「日出ずる処の天子」の時代 -- 試論・九州王朝史の復原 古賀達也(『新・古代学』 第5集)へ
九州王朝と鵜飼 『秘庫器録』の史料批判(3)
京都市 古賀達也
『新・古代学』4集に掲載された拙稿「九州王朝の筑後遷宮」において『隋書』イ妥*国伝に記されている「鵜飼」の風習が筑後川原鶴温泉に現在でも見られることを述べたのだが、同地での鵜飼の風習が古代まで遡ることができるかどうかについては、論究しなかった。そのことが、少なからず気にかかっていたこともあって、その後、鵜飼の風習について調査し、昨年十二月の「古田史学の会」関西例会にて発表したのであるが、ここにその要旨のみ報告しておきたい。
『隋書』イ妥*国伝によれば 国の鵜飼の様子が次のように記されている。
「小環を以て 廬鳥*滋鳥*(ろじ、注1.)の項に挂(か)け、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得。」
一方、『太宰管内志』には筑後地方における鵜飼の風習について、次の通り紹介している。
○日田川〔筑後川の上流。豊後国日田郡〕
〔前略〕廬鳥*滋鳥*を飼て、此川の年魚〔あゆ〕を取て、なりはひとするもの多し〔中略〕其鵜飼舟と云ものはいといとちひさくして、わづかに鵜つかふ人と船さす人と二人のるばかりに作れり、船ノ中には薄(スヽキ)の松明あまたに入れて、それを左ノ手にともして、右ノ手にて鵜をつかふ事なり、ひとりにて四ッも五ッもつかふに、手をひねりつヽ糸のみだれぬやうにとりさばくさま、えもいはずおもしろき見(ミ)物なり、〔後略〕
○吉井〔筑後国生葉郡〕
〔前略〕生葉郡吉井亦有養廬鳥*滋鳥*、待夜使捕 魚者是曰夜川、〔後略〕
○瀬高庄〔筑後国山門郡〕
〔前略〕其川邊及三里者皆養廬鳥*滋鳥*〔中略〕使廬鳥*滋鳥*自上流逐之待魚之聚於網上而後擧網一網或得魚数百〔後略〕
※〔〕内は筆者による注。
このように筑後地方の二つの大河、筑後川と矢部川における鵜飼ならびに鵜による漁の風景が紹介されており、江戸時代同地方において鵜飼が盛んであったことがうかがえる。
更に古くは十四世紀頃に設立したとされる高良大社文書『筑後国高良山寺院興起之記』に次の記事が見える(注2. )。
○浄福寺
阿曇ノ大鷹見麻呂トイフモノ有リ。性遊猟ヲ好ミ、動モスレバ廬鳥*罩(ろたく)ニ随フ。(中略)天長八年辛亥年(八三一)七月廿九日、少病少悩ニシテ奄逝ス。(後略)
※原文は漢文。訓読は古賀壽氏による。()内は筆者による注。
九世紀における高良大社近辺の人物による鵜飼が記されているのだ。現在でも長良川の鵜飼で有名なように、古来から鵜による鮎漁はなされていたようである。たとえば『万葉集』にも大伴家持の次の長歌に鮎と鵜飼が詠み込まれている。
大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に負へる 天ざかる 鄙にしあれば 山高み川とほしろし 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛と 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに かがりさし (以下略)
『万葉集』巻十七 四〇一一
平城京から出土した木簡にも筑後地方の鮎を記したものがある。次の二つだ。
「筑後国生葉郡煮塩年魚 伍斗 霊亀二年」
「筑後国生葉郡煮塩年魚 四斗二升 霊亀三年」
霊亀二年は七七一年のことであり、浮羽郡は古くから鮎の産地だったのである。こうした諸史料に見える筑後地方の鵜飼と鮎漁は、『隋書』イ妥*国伝の記す 国の地が筑後地方であった傍証とみなしうるであろう。おそらく、イ妥*倭国独特の風習であった筑後川の鵜飼漁を隋使の一行は驚きの目で見、煬帝に報告したことであろう。
更に言うならば、『記紀』に見える神武歌謡の「鵜養が伴、いま助けに来ね」という表現からも、神武の出身地である筑前糸島では弥生時代から鵜飼がなされていたことを示しており、九州王朝と鵜飼は密接な関係と、共に深い淵源を持っていたことがうかがえるのである。
最後に興味深い問題を紹介しておきたい。それは昨年より古田氏の研究課題として浮上してきた、持統紀や『万葉集』に現れる「吉野」は佐賀県ではないかというテーマに関連するものだ。たとえば、柿本人麻呂の次の吉野行幸の長歌は、佐賀県「吉野」ではないかという疑いである。
やすみしし わが大君は 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を (中略)上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉れる 神の御代かも 〔巻一、三八〕
佐賀県と福岡県の県境となっている筑後川旧流に接する久留米市長門石町には「上鵜津」「中鵜津」「下鵜津」という字名が残っている。また、「河内」という地名が奈良県吉野近辺には見あたらず、佐賀県に多いことも古田氏が指摘されているところだ(注3.
)。本稿で扱った「鵜飼」という視点からも、『万葉集』に取り込まれた九州王朝歌謡の発見が期待できるのではあるまいか。
(注)
1). 「廬鳥*」「滋鳥*」共に鵜のこととされる。
2). 高良大社文化研究所々長、古賀壽氏の御教示による。
3). 古田氏の指摘に基づき、高木博氏、古賀が地図にて調査確認した。
インターネット事務局注記2001.8.30
表記できない字は、以下の通り表しました。
イ妥*(タイ)は人編に妥です。
廬鳥*(ロ)は廬編に鳥です。
滋鳥*(ジ)は滋(三水編なし)編に鳥です。
プロジェクト「貨幣研究」 第4報
京都市 古賀達也
『秘庫器録』(巻第三)の冒頭には、不思議な記事が記されている。孝霊天皇五年から三十二年にかけての、各地からの寶玉奉献記事だ。更に、『秘府略』にはそうした奉献が崇神天皇時代になってからは毎年記されているともある。西暦に換算すれば、孝霊二年はBC二八九年、同三十二年はBC二五九年であり、縄文晩期の頃となる。また「崇神」の時代はBC九七年からBC三〇年である。具体的な奉献の年次や奉献国・奉献物が記されている「孝霊」の頃と言えば、最新の古田説による天孫降臨(「孝元」、紀元前百年頃)の直前だ。
もし、この記事が歴史的事実を反映しているとすれば、これら「孝霊」の頃の奉献記事は九州王朝以前の事件となろう。ただし、その記事の出典は記されていない。そして「天孫降臨」後に相当する「崇神」の時代になってからは、『秘府略』によれば毎年奉献が続いたとある。このように、『秘庫器録』の記事は「天孫降臨」以前と以後の変化を記しており、偶然とは言い難いリアリティーを感じさせるのである。
奉献の内容(年次と奉献国、奉献物)は次の通りだ。
1. 孝霊五年四月 駿河国 赤色寶玉 五九〇
2. 同 六年二月 出雲国 青色寶玉 九〇〇
3. 同十一年七月 周防国 薄青寶玉 五六〇
4. 同 八月 駿河国 黄色寶玉二三〇〇
5. 同二十年二月 伊豆国 白色寶玉二〇〇〇
黒斑寶玉二四〇〇
6. 同二三年三月 相模国 白色寶玉五三〇〇
7. 同 五月 陸奥国 黄色寶玉一三〇〇
8. 同三二年九月 越後国 赤色寶玉 九〇〇
9. 同 十二月 信濃国 白色寶玉 八五〇
以上の膨大な量の寶玉の全国的な範囲からの奉献記事の後に、「至崇神天皇御朝毎年奉献如此難載秘府略未知何國朝貢」とあり、「崇神」以後は毎年奉献がなされたことが秘府略に掲載されているが何れの国からのものかは分からないとしている。したがって、『秘府略』掲載記事は九州王朝記事からのものである可能性が高いこと前報までに述べてきたところであるが、「天孫降臨」以前の時間帯に属する「縄文の寶玉奉献」記事はどのような王朝のものであったのか。
自然科学の分野では、縄文時代における大海を越えた交流や、日本列島各地の玉石類の広範な移動は、今日では常識となっているが(注1. )、日本の歴史学界ではこれら自然科学による証明に先立って提起された古田武彦氏(注2.
)やスミソニアンのメガーズ博士らの説(倭人は太平洋を渡った)を認めるには至っていないようである。二十一世紀も間近という今日においてもなお、日本歴史学界の天皇家一元通念(戦後型皇国史観)の宿痾から逃れられない体質は、日本の将来や教育にとっても深刻な問題である。
さて、先の奉献国の分布から見ると、九州・四国・近畿が空白であることがわかる。従って、奉献された中心国はその地域のいずれかの王者であった可能性が高いのではあるが、現時点では断定し難い。『記紀』神話に登場する弥生時代の中心領域(筑紫・出雲・越、等)のうち、出雲や越(越後)が奉献国として含まれているので、残る筑紫こそ「縄文の寶玉奉献」を受けた中心領域と考えてみたいところではあるが、縄文遺跡の出土中心領域という視点から見れば、筑紫以上にふさわしい地域は別に存在する。この点、今後の課題としておきたい。
さて、奉献国とその寶玉を見てみると、現代の有名な宝石類産地と次の例が対応しているようである。
1. 駿河国 赤色寶玉 静岡県土肥海岸の赤碧玉
2. 出雲国 青色寶玉 島根県玉造の緑碧玉
(青玉石)
3. 伊豆国 白色寶玉 西伊豆仁科海岸のめのう
黒斑寶玉 神津島の黒曜石か
4. 陸奥国 黄色寶玉 岩手県大川目のこはく
5. 越後国 赤色寶玉 佐渡島の赤碧玉(赤玉石)
こうした原産地と記事の一致からも、『秘庫器録』の史料価値は高いと思われるのである。わたしの僅かな鉱石知識や調査によっても、これだけの一致例が判明したことから、他にも相当する地域に宝石鉱が存在する、あるいは存在していた可能性は小さくないと思われる。識者の御教示を乞う次第である。
(注)
注1. 藁科哲男「原産地分析で探る縄文時代の交流 石器・土器がたどった道」、『化学』 一九九九年九月号所収。筆者は京都大学原子炉実験所勤務。縄文晩期において新潟県糸魚川のヒスイが沖縄県北谷町や糸満市に伝播していたことなどが紹介されている。
注2. 古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫)。倭人が中南米に航海していた記事が『魏志』倭人伝にあることを論証された。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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