インターネット事務局注記2005.09.01 1、考古学関係や系図などの図表はありません。(電子書籍にはあります。)
                   2、表せない漢字は合成表示をおこなっています。(電子書籍は正確に表示。)

三、熊野から吉野へ
 紀伊山地横断 吉野川の河尻 大字井光(いかり)、井光神社、井光川 吉野山の「井光(いひかり)神社」と「井光の井戸」

神武が来た道 3

伊東義彰

三、熊野から吉野へ

1,紀伊山地横断(紀伊半島縦断)
 熊野から奈良盆地を目指すには、言うまでもなく嶮しい山々が連なる紀伊山地を横断しなければなりません。現在では、熊野川・十津川・北山川・吉野川などに沿って国道や県道が走り、車なら熊野を朝早く発てば夕刻には五條市や吉野に着くことができます。五條市までは十津川ルートで約一三五キロメートル、吉野町までは吉野川ルートで約一七五キロメートルほどの行程です。しかし、車で走ってもその道のりは嶮しく、うんざりするぐらい急なカーブと登り降りが連続し、道路脇や眼前に迫る断崖絶壁に肝を冷やさなければなりません。深い渓谷と緑に覆われた山々が織りなす景観を愛(め)でながらドライブを楽しむ余裕などほとんどありません。車で走りながらも、この嶮しい紀伊山地を弥生時代に徒歩で横断できたのだろうかという思いに、ついとらわれてしまいます。ましてや神武とその一行は、おそらく一〇〇人を超す集団と思われますから、食料や水などの補給ができたのだろうか、あるいは重たい武器や荷物を携帯してこの嶮しい山道を行軍できたのだろうか、道に迷わなかったのだろうか、などと考え込まされてしまうほどの難路なのです。 
 この難問を解いてくれたのが奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の常設展示室に展示されている縄文晩期遺跡(橿原遺跡など)からの出土遺物でした。出土遺物の中には、翡翠(ひすい)の玉類、御物石器(ぎょぶつせっき)、黒曜石、各地の文様のある土器、海生動物の骨、緑泥片岩(りょくでいへんがん)など本来奈良盆地に産出しない原材料で作ったものや生息しない生物の骨、独自に作れないもの、よその土地で作ったものが数多くあります。
 翡翠は新潟県と富山県にまたがる地域からしか出土しませんし、皇室に献上されたことからその名のついた奇妙な形の御物石器(奈良市大森町出土)は、岐阜県北部の飛騨地方を中心に作られたものです。黒曜石には長野県和田峠産のものも含まれており、土器の文様に至っては遙か彼方の東北系のものが多数あります。主に穴掘り用の道具に使われたと思われる緑泥片岩は吉野川や紀ノ川水系のものであり、海生動物の骨にはタイ・フグ・スズキなどに混じって鯨もあります。鯨はおそらく紀伊半島沿岸で獲れたものでしょう。また逆に、金剛山地北端の二上山周辺で産出するサヌカイト(讃岐からも産出=名前の由来)は、近畿各地のほか愛知県、岐阜県、石川県南部の広い範囲に分布しています。
 奈良盆地の縄文晩期遺跡から出土するこれらの遺物から言えることは、縄文時代晩期には日本列島内の広い範囲で人々の交流が行われており、人々が往来するルートが存在したことを物語っているということであって、奈良盆地の遺跡から出土する遺物はその一部を示しているに過ぎないのです。はるか東北から、あるいは北陸・中央高地の山奥からどのようなルートで奈良盆地に伝わり持ち込まれたか、現在では知る由もありませんが、奈良盆地と遠隔地の人々との間に交流のあったことは間違いのない事実であり、人々が往来したということは、それが直接持ち込まれたか、あるいはいくつかの中継を経て持ち込まれたかは別として、人々が往来したルートが存在したことを事実として物語っています。
 縄文時代晩期における奈良盆地と遠隔地との交易やそのルートの存在を考えるとき、紀伊半島南部の熊野地域と奈良盆地との間にも、鯨がどこから持ち込まれたかを論ずるまでもなく、人々の交流とそのルートがあったと考えるのが自然でしょう。
 熊野から紀伊半島を南北に縦断する途中は確かに道無き道の険路です。しかし先述した奈良盆地と遠隔地との広い交流範囲とそのルートの存在に想いを致すとき、縄文時代晩期には、奈良盆地と熊野地域の間にも人と物の交流とそのルートが存在していたと考えざるを得ないのです。
 しかし、紀伊山地を横断する縄文時代からの交易ルートがあったとしても、あの嶮しい山々の連なった山地を神武と武装集団だけで横断するのは極めて困難どころか不可能だったのではないでしょうか。「ヤタガラス」(八咫烏・頭八咫烏やたがらす)という道案内がいたればこそ嶮しい峰伝い、尾根伝い、谷・川伝いの道を踏破できたものと思われます。
 「道」という字を使いましたが、おそらく獣道(けものみち)程度のものだろうと思われ、そんな程度の道を武装した大勢の集団が隊伍を組んで通れるだろうか、という疑問も湧いてきます。もちろん、隊伍を組んで旗鼓堂々と行進することなど不可能なことは言うまでもありません。武器武具類だけでもかなりの荷物になるでしょうし、食料や水、炊飯道具(土器類)なども携帯したでしょうから、そんな荷物を持って嶮しい山道を登り降りするのも大変です。それも一日や二日の行程ではありません。
 縄文時代晩期、紀伊山地を往復した人々は、何千年も自然のままの樹林や倒木に遮られた草深き獣道を、難渋しながらただひたすら歩いたことでしょう。交易するにはそれなりの「物」を持って行かなければならないし、往復期間の食料も必要です。途中の集落で食料を手に入れるにしても、食料と交換する「物」が必要でしょうから、どうしても一人では持ちきれない荷物になってしまい、複数のあるいは十数人の集団で行動したものと思われます。また、獣に襲われる危険や途中の集落でせっかくの交易品を奪われる恐れもあったでしょうから人数は多いほど安全だったと思われます。重いかさばる荷物を背負いあるいは抱えて、谷・川沿いに、峰・尾根伝いに嶮しい道をたどって紀伊山地を横断したのです。熊野から吉野までの「神武が来た道」もこのような獣道だったに違いありません。もちろん旗鼓堂々たる行進などできるわけがありません。嶮しい山道を踏破するにはそれに適した隊形があったはずであり、また、武器武具、食料や水、その他の道具を携帯して山川を跋渉(ばっしょう)できないようでは軍隊として現在でも通用しないでしょう。いつの時代でも、道無き道を迂回して敵の背後に回ったり、奇襲攻撃できないようでは軍隊として物の役に立たないでしょう。
 神武とその武装集団が紀伊半島を縦断するについては、欠かすことのできない条件が一つあります。経験豊かな道案内が必要だということです。日本書紀では、神武は生駒山を越えて奈良盆地の竜田へ抜けようとして道に迷い、もとの上陸地点に戻らざるを得なかったとあります。生駒山系でさえ道案内なくしては越えられなかったのですから、比較にならないほど嶮しく道のりも長い紀伊山地を道案内なしに踏破することは不可能だったと思われます。
 古事記は「其の教へ覚しの随に、其の八咫烏(やたがらす)の後より幸行でませば」と道案内に八咫烏を登場させ、日本書紀も「而るを山の中嶮絶しくして、復行くべき路無し。乃ち棲遑ひて其の跋み渉かむ所を知らず」と道に迷って難渋したとし、「頭八咫烏(やたがらす)」という道案内を得て「山を踏み啓け行きて、乃ち烏の向かひの尋に、仰ぎ視て追う。遂に菟田下県に達る」と紀伊山地を無事横断したとしています。
 奈良盆地の縄文晩期遺跡(橿原遺跡)からは海生動物の骨が出土しており、その中に紀伊半島沿岸から持ち込まれたのではないかと思われるものに「鯨の骨」があります。この鯨の骨付き肉がどのようなルートをたどって奈良盆地に持ち込まれたかを特定することはできません。紀伊半島を縦断して持ち込まれたか、あるいは船で紀伊半島西南岸から茅渟海(ちぬのうみ大阪湾)へ出て北上し、さらに河内湖(湾)に入り生駒山を越えて持ち込まれたかも知れません。どのようなルートで持ち込まれたにせよ、鯨の肉が腐らないうちに奈良盆地に着かなければなりません。腐ってしまっては交易品としての価値が無くなってしまうからです。紀伊山地を通って持ち込まれたとすると、季節や気候によって違いがありますから一概に何日ぐらいとは言い難いのですが、鯨の肉が腐ってしまわない日数で紀伊半島を縦断したと考えられます。神武とその武装集団が紀伊山地を横断するのに要した日数の目安になるのではないでしょうか。

2,吉野川の河尻
 『古事記』によると紀伊山地を横断してきた神武は、吉野河の河尻で筌(うへ梁と思われる)を伏せて魚を取っている「贄持之子(にへもつのこ 阿陀の鵜養の祖)」という国つ神に(在地の支配者)出会い、その後「井氷鹿(いひか 吉野首等の祖)」「石押分之子(いわおしわくのこ 吉野の国巣の祖)」の順に土地の国つ神に出会っています。
 問題は古事記に言う「吉野河の河尻」です。「河尻」は言うまでもなく川の下流域や河口付近を指す語です。この意味どおりだとすると「吉野河の河尻」は「紀ノ川」の下流域・河口付近ということになってしまい、地理的適合性を求めることのできない位置関係になってしまいます。
 熊野から紀伊山地を横断して、和歌山平野を流れる紀ノ川河口付近で贄持之子に出会ったことになり、和歌山平野に逆戻りしたことになります。江戸時代の国学者、本居宣長が理解に苦しみ、その著書「古事記伝」で「河尻」は吉野川上流域に川上村があるところかから「川上」の書き間違いだとしています。
 『日本書紀』編纂担当の史官たちも理解に苦しんだものと思われます。贄持之子の後で出会った井氷鹿も石押分之子も吉野地域と関係の深い国つ神ですから、贄持之子だけ和歌山平野の紀ノ川河口付近で出会うはずがありません。そこで日本書紀編纂担当史官たちは、熊野から宇陀までの途中経過から三人の国つ神をすっぽり削除し、熊野からいきなり菟田下県(うだのしもつあがた 奈良県宇陀郡菟田野町)に神武を出現させざるを得なかったのでしょう。日本書紀では、神武は菟田下県に入って反抗する兄猾を殺した後、菟田の穿邑から吉野地域へ初めて巡幸したことにしており、その時、三人の国神に出会ったとしています。出会った順番も古事記とは異なり、「井光(いひか 吉野首部の始祖)」、「磐排別が子(にへもつのこ吉野の国樔部の始祖)」、「苞苴担が子(いわおしわくのこ 阿太の養鵜[廬鳥]部の始祖)」の順となっています。

阿太の養鵜[廬鳥]部(うかひら)の[廬鳥]は、廬編に鳥。

 意味不明のまま「吉野河の河尻」と記述した古事記と、意味不明の部分をカットして書き直した日本書紀を比べるとき、古事記は何故、意味のわからないことをわざわざ記述したのか、という疑問に突き当たります。両書とも造作された架空の作り話なら、古事記もこんな地理的適合性を欠くことを記す必要はなく、日本書紀と同じように理屈に合う話に作り替えればすむはずです。では何故? 古事記は古くから伝わる伝承に基づいて、理解不明なところもそのまま記述した、と考えるしかありません。ここでも「神武東征」説話は架空の作り話ではなく、古くから伝わる伝承に基づいて語られているのではないかという思いを強くするのです。
 では「吉野河の河尻」とはどういう意味なのでしょうか。吉野川上流域とおぼしきところで「河尻」という語を使っている以上、吉野川上流域のどこかに河尻と呼ばれてしかるべき所があったのではないかと考えざるを得ないのです。すなわち、熊野から紀伊山地を横断してきたという地理的適合性の位置関係から見て、「吉野河の河尻」は紀ノ川河口付近を指す語としてではなく、別の意味で使われていると考えられます。
 「河尻」を河口付近の意味以外に使うとすれば、どういう地域が考えられるでしょうか。支流が本流に流れ込むあたりを河尻と呼ばないでしょうか。こういう地域を河尻と呼ぶとすれば、吉野川にはたくさんの支流が流れ込んでいますから、その一つぐらいに河尻という地名が残っているかも知れないと思い現地の聞き込みや地図、村史・町史・市史などで調べてみたところ、吉野川流域に河尻という地名は存在しませんでした。全国的にはどうかと思い全国地名辞典(小学館)を調べたところ、河尻が一ヶ所、川尻が六ヶ所見つかりました。兵庫県尼崎市にあった「河尻泊(かわじりのとまり)」は文字どおり河尻(摂津国三国川、現:神崎川)にあった古代の港で、摂津・播磨の五泊の一つだったそうです。土砂の堆積で河口が南に移動し、江戸時代には港の機能を失ったとありました。川尻も文字どおり河口付近にあるのが大井川(静岡県吉田町)、梁津川(茨城県日立市北部の漁港)の二ヶ所で、残りの川尻のうち、川尻温泉(鹿児島県揖宿郡開聞町大字川尻)、川尻町(広島県豊田郡の漁港)、川尻岬(山口県飽託郡川尻町)の三ヶ所は海岸沿いにあるもののその近くに川を確認できませんでした。川尻で唯一海岸沿いになかったのは熊本県熊本市南端(旧:飽託郡川尻町)を流れる緑川支流の加勢川に沿う旧河港町だけで、米・木材・酒などの積出港として栄えたが、鉄道開通後は港の機能を失ったそうです。結局、河川の上流域、山深き源流域の支流が本流に流れ込むあたりには河尻・川尻の地名が見あたりませんでした。
 次ぎに一つの川の名前が流れている場所によって異なっている場合、名前の変わるあたりを川尻と言わないだろうか、と考えてみました。奈良県の山奥から流れてきた吉野川は、奈良県五條市と和歌山県橋本市の境界付近から紀ノ川に名前が変わります。つまり上流から流れてきた川の名前が変わるあたりをその川の河尻と言ったのではないかと考えてみました。しかし、木津川や宇治川が淀川に変わるあたりを河尻とは言わないし、そんな地名も残っていません。前述した全国の河尻・川尻も、そういうところについた地名ではありません。吉野川が紀ノ川と呼び名の変わる五條市(奈良県)・橋本市(和歌山県)あたりも河尻と呼んだ形跡も地名も残っていませんでした。
 古事記のいう「吉野河の河尻」は、一般的な意味での吉野河の河尻ではなく、吉野川の上流域に「河尻」と呼ばれる地名があったのではないかと考えてみました。この場合、名前の中心をなすのは言うまでもなく「尻」です。吉野川の上流域に「尻」と称される地域・地形があり、それが河と結びついて「河尻」と呼ばれるようになったのではないかと考えられるからです。現に塩尻や野尻湖(長野県)などのほかに江尻(静岡県巴川下流域)、田尻(奈良県香芝市、同山辺郡、大阪府泉南郡、宮城県遠田郡)、谷尻(奈良県吉野村)など、尻がつく地名は川の下流域に限らず、内陸部や盆地内にもあり、後述するように吉野川の上流域にも小字名として多数の「尻」のついた地名が現存しています。このような「尻」と称される地域・地形が河と結びついて「河尻」と呼ばれる地名になった可能性が高いと考えていたところ、過日、古田武彦氏から「カワ」の縄文語の意味について、次のような貴重なご教示をいただきました。
 「古事記の原文では「吉野河の河尻」ではなく、『吉野河之河尻』になっている。『吉野河之』は吉野川流域の意味で、河尻の『カワ』は、神聖な水を祭る場所、という意味ではないか。『カ』は神聖な水を意味し、『ワ』は祭りの場の意味である。巨石信仰遺跡の残る静岡県南伊豆町にある『大川』は大きな川の意ではなく、今もきれいな水の湧き出ている泉であり、大きな川など流れていない。神聖な水とそれを祭る場所という意味の地名ではないかと思われる(オオは接頭語)。また、吉野で神武が遭ったとされる『井氷鹿(いひか 吉野の首等の祖)』の『井』は井戸をあらわす接頭語(音韻が違うので猪などのイではない)で、『ヒ』は日、『カ』は神聖な水を意味していると思われ、関東地方のあちこちにある『氷川神社』も『ヒ』は日、『カ』は神聖な水、『ワ』は祭りの場、と見ることによってその意味がはっきりしてくる。『尻』は尖石(トガリイシ)の『ガリ(ト+ガリ)』や曲(マガリ)の『ガリ』などと同じく神聖な場所を意味する語で、人々が帰っていくところ、というような意味ではないだろうか」
 古田武彦氏のご教示のように理解すると、従来から意味不明として悩まされてきた「河尻」も、縄文人の生活の一端を現す生きた言葉に生まれ変わるような気がします。

3,大字井光(いかり)、井光神社、井光川 (資料3参照)
 吉野川上流域の川上村に、井光(いかり)川という吉野川東岸に流れ込む支流があり、人里離れた狭い渓谷に沿って深い山に入っていくと、急な斜面にへばりついているような井光集落に出ます。谷に沿った道からさらに急な脇道に入るので、川筋からさえ見えない山奥の神秘的な集落です。「井光」の字は、日本書紀に出てくる「井光」にちなんで当てられたものであることは言うまでもありません。
 日本書紀によると「天皇、吉野の地を省たまはむと欲して、乃ち菟田の穿邑より、親ら軽兵を率いて、巡り幸す。吉野に至る時に、人有りて井の中より出でたり。光りて尾有り。天皇門ひて日はく、汝は何人ぞ、とのたまふ。対へて日さく、臣は是国神なり。名を井光(いひか)と為ふ、ともうす。此則ち吉野首部が始祖なり」となっています。
 神武が菟田(うだ)の穿邑(うかちのむら)から吉野へ巡幸したとき、最初に出会ったのが「井光(いひか)」で、現在の「井光(いかり)」はこれにちなんで川や集落(大字)に当てられた漢字です。山肌の狭い平地に井光(いかり)神社もあり、少し離れたところに井光(いひか)が出てきたという井戸もあります。さらに、井光(いかり)川が合流するあたりの吉野川西岸部に大字井戸があり、ここに「イ尻谷」「井尻谷奥」「イ尻谷奥」「イジリ谷奥」「井尻谷」「イシリ谷奥」など「尻」をともなう小字が点在しています。大字井光(いかり)にも「野尻」という小字があり、このあたりが「尻」と呼ばれていた地域であることがわかります。今は残っていませんが、「河尻」の地名(神聖な水を祭る場所)のあった可能性が高い地域です。
 大字井光(いかり)や井光(いかり)川は日本書紀の「井光(いひか)」にちなんで当てられた漢字ですが、実は、明治三十四年に、それまで「碇(いかり)」村と書いていたものを「井光(いかり)」に改めたもので、ともに「イカリ」と読み、「井光」にちなんで漢字だけを変えたものです。「碇」は、古くは「イカヒ(猪養)」であったものが語尾のヒがリに転訛したものだろうと言う説もあり、このあたりは今も猪が数多く棲息しているそうです。
 井光(いかり)集落に鎮座する井光(いかり)神社(祭神は井光(いひか)・井氷鹿(いひか))について『川上村史』は、『新選姓氏録』大和神別吉野連の条に「吉野連、加弥比加尼(かみひかね)の後なり。神武天皇、吉野に幸し、神瀬に到り、人を遣わして水を汲ましむ。使者還りて日く、井光女(いにひかるおんな)というものあり。天皇これを召し、問う。汝は何人ぞ。答えて曰く、臣はこれ天より降来る白雲別の女なり。名は豊御富と日う。すなわち水光姫(みひかりひめ)と名づく。今、吉野連祭る所の、水光神是也」とある記述を載せており、この古くからの伝承との関わりからこの地で神武が井光(いひか)に出会ったとし、「碇(いかり)」を「井光(いかり)」に改字したものと思われます。この地の豪族であり、井光を祖とする吉野首(よしののおびと)は、天武天皇十二年(六八四)十月に、連の姓を賜わっており(日本書記)、和銅三年(七一〇)正月には、吉野連久治良が外従五位下に昇進(続日本紀)、さらに嘉祥元年(八四八)十一月には、大和国吉野郡大領吉野連豊益(よしののむらじ くじら)が外従五位下を授けられています(続日本後紀)。また、中世の吉野の豪族、井・井戸・伊藤などの各氏も吉野首を祖とし、井光(いひか)と水光神姫を始祖とする系譜を伝えており、大字井戸などの地名もあって、井戸氏の後継とされる伊藤氏を姓とする家が多いそうです(川上村教育委員会)。「碇(いかり)」を「井光(いかり)」に改字したのもわかる気がします。

4,吉野山の「井光(いひかり)神社」と「井光の井戸」
 井光の伝承は、吉野川水系を中心とする川上村だけでなく、吉野山にもありました。
 本居宣長はその著書『古事記伝』で、井光の地を吉野町にある大字飯貝に比定しています。「イヒカリ」が転訛して「イヒカイ」(旧読み)になったのではないかと見たのでしょう。川上村の「井光(いかり)」と同じように、吉野町飯貝(いいがい)にも井光・井氷鹿(いひか)にまつわる伝承が伝わっているのだろうかと思い、吉野町役場を訊ねてみましたが、いとも簡単に否定されてしまいました。その代わり「井光の伝承なら吉野山にもあります」と話が続き、井光(いひかり)神社と井光(いひかり)の井戸の所在地を詳しく教えてくれました。あらかじめ吉野町の地図や案内書を調べていたにもかかわらず、井光の伝承に関する神社も遺跡も全く載っていなかったのは「神武東征」説話を架空の作り話とする常識・定説を気にしているからでしょうか。なお、吉野町では「井光」を「イヒカリ」と言っていました。
 「井光(いひかり)神社」は、明治の廃仏毀釈政策が実施されるまで存在した桜本坊という寺院の旧境内、今は角川文庫の別邸「井光山荘」になっているところにありました。昔は町を挙げてお祭りが行われていたとのことでしたが、今は井光山荘の瀟洒な門構えの脇に古色蒼然たる小さな祠(ほこら)を残すのみで、近所の人が守っているに過ぎません。蔵王堂から南へ、徒歩十分ぐらいのところで、そのすぐ近くまで人家が続いているのに人影がほとんどありません。朽ちかけた祠が時代の変遷を語りかけているようでした。
 さらに南へ、上千本の入り口あたりに移築された桜本坊があり、向かいに細い尾根道が分かれていて、その奥に「井光山(いこうざん)善福寺」なる真言宗の小さな寺院があります。「井光(いひかり)の井戸」は、狭い尾根の上に立つ善福寺の建物の裏、北に降る谷の、木々や雑草に覆われた急斜面の中ほどにありました。直径五〇㌢ぐらい、深さも同じぐらいの小さなもので、水など湛えておらず底の土が見えています。四本の棒で囲んで注連縄が張ってなかったら、それとはわからないでしょう。横に「井光の宮伝承…」と書かれた古びた杭が立ててあります。それらしく見せるような細工を施した跡もなく、昔から伝えられたままの姿で保存されてきたようです。このあたりを昔は「井光山(いひかりやま)」と呼んだらしいのですが、今は寺院の山号に名残をとどめているに過ぎません。
 余談ですが、廃仏毀釈で桜本坊が毀されたとき、井光(いひかり)神社に保存されていた古い長持を川上村の人たちが持ち去った、という言い伝えが吉野町では語り継がれているそうです。
 古事記によると、神武が「吉野河の河尻」で出会ったのは井氷鹿(いひか)ではなく「贄持之子」です。「河尻」を一般的な意味である河口付近と解した日本書紀編纂担当史官は、この地理的適合性を無視した語を削除して、「水に縁ひて西に行きたまふに及びて、亦梁を作ちて取魚する者あり」とし、「苞苴担(にへもつ)が子」と出会った場所を、和歌山県と接する五條市の阿田に想定しています。この一事からも、古事記が古くから伝わる伝承に基づいて書かれていることがわかりますが、順番こそ違ってはいるものの、神武は「ニヘモツ」と吉野川で出会っています。
 吉野川上流域(大滝ダムが完成して、上流域には吉野川が無くなりました)、大字井光や井戸に「野尻」「井尻」などの「尻」を名前とする多くの小字が残る地域から少し下流に降ったところに川上村役場があり、その東側を流れる吉野川沿いに形成された河岸段丘に「丹生川上神社上社(かみしゃ)」という神社があります(河岸段丘とともに水没)。昔から縄文土器の破片などが出土することで知られた川上村大字大迫の「宮の平(たいら)遺跡」です。ダムが造られ神社も遺跡も水没するので、橿原考古学研究所による発掘調査が数次にわたって行われていましたが、平成十二年十一月に近畿初の「環状列石」遺跡が発見されたとしてマスコミに大きく取り上げられました。(資料3参照)
 縄文早期から晩期にかけての土器片や石器類が数多く出土し、その中に色鮮やかな朱塗りの土器片が混じっていました。念のためベンガラではないかと訊ねてみたら「朱」に間違いないとの返事でした。「朱」とは「丹(に)」のことですから「丹生(にう)川上神社」と合致し、このあたりが「丹(朱)」と関係の深い土地であることが出土遺物によって証明されたことになります。
 「ニヘモツ」は本来、「ニヘモチ」ではないか。そして「ニ」は丹、「ヘ」は辺(あたり)、「モ」は集落、「チ」は神(神聖)、を意味する縄文語ではないか、とのご教示を古田武彦氏から受けて、目から鱗(うろこ)の落ちる思いがしました。語尾をそのまま「ツ」と読んでも吉野川上流域の「津」を意味することになります。ご教示どおりだとすると、「丹の産出するあたりの集落の神」となり、このあたりの縄文集落の支配者だったことになります。このように理解すると、神武の紀伊半島縦断行程には極めて臨地性に富んだ遺跡・遺物も存在していることになり、神武がこのあたりで出会ったのは井氷鹿(いひか)ではなく、贄持之子(にへもつのこ)ではないかと考えられるのです。井氷鹿(いひか)や石押分之子(いわおしわくのこと出会ったところに吉野川は出てきませんから、二人と出会ったところを吉野川流域に限定して考える必然性はなく、「吉野河の河尻」で出会ったのは「丹(に)」と関係の深い名を持つ「贄持之子(にへもつのこ)」である可能性が極めて高いのです。
 吉野には吉野川もあれば吉野山もあり、十津川水系にさえその一部に吉野があるくらいですから、吉野と呼ばれる地域はかなり広く、吉野河水系以外に井氷鹿(いひか)の伝承や足跡があっても何の不思議もないのであり、むしろ川とは直接関係はないが、「井(井戸)」と強い結びつきを持つ地で出会ったと考えるほうが古事記の記述に適合します。
 紀伊山地を横断してきた神武が次ぎに目指したのは宇陀です。宇陀に侵入するにあたって後方の安全を図り、兵站基地を確保する必要から吉野地域の一部を平定したとしても不思議ではなく、吉野山に「井光(いひかり)神社」や「井光(いひかり)の井戸」があってもおかしくありません。
 神武が吉野河の河尻で贄持之子(にへもつのこ)と出会ったころ、吉野川上流域にはどのような人々が住んでいたのでしょうか。この地域に、和歌山平野や紀ノ川流域、紀伊半島西南部沿岸と同じように多くの弥生集落が営まれ、弥生社会が形成されていたとしたら、神武とその武装集団はその抵抗と反撃にあって嶮しい紀伊山地の中で立ち往生し、進退窮まっていたでしょう。
 ところが、吉野地域では神武とその武装集団が抵抗や反撃を受けた様子はなく、神武と出会った三人の国神(くにつかみ)も揃って恭順な態度で出迎えています。古事記では、最後に出会った石押分之子(いわおしわくのこ)に「今、天(あま)つ神の御子(みこ)幸でましつと聞けり。故、参向(まいむか)へつるにこそ」とまで言わせています。しかし、神武とその武装集団は、吉野地域に住む人々にとっては外の世界からやって来て食料や協力を否応なしに提供させられる侵略者であり、略奪者だったはずです。何故、抵抗もせず恭順の意を表して迎えたのでしょうか。
 上流域の吉野川は見渡す限り、連なり重なり合う山また山の深い谷底を流れています(今はその景色もなくなりました)。川に沿う国道一六九号線を走ると、ところどころで行われているダムや橋・道路の工事は目に入っても、切り立った急な断崖の端に立たないと見ることができないほど深い谷を流れていました。この自然がつくりだした大景観や地形は、今やダムの底に沈み、満々たる水が山腹を浸しています。
 「高原郷、二十河郷、檜垣本郷水田五段」、これは建武元年二月の「吉水院真遍坊紛失状」の記録です(川上村史)。すなわち川上村での水田の存在を証明する最初の資料で、建武元年といえば一三三四年のことです。これがこのあたりの水田の存在を示す最初の記録だからといって、このころから水田稲作が行われ始めたとは考えられませんが、奈良盆地や宇陀地域に比べるとかなり遅れて稲作が始まったであろうことは、吉野川上流域の自然地形から見て理解できます。
 神武とその武装集団がやってきたころ、この地域は水の豊かな地ではあっても、奈良盆地のように水田稲作に適した平地がなく、弥生集落はまだ営まれていませんでした。そこには、自然の恵みを生活の糧(かて)としながらも、集落を形成して定住することがより生活を安定させるだろうことを知っていた人々、縄文晩期の人々によって集落が営まれていたのではないでしょうか。吉野川上流域ばかりでなく、井光(いひかり)神社や井光の井戸の伝承が残る吉野山も、水田稲作のみか農耕そのものに向いていない地域であることは言を待つまでもありません。やはり縄文晩期の人々が集落を営んでいた地域だったと考えられます。
 吉野川上流域にも吉野山にも、弥生時代中期末から後期初めごろにはまだ、水田稲作を中心とする弥生集落が生まれておらず、弥生社会は形成されていなかったと考えるのが至当でしょう。
 縄文晩期の集落に生活していた人々の目には、金属製の武器や楯・靫などの武具で武装した神武率いる武装集団は神の国から舞い降りた軍勢のように映ったことでしょう。奈良盆地の弥生社会とも交易を通じて多少の交流があったと思われますが、集落全体が弥生社会と常に接していたわけではありませんから、弥生人が集落を形成し始めた宇陀地域の縄文集落(詳細は後述)とはかなり違った社会を形成していたものと思われます。激しい抵抗を示した宇陀地域の縄文集落と異なり、神武とその武装集団に恭順の意を表して協力的になったのも社会構成の違いが大きな理由の一つだったに違いありません。
 吉野川流域や吉野山に住む人々は、神武とその武装集団を目(ま)の当たりにして、圧倒的な武力の差の前に抵抗を諦め、恭順の意を表さざるを得ませんでしたが、神武が次ぎに目指した宇陀地域では、足を踏み入れた途端に激しい抵抗に直面しなければなりませんでした。


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