古田武彦講演会 一九九七年十月二十六日 於:名古屋 桜華会館二階
歴史ビッグバンと草薙剣

倭健(ヤマトタケル)の歌

1『古事記』と『日本書紀』の理解
 今日の本題は言うまでもなく熱田神宮であり、草薙の剣です。
 『古事記』と『日本書紀』について、当然ながらいろいろ議論をしてまいりました。私にとって古代史では第三の本『盗まれた神話』の分析が、一つの 画期をなしています。
景行天皇の九州巡行について、『日本書紀』では広大なスケールで語られて、『古事記』にはなくゼロである。どちらが本当か。答えは『古事記』の無いほうが本当である。天武天皇や太安万侶が実際にあったことならカットすることは考えられない。無いほうが本来である。
それを『日本書紀』は、取ってつけて他の人物の記録をはめ込んだと論断したのを御記憶の方もおられると思う。『日本書紀』はどこから持ってきたかというと、景行天皇の九州大遠征は九州王朝の歴史書の盗用である。原点は博多湾岸、筑紫の君が大分・南九州九州一円を征伐したという話を主語を取り替えたものである。
 しかし用心しなければならないのは『日本書紀』は構成は新しい。仕組は新しい。しかし仕組の中身は古い。「前つ君」の九州大遠征はそのものは九州王朝側で古事記よりもっと古い段階の話として成立している。歴史事実として成立している。簡単に『日本書紀』と『古事記』どっちが古いと言う、おおざっぱな回答は出来ない。そういう問題が出てきた。
 発表はしていないが、大阪の朝日カルチャーで論じた問題として、神功皇后についても同じことが言える。『古事記』では新羅に行ったら勝手に向こうが頭を下げてきた、というあり得ない形で書いてある。『日本書紀』では朝鮮半島、少なくとも今の韓国部分を縦横に征伐しに動き回っている。景行天皇の九州遠征と同じで、『日本書紀』は取って付けている。取って付けた内容は『古事記』より古いわけであり、九州王朝の戦闘である。あの有名な高句麗「好太王の碑」に現れている倭と高句麗との激突の一コマが存在したのを、九州王朝の王なり将軍なりの主語を切り取って、着せ替え人形のように神功皇后に着せ替えて『日本書紀』は書いている。

2前つ君と倭健の歌 『倭は國のまほらま・・・』
 その後倭健命(ヤマトタケルノミコト)について、いろいろ考えると、『古事記』『日本書紀』共に無茶苦茶であると言っても嘘でないことが分かってきた。

『日本書紀』景行天皇が故郷を日向に来たときに偲んで詠んだ歌
景行紀(岩波古典文学大系に準拠)
十七年の春三月の戊戌の朔日己酉に、子湯県に幸して、・・・
故、其の國を号して日向(ひむか)と曰ふ。是の日に、野中の大石(おおかしは)にのぼりまして、京都を憶(しの)びたまひて曰(のたま)はく。
愛しきよし、我が家の方ゆ、雲居立ち来も
倭は國のまほらま畳づく青垣山こもれる、倭し麗わし
命の全けむ人は畳薦、平群の山の白橿が枝を、髪華(うず)に挿せ此の子
是を思邦歌(くにしのびうた)と謂う。

『古事記』景行記
其れより、幸行でまして、能煩野(のぼの)に到りましし時、
國を思ひて歌曰ひたまひしく、
倭は國のまほらま、たたなづく青垣山隠れる、倭しうるわし
とうたひたまひき。
又歌曰ひたまひしく、
命の全けむ人は畳薦
平群の山の熊白木樫が葉を、髪華(うず)に挿せその子
とうたひたまひき。此の歌は國思び歌なり。と又歌曰ひたまひしく、
愛しけやし、吾が家の方よ、雲居立ち来も
とうたひたまひき。此は片歌なり。
此の時御病甚急かになりぬ。
爾に御歌曰みしたまひしく、
(注:樫は当て字です。)

不思議な文章が出てきている。
『日本書紀』では景行天皇が日向(ひゅうが)で都(この場合は大和)を偲んでの創作として、詠っている。
ところが一方で我々がよく知っている『古事記』の方は倭健(やまとたける)が東へ征伐へ行って還ってきて、三重県の能煩(のぼの)に来たときに、国を偲んで詠われた。
ほぼ同じ歌である。
 一方では景行天皇の創作のような感じで歌われ、他方では倭健の創作のような感じで歌われている。創作とは唱っていないが、何も思わずに読めば、そう思える。しかも詠んだ場所が全然違う。一方は日向で、もう一方は能煩である。これはどうなっているのか。こんなことはあり得ない。
 この問題のキーポイントは『古事記』の「倭しうるわし」を大和へ帰ったときの歌謡として、プロからアマチィアまで万人が大和であることを疑っていない。
 しかし良く考えるとおかしい。
 最後の「平群の山の熊白木樫が葉を髪華に挿せその子とうたひたまひき。」では、大和へは行っただけで到着点でなくて、平群(へぐり)へ行かなければ到着点ではない、というように詠っている。地図を見れば分かるように、大阪府との境である平群(へぐり)になっている。
 平群(へぐり)がなぜ到着点なのか。ここから出発した話も全くない。
 なぜわざわざ奈良県平群(へぐり)へ行かなければならないのか、そこが到着点なのか、分からない。ここから出発したという話も全然ないし、問題にすると答えようがない。
 しかも私にとって大事なことは『日本書紀』には改竄(かいざん)があるということを知った。

「倭は國のまほらま(夜苔波區珥能摩保邏摩)」
2 倍(熱・北)ー保

 校異を見ると、岩波の注記では「2 倍(熱・北)ー保」となっている。
 古さでは一二を争う熱田本(名古屋熱田神宮)、北野本(京都北野神社)はいずれも「保(ほ)」でなくて、「倍(へ)」である。これらの本はいずれも倍(へ)である。古い信用できる写 本は全て「倍(へ)」である。「へ」とあって、「ほ」と読めない。後世の写本で保(ほ)と直してある。後世の写 本が「まほらま(中心の意味」)と読めるように文書を改竄(かいざん)している。

「倭は國のまへらま(夜苔波區珥能摩倍邏摩)」である。
「まへらま」とは何のことか。
「ま」は接頭語で、「鳥の脇下(わきげ)」のことを「へらま」と言う。
「まへらま」とは脇に当たる。鳥の翼のような山に抱かれた場所のことであろう。
 この道の人に「へらま」のことを聞いたら、そんなことを知らんのかと言われた。毛皮の世界では、毛皮の値段は取るところにより全然値段が違う。
 鳥の脇毛の部分が「まへらま」という毛皮の最も良い所である。
 もしこれを大和で考えれば、「倭(大和)は国のまんなか」である。さらに離れた平群(へぐり)へなぜ行かなければならないのか。これでは意味は不明である。
 ところが「倭(山門)は國のまへらま」を博多湾岸で考えればどうなるか。
「倭(山門)は国の端(はし)、最も良い場所。」となる。それに山門付近には 「平群(へぐり)」もある。
「山門」には福岡市地下鉄下山門駅がある。上山門という地名もある。倭名抄では大和郷がある。ここならどうか。さらに南側は「平群(へぐり)」となる。吉武高木遺跡の直ぐ傍である。福岡県博多湾岸の「平群」に行って、吉武高木に御報告申し上げて、終わりとなる。非常につじつまが合う。
 博多湾岸に三種の神器が出たところは、吉武高木、三雲、須玖岡本、平原等たくさんある。邪馬一国問題に関連して、須玖岡本は中国の絹が出たすごい所である。また平原も大きな鏡が出てたり、遺体の周りに三十数面 の鏡がいっぱい置いてありすごい所である。一応それなりに言える。しかしもっと凄(すご)いのは吉武高木である。時代が違う。多鈕細文鏡が出てきたところであり、日本列島における一番古い三種の神器が出てきたところである。一番貴い墓である。そこへ帰ってきたら、報告してそれで終わりとなる。みんなと共に帰還を喜び合う。「平群(へぐり)」でなければならない。
 やはりこの歌は、景行天皇の歌でも、倭健(やまとたける)の歌でもない。盗作。九州王朝の九州統一の歌である。「大和は国のまほらま・・・」は盗作である。
これはかなり大きな発見である。
倭健の説話は『日本書紀』は駄目でも、『古事記』はかなり良いとのイメージを持っていたが、やはり駄 目だった。私は小さい頃から倭健の話は好きだったのに、やはりインチキ、盗作という感じをもち、駄 目だと分かって大変なショックを受けた。

3吾妻姫と日本武尊の歌『吾嬬はや』
 関東では倭健の説話がやはりそうでなくなってきた。
 東京湾から日本武尊と弟橘媛が千葉県に入り、帰るとき『日本書紀』では、釜飯で有名な碓氷峠から帰っていく。従来の碓氷峠は廃止された鉄道の碓氷峠の駅の少し北側である。ところが、この話も駄 目である。これも関東に行ったおかげである。
 (関東の人はそう言うと直ぐ、『速水の海は東京湾ではありません。浦賀水道です。』という返事が返ってくる。関東の人には我慢できないみたいだが、巨視的に視れば、東京湾と認めて頂いても、良いのではないか。今度見直すと浦賀水道から出発して、東京湾の南の端に入っていく。)

『日本書紀』景行紀(岩波古典文学大系準拠)
四十年
是に、日本武尊の、「蝦夷の凶しき首(おとど)、感に其の罪に伏ひぬ。唯信濃國・越國のみ、頗未だ化に従はず。」とのたまふ。則ち甲斐より北、武蔵・上野を[車傳]歴りて、西碓日(うすひ)坂に逮ります。時に日本武尊、毎に弟橘媛を顧びたまふ。情有ります。故、碓日嶺に登りて、東南を望りて三たび嘆きて曰はく、「吾嬬はや」とのたまふ。嬬、此をば、吾妻と云ふ。故因りて山の東の諸国を号けて、吾妻國と曰ふ。
 ところで北群馬に吾妻神社・吾妻村・吾妻川など吾妻(あがつま)の密集地帯がある。”あづま”もある。吾妻川は利根川に流れ込む。関東の講演会では必ずと言っていいほど、「吾嬬(あずま)はや」と呼びかけているから、「そこと関係ないのでしょうか。」という質問が何回も出ていた。
「興味深い問題ですね。検討しておきます。」という決まり文句を言うしか仕方なかった。それで京都へ帰る前にやっと行ってみた。
 なぜかというと私自身の問題意識として、この碓氷峠で「吾嬬はや」と言ったと書いてあるが、「碓氷峠から、浦賀水道も東京湾も見えない。」のではないかと考えた。東西と南にかなりの山が走っており、いずれも碓氷峠より高い。しかし推定だけでいけないから行ってみた。やはり東京湾は見えなかった。見えなくとも良い。東京湾は、あの山の向こうの、そのまた向こうにある。それなら何処で見ても同じである。近畿に帰っても良い。歌のように振り返る必然性はない。やっぱり予想通 り。
 秋田孝季の「歴史は足にて知るべきものなり。」の教訓通りである。
 碓氷峠で磁石で測り南西の方向、東京湾に向いてみた。そうすると九十度左手の下に東に吾妻の密集地帯があった。つまり南西に向かって「吾嬬はや」と言うが、九十度左手に吾妻の密集地帯があった。ちぐはぐである。やはり現地に行くべきである。何となく変な感じがして、予定外であったが吾妻の密集地帯、そこへ降りていった。幸いなことに調べると直ぐ分かりました。なぜかというと「吾妻姫」を祭る神社があった。また吾妻川の上流の信州との境、そこに鳥居峠があり、地元の人は「鳥居が立っているから鳥居峠と言っているが、私たちのところでは碓氷峠といえば、あの峠でした。」と言われた。そういう記憶が地元に残っていた。現地で本来、碓氷峠と言っていたのが、現在の鳥居峠である。それで分かった。
 鳥居峠で信州へ行くときに、鳥居峠で振り返り、「吾嬬はや」と言うと、目の下に吾妻の密集地帯があり、吾妻姫がいる所であり特定力は十分である。何の不都合もない。一般 名詞でなく、固有名詞である。
 考えてみれば、あの歌はおかしい。倭健には、奥さんがたくさんいて、「吾妻よ(わがつまよ。)」では、特定力は不十分である。本妻を大和に残してきて、言ってみれば弟橘媛は愛人である。
 呼びかけるなら、「吾が弟橘媛(わがおとたちばなひめ)」と呼びかけるべきである。そうでないと特定力はない。
 正しい屁理屈(!)であるが、何番目の奥さんを言っているか分からない。
 この歌は男の神様が今日ここを越えたら、我が妻の消息を知ることは出来ないと、「お!、吾妻よ(わがつまよ。)」と峠で偲(しの)んで呼びかけている歌である。今日行って、明日帰るわけではない。しばしの別 れ、我が故郷と言っている。ずいぶん永く行っている歌である。
 時代も推定できる。もちろん縄文である。縄文のメッカは信州である。阿久遺跡へ行ったのだろう。あの遺跡の儀式にはずいぶん各地から人が集まってきて、儀式を見守る楕円形の遺跡である。どの範囲から人が集まるか分からなかったが、おそらくこの男の神様も行っても不思議ではない。かなり永く行っている。行けば何カ月か何年か、行ったきりになるのである。そこで、しばしの別 れ、「お!、吾妻よ(わがつまよ。)」とピシャッと当てはまる。男の神様の名も大体特定できる。芭蕉ではないが、「動く解釈。動かない解釈。」という定義があるが、『日本書紀』では動くが、ここではきちんと決まる。動かない。もう一度言うと北群馬の男の神様が振り返って、恋人(吾妻姫)に呼びかけている歌であるならば、(鳥居峠=碓氷峠)で動かない。『日本書紀』では動く歌になるし、どの奥さんが分からないし、峠も分からない。
 本来は北群馬の神話だった。それを主語をカットして、着せ替え人形にして、『日本書紀』に日本武尊(やまとたける)として、入れた。これも私にとって、大きな経験となりました。

4蛭子(ひるこ)、蛭女(ひるめ)と・・・足柄峠の倭健
『古事記』景行記
是より入り幸でまして、走水の海を渡りたまひしとき、・・・
海に入りたまはむとする時に、・・・
爾に其の后歌ひたまひしく、
さねなし相武の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも
とうたひたまひき。・・・其の后御櫛海邊に依りき。乃ち其の櫛を取りて、・・・
其れより入り幸でまして、荒夫琉蝦夷等を言向け、亦山河の荒ぶる神等を平和して、還り上り幸でます時、足柄の坂本に到りて御食す処に其の坂の神、白き鹿に化けて来立ちき。爾に即ち其の昨ひ遣したまひし蒜の片端を以ちて、待ち打ちたまへば、其の目に中りて乃ち打ち殺したまひき。故、其の坂に登り立ちて、三たび嘆かして、「阿豆麻波夜。(あずまはや阿より下の字は音を以よ。)と詔云りたまひき。
故、其の國を号けて、阿豆麻と謂ふ。
 足柄峠へは定年になり京都に帰る前に行かなければ、行き逃してはならない所に行ってみようと思った。これまで、いつでも行けると思っていて、なかなか行けなかった。
 これも大体考えたら『古事記』と『日本書紀』で場所が違うのはおかしかった。
 小田急線新松田駅からバス道を、私一人の専用道路の気分で足柄峠まで一時間半かけてゆっくり歩いた。(バスはあるが、時間帯がはずれていた。)
 六月で暑かったが、疲れたら木陰で休み、『古事記』を読み、また歩くということを繰り返す贅沢な旅である。それが幸いした。「足柄明神」では看板を見ると、「足柄明神」の祠は元は峠と書いてあった。とにかく足柄峠の元祠(ほこら)跡の近くで買ってきた握り飯を食べながら、古事記(岩波文庫)を観ていて、今まで全然気が付かなかったことにハッと気が付いた。好きでたまらない話であるが、今までは、他の話とつなげて理解していた。今までは、「入水の話とさねなしの歌」や「櫛が海に流れ出た。それを取ったという話」と結びつけて理解していた。ところが今回中間の「其の坂神・・・・・・打ち殺したまひき。」がおかしいと気が付いた。
ーーー其の坂の神、白き鹿に化けて来立ちき。爾に即ち其の昨ひ遣したまひし蒜の片端を以ちて、待ち打ちたまへば、其の目に中りて乃ち打ち殺したまひき。ーーー
 飯を食っていたら、白い鹿がやって来た。鹿が来るのは(カラスの)勝手である。それを植物の蒜(ひる)の片端を鹿の目に投げつけて殺してしまった。そして自分勝手に嘆き悲しんでいる。なぜ鹿を殺すのか必然性がない。無目的に鹿を殺すことは一番いやらしいことである。最近のカルガモ事件でも問題になっている。この歌は動物を座興みたいに殺しておいて、自分だけはセンチメンタルに詠っている。今まではこんな風に考えたことはなかったが、あらためてこう考えた。
 第一、この話がおかしいのは、植物の蒜(ひる)を鹿の目に投げつけて殺すことが出来るかだ。植物の蒜(ひる)を鹿の目に投げつけるのは至難の技だ。実験しても無理だと思うし、実際にも無理だし、第一ここに、この文章が入る必然性がない。理由がない。
 それで、この鹿に化けていた神様の名前が分かった。女性である。男性でもよいが、おそらく鹿に化けるには女性がふさわしい。
 誰か。「大蛭女貴(おおひるめむち)」である。
 『日本書紀』に、天照大神とイコールで結ばれている大蛭女貴である。この話の元は「故(かれ)、大蛭女貴(おおひるめむち)と申すなり。」という神名説話であり、同時に欲張って「吾妻はや」という地名説話でもある。うちの神様はこういう由来で大蛭女貴と言われています、という神名説話である。この神名説話が挿入されていた。普通 に鹿を殺すのには弓や槍で殺してもよいしコン棒で殴っても繊細な動物だから死ぬだろう。だから出来もしない植物の蒜(ひる)を投げつける話が出てくるのは、名前にこじつける必要があるからだ。
 その後うっかり鹿を殺した旦那さんの名前が分かった。殺した男の神の名は蛭子(ひるこ)である。
 ーー『古事記』で、国生み神話に悪者として出てくる蛭子(ひるこ)である。イザナギとイザナミが蛭子という不具の子を生んだ。そして不具の子を船に乗せて、海に流した。「何で失敗したのでしょう。」と天神に聞きに行った。天神が女が威張って求婚の言葉を先に言ったからダメだ。男が先に言え。「分かりました。」と言って、反対の順序に男が先に言うと、大八州(おおやしま)が生まれた。
この有名な話に登場する蛭女(ひるめ)である。悪役で出てくる。ーー
 「神話・伝説で卑しめられている神は前段階では、一番重要な尊崇されていた神である証拠である。」
そう云うテーマがある。
 この説話の元は太陽神の原形が蛭子と蛭女である。
ヒル(昼、蛭、蒜)とは太陽が輝くという美しい動詞である。
メ(女)
コ(子)
ひるこ 太陽の輝く男、昼子
ひるめ 太陽の輝く女、昼女
ひるめとひるこは太陽神の原形である。それを尊崇する人々がいた。
 それをペケにして、『日本書紀』は蛭子(ひるこ)を不具にして海に流し、蛭女(ひるめ)を天照大神(あまてるおおかみ)とくっつけた。
 私の理解では、天照大神は(弥生時代の)人間である。私の理解では、天照大神は生きている。天孫降臨という侵略を命じた、おばあさんである。その生きている人間を神様にして、太陽神に祭り上げて、実は天照大神と蛭女は同じなのだ。そういう格付けをしたのが、『日本書紀』の文章であるというのが、私の理解だ。
 ここで本来飯を食っていたのは、蛭子。奥さんの蛭女が白い鹿に化けて出た。それを知らずに、(たとえば食べさしの)蒜(ひる)を投げつけてこれを殺した。
 この時代の神様は一回死んだら生き返らない。超能力ではない。人間みたいに死んだら駄 目だ。それで蛭子は坂の上で「嗚呼!吾が妻よ。」と言って嘆いた。しかし再び帰ってくることはなかった。
 つまり無目的に動物を殺すのは、いかに災いをもたらすか。いけないよ。目的を持って殺すのは許される。占いとか。食用とか。しかし目的なしに動物を殺すせば、どのような災いが待っているか。わからんよ。「一番大事な奥さんまで失うよ」、という教訓を含んだところの、きちんとした神様のこういう失敗の歴史である。
 旧石器縄文時代という、採取・狩猟の社会といっても、めったやたらに殺したり、ただ取っていたのではない。だからこそ掟(おきて)があった。その教訓を含んだ掟(おきて)を表現した縄文の素晴らしい神話である。
 そのちゃんとつじつまが通った神話を、蛭子(ひるこ)の名を切り取って、倭健(やまとたける)にした。
 調べてみると関東一円は蛭女貴信仰だらけである。もちろん天照大神という着せ替え人形もけっこうある。なぜ関東は天照大神を祭っているのか不思議に思っていた。
蛭子も結構祭られている。蛭子大神を祭った神社が静岡市にもある。皆さんも知らなかったでしょう。私も知らなかった。
この話は、本来は「蛭子・蛭女の神話」である。
わたしにとっては、ここでも着せ替え人形にして、倭健(ヤマトタケル)の話にしていた。

5東海の英雄建稲種命と倭健
 東海の小学校勤務の藤田氏に九六年東海を案内して頂いた。学校の屋上で「ここから見れば、例の『倭健』の神話が全部見えますよ」と案内して頂いた。
野暮野・伊吹山はもちろん直前に行った宮津媛神社も見える。
「東海の神話的英雄(建稲種命)その人の話を取り替えたのかも知れませんね。」
ちょうど兄さん建稲種命と宮津媛の神社に行って来たところである。
「建稲種命」は稲をもたらした人物に見える。
 神社の説明によれば、四世紀に稲作をもたらしたと説明にはある。しかしやっと四世紀になってに稲作をもたらしたとは考えられない。おそらく九州からでしょうが、もっと以前におそらく弥生期に東海に稲をもたらした下さった神話的英雄が建稲種命である。宮津媛もそうである。古墳時代の倭健と結びつくはずがない。
 神社の縁起には建稲種命は宮津媛の兄で、倭健に宮津媛を合わせたと書いてある。妹(いも)、つまり自分の恋人・妻を、なぜ倭健(やまとたける)に紹介するのか。
 建稲種命の業績が、を紹介するだけとはおかしい。全然つじつまが合わない。
 屋上から階段を下りていく最中、忘れもしない二階から一階に降りて行く時に、小学校の藤田先生が叫んだ。
「あっ、だから妹(いも)ですね。(建稲種命)の恋人・妻ですね。奥さんですね」
 つまり宮津媛は建稲種命の奥さんのことである。
 万葉で妹(いも)といえば、恋人のことである。妹(いも)を妹(いもうと)と考えるのは嘘。現代風の再解釈である。自分の恋人・妻を、なぜ倭健(やまとたける)に紹介するのか。建稲種命の業績が、妹(いも)を紹介するだけとはおかしい。不倫してくれと言っているのと同じである。
 ですから元の話は、建稲種命・宮津媛という、東海に稲をもたらした弥生の神話的英雄御夫妻の話である。おそらく野暮野(のぼの)で亡くなったのだろう。伊吹山で毒気に当てられたという話、これも神話的である。宮津媛との話も、おそらく建稲種命の話だろう。
やはりここでも建稲種命の首をすげ替えて、着せ替え人形にして、倭健の話にした。


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