菅江真澄疑考 「日の本」の巻
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「古田武彦顕彰会・奈良」主宰 太田齊二郎
【起】
古田先生は、倭国によって追われた旧「日本国」はツガルに逃れ、そこに第二のふるさとを建国したとし、その根拠として、縄文稲作、地名の日本、日本中央碑などを慎重に検証されました。
みちのくをこよなく愛し、且つ東日流外三郡誌の編集に協力したということが、いよいよ有力になって来た菅江真澄にとって、この「日の本」がどのように映っていたのだろうか、という疑問が本稿の目的です。
【承】
「このひのもとにありとある、いそのかみふるきかんみやしろををがみめぐり、ぬさたいまつらばやと、あめの光あきらけき御世の、おほんめぐみあまねくみつといふとし(天明三年)長閑き春もきさらぎの末つかた、たびごろもおもひたち父母にわかれて…」
これは、菅江真澄が《伊那の中道(本文)》の冒頭において、自分の旅の目的を説明したものです。
「ひのもとにありとある」神社に幣を奉るための旅であると言いながら、彼が書き残した膨大な日記のどこにも、信濃、越後を離れた後、みちのく、えぞ以外に、立ち寄った形跡を見出すことは出来ません。真澄は「ひのもと」を、どう見ていたのでしょうか。
この《伊那の中道》には、異文が残っており、それによると、ほかの日記にも見られるような、真澄自身の手による書き直しの跡が明白なのですが、「ひのもと」が日本列島全体を指すのであれば、明らかにこの表現は実体に矛盾しています。例えば「みちのく」などと書き直さねばならない筈です。
【転】
昭和二十四年青森県東北町で「日本中央」の四文字が刻まれた石碑が発見されました。発見当初から、今でも偽造説が絶えません。
江戸時代には、歌にも詠まれている伝説の石碑、という憧れもあってか、菅江真澄を含む、多くの著名人が当地を訪れています。石碑はまだ地中でしたが、水戸藩士の長久保赤水の日記『東奥紀行』や、幕府巡見使に同行し、真澄と同じ頃ここを訪ねた、古川古松軒の日記『東遊紀行』などに、当時の絵図が残されております。いずれの絵図も石碑は細長く、頭部は尖っています。偽造説の根拠は、現物がないまま、想像の絵図からの判断はナンセンスであることは言うまでもありません。
絵図の石碑は尖がっているのに、出土したものは丸型、という所にあるようですが、
東日流六郡誌絵巻に、出土した石碑とそっくり絵図があることから、和田家文書偽書説の根拠にされましたが、文化三年に南部藩が編集した『旧蹟遺聞』には、壷には「つぶらな、丸い」などの意味があることから、碑は丸みを帯びた自然石であろう、と推測をしており、この絵巻のネタは、当時のこのような伝承に基づいたのかも知れません。
さて、いずれの絵図にも「日本中央」の四文字が大きく刻まれています。古松軒は、阿部比羅夫の古事や多賀城碑の碑文を参照し、日本を広く見せようと、ここがその中央であると誇張したのではないか、と解説していますが、当時の知識人たちが、ツガルに「壷のいしぶみ」という伝説の石碑があり、そこに刻まれているといわれている「日本中央」の四文字の存在に、大きな関心を寄せていた、という事実を疑うわけには行きません。
菅江真澄は「日本中央」碑を訪ねた時の印象を、日記《岩手の山》に残しています。それによれば、彼は「さりけれど碑のすがた見ざれば、何をもて家つとと、友がきに語らん」と石碑が地中にあって実見出来ないことを悔やみ、「ふたたびここに来て、ひねもすつばらに尋ねてんと」再訪を誓い、後ろ髪を引かれる思いで、次の目的地へ向かいましたが、何故か「日本中央」の四文字について、その印象を全く語っていません。《伊奈の中道》では、敢えて「ひのもと」の文字を残し、越前の芳賀寺を訪ね、そこに伝わる「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の尊称に接した筈と思われるなど、この四文字に関心がない訳がないのです。
ここでいう「友がき」が誰を指すのかというのも気がかりですが、真澄には、未発見の《千引の石》という日記があります。再訪時のものでしょうが、彼はそこで「ひのもと」について、何かを語っているのでしょうか。発見が待たれます。
【結】
菅江真澄をみちのくに留めさせた原因、その一つに「ひのもと」を挙げることに躊躇しません。彼の日記をおおう、みちのくに対する惻隠の情、その根源はこの「ひのもと」にあったのです。
東日流外三郡誌の編集に参加した菅江真澄は、後にその共同作業から離別するようになっても、業務上知り得た、いにしえに関する情報を、日記に残すことを憚かったのではないか、という古田先生の解説は、和田家文書には真澄が何度も登場するのに、真澄の日記においては、秋田孝季は全く無視されている実体や、真澄の日記には、東日流外三郡誌との関わりを示す、具体的なものは何一つ記述されていない、というような状況を、ありのまま説明しております。
内田武志氏は、特に津軽時代における真澄について、多くの疑問を残しております。この時期は、東日流外三郡誌の編集時期に当り、その疑問を残したまま、共同作業に対する真澄の関与を否定するのは、かなり無理なものがあるといわざるを得ません。菅江真澄の周辺に対する見直しも必要です。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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