦と戦い、敗退したところにまつわる地名として出てきます。地名の残存率はかなり高いとされていますから現在まで残っていても何の不思議もありませんが、問題は、神武が停泊・上陸した地点が、奈良県と大阪府の境にそそり立つ生駒山の西麓だとされていることであり、クサカ・タテツなどもこのあたりの地名だということです。つまり神武は生駒山の西麓まで船で行き、クサカ・タテツの地名の残るところに停泊・上陸して長髄彦と戦い、再び船で大阪湾に逃れたことになります。生駒山西麓の地域から大阪市の上町台地にかけて広がる平地を河内平野と言いますが、神武は大阪湾から生駒山の麓までこの河内平野を船で往復したことになるのです。現在の地形からそんなことが想像できるでしょうか。同じことは奈良時代にも言えることであって、古事記・日本書紀が編纂されていたころも河内平野は既に陸地であって、大阪湾から生駒山の麓まで船で行けるはずもなかったのです。船で航行することなどおよそ不可能な河内平野を大阪湾から生駒山麓まで船で往復したなどというような話をわざわざ造作する必要がどこにあるのでしょうか。
 以上、二つの不思議が、「神武東征」説話が造作されたとする歴史学の常識・定説に納得できない理由です。
 河内平野は、縄文時代には河内湾と呼ぶに相応しい海域で、大阪湾に大きく口を開いていたことや、弥生時代には大阪の上町台地が北に伸びて大阪湾との口が狭くなり、周囲の河川が運んでくる土砂の堆積で面積が縮小しつつあったもののかなり広い汽水湖、河内湖と呼ぶに相応しい水域であったことが現在ではわかっています。上町台地がさらに北に伸びて対岸とくっつき、大阪湾との通路が閉ざされたのは古墳時代に入ってからで、その後も土砂の堆積が進み、いつしか低湿地の多い河内平野が形成されていったのです。古事記・日本書紀が編纂された奈良時代には、河内湾や河内湖の名残はすっかり姿を消し、船で往来するなどおよびもつかない地形になっていたのですから、「神武東征」説話、特に生駒山西麓の停泊や上陸・戦闘の話など造作できるはずもなかったと考えざるを得ません。上町台地を舞台に造作した方が怪しまれずに済むだろうに、何故、わざわざ生駒山麓にしたのか理解のしようがないではありませんか。
 それどころか「神武東征」説話に出てくる河内湖は弥生時代の地形によく似ているのです。大阪湾と河内湖を結ぶ水路を「浪速渡(なみはやのわたし)を経て」(古事記)、「難波碕(なにはのみさき上町台地の先端)に到るときに、奔(はや)き潮有りて」(日本書紀)と表現しているところなど、潮の干満時に狭い水路を速い潮流が往き来する様子を現しているように思えるし、生駒山の麓まで水域が広がっていなければクサカやタテツに船を着けることはできません。このようなことから「神武東征」説話は、遠い弥生時代の昔から伝わる古い伝承にかなり忠実に従ったものではないか、と考えられるのです。こうしていつの間にか、歴史学の常識であり定説である「神武東征」説話造作説に疑いを抱くようになりました。


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