古田史学会報
2000年10月11日 No.40

古田史学会報

四十号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
     電話/FAX 075-251-1571
郵便振込口座 01010-6-30873 古田史学の会


日本国家に求める 箸墓発掘の学問的基礎 古田武彦


天の長者伝説と狂心の渠 京都市 古賀達也


学問の方法と倫理四 筑紫都督府の作業仮説 京都市 古賀達也



狗奴国は何処にあったか


奈良市 飯田満麿

○はじめに

 昭和五十年の春頃、当時住んでいた名古屋の行きつけの本屋で、「盗まれた神話」と言う一寸変わった題名の単行本を購入し、なにげなく読み出して、一気にその内容に引き込まれて、読後強烈な感銘を受けて以来、「邪馬台国」はなかった。失はれた九州王朝。と読み次いで、以後古田武彦氏のほとんどの著書を貪る様に読んで来ました。関西に転勤の後は、「市民の古代」の会員に加えて頂き、今日の「古田史学会」に発展の後はその会員に連なって、古田武彦氏の謦咳に接する幸運にも恵まれました。
 しかし、その間私はただただそれらの感動的事実を、内部に溜め込むのみに始終して来ました。ところが最近月に一度「古田史学会」の例会に出席して、会員間の活発な論議に接する機会が出来たからでしようか、或いは私の内面の蓄積が発酵して来たからでしようか、私も何か外部に発信するべきだと思うようになりました。


○テーマの設定


 日本の古代史は古田氏の画期的研究によって、その在るがままの姿を我々の眼前に現しはじめています。更により深くより幅広く考究されようとしています。しかしその猛烈な速度と、広がりの前に、取り残された問題がいくつか在るように私には思えるのです。
 狗奴国問題もその一つです、古田氏ご自身も前記の著書の中で、何度かこの問題に触れられて居られますし、昭和六二年発刊の「倭人伝を徹底して読む」の中にも触れられています。しかしながら今日までの所、倭人伝にたった二度だけという、文献上の制約からか画期をなす説明は得られていません。私自身も古田氏の講演会後の、懇親会の席上この事を質問した事があります。その時広島県に甲奴郡と言う地名があるが、研究に値するかも知れないと云う示唆をえました。
 考えてみるとこの問題は、古代史解明の上で避けて通れぬと云う所には位置して居ないようだし、緊急の問題目白押しの現在、他からの解答を待ち望むだけでは余りにも消極的だと深く反省し、この問題に取り組むことにしました。


○作業仮説の提出

 狗奴国の問題を考究するなら、倭人の三十国問題を避ける事は出来ません。しかし各個撃破方式にこの問題に向かうとき、忽ち泥沼に落ちる羽目となります。何分にも資料事実が乏しいためです。考えあぐねて鬱々としていたある日、突然三十国の個々を比定するのは困難だが、その範囲を特定するだけなら、可能ではないかと気づいたのです。即ち女王国に関する、又は女王国に関するに違いない記述を、魏史倭人伝。日本書紀。古事記。に求めれば自ずから道は開けると考えました。これらの原典を全て博捜し該当する記述を探し出すのは、到底我ら浅学の徒の任ではありませんが、有り難いことに古田武彦氏によって既に道は開かれていたのです。
 例えばそれが後世大和朝廷の史官による、露骨な九州王朝説話の換骨奪胎であることが証明された、日本書紀 景行説話を見ると、そこに示された二十ヶ処余りの地名は、日本の旧国名で云えば豊前・豊後・大隅・日向・肥後・肥前・筑後、そして周防に渉っている事がわかります。同じく日本書紀 仲哀紀には筑紫。長門(穴門)が記されています。これで九州のほぼ全般と本州西端が、女王国の範囲だと知る事ができます。ここに九州のほぼ全般と書いたのは薩摩が記されて居ないからです。この事に付いては、倭人伝の有名な女王国への行路記事に投馬国とあるのを思い出せば、一連の記述は全九州と周防。長門。が女王国の版図であると主張していると理解出来ます。

 しかしここに来て私は二つの疑問に遭遇しました。一つは景行紀、仲哀紀、に引用された九州王朝記事が、卑弥呼以後の史実を含むのではないか、二つ目は史書に記載されなくとも、女王国の範囲はもっと広かったのではなかったか、という問題です。一つ目の問題は歴史記述の乏しい今となっては、推測も武器にして果敢に挑戦する蛮勇をお許し頂いて、倭人伝の「其の国本亦男子を以て王と為し、以下倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち一女子を共立して王となす。名付けて卑弥呼と曰う。」の記述を引用するとき、これはあくまで倭国内の内乱記事であって、征服又は侵略の印象は全く無いと感じるのです。従って卑弥呼擁立の時期九州王朝の範囲は、少なくとも前記十一旧国だったと仮定できます。

 二つ目の問題ですがその王朝の功績を称揚する事を主たる任とする史書において、在ったけれども何かの都合で書かなかった、よりも無かったから書けなかった、の確率の方が遥かに高いと確信します。又これは傍証のその又傍証に過ぎませんが、前記十一ヶ国の内包する郡数は百四郡であることが、延喜式に記載されています。倭人伝の旧百余国。漢の時朝見する者あり、の記事に対応するかも知れません。又景行紀に記載された十九カ所の地名は十五カ所迄延喜式に記載された郡名に一致します。
 以上の検証から私は女王の境界の尽くる所を周防の海岸に設定します、普通の国境なら接すると言う表現が一般的ですが、尽くると言う特別の表現に深い意味を感得するのです。尽くるを海岸線のイメ−ジで捉えて、その南を望めば何処に至るか、対岸には伊予の山々が遠望出来るはずです。伊予と言えば中世河野水軍で名を馳せた河野一族の根拠地です。中世の地名乃至は人名を強引に古代に遡らせて、事を論ずるの愚は厳に戒められる事柄ながら、何となく気に掛かるところです。以上の論述から私は狗奴国は伊予に在った、と云う仮説を提示します。


○傍証の捜索

 正史に記載されない歴史事実を論証するには、各地の神社の社伝を念入りに調査するのが大切だと、かって古田武彦氏の講演会で伺って居たので、一度愛媛迄出かける必要有りと思った物の、予備知識なしでは時間の無駄だと悟ったので、最近覚えたインターネットを利用して、河野一族の氏神探しを行ってみました。河野一族が史書に登場するのは平安期以降であり、大半は中世以降の記事で、河野氏が越智氏の一族であり物部氏の後裔であると言う事以外収穫は有りませんでした。半ばふてくされて情報の流れを彷徨ううち、「神南備」と言う、ホームページに突き当たりました。その中に「延喜式神名帳」が含まれて居ます。これは十世紀成立の延喜式に記載された神社が、今日どのような様子か全国に渉って神社名、祭神を詳記した物でした。この伊予の条に注目すべき三つの神社を見いだしました。

1.大山積神社 主神 大山積神
 所在 愛媛県越智郡大三島町宮浦3327
 当地は越智氏の勢力圏であり越智氏自体(にぎ速日命)を祖とする物部一族である
 又河野氏は越智氏に連なると言う伝承がある。

2.国津比古神社 主神 天照国照彦天火明櫛玉にぎ速日尊
 所在 北条市八反地甲185
  応神天皇の御代、物部阿佐利が祖先を祭った、初め櫛玉にぎ速命神社と称した。

3.周敷神社 主神 火明命
 所在 愛媛県東予市周布字本郷1532
 特別の社伝は存在しない

 この三カ所の神社の位置を地図上にプロットしてみると、1は芸予諸島の中心、2は高縄半島西岸の中央部、3は同じく東岸の中央部に存在します。この地勢的特質を戦略的に考えるならば、水軍の運用は最も効果的な方法です、女王国と狗奴国の攻防の実体は水軍による局地戦、乃至はゲリラ戦法による瀬戸内物流の妨害だったと思います。この推測によれば強大な女王国に対して、狗奴国がむしろ優位な戦いを挑んだかに感ずる倭人伝の記事の気分が、よく理解できます。

 更にその主神について考察すると、大山積神は出雲神話にも筑紫神話にも姿を現す原初的な神々の一人であり、物部氏の祖先神です。一方の天火明命は筑紫系神話で直系中の一位神ながら、その系譜を抹殺された謎の神様です。それが何時どうして抹殺されたのかを論ずるのは、全く別の命題ですから此処では触れませんが、女王国の系譜には繋がらぬ神様で在ることは確かです。倭人伝に云う狗奴国の男王と素より和せず。の根元的原因は内部抗争に敗れた天火明命以来の、怨念のなせる業だった様に思えるのです。因みに講談社『大辞典』を調べて見ると素の意味には、はじめ、性質、本原、等の意味が在ります。念の為前記「神南備」のなかから、天火明命を主神とする神社を探した所、筑後高良大社末社 伊勢天照御祖神社が確認されました。九州、四国、本州西部、を通じてこの3カ所しかこの神が祭られて居ないとれば、伊予にこの神の末裔達が盤踞していたと考えても、あながち無理な話では無いと思はれるのです。

 更にさらに想像を逞しくするなら、この抗争の原因は、漢の滅亡魏の成立、公孫氏倒滅の間隙を衝いての対魏国交樹立、等々政治情勢に対する抵抗とそれに対する弾圧だったのではないでしようか、思いがけぬ苦戦に狼狽した女王国側は、ことを東アジア政治の主権維持と云う大義名聞論に結びつけて、外圧を利用した解決を策したのが帯方郡に対する、二使臣の派遣だったと推論します。これに対する魏側の解答は、これはお前達の国内問題で在るから、お前達で解決しろ、と言っているのではないでしようか。倭人伝の塞曹縁史張政等を遣わし、以下檄を為して之を告諭せしむ。迄の文章の真意を私はこの様に理解しました。倭人伝の文脈を執拗に辿ってみると、魏朝側は狗奴国の本質と、倭国との確執の本源を正しく理解していた様に感じられます。この事を追求すれば漢の時朝見した百余国の主は誰か、と言う新しいテーマに逢着しますが、今はその時ではありません。以上長々と論述して来ましたが、どれほどの論証を為しているか会員諸兄の忌憚無きご批判を切望致します。

 当論文に使用した文献及び参考資料を列記します
 古田武彦著「邪馬台国」はなかった
   同   失われた九州王朝
   同  盗まれた神話・・・記.紀の秘密
   同  倭人伝を徹底して読む
ホームページ神南備URL      
  http://www.ne.jp/asahi/kam/navi/en/
勝海舟全集3 吹塵禄I 149p〜198p 講談社


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もう一つの敗戦後論


大阪府泉南郡 室伏志畔

 先年、加藤典洋が『敗戦後論』(講談社刊)を書き、そのねじれについて云々したことは記憶に新しい。広島、長崎に原爆がを落とされたように、日本人の上に日本国憲法の草案をアメリカは落としたのである。その「強制」を問題とする一方、「憲法」を有り難がる他方を生んだところに、現在まで続くところのねじれがあり、日本人の間に人格分裂を生むことになったと加藤はいう。つまりそこに「強制」を見た者は自主憲法制定論を唱え、擁護さるべき普遍性を「憲法」に見た者は護憲論者となって、半世紀以上も対立してきたいうわけだ。しかしそれは「半身同士の対立」にすぎないと加藤はいう。
 それは現在、享受されている自由から繁栄は、戦後七年に及んだアメリカの占領なしにありえなかった。しかしその屈辱を見まいとする防衛機制が、お上を中心に敗戦を終戦と言い換える姑息な動きが戦後の始まりと共にあったのである。
 しかしその政府もアジア諸国との友好関係の維持するためには、今次大戦における二千万人のアジアの犠牲者へ謝罪するほか道のないことを自覚するに至ったが、その立場表明はアジアを侵略した自国の三百万人の死者への弔いと両立させることができないという矛盾に導いた。そのため事ある事に閣僚の間から先の大戦を「聖戦」とする本音が飛び出し、慌てて諸外国に謝罪するというみっともない構図を繰り返している。
 加藤はそれを自国の三百万人の死者を通しての、アジアの二千万人の死者を弔う公論理の創造なくしてありえないとしている。それは靖国の英霊と広島の犠牲者を同じく弔う場の創造が難しいのと同じである。そのため死者は公然と差別されるほかない現状にある。
 私はこの加藤の「敗戦後論」におおむね賛成しながら、異和があるとすれば、本邦における「もうひとつの敗戦」に対する認識の欠如を指摘すれば足りる。それは今次の敗戦のねじれの原型としての「驚くべきねじれ」の造作なのである。
 それはほかでもない六六三年の白村江の敗戦である。この戦いは朝鮮三国の争乱に新羅が唐を迎え入れたことによってるほか道のないことを自覚するに至ったが、その立場表明はアジアを侵略した自国の三百万人の死者への弔いと両立させることができないという矛盾に導いた。そのため事ある事に閣僚の間から先の大戦を「聖戦」とする本音が飛び出し、慌てて諸外国に謝罪するというみっともない構図を繰り返している。
 加藤はそれを自国の三百万人の死者を通しての、アジアの二千万人の死者を弔う公論理の創造なくしてありえないとしている。それは靖国の英霊と広島の犠牲者を同じく弔う場の創造が難しいのと同じである。そのため死者は公然と差別されるほかない現状にある。
 私はこの加藤の「敗戦後論」におおむね賛成しながら、異和があるとすれば、本邦における「もうひとつの敗戦」に対する認識の欠如を指摘すれば足りる。それは今次の敗戦のねじれの原型としての「驚くべきねじれ」の造作なのである。
 それはほかでもない六六三年の白村江の敗戦である。この戦いは朝鮮三国の争乱に新羅が唐を迎え入れたことによって激震し、六六〇年に百済、六六八年に高句麗が滅亡するのだが、その間の六六三年に余豊璋を立て百済再興を期した倭国が、唐・新羅に挑んで白村江で藻屑と消えた海戦をいうのだが、『旧唐書』はそれを「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ」と簡潔に記した。通説はこの敗戦を大和朝廷の外交関係における失態としてしか扱わないため、まったく危機感は伝わらず、加藤をしてこれを無視せしめる『敗戦後論』を結果したのである。
 しかし、この敗戦によって、九州王朝・倭国が解体に向かい、それに替わり日本国(大和朝廷)が本邦の盟主に着く王朝交替があったと我々はしてきた。実際、六六三年の白村江の敗戦から七〇一年の日本国の名実ともに整った朝賀の儀が開かれるまでに、六六七年の近江遷都、六七二年の壬申の乱と激動したのだが、それを九州王朝論を取る我々さえも、大和朝廷のコップの中の嵐として遇するしかなかった。
 しかしようやくにしてというべきか、やっと古田武彦は「壬申の乱の大道」等を書き、天武旗揚げの地をついに九州の吉野に奪回するまでに至った! しかしこの問題が提起するところはそれ以上の問題を孕んでいる。というのは、そのとき天武はたまたま九州に居たのか、ずっと九州にあったのかという恐ろしい問題に接続するからである。
 六六〇年の百済滅亡に際し、唐は熊津都督府以下、馬韓、東明、金漣、徳安の五都督府を設置した。その唐が白村江の敗戦の翌六六四年に郭務宗*を九州に派遣した。その唐使は大和朝廷との友好関係の維持をはかるためにあったとする通説の説明は、後世の大和朝廷の御都合主義に従った見解で、それが敗戦の意味を隠す意味をもっていたことをつゆも疑わぬ。私は前号で、倭国の都であった現在の太宰府の都府楼跡(都督府趾)に唐制の筑紫都督府がこのとき設置され、倭国の天子の居た太宰府は唐の占領下に置かれたとした。その郭務宗*が帰唐する六七二年までの九年に及んだ占領は、唐による倭国解体と別でない。
 このことが天智を近江に走らせ、郭務宗*の帰唐を見届け、天武に壬申の決起を促したのである。その天武について、九州人であったと私や大芝英雄はすでにしてきた。つまり唐の占領下に置かれ九州を見限り天智は近江で再編をはかりつつあった。これに対し天武は唐の占領行政の終わったのを見届け、解体された倭国軍を再編することによって、天智勢力の追討に立ち上がったのが壬申の乱で、天武の後ろには恐らく新羅勢力があり、天智のバックには百済の残存勢力があったのである。

インターネット事務局注記2003.9.30
宗*は、心編に宗です。

 ともあれ唐による倭国占領の恐怖は、天武をして近畿飛鳥の新天地に倭国を再興する大和朝廷を実現させたが、天武死後、その天皇系譜を藤原不比等はねじることによって、持統の父である天智を戴く天皇制に切り替えることによって現在に至る天皇制を実現した。
 この倭国から日本国への転換という七世紀後半から八世紀始めにおける王朝交替の裏に、九年間に及ぶ唐による倭国占領があった。それは今次大戦後のアメリカによる七年に及ぶ占領が天皇制を温存させたのに対し、唐の占領は倭国を解体させ、日本国への王朝交替を促すものとなった。しかし我々の脳髄はすっかり、記紀が造作した大和朝廷一元史観に洗脳されているため、この唐の占領に始まった王朝交替劇をまったく見失い、天皇制の複雑なねじれについて理解すべくもないのが現状である。

 大和朝廷論に関し、古田武彦は神武東征を大和史の上に歴史的に奪回したため、十代崇神天皇以後とする通説の大和朝廷論より古い立場にある。しかし古田武彦は記紀がたった一行をもって造作した神武東征の経過地を、通説と同様、疑うことなく摂津難波に神武を導いた。しかしそこにこそ記紀史観の最大トリックはあったというべきではないのか。
 というのは本来の難波は、安閑紀二年九月条に「牛を難波の大隅島と姫島の松原に放って、名を後世に残さん」とする記事より推察して国東半島沖の姫島から企久半島の軽子島(大隅島)に至る豊前海岸にあったことは、すでに九〇年代の始めに大芝英雄が論証している。その名残りは近世における羽柴秀吉が豊臣の姓を下賜されたとき、姓の下賜が家臣の所望に従うなら、秀吉は天皇家が豊国の大王であることを知って、その臣下としての名を乞うたことは明らかである。また『今昔物語』や『宇治拾遺物語』にある豊前大王や豊前王が除目(諸国の官を任ずる儀式)を的確に予想できたのは、豊前大王がそのしきたりに深く通じる家系にあったことを告げるものとして興味深い。また『日本書紀』は神武東行の地を、後の倭国の都のあった博多を中心に、その西に天孫降臨地を見て、東に神武東征の地を見る構文を取っており、東行の地を遥か遠くの近畿に置いたとは思えない。
 フロイトによれば、原典の歪曲には二重の意味があって、「ある現象について変更を加えるというだけではなくして、ほかの場所に移す」という意味があるという。記紀の造作は原典に寄りながら、私は日本国(大和朝廷)の共同幻想に関わる部面に限り眉に唾して読まねばならないとしてきた。記紀の歪曲において、今まで論じられたこともない、大和の九州から近畿への移動という新たな問題の提起は、やはり真剣に論議されてしかるべきかと思う。私は倭国を天孫降臨に始まる太宰府と中心とする月神信仰の倭国本朝と、神武東征によって始まった豊前の難波を中心とする日神信仰の倭国東朝の倭国楕円国家論の立場にあるのは、倭国の紋を盗んだ天皇家の本紋が日月紋で、菊紋は仮紋であるということにもよる。
 大和朝廷の前身を天智・天武まで九州に奪回することによって、倭国から日本国への転換は、唐の占領という一事を挟むことによって、単純明快な九州から近畿への王朝交替図式を得ることができる。それは九州王朝と並行してあった神武に始まる近畿王朝・大和朝廷を、天智・天武以前までを九州王朝論に取り込み拡大することと別でない。もしそうすることができるなら、記紀のトリック史観としての大和朝廷一元史観のもつ意味をより鮮明にできるのは明らかである。
『日本書紀』はその最後に、持統天皇が「策を禁中に定めて」、孫の文武に天皇位を禅譲したと記し閉じるものであった。しかしその「策」が何であるかについて通説も九州王朝論者も解かずして盛んに論じ、正史の罠に見事はまったように思えてならない。私はこの正史の最後のページは最初のページであると述べ、そこからその逆立ちした幻想的構造を見通すことができない限り、正史のかっこうの餌になるほかないと警告を発してきた。
 その策のいくつかは、天武が寺号を改めたのに倣い、持統下において十八氏族の墓記の提出命令が下り、それら古墳に後世よろしく天皇陵が比定されていったように、畿内の地名は「地名の好字令」を頻発することによって整えられたのである。それは九州の倭(やまと)を中心とする地名を畿内に移し、記紀の記述に対応するよう塩梅されることによって、大和一元史観は後世にそそり立っていったのである。誕生間もない日本国を、神武以来の九州の倭(やまと)史を天智以前の近畿の大和史に継ぎ足すことによって、大和朝廷は造作された万世一系の天皇制を戴く「悠久の大和史観」に守護されることによって、その安泰を保証されたのである。その意味で、『日本書紀』は世界に類例のない国家の錬金術の書となっているのである。(H十二・八・十一)



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書評

倭国史談

 平野雅曠 著

 美しい本である。表紙はおろか裏表紙の装丁、そして文章も。その一頁々々から著者の人柄がにじみ出てくるような美しさだ。著者は九十歳、古代史四冊目の自費出版とのこと。恐らくは本会の最長老会員。九州は熊本の重鎮と呼ぶにふさわしい。本会設立時、明日をも知れぬ弱小の本会に、氏は黙って多額の寄付を寄せられた。その御厚情が忘れがたい。
 著者は青年のような情熱家でもある。納得がいかなければ果敢に論戦を挑んで来られる。今回、挑まれたのはわたしだ。その手紙がそのまま本書に掲載されている。孫のようなわたしにも、手加減なしで論戦を挑まれる。ありがたいことだ。
 また、著者は人情を知る人である。各誌に発表された短編の数々が収められている中、故藤井綏子さん(大分県九重)との思い出にも触れられている。
 そして、本書の眼目とも言える肥後地方の伝承や文書の紹介、史料批判は著者の独壇場だ。読者は必ずやそれらの中から新たな発見や研究テーマを見出されることであろう。かくいうわたしも、同書で紹介された大阪の日根神社・慈眼寺の九州年号「定居」が記された棟札の存在に驚き、関西例会で報告させていただいた。
 天がもし著者のような長寿を与えてくれるならば、わたしもこのような美しい本を出してみたいと思う。(古賀達也)
〔熊本日々新聞情報文化センター制作 定価一九〇五円+税〕



□□事務局だより□□□□□□
▽本号は古田先生より大部の原稿(ワープロ入力:水野・伊東)をいただいた。『ここに古代王朝ありき』所収「天皇への問い」の続編ともいうべき名論文だ。
▽飯田氏は会報初登場。初めての古代史論文とのことだが、史料根拠・論旨が明確で判りやすい。一方、次号まわしになった原稿も多い。お許しいただきたい。
▽過日、創価学会名誉会長池田大作氏写真展(京都市中京区)のオープニングセレモニーに古田先生が来賓挨拶とテープカットをされた。池田氏とは著書を通じての三十年来のつきあいとか。近著『「君が代」を深く考える』に対する池田氏からの賛辞を紹介される一方、国会での「君が代」法案成立を批判。誠実かつ歯に衣着せぬ挨拶は古田先生らしいが、参加者には好評であった。
▽遅れに遅れた『古代に真実を求めて』3集。まもなく校正が完了し、十一月には九九年度賛助会員へお届けできる。内容は力作ぞろい。遅れた事、どうかお許し願いたい。(koga)

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第五集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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