古田史学会報 2000年 2月14日 No.36
古田武彦氏新春福岡講演要旨
福岡市 力石巌
西暦二〇〇〇年一月九日、新年初の古田先生の講演会が福岡市西市民センターで開かれた。私は講演会場の準備、参加者からの電話応対などの支援を頼まれていた。参加人数は五〇名ほどと予想していたが、講演会の前日問い合せの電話が急に増えたため、心配になり講演資料を急遽焼き増しした。
古田先生は、一月七日久留米大善寺玉垂宮の火祭り「鬼夜」を見学、八日は佐賀県を巡って武雄温泉泊のあと、水野孝夫氏(会代表)、木村賢司氏(全国世話人)と共に来福、九日の昼には既に会場で待機して居られた。聴講者が増え、定員を超過した状況であった。講演の内容は以下のとおりである。
1. 日本書紀の根本性格
2. 「中皇命(ナカツスメラミコト)」は九州王朝の天子
3. 日本書紀「変修」の証拠
4. 持統天皇、三十一回吉野行幸の「怪」
5. 壬申の乱は、佐賀県(吉野)が根源地
この五項目の内容を正確に解説することは私には困難であるため、私なりに理解したところを概説させていただく。
(一)日本書紀の根本性格
日本書紀の全体の編成は、北朝(唐)に対して追従・阿諛するため、北朝の始祖王朝である北魏の正史「魏書」を模倣したものである。従って
1) 南朝(劉宋、南斉、粱、陳)に認定された「都督」(倭の五王)を認めず、「評」と「評督」は日本書紀をはじめ、正倉院文書、万葉集まで一切カットさせて、北朝系の「郡」で一貫させた。
2) 北朝の始祖「四−六世紀の魏(北魏)」は、「三世紀=卑弥呼の時代の魏(曹魏)」及び「西晋(武帝)」を継承する立場を取っていることが判明した。従って日本書紀も「神功紀」を特設し、曹魏・西晋(武帝)との友交を「虚示」するため、卑弥呼と壹与の二人を神功皇后一人と等置した。
3) イ妥*国は南朝滅亡(五八九)以後は中国から孤立し太宰府にあって「日出ずる処の天子」を唱えたのであり、天智六年(六六七)十一月に筑紫都督府は滅亡した。
(二)「中皇命」は九州王朝の天子(男性)
万葉集巻一(三、四歌)
「天皇、宇智の野に、み猟したまふ時、中皇命の間人連老をして、献らしめたまふ歌」として、「やすみししわご大君の朝庭(あしたには)取り撫でたまひ、夕庭(ゆふべには)い倚り立たしし、御執らしの梓の弓の金弭(かなはず)の音すなり。朝猟に今立たすらし、暮猟に今立たすらし、御執らしの梓の弓の金弭(かなはず)の音すなり」。
また反歌として
「たまきはる、宇智の大野に馬並めて、朝踏ますらむ、その草深野」とある。
従来、中皇命は男女両性具有の怪人格で未詳であった。「とり撫で」は男の動作、「倚り立たし」は女の動作であるから。
そこで「朝庭」は(みかどには)、「夕庭」は(きさきには)と訓みたい。「みかど(中皇命)」は太宰府紫宸殿の主人公で「なか(中)」は福岡市の那珂川の「那珂」である。金弭(かなはず)の部分は改訂されていて、写本原文は「奈加弭」であるが、これも「那珂弭」と理解できる。この反歌は斎藤茂吉の『万葉秀歌』の第一番目に挙げられた。原文「内野」を奈良県「宇智野」にあてはめているが、筑紫なら筑豊線に原文どおりの「内野」駅があり、大野・兎山・馬数も近所にある。
万葉集巻一(十、十一、十二)は中皇命と妻(鶏弥)の歌であり、「中皇命、紀の温泉に往しし時の御歌」とある。(十二歌)は次のとおり。
「わが欲りし野島は見せつ、底深き阿胡根の浦の珠ぞ拾はぬ」
とある。この歌には次の補足がある。
「右、日本紀に曰く、朱鳥六年壬辰の春三月・・広瀬王等を以ちて留守の官となす・・中納言三輪朝臣高市麿その冠位を脱ぎ・・重ねて諌めて曰く・・天皇諌めに従わず、遂に伊勢に行幸す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮に御すといへり」
これらに現われる地名は、野島(明石海峡)、紀温泉(白浜)、阿胡根の浦(英虞湾)である。野島の代わりに子島(吉備の児島)も補記されており、旅程は三月から五月に及ぶ一大航路である。とても飛鳥からの行幸ではあり得ない。博多を発し、瀬戸内海の児島、淡路島を経て、南紀白浜、志摩の英虞湾着と考えれば、地名・日程共に自然な理解が可能である。中皇命の行きたかった明石の野島はすでに妻に見せた、あとは英虞湾で真珠拾いを楽しみに待っている、というのが歌の意味である。
(三)日本書紀「変修」の証拠
さきに引用した「右、日本紀に曰く、朱鳥六年・・・」(万葉集第四十四歌の“原注”)は九州王朝の史書或いは資料からの盗用である。
1) 旅程「三月」出発、「五月」到着では、飛鳥を原点とすると時間が掛かりすぎており、また地名の比定に所在地不明や難点が多すぎる。
2) 臣下(高市麿)のいのちがけの諌(抗議)も時代は白村江(六六三年・書紀)以前であることを考えれば、理解可能である。
3) 現在の日本書紀は「五月」の阿胡行宮項を削除している。
4) 日本書紀も「天武・持統紀は大丈夫」という通説(家永三郎氏など)はあやまり。
(四)持統天皇、三十一回吉野行幸の「怪」
持統天皇の吉野行幸は、その回数が異常に多いため疑問がある。
1) 「朱鳥日本紀」(万葉集第三十九歌)に「吉野行幸」《三年正月・八月、四年二月・五月、五年正月・四月》の記事がある。(直前三十四歌に朱鳥四年記事、直後四十四歌に先の朱鳥六年記事)。これも亦、「朱鳥六年」項と同じく九州王朝の史書(資料)からの「盗用」ではないか。これが古田の史料批判上の「根本疑問」である(注1
)。持統紀八年に「夏四月庚申(七日)に吉野宮に幸す。丁亥に吉野宮より至ります」とあるが、この四月には丁亥がない(干支矛盾)。これを白村江直前の顕慶五年(六六〇)に“ずらす”と解決する。また最期の「吉野行幸」は白村江の「三ケ月」前で絶える。
2) 神護石群は、四つ(以上)のグループに分けることができる。
(A)有明海と長崎・大村・佐世保・伊万里湾等に対するもの
(B)太宰府を中心とするもの
(C)筑後川(上・中流、生葉郡等)周辺
(D)関門海峡の両側
生葉郡には「宮城」や「正倉院」がある(注1 )。吉野ケ里はAグループの結節点(軍事中心)であった。Aからは白村江に直航できるが博多湾からは対馬海流に逆行する難点があり、軍船はA地域に待機させたものと考えられる。神護石の他に、佐賀県上峰町にある「堤土塁跡」は吉野ケ里隣の要塞であると考えられる(注2
)。
(五)壬申の乱は、佐賀県(吉野)が根源地
天武天皇の歌(万葉集巻一、二十五、二十七)「み吉野の耳我の嶺に、時なくそ雪は降りける・・・」、「よき人のよしとよく見てよしと云いし芳野よく見よよき人よく見」は、奈良県の吉野ではなく佐賀県の吉野の歌である。佐賀県に「吉野」は三ケ所ある。
1.
嘉瀬川上流の吉野山、
2. 武雄の吉野(太宰管内志)、
3. 吉野ケ里である
。
「み吉野の…」の原文は「三吉野之…」となっており、「み吉野」は三つの吉野との意味を含めてあるのではないか。嶺は三根郡、上峰町の「みね」である。(注3
)
講演が終わりに近付いた頃、後の歌「よき人のよしとよく見て・・・」の説明があった。「これは天武天皇が<郭務宗*>に会った時の歌である」。古田先生の説明が私にはそう聞こえた。大唐(郭務宗*)との交渉が成功し、天武天皇が歓喜して詠んだ歌のようだ・・・。
この辺から話の内容をはっきり理解できなかったので、大変興味深い話ですがここで止めます。ご海容ください。終会後の懇親会(質疑応答の続き)は近くのイタリアンレストランとロッテリアを梯子して、熱心な参加者数名で午後十時すぎまで続いた。(完)
(注)
1. 新庄智恵子氏(東京・多元)〈九州王朝からの盗用〉及び和田高明氏(古田史学の会・札幌)〈吉野ケ里〉よりの提案。
2. 高木博氏(東京古田会)の発見
3. 徳富則久氏(佐賀県教委)の「肥前国三根郡の交通路と集落」が重要。
4. 福永晋三氏《肥前国風土記から》及び平田英子氏(嶺の県主雄略十年九月)による。
インターネット事務局注記2003.8.30
文字は次のように表しています。
宗*は心編に宗です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"