一年のずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑「改刻説」補論 古代貨幣異聞

古田史学会報
1999年 4月 1日 No.31


一年のずれ問題の史料批判

百済武寧王陵碑「改刻説」補論

京都市 古賀達也

 昨年九月、古田武彦氏らは韓国の武寧王陵碑を見学され、その碑面の字の改刻された痕跡を調査された。そして、武寧王没年干支「癸卯」の部分が改刻されており、原刻は「甲辰」であったことを確認された(注1. )。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(一一四五年成立)などから五二三年癸卯とされているが、陵碑には本来その翌年干支にあたる「甲辰」とあったのである(『梁書』百済伝については後述)。国王の墓碑という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくい。そこで古田氏は、干支が一年引き上がった暦が百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされた。そして、その改刻時期は同陵に合葬されていた王妃の埋葬時(五二九年己酉。王妃没年は五二六年丙午)に改刻された可能性が高いと指摘された。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行暦に変更されたと考えられるのである。発見された陵碑文は次の通りである。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 私も「二つの試金石」(『古代に真実を求めて』2集)において、「大化五子年土器」の干支が、『二中歴』などに見える九州年号「大化」に比べ干支が一年引き上がっていることを指摘し、干支が一年ずれた暦の存在を示唆したのだが、この武寧王陵碑も同様の痕跡を示していたのである。しかも、百済国王の墓碑という史料性格、学術発掘による発見という理想的な史料価値を有する金石文であることから、干支のずれた暦の存在を証明する動かぬ証拠とも言いうるのであった(注2. )。

 今回、わたしはこうした古田氏らの発見(「甲」の第一発見者は勅使河原君偉氏)と相対応する文献史料情況を見いだしたので報告したい。

一 『書紀』武烈四年の武寧王即位記事

 『日本書紀』武烈四年条(五〇二年壬午)に武寧王即位が記されている。
 是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。國人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。〔百済新撰に云わく、末多王、無道して、百姓に暴虐す。國人、共に除つ。武寧王立つ。諱(いみな)を斯麻といふ。(後略)〕
(『日本書紀』武烈四年条。〔〕内は細注。)

 この『日本書紀』の記事は、細注にある『百済新撰』からの情報と思われるが、武寧王の即位を武烈四年壬午(五〇二)としているのである。一方、朝鮮半島側の史料、『三国史記』にはその即位年を前年の五〇一年のこととしている。この差異について、たとえば岩波の『日本書紀』注釈では「書紀が正しく、史記の東城王の年紀には誤りがあるようである。」と処理している。しかし、武寧王の時代、百済で干支が一年ずれた暦を使用していたと理解すれば、『日本書紀』が引用した『百済新撰』に記された干支も一年引き上がっており(この場合、五〇一年の干支が壬午となる)従って『日本書紀』編者は現行暦の壬午の年すなわち、武烈四年条(五〇二年)に武寧王即位記事を配したものと思われる。対して、『三国史記』は正しく五〇一年に武寧王即位記事を記していたのである。
 しかし、武寧王没年記事については『日本書紀』は『三国史記』と同じく、継体十七年条(五二三年癸卯)に配している。
 
 十七年夏五月、百済王武寧薨。
 (『日本書紀』継体十七年条)

 夏五月、王薨、諡曰武寧。
(『三国史記』武寧王二十三年条)

 いずれも五二三年癸卯のこととしており、没年記事に矛盾はない。すなわち、『日本書紀』の没年記事は現行暦に基づいて記された情報により、継体十七年条に配したものと思われる。従って『日本書紀』に見える武寧王の即位記事と没年記事とは、それぞれ異なる干支暦を用いた情報に基づき配されたのではあるまいか。この現象は、百済における暦の変更が武寧王没年付近でなされた可能性を示しているのだが、先の武寧王陵碑の改刻現象と対応していることからも裏づけられよう。

武寧王・新・旧暦対応 表

西暦  現暦干支 異暦干支  記事・出典』
五〇一  辛巳   壬午  武寧王即位・『三国史記』
五〇二  壬午   癸未  武寧王即位・『日本書紀』
五二一  辛丑   壬寅  武寧王朝貢・『三国史記』「武寧王二十一年条」
五二二  壬寅   癸卯  武寧王朝貢・『冊府元亀』「普通三年条」
五二三  癸卯   甲辰  武寧王没・『日本書紀』『三国史記』
五二四  甲辰   乙巳  武寧王没・『梁書』「普通五年条」
五二五  乙巳   丙午  武寧王埋葬(墓碑)

インターネット事務局注記2001.8.30
表そのものは、縦書き( jpgデータにして表示)

 

二 『書紀』雄略二十年、蓋鹵王死亡記事

  『日本書紀』には百済系三書(『百済記』『百済新撰』『百済本記』)が合計十八ヶ所に引用されているが、雄略二十年条(四七六年丙辰)に百済蓋鹵王の死亡記事が記されている。高句麗の侵略により百済王や王妃、王子が死ぬという、重大事件だ。ところが、そこに引用された『百済記』には「百済記に云わく、蓋鹵王の乙卯年の冬に、狛の大軍、来たりて(後略)」と前年(四七五年)の乙卯のこととされているのだ。この場合、干支(乙卯)まで記されているにもかかわらず、『日本書紀』編者は雄略二十年条(丙辰)にこの乙卯記事を挿入しているのである。
 これも、干支が一年異なった異暦の混在を前提にしなければ理解困難であろう。すなわち、現行暦で四七五年乙卯とされた蓋鹵王の死亡を、『日本書紀』は一年干支が引き上がった暦による情報から、翌年の丙辰のことと理解し、雄略二十年丙辰条に配したのではあるまいか。それと同時に、死亡を前年の乙卯とする『百済記』も細注であえて挿入したのは、『日本書紀』編者の困惑の現れと見なしうるのではあるまいか。
 この理解が正しければ、『百済記』は現行暦で編纂されていたことになる。一方、その記載記事の内容から、百済系三書の対象時代は『百済記』『百済新撰』『百済本記』の順になっているが、より古い時代を記した『百済記』の方が現行暦を採用し、次代の『百済新撰』が武寧王以前に使用されていたと思われる異干支暦を採用していることは興味深い。この史料状況は、百済系三書の史料性格や成立時期において、再検討されるべき問題を含んでいるように思われる。

 

三 『冊府元亀』武寧王朝貢記事

 中国の類書『冊府元亀』(注③)に武寧王が梁へ朝貢した記事が見える。

 三年(普通三年、五二二年壬寅)十一月、
 百済国遣使朝貢。
 (『冊府元亀』普通三年条)

 ところが『三国史記』にはこの朝貢記事が武寧王二一年(五二一年辛丑)のこととされているのだ。

 〔武寧王二十一年〕冬十一月、遣使入梁朝貢。
     (『三国史記』武寧王二一年条)

 この一年のずれを従来の論者は、『冊府元亀』の「普通三年」は「普通二年」の誤りと単純に理解してきたようである(注4. )。しかし、これも異暦の混在による現象と見たとき、きわめて理由のある誤りとする理解が可能である。すなわち、本来百済側の情報は干支が一年引き上がった暦による記事「武寧王二一年壬寅(五二一)朝貢」であったものが、後に中国側では干支の壬寅を根拠に現行暦の壬寅の年、普通三年(五二二)に配したのである。他方、『三国史記』では異暦の干支を記さず、「武寧王二一年」の記事としたのであろう。

 

四 『梁書』百済伝武寧王没年記事

 冒頭紹介した武寧王陵碑の発見により、武寧王の没年は五二三年癸卯(異暦では甲辰)と確認されたのであるが、中国史書『梁書』百済伝(六二九年成立)では「普通五年(五二四)、隆(武寧王)死。」とあり、『三国史記』や『日本書紀』の記す五二三年癸卯とは異なっていた。そして、武寧王陵碑の発見によりこの問題は『梁書』の誤り、あるいは文章理解の変更という形で「決着」したのであるが(注⑤)本稿で述べてきたように、これも『梁書』の単純ミスではなく、『冊府元亀』武寧王朝貢記事と全く同様に、干支が一年引き上がった異暦と現行暦との混在による「理由ある誤り」であったこと、もはや多言は要すまい。

 以上、内外史料より四点の異暦混在の痕跡を検証してきたのであるが、この異暦混在の事実を受け入れることにより、『日本書紀』や中国史書における百済関連記事年次の全面的な再検討が必要になるばかりか、国内記事においても同様の史料批判が要請されること、自明であろう。と同時に、なぜこの時期、百済は暦の変更を行ったのかという問題が提起されよう。それらの問題は稿を改めて論じたいが、中国における南北朝対立の狭間でゆれる百済のおかれた国情を深く反映しているのではあるまいか。同様に倭国、九州王朝における異暦混在も今後の課題としなければならないと思われるのである(注6.)。

 

(注)

1. 『多元』二八号掲載、古田武彦「虹の光輪」にいきさつが紹介されている(一九九八年十月)。「多元的古代」研究会関東発行。なお本稿の帰結に従うならば、この碑に記された埋葬年干支の乙巳(改刻されていない)も一年引き上がった表記と見なし、従って同乙巳年の実年代は前年の五二四年となるところであるが、その日付干支から判断すると、この碑文の乙巳年は現行暦の五二五年乙巳の日付干支に一致している。従って、同碑文本来の原刻没年干支は一年引き上がった異暦で、埋葬年干支は現行暦で記されているという、一見奇妙な史料状況を示していることになる。このことから判断すると、百済が暦を変更したのは、武寧王没直後、埋葬以前となるのではあるまいか。

2. 干支の異なった異暦については、友田吉之助氏による精力的な研究『日本書紀成立の研究』(風間書房、昭和四四年刊)がある。同書に紹介された数種の暦に、本稿で取り上げた一年干支が引き上がった暦は見えないが、一年下がった暦は見える。もっとも、干支のずれの方向は史料理解の方法により逆転する可能性もあり、本稿の問題も含めてこの点留意が必要であろう。

3. 『冊府元亀』一千巻は宋の王欽若らの撰で一〇一三年の成立。中国古来の史実を三一部一一〇四門に分けて記したもの。

4. 坂元義種『百済史の研究』、塙書房刊(一九七八年)。

5. 同左。坂元氏は「普通五年」を「隆死す」ではなく、その後の明(聖明王)を册封した記事にかけたものと理解するべきとして、「詳しくは後考を期したい」とされた。

6. 法隆寺釈迦三尊像光背銘に記された年日付干支より、同文は現行暦によることがわかるが、同光背銘に見える上宮法皇が九州王朝の天子多利思北孤のこととすれば、この時期、九州王朝では現行暦を使用していたこととなる。一方、後代文献に干支が一年引き上がってた九州年号を持つ記事が見える(『肥前舊事』引用「遊方名所略」他)。

 また、『寧楽遺文』収録「金銅阿弥陀仏像記(西琳寺縁起所載)」に見える「寶元五年己未」という年号は(通説では斉明五年己未、六五九年とされる)、私見では九州年号「告貴元五年(五九八年、現行暦では戊午)」の誤記であり、この場合も干支が一年引き上がって翌年の己未とされているのではあるまいか。


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プロジェクト「古代貨幣研究」第一報

古代貨幣異聞

京都市 古賀達也

 昨年の黒塚に続き今年も富本銭発見のニュースが年頭を飾った。どうも予算年度の関係で、こうした発表は年度末前のこの時期になるのだそうだ。その富本銭だが、古銭マニアが所蔵しているものを含めると五〇枚ほどあるとのこと。平城京跡から学術発掘される以前は、あまりに出来が良いので江戸時代に作られた絵銭の一種と見られていたそうである。
 このように、古代貨幣が後代のものと思い違いされて、古銭マニアの間で扱われていた事実は興味深い。なぜなら、他にも謎の貨幣が文献やマニアの中に存在しているからだ。富本銭の教訓を活かすためにも、それら謎の貨幣をいま一度学問研究の対象として見直す必要があるのではあるまいか。そこで、本稿では管見の及ぶ範囲で謎の貨幣を紹介したい。

 『賈行銀銭片』。これは研究者の間では有名である。昭和十二年、奈良県西大寺跡から金銭「開基勝寶」三十一枚とともに発見された大型の銀銭片で、方孔の右に賈、下に行の字があり、上と左の部分は欠けている。復原した場合の直径が約3・7センチメートルで、和同開珎の約2・4センチメートルと比べてかなり大きい。文献に現れていない貨幣で、以前わたしは『賈行銀銭』が九州王朝の貨幣である可能性が高いとする小論を発表したことがある(注1. )。

 『則天弘通』。『日本書紀』天武十二年条に見える銅銭とされる。出典は『濫觴抄』(十四~十五世紀の成立とされる。編者不明)だが、未発見。

 『開化進寶』。天智天皇の頃、伊予より献じられた白 を以て鋳造したとされる。出典は『和漢古今稀世泉譜』。ちなみに白 はスズのこととされているが、愛媛県にはスズ鉱山は無く、アンチモン鉱山があるため、伊予からの白 はアンチモンのようである。従って、『開化進寶』は銀銭か。
 この他にも『秘庫器録』には次のような貨幣が紹介されている。応神天皇十七年に造られた金銭と銀銭。円孔があり文字は有るが摩滅により判らない銀銭を三十枚所蔵していると記されている。古田先生が言うところの「無文化銀銭」のようである。

 更に反正天皇二年五月に造られた銅銭。方孔の周囲に「卍」が四字あるとのこと。編者は卍を稻のこととしている。この『秘庫器録』は偽書とされているが、わたしには簡単に偽書とは断定できないものが感じられる。他にも謎の貨幣はあるようだが、後日報告したい。

 富本銭発見に触発されて、この度、古田先生を中心にプロジェクト「古代貨幣研究」チームが発足した。メンバーは古田先生と浅野雄二氏(長野県)・木村由起雄氏(千葉県)・山崎仁礼男氏(奈良県)、そしてわたしの五名だ。期間は二年間。三ヶ月毎に各人が研究成果などを報告しあう。本稿はその第一報である。古代貨幣を多元史観で共同研究するという、初めての試みであるが、メンバーは元日銀マンや現役の経済研究に携わっている人など、強力だ。様々な側面から古代貨幣が研究されるであろう。
(一九九九・三・三)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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