古田武彦
一
北海道へ来た。「古田史学の会・北海道」のお招きである。なつかしい顔の方々が千歳空港にお出迎え下さった。一年振りだ。
翌、八月四日。さらに多くの方々がホテル(ガーデンパレス)に集り、北海道開拓記念館を目指す。会員の千葉さんの御紹介で、館側の創立以来のベテラン学芸員、平川善祥さんの説明をうける。午前から午後にかけ、一室・一室、情熱のこもった解説、もっと端的に言えば「可愛くてしようがない」我が展示物、といった感じ。心にしみた。
平川さんが公務員になった頃、道の上役が業者などに対する態度は“不遜”そのものだったという。自分の書き物の終るまで、あいさつ一つ返さず、一言も発せず待たせておくことなど、平気。「あのような役人にはなりたくない。」そう思った初心を、今に貫いてきた方である。
二
展示場から地下室の全三階ふくめ、拝見し終った中で、もっとも心に残った展示、
それは旧石器人の墓だった。二基発見されているという。何の変哲もない、素朴なものだけれど、その意味は少くない。なぜなら、“旧石器人は皆、墓を作っていたのか。”この問いだ。もし、そうとすれば偶然の発見にしても、「二基」は少なすぎるのではあるまいか。 そうでなければ、“これは墓を作るような人々、つまり「リーダー」の墓ではないか。”そういう問題が浮び上ってこよう。すなわち、「旧石器社会の構造」にかかわる。
もともと「墓」とは、生前社会、その社会構造の写し絵だ。「死」に名を借りた、生の世界の象徴なのである。旧石器人の墓も、その例外ではないのではあるまいか。 「十勝石」と呼ばれる、北海道の巨大な黒曜石の製品(鏃など)。それが遠く、沿海州の黒竜江沿岸や樺太にまで分布しているのは著名だけれど、それらはそれほど「巨大」な石片ではないという(平川さんによる)。
とすると、十勝・白竜・旭川などを「中心」として、周辺の分布圏に及ぶ、一大「十勝石」文明圏の実在を“想定”せざるをえぬ
であろう。その生産と流通、交易のあり方は。そう考えてくると、少年のように好奇心の胸の高ぶりをおさえ切れなかったのである。
三
八月五日、念願の赤井川へ行った。原石のあったという(千葉さんによる)、峠の方へは、営林署による通行禁止のため、向うことができなかった。しかし旧石器遺跡とされる畑の中からは、幾つも黒曜石の石片が表面採集できた。ここは火山のカルデラ地帯、その火口内に現在は、赤井川村が存在している。その当時は、旧石器人が寄り集い、繁栄した場所だった。
この数年、わたしにとってここ「赤井川」は、魅惑の言葉だった。未見の土地だった。その理由は次のようだ。
第一、「国引き神話」が日本海の縄文神話である、という分析のさい、その“裏づけ”を求めてウラジオストックへ行った。いったんは“空振り”に終ったけれど、ソ連(当時)の学者が八ヶ月あと、七十数個の黒曜石の鏃を持参した。立教大学の原子力研究所の鈴木教授の検査によって、その五十パーセントが出雲の隠岐島の黒曜石、四十パーセントが赤井川の黒曜石であることが判明した。
(出雲とウラジオストック間の縄文交流、証明。『古代史を疑う』駸々堂刊、参照。はじめ“男鹿半島”のち「赤井川」に訂正。)
第二、和田家文書(東日流外三郡誌)によると、最初の先住民が阿蘇部族(粛慎の一派)であるのに対し、次の「侵領民」は津保化族(靺鞨の一派)であるという。その津保化族は津軽海峡圏に分布した(「三内丸山」も、その一)。その海峡圏に分布するものが「赤井川の黒曜石」である。
この海峡圏とウラジオストック(その東北方<ハンカ湖>が靺鞨の本拠地の西端部)との縄文(後期)交流を、赤井川の黒曜石が“裏づけ”ていたのである。
秋田孝季は言った。「歴史は足にて知るべきものなり」と。その通りだ。だからわたしは、赤井川を自分の足で踏んでみたかった。年来の熱望だった。それが北海道の会の方々のおかげで実現した。何という幸せであろうか。
一行の女性の方々が次々と黒曜石を発見、わたしにとどけて下さった。わたしも見出した。これ以上の幸せはなかった。
四
八月六日、講演の当日。昨年に倍する盛況だった。吉森さんはじめ、世話役の方々、個性にあふれた、すばらしい人間集団の成果
だった。
わたしは「五点論証」や「二都論証」、さらに「二倍年暦」問題の一大展開や「南方征服説」、さらに和田家文書について語った。四時間がアッというまにすぎた。親睦会の二時間も一瞬だった。深謝百回。
(以上)
(ふるたたけひこ・昭和薬科大学教授)