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学問の方法と倫理(序)すべての古田学派へ 九州王朝と鵜飼 『秘庫器録』の史料批判(3)
京都市 古賀達也
本連載を開始するにあたり、小生、いささか心重く、少なからぬ逡巡の念を抱いたことを告白しておきたい。そして、そこから一歩踏み出すため、古田武彦氏から戴いた小冊子『許六 去来 俳諧問答』(岩波文庫)を開いた。同書は芭蕉の高弟去来と晩年の弟子許六による、芭蕉没後になされた俳諧に関する往復書簡(論争)である。同書校註者、横沢三郎氏の「解説」冒頭には次のように記されている。
「元禄七年芭蕉が歿して、その師を失った蕉門の徒は、思ひ思ひの動きをとるやうになった。芭蕉の芸術を忠実に祖述しようとする者、師は師としながらも唯己の好む所に従はうとする者、己の理解してゐた芭蕉の芸術を自分の俳風に引きつけて宣伝これ努める者、或は門戸を張らんが為に師を軽侮して己の優位を示さうとする者等、いろいろであった。然しその何れにしても、丈草(江戸前期の俳人、芭蕉十哲の一人)の如き小数の隠逸の俳士は別として、芭蕉歿後の俳壇に重きをなさうとする気持には変わりなかったやうである。さなきだに派閥の争ひを事とする俳壇のこととて、それぞれの立場に據る相手への論難は盛であって、中には泥仕合に類する醜い争ひも幾つか指摘されるのである。その中で一際格高く光ってゐたのは、去来と許六との士君子の論争であらう。之が即ち『俳諧問答』である。」〔()内は古賀による〕
多くの古田ファンと支持者を集めた「市民の古代研究会」が、安本美典らの和田家文書偽作キャンペーンをきっかけとして分裂したのは、ほんの六〜七年前のことである。反古田へ変質していった同会多数派理事たちは、表向きは「学問の自由」だの「学問の方法」だのと、一見もっともらしい「理由」を口にしながら、その実、全く学問の方法と倫理を欠いていたことは、数年を経ずして明かとなったところである。
彼らは、偽作キャンペーンが始まるや否や、「市民の古代研究会としては偽作説を支持し、古田氏とは見解が異なる」ことを「組織決定」するよう、臨時理事会の召集を求めてきたことがあった。当時、小生は和田家文書について詳しい知識はなく、なんとなく怪しいものと捉えてはいたが、その真偽は学問上の問題であり、研究会が「組織決定」すべきような性質のものではないと考えたし、何よりも、今まで散々古田氏の世話になってきており、かつ古田氏のおかげで同会は発展したのにもかかわらず、何と恩知らずな人々であろうかと、呆れ果てたものであった。当時、同会事務局長であった小生は、そのことを藤田友治会長(当時)にも述べ、理事会開催の必要はないと言った。藤田氏も同意され、その件は沙汰止みとなったのであるが、いま考えると、その瞬間から多数派理事による「古賀はずし」の画策が始まったのであろう。多数派理事の代表格だったH氏が「古賀を事務局長からはずせ」と藤田氏に迫っていたことは、後になって知った話である。小生は礼儀知らずと恩知らずは大嫌いである。本連載のタイトルを「学問の方法と倫理」としたのも、こうした経験があったからである。
こうした「市民の古代研究会」分裂に至る経過を現代思想史の問題として書き残しておくのは、小生の思想的責任であろうと考え、以前、中小路先生からも同様の御指摘をいただいてもいた。しかし、今回この連載を決意した理由は別のところにある。近年、古田武彦氏と似て非なる「学問の方法」「学問の倫理」が、いわゆる古田学派内でも再び横行する気配を感じたからである。言い換えれば、市民の古代研究会分裂に至る前段階に、多数派理事の口から出されていたものと瓜二つ言説が散見されるようになり、「古田史学の会」創設に深く関わった者の責任として、市民の古代研究会と同じ過ちを看過してはならないと考えたからである。
もちろん、それらは悪意あってのものとは思わないが、「市民の古代研究会」変質時も、多数派理事の中には、主観的には純粋に「正しい学問の方法」「あるべき研究会の姿」を求めて、その内実は古田氏の学問や論理性への無理解と自らの不勉強により、「反古田」へと行き着いた人々も少なくはないのである。決して、私利私欲に満ちた「確信犯」だけが同会変質の旗を振ったわけではなかったのである。
もとより、古田氏の学問の方法を過たず説くことなど、小生には困難なテーマであるが、小生が理解したところの「古田氏の学問の方法」ならば、述べることができる。仮にそれが誤っていても、当の古田氏御本人から訂正反論がいただける。そう、考えることにしたのである。とは言うものの、こうした連載が古田学派内部に「波風」を立てること必至であろう。なぜなら具体的な人物の論説を批判の対照としながら、それが古田氏の学問の方法と似て非なることを解説するわけであるから、当然、人間関係にひびが入ることも覚悟しなければならないし、それは「古田史学の会」と他の会との関係にまでも及ぶかもしれない。小生が逡巡した最も大きな理由はここにあった。
他方、本連載について相談した数名の方からは、いずれも小生と同様の感想と好意的な返答をいただいたことも、小生の決意を促した一因となった。そこで、本連載執筆にあたり、次の点を戒めとしたい。
一つは、主たる批判の対象はその「方法」に対して行い、その「結論」についての批判は必要最小限にとどめること。
二つは、批判する相手に対しての礼節を失わなず、本会報の品位を汚さないこと。
三つは、読者をして、その当否が判断できるよう努めて平明に記すこと。この三つである。
さて、先に紹介した俳諧問答解説は、次のように続けられている。
「然し『俳諧問答』を論争と見るのは、或は妥当ではないかもしれない。許六は去来に充分の敬愛を持ってその意見を徴し且つ己の所信を披瀝してゐるし、去来は許六の鼻息のあらさに或は多少辟易してゐたかも知れぬが、許六の真面目さとその見識は相応に認めて応答してゐたからである。正にその名の示す如く「問答」である。そしてこの問答の優れてゐる所以は、その真面目さにある。更に言へばその真面目さは、門戸を張らうとするやうな下心から出たものではなく、純粋に芸術的な立場に立ってゐる点にあるのである。しかもこの二人は、支考のやうに青龍刀を振り廻すやうな理論家ではなかったが、師の芸術或は芸術思想に対して高く深い理解を持ってゐたのである。我々は芭蕉の芸術や芸術思想を探究する上に、この問答から教へられる所が極めて多いのである。」
横沢三郎氏の「解説」を深く心にとどめ、本連載の「序」としたい。
「日出ずる処の天子」の時代ーー試論・九州王朝史の復原 古賀達也(『新・古代学』 第5集)へ
京都市 古賀達也
『新・古代学』4集に掲載された拙稿「九州王朝の筑後遷宮」において『隋書』イ妥*国伝に記されている「鵜飼」の風習が筑後川原鶴温泉に現在でも見られることを述べたのだが、同地での鵜飼の風習が古代まで遡ることができるかどうかについては、論究しなかった。そのことが、少なからず気にかかっていたこともあって、その後、鵜飼の風習について調査し、昨年十二月の「古田史学の会」関西例会にて発表したのであるが、ここにその要旨のみ報告しておきたい。
『隋書』イ妥*国伝によれば 国の鵜飼の様子が次のように記されている。
「小環を以て 廬鳥*滋鳥*(ろじ、注1.)の項に挂(か)け、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得。」
一方、『太宰管内志』には筑後地方における鵜飼の風習について、次の通り紹介している。
○日田川〔筑後川の上流。豊後国日田郡〕
〔前略〕廬鳥*滋鳥*を飼て、此川の年魚〔あゆ〕を取て、なりはひとするもの多し〔中略〕其鵜飼舟と云ものはいといとちひさくして、わづかに鵜つかふ人と船さす人と二人のるばかりに作れり、船ノ中には薄(スヽキ)の松明あまたに入れて、それを左ノ手にともして、右ノ手にて鵜をつかふ事なり、ひとりにて四ッも五ッもつかふに、手をひねりつヽ糸のみだれぬやうにとりさばくさま、えもいはずおもしろき見(ミ)物なり、〔後略〕
○吉井〔筑後国生葉郡〕
〔前略〕生葉郡吉井亦有養廬鳥*滋鳥*、待夜使捕 魚者是曰夜川、〔後略〕
○瀬高庄〔筑後国山門郡〕
〔前略〕其川邊及三里者皆養廬鳥*滋鳥*〔中略〕使廬鳥*滋鳥*自上流逐之待魚之聚於網上而後擧網一網或得魚数百〔後略〕
※〔〕内は筆者による注。
このように筑後地方の二つの大河、筑後川と矢部川における鵜飼ならびに鵜による漁の風景が紹介されており、江戸時代同地方において鵜飼が盛んであったことがうかがえる。
更に古くは十四世紀頃に設立したとされる高良大社文書『筑後国高良山寺院興起之記』に次の記事が見える(注2. )。
○浄福寺
阿曇ノ大鷹見麻呂トイフモノ有リ。性遊猟ヲ好ミ、動モスレバ廬鳥*罩(ろたく)ニ随フ。(中略)天長八年辛亥年(八三一)七月廿九日、少病少悩ニシテ奄逝ス。(後略)
※原文は漢文。訓読は古賀壽氏による。()内は筆者による注。
九世紀における高良大社近辺の人物による鵜飼が記されているのだ。現在でも長良川の鵜飼で有名なように、古来から鵜による鮎漁はなされていたようである。たとえば『万葉集』にも大伴家持の次の長歌に鮎と鵜飼が詠み込まれている。
大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に負へる 天ざかる 鄙にしあれば 山高み川とほしろし 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛と 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに かがりさし (以下略)
『万葉集』巻十七 四〇一一
平城京から出土した木簡にも筑後地方の鮎を記したものがある。次の二つだ。
「筑後国生葉郡煮塩年魚 伍斗 霊亀二年」
「筑後国生葉郡煮塩年魚 四斗二升 霊亀三年」
霊亀二年は七七一年のことであり、浮羽郡は古くから鮎の産地だったのである。こうした諸史料に見える筑後地方の鵜飼と鮎漁は、『隋書』イ妥*国伝の記す 国の地が筑後地方であった傍証とみなしうるであろう。おそらく、イ妥*倭国独特の風習であった筑後川の鵜飼漁を隋使の一行は驚きの目で見、煬帝に報告したことであろう。
更に言うならば、『記紀』に見える神武歌謡の「鵜養が伴、いま助けに来ね」という表現からも、神武の出身地である筑前糸島では弥生時代から鵜飼がなされていたことを示しており、九州王朝と鵜飼は密接な関係と、共に深い淵源を持っていたことがうかがえるのである。
最後に興味深い問題を紹介しておきたい。それは昨年より古田氏の研究課題として浮上してきた、持統紀や『万葉集』に現れる「吉野」は佐賀県ではないかというテーマに関連するものだ。たとえば、柿本人麻呂の次の吉野行幸の長歌は、佐賀県「吉野」ではないかという疑いである。
やすみしし わが大君は 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を (中略)上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉れる 神の御代かも 〔巻一、三八〕
佐賀県と福岡県の県境となっている筑後川旧流に接する久留米市長門石町には「上鵜津」「中鵜津」「下鵜津」という字名が残っている。また、「河内」という地名が奈良県吉野近辺には見あたらず、佐賀県に多いことも古田氏が指摘されているところだ(注3.
)。本稿で扱った「鵜飼」という視点からも、『万葉集』に取り込まれた九州王朝歌謡の発見が期待できるのではあるまいか。
(注)
1). 「廬鳥*」「滋鳥*」共に鵜のこととされる。
2). 高良大社文化研究所々長、古賀壽氏の御教示による。
3). 古田氏の指摘に基づき、高木博氏、古賀が地図にて調査確認した。
インターネット事務局注記2001.8.30
表記できない字は、以下の通り表しました。
イ妥*(タイ)は人編に妥です。
廬鳥*(ロ)は廬編に鳥です。
滋鳥*(ジ)は滋(三水編なし)編に鳥です。
プロジェクト「貨幣研究」 第4報
京都市 古賀達也
『秘庫器録』(巻第三)の冒頭には、不思議な記事が記されている。孝霊天皇五年から三十二年にかけての、各地からの寶玉奉献記事だ。更に、『秘府略』にはそうした奉献が崇神天皇時代になってからは毎年記されているともある。西暦に換算すれば、孝霊二年はBC二八九年、同三十二年はBC二五九年であり、縄文晩期の頃となる。また「崇神」の時代はBC九七年からBC三〇年である。具体的な奉献の年次や奉献国・奉献物が記されている「孝霊」の頃と言えば、最新の古田説による天孫降臨(「孝元」、紀元前百年頃)の直前だ。
もし、この記事が歴史的事実を反映しているとすれば、これら「孝霊」の頃の奉献記事は九州王朝以前の事件となろう。ただし、その記事の出典は記されていない。そして「天孫降臨」後に相当する「崇神」の時代になってからは、『秘府略』によれば毎年奉献が続いたとある。このように、『秘庫器録』の記事は「天孫降臨」以前と以後の変化を記しており、偶然とは言い難いリアリティーを感じさせるのである。
奉献の内容(年次と奉献国、奉献物)は次の通りだ。
1. 孝霊五年四月 駿河国 赤色寶玉 五九〇
2. 同 六年二月 出雲国 青色寶玉 九〇〇
3. 同十一年七月 周防国 薄青寶玉 五六〇
4. 同 八月 駿河国 黄色寶玉二三〇〇
5. 同二十年二月 伊豆国 白色寶玉二〇〇〇
黒斑寶玉二四〇〇
6. 同二三年三月 相模国 白色寶玉五三〇〇
7. 同 五月 陸奥国 黄色寶玉一三〇〇
8. 同三二年九月 越後国 赤色寶玉 九〇〇
9. 同 十二月 信濃国 白色寶玉 八五〇
以上の膨大な量の寶玉の全国的な範囲からの奉献記事の後に、「至崇神天皇御朝毎年奉献如此難載秘府略未知何國朝貢」とあり、「崇神」以後は毎年奉献がなされたことが秘府略に掲載されているが何れの国からのものかは分からないとしている。したがって、『秘府略』掲載記事は九州王朝記事からのものである可能性が高いこと前報までに述べてきたところであるが、「天孫降臨」以前の時間帯に属する「縄文の寶玉奉献」記事はどのような王朝のものであったのか。
自然科学の分野では、縄文時代における大海を越えた交流や、日本列島各地の玉石類の広範な移動は、今日では常識となっているが(注1. )、日本の歴史学界ではこれら自然科学による証明に先立って提起された古田武彦氏(注2.
)やスミソニアンのメガーズ博士らの説(倭人は太平洋を渡った)を認めるには至っていないようである。二十一世紀も間近という今日においてもなお、日本歴史学界の天皇家一元通念(戦後型皇国史観)の宿痾から逃れられない体質は、日本の将来や教育にとっても深刻な問題である。
さて、先の奉献国の分布から見ると、九州・四国・近畿が空白であることがわかる。従って、奉献された中心国はその地域のいずれかの王者であった可能性が高いのではあるが、現時点では断定し難い。『記紀』神話に登場する弥生時代の中心領域(筑紫・出雲・越、等)のうち、出雲や越(越後)が奉献国として含まれているので、残る筑紫こそ「縄文の寶玉奉献」を受けた中心領域と考えてみたいところではあるが、縄文遺跡の出土中心領域という視点から見れば、筑紫以上にふさわしい地域は別に存在する。この点、今後の課題としておきたい。
さて、奉献国とその寶玉を見てみると、現代の有名な宝石類産地と次の例が対応しているようである。
1. 駿河国 赤色寶玉 静岡県土肥海岸の赤碧玉
2. 出雲国 青色寶玉 島根県玉造の緑碧玉
(青玉石)
3. 伊豆国 白色寶玉 西伊豆仁科海岸のめのう
黒斑寶玉 神津島の黒曜石か
4. 陸奥国 黄色寶玉 岩手県大川目のこはく
5. 越後国 赤色寶玉 佐渡島の赤碧玉(赤玉石)
こうした原産地と記事の一致からも、『秘庫器録』の史料価値は高いと思われるのである。わたしの僅かな鉱石知識や調査によっても、これだけの一致例が判明したことから、他にも相当する地域に宝石鉱が存在する、あるいは存在していた可能性は小さくないと思われる。識者の御教示を乞う次第である。
(注)
注1. 藁科哲男「原産地分析で探る縄文時代の交流 石器・土器がたどった道」、『化学』 一九九九年九月号所収。筆者は京都大学原子炉実験所勤務。縄文晩期において新潟県糸魚川のヒスイが沖縄県北谷町や糸満市に伝播していたことなどが紹介されている。
注2. 古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫)。倭人が中南米に航海していた記事が『魏志』倭人伝にあることを論証された。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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