『君が代の源流』 へ
「日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)
古田史学会報1999年8月8日 No.33
古田武彦
一
わたしには忘れられぬ、亡父の記憶がある。早朝、机に向い、眼前の小冊子を前に、必死で口ずさむ姿である。それは、その日に学校で奉読すべき「勅語」の文言であった。或は、教育勅語、或は大詔(開戦の詔勅)などであった。もはや知悉し尽くしている文言なのに、念のために、何回も、何回も、くりかえしてつぶやいていた。父は、広島の旧制中学校の校長であった。
伝え聞いた。ある学校の校長が、つい「勅語」の文言を読みちがえ、責任を感じて自殺した、と。父の姿の背後には、その校長の面影がだぶって見えた。近寄りがたい一刻である。若い、わたしの耳朶(じだ)を突き刺した。
その記憶がよみがえったのは、今年の二月二十八日、広島の世羅高校の校長の自殺のニュースを聞いたときである。戦前と戦後、校長たちを取り巻く状況は一変している。しかし、わたしには、全くの“別
事”とは見えなかった。真面目な教育者、学校という現場の長が当面していた恐怖、それはわたしには、「よそごと」とは、どうしても思えなかった。それ故、何ぴとにも遠慮することなく、亡父の霊の前において、この一文を草したのである。
二
“日の丸”の淵源は古い。江戸時代にこれがすでに用いられていたこと、著名であるけれど、それはほんの、最近の話。中・近世といった、浅い歴史ではない。八世紀のはじめの続日本紀、文武天皇の大宝元年(七〇一)の項の「(左)日像・青竜・朱雀幡、(右)月像・玄武・白虎幡」の記事に典拠を求める論者も存在するが、そんな“新しい”ものではない。
弥生時代の筑紫(福岡県)、古墳時代の大和(奈良県)その他において頻出する銅鏡(多鈕細文鏡・漢式鏡・三角縁神獣鏡等)、その役割は何か。当然、“太陽の光を反射させる”ための儀礼用の器具である。儀礼の場において、一つ、ひとつの銅鏡は、それぞれ、天空の「一個の太陽」を反射して輝いたのである。真実(リアル)な太陽を“映(うつ)す”ことと、白地に赤く“一個の太陽”を描くことと、“器材”こそ異なれ、同一の精神の表現と見なす他ないのである。その思想史的意義は同一なのだ。
中国では、貴族の女性などの好んだ化粧道具の一つにすぎなかった銅鏡が、なぜこの日本列島では、おびただしくこのような使われ方をしたのか。その理由は明白だ。日本列島の旧石器・縄文にさかのぼる鏡岩、それは各地(たとえば、土佐清水市・西宮市など)に遺存している。東方もしくは、東北・東南方に対面した、平面状の石英質の花崗岩類、それらは“一個の太陽”を反射して輝いた。その輝きの中で、人々は太陽信仰の儀礼をもったのである。彼等はただ、石器や土器作りといった“物質”生活だけに満足していたわけではない。“人はパンのみにて生くるものに非ず”の名言は、イエスなどの生まれるより、はるかなる古えより、生きていたのである。少なくとも、そのような縄文の精神生活を大前提にせずして、あの弥生・古墳期における銅鏡の盛況を
“解説“ することは困難であるように、わたしには思われる。さらに、現代においても、伊勢神宮をはじめとし、各神社において“鏡”を御神体とするケースの少なくない事実、これを説明することもまた、不可能なのではあるまいか。要するに、“日の丸”の、日本列島という「海中の火山島”あるいは「海中の岩島」における歴史は、あまりにも遠く、かつあまりにも永い。そう言い切って、わたしはあやまらないと思う。
三
これに対して、一種の論者がある。「十五年戦争の中において、アジアの人々は『日の丸』を憎んだ。それ故、『日の丸』は国旗とすべきではない。」と。
然らば、問う。十八世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパの列強は、そろってアジアを犯した。植民地としたのである。その列強の国旗、たとえばユニオン・ジャックやたとえば三色旗など、それらはいずれも「独立」を願い、「反植民地主義」の志をもつ人々には憎まれたはずである。憎悪の対象となったこと、疑いない。では、それ故に、アジアの人々はそれらの列強に対して、「国旗の総とりかえ」を要求しているか。聞いたことがない。“日の丸”の
“とりかえ“ を要求する人々は、もしその人々に同じき“良心”が存在するならば、“列強の国旗すべて”の “とりかえ“ を強く要求しなければ、およそ“すじ”が通らない。それは単に“敗戦国”への
“いやがらせ“ に堕するであろう。誇りあるわたしたちは断じて “いやがらせ“ に屈してはならない。
わたしは“十五年戦争”とは言わず、「太平洋戦争」とは言わず、“大東亜戦争”と言う。これが、歴史上、実在した名称だからである。これが、あの戦争において当局者が“国民”特に青年たちに訴えた“大義名分”である。そしてその“大東亜共栄”の“名分”とは裏腹に、中国を侵略し、アジアの人々、そしてアジアにいた世界各地の人々を或は“侮辱”し、或は“殺戮”した。その現の証拠として、わたしはこの歴史的用語をあやまたず、忘れず用いたいと思う。
天空なる“一個の太陽”は、わたしたちの先輩の陥った、或はおとし入れられた、あの惨状の上にも、常に輝いていた。あやまたず、見つめていた。そしておそらく、未来の「真の共栄」の姿をも、深く照らしつづけることであろう。わたしは“日の丸”には、その無二の証人となってほしいのである。
四
一転する。“君が代”は天皇家の歌ではない。他王朝の歌からの“転用”あるいは“盗用”である。その経緯を略述しよう。
“君が代”に当る歌は、古今和歌集に出ている。賀歌の部である。
題しらず 読人しらず
わがきみは千代にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで
(巻七、三四三)
当集中、“読人しらず”とされた歌は少なくない。その内実は、一に実際に編者、紀貫之がその歌の作者名を知らなかった場合、二に“知っていた”が、これを記することを避けた場合、その二種類があるものと思われる。有名な、平家物語(巻七、“忠度都落ち”)の場合のように、“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(千載和歌集)に収録したという逸話が知られている。古今集の場合も、この第二のケースが少なくないかと思われるけれど、右のような“伝承”が記録されていない限り、一般には判別しがたいのである。
けれども、今問題の“わがきみは”(三四三)の場合は、いささか状況がちがっている。
なぜなら“わがきみ”という以上、これは当然“特定の人物”を指す。歌の内容からすれば、“特定の君主”と見なすのが自然である。( “自分の恋人“ を指す、とか
“自分の御主人“ を指す、といった理解もあるけれど、いずれも実証なき、一種の “恣意的“ な解釈であろう。)
これがもし、天皇家内の歌であったとすれば、当然“何々天皇のとき”とあるべきところだ。たとえば、
寛平御時きさいの宮の哥合のうた
よみ人しらず
むめがかを袖にうつしてとゞめてば春はすぐともかたみならまし
(巻一、四六)
のように、作者名については不明としながら、題の方には“寛平御時”(八八九〜八九八。宇多天皇)と明記されている。このような風物歌(の態)のものでも、“題”がある。まして「特定の天皇に対する、特定時点に作られた『賀歌』」であったとすれば、その特定の天皇の“表記”がないのは、不審だ。簡単に「忘却された」とか「伝承し落した」などと言いうるものではない。
五
この謎を解く鍵は、意外なところから見出された。それは九州の志賀海神社(福岡県)の祭儀の中に出現している。後漢の光武帝から贈られた金印が出土したことで知られる、志賀島である。
“山ほめ祭り”と呼ばれる、一連の祭儀の最終場面、椅子に座る宮司の眼前で、村人たち(祢宜<ねぎ>等集団)が “ドラマ“ をくりひろげる。各自の“せりふ”が定められてあり、その後半に至って
祢宜二良(弓を執る)
君が代は千代に八千代にさざれいしの
いわおとなりてこけのむすまで
と、(歌ではなく)荘重な口調で告(の)べられる。そして
「あれはやあれこそは我君のめしのみふねかや」
という“せりふ”へとつづく。
別当一良
志賀の浜長きを見れば幾世経(へ)ぬらん
香椎路に向いたるあの吹上(あげ)の浜千代に八千代まで
とあり、
「あれはやあれこそは阿曇(あづみ)の君のめしたまう御船になりけるよ」
と告べる。
すなわち“七日七夜のおん祭り”に果してお出でなさるか、と心配していた“我君”が、こちらからお迎えに出した船にお乗り下さって、香椎路につづく対岸の“千代”(現在、福岡県庁所在地近辺の地名)からお出で下さっている、と喜んでいるのだ。“筑紫の君”である。もちろん、後代の“近畿の天皇”ではない。博多湾岸の歌だ。
その“筑紫の君”を、志賀島の漁民(海洋民)たちは、“阿曇の君”と呼んでいる。彼等は「阿曇族」だ(現、宮司家も“阿曇”姓)。だからこそ、“筑紫の君”なる“阿曇の君”を“我君”と呼ぶのである。これが、古今集巻七の「三四三」冒頭に現れた
「わがきみは」
という第一句の意義なのである。その「わがきみの統治したまう世」を呼ぶ言葉が「君が代」だ。その本来の“正しい意味”なのである。(従って“君が世”という表記の方が、より原義をしめす。当然ながら“発音”の方が本来の伝承であること、日本語表記の常である。)
> 六
右の理解を裏づけるもの、それは現地(糸島・博多湾岸)における、一連の地名・神名群の存在である。
先ず、“千代”。先にのべた通り、現在の福岡県庁の所在地は、千代である。地下鉄「千代県庁口」は駅名だ。その博多湾岸は、千代の松原と呼ばれている。
「八千代」は、その増幅形。おそらく、博多湾岸一帯を指したものであろう。(筑紫は、現地では“ちくし”と発音される。“ちよ”と同類地名である。)
次は“細(さざれ)石”。博多の西、糸島郡(現、前原市)に細石神社がある。有名な、弥生の王墓、三雲遺跡に隣する。吉武高木遺跡(福岡市)につづき、漢式鏡(前漢式鏡)をもつ、最古の“三種の神器”の王墓だ。
“さざれ石”は “年月を歴(へ)た神聖な石“ の意。当神社の御神体を指すものであろう。“細”は “かすか“ “すくない、まれ“ の意をもつ(もちろん“ちいさい”の意もある)。なお、同神社の境内には、各種の石(神石)が小祠内に蔵されている。
第三に、“いはほ”。右の三雲遺跡の南隣に、井原遺跡がある。“いはら”ではなく、「いわら」と発音する。“岩羅”であろう。「そら」“うら”“むら”等と同じく、古代日本語にもっとも多い接尾語の一つだ。(吉武高木遺跡のある“早良(さわら)郡”は、“沢羅”の意。沼沢の地である。)
この井原遺跡も、先の三雲につづく、漢式鏡(後漢式鏡)をふくむ“三種の神器”をもつ古王墓であるが、“井原”の地名は、背振山脈の最高峰“井原山”に基づく。(井原の地の南方に当る。)
井原山は、鍾乳洞の名山である。水無(みずなし)にある、その入口は狭いけれど、内部には、あの“鍾乳石”のつらなりをもつ、という(現地で永年、巡査の任にあった、故鬼塚敬二郎氏による)。“岩羅”の名は、この「鍾乳石群の連なり」を指すものであろう。そしてこのような“鍾乳石の連なり”の姿を「いはほ(岩穂〈秀〉)」(古今集)と呼んだ。このような“岩穂”が、何千万年以上の、気の遠くなるような歳月の中で、ようやく“かすかな石(細石)”から成長しつづけて、この見事な輝きの長列に至ること、それを古代の人々は(或はわれわれ現代人以上に)よく知っていた。そしてそれを“神のなせる仕業”と見なし、これを崇敬しつづけていたのではあるまいか。「鍾乳洞信仰」と呼んでも、不可はない。実は「鍾乳石」にシンボライズされた、大自然そのものへの讃嘆なのである。
第四に、“こけのむすまで”。糸島郡の西北部、唐津湾に臨むところ、そこに桜谷神社がある。漁師達の奉ずる、ささやかな神祠だが、その祭神は“こけむすめのみこと”である。
この地の北、玄海灘に面するところ、そこには有名な“芥屋(けや)の大門(おおと)”がある。“け”は “物の気(け)“ “おばけ“ などの“け”。 “精霊のあるところ“
を意味する。「や」は“やしろ”“やど”などの“や”である。
ここを“表”とし、その南方の“裏”に当たるところ、それが“こけ”だ。“し”(“ちくし”等)に対する“こし”(越)、“ゆ”(湯)に対する「こゆ(児湯)」などと同類である。
“むす”の“む”は“宗(むね)”の意。 “主“ をしめす。“す”は“すむ・すまひ”の“す”。住地を意味する。“むす”は “主たる住地“ の意である。(“鳥栖(とす)”〈佐賀県〉も、同類語)
“め”はもとより、女神。縄文以来の、海洋民にとって “御利益“ 深き女神であろうと思われる。(弥生時代を“中心時期”とする、記・紀神話以前の、縄文の女神か。)芥屋の大門は、海中に突出・屹立した奇巌をなす巨大岩盤であるから、先の井原山の“鍾乳石群”とも相つらなり、一連の巨石信仰時代の神名の一つであろう。
以上の地名・神名群との対応を、すべて「偶然の一致」視することは、平常なる理性をもつ人々にとって、なしうるところではない。先の、志賀海神社の祭儀と相対応させるとき、
「『君が代』の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家に非ず、先進の筑紫の君(九州王朝の君主)である。」
以上の事実を“知っていた”からこそ、紀貫之は敢えてこれを “隠し“ 、“題知らず”「読人知らず」の形での掲載を “企図“ したのである。
けれども、以上の事実が明らかになってきた現在、これを以て、あたかも「天皇家内の歌」であるかのように扱うのは、「換骨奪胎」、率直に言えば、“盗用”の疑いを、限りなくまぬがれえないのではあるまいか。
たとえば“読人知らず”とされた、落人たる平家の公達の歌を以て、それと知りつつ、あえて“源氏の将軍の、時を得た歌”として喧伝するごときに、あたかも似ているのである。無礼だ。
七
> さらに一歩を進めよう。
古今集巻七の“わがきみは”(三四三)の四首あとに、次の歌がある。
仁和の御時僧正遍昭に七十の賀
たまひける御歌
かくしつゝとにもかくにもながらへて君がやちよにあふよしも哉(がな)
〈三四七〉
仁和は光孝天皇の年号(八八五〜八八九)。その天皇の御歌である(仁和元年、十二月十八日、仁和殿)。ときに僧正遍昭は(旧暦)七十才。当時では“古稀”として、類少ない長命だった。その僧正に対して
「このようにして、とにもかくにも、永く生きながらえてほしい。」
の意をのべた歌である。僧正はすでにかなり “弱って“ いたようだ。だが、「それでもいいから、ともかく長生きを。」と、厚く情を寄せられた形である。
今、問題の“わがきみは”(三四三)の歌も、同じだ。元気一杯の、青春や壮年のさかりの“わがきみ”に対して、“千代に八千代に”と、その長寿を祈っても、何も悪くはないけれど、やはり“病状とみに悪化”“命、旦夕”といった、厳しい状況の中に“わがきみ”があったとき、はじめて“千代に八千代に”の祈願を、古くからの(縄文の)女神にささげる、という、その行為はきわめて自然、歌の流れとしても、まことに理にかなって(リーズナブルとなって)いるのではあるまいか。
先の志賀海神社の祭儀の歌でも、「千代にいます、わが君」が、来られないか、と思っていたら、“七日七夜”の最後の日に、お出で下さった、という、深い歓喜の情が自然にこめられていた。やはり“わがきみ”はすでに老齢、国民がその先行きを心配していたとき、そのさ中の歌なのではあるまいか。
「命、旦夕の老人君主の病状回復を祈る歌」
これが、この歌の本来の姿だった、という可能性が限りなく高い。胸の打たれる歌だ。だが、冷静に考えてみれば、そういう歌が一国の“国歌”としてふさわしいか否か。常識ある人々には、おそらく判断が可能なのではあるまいか。
八
わたしの青年教師時代、参観授業があった。近隣(松本市)の高校の国語の授業だった。当の教師は教壇の横の椅子に座し、生徒が二人、議長・副議長となって授業が進行した。古典の教科書の一文につき、各語句や各文章の意見を求め、複数・多数の意見が出たときは、そのたびに“採決”を行なった。
「この意見が多数でした。だから、これが正しい解釈と認めます。」
議長はくりかえし、そう発言した。五十分間、担当教師は前後の短い“挨拶”めいた言葉以外、何の発言もなかった。これが、敗戦間もない頃(昭和二十年代半ば)、「民主主義の模範授業」と考えられていたようであった。
わたしはその頃、週二時間の“国語(乙)”で、一年間の大部分を使って『ソクラテスの弁明』(岩波文庫)を教科書代りに使った。戦後、未だ発刊なく、松本市内の印刷所で全版の複製を作り、教科書代りのみに使用することの許可を岩波書店に求めたところ、直ちに快諾の返書が来て感銘した(長野県立松本深志高校)。
偶然ながら、学生時代からの愛読書だった、この名著は「多数決という、民主主義的評決によって、この不滅の哲人を死刑に処した」さいの産物だった。西欧文明の根本精神は、この名著の蔵する“教訓”を以て、至上の古典の一つとしたのであった。真の民主主義の姿である。
今、六十代以下の人々は、遺憾ながら、いささか浅薄な、“戦後民主主義”の申し子でなければ、幸いだ。白亜の殿堂の中の、七十代のいわゆる政治家諸氏も、或は例外ではないのかもしれぬ。
「歌の本来の意味は、どうであれ、自分たちが多数で決めた意味が『正しい』のであるから、法律化して何が悪い。」
もし、そのように考える、また言い放つ人々があれば、わたしはあの昭和二十年代半ばの生徒たちが“浅薄なる多数至上主義”に毒されつつ、成人した姿を、哀れにも今、そこに見出さざるをえない。
あやまれる教育は、五十年にしてその不幸な実を結んだのである。
九
明治の若きリーダーは、より慎重であった。新しき“国歌”を求めて、努力し、模索した。その歌曲も、何回か変更されたことが知られている。
これに対し、現代の、ずっと年かさの政治家たちは、いささか、或は大いに“怠慢”なのではなかろうか。“新しい国歌”を真摯に求めて模索する、本来の努力を惜しんでいる。
“天皇は神聖にして侵すべからず”の天皇(君)と結びつけて “教え“ られてきた歌を、そのまま“民主主義の象徴”の歌へと “横すべり“ させようとしている。“軍隊”と“自衛隊”との
“言い変え“ に終始し、事を糊塗してきた悪習が、ここでも“利用”されているようである。
自衛隊の中であれ、外であれ、誇りある若者たちを求め、豊かに創出しようとしてこなかった、戦後の五十年。その悪習がここでもまた、この国を奥深くむしばみつづけているようである。
「いつわりの法を以て、国民に法を軽侮させることなかれ。」
七十をすでに過ぎた、一老人のこの直言に耳を傾けられる方あれば、以て幸いとする。
もし逆に、弾丸等を以てこの身を消さんと欲する人士ありとせば、わたしはこれをさらに一層の光栄と見なすものである。
一九九九年 七月十日 記
〈補〉
「君が代」について、わたしの著述にはすでに『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社、一九九〇、刊)があり、関係者の各名も記されているけれど、さらにこれを深化せしめた理解を『「君が代」を深く考える』(五月書房)として、世に問い、本稿の論旨の不足を補う予定である。
なお、一言する。井原山の鍾乳洞は不用意に入ると、危険である(鬼塚氏も“救助”のため、出動された)。それらの鍾乳石はそれこそ“苔むした”原生植物群に取り囲まれているであろうから。福岡県内では、平尾台〈北九州市〉の目白洞・青竜窟等があり、公開されている。
さらに日本列島最大の鍾乳洞と石灰台地をもつ“滝穴”(明治以後、秋芳洞。山口県)は、九州に隣接していること、周知である。
以上
第二回の第二信、おとどけします。
〔一〕
先ず、三上喜孝氏の論文(史学雑誌、第一〇六ー 一一)。第一信の森明彦氏の論文と並んで、現在の若手の研究者(東西)による貨幣研究です。
今年の四月から続日本紀研究会例会(月二回)に、久しぶりで時折出席していますが、その収穫の一端です。(森氏は、わたしの隣席でした。)
〔二〕
次に、この前もお知らせした「失われた貨幣」と題する講演のレジメです(豊中市、六月十二日)。
「貨幣研究をはじめたばかりで、なぜ『通史』を?」と、いぶかる方もあるかもしれません。しかし、ちがいます。なぜなら
「鳥瞰図←→微視図」
この両視野は「相補関係」にあります。決して、一方が完成して、他方を論じうる、といった関係ではありません。
逆に、知らず知らずに「与えられ」た、基礎的歴史素養の色めがねが、正確なるべき「微視」を狂わせる。その事例は、今回の富本銭・和同開珎研究にも、ハッキリ現われています。
ここで、右の講演の冒頭でわたしは「縄文貨幣」の概念を提起しました。その縄文の機軸的通貨の筆頭に、あの「黒曜石」が当てられるべきことをのべました。従って、縄文とは“貧富の差(ことに地域差)のはなはだしい社会”である、と主張しました。(この主張自体は、従来の講演等で力説しつづけてきたところです。「縄文貨幣」という用語は、今回はじめて用いました。古賀達也さんには、前から申し上げておりました。)
さらに「縄文都市」の用語は阿久遺跡発掘のとき、「縄文国家」の用語は三内丸山遺跡発掘のときに用いたことを、プラトンの国家論(縄文晩期に当る。前四二七〜前三四七)を引用しつつ、論証しました。
講演の全体は、とてものべることができませんが、「和同開珎」と「富本銭」の銭文の問題のみ、摘記します。
(A)「和同」の語源中、最重要視さるべきは論語である。
(「子曰、君子和而不同、小人同而不和」 子の曰わく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。)
倭国と中国(隋・唐)とは「同」ではないが、「和」の関係を保つ、との主張。(自己を「天下和同」のごとく、「天子」の位置におく。)
「曲水詩序」の用例に注目。(<詩緯>天下和同、天瑞降、地符升。〔文選〕巻四六、王元長三月三日曲水詩序。李善注引用)
(B)「富本」の語は、馬援の光武帝(後漢)への上書の一節だ。(馬援は光武帝に対する「反乱」当時からの協力者)
倭国は、光武帝から金印をもらった歴史をもつ。当時、貴方の側(北朝)は匈奴・鮮卑を称し、光武帝とは敵対していた。
そういうメッセージを、唐側がうけとったとしても、当然。うけとらない方が不自然である。
(「芸文類聚」は、唐の編集。その中の「銭」の部は、一部にして、小量。)
一方、近畿天皇家が八世紀初頭に作製した、二つの史書「古事記・日本書紀」には両書とも「光武帝の金印」記事が一切出現しない。(三国志は、枢要<神功紀>の時間軸として利用。「倭国の女王」記事)
(C)「富本銭」「和同開珎」の銭文が六国史(日本書紀・続日本紀)に一切掲載されていない、この事実は重大だ。自家(近畿天皇家側)の「創始」した「銭文」ではなかったからではないか。これを、今はあくまで「仮説」として提起しておきたい。
論者には、「最初の銭文だから、『区別』が必要でなかったから、記載していないのだ。」などと主張する人があるが、詭弁であろう。なぜなら
(1)中国の「半両銭」(秦)など、明白に記述されている。(漢書、食貨志。史記、平準書)
(2)右の論法によれば、最初の「富本銭」と区別して、次の「和同開珎」の銭文は是非とも、書かねばならぬ。
要するに、
「近畿天皇家は、右の二つの『銭文』を自家の『正史』の上に掲載したがっていない。」
これが事実だ。「ウッカリ、ミス」で載せなかった、などという弁明の“通り”えないこと、火を見るより明らかであろう。
「二つの『無名』貨幣」(史書に「銭文」の記載のない貨幣)
この基本認識から、すべての研究は出発せねばならない。
(D)江戸時代から「富本、七曜文」の用語が用いられてきたようであるが、不当だ。なぜなら「七曜」とは「日月」と「火・水・木・金・土」である。「火・水・木・金」を「春・夏・秋・冬」に当て「土」を「中央」とするのは、五星(歳星°東方・春。 焚*惑--南方・夏。填星--中央・土。太白--西方・秋。辰星--北方・冬。)の内部における「中央」にすぎない。
しかるに、いわゆる「七曜文」の「中心の星」を「土」に当てて、肝心の「日月」を“並び大名”視するのは、不当である。客観的な配置図に合わない。(NHK第二放映も。)
わたしの理解では
<α>中央の一点----紫微星(紫宸殿の中心)。天子の居するところを指す。
<β>周辺の六星----六官(六卿)。その先頭にあるものが「太(大)宰」である。
九州の太宰府の地に「字、紫宸殿」「字、内裏跡」のあること、わたしの年来強調し、くりかえし記述してきたところ。各専門家の「無視」してきたところです。
〔三〕
第三に、浅野雄二さんから送られてきた「九九・三・二二山口光政、『書から古代史を読み解く----古代の文字を発掘する』」を見て、おどろきました。というのは、わたしがこの一月以来、古賀達也さんに話したり、講演会(及び懇親会)でのべてきたことと、全く同じ内容だからです。使われた資料(中国書法大辞典など)も、同じ。
おそらくこれは、思うに「同じ資料からは、同じ結論が出る。」 の例でしょう。従ってわたしも、山口さんと全く同意見です。和意見ではありません。
ただ、わたしの場合、
1. 「法隆寺の釈迦三尊銘文」中に、「三寶」の文字が二回出現。従って「『寶』の字は刻入しにくかったので、略字を使った」といった説は、全く成り立たない。ここでも、
「『寶』と類似した文字ながら、『寶』に非る文字(「珎」)を使った」
と見るべきでしょう。
その上、この造字者(「和同開珎」の銭文の作者)から見れば、
「『寶』の字は、『三寶』(仏・法・僧)に使われる文字。そんな至高の文字を、『銭文』に使うとは、非常識・無教養」
という認識があったとしても、わたしは驚きません。(この場合、「開元通寶」の文字を“案出”した、とされる欧陽詢の「無教養」「軽率」となりましょう。彼の「造字意図」を実証してみなければ、確言はできませんが。
ただ、「和同開珎」の「造字者」が、「『寶』の字を知りながら、避けた」ことは確実です。「知らなかった」「刻入しにくかった」などとは、すべて“俗説”“詭弁”のたぐいでしょう。
2. 「和同開珎」が「ホウ」ではなく、「チン」であること、栄原永遠男さんの詳細な研究があります。(第一回、連絡)
わたしは、先の、山口さんと同じ根拠(資料)から、この栄原論証に対して“うなづいた”のです。山口さんがこの、すぐれた栄原論証にふれておられないのは、“御存知なかった”からでしょう。
以上
一九九九、六月十七日 午前十一時四十五分記。
<追記>
はじめ、古賀達也さんから「プロジェクト、古代貨幣研究」という名前の提言をいただきました(今年二月)が、わたしはこれに対し、「プロジェクト、貨幣研究」
の方が、より適切であり、それならば、とお答えしました(同時期)。その理由は、本稿でものべた通り、「微細研究」は「鳥瞰的研究」と「相補関係」にあり、とくに「貨幣」については、その視点が不可欠にして重要、と考えたからでした。
幸い、古賀さんからも、直ちに御賛成いただいたのですが、その「御提言」がすでに出されていた(他の方々へ)ため、その「(旧名)プロジェクト、古代貨幣研究」が“流布”された形になっているようですが、ことの経過、右の通りです。
よろしくお願いいたします。
一九九九、六月十七日 古田武彦、記。
<補>
本稿を書き終えた直後、重要なテーマを「発見」、報告します。
唐の高祖(李淵。五六六〜六三五。唐朝の初代)は「廃仏棄釈」の権力者として著名ですが、このことと、この天子の当代(武徳四年・六二一)に出された「開元通寶」の銭文とは、関係があるかもしれません。
「寶」が「三寶」の使用慣例をもつことは、もちろん中国側は周知。「海西の菩薩天子」とイ妥*(たい)国側から賞美された、隋朝の煬帝も、「三寶」はもちろん賞美・崇敬するところだった、と思われます。
それを知るからこそ、その「寶」の字を銭文に使った。それは単なる「無教養」「非常識」ではなく、「反隋」と「反仏教」のサインだったのではないか、という問題です。
イ妥*国のイ妥(たい)は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO>
それに対し、「和同開珎」の造字者は、明白に「NO!」のサインを“返した”のではないでしょうか。
この点、改めて詳述すべきところ、日本思想史上の重要テーマ、日中交流史上、逸すべからざるキイ・テーマとなるかもしれません。今は、要点のみ報告いたします。
一九九九、六月十七日、午後十二時四十五分。 古田 記
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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