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古代史再発見 第1回卑弥呼(ひみか)と黒塚方法 へ
古田武彦講演会 二〇〇〇年 七月 九日(日) 於:大阪 天満研修センター
1 総論
今日の最初は、やはり演題にあげた三角縁神獣鏡について述べてみたいと思います。三角縁神獣鏡については最近論文を執筆中ですが、そこで言おうとしていることは非常に簡単なのです。非常に簡単なのですが、従来のあらゆる鏡研究・三角縁神獣鏡を研究する立場とは、全く違った立場に立たざるを得ない。
三角縁神獣鏡についての従来の通説は、主として二通りあって、
第一の通説は従来の京大を発端として唱えられてきた通説の中心説。現在は樋口隆康さんなどが中心で唱えられている説です。
「三角縁神獣鏡は魏朝から倭(ヤマト)へ下賜された魏鏡である。中国で造られた舶載鏡である。」
第二の通説というか、私が使ってみた言葉ですが、
「三角縁神獣鏡は魏から貰った鏡ではない。国産である。ただし邪馬台国は近畿である。」
初め言われたときは、ぎょっとさせられましたが、皆さんはもう慣れておられるでしょう。河上邦彦さんなどがはっきり言われ、他に森浩一さんなど関西大学・同志社大学を中心に唱えられている意見のように見えます。
それで第二の説「三角縁神獣鏡は魏から貰った鏡ではない。国産である。ただし邪馬台国は近畿である。」という説は、私などから見ると綱渡りのような説ですが、第一の通説が駄目になると第二の通説が浮上せざるをえないことになる。
しかし第一の通説・第二の通説共に、私の立場とはまったく違っている。それでは難しい立場かと言いますと、そのようなことはありません。私の説は十分ぐらいで終わります。
何かというと、鏡には銘文がある。特に舶載鏡と言われる物に関しては、はっきりと文字が浮き出ている。またデザイン・図柄もある。
「鏡の銘文と図柄は対応している。」
私の今言いたいことはこれで全部です。前半で言いたいことは、それで全部です。なんだ。そんな簡単なことか。そう言われるかも知れないが、しかし第一の通説にしても、第二の通説にしても、両者は無関係である。そういう立場に立っておられる。
第一の通説にしても第二の通説にしても、「鏡の銘文と図柄は、両者は無関係」、
そのことを疑わずに現在に至っている。
なぜかと言いますと、問題は「三角縁神獣鏡」という言葉にある。
「三角縁神獣鏡という用語がすでに間違っている」
そういう考えは聞いたことがない。第一の立場、第二の立場に関わらず、この命名を使っておられる。しかし私の立場は、この命名がすでに間違っている。その立場に居る。まず「三角縁」ですが、これは縁(ふち)が物理的に上がっています。三角の形をしていますから命名しても何も問題はありません。問題は「神獣」鏡のほうである。「神獣」はただの獣ではない。伝説の中の神秘的な力をもった獣である。「神」は神秘的な力をもった仙人を表す。「獣」と書いて、神のような神秘的な力をもった「獣」を表す。合わせて「神獣」を表す。この鏡に描かれているのは人間ではない。つまり並みの人間は居ない。並みの獣は居ない。神秘的な能力を持った人間や、神秘的な能力を持った獣である。それを先ず決めた。
これは言い方が変ですが、樋口氏が編集された『三角縁神獣鏡研究綜鑑』(新潮社)という本、結論や立場は別にして、非常に精密に写真を撮り、図解された優れた本があります。これによると明治三十年八木庄三郎さんなどにより三神四獣鏡という言葉に始まり、大正九年に有名な考古学者による論文が次々出された。高橋健自さんや、京大の梅原末治さんなどが「三角縁神獣鏡」という言葉を使った論文を出され、また表題に「三角縁神獣鏡」と名付けられた論文も出されていた。そのような論文が次々出された中で「三角縁神獣鏡」という言葉が定着したものです。それで少なくとも大正九年には「三角縁神獣鏡」という命名、名付けられた言葉は存在した。しかしその時、注意しなければならないことは、当時は「三角縁神獣鏡」なるものの正体は、良く分かっていなかった。
私が『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社 絶版)を書いた昭和五十年代でも、まだ鏡が中国から出土するのか、しないのか、私もドキドキしていた。しかし樋口隆康さんや岡崎敬さんらが、三角縁神獣鏡を見つけたら大手柄だと思って、つぎつぎ中国へ調査に行かれた。しかし結局中国では見つからなかった。
駄目押しされたのが有名な王仲殊さんです。中国では珍しい鏡の専門家ですが、
「中国には三角縁神獣鏡は存在しない。」
と言われた。王仲殊さんは中国での数少ない鏡の研究者です。この方が無いと言ったので、まず無い。日本の研究者は中国の文化財が置いてある倉庫の中まで全部調べるわけには、いかない。王仲殊さんは中国の文化財監督の副所長(後に所長、現在教授)の位
置におられて、すべてのデータを調べうる立場にあった。ですからその方が三角縁神獣鏡を主たる研究対象にして調べ回ったけれども、無いと言われた。これは非常に重い響きを持っています。それで、まず中国にはないと考えて良い。以上は昭和五十年代後半の話です。
ですから中国で三角縁神獣鏡は存在しない。無いということは中国で「三角縁神獣鏡」という名前を付けた人はいないということです。実物は無いのだから。だから三角縁神獣鏡は中国では出ないから、日本側で勝手に名前を付けました。そういう話になったのが昭和五〇年代後半の話です。
大正九年の時点では八木庄三郎さん・高橋健自さんなどは、三角縁神獣鏡は舶載と思い込んでおられた。考古学者は、中国でもやがて出てくると思い込んでおられた。国産か、舶載かの議論はなかった。「三角縁」という言葉と、中国でも「神獣」という言葉は存在する。それを組み合わせて、やがて中国から鏡は出てくる。そういう見込みで「三角縁神獣鏡」という言葉を造った。
実を言うと、これが大きな間違いの始まりだった。そのように私は考える。私のような考古学者でない門外漢から言うと、第三者的な目で言うと、これは簡単なことである。
なぜかというと「銘文」の中には、確かに東王父・西王母など神仙の話が出てくるのはご存じのことです。しかしそれ以上に出てくるのは立身出世の話です。また子孫繁盛の言葉です。たとえば「至位
三公」という言葉である。三公というと天子の下の最高の位が三公になる。私などは子供の頃、「末は博士か大臣か」。そういう言葉があって、またそのような教育を受けてきたが、その言葉に当たるのが「至位
三公」です。しかし仙人は出世を望みますか。喜びますか。およそ仙人の世界とは、別の世界だ。また仙人が子供を作る名人だ。そんな仙人は聞いたことがない。これも仙人とはあまり関係がない。それに図柄が神仙であると決めてしまっても、銘文の方は西王母や東王父が問題にならないくらい立身出世と子孫繁盛の言葉があふれ返っている。
しかし銘文と図柄は別なのだ。そういう考えが大正九年なら九年に確定して、三角縁神獣鏡を研究していたその大先生のお言葉を、お弟子さんがそのまま受け継いできた。その立場が、そのまま受け継がれてきた。
もう私の言いたいことは、お分かりだと思う。あの図柄に描かれていることは、銘文とは果たして無関係だろうか。あれが本当に神仙なのか、人間なのか。その検討は全くされたことがない。私も最近講演のたびに何回も、少しづつですが触れていました。あの図柄は本当に神仙なのか。一例をあげますと、いかにも栄養たっぷりの中年ぶとりの腹の出た、かつ顔の大きい人物が真ん中にデンと座っている。横にきゃしゃな女の人が二人団扇(うちわ)で扇いでいる。仙人は棗(なつめ)を喰っていると言うが、それだけではあんなに太らない。また仙人は女好きで女性がいつも側にいるような存在なのか。鏡の中の人物は仙人のイメージに合わない。そういう図柄がよく見られる。講演の後の喫茶店でも尋ねられて答えていましたが、短絡的な印象批評に留まっていて学問ではなかった。しかしこの問題に正面から取り組んで見ると、この図柄は決して仙人だけではなかった。そういう結論に至った。
2 海東鏡
具体的に論証していきます。
三角縁神獣鏡は五百面前後出ていますが、舶載鏡と言われる鏡だけでも三百五十面
になった。その三角縁神獣鏡の代表というか、模範生というか、第一通説の舶載鏡の右代表といわれる大阪府柏原市茶臼山古墳から出てきたと云われる重要文化財になっている大阪府柏原市国分神社蔵の三面の鏡です。これは大阪市立の歴史博物館に収納されています。
このうち二面が三角縁神獣鏡です。もう一面は盤竜鏡で三角縁神獣鏡ではありません。
二十三年前にこれらの実物を見ました。現在と同じく大阪城のある大阪市立博物館に委託されてあり、見せてくれとお願いしましたら、快く見せていただいた。その時は、一人で二時間近く、触れてじっくり見せていただいた。また『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社 絶版)では、表紙に海東鏡と云われるものを使わせていただいた。
また今回は谷本茂さんという測定の専門家と一緒に見せて頂いた。谷本さんは、年中仕事で海外を飛び回っておられるという国際的な測定の専門家です。どの考古学者よりも今回の測定は信頼がおけると言っても過言ではありません。
それでは海東鏡といわれる三角縁神獣鏡を見ます。(『新・古代学』第5集 写真13参照)
大きさは二二三ミリ。 四神二獣鏡で、第一の銘文(二十字左回り)は、 「吾作明竟真大好浮由天下□四海用青同至海東」
とまず有ります。それと、第二の銘文として飛び飛びですが四文字右回り・方格内に「君宜高官」の四字がある。
「吾作明竟、真大好」、私は明るい鏡を作った。「竟」は金偏は無いけれども、「鏡」です。真に、良いものが出来た。
次に「浮由天下」、これは私は大事な言葉だと考えます。それは「浮遊天下」という言葉がありますが、この人は「浮由天下」に直しています。「遊」の字を「由」に、直して使っています。同じ音と言えば言えるでしょうが、ただそれだけではありません。。「浮由」と言った場合、孔子の有名な故事がある。この「浮由天下」という言葉は、孔子が『論語』で述べた有名な句「子曰く、道行はれずば、桴に乗じて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由か。」に対応しています。中国で礼が失われる。孔子が「礼」という場合はただ礼儀のことではなく、周の王室を中心にした大義名分を指すのですが、諸侯は私がいくらその事を言っても聞かない。孔子は絶望しかけている。礼が失われたら、もう中国に私がいる理由はない。東の海に浮かんで中国を離れたい。「由」は孔子の高弟・仲由、字(あざな)は子路のことです。
孔子の弟子の中にはいろいろ居ますが、率直で大胆な元気いっぱいの若者。孔子が亡命者になって、中国を離れたい。そこまで言ったら、付いてくる者はほとんど居ないだろう。いろいろな弟子がいるが、私と一緒に行ってくれるのは、子路(由)、お前ぐらいだろう。お前ぐらいは付いて来てくれるだろう。そう言っている。弟子の子路は喜んだでしょうが。先生は俺をそれぐらい信用してくれている。しかしその後がいけない。「無所取材 材を取るところなし」海に浮かぶためには筏(いかだ)を浮かべねばならない。お前は筏を調達する才能に欠ける。筏を調達するのに、どれくらい才能がいるか分かりませんが、どうも子路は緻密に計画を立てて、それを実行する才能に欠けていたようだ。とにかく元気いっぱいの弟子と思われる子路を持ち上げたり下げたりしている面白い故事がある。とにかく孔子が筏(いかだ)で東に行こう。そう言ったときに出てきたのが由(子路)です。「浮遊」でなく、「浮由」としたのは偶然の一致ではない。当然鏡造師であっても論語を読んでいます。それをバックにして、孔子は願っただけで行かなかったが、私は孔子の願いを実行して東の海に浮かんだ。そういう故事を踏まえた銘文です。そういう解釈は余り見たことはないが私はそう思います。
次の問題は有名な「用青同至海東」の「用」です。我々は「用」を普通動詞に使いますが、これは「以」と同じ。「以って」という前置詞的な用法に使っています。「青同」は青銅ですから、「青銅を以って海東に至った」となる。誰が至ったか。当然「吾」が至った。この文章全体から見て、その中で「吾」以外には主語はない「吾」以外が主語に成るわけにはいかない。
それでこの文章は、青銅を持ってきて海東に至った。つまり孔子の願いを私は達成した。そのような歴史的感慨が含まれた文章です。
それに対して、もう一つ文章がありまして、上下右左四カ所の真四角内に「君宜高官」(四文字右回り方格内)の四文字が、きっちり彫り込まれている。当たり前ですが、この「君」は「吾」ではない。「君」のほうは豪族です。「君は高官に宜しい あなたは高官にふさわしい。」という意味ですが、庶民にこんな事を言っても、からかいなさんな。そう言われますが、豪族で高官に成りたがっている者に対して言ってこそ、お世辞の値打ちがある。あなたは高官にふさわしい方であると。
ハッキリしていることは、この鏡には主語が二つある。「吾」と「君」。「君」はこの鏡のスポンサー・豪族。「吾」はこの鏡を造った人・鏡造師である。先入観というか、こうあって欲しいとか、こうでなければいけないとか、そういう考えなしに鏡の銘文を理解すると、私にはこのようにしか理解できない。
さてそれでは図柄のほうを見てみましょう。昨年の七月、谷本茂さん、藤田友治さん、そして私と三人でこの鏡を改めて見てきました。後で述べる鈕孔問題で、見逃していたということで、改めて写
真を撮りにいくことを文化庁にお願いしました。大変でしたが許可が降り撮影に行きました。谷本さんにはデジタル解析をお願いしています。
まず鈕(ちゅう)を中心にして、向かって右側に人物が二人並んでいる。その右側の二人並んでいる人物の下側、その人物は少し大きく描かれている。冠もしっかりしている。顔も大きく描かれている。その上側の人物は、華奢(きゃしゃ)というか、やや細めに描いてある。その冠も下の冠よりやや小さく、線も細くあっさり描いてある。冠があるという事は身分があるということを表している。また細めに描かいているのは女性であると理解する。つまり右側は豪族御夫妻である。
それに対して、鈕の向かって左側を見て下さい。そこにも二人、人物がいます。左側も下側には少し人物が大きく描かれている。同じく上側の人物はやや小さい。そして大きい人物の被(かぶ)っているものは冠というより帽子に近い簡単なものである。先ほどの右側の人物より、全体も帽子も小さい。そして寄り添っている小さい人物も単なる帽子を着けている。これも写
真でなく実物をよく見れば、両方とも男である。ここで人物に大小がある場合は、身分は対等ではなくて大きい人物の方が偉い。ここでは男同士の場合、片方が主人、小さい方が従者となる。
このように図柄を見て、古田は勝手なことを言っている。そう言われるかも知れないが、ハッキリしていることがある。
何がハッキリしているというと、銘文のほうには、「吾」と「君」いう二種類の主語がある。これは疑いようがない。そして「君」は高官にふさわしい豪族である。豪族は独身とは限らない。普通
は夫妻でいる。また「吾」も海を越えて一人だけで来たのか。別に「吾」と言っているが、助手が居なかったのか。助手を連れてきても、別に不思議はない。それで図柄は二種類の人物がいることは明らかだ。右側には冠がしっかりしていて、男女が描かれているような感じだ。左側には、冠とは言えない帽子に近いものが描かれている感じである。大きい人物と小さい人物、二人が描かれていることも事実だ。そうすると今言った図柄の判断、向かって右側の二人が「君」である。豪族御夫妻である。そして向かって左側、男と男の大小が「吾」であって、鏡造りの親分と子分。「主従」ではないか。そう考えることが出来る。
その私の考えを裏付けるデザインがある。それは何かと言いますと、向かって左の「主従」の主の方、大きな男・主人の図柄のさらに下、飛び出した乳のさらに向かって右側の下のところに、そこにお魚が描かれている。この魚は立派な魚です。我々が今食べている普通の魚だ。この魚は神秘的な魚ではない。中国では、けっこう神秘的な魚がありまして、体は魚であるけれども顔は天女のようなSF的な魚も多い。これは我々が食べているような普通の魚だ。これがなぜ描かれているか。魚は海を泳ぐものです。これは海を越えてきたこと、「海東に至る。」という表現のシンボルが、魚である。中国では魚の絵をあまり描かない。魚の絵は全くないことはないが、たとえば鈕の周りに、猪や虎など山野で飛び回っている獣と並べた装飾化した魚はある。しかしここでは他に獣はなくて、人間以外は魚一匹がいるだけです。この魚の描き方は、非常に珍しい。偶然この鏡造師が、魚が好きだったから描きました。そういう事には成らないと考える。やはり「海東」を越えて来ました。この表現を示している。
この事を二十一年前に、言っていました。『ここに古代王朝ありき』で、海東鏡を論じたとき、この魚だけをクローズアップして論じました。この魚は、この銘文を理解するうえで、キーワードであるかも知れないと、そこで一般の読者に謎をかけたわけです。読者のみならず学者にも提起しましたが、誰も答えがなかった。今もう一度考えてみると二十三年前に重要だと提起したことは、間違いではなかったと考えています。そして銘文と図柄が対応していることを示すものとして、この魚が一つのキーポイントを成すと考えています。
以上、海東鏡という三角縁神獣鏡の代表、このことは樋口隆康さんから何回もお聞きしましたが、重要文化財に成っているのも無理はないと思うしっかりした見事な鏡について論じました。
3 徐州・洛陽鏡
その次に行きます。
一緒に海東鏡と同伴出土した、これも有名な通称「徐州・洛陽鏡」と言われている鏡について述べてみたいと思います。(『新・古代学』第5集 写真14)
三角縁四神四獣鏡で直径は二百三十二ミリです。
中の銘文は
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、師出洛陽、彫文刻鏤、皆作文章、配得君子、清而且明、左龍右虎、転世有名、師子辟邪、集会并王父王母、遊戯□□□宜子孫」
です。
まず「新作明竟、幽律三剛」と決まり文句が並びまして、その後に有名な文句「銅出徐州、師出洛陽」が並んでいる。この鏡は徐州の銅で作った。「師」とは鏡造師のことで、この鏡を作った人は洛陽の出身である。
次にその銘文には「彫文刻鏤、皆作文章」とある。つまり「ここに刻み込んだ内容は、全部文章に書いてあります。」とハッキリ書いてある。先ほどより、私が理詰めで変わったことを言っていると思われたかも知れませんが。またりきんで何を言っていると思われたかも知れませんがと、ここではその通
り書いてある。
次に「配得君子」ですが、ここでは谷本さんは徳目の「徳」という字に読まれたのですが、私は従来通
りの「得」という読みかたの方が良いと思います。意味は変わりませんが。もちろん「君子」というのは君主、身分ある人を指す言葉です。そして「配得」の「配」は、結婚しているという配偶者の「配」という意味で、「配偶の君子」では変ですから、それを立派な表現にして「配得ノ君子」と言っています。「立派な御夫妻」と言って、豪族夫妻を指しています。
「清而且明」は、よくある言葉で普通銅鏡を誉める言葉ですが、ここでは「配得ノ君子」も一緒に誉めている感じです。
そして、これも有名な言葉で「左龍右虎、転世有名、師子辟邪」。「左龍右虎」は決まり文句で左に龍、右に虎がいる。「転世有名」は世を転じて名有り。これは後で説明します。次が、この世の動物ではない「獅子(師子)辟邪」。これも有名な霊獣で、獅子はライオンと同じで、鬣(たてがみ)を持った神秘的な動物。辟邪も有名で邪気をはらうと言われている霊獣です。以上左龍、右虎、師子、辟邪である。この銘文では4匹の霊獣が登場する。
次が大事な言葉である「集会并」。意味は「供に一堂に会して集う。」です。
その次に出てきた「王父王母」は、「東王父、西王母」の略です。「東」と「西」はないけど、東王父・西王母が登場する。それが一堂に会して並んでいます。誰が一堂に会して登場しているかと言えば、人物は配得君子・王父王母、霊獣は左龍右虎・師子辟邪です。それが一堂に会して並んでいます。 そして子孫繁栄に繋がるという、そういう感じの漢字が並んでいます。
さて図柄を見ましょう。
まず左右上下に奥野正男さんが発見された傘松型の紋様がある。その鏡の下側には、人物が二人いる。向かって左側の方が人物は立派です。また向かって右側の冠を見ますと、小さく線も細い。だから右の方が女性の冠。向かって左の方が男性の冠。だから身分のある二人のペア・御夫妻がいる。
さて百八十度ひっくり返して見ますと、そこも同じような図柄が描かれている。向かって右側の方が人物は立派でして、四段になった冠、真ん中の二つが大きい。その冠も立派だ。向かって左側の冠の方が小さく線も細い。それで、ひっくり返して戻してみると、そっくりさん。どうにも区別を見つけることが出来ない。強いて言えば、こちらが少し線が細いと言えば言えるが、どうにも主観的です。冠に区別
が出来るだけで、ほぼそっくりさん。
さて、その次は霊獣を見てみましょう。文字が読める元の位置に戻して、鈕の左側を見ましょう。横に傘松状紋様があり、境にして霊獣が二匹いる。今度は鈕の右側を見ると、同じく傘松状紋様を挟んで境にして、霊獣が二匹いる。今度は左と違って龍に似た霊獣がいる。つまりどれがどの霊獣かどうかは別にしても、霊獣が四匹存在することは間違いない。
文章のほうにも霊獣が四匹居たことは間違いがない。左龍・右虎、師子・辟邪。すでに霊獣の数が一致している。今度は人間の方も、銘文の方には、四人居ました。まず銘文の方に「配得の君子」ということで、豪族が御夫妻で居らっしゃると書いてある。「王父・王母」と書いてある。図柄では東王父・西王母は人間の格好をしている。ここでも合わせて既に人間の格好をした者が四人居る。しかもその四人がそっくりさんに描いている。かつ一堂に会している。
これは一体何を表しているか。ここからは私の解釈である。この銘文を書いた人が言いたいのは、まず片方は「配得の君子」ですからスポンサー。この鏡を作ることを命じた人間の豪族です。そして片方は東王父・西王母。そしてここでは東王父・西王母を、人間とそっくりに描いている。逆でしょうね。東王父・西王母を人間、そっくりに描いている。それは銅の鏡を造ることを命ぜられたあなた方は、あの有名な東王父・西王母とそっくりの方で御座います。おそらくそう説明したと思う。言われた方はそう言われて悪い気はしない。にやけて喜んだと思います。これは偶然似ているのではなくて、そっくりに描いている。何のためにかというと「配得の君子」は偉いというオベンチャラ。その道具に、東王父・西王母が使われている。
そして東王父・西王母と配得の君子、四匹の霊獣が、皆一同に会しています。鈕の周りにみんな並んでいるでしょう。これは文章に書いてあるとおり図柄が書かれている。見事なものでしょう。
さらに傘松状紋様に付いて一言述べておきます。これは奥野正男さんが発見されたものです。しかし中国の王仲殊さんは、黙ってこれを盗用された。この事は何回も言っておかなければならない。王仲殊さんは素晴らしい研究者ですが、同時に大いに、いけないところもある。
言うまでもなく私が、海東鏡の文章を根拠にして、中国の工人が銅を持って日本へ来たのだ。その証拠だ。そう力を尽くして論じた。私は、これは大事だというわけで、『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)でも、海東鏡銘文の解釈として示し、表紙の写真にも使った。私が写した鏡ですが、幸いにも拡大に耐えたのでしょう。使ってある。王仲殊さんにも送ってある。その二年後に王仲殊さんは私の名前もなしに、自分が発見したように書かれた。だらしないのは日本の考古学者です。王仲殊説は私の説だと知っているのに、王仲殊説として常に引用する。私をネグレクトする一つの手法として発見されたらしく、取った人の説として引用する。他の件でもありますが。
その点は樋口隆康さんだけは別でして、「あれはおかしい。王仲殊説で騒いでいるが、あの説は古田武彦がすでに唱えている説である。」と、そのことを産経新聞でハッキリお書きになった。しかし他の考古学者は黙って、いつも王仲殊説として引用しています。外国の学者が盗作しても採り得、認めよう。日本の考古学者は盗作されてもかまわない。そういう立場を、まさに敗戦国らしく日本の考古学者が、これを認めているのは情けない。この点は、私だけではなくて奥野正男さんについても同じである。王仲殊さんは奥野さんの発見を、同じように自分の発見であるかのように言っている。とにかく奥野さんの発見された傘松形紋様は非常に重要である。この傘松形紋様は中国の鏡については出てこない。この傘松形紋様は、日本の鏡には三角縁神獣鏡を初めとして非常によく出てきている。
ただし、これの解釈については私は奥野説と同じではない。なぜなら奥野さんは『魏志倭人伝』の中に、「魏の明帝が、難升米に詔書と黄幢を与えた。」という記事が書いてある。この「黄幢」、黄色い旗に当たるものが傘松状紋様だと力説されている。ですが私は必ずしも当たらないと考えている。この鏡を見ましても、卑弥呼は全然出てこない。卑弥呼がもらった黄幢を、それほど麗々しく扱う必要はない。これは仙人を扱った別
の鏡でも述べますが、この説に関しては奥野さんの解釈は正しくない。
さて、その解釈ですが、私は高貴な、身分の高いことを表すシンボル物であると考えています。ちょうど日傘のようなもので「サシバ 翳 指羽」と言われるものがあります。実用的には太陽の陽が当たるのを避け日焼けを防ぐものでしょうが、実際はそれを乗り越えて、従者が「サシバ」を差し掛けている場合、その人は常に身分の高い人ですよ。そういうことを示すサイン・道具として「サシバ」を使っている。「偉い人ですよ。」、そう言ってみても裸にして見れば、手も足も同じ二本ある人間です。区別
出来ません。それを区別しようと思ったら、「サシバ」か何かが要る。庶民でもありませんよ。奴隷でもありませんよ。ちょっとした小動物でもありませんよ。偉い人ですよ。それを証明するシンボル物が「サシバ」です。それと同じで鏡の中でも、傘松型紋様、これがあれば、この人は偉い人です。庶民ではありません。それを区別
するために描いたシンボル物だと私は考える。
その場合中国であれば、東王父・西王母が出てきたら、彼らは偉い人だと知っていますから説明する必要がない。みんな知っているから。日本の場合は東王父・西王母なんて聞いたこともない。そんなの聞いたこと、ないよ。天照大神・スサノオよりどちらが偉いのか。そんなレベルでの反応だと思う。そのようなことは、いちいち説明できないから百の説明よりシンボル物としての「サシバ」を付ける。ここに登場する人物は素晴らしい人物ですよ。人間でも仙人でも、この場合は関係ない。傘松型紋様を使うということは高貴な人ですよ。そのレベルの人物です。その証明に出現した。私はそう理解する。これは再度述べますが、これはまさに銘文に合っています。
また私が言っていることが嘘でない証拠は、図柄に、転生・生まれ変わりの思想が表現されている。諸橋大漢和辞典を見ても、その例が出ていますが。
たとえば楊貴妃。楊貴妃は天女の生まれ変わりである。そのような詩が作られている。これはオベンチャラです。玄宗皇帝が楊貴妃に入れあげている。その時、楊貴妃は並みの人間ではないと言ってあげる。何を隠そう神仙の世界の天女の生まれ変わられた方でございます。そう言えば玄宗皇帝は喜ぶ。馬鹿な話ですが。そう言うときに「生まれ変わり」を、そういう具合に使う。
・・・仏教として中国でもありますが、日本でもある。子供の頃おばあさんが私に言っていたのは、蟻や虫をいじめていると、虐めたら駄目だよ。蟻やコオロギは御先祖様の生まれ変わりだよ。大事にしなければならない。庭先でいつも教えを受けたものです。・・・思想的には何に属するか知りませんが。仏教でしょうか、道教でしょうか。それとも、その以前から、たぶん縄文からあると思いますが。私はすばらしい思想だと思いますが。それを迷信だと言う方がばかばかしい・・・
とにかく「転生・生まれ変わり」という思想は、素晴らしい思想だ。その思想を、この鏡でも言っています。ここでは何の生まれ変わりか。霊獣が人間の生まれ変わりだとは、ここでは文章でも考えられない。そうすると、ここでは配徳の君子は、東王父・西王母の生まれ変わりで御座います。そのオベンチャラです。図柄ではそっくりだと解釈しましたが、それだけではなくて「転世有名」と、「配徳の君子は、東王父・西王母の生まれ変わりで御座います。」と文章にも書いてある。全て書いてあることを図柄でも示してある。
そうすると、まだこの鏡の理解には先がある。徐州洛陽問題の本当の意味が明らかになる。鏡を論じて、この徐州洛陽問題を論じない人はいないくらい、あらゆる専門家がこれを論じてきた。しかし私のような第三者的な人間から、生意気に言わせてもえれば、単語だけを抜き出して扱っていると感じています。
なぜかと言いますと、「銅出徐州、師出洛陽」の銘文ですが、この銅の鏡のお師匠さんは洛陽出身です。そして銅は徐州から持ってきました。そのように言っている。徐州府そのものはかなり広くて、洛陽がありますが、その洛陽の近くから山東半島の近く、そして揚子江までと大変広い。その全体が徐州府なのです。その中でも徐州の町そのものは洛陽の近くですが、銅をたくさん産出する場所は徐州府の中でも、徐州の町から大変南に離れた揚子江(長江)流域に近いところです。
富岡謙蔵さんという方が、これを論じて徐州というのは洛陽に近いの徐州の町である。そういう事を言われた。最近その説は具合が悪くなってきた。そこで富岡さんの孫弟子である樋口さんなどから、この説はどうも間違いだ。銅が出る揚子江近辺が、この鏡の中の「徐州」であると主張されている。王仲殊さんもニュアンスが違いますが、ほぼそのように考えられています。
それで私が考えますに、鏡にある徐州というのは、別に徐州の町でも良いと思う。徐州府は銅山県の名前が付けられていますが、銅が取れなくて銅山県の名前が付くはずがない。富岡さんもそれを根拠にした。しかしその後実際は揚子江(長江)流域に近いところで銅がたくさん出る。だから揚子江(長江)流域に近い所だと成った。舶載鏡の場合は「銅出徐州」であれば、徐州で一番たくさんの銅が出る。そう言わなければならない。しかし私は舶載説ではない。この鏡では、ここでは極論すれば鏡造師が、私が洛陽から来て作った鏡一枚分の銅は、中国の徐州から持ってきました。そう言っている。一枚分の銅が無くて銅山県の名前が付くはずがない。鏡の「徐州」が、徐州府か徐州の町かはそんなに、こだわる必要は全然無い。ここでなければ駄目だと固執する必要は私はないと思う。こだわるのは舶載鏡の場合の議論である。
王仲殊さんは銅がよく産出するのは揚子江(長江)流域だと言っておられるが、私はこの鏡の書いてある文章を正確に理解することから言えば、書いてあるのは「この鏡を作った材料の銅は徐州の物だ。」と言っているだけです。その徐州が、広い中国全体でどのくらい銅の名産地なのか、そのような一般
論を論じているのではない。
だから私共は何回も言いますが、「京都から来た。」というのは、私共の感覚では京都市内から来た。あるいは私の住んでいる向日市から来ても京都の郊外だから、「京都から来た。」と言うことは可能だ。けれども舞鶴から来たというのを、「京都から来た。」と言われれば、この人はちょっと不正確だなと思う。「舞鶴から来た。」と言えば良い。ですから「京都から来た。」と書くときには、そのような理解で書きます。まして金石文ですから、より正確に書く。ですから私自身は富岡さんのような立場で少しもかまわないと考えている。この鏡を作った銅は徐州の物です。お師匠さんは洛陽から来ました。そう言っているに過ぎない。ですから、この鏡を作った人は洛陽出身の人である。王仲殊さんは、これには困る。王仲殊さんは「銅出徐州」は虚詞・ウソを付いていると否定している。自分の都合の悪いところを、ウソをついていると言えば、どんな理屈でも成立する。これは樋口さんがを痛烈に批判していますが、その通りです。
私にとって大事なことは、「銅出徐州、師出洛陽」の銘、「この鏡を作った銅は徐州の物です。お師匠さんは洛陽から来ました。」という文章全体が持っている役割が大事である。何故ならば、そういう洛陽から来た私たち鏡造師が見たところでは、あなた様は東王父・西王母の生まれ変わりのような方で御座います。つまりオベンチャラの一つなのです。見事なお世辞です。近畿に生まれ育った人がそう言っても、「お前は東王父・西王母を知っているのか。」と言われるに決まっている。しかし中国から来て、徐州・洛陽に関わりが深い我々が見て、あなた様はいかにも東王父・西王母のような方で御座います。生まれ変わりとしか思えません。つまり「銅出徐州、師出洛陽」の、この節はそういうオベンチャラの一節だ。今まで御覧になって、こういう説を唱えた、どの専門家の方も居ないと思う。単語はやはり全体の文章の一部ですから、単語だけを取り出して自分の好きなような解釈することは、私はいけないと思います。
この鏡は、まさに銘文と図柄が一致している。そのように思います。
4 盤龍鏡
次は同じ茶臼山古墳から出てきた国分神社の平縁盤龍鏡という物です。
(『新・古代学』第5集 写真12)大きさは百四十一ミリです。
銘文は(四十二文字、右回)、
「青蓋作竟、四夷服、多賀国家、人民息、胡虜殄滅、天下復、風雨時節、五穀熟、長保二親、得天力、傳告后世、楽毋極」。
「青蓋作竟」の「青蓋」ですが、二つ説がありまして、一つは姓は「青」、名は「蓋」という姓名説があります。「青楊」という人物が作った鏡が別
にありますから、その可能性もあります。
もう一つの考え方として、私が留意して述べていますのは、「皇室もしくは皇太子あるいは王者の車」を青蓋車と呼ぶ。文字どおり青い絹で覆った車ですね。呉が魏に征服されて、天子を称していた呉王が降伏して洛陽に連れられていったときに、「・・青蓋至洛陽・・」という言葉が出てくる。その時呉の天子が載せられた車が「青蓋」と表現している。
私は「青蓋」という言葉は、これは魏の鏡の工房が「尚方」であることは有名ですが、これに対して、もしかすると、呉の鏡の工房が「青蓋」であった可能性がある。まだ私は断定は出来ませんが、「青蓋」が呉の鏡の鋳造所であった可能性を留意して、ここで述べておきます。
この鏡の意味は、
「周辺の蛮族は皆降伏して、多いに国家はおめでたい状態である。人民は憩い、侵入してきた蛮族は皆滅びてしまった。天下は復し、季節も順調になって、穀物や野菜も豊富となり、親も長生きして、天帝の力を得て、後の世にこれを伝える。楽しみに極まりなし。」
となり、字余り無し。
これは蛮族の侵入も終わり、天下太平、おめでたい限りである。おめでたい、おめでたいという文章が連なっている。
それに対して図柄はどうか。盤龍(ばんりゅう)というのは「わだかまってる龍」のことです。ですから鈕の上に龍らしいものが二匹描かれていまして、右側が角(つの)がある龍、左側が角のない龍です。ですから角のない龍が雌(めす)であるということで、この鏡は雌雄の龍と考えることが一応出来ます。そう解釈して、この鏡は盤龍鏡(ばんりゅう)という名前が付いています。しかし今中国では、そうでないという説が存在し龍虎鏡であると言われています。片方の角(つの)があるほうは龍でよいが、もう片方は虎なのだ。我々の目で見ると、虎にしては体が大変長いと思いますが、一説ですから、実在の虎をヒントにしての虎である考えられています。そういう意見もあって、中国の専門家の本では、そう書いてある本もあります。
どちらの立場であっても今の私の理解には直接関係しない。言うまでもなく龍というのは天子をシンボライズしており、豪族が龍を称すれば反逆になる。天子のシンボル物が龍であることは有名である。そうすると、ここの図柄は天子ないし天子の守護神。龍二匹の場合は天子の御夫妻、竜虎の場合は天子と守護神。いずれにしても天子をシンボライズした図案であることは間違いない。この場合は、先ほどの徐州・洛陽鏡と違って、銘文と一字一句対応している。そういう鏡ではない。ここでは豪族の親父さん・お袋さんも出てこない。それでは対応していないのかというと、そうではなくて天下が太平なのは誰のおかげか。「天下が太平なのは、中央におられる天子様のおかげ」という形で対応している。ちょうど南画の世界だと私は言っている。
南画という文人画。唐・宋などのずっと後世ですが。「山水」が描いてある。字も書いてある。桃李に物言わず。人自ずから啓をなす。と書いて有ったとします。桃や李(すもも)は自分では、ものを言わない。しかしその大きさを知って、獣や人間が採りに来る。その下には、自然に道が出来ている。そういう意味でしょう。その場合、道や桃が書いてある必要はない。「山水」がボーと描いてあるが、何となく、そのように感じれば良い。何を言いたいかと言えば、大人物は自分でピーアールしなくとも、皆が自分で感じて寄ってくる。そう云うことを言いたい。「山水」と書かれた詩は、直接関係は無いけれども、大自然のイメージと大人物の気を充満した雰囲気を感じれば良いので、そのような組み合わせた雰囲気を楽しむ。つまり絵のイメージと字のイメージとを複合させたイメージを楽しむ。後世の話ですが、淵源はずっと前にあると思いますが、そのイメージです。この鏡は百四十一ミリという小さい鏡でもあり、これくらいの鏡なら手に持って日常使える。鏡の表は顔を映して日常に手に持って使うものですが、そして使わないときは手元に置いておく。置いて飾る場合は、裏の図柄を見て楽しむ。銘文と図柄が複合したイメージを楽しむ。そういう目的で作られている。
三角縁神獣鏡は普通二百二十ミリもある重たい物です。三角縁神獣鏡とは用途が違うことを感じさせる鏡です。
とにかく対応にはいろいろ有り、一字一句逐次対応している鏡もあるし、一見対応していないように見えるが良く見ると全体として対応している鏡もある。そういうことを申し上げているわけで御座います。
5 仙人鏡
次は瀬戸内海に近い兵庫県揖保郡・権現山51号墳の仙人鏡です。(『新・古代学』第5集 写真15)
有り難いことに書き取った物が、向かって右にありますので、非常に分かり易い。
まず銘文を見ます。
銘文「張氏作鏡真巧、仙人王喬赤松子、師子辟邪世少有、渇飲玉泉飢食棗、生如金石天相保兮」。
「張氏作鏡真巧」作った鏡造師が張さん。張氏である私が作った。真に巧みなり。いつも手前誉めのような文句が出てきます。
この「仙人王喬赤松子」には三人、人物が出ています。仙人・王喬・赤松子。「王喬」は王子喬とも言われます。
そして、「師子・辟邪」が出てきました。ライオンのような師子。邪悪を払う辟邪。「少有」は現在「希有 けう」という言葉を使いますが、同じ意味の「極めて希まれ」を表します。「渇飲玉泉飢食棗、生如金石」は有名な決まり文句が並びます。最後の字「兮」は読まない字で置き字です。
それで、この銘文の中には、人間めいた人物が三人いる。霊獣はこの場合、二匹でなく二種類存在するようです。
それでは図柄を見ましょう。ひっくり返して活字を逆の方から見ますと、そこに人間の形をした者が一人居る。理由は省略して言いますと私は、これが仙人であると考えます。元に戻って下を見ると、そこに人物が二人居ます。これが王喬・赤松子。どちらが王喬か、必ずしも分かりませんが、冠などから言うと、向かって左側が王喬、右側が赤松子らしい。今は明確に断定は出来ません。とにかく間違いがないことは、図柄には人間の格好をしているものが三人居る。銘文の方にも三人の人物が居ることは間違いない。ここで、すでに銘文と図柄が一致している。
霊獣のほうは、向かって右横を下の位置にすると。真下に霊獣さんが二匹います。二匹ともL字型の物を噛んでいます。これは巨(きょ さしがね)と考えます。この巨を噛んでいるのが、これが辟邪の証拠である。この巨を、邪悪を払う証拠品のように噛んでいます。もう一度、ひっくり返して、上の仙人を見ると、仙人から向かって右、そこの霊獣も巨(きょ さしがね)をくわえている。これも辟邪。だから辟邪は合わせて三匹いる。もう一度逆さにして仙人の右を見ると辟邪がおり、その向こう側に霊獣が二匹いる。その霊獣たちは巨を噛んで居ません。これが獅子。御夫妻らしい。ですから銘文で言っている人間三人、それに獅子辟邪。それが図柄でも同じく描かれている。二種類の霊獣、辟邪三匹・獅子二匹という形で描かれている。
次に面白いことが御座います。逆向きにして仙人を見ると、左隣に傘松形文様を手で持っている小さい人物が居る。これは従者である。主たる人物に対して、これだけ小さく描かれていれば間違いなく従者である。この仙人には従者がいる。傘松形文様を差し掛けて「これは偉い人ですよ。」と言っている。もちろん日除けということもありますが。
それで、元に戻して王喬・赤松子を見て下さい。向かって左側、そこにも傘松形文様を差し掛けている従者らしい小さい人物がいる。初め私は、これは王喬・赤松子に対して傘松形文様を差し掛けていると考えていたが、女性の人はやはり鋭い。妻が、この小さい人物は王喬・赤松子にお尻を向けていると見抜いた。言われてみるとそうである。それでお尻を向けているとはおかしい。すると、これはお尻を向けている人物に対してではなくて、獅子辟邪を挟んで仙人のほうに傘松形文様を向けている。そうするとこの傘松形文様を挟んだ所が仙界となる。人間世界ではない。そうすると王喬・赤松子はまだ仙界に入っていない。仙界の側(そば)に居るが人間なのだ。これは有名な話でして、もちろん王喬・赤松子は、初めは人間です。晩年に仙人について修行して仙界に入ったという伝承を持っている人物である。諸橋大漢和辞典でも「王喬・赤松子」を調べれば書いてある。そうするとこの鏡では王喬・赤松子は仙界に入りに来たのだが、まだ仙界に入る直前ということになる。それを描いている。
ついでにもう一言、ひっくり返して仙人に戻ると、ここにも向かって右側に丸い変なものを持っている従者が居る。これは傘松形文様ではない。これが何か良く分かりませんが、おそらくウシと呼ばれるもの。団扇(うちわ)のような物です。仙人が暑いので、うちわで扇いでもらっているかも知れませんが。さらに、もう一つ傑作なのは、その仙人と従者の右隣の辟邪。これは自分の左手で傘松形文様を持って捧げている。。こんな辟邪を私は初めて見ました。それでは、この辟邪は仙人の家来。仙人はこんなに偉い方ですよ、その保証をするために傘松形文様を手に持っている。自分が偉いと言うためには、傘松形文様を自分で持っている必要はない。なかなか芸が細かい。
以上、この鏡は銘文と図柄は対応していますが、単なる対応ではない。銘文の方は仙人・王喬・赤松子の三人がいて、二種類の霊獣が居て、仙界を形作る常識的な単なる文言が書いてあります。ところが図柄のほうは、仙人・王喬・赤松子をめぐるストーリーを設定して、図柄に表してある。なかなか手の込んだ味な鏡で、無関係では全くない。この場合は文章の一字一句と対応するという単純な対応ではない複雑な対応をしている。
今まで全く別の鏡について、私の仮説「銘文と図柄が対応している。」で、問題が解けてきた。いくら私が変な屁理屈を言ったとしても、ここまで対応するものでもない。そういう確信を持った鏡の説明です。
6 三つの神獣鏡
同じような図柄の鏡でありますので、大胆にまとめて説明させていただきます。
A景初三年鏡(景初三年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡)
島根県神原神社古墳出土と言われる
(『新・古代学』第5集 写真2)
銘文「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜地命出、吏人[言名]之、位至三公、母人銘之、保子宜孫、寿如金石兮」
(鏡では言偏に名の[言名]です。[言名]の意味は、銘と同じ)
B正始元年鏡(正始元年陳是作鏡三角縁同向式神獣鏡)
右は群馬県柴崎蟹沢古墳『古鏡』講談社田中卓氏より
銘文「正始元年、陳是作鏡、自有経述、木自猟師、社地命出、寿如金石、保子○○」
Cホケノ山古墳から出た画文帯神獣鏡
銘文「吾作明鏡、鍛錬三剛、配像世京、統徳序道、敬奉臣良、彫刻無祀、百身挙栄衆事主、世徳光明、富吉安楽、子孫繁昌、士圭高升、生如金石、其師命長」
従来の解釈は、専門家によって同類の解説が行われています。鈕を挟んで四人の人物が存在し、対極に位置している。上に琴を弾いているらしい人物が描かれている。右に男らしい人物が描かれている。反対の左側に女性らしい人物が描かれている。下には他の人物の半分ぐらいのスペースを使って小さな人物が描かれている。今上げた図柄は共通
している。
これに対して専門家の解説を見ますと、上の琴をひく人物が伯牙(あるいは師匠である成連である。もしくは親友である鐘子期とされる場合もある)。鈕を挟んだ真ん中二人はは向かって右が男で東王父、向かって左が女で西王母。一番下の小さい人物が黄帝。もしかして他の神仙の人物かもしれない。
おおざっぱに言ってまとめますと、島根県神原古墳の景初三年鏡、またホケノ山、他でも全部そう解説されています。
もし私の説が正しければ全部駄目。
なぜなら鏡の銘文の方には西王母と東王父も出てこない。伯牙も、いわんや黄帝も出てこない。そのことは銘文からは明らかである。
しかるになぜ、そのような解説を行うのか。大先生の解説以来、大正時代から銘文と図柄は無関係。だから銘文になくても、そういう解釈に立って良いという立場です。
しかし私はおかしいものは、おかしいと言います。どこがおかしいか。まず「黄帝」がおかしい。なぜ「黄帝」であるかの説明は、中国の三皇五帝の内、神仙なのは「黄帝」であるからというのは、説明に成っていない。
それに明らかに、私はこれらの鏡は上下型の図柄だと思う。上下型の図柄というのは私が付けた名前で、学者はこれを重列式と言います。おかしいのは、上下型(重列式)の図柄なら、上下ははっきりしている。図柄は決まった角度から眺めるように出来ている。明らかに、これらの鏡そのものは「伯牙」が上で、「黄帝」が下という方向から見るものだ。しかし概念として、伯牙より黄帝が下だということはあり得ない。もし「黄帝」を描くなら「伯牙」の所に描かなけれならない。「伯牙」は、天子の家来である。おまけに「伯牙」の足元に「黄帝」が居る。私の理解では、このようなことは有り得ない。逆に「黄帝」を上に上げて、「伯牙」を下にしてもなんら問題は生じない。「伯牙」を下にしても琴は弾けませんということはない。「黄帝」は上に上げるべきだ。おまけにこの「黄帝」はかなり小さい。しかもこの「黄帝」は、この鏡の下の部分の半分も使っていない。つまり小さく描かれている。小さく描かれている場合は、一概には言えないがルールとして男女を次いで描く場合は、女性を多少小さく描く場合が多い。大きさが同じでふっくらと女性を描く場合もありますが。しかしこの鏡ではそれよりも、もっと小さく描かれている。また「主従」の場合には、主人より小さく描く。
そうすると「黄帝」であるならば、場所もおかしいし、小さく描くこと自体がおかしい。せめてこの「伯牙」という人物並みの大きさに描かなければならない。だから小人物に描くこと自体がおかしい。専門家はみんな、この小さい人物を「黄帝」とする扱いをしているが、私はこれが成り立たないと思う。
しかも、それだけでなく鈕の両側に並んでいる「西王母」と「東王父」の冠も貧弱である。特に「西王母」の冠は非常に貧弱である。男の冠は、やや女の冠より良いが、それでも貧弱である。むしろ小人物の方が、強調して立派な冠を付けている。このあたりが、小人物が「黄帝」に比定された理由でしょう。ですが、この小人物は黄帝ではない。
もう一つ言いますが、上の人物を「伯牙」に比定していますが、琴を弾いていたら必ず伯牙なのか?。屁理屈を言うようですが、中国人は伯牙以外はみんな琴をひけないのか。そんなことは有りませんね。伯牙は琴をひける上手な人物の代表である。中国人の文化人はたしなみとしてみんな琴をひける。多くの官僚は文化人ですが、鏡の中の文化人を伯牙とどうやって区別するのか。この図柄は琴がひける人物であるというに過ぎない。私はむしろ中国の文化生活を表現していると考える。
そしてこの図柄を説明すれば、上の人物は「伯牙」という特定の人物でなく、官僚・文化人。つまり偉い人一般。そして鈕の左右にいるのは一般的に言えば豪族夫妻であるかも知れませんし、お父さん・お母さんかも知れませんし、景初三年鏡で言えば、向かって右が男で吏人・身分のある人、向かって左が女・母人ではないか。それを表現している。一番下の小さい人物が子供で、立派な冠を被っているのは立身出世するように。そういう決まり切った図案ですが、そういう形に銘文と図柄が対応していると考える。
(上下型の図表というのは私が付けた名前で、考古学者はこれを重列式と言います。すべての図柄が鏡の中心である鈕を向いている鏡は同向式と言いますが、私は放射線式が良いと思う。)
しかも景初三年鏡について重要な発見がありました。
Aの島根県神原古墳、景初三年陳是作銘・三角縁同向式神獣鏡ですが、銘文を見て下さい。
銘文「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、社地命出、吏人[言名]銘之、位至三公、母人銘之、保子宜孫、寿如金石兮」
この鏡は魏の年号・景初三年があって、魏から下賜された鏡とされることが多い。ところが京都産業大学教授の森博達(ひろみち)さんは「景初三年鏡が中国鏡ということは全くあり得ない。」とはっきり言われた。
それは第一の論点として、この鏡の銘文は文章として韻をふんでいない。例を示されて、この時代の文章は必ず韻を踏んでいる。このような韻をふんでいないものを中国の天子が下賜するはずがない。そう言われた。
第二の論点として、非常に優れた視点から明示されたのは、「母人」という言葉である。この「母人」という言葉は、我々が辞書と呼んでいるものの中には、出ていない。諸橋大漢和辞典にも康煕字典にも出てこない。ところが『大蔵経典』に出ていることを森さんは発見された。総索引を引けば必ず出てくる。
これはなぜか。森さんの判断では、これは「母人」が白話(庶民の俗語)であって、口語として使われた言葉である。我々が知っている辞書はインテリの辞書である。インテリの辞書には口語は出てこない。しかし大蔵経典はインテリのために訳したのではなく、民衆を教化するために訳した。だからたくさんの口語を使って訳した。だから「母人」が現れている。森さんには大発見だと激励しておきました。
私の理解では、そうすると、この鏡を作ったのは、日本列島の人間が作った鏡ではない。なぜなら日本列島の人間が白話を使えるはずがない。中国語を勉強しても、孔子とか論語とかインテリ用のものを用いる。中国語の辞書にも白話は出てこない。
次に同じく中国の魏の天子が作らせたものでも有り得ない。それは何故かというと、私が勝手に作りました言葉に「韻家」という言葉を作りましたが、要するに「韻家」と「鏡師」の区別
をすべきものだと考える。森さんは、三世紀の中国では、必ず文章や詩は韻が踏まれている。例を示して、そういう証明をされた。それでは誰だって詩では、韻を踏んだ詩を作ることができる。韻を扱うことが出来る。そんなことはないと思う。韻を踏むというのは高度の知的作業だと思う。鏡造師はそんなインテリではない。実務労働者。鏡造師が日本に来るときに韻家を連れてきた。おそらく逆でしょうが、韻家のほうが偉い。韻家が鏡造師に同行して日本に来た。この場合は韻を踏んだ文章を作れるだろう。しかしこの鏡の場合は、鏡造師だけが日本に来た。だから自分で銘文を作らざるを得なかった。このように森さんに申し上げると、飛び上がるようにして賛成していただいた。そういうことを言いたかったかも知れません。
このように理解するしか仕方がありません。
この景初三年鏡を舶載の証拠に、中国で作った鏡である証拠に使う専門家は多いが、私は中国からではない、舶載でない証拠に使うべきだと考える。
なぜかというと、そもそも「景初三年陳是作鏡、自有経述、本是京師」と書いてありますが、今の問題は、私が作った鏡「景初三年、陳是作鏡」と言った後で、自分の経歴を言い始める。自分は元は京師洛陽に居た。それから余所に離れて行った。自分の経歴を言い始める。こんな年号の使用方法は(中国では)有り得ない。だって天子を原点にした年号である。天子を原点にした時の流れを示すのが年号である。だからその年号があれば、中国の天子が倭王に鏡を与えた。そういう文言が続かなければならない。表現はいろいろ有るでしょがたとえば簡単に、「竜風東至。竜(龍 天子)の風(威光)が、東に至る」、これで天子が倭王に鏡を与えた。そのようになる。他にも簡単にこのような文言は出来る。このような文言が繋がらなくては「景初三年」と言った意味がない。私の履歴云々とこの鏡に書いてあるのは、この鏡が中国の下賜鏡でない証拠である。
(「陳是」は「陳氏」という説と、姓は「陳」、名は「是」であるという王仲殊さんのすっきりした解釈などがあります。)
(京都産業大学教授の森博達(ひろみち)さん、この人は五十一歳です。なぜこの年齢にこだわるかと言えば、私の一人よがりですが、私共の年代で一番勉強させられたのは漢文だった。旧制高等学校の授業の時、なによりも一番予習をさせられたのは数学や英語よりも漢文だった。今の方は想像できないでしょう。一番苦労した経験から言って、後の世代はそれほど漢文を勉強していないので、中国の古典を読むのに非常に苦労する。年寄りのなんとかで勝手に心配していた。その心配は全然ない。五十一歳の森博達さんはすばらしい。音韻という中国語学から入られ、吉川幸次郎の漢文理解は間違っている。前代の名だたる大家を、きちんと的を得て批判される。本当のことを率直に書いておられる。『日本書紀の謎を解く』ー中公新書ーもぜひ御覧下さい)
7 鈕孔問題
以上森さんに「韻家」と「鏡造師」を区別することを申し上げたのは背景があった。
それが鈕孔問題です。(『新・古代学』第5集 写真3〜8を参照して下さい)
鏡の鈕孔研究で名を挙げられたのは阪大助教授の福永伸哉氏です。今まで普通の中国鏡の鈕孔のかたちは丸形、あるいはドーム型に開けられている。三角縁神獣鏡に多いのは平たい四角ないし平らな帯状の鈕孔である。中国では渤海沿岸や楽浪ないし北部中国にある。従って江南から来た人が三角縁神獣鏡を作ったという王仲殊説は誤りとされる。福永論文の標的は王仲殊批判である。
ただし私の説から言うと問題がある。王仲殊さんは私の説を盗用した。但し全部を盗用したのではなくて一部分を盗用した。先ほどから言ってますように徐州・洛陽鏡とあるように中国南部から来たということは当然です。『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社版絶版、ミネルヴァ書房刊行予定)では、それと共に洛陽から中国北部から朝鮮半島を経由して日本に来たこと書いてあり、一回も疑ったことはない。但し、それだけではありませんよ。中国南部江南から来たルートも見逃してはいけませんよ。漢が滅亡したり、呉が滅亡したりしているではありませんか。その時に亡命という形で鏡造師が日本で作った可能性がある。理屈だけでなく、現の証拠が「至海東」という銘文ではないか。そういう論証を行った。私にとっては北回り・南回り両ルート含んで存在を主張した。それを王仲殊さんは、「至海東」の南回り説のみ盗用された。だから王仲殊さんはもっぱら呉ルート。先ほどの徐州・洛陽鏡は虚詞を書いている。そういう無理を冒してまで、呉からしか工人は来なかったと言おうとした。それを福永さんは鈕孔問題から批判された。その限りでは、呉でも一例、例外がある。また藤田友治さんはもう一例、例外を見つけた。その限りでは福永氏の王仲殊説批判は一応当たっている。しかし私に対する批判には成らない。そういう形で私は受け止めた。
とにかく私は福永論文を読んで、三角縁神獣鏡の鈕孔は長方型が多いと理解した。
そうすると二十一年前に海東鏡の実物を見たときには、私は鏡鈕の孔の形など注意したことがなかったことに気付いた。それで再度確認しようとしたが、最近は手続きが面倒になっていて、なかなか見せて貰えない。国分神社に電話すると個人には見せないと言われた。しかし大阪府教育委員会の方の大変な御尽力により、その方はわざわざ国分神社に出向かれて、一時間半にわたり古田に見せるよう説得された。それで谷本茂さんと御一緒に国分神社の鏡の鈕孔を撮影した。見てみると、長方形どころでなく・・つぶれている。何と何と驚きました。全然ダメ。私の素人の写真を見ても、ひどいですね。表現しようもない無惨な格好をしている。三鏡とも鈕孔はグチャグチャ。
それから今度は6月2日島根県神原神社の景初三年鏡、これも見ました。重要文化財に成っていますので、文化庁に申請して許可を取り、同じく谷本茂さんと御一緒に鈕孔を撮影しました。そうするとこれも鈕孔は長方形どころではない。グチャグチャ。乱型と言っても良い。これのデジタル解析もお回しします。
私はこれらの鏡を撮影する前は、福永さんがあれだけ研究されたのだから間違いはないだろう。しかし私は学問のセンスとして、人が言っているからそのまま引用するのでなく自分で確かめる。そういう考えで再度確認するために調べた。そうすると、私の最初の考えはまったく覆(くつがえ)された。
景初三年鏡、徐州・洛陽鏡、海東鏡という重要文化財になっている三角縁神獣鏡の代表はぜんぶダメ。全部鈕孔はぐちゃ、ぐちゃ。私は福永さんが言われたとは別の概念を建てました。詳しく言えば不定型。本当はこの言葉では概念を表せない。乱型というほうが近い。また紐も通
りにくい。
何と表現したらよいか分かりませんが、神原神社の鏡は、お月さんのようなような形というか、鈕孔の上の穴は右上を向いている、下の穴は左下を向いている。ぐちゃぐちゃな鏡だ。
ですから鈕孔は定型と乱型(不定型)の区別が重要である。私の考えでは、中国では室内工芸品。顔を映すことが重要である。終われば手元に置く。至近距離で目に触れる。私はものには拘らない人間ですが、毎日この汚い鈕の孔(あな)を見せられたら嫌になります。貴族ならば、やり直せと言うに決まっていると思う。我慢して、このようなひどい鈕孔のある鏡を使っている必要はどこにもない。だから中国の鏡の鈕孔は丸にしろ長方形にしろ、すっきり通っている。長方形は水野さんが提唱されたのですが、騎馬民族は北方にいる。彼らが皮紐を通すのには長方形・四角の鈕孔が良いとのではないか。良いアイディアです。皮紐を通すのに意味があるということで長方形に成っている。どちらにしても室内で使う場合は、長方形の孔がすっきり明いていなくては成らない。ところが日本の場合は、室内で使うのではない。儀礼の場で並べて太陽を、夜だったら月でしょうが、反射させて使う。その場合儀礼が始まったときは、並べ終わっている。我々は、いつも裏を見て論じているが、逆で反射する方が表。鈕がある方は裏である。だから高官の目には入らない。だから手抜きされる。
これと同じことが、出雲の銅剣と銅鐸の件でも言える。加茂岩倉の銅剣、荒神谷の銅鐸、どちらにもX印が刻印されていたので、同時に同じ集団が作ったということを、京都国立博物館の方が発表されました。しかし失礼ながら、私はこれは違うのではないか。一生懸命見たのですが、銅鐸のX印はきっちりと刻印されている。対して銅剣のX印はたくさん有るのですがメチャメチャです。場所は剣(矛)の柄の位置にあることは間違いがないが、あるものは端にある。あるものは真ん中にある。あるものは剣(矛)の近くにある。位置が一定していない。それ以上に、私にとって大切なことは筆跡である。(笑い)筆跡というか、彫り込み口もメチャメチャ。右側が深くて、左側が浅いもの。反対のもの。両方とも浅いもの。両方とも深いもの。私は三十代に文書の筆跡研究をしていましたので非常に気になる。彫り込み方はバラバラ。位置もバラバラ。これは何かというと私の考えでは、ここに木の柄を付ける。一般に銅剣と言っているが、私は長い柄を付ける銅矛であると考える。とにかくX印は木の柄に隠れてしまうから、使っている人には見えない。工人だけは知っている。ましてお祭りの場所では誰にもX印は見えないから誰も知らない。ですから一定の場所に一定の様式で彫り込む必要はない。そういう性質を銅剣は持っているので、加茂岩倉の銅剣と荒神谷の銅鐸のX印は全然違うと考える。これも一生懸命書いているが、誰も反応がない。また実証的に調べさせて欲しいと申し入れた。谷本茂さんによると、彫り込み深さなどを測定する器械でグラフで明確に表すことが出来る。その測定の申し入れも行ったが、調査中だから駄目だと断られた。しかしやはり、このような自然科学的な研究は実施すべきだ。説は各人がどのような説でも出しても良いですが、やはり自然科学的な基礎的なデータは出すべきだ。
その経験があったので、やはりこの鏡の鈕孔の場合は、儀礼の場で裏になって隠されている。実用的に問題にならない。見逃されている。そういうことに気が付いた。このような鈕孔が乱型の鏡は中国製ではない。しかし逆も真ならずで、鈕孔が定型であるからと言って、その鏡は中国製とは限りませんが。たとえば奈良県五條市鴨津波古墳から出土の三角縁神獣鏡も見た。これも面白い。四面あって、うち棺内にあった一面だけは銘文があり、棺外の三面には銘文がなかった。この銘文は他の例がない文章です。図柄もお粗末。ところが鈕孔に関して云えば、棺外の三面の方がスッキリしていた。四世紀半ば、この段階で言えば、鈕孔もきっちり作るべきだ。あるいはきっちり作れた。そういう時代になってきた。
鈕孔の問題は当時の鏡造りの技術ノウハウの問題と思う。現代人の感覚では鈕孔を通
すのは簡単だと思っているが、あの時代の技術ではスッキリ通すのはなかなか難かしかったのではないか。専門家の意見も聞きたいし、また実験を行って欲しいと思っているが、私の予想を言えば、あの鈕孔を通すには中子(なかご)を入れなければならない。穴を開けるためには。その中子は木なら直ぐ燃えてしまう。土(粘土)などで覆った木を入れるのでないかという考えを聞いたのです。それはそうだと思いますが。
私の仮説で言えば、要するに弥生土器を作るノウハウではダメだ。銅を熱するには、土器より大変高い温度が必要です。だから職人は「まいった。」とまいった思う。今の磁器とか須恵器とか高熱で作る土器がありますが、そのレベルでないと、うまく行かないのではないか。そういう想像をしている。とにかく海東鏡の段階では、中子を通すノウハウは無かった。そう気付いてから、やっと重要な問題に到達した。なぜ今になって、やっとそんなことに気が付いたのか、私としては悔やまれるが。
それは鏡師と鋳工は別である。そういう問題である。それまで鏡は一人の人間が責任を持って作っていたと思っていた。どの専門家の論文を見てもそういう感じで書いてある。ところが、この考えでは駄目で。海東鏡で見みますと、周りの文字はきっちりと寸分の狂いもなく、右回りに均整の取れた見事なものです。そして四字は逆周りに均等に並べデザインもまたバランスの取れた見事なものですよ。均整の取れたその美意識は素晴らしい。ところがそこの鈕に開けられている孔はぐちゃ、ぐちゃ。あのぐちゃぐちゃな孔で我慢できる美意識は変な美意識。あの鈕孔を作った美意識は全然ダメ。美意識というと主観的に見えますが、同一人の美意識には見えない。それならば別人である。要するに銘文と図柄をいれたら、鏡師は私の責任は終わり。後はあなた達、鋳工の責任。鋳工は日本の労働者です。鋳工の方が人数は多く日本人で実権をもっている。鏡師は顧問的で、日本に来た渡来人で客分である。鋳工の方は用途も知っており、室内で工芸品として使わない。そういうことを知っているから、鈕孔なんかどうでもよい。実害はないよ。
これには技術的な問題もある。鈕孔をきちんと作ろうと思えば、鏡師は知っていて聞かれれば鋳工に教えたと思う。しかし鋳工は用途も知っており、そこまで苦労しなくとも別に差し支えはない。そういう実際上の判断で、そのままにした。そういう主客の関係まで出てきた。
そういう判断に達していたので、森さんの話でも、「韻家と鏡師の区別」をすべきだ。そう気付いた。少なくとも鏡一枚で見ましても、韻家、鏡師、鋳工、三段階に別れる。もっと細かく別れるかも知れませんが。そういう考えに至った。
以上述べたとおり優秀な三角縁神獣鏡ほど鈕孔は乱型と言っても間違いではない。ですからあの三角縁神獣鏡は中国製では有り得ない。国産である。
そういう結論に達したわけで御座います。
そうすると(阪大の)福永さんは、この鈕の問題から中国の鏡だと論じているが、私は反対にこの鈕の現状では、上に挙げた三角縁神獣鏡の代表である鏡の鈕一つを論じても、これだけでも中国の工房で作られたものではないことは明らかである。
本講演録は、『新・古代学』第5集、特集 三角縁神獣鏡の史料批判の解説です。安満宮山古墳の解説(さよなら邪馬台国! 改訂しました。)と合わせて、ご覧下さい。
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